デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.7

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
1節 儒教
21款 諸家ノ批評及ビ論説
■綱文

第41巻 p.422-455(DK410093k) ページ画像

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■資料

道徳経済合一説(印刷物) 三島毅講演(DK410093k-0001)
第41巻 p.422-425 ページ画像

道徳経済合一説              (財団法人竜門社所蔵)
(印刷物)
    道徳経済合一説
                    三島毅講演
      道徳経済根原
孔子曰。誠者天之道也。誠之者人之道也。
 天誠于生養万物。生養万物。天之経済也。其生養之也。有一定条理陰陽更代。四時循環。日月互照。風雨霜露交至。年年不易。万古一轍。故能誠于生養万物。無一刻止息。無一点虚偽。是天之道徳也。無此道徳。不能遂生養之経済。然則天也者。道徳経済之根原。而合一不相離也。
 人者万物中霊。而知生理者。故能自営衣食居。以全天之生養。其営衣食居。即人之経済也。継天生人。開衣食居自営之端者父母也。保護教導衣食居者君也。於是臣民忠勤。以豊君上衣食居。子孫孝養。以安父祖衣食居。而忠孝之道生焉。且夫自天視人。同是所生之子也同所生之子。則不問黄白黒之異種。全世界之人皆兄弟也。何啻四海之内。是以兄弟相親愛。相輔助。以営衣食居。謂之仁。其相親愛相輔助。以営衣食居之間。或交際。或貸借。或交易。或救恤。万般方法淆雑。而自利利他。不相妨。不相害。自有処之之宜。謂之義。然則仁義忠孝。皆経済中之道徳。而不可須臾相離。然人人生而異其形始生彼我之見。趨自利。遺利他。於是往往有失天授之誠。而背経済中之道徳者。故孔子以則天誠之為人之道也。
 右一箇人道徳経済已。大之論人君治天下之経済。其政雖千緒万端。要之文徳以授天下万民之衣食居。又武備以護其衣食居。学校以教衣食居中之道徳。法律以正衣食居中之不道徳。不過如此。則謂之衣食居外無政事。又無経済可也。然而道徳行於其経済中者也。無経済。何地施道徳。故謂経済之外無道徳亦可也。若又無道徳。而徒行経済或僥倖。或冒険。或詐偽。或姑息。雖支持一時。必不永久。不永久非真経済。故謂道徳之外無経済亦可也。是道徳経済之所以合一不可相離也。
  試就経書挙一二之証。
      書経
尭典曰。乃命義和。欽若昊天。暦象日月星辰。敬授人時。
 上古天文未明。故先明天文作暦授民時。以営衣食居之業也。
舜典曰。食哉惟時。
 此舜即位之初。咨十二牧之言也。言食。則衣居自在其中。尭舜雖以道徳治天下。其重衣食居如此。
大禹謨曰。政在養民。水火金木土穀惟修。正徳利用厚生惟和。
 - 第41巻 p.423 -ページ画像 
 此謂政在授衣食居以養民。而衣食居所出。不外於水火木金土穀六府又非正徳利用厚生三事。不能用之。蓋諸民不正徳。則相争相害。不聊其生。工商不利運用。則不得其便。農不厚生殖。則不獲其資。故六府三事備。而養民之政挙。正徳道徳也。其余経済也。経済道徳之相須如此。
又曰。克勤于邦。克倹于家。
 此謂禹能自率先勤倹。以奨励万民衣食居。而後世唱勤倹之濫觴也。今日経済家所謂殖産興業。不過勤一字。所謂繰延或縮小政策。不過倹一字。古今経済不出勤倹外。但其方法。有古粗今精之異耳。
禹貢。
 此篇述大禹平水土治天下之大経済。而後世地理地質租賦物産運輸山脈水利之諸学。皆基于此。
洪範八政。一曰食。二曰貨。
 洪範説九疇彜倫之書。而自禹幾伝至箕子。箕子授之周武王。則殷一代以此為治天下之憲法可知矣。其八政中以食貨置首。則彜倫道徳之不由経済則不行。亦可知矣。論語曰。武王所重民食喪祭。是武王奉箕子教重食之証也
      詩経
豳風七月篇。
 詩賦衣食居雖多。如豳風七月篇。述周祖公劉富国開八百年基業者。而字字句句。莫不関衣食居焉。
      易経
文言伝曰。利者義之和也。
 此謂行義之結果。得利之和。而義道徳也。利経済也。可以知道徳経済合一不相離矣。
繋辞伝曰。天地之大徳曰生。聖人之大宝曰位。何以守位。曰仁。大学曰。為君止於仁。何以聚人。曰財。理財利用厚生。正辞。政令以正徳。禁民為非。曰義。教育以正其心法律以正其罪。皆義也。○文子曰。法出於義。
 易説道徳経済雖多。此一節尤足以為道徳経済合一之証。仁義道徳也其余経済也。
      周礼
天官大宰章曰。以九賦斂財賄。○以九式均節財用。○以九貢致邦国之用。
 周礼記周代六官章程者。而渉経済者最多。不暇列挙。最所服。不設理財一官。属之大宰如此。猶我現今以総理大臣兼大蔵大臣。蓋理財万政之本也。周公之政重理財。可以窺見矣。
      礼記
王制曰。用地小大。視年之豊耗。以三十年之通。制国用。量入以為出此一語為後世経済表準。不復能変換之。唐楊炎雖建量出為入之策。是足済一時之急。不可以為常法。而唐末以為常法。横征暴斂。失民心。遂亡。
      大学
生財有大道。生之者衆。食之者寡。為之者疾。用之者舒。則財恒足矣首章雖説致知格物誠意正心等道徳工夫。及施之身家国天下之実際。
 - 第41巻 p.424 -ページ画像 
則不可不由衣食居之経済。故説生財大道如此。生之者。農漁猟及塩戸之類也。故曰食之。為之者。養蚕樹芸金冶之類也。故曰用之。且生之者衆。為之者疾。勤也。食之者寡。用之者舒。倹也。故経済真不出禹王勤倹之外矣。
      中庸
致中和。天地位焉。万物育焉。
為天下国家有九経一節曰。忠信重禄。所以勧士也。時使薄斂。所以勧百姓也。日省月試。既与餼音通。稟称事。所以勧百工也。
 中庸専説誠之書。而修誠工夫在中和。中和之極効。至天地位万物育而万物中人之生育居最。故於施政。則授士農工之衣食居如此。
      論語
子曰。禹吾無間然矣。菲飲食。而致孝乎鬼神。悪衣服。而致美於黻冕卑宮室。而尽力乎溝洫。禹吾無間然矣。
 菲飲食。悪衣服。卑宮室。倹于己衣食居也。致孝乎鬼神。孝于父祖也。致美乎黻冕。礼于事君也。尽力乎溝洫。仁于治民也。皆勤己之事。孔子称之如此。孔子之貴勤倹可知矣。
子曰。足食。足兵。民信之矣。又曰。民無信不立。
 説食自含衣居。兵衛衣食居之具也。皆経済。而信道徳也。
有若曰。百姓足。君孰与不足。百姓不足。君孰与足。
 足謂衣食居足也。古今人君之経済。不出此四句。
冉有問曰。既庶矣。又何加焉。曰。富之。曰。既富矣。又何加焉。曰教之。
 富豊民之衣食居也。教教道徳也。
子曰。見利思義。
 利経済也。義道徳也。道徳経済相顧不相離之工夫也。
子罕言利与命与仁。
 三者人間不可闕重要之事也。然不得其道。則生弊害。故罕言之。蓋専言利。有陥私利之弊。専言命。有不尽人事委天命之弊。専言仁。有宋襄姑息之仁。又墨子耶蘇兼愛之弊。
      孟子
対梁恵王問曰。何必曰利。亦有仁義而已矣。
 利有公利。有私利。是斥恵王利己之私利。而勧仁義利民之公利也。
 ○管子曰。我利人。人謂我仁。故仁利相反則異名。而仁亦不外於利唯公耳。孟子豈捨公利。
五畝之宅。樹之以桑。五十者可以衣帛矣。鶏豚狗彘之畜。無失其時。七十者可以食肉矣。百畝之田。勿奪其時。数口之家可以無飢矣。謹庠序之教。申之以孝悌之義。頒白者不負戴於道路矣。老者衣帛食肉。黎民不飢不寒。然而不王者。未之有也。
対斉宣王曰。王如好貨。与百姓同之。於王何有。
有恒産者有恒心。
対滕文公。詳説井田学校之制。
 如五畝之宅以下数言。如好貨。如恒産。如井田。皆公利而経済也。如庠序学校。皆教道徳也。是孟子亦合一道徳経済之証也。
 右就六経四書。挙二三之証。則道徳経済合一不可相離如此。而六経
 - 第41巻 p.425 -ページ画像 
説経済多。説道徳少。四書説道徳多。説経済少者何也。蓋六経。聖賢在上。自掌経済。而述実際。四書。聖賢在下。不自掌経済。而説空理。故多少之異如此。自此其後聖賢不在上。人君専行利己之経済而聖賢在下。専説道徳空理。於是道徳経済判然分為二途。天地懸隔在位者罵学者。為迂濶時務。学者罵官吏。為不学無術。氷炭不相容是皆坐不知道徳経済合一不相離之理也。蓋道徳不由経済。則為空理而不行。経済不本道徳。則流私利。弊害百出。反乱天下矣。抑経済之語。始見唐宋詩文。蓋本中庸経綸之語也。経分糸。綸合糸。謂治天下如分合衆糸也。与荘子経世意同。後世代綸以済。済救也。定也蓋謂救治天下。而不必指理財一事。然理財治天下之本也。故近世専以経済為理財之称耳。欲治天下。反乱天下。豈可謂真経済哉。是余平昔持論也。故今日講演以質諸君。
  明治四十年十一月


竜門雑誌 第四一八号・第三六―五〇頁大正一二年三月 ○孔夫子知天命の説 文学博士 服部宇之吉(DK410093k-0002)
第41巻 p.425-435 ページ画像

