デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
2節 神社
2款 諏訪神社(埼玉県)
■綱文

第41巻 p.492-501(DK410103k) ページ画像

昭和2年10月22日(1927年)

是日栄一、当神社祭典ニ参列シ、桃井可堂記念碑除幕式ニ臨ミ、渋沢治太郎宅ニ一泊ス。


■資料

集会日時通知表 昭和二年(DK410103k-0001)
第41巻 p.492 ページ画像

集会日時通知表  昭和二年        (渋沢子爵家所蔵)
十月廿二日 土 午前八時埼玉県八基村ヘ御出向(自動車ニテ)
        午後一時半桃井可