竜門雑誌  第四一八号・第三六―五〇頁大正一二年三月
    ○孔夫子知天命の説
                 文学博士 服部宇之吉
 本篇は昨秋開催の本社総集会並孔夫子二千四百年追遠記念講演会に於ける服部博士の講演なり。(編者識)
 今日貴社の総会に当り孔夫子二千四百年記念講演をお開きになると云ふことで、私に話をすべく阪谷男爵から御命令がありました。洵に光栄の至として御請をしたのであります。何を御話申上げやうかと彼此れと考へて見ました。無論貴社の御性質から申しますれば青淵先生の奉じて居られる論語に就て、何かお話をするのが至当であらうと思ひます。扨論語に就てお話をすると致しまして何を申上げて宜しいか色々考へました結果、孔夫子の知天命と云ふ事を申上げて見やうと云ふことに定めたのであります。此事は私は十数年以来説いて居りまするが、不幸にして未だ青淵先生に親しく此意見を御聴に入れます機会を得ませぬので、此機会を拝借して青淵先生にも御聴を願ひたいと思ひましたので、孔夫子の知天命と云ふことを申さうと云ふ事に定めたのであります。即ち論語為政篇の一章に孔夫子が吾十有五而志于学。三十而立。四十而不惑。五十而知天命。六十而耳順。七十而従心所欲不踰矩。と言はれました其一章中の一節、五十而知天命と申す所だけをお話したいと思ふのであります。
 全体此章に就きまして学者の見方が色々あります、是は孔夫子が十五から三十――此処だけは十五年飛びますが――後は三十、四十、五十、六十、七十と十年々々に切つてありまして、十年毎に自分の徳が進んだと云ふ事を言はれたのであります。聖人と云ふ者をどう見るか色々見方があります。聖人は学んで到るべきものでないと云ふ見方もあります。其見方からしますれば聖人は絶対の理想でありまして、吾吾は到底其境遇に到達が出来ぬことになります。聖人は学んで到るべからずとしますれば、聖人なる者は生れた後の努力修養に依つて出来上つたものではない。生れながら吾々凡人とは違つた所の人である。生れながらにして聖人、即ち所謂生知安行であると見ることになりま
 - 第41巻 p.426 -ページ画像 
す。左様に聖人は生れながらのものである。生知安行の聖人であると見る方から申すと、十年々々に徳が進むと云ふことは考へられぬことになり、有り得ない筈の事になる。然らば孔夫子が嘘を言はれたか、聖人が嘘を言はれる筈はない。そこで是は孔夫子が自分の事として説かれましたけれども、実は学問をする人に修養の標的を示したものである、貴様達は斯う云ふやうに徳の進むやうに努力しろと云ふて、修養の標的を示されたものである。故に此章の言は仮説である、実事でないと斯う見るのが朱子派の見方であります。然るに他の見方をする人は、是は孔夫子が自家の進徳の過程を如実に述べられたものである是は実事である、仮説ではないと解釈する。此様にして今申しました一章を、仮説と見る説と実事と見る説と二説あります。之を仮説と見ますれば、私が是から申上げやうと思ふことは殆ど意味が無くなります。今仮説実事二説に就いて議論をして居りますと時間が長くなりますから、此処では略しますが、私は実事と見る者であるといふ事を御承知を願ひます。論語をお読みになつて解る如く、人は孔夫子を生知安行の聖人、天縦の聖人と評しましたけれども、孔夫子自身は吾学んで知つたものである、古を好み敏く之を求めたものである、と言はれて居る。抑々学ぶと云ふことが孔夫子の教学に於ては最も重大なるものであり、孔子の道と老子の道と違ふ所の一つは此点であります。老子は為学日益。為道日損といひ、益することは悪い事で、損することは善い事であるとして、老子は学を修めると云ふことを絶対に否定して居る。然るに孔門の教にあつては学ぶと云ふことが最も大事のことである。故に論語は学而篇を以て首としてある。即ち学而時習之。不亦説乎云々の章から始つて居る。是は偶然に此章が論語の初に載つたのではない、論語の編纂者が特に意を用ゐて、孔子の教学が学を必要とする事を示す為に、論語の初に之を載せたのであります。左様な訳で孔夫子自ら学んで知ると言はれて居るのであります。故に前に申しました所の論語の一章も、孔夫子自ら七十以後に、自家の一生の経歴を回顧されて、進徳修業の過程を如実にお述べになつたものと私は信ずるのであります。左様に実説と見まして、扨五十而知天命とは何の意味かと云ふ事を申したいと思ふのであります。
 此知天命と云ふ事に就いて私の説を申上げる前に、従来の説を述べなければ話の都合が悪いのでありますから、暫くそれをお聴を願ひます。先づ所謂新註即ち朱子の説を見ますと、天命即天道之流行而賦於物者。乃事物所以当然之故也と解してあります。そこで四十而不惑とある不惑を朱子が何と解いたかと見ると、於事物之所当然。皆無所疑といふて居る。即ち不惑と云ふ方には、事物の当に然るべき所といひ天命の方には、事物の当に然るべき所以の故といふてあるが、是だけではどうも差別が余り判然しませぬ。そこで朱子語類などに拠つて朱子が門人の問に対して答へたものなどを引合せて、朱子の意味を解り易く申せば、四十而不惑と云ふことは、例へば人の子としては当に孝なるべし、人の臣としては当に忠なるべし、朋友に対しては当に信なるべし、孝とか忠とか信とか云ふものがそれが人の当に為すべきの道である。と云ふことを知つて、それを信じて疑はないのが不惑である
 - 第41巻 p.427 -ページ画像 
即ち当為又は当然――当に然るべきこと――の道を知つてそれを信じて疑はないのが不惑である。もう一段進んで其当然の道と云ふものゝ本源本拠を知らなければならぬ、それを知つたのが知天命であると云ふ。是は中庸の語を借りるとよく解りますので、朱子もそれを借りて説いて居ります。即ち中庸の開巻第一の所に、天命之謂性。率性之謂道。脩道之謂教とある。性に率がふの道とは、人の子としては孝、臣としては忠、朋友としては信と云ふのがそれである、是は人の当に為すべきの道である、当然の道である。而して道と云ふものは何に由て生じたものであるかと云ふて、道の本源に遡り、其本源本拠を究めると天命の性に帰する、それを知つたのが、知天命である。と斯う云ふ様に朱子は説いて居ります。そこで玆に一の議論が起ります。一体、人の道と云ふものは、倫理学的に考へると、自律性なりや他律性なりやと云ふ問題があります。神と云つても天と云つても、名は何でも宜しいが、兎に角超越的のものゝ意志、権威の命令なるが故にそれに遵はねばならぬ、それを守らなければならぬと云ふことになりますれば道は他律的になります。人性に根拠を有し人性に基いたものであるとなりますれば、道は自律性になります。道と云ふものゝ性質は他律か自律かと云ふ事が問題である。ところで儒教に於ては荀子や物徂徠の如きは他律的のものと解釈して居るが、中庸に天命之謂性と説きましたのは、道は自律的のものであると云ふことを言明したものであつて儒教本来の思想は道は自律的なりと為すものであります。即ち道は人性に根拠を有するものであると見るのであります。当為の道を知つた上で、其道が人性に基くものであると云ふことを知るのに十年の年月がかゝるか。忠孝信義は人の道であると云ふことを四十にして知りまして、それが人性に根拠を有すること、即ち天の人に賦与する所のものに根拠を有するものであることを悟るまでに十年もかゝるか。凡人は兎に角、孔夫子に在つてはそれ程長くかゝらぬでも悟られさうなものではないかと云ふ疑問が起る。人道が人性に根拠を有すると云ふことは孔子の優れたる知力を以てして、十年かゝらなければ解らぬ程の六ケしい問題であらうか。朱子の門人にも此疑を起した者があつて、朱子に問ひました。然るに朱子がマアそんなに穿鑿をしないで、暫く孔子の仰しやつた通りに見て置いたら宜からう、マア其儘に致して置けと云ふ風に答へて、其処はハツキリとは答へて居らぬ、朱子も其処に至ると自分でも少し不安心だつたと思はれる。私はどうも朱子の此解釈には服することが出来ない。四十にして人の道を知られたと云ふことは宜いとして、其道が人性に基くと云ふことを知られるのに、十年の年月を要したと云ふことは、朱子の門人が疑つた通り、どうしても疑問でなければならぬ。朱子がマア其通り見て置けと云つて明かな答をして居らない限り、疑問は解決されて居ない。加之朱子の説の如くであると、孔夫子の知天命と云はれたことゝ、例の宋の司馬桓魋が孔子を殺さうとした時に、孔夫子が天生徳於予。桓魋其如予何と言はれ、又匡人が脅した時に天之未喪斯文也。匡人其如予何と言はれたことの関係などは薩張り解くことが出来ませぬ、桓魋の難や匡人の脅迫の事はそれ自身一つの事で、天命を知つた事は又自ら別の事であると
 - 第41巻 p.428 -ページ画像 
なつて全く別々の事になつて仕舞ふ。孔夫子の周游中患難に際会して泰然自若として身を処して居られた其自信が、何処から生じて来たのであるか、自信の根本は何処に在るか、朱子の説では薩張り解らぬことになつて仕舞ふと思ふ。朱子の説には色々の点から服されませぬ。
 そこで遡つて古い説を見ますと、是れ亦おかしなものである。即ち所謂古註を見ますと、漢の孔安国の説が挙つて居る。それは天命の終始を知るなりといふ誠に短い解釈である、何とでも解釈が付きさうな説の様でありますが、後人が解釈した如く、道の行はれる又行はれないと云ふことは天命である、如何に人間が努力しても道の行はれない場合がある、故に道の行はれると行はれざるとは何れも人間の努力のみの事ではない、人間の意志を超越するところの天意の決定である、即ち天命であるといふ意味になる。彼の有名の王弼と云ふ人も左様に解釈して居り、其他の人の解釈も大体同じであります。此の解釈に従へば孔夫子は五十にして、道の行はれるも天命なり、道の行はれざるも天命なり、自分の努めるだけは努めるけれども、それ以上は天命だと云ふことを悟られたと云ふことになります。此解釈はどうであらうか、私は此解釈も余程おかしいと思ひます。第一、孔夫子の此悟りは夫子が道を行ふべく努力した後に得たものであるか、又は其前に得たものであるかと云ふことは問題であらうと思ふ。道の行はれるも天命道の行はれざるも亦天命と云ふ悟りは、道を行ふ為に最善努力を為した後に於て、得べき悟でありませうか、或は是から道を行はんとするの初めに於て得べき悟りでありませうか、道理から考へて何方のものでありませうか。私は是から道を行はんとする初め、即ち道を行ふの門出に於て先づ道の行はれるも天命なり、道の行はれざるも天命なり自分は努めるだけは努めるが、其れ以上は天命に任せると頭から諦めた態度を取つて、道を行ひに出掛けると云ふことは、どうも人情ではないと思ふ。百方努力して見たが道が行はれない、顧みて見ると自分の努力が足らないと思はぬ、自分は最善を尽して居ると信ずるが道は行はれない、是れ天命なりと悟るのが普通の悟り方ではあるまいか。そこで第二の問題は孔夫子が五十以前に道を行ふべく努力したが、如何に努力するも道は行はれないと云ひ得るほど努力したか、どうか、と云ふことである。此点を明にするには孔夫子の履歴を考へる必要があると思ふ。
 孔夫子一生の履歴を考へて見ると、年五十二――孔子の生れた年代に就いて異説が有る、即ち生年に関して一年の相違が有る、随つて五十二と云ふ人もあれば五十一と云ふ人もありますが、私は孔夫子が七十四で亡くなつたと算へますから五十二と申します――孔夫子年五十二にして魯の君が之を用ゐて中都の宰とした、即ち小さい地方を治める役人と為したのであります。非常に成績が上りまして、五十三の時引き上げて中央政府の首脳に列せしめた、魯の君と斉の君と夾谷と云ふ所で会合をした時、斉が魯の君を劫かし或は侮らんとした、孔夫子凛乎として之を挫き斥けて、斉の君臣をして大に畏れしめたと云ふ事は此時代の事であります。五十六にして魯を去つて周游の途に上りました。即ち孔夫子が道を行ふことに実際着手されたのは、五十二以後
 - 第41巻 p.429 -ページ画像 
の事であります。勿論道を行ふことは大学に古之欲明明徳於天下者。先治其国と云ふ様に、政事を通しての事として私は申すのであります政事を通して道を行ふことを孔夫子が行はれたのは、五十二以後で五十六まで其事に従はれて居つたが、事情に依つて五十六に魯を去つて天下を周游し、晩年終に魯に帰られたのである。兎に角道を行ひにかかられたのは五十以後であつて、五十以前に道を行つたと云ふことはない。色々の方面から考へて見まするのに、門人を教育すると云ふことは所謂道を行ふことではないと私は考へるが、暫く一歩を譲つて此れ亦道を行ふの一端と見て考へて見やうと思ふ。孔子の門人の年齢は残らず分つて居ませぬが、所謂十哲に就いて見ると、早く孔夫子の門に入つただらうと思ふ人は数人しかありませぬ。徳行には顔淵・閔子騫・冉伯牛と孟子にある中、冉伯牛の年齢は分りませぬが、閔子騫は孔夫子より若きこと十五歳と史記にあるから、此人は夫子の年五十以前に於ての門に入り得る訳である、一番名高い顔淵は孔夫子より若きこと三十八歳と史記に在ります。或は三十八歳は誤で、三十歳であらうと云ふ説もありますが、三十八歳若いとして見ると、孔夫子の年五十以前に於てはその門に入り得ない筈であります。其他有名なる門人は大抵孔子より二十以上若いのでありますから、孔夫子の年五十以前に入門した者は極く少いと思ひます。唯二人だけは入門の時が確に分つて居る。即ち大夫孟僖子の長子と次子とであります。論語に見える孟懿子と其弟の南宮敬叔がそれである。此二人は孔子年三十五の時に門人になつた。其事情を一寸申上て置かうと思ひます。孔夫子十五にして学に志してより三年、即ち年十八の時に魯の大夫孟僖子から見込まれたのである。それは斯う云ふ訳であります、孔夫子が年十八の時魯の君昭公が、楚の国へ参られた。魯は今の山東省に在り、楚は今の湖北省から湖南省に跨つて居り、大分遠いのであります。大夫の孟僖子が御供をして参つた。色々の国を通過しますので、――尤も城下を通れば面倒でありますから、城下は避けるのでありますが、――公式に出迎なり見送りなどをした処もあつた。愈々楚に到着しますれば、楚では公式に迎へ又公式の会合も有つた。左様な場合には、孟僖子が供奉長官として総ての儀式に君を相けなければならぬのに、孟僖子は一向礼式を心得て居らぬ為めに非常に恥をかいた。つくづく自分の礼を知らざる事を愧ぢましたので、旅行中から決心したものと見えまして、帰ると直ぐ魯の国の礼の専門家を集めて礼の講習を行ひ、礼に通ずる者は身分の上下を問はず皆出て来いと云ふ風にして、開放的の礼の講習を行ひました。此時孔子年十八歳の青年でありましたが、此講習に加はつて、多くの専門家の中に打交つて嶄然頭角を露した。そこで孟僖子は是は並々の人ではない、非常なる人物であると眼を着けた眼は着けましたが、何しろ十八の青年では其時何とする訳にも行きませぬから、色々家系や其他の事を取調べて独り自分の頭の中に蔵つて置いた。其後十七年を経まして孔夫子年三十五の時孟僖子は病気に罹つて死んだのである。其死なんとする時に枕頭に家老を呼びまして始めて孔夫子の話をした。十七年間頭の中に蓄へて居つた事を初めて出したのであります。司馬遷の史記には孔夫子十八の年に直に孟僖子が
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家老に話したと記して居りますが、是は司馬遷程の大文章家大歴史家でも左伝を読み誤つた結果で、実は十七年経つた後の話であります。孟僖子はどう云ふ事を家老に申しましたかと言ひますと、孔丘――丘は孔夫子の名――の事を段々調べて見たがあれは聖人の子孫である、而も稍遠い先祖の中には国を保つべくして国を保たなかつた人がある――それは確に史記にも在りますが、自分が諸侯になれるのを弟に譲つてしまつたのである――又近い先祖にも非常に恭謙を以て聞えて聖人と言はれた人がある。左様に立派なる祖先を有する人である。魯の国の古賢の言に、聖人其自身に当つて達せざる場合には、子孫に必ず達する者がある。――詰り福を子孫の為に保留することになるから、子孫に至つて大に福を受けて、身分が高くなるのである――孔丘は必ず大に達すべき人である、自分が死んだら子供二人を直に其門人にせよと云ふことを遺言しました。それで孟懿子と南宮敬叔とが孔夫子の門人になつたのであります。此二人だけは分つて居りますが、孔夫子年三十五六の頃に、其他にはどう云ふ人が門人になりましたか分りませぬ、先に申した閔子騫は、当時二十歳位になりますから入門し得た訳である。子路は孔夫子より九歳若いので夫子三十五の時には二十六になりますから、是も入門し得ましたらう。冉求は孔夫子より二十九歳若いといふ故に、孔夫子が三十五六の時には入門し得ませぬ。十哲の中では先づ閔子騫と子路位が、孔夫子年四十以前に門人になり得たかと思ひます。但し南宮敬叔が弟子になりました後、其周旋で孔夫子は周に参りまして礼楽を調べられた、帰つて来られると大分弟子が殖えたと史記には有りますが、五十以前に於て何程又如何なる門人を教育されたか、よくは分らないのであります。今門人の教育といふことを直に道を行ふことであるとして見て、而して教育をした結果、此道の行はれるも天命、道の行はれざるも天命と悟られたと云ふことになると変な事になる、即ち色々教育をして見たが余り効果はなかつた、又余り人才も集つて来ない、所謂天下の英才を得て教育すると云ふことにならぬので、夫子自ら自分の教育の効果を悲観したことに聞える私は門人を教育したことが即ち道を行つた事であるとは考へない、又教育の結果道の行はれるも天命、道の行はれざるも天命と悟られたのであるとは私は考へない。次に孔夫子は五十以前に役人をしたが、是も御承知の通り小さな役人をしたのである。論語・孟子又は史記などによれば、家が貧しいので仕へたのであつて、よくは分らぬが極く若い時即ち二十から三十位までの間の事でありませう。無論人を治める官ではない。一度は委吏と申して薪炭其他の品物を取扱ふ役人となり一度は乗田といつて牛羊などを取扱ふ役となつたが、人を治める仕事はして居られない。当時は学を為め徳を修める最中でありますから、人を治めることを行ふ自信を有して居られなかつた。役人としての経歴を見ますれば、是れ亦道を行つたと云ふことは絶対に言へないと思ふ。牛羊を取扱つたり会計を取扱つたりしたことゝ道を行ふた事とは全く別であると見なければなりませぬ。それならば孔夫子は五十以前にも諸方を遊歴したやうであるが、其れはどうかと云ひますと、五十以前に於ける遊歴は、或は特別の事情の為めであり、然らずんば自家
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の修養の為めであつた。即ち前申しました通り三十五六の時に周に行かれましたが、それは礼などを研究する為めで、全く自家の研究の事であります。其後に斉の国に行かれました、論語にありまする斉の景公との問答は多分此時の事でありませう。斉の景公政を問へるに答へて誠に簡単な事を申されたが、景公は非常に悦ばれた、盖し当時の斉の国の実際の事情に極めて適切であつたのであらう。何の為に斉に行かれたかと申すと、魯の国に内乱が起りまして、其結果魯の君昭公が斉の国へ出発されてしまつた。左様に本国は内乱がある、ウカウカして居つて内乱に巻き込まれては大変でありますから、孔夫子は暫く乱を避けて斉に行かれたのであります。以上の外に五十以前に他国に行かれたことはありませぬ。周に行き斉に行かれたが、一は礼楽の研究一は内乱を避けて暫く平和の来るのを待つて居られたので、是れ亦道を行ふこととは関係はないのであります。此様に見来りますると、五十以前に道を行はんとする努力を為したと云ふことは無いと云ふ結論に到着します。而して道を行ふべき努力は五十以後に至つて初めて起り、而かも死に到るまで継続して居る。魯に用ゐられた後、事情があつて、魯の国を去られて天下を周遊しましたが、此周遊は内乱を避けたのでもなく、亦自家の修養の為めでもなく、道を行はんが為めであつた。志達せずして、晩年道の行はれざるを知るや、六経を修めて後世に遺されたのも、己れの身に当つて明かにすることの出来ない道を天下後世に明かにせんが為であつた。左様に五十年以後死に到るまでの間二十余年の活動と云ふものは、全然道を明かにする点にあつたのである。五十以前には其準備はされたが、未だ道を行ふ所の努力はされて居らぬ。此く孔夫子の履歴を考へて、五十而知天命と云ふ一節に思ひ反れば、知天命といふ事に一つの深い意味を見出なければならぬと思ふ。
 然らば天命を知るとは何ぞといふと、私は清朝人で劉宝楠と云ふ学者の説が一番善いと思ふ。故に其説に基きまして更に敷衍補足して説くのであります。孔夫子は十五にして学に志されたが、此学と云ふことが今日申す学とは違ひまして、唯知識を修得すると云ふだけの事ではない、己れを修め人を治めるの事である。即ち自家の人格を完全に実現し、然る後に天下の人をして皆其人格を実現せしむるやうに導くことである。十五にして早く己れを修め人を治めることを以て、自家一生の目的を為したといふ処に孔夫子の凡人と異なるところが認められる。それより三十五年の修養を積まれて五十となられた。私は当時の人又は後世一部の人が申す如くに孔夫子を生知安行とは考へませぬ孔夫子が自ら言はれた如く、非常に努力して学ばれ徳を積まれて聖人になられた方であると思ふ。無論吾々凡人とは違つて非常に優れた天稟を具へられたのみならず、非常に好学心に富まれて、修業進徳に努められたのである。早く志を立てられ、三十五年の修養を積まれた結果として五十にして得られたものは何であつたか。孔夫子自ら道徳我身に備れりと云ふ自覚を得られたと劉宝楠が申しましたが、私は其通りであると深く信ずる者である。道徳我身に備れりと云ふことを五十にして悟られたが、其道徳我身に備れりと云ふことは、何の致すとこ
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ろなるかが問題である。自家の努力の結果であるか。孔夫子は確に努力された、又確に自家の努力を知つて居られる。併ながら自家努力の結果なりと断定して仕舞へば、それで最後である、それ以上もう何も話はないのである。所が孔夫子にあつては自ら顧みて道徳其身に備れることを知り、而して其備れる所以を考へて見て、自家の努力を知ると同時に、全然自家努力の結果であると考へることは出来なかつた。天が道徳を我身に備らしめたのであると考へられた。是は理窟の問題ではない、孔夫子の信念の問題である。孔夫子が左様に信ぜられたのである。天が道徳を我身に備らしめんとしたところの意を奉じて努力したのであつて、自家努力の結果の如くにして、実は天意に出づるものであると信ぜられた。扨天が備らしめたとすれば、更に一の問題が起つて来る。即ち天が何故に我身に道徳を備らしめたかといふことである。天が孔丘に私したのか。天は決して一人に私することはない、或る人に私の恩寵を垂れると云ふことはない。天は最も公明なものである。既に天が吾孔丘に私したのではない。特別なる恩寵を吾一身に垂れたのではないとすれば、天に何等かの意志がなければならぬ。天に何等かの意志があつて、我身に道徳を備らしめたのでなければならぬ。そこで孔夫子は道の天下に明かならざること久しく、世道人心の頽廃すること久し、天我をして道を天下に明かにし、生民の為に太平を開かしめんが為めに、我身に道徳を備らしめたのである。我は天より道を明かにし太平を開くの使命を受けたと悟られたのが孔夫子の知天命であると私は堅く信ずるのであります。孔夫子の此信念が自然に人を感ぜしめた明かな例が論語にあります。即ち夫子が魯を去つた初めに先づ衛の国に行かうとして、衛の国境なる儀と云ふ地に到着された。其処の役人――官の名は封人で、氏名は分りませぬ――が面会を求めた。職務上色々の人に接しつけて居つた為めか、中々人を見るに眼が有つた人の様である。孔夫子が其処に宿られて、明日は衛の国に入らうとする其晩に、彼が孔夫子の門人に向ひまして、君子が此地方へ御出になれば私は皆御目にかゝつて居る。――是は職務上の必要も無論あるでありませう――如何なる身分の高い御方でも皆直接御目にかゝつて居る。どうぞ先生に御目通をしたいと云うた。そこで門人が取次いで孔夫子に会せた。其時何の話をしたか分りませぬが、話が済んで出て来ると、儀の封人が門人に二三子何患於喪乎。天将以夫子為木鐸。といふた、即ち諸君は先生が位を喪つて浪人者になつたと云ふことを心配される必要は少しもない、天下の道の無きこと久しい、天はお前方の先生を木鐸にして天下の人を警醒する、即ち眠つて居る人を覚醒させるのであると云つた。孔夫子は無論自分から己れは天の使命を奉じて、道を天下に明かにし生民の為に太平を開かうと思ふなどと云ふ話をされた筈はない。併ながら孔子と応対をして居る間に儀の封人が自ら孔夫子の抱負を覚つた、孔夫子の使命の有るところを覚つたのである。言はず語らずの間に、孔夫子の深く自ら信ずる所の使命が人を感ぜしめた。人にインスパイヤする程に、孔夫子は深く自ら信ずる所があつたと思ふ。此の天命を知られてから間もなく、道を行ふことが始めて起つて来たことは、孔夫子の経歴に照らしてまことに意
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味有ることであり、又桓魋其如予何。匡人其如予何と言はれたのは、天が此くの如き使命を自分に与へた以上、天が予を殺さざる限り、人の力で我命を絶つことは出来るものではないと云ふ自信に本づくものとして、誠に意味の深いこととなると思ふのであります。そこで次の問題は、天からさう云ふ使命を受けたならば、如何して之を果すか、使命を受けた以上は果さなければならぬ、それを止めて置くことは出来ない。君父の命と雖も止めて置くことは出来ない。況や天の使命をや。併し政事を通して道を行ふべきものである以上、第一に位地を得なければならぬ。之を如何して得べきか。位は自分から求むべきものではない。又求めても必ず得られるものでもない。如何にして可なるかが問題である。所がそこには孔子に自ら信ずる所がある。と云ふのは天が既に使命を下した以上、其使命を遂行すべき機会は天が之を開く筈である。使命だけは下すが、後は自分が勝手にやれと云ふことは有るべき筈がない。使命を下した以上は、使命遂行の機会は天が開かなければならぬ。それで孔夫子は、安じて機会の到るを待つて居られた。果して年五十二にして魯は之を用いて中都の宰となし、遂に進んで中央政府の役人となし、漸く道を行ふことの機会が来たのであります。其後位を辞するの已むを得ざるに至つて、道を天下に明かにする為めに諸方を周遊し、それも効無きに及びて、道を後世に明にするに努められた、二十余年の活動は尽く使命遂行の為めであつた。此くの如くに私は孔夫子の知天命と云ふことを見るべきものと信ずるのであります。
 孔夫子の知られた如き天命、即ち道を天下に明かにし、生民の為めに太平を開くと云ふことは、我々至らざる者にありましては、迚も学ぶことは出来ませぬが、併ながら考へやうに依つては、身分職業の如何を問はず、皆自己の天命を信ずることが出来ると私は考へまして、私は孔夫子の知天命を、各人其身上に当てゝそれぞれ天命を語ることが孔夫子を学ぶ所以であると思ふのであります。一体儒教と申すものは、昔の人がよく君子の学だと申しましたが、それは何の事であるか君子とは何であるか、といふことを考へて見たい。君子は一方から申せば徳の有る人で、又一方から申せば治者の位に在る人である。支那の古代の制度では徳と身分とは必ず一致すべきものとなつて居りました。併ながら君子と小人との別は、徳と身分との差別ばかりでなしにもう少し違つた方面からも考へられると思ひます。荀子は道者非天之道。非地之道。人之道也。君子之道也――文字を少し訂正したのであります――と申して居ります。此く道は天の道にあらず、地の道にあらず人の道なり、君子の道なりと申す場合の君子と云ふものは、身分などと違つた見方を為すべきである。それを説くには論語に孔子の語として、君子喩於義。小人喩於利とあるのに照らせばよく分ります。即ち儒教は君子の学である、道は君子の道であると云ふ君子は義に喩ると云ふ事から考ふべきものであります。是は古人の申した譬喩でありますが、此処に水飴が有るとしまして、親孝行の者は之を見ると老人に喰べさせたらさぞ宜からうと思ひ、盗人が之を見ると之を錠前の孔に注ぎ込んだら、鍵を廻すのに音がしないでよからうと思ふ。一つ
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物でも見る人次第で直ぐに心に浮ぶところの考が違ふ。是は丁度君子喩於義。小人喩於利の例となります。君子の道小人の道と云つて人の道に二つ有ることはない。君子は仁義忠孝を道とし小人は不仁不義不忠不孝を道とすると云ふやうな事は有り得ない、何となれば不仁不義不忠不孝は道ではないからであります。道と申せば仁義忠孝の外にはない。孟子は道は二つ、仁不仁とのみと言つて居りますけれども、それは自ら別の意味を以て申したのであります。道と申せば仁義忠孝の外にはない。併しながら同じく仁義忠孝を行ふのに、義と云ふ方面から行ふのと利と云ふ方面から行ふとで、そこに君子と小人との別が生ずる。親孝行をすると世間の評判が好い、商売も繁昌する、自分の身の都合が好くなると云ふので親孝行をするのは、利に喩る方であります。孝は人の子としての道である、天が人に賦与し人性に具るところの仁と云ふものが有る、それを発達し実現せしむることは、人の天に事ふる所以である。それには孝を尽さなければならぬ、何となれば孝は仁の発現であり、又仁を実現する所以のものであるからであつて、人が自性を発達実現せしむる所以の道である。要するに孝は人の当然の務である。此様に考へて孝を為すのが君子義に喩る事であります。即ち利益の打算の上から道を行ふと云ふのは、君子の道ではない。人の性を実現する所の道を行ふと云ふのが、君子の道であると云ふことでありまして、此れを儒教は君子の学なりと云ふのであると思ふ。そこで儒教では義と云ふことを八釜しく申して、利と云ふことを斥け、義利の差別と云ふものが重要なる事になつて居りますが、又一方から申すと、義と利と云ふものは全然一致するものである。論語に子罕言利与命与仁とありますが、これは普通の読方に依りますと、子罕に利と命と仁とを言ふと読みますが、それでは正しくない、さう読みますと非常に無理な解釈をしなければならぬことになる、子罕に利を言ふ命と与にし仁と与にすと読むべきである。利と云ふものは往々にして命又仁と矛盾する、併し必ず矛盾すべき運命のものであると云ふことではない。矛盾しないやうにしなければならぬ。利と云ふものは必ずしも吾人の努力のみでは得られるものではない。然るに吾人の努力だけで得られると思ふので無理な事をする様になる、それで吾人の意志を超越する所の命と云ふものゝ関係を考へねばならぬと云ふのであります。論語に又放於利而行多怨とも有ります。斯様に論語を見ますると、孔夫子は利を非常に排斥されて居る様でありますが、其排斥される利は何であるかと考へるとそれは義と容れない所の利であります。即ち自家の利益、而も其利益たるや一時的の利益、或は物質的の利益であつて、即ち個人の一時的且物質的の利益を言ふのであります。此かる利に就いて仁と矛盾することがあり、又それを得られると否とに就いては天命がある、又専ら此かる利に依つて行へば人の怨を受くることが多いと説かれたのである。併し利と云へば左様なものだけではない。利はもう少し大きく考へなければならぬ。もう少し大きく考へると、利は義と全然一致するものである。此の意味に於ては義は利の本なりと云ふことになる。左伝にある孔夫子の語に礼以行義。義以生利とあります。即ち義は利の本であるといふのである。それと同じ思
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想は多く有ります。左伝だけで申しましても、義以立利。或は義者利之本也と有り、又左伝とよく似て居る書物で国語と云ふものには義者所以生利也。謂義必及利。愛人則克仁。制利則克義。礼以行義。義以生利。利以裕民。或は義者利之足也。などと云つてあります。又大戴礼と云ふ書物に義者利之本也とあります。斯様に孔夫子の語以外にも又必ずしも儒者と思へぬやうな人の言ふたのを見ましても、義と云ふものは利の本であると云ふことが絶えず繰返されてございます。此意味に於て義利全然一致である。故に儒者が義利の弁と申して、義と利とを差別する方の利は、個人の一時的且物質的の利であつて、孔夫子の罕に言はれるのはそれであります。併し真の利と云ふものは必ず義に依つて生ずるものであるといふのが、古来の定説である。彼の墨子と云ふ人の書物の中にも仁者愛人。義者利人とあります。斯様にして義利の一致と云ふことが儒教の方に於ける一の重大なる思想であります。是は丁度青淵先生の常に唱へられる経済道徳の合一と云ふことと全く同じ事だらうと思ひます。斯様に義利の一致、義を以て利の本と為し、義に依つて利を生ずると云ふ方面を理想とされまして、君子の道を実行されると云ふことは、実業に御従事の方々の天命であらうと考へるのであります。孔夫子の知天命の意味は先刻申上げました通りでありますが、皆様の御身の上に当てゝ考へますれば、今申すやうな考が生ずると思ひまして、御考慮を請ひたい為めに聊か卑見を申上げた次第であります。(拍手)


論語講義 第一 茗香会編 茗香会文庫第一輯・第一―三頁大正一四年二月刊 【論語講演会開講之辞(大正十一年十二月十五日) 佐々木勇之助】(DK410093k-0003)
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論語講義 第一 茗香会編  茗香会文庫第一輯・第一―三頁大正一四年二月刊
    論語講演会開講之辞(大正十一年十二月十五日)
                      佐々木勇之助
本年は孔夫子の卒後二千四百年に当ると云ふので、十月の二十九日に斯文会に於て盛んなる祭典がありまして、私も参列の栄を得ましたが当日は閑院・賀陽・山階の各宮殿下も御台臨になりまして、非常に厳粛なる御祭でありました、尚ほ当日は帝国大学でも諸名士の孔夫子に関する講演もありましたし、又上野の美術協会に於ても名儒碩学の遺墨展覧会がありまして、非常の盛況でありました、其後十一月の竜門社の秋期総会も孔夫子の記念講演会を行はれまして、今日出席下さいました服部博士の論語為政篇知天命の章に付詳細なる御講演がありましたが、其時御出になつた御方は先生の御講義を御聴きになつた事と存じます、当日は其外に穂積先生が青淵文庫の為に御蒐集なすつた各種の論語を展覧せしめられましたが、当日服部先生の御講演は先生の該博なる識見と正確なる考証に依つて孔夫子の性格を吾々に解るよふに御示し下さいましたので、我々も大に感じましたやうな次第でございます、併し世間の風潮は如何であるかと申しますと、兎角に近来は一般の思想が物質的に流れまして、上下となく貴賤となく、総て利益の方に走ると云ふやうな傾があり、又或は己れの力を計らずして他の栄達を羨望すると云ふやうな風になりましたのは、思想の上にも面白からぬ事と感じて居りましたのでございます、之は全く欧羅巴大戦の結果斯の如き変化を来したものであらうと思ひまするが、併し私共窃
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かに思ひまするには、今の教育制度が完全して居るかどうか大いに疑ふのであります、幸ひに第一銀行に於きましては渋沢子爵の薫陶に依りまして、平素質実勤勉と云ふ事を主義として居りますから、今のやうな世の中の風潮に化せられると云ふやふな人は甚だ少ないやうに思ひますけれども、此頃は新規の人が追々這入つて来るし、人が大勢になりますと、どうしても思想を益々健実にしなければならぬ、今の所では自分が身を修めるとか業を努むるとか云ふ事を後にして、唯利益のみを目的とすると云ふ事が世の中に多いやうである、故に服部先生の御講義を承はりまして、どうしても之は孔孟の教に依つて、吾々の身を修め徳を養ふと云ふ事をせなければならないと思ひ、同僚の石井君とも相談致しましたところ、至極宜からうと云ふので、是非先生に御願ひをして、論語の講義を承はる事にしやうと云ふので、其事を渋沢子爵にも御話を致し、阪谷男爵の御紹介に依りまして服部先生に御願ひを致したのであります、所が先生は中々御多忙でいらつしやるので更に先生の御配慮に依りまして、今日御出席を頂きました宇野先生に論語の講義を御願ひする事になりました、今日は幸ひ宇野先生も御出席下さいましたが、実は論語の講義に就きましては明年から御話下さると云ふ事でございますが、丁度当年は前申上げました通り孔夫子の二千四百年と云ふ記念の年でございますから、此年からすぐ始めたいと云ふので両先生に御願ひを致してまして、今日玆に其初会を開きましたやうな次第でございます、年末御多忙の際にも拘はらず、両先生が万障御繰合せ下さいまして御出席下されましたのは洵に有り難く存じます、殊に今日は服部先生から儒教の根本主義と云ふ事に就いて御話を下さる事でございますから、皆さんと共に之を謹聴いたし度く存じます、尚ほ後に宇野先生からも御話がある筈で御座りますから御清聴を願ひます、是だけを一応申上げて開講の辞と致します。


陽明学 第一九五号・第四―一三頁昭和三年二月 民可使由之に就て 塩見平之助(DK410093k-0004)
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冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

竜門雑誌 第四八一号・第二五四―二五九頁昭和三年一〇月 論語実践者としての青淵先生 土岐僙(DK410093k-0005)
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竜門雑誌  第四八一号・第二五四―二五九頁昭和三年一〇月
    論語実践者としての青淵先生
                      土岐僙
 青淵先生に就いて、小生輩が何か申上るのは、古い譬への通り、宛も群盲が象を批評するやうなもので、尻を撫でるもの、牙にさわるもの、皆その一部に触れるのみで、先生の全貌については小生輩の覗ひ知る所ではありませぬ、が併し明治二十年以来、小生が学校を離れて何等経験もなし実業界に入り込み、今日まで斯界から左まで擯斥もされないで、予想外の安楽生活をなし来り得たのは、何等因縁なき小生を、青淵先生が叱教と庇護とを賜つたお蔭であるから、先生に就て何等か話さして頂けるのは、非常の光栄とも思ひ、色々くだらぬ感想が湧き来るやうな思ひがします、その中で、先生と論語との関係について、聊か卑見を話さして貰ひませう。
 アレキサンダーや、ナポレオンは英雄であつたに相違ない、併し彼等は干戈を以て征服に従ひ物質的に外部的に成功しただけで、精神的に何等の印象も残さないから、史蹟を回顧しても甚だ淋しい感じがする。そこになるとコーランと剣を左右の手にして、精神的宗教を楯として世界に高大なる勢力を扶殖したムハメツトは、今に至るまで数千万の教徒に崇拝せられ、敬虔の念を以て迎へられてゐます。かの如く聖書経典ともいふべき論語と算盤とを左右の手に握り翳して、これが実行に当られた青淵先生の実践躬行の迹を眺めて見たいと思ふのであります。
 先生はいつも自ら申さるゝ通り、十七八才の頃から、人たるの道を尽したい、階級的差別を成るべく少くしたい、一身一家を意にせず、君国の為に尽して、皇恩に報ひ、社会から受けた恩義に酬ひたいといふ、このお志の主義主張は、そのまゝに論語であるから、別に論語を
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担き出して言ふ程のことはない。
 それであるから、論語の章句を一々こゝに掲げなくとも、先生の言行が皆活きた論語ともいへませう、今その実例を挙げて見れば、開巻第一章の第一句に、
 子曰学而時習之。不亦説乎。
と、学んで時に習ふことは、先生が論語より学ばれただけでも、日夜之を学んで、これに習ふて居られるのではありませんか。
第一章の第二句に、
  有朋自遠方来、不亦楽乎。
 青淵先生を訪はるゝ友の遠方より来ることは、竜門雑誌に現はれてゐるだけでも、支那の名士もあれば、米国の貴賓もあり、また欧洲の実業家は勿論、政治家の有力者も、日本へ来れば皆先生に面会を要めて談話することを楽みとし、先生を慕ふて訪問せらるゝ人が、年々尠からぬ数であります、こんな多数の友を相手として楽み得らるゝことは恐らく我国では古来他に其例を多く見ないやうに見受けます。
第一章の第三句に、
  人不知而不慍。不亦君子乎。
 先生は人の己を知らざることは、少しも意に介せず、気になさらぬやうであります。
 たしか一昨年でありましたか、大森大夫がある高貴のお使ひで先生の邸を訪づれられ、光栄の御伝言のあつたことなど、自ら知る人ぞ知るといふ有様で、先生自らは知られやうとはなさらぬ。
 また世間周知の如く、先生が大臣に推されたことも幾回かあつたが政治圏外に立ち、実業を以て君国の為に働くと云ふ方針は、どこまでも枉げずに、その都度お断りになつた、これ明かに売名を以て人に知られやうとはなさらぬ好箇の適例ではありませぬか。
 尚ほ或る雑誌記者や、或る青年を引立てんが為に千里を遠しとせずして遊説に出掛けられたり、人の世話を焼かれたりすることについておとなしく門下生は先生の為に心配してゐても、人が何と思ふが、そんなことに頓着せず、人知らずして慍らずで押し通さるゝ処などは一つの例である。
 顧みて大臣病患者の多い世の中に立ちて、超然世とかけ離れて病患を避けられ、自家広告流行の世を歩みて、鼓吹的売名を厭ひ、論語読みの論語知らずの人が多い中に介して、論語の実行を自らする先生は人知らずして慍らずといふの外はありませぬ。
 論語の巻頭に、結句として、悦ばしからずや、楽しからずや、君子ならずやと並べてありますが、悦ばしいこと、楽しいこと、君子となることが、孔子の人生に尤も有意義の事とせられたことでありませうが、先生も常に、悦ばしいこと、楽しいことを念頭に懸けられ、これを人類生活に大切なることゝせられ、君子たることを人間畢生の目的とせられて居らるゝやうに推測せられます、この事については、諸君が先生の言行を見て首肯せらるゝであらう。
論語の中に、
  子曰。仁者己欲立而立人。己欲達而達人。
 - 第41巻 p.446 -ページ画像 
 小生が先生の門下生となつて間もなく、或る会社の支配人心得のやうな用事をさせられて居ります時、その社長の遣り方を正しからずとして、先生に訴へた時、先生は例の如く諄々として教へ下すつたことを今に忘れもせぬ、その主要なる言葉は、教へてお指図を受けることを知らねばいかん。長上の人には、命令を受けねばならぬが、正しき善良なる命令を受ける為に、予じめ別の時に、ソンナ命令をさせるやうに教へて置かねばならぬ、とて先生は御自身がお役所向き先輩に対して常に教へてお指図を受ける工夫をなされて居ると申されました、成程と小生は此言葉から大に感激し、新たに学校などから実業界へ入来りし人に対して、幾回となく先生の教を受売したか知れませぬ。己れ立たんと欲して人を立つるには、是も一の善き方法ではありますまいか、兎角世の中の人はいゝ児に成らうとする傾向が、我々小人の間に有り勝ちで、人にはこんなさもしい根性に陥り易い短所がある。
 九代目団十郎の盛なる時には、弟子の中、及び弟子以外の人にも、団十郎の仮声を使ひ、団十郎を気取つて本郷座の団十郎、田舎の団十郎、女優の団十郎といふやう、大家の名声にて芸を売物にした人が十六七人居たと聞いて居ります。甚だ不遜な譬喩か知らないが、青淵先生を気取り、先生の志望を相続せんと心掛け、又は先生を気取つてゐる実業家も数名あるやうに噂されてゐるが、このデモ団州や、デモ先生は、己れ達せんと欲して人を達するものゝ似而非者《ゑせしや》ではありますまいか。例せば銀行会社創設の都度よい時のみ関係して、工合が悪くなると顧みないやうな輩では新事業を進むる主将にはなられない。そこになると先生は数限りもない会社中破綻を免れないやうな会社が、其都度終末善後の尻を先生の所へ持込んでも、先生は一向面倒臭い顔もなさらず、常におれに葬式役をさせるなと笑はれて居られたが、デモ先生に其真似が出るかどうか。
又論語の中に、
  葉公問孔子於子路。子路不対。子曰汝奚不曰。其為人也。発憤忘食。楽以忘憂。不知老将至。云爾。
 即ち葉公が孔子の人となりを子路に問はれた事がある、子路は之に対して答へなかつた、孔子曰く、汝ち何ぞ言はざる、その人となりや憤を発し、食を忘れ、楽んで以て憂を忘れ、老の将に至らんとするを知らずと、是れ恰もその人となりや青淵先生に相似た境涯ではないかと思はれるのです。
 ナゼならば、孔子が憤を発せられたのは、道を行はんが為の発憤でありませうが、先生は道を行ふといふ言葉に相応はしい志でなかつたかも知れませんけれども、その意義目的は一身一家を顧みず、老躯を厭はず、百姓の安寧幸福を増進せしめようといふ意味の先生のお志が自ら道を行はんが為の、発憤に相当つて居ると思ひます、それが小生輩ならば、迚も其老躯に堪へられぬとして、面倒だとか、おつくうだといふ考からこれを謝絶し、これを断つて為さうとしないやうな難事でも、先生は老躯を意とせず、苟もその志に合ひ、道を行ふ上に必要な事と思はるれば喜んで引受け、楽んで世話を焼かれ、社会奉仕の為に犠牲となつて居られることは、寔に感嘆に堪へぬ次第であります。
 - 第41巻 p.447 -ページ画像 
 昨年先生の米寿を迎へての御感想が竜門雑誌に出て居ましたが、いつまでも壮年の時のお志をつゞけてその志を遂行しやうといふ、その元気、その体力は非凡といふより外ありますまい、孔子は七十三歳で卒せられ短命とは申されぬが、これを先生に比ぶれば、社会に尽された年月は遥かに短かゝつたとも言ひ得ませう。
 論語に関聯して先生のお話を申せば、殆んど限りないやうでありますけれども、余り長くなるのも読者の迷惑と思ひ、モーこゝらで筆を擱きますが、最後に一言申述べねばならぬ事は、先生が米寿の御感想の中で、長寿をした事は喜悦を感ずると同時に大に憂を抱いて居ると申されたのは、その真意に対して小生輩小人の知る所ではありませず苦労をするとか、煩悶をするといふ意味ではありますまいが、竜門社員としては之を聞捨てにすることは出来ますまい、それは先生の憂とせらるゝ所以のものは、蓋し先生が主張せられた階級的差別が少くなかつたかどうか、国風の改善が行はれたかどうか、東洋の道徳を維持発達させたい、それが出来たかどうか、別して算盤と論語の実践ともいふべき経済道徳の合一主義がどれだけ行はれたかどうか、といふことを患へられて居られて居られるのではありますまいか。されば経済界の人々が先生の是等の言を服膺し且つこれを体験実行して、老先生の抱かれたこの憂患を多少たりとも軽減に導くことに協心同力し是まで先生から御恩を受けた門下生は、精神的にも先生のお志に添ふやうお報をすることが、門下生一同の義務ではないかと存じて居ります。


竜門雑誌 第四八一号・第三五七―三六〇頁昭和三年一〇月 儒学と青淵先生 山田準(DK410093k-0006)
第41巻 p.447-449 ページ画像

竜門雑誌  第四八一号・第三五七―三六〇頁昭和三年一〇月
    儒学と青淵先生
                      山田準
 読書万巻を以て学者とするなら青淵先生は学者でない。著書棟に充つるを以て学者とするなら青淵先生は学者でない。然かし論語に「子夏曰。賢賢易色。事父母能竭其力。事君能致其身。与朋友交。言而有信。雖曰未学。吾必謂之学矣。」とある、此意味に於て先生は真の学者である、今日の誰よりも遥に優れた学者であることを断言する。子夏の語は四個条あるが、先生に取つては何れも難事で無いのみか、先生の八十年は全く此語の実現である。否な其れ以上である。今ま玆に儒学の要領を約言せんか、「徳を修め義に勇み、己を修め人を治む」と言ひ得られるであらう。而かして先生は全く此語に当てはまり、八十九歳の今日まで、真に此の要領を実行しつゝある大偉人であるといふてよい。此を真の儒学者と曰はずに、誰を儒学者と云はふか。
 論語に「子曰。徳之不脩。学之不講。聞義不能従。不善不能改。是吾憂也。」とあるが先生は幼年より学を講ずる事も決して人後に落つるやうな人では無かつた。当時先生の同郷で且つ戚族に当り、尾高藍香翁といふて士魂商才の傑物があつた、先生よりは十年の年長であつたが、先生は七歳の時から、此翁に就いて読書した。後年先生の言に「私が最初に教つたのが論語で、其から四書五経小学を上げて、更に文選・史記・漢書、又た其に取交ぜて十八史略・国史略・日本外史・日本政記などと読んで貰つた」とある。此が先生の十四五歳までゞあ
 - 第41巻 p.448 -ページ画像 
つたらしい。十四五歳迄に此だけ読んだ学者が果して何人あるであらうか。又た先生は十九歳の安政五年十月には、藍香翁と製藍を信州路に行売せられた、其時の「巡信記詩」といふものに翁の序文があり、先生の跋文がある。其中に「内山峡」と題して、先生の作に成れる七言古詩の雄篇がある。今数句を摘載すれば
  刀陰耕夫青淵子。販鬻向信取路程。小春初八好風景。蒼松紅楓草鞋軽。恍惚此時覚有得。慨然拍掌歎一声。君不見遁世清心士。吐気呑露求蓬瀛。又不見岌々名利客。朝奔暮走趁浮栄。不識中間存大道。徒将一隅誤終生。大道由来随処在。天下万事成於誠。父子惟親君臣義。友敬相待弟与兄。彼輩著眼不到此。可憐自甘払人情篇成長吟澗谷応。風捲落葉満山鳴。
の如き、落筆矯秀、歩驟自在、古人の塁を摩する勢がある、先生をして此の順に進ましめば、壮年を俟たずして読書文章優に一代の碩儒名匠たりしは些の疑を容れぬ所である。然かし十九歳の先生は既に歌へり、大道由来随処に存す、天下万事誠に成ると。又歌へり、父子は惟れ親、君臣は義を、斯くて先生は世の謂はゆる碩儒名匠となるにはあまりに人間味があり過ぎ、あまりに血誠であり過ぎた。時しも先生は二十一歳となり、其春は、水戸の浪士が井伊大老の鮮血を桜田門外の雪に染め、幕政は日に非にして尊攘の論は志士の血を湧かしめた。此の前後水戸の学風を取入れた藍香翁は、如何で安閑と終るべき、志士を糾合して一角《かど》の攘夷家となつたので、先生は之が参謀格をもつとめたが、其より幾度か危機を踏み、遂に難を京阪に避け、身を一橋家に委した。其が不思議な結果を生み、慶応三年の正月には徳川慶喜公の舎弟にて、清水家を相続せる民部大輔其の御傅として仏国博覧会に赴くことゝなつた。是が先生の一身に大転環を及ぼす機会であつた、先生は十分に欧洲の文化と経済の実相とを視察して明治元年の十一月に帰朝された、時を以て言へば其間僅に二年に過ぎぬが、幕府は倒れ、王政は復古し、百般の諸制度欧米の長を採つて国本を固むべき大切の時期に直面した。是からの先生は朝に野に、政治に理財に、各方面の指導者として一世信望の的となられた事は今更喋々するの要はない。
 先生は斯かる中にも依然として漢学信奉家であつた。依然として儒道実行者であつた。西洋物質文明の長所は十分認めながら、精神は東洋固有の道徳に勝るものなしとの主張を保持し、論語を宇宙唯一の聖典と信じ、一身も一家も一国も天下も此の一書に依て開拓し浄化され得るとの鉄石のやうな信念は、論語あつて以来の一大論語崇拝者と謂ふて差支ない。往時伊藤仁斎は論語を「最上至極宇宙第一書」と曰ふた。先生の信仰は其以上であると思ふ。「論語と算盤」と云ふ題目は先生に依つて提唱された有名な題目であるが、先生に依れば、利益を算出する算盤と、仁義を勧める論語と、惟一不二のもので、仁を為せば富まずといふやうに決して相反する物では無いといふ一大真理に到達するのである。此点が我先師三島中洲翁の義利合一論と契合して、其以来先師と先生と心交日に密に、先師歿後も先生も先師の遺業なる二松学会の会長まで引受け、其存立に非常なる努力を払はれつゝあるは、余輩の感激措く能はざる所である。先生の論語講義下巻《(上脱)》の口授筆
 - 第41巻 p.449 -ページ画像 
記あるは言ふまでも無いが、一昨年即ち先生八十七の高齢に拘らず、多事の寸閑を割いて論語全巻を謹厳なる筆致もて筆写し、之を影刊して知人に寄贈された。余も一本の恵を受けたが、其の刹那何とも知れぬ崇高な気分に打たれた。此気分は一生忘れ得ぬであらう。
 先生は又た王陽明の人物と学風に深き帰嚮も有つて居られる、其淵源は藍香翁から来て居るのではあるまいか。翁は水戸派の学問を修め一生愛読して傍から離さなかつた書は、常陸帯と新論と、王陽明の全集であつたと伝へられて居る。されば其感化が先生に及んだことは推知さるゝが、陽明の良知実行主義と簡易直截な学風とは、必ずや先生の心に契合する所があつたであらう。往年先生は東京で陽明学会を起し陽明雑誌を発行した東敬治といふ人を支持し、自邸に陽明全集読書会を催したり、近年は其の事務所で陽明学研究会を開き毎月二回開かれ、余も参加して居る。其れが先生に何程の利益を与へるかと疑はれるにも拘らず、先生は老齢を忘れ、百忙の中を差し繰り勉めて出席される其熱誠には、何人も心から頭が下がるのである。昨年六月、先生が十余年前発議勧誘された玉川田園都市が完成したので、其地方人士が歓迎会を開いて先生を招待した。当時余等読書の士十数人が勧められて随行した、其時先生が会場で発表された詩は左の通りである。
  新阡先喜映朝光。四望山川引興長。商不二価耕譲畔。果然義利両全郷。
 右は唱和の作が数十篇集り、序跋も出来、「玉川唱和集」と題して立派な書物に刷り上げ田園都市の諸人に配布された。先生の一生を織り成せる先憂後楽の美しい精神が其間に磅礴せるを覚えるのである。嗚呼、先生の骨も肉も一滴の血も仁義の凝結である、論語の結晶である。「昭代の人瑞」とは、特に先生の為めに貽された言葉ではあるまいか。天よ冀くば先生に与へらるゝ限りの寿を与へよ。


竜門雑誌 第五一九号・第二一七―二一九頁昭和六年一二月 渋沢青淵翁の生涯を語る 菜花野人(DK410093k-0007)
第41巻 p.449-450 ページ画像

竜門雑誌  第五一九号・第二一七―二一九頁昭和六年一二月
    渋沢青淵翁の生涯を語る
                      菜花野人
○上略
 渋沢翁の論語研究は天下に有名であつて、論語が広く実業社会に読まるゝ様になつたのは全く青淵翁の努力の結果であり、それが一般の財界青少年を教化したところは非常に多いのである。勿論渋沢翁は専門の学者ではないから、或ひは専門の学者からいへば翁の論語は問題でないといふかも知れぬ、併し翁の論語は、その九十二年の長き生涯に於て自得した安心立命の説法であつて、それ自身の経験を以て論語の註脚としたのではなく論語を以て自身の経験の註脚としたのでありそ処に翁自身の論語として、非常に大なる価値があるのであつて、若し多少の想像を以て考へて見ると、渋沢翁が支那の古代に生れたならば、孔子の様な生涯を送つたかも知れぬ、それから孔子が若し日本に生れて明治時代に直面したならば、或ひは渋沢翁と同様な生涯を送つたかも知れぬ、翁が多年論語を愛読して、孔子の人格に傾倒し、その心情に共鳴したのは何処かに共通した何物かがあつた為めで有らうと
 - 第41巻 p.450 -ページ画像 
思はれ、青淵翁の生涯を好く研究した上で、更に論語を繙いて見たら多少の妙味が有らうと思ふのである。
        ×
 第一支那革命の際、私は上海に於て岡本柳之助と出会して、数次対談したのであつた。岡本氏は一代の快傑として世間に知られた人物であり、実に未成の英雄であつたのであるが、或時に岡本氏は私に語つて曰く、論語といふ書物は、全く支那人の為めに出来た様な本であつて、我が儘で、横着で、勝手で、個人主義である支那人には、今日是非とも論語を読ませなければ、支那の国家は治まらぬが、日本人は正直で、小心で、遠慮深い国民であるから、論語のやうな本を読ましてはならぬ、別段の不利益とはなるけれども、併し決して利益ともなるまいで有らうといつた、此の岡本氏の意見は或ひは多少僻論であるかも知れぬが、私は支那の国民性に観て、当時岡本氏の議論には大体に於て同感を表したのである。
 徳川時代の漢学者連は、孔子と共に論語を神聖視して、ほとんど何等の批評をも加へず全く無条件に之れを礼讚して来たのであつた、それで自然漢学者の思想なり感情なりが、偏屈になり、頑固になつて段段融通がきかなくなつて来た処から、その当時式亭三馬などは浮世風呂といふ小説を書いて、その中で漢学者の迂遠なことを嘲笑した、それで日本人が論語に依りて教化せられたことは勿論多いであらうが、同時に日本人は文字の末に拘泥して、知らずしらずの間に、その弊害を受けた点も少くはなからうと思ふ。そこで青淵翁は漢学は一人前であつたけれども併し専門の学者ではない、従つて論語に関するその議論は、専門の学者から見れば、或ひは至つて粗末なものであるかも知れぬ、孔子の教旨を天下に誤り伝へたるは宋朝の朱子であると云つて翁は大胆にも朱子をしかつたこともあつたが、朱子にして今日若し世に生きてたならば、決して黙つてはゐまじく、而して議論の結果、青淵翁が閉口して失言を取消すといふ場合もあつたらう、従つて翁の論語は、学問としては決して取るに足らず、失礼ながら正面よりいへば論語の研究としては三文の価値もないといふ学者もあらうが、併し青淵翁の論語は、実に活きた論語であつて、それ自身の長き経験より得来りたる一種の安心立命を論語の文字を仮りて説明したものであるから、漢学者の説いた論語は、今日ほとんど死物であるけれども、青淵翁の論語は全く活物であり、天下後生に取り、実に得易からざる教典として永久に広く読まるゝことであらう、恐らく翁の論語研究は、最初は金持ちの余技として一種の道楽であつたかも知れぬ、然かも研究に熱中した結果、遂にそれが大成して、論語宗の開山となり、而して尠からず世間を教化したのであるから、私は今日之れを特筆して渋沢翁の霊前に、その多年の研究と努力を感謝せんとするものである。
       (十一月十三日夜)(漢口新聞十一月十四日所載)


山田準談話筆記(DK410093k-0008)
第41巻 p.450-454 ページ画像

山田準談話筆記              (財団法人竜門社所蔵)
                昭和十六年二月二十一日
                於二松学舎 山本勇聴取筆記
    青淵先生と儒教
 - 第41巻 p.451 -ページ画像 
  青淵先生が儒教を宣揚するに大なる努力を払はれるとともに、身自らは稀に見る斯道の実践家であられ、その全生涯は儒教精神をもつて終始一貫せられたことは、周知のところであります。このやうな先生に就て、人格達成と申すか、あるひは思想的根源と申すか、さうした精神的活動に関する資料を編纂することは非常に困難を感じてをります。この意味から先生と儒教との関係について御談話を願ひます。
 大変むづかしい問題です
 私は九州に三十年ばかりをつて昭和二年に上京しました。その時には、既に御承知のやうに東敬治氏の主宰していた陽明学会があつて、青淵先生はこれを援助してをられ、また財団法人二松学舎の舎長をしてをられました。さういふわけですから青淵先生には極く晩年しか接してをりませんので、お若い時のことはよく分りません。
 今日では東氏も亡くなつたし、誰に訊ねたらよいでせうか。非常にむづかしい問題だと思ひます。
 青淵先生が熱心に儒教を宣伝されたことや非常な儒教精神を持つてをられ、斯文会にお尽しになつたり、御家庭でも論語会を開かれたりしたことはよく知られてゐますね。これなども大切なことです。
 二松学舎との御関係は、二松学舎の舎長三島中洲翁との関係から始つたもので、令夫人千代子刀自が亡くなられた時、先生は中洲翁にその碑文をお依頼になつた、その文章が簡にして情義を尽し、非常によく出来たといつて、尾高老人○惇忠なども、感心されました、それ以来先生と中洲翁との交りが始り、儒教についても『知行合一』を主義とし、王陽明学を尊ぶ中洲翁と、論語をもつて実業を経営される青淵先生との御意見が一致し、二松学舎の世話もなさるようになり、のちに『道徳経済合一論』が出来上つたといふわけであります。もともと、『利』といふものは、儒教精神と相容れないものゝやうに説かれてきたのでありますが、儒教精神においても『利』をよそにしたものではない、『義』と『利』は一致すべきものだ、といふことについて、お二人の意見が一致したのであります。
 このやうに青淵先生は自らを儒学者とは決して申されなかつたが、立派な儒学者でありました。さうして儒教精神作興のために二松学舎の世話をして下さいましたが、中洲翁が病気になられた時、先生に二松学舎の舎長になつて下さいと頼まれたのが舎長の始まりです。この経緯については私よりは国分理事○三亥などが委しく知つてをります。
 更に溯りますと明治三十三四年頃、細田とか池田とか其他の門下生が、二松学舎を側面から援助するために二松義会を設立して基本金を募集した、其後青淵先生はその会長となられました。○明治四二年これからが先生の二松学舎に対する具対的な援助の始りであります。
 青淵先生の青年時代については既刊の伝記が現しているやうに、儒教精神をもつて修養なさつて、わが国は忠君愛国で進まねばならぬといふことをお覚悟になり、遂に勤王運動に奔走されたことは周知の通りであります。しかし、先生は一時尊王攘夷を主義とし、その実行運動に加担されたのでありますが、伝記が示すやうな経路を経て、仏国
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から帰朝されてからは単なる攘夷を排して、外国の知識を採り入れることに努められ、文化・経済を指導されたのであります。
 青淵先生の『道徳経済合一説』は一般の人々に『論語と算盤』といふ言葉で知られていますが、この言葉が出来た由来は、先生の古稀祝賀○明治四二年に際して、東京瓦斯会社の重役であつた福島甲子三氏が先生の持説に基いて論語と算盤を描かせた絵を贈り、その画帳に中洲翁が『題論語算盤図賀渋沢男古稀』といふ文を寄せられたのが、その始まりであります。それによつて『論語と算盤』といふ言葉が有名になりました。
 青淵先生が論語を信仰し崇拝せられた点は古今抜群であると思ひます。昔、京都に伊藤仁斎といふ大学者がありまして、論語を『最上至極宇宙第一書』といつて尊重しましたが、日本における論語の崇拝者としては、伊藤仁斎に匹敵するものは青淵先生を措いて他にないと申してよからうと思ひます。青淵先生は儒学者としても、大抵の学者に比して遜色がありませんでした。真に『知行合一』の人であつて、殊に陽明学に御心服でありました。
 徳川初期の学者中江藤樹や熊沢蕃山も陽明学を尊び、経済と道徳を一致させねばならぬと説いてをります。即ち『知行合一』がその根本原理をなしているのです。青淵先生もこの点に深く御心服になつて、『伝習録』といふ本は青年時代から愛読せられたやうです。
 明治四十年前後のことですが、周防岩国出身の陽明学者で東敬治といふ人がありまして、東京へ出てきて陽明学を宣伝してをりました。しかし、なかなかうまく行きませんで、青淵先生に御援助をお願ひした。先生は陽明学の宣伝といふことには大いに御賛成になりました。これがもとになつて、それから先生は更めて王陽明の書を読みたいと申されて全集を御買入れになり、東氏をお邸に招はれて全集の講読が始りました。それが次第に大きくなつて、後日、丸之内の渋沢事務所に、場所を移されて陽明会となつたのであります。その時分になると月二回の会合には有志者が二三十人も集り、先生も大がい出席されました。昭和二年から私○山田準も鹿児島から帰京して加はりまして毎会講話を致しました。他の方の講話もあり、先生は速記者を招て時々其を速記させ、黙つて聴いてをられましたが、傍より見るに如何にも愉しさうでありました。
 それより先、東氏が経営していた『陽明学』といふ雑誌の維持が困難であつたとき、先生は策を立てゝ下さつて、有力者が毎月分に応じて出資するといふ方法で、さういふ賛助者が十幾人出来ました。しばらくは、その方法で大さうよろしかつたが、賛助者も段々に減つて行きました。しかし先生は東氏が歿するまで根本的の援助を続けられました。
 すべて、先生はやりかけた援助を中途でやめることはお嫌ひで、陽明会でも二松学舎でもお亡くなりになるまでお力になつて下さいました。
 二松学舎に対して先生が援助されたのは、儒教精神を作興して道徳を向上させよう、その為め二松学舎を世に出さうといふお考へであり
 - 第41巻 p.453 -ページ画像 
ました。それには二松学舎がこのまゝでは発展の見込がなく、如何にも残念である、どうしても専門学校を設け人の上に立つ者に儒教精神を吹込まねばならぬといつて、専門学校にする為めの基本金を募つて下さいました。それは理事長尾立維孝氏の時代です。尾立理事長が、先生と相談しまして、先生のお邸に有力者を集められ、十幾万の金が集りました。この金を基本金にして二松学舎に専門学校が出来たのであります。
 かうして儒教精神を維持し宣伝しようと計られたのであつて、西洋の物質文明だけでは国家は成立たぬ、といふ堅い信念から出た御援助でありました。
 文章は必要のときには然るべき人に代作を依頼されました。私も両三度頼まれたことがあります。
 詩もお出来になると其道の人に相談をせられました、私も時に拝見しましたが成るべく筆を入れることを遠慮いたしました。晩年は必ず新年の詩を作ることにきめられていました。
 昭和二年に田園都市会社の多摩川園の『夢のお城』が出来ましたとき、先生を招待しました、私は二松学舎の諸教授と御供をした。先生をはじめ皆さんの詩や文章が出来ました、先生が、私にこれをまとめて序文をかくようにと懇望されました。そして出来たのが『玉川唱和集』であります。
      青淵先生の詩
 新阡先喜映朝光。四望山川引興長。商不二価耕譲畔。果然義利両全郷。
    賀田園都市会社事業発展
 二松学舎の理事長に尾立維孝といふ人があり、あるときの会合が学舎の部屋○舎長室でありまして、先生がお帰りになるので私等は玄関まで送つて出ました。すると先生は尾立氏をかへりみて『御承知でせうが私のところでは毎月陽明学を皆で勉強してをります。貴下も時には、お出になつては如何ですか』と出席を勧誘されました。それに対して尾立氏曰く『私は常に陽明学を実行してをりますから、今さら講義を聴く必要はありません。』と、この不遜な応へに対して先生がどう申されるかと思うていると、先生は『ハヽヽヽヽ』と顔色ひとつ変へずに笑つて去られました。私はこの様を傍観してゐて、先生が尾立氏にどんな感じをもたれたか、知るよしもありませんでしたが、私は氏の学者らしくない態度に顰蹙すると同時に、先生の測り知られぬ大量をしみじみ感じました。
 私も幾度か飛鳥山のお邸に先生をお訪ねしたことがあります。いつもお忙しくて、訪問客が何人か押し合つていました。順番が廻つて来て私の番になると、お忙しい最中でも、他の仕事を忘れてしまつて懇懇と御叮嚀にお話し下さり、少しも忙しいといふ素振りをお見せになりませんでした。『仁者は人を愛す』と申します。先生こそ真の『仁者』であられたと思ひます。
 また『仁者は寿し』とも申します。果して先生はその通りであつてあの様な長寿を保たれました。
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 箱根の小湧谷に友人二・三人と先生をお訪ねしたことがあります。いろいろ道義上の話がありまして、帰りに大きな西瓜を土産にもらつたことを憶えてをります。
 陽明会に秋月左都夫といふ昔の外交官なる老人が今は八十五・六でしようか、よく出席してゐました。先生とどういふ知合ひだつたのか知りませんけれども、先生に深く信頼していられたやうです。
 先生と東敬治氏(正堂)との関係は長州の村田清風といふ人の孫さんで、東京に在住する実業家があります、この人に訊ねたらかなりわかる筈です。
 左様ですね、水戸学と先生との関係については何ら聴いてをりませんが、尾高先生が水戸学の感化を大いに受けられ、其を通して先生も水戸学に心を寄せられたことは、私もはたから感じていました。
 先生が最後の病床から○十月八日篤二氏を通じて東京全市に発表された言葉の中に、『自分が死ぬのは病気が悪いので、天が死なせるのだ。自分は永久に皆様の中に活きる』といふ意味のことがあります。その時に私は、これは論語の思想だと思ひました。
 孔子についてかういふ話があります。或人が孔子に対つて、『いつまでもそんなにあくせく働くのは止めて、いゝかげんになさつては如何ですか』といひました。すると孔子は、『自分は人間であつて禽獣の仲間入りは出来ぬ、自分はこの世の人と一諸に居らずして何処に居らうか。』と答へられたといふことです。
 私はこゝだなと感じました。先生の思想は孔子の思想です。先生は『論語』によつて思想を鍛へられました、先生の人格は儒教精神の権化であるといふふうに思ひます。

竜門雑誌 第六三七号・第三―五頁昭和一六年一〇月 渋沢子爵追憶談 井上哲次郎(DK410093k-0009)
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竜門雑誌  第六三七号・第三―五頁昭和一六年一〇月
    渋沢子爵追憶談           井上哲次郎
○上略
      二、儒教に関する追憶
 渋沢子爵は明治・大正・昭和にかけて我が国の実業界に於ける巨頭であつたことは今更云ふまでもないが、他の実業家と異つて一生の事業を貫いた儒教の考へがその特色をなして居つた。ほかにも多少儒教の思想のあつた人もあつたであらうが、子爵は確かに群を抜いて居たそして論語と算盤と云ふことをよく云はれた。これは我日本に於てのみならず、支那に行つて演説された時にも論語と算盤と云ふことを説かれた。子爵の一生は論語と算盤と云ふ考へを以て貫かれたと云つてもよからう。論語には確かに経済の事も説いてある、但し道徳を以て基礎としたる経済である。孔子は「君子ハ義ニ喩リ、小人ハ利ニ喩ル」と云はれたように、決して功利主義の人ではなかつた。云ひ換へれば理想主義の人であつた。そして儒教の正系統即ち曾子・子思・孟子の系統では孔子を理想主義の人として論じて来たものであるが、傍系統では功利主義を唱道した。傍系統とは子夏より荀子に至るまでの人々である。その系統を受けた人は我が国では荻生徂徠・太宰春台等であつた。ところが明治年間になつて三島中洲と云ふ人が「義利合一論」を
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唱へた。それは義と利とは一致するものであると云ふ考へ、必ずしも功利主義ではないが、それなら理想主義かと云ふと、さうでもない。「人ノ仁義ハ利欲中ノ条理ニテ義利合一相離レズ」と云ふのがその立場である。三島中洲の「義利合一論」は東京学士会院雑誌第八編の五に出て居る。
 渋沢子爵の論語と算盤といふ考へはやはり「義利合一論」であつたこの二人の説は自ら一致して居るところから、あなたもさう考へて居るか、私もさう考へて居ると互にその説の同じであることを喜ばれたのである。子爵は三島中洲の説に依り論語と算盤と云はれたのでもなく、三島中洲が子爵より「義利合一論」を得たのでもなく、二人の説が自ら一致したのであつた。子爵は『論語講義』と題する二冊の本を著はされたが、これは確か二松学舎より出版されたやうである。二松学舎は三島中洲の塾である。それから子爵の著はされた「処世の大道」と云ふのはひろい意味の論語の解釈とでも云ふべきもので、これは広く大衆に読まれたものであらう。子爵はそのやうに儒教に対する趣味の深かつた人で、殊に論語を愛読された。そして嘗て穂積陳重博士に論語に関する書物を蒐集することを依頼された。そして論語異本註釈等、随分沢山蒐集されてあつたやうだが、大正十二年九月一日の震災の時に焼けてしまつたさうである。誠に惜しいことであつた。子爵は林泰輔博士に依頼して『論語年譜』を編纂せしめられた。『論語年譜』といふ標題は如何にも異様な感を生ずることを免かれぬかも知れぬけれども、兎に角有益な文献である。それから陽明学会を設けられ、時の陽明学者東敬治氏を招いて陽明学を講ぜしめられたようなこともあつた。是等の事はとても他の実業家の及ぶところではなかつた。子爵は論語を愛読されたと云ふところから必然に推測されることは、孔子を尊敬されたことであつた。したがつて湯島の聖堂に対しては、精神的にも物質的にも援助されたことが多かつた。あそこには斯文会があるが、いつも宮様を総裁とし宮様の下に会長はあるが、その頃徳川公が会長であつた。会長の下に副会長がある。ある時代には自分と子爵が二人副会長をして居たことがある。湯島の聖堂は大震災で焼けてしまつたので、今のやうに再度建築することに関しては子爵があづかつて大に力あつたことを忘るべきでないのである。
○下略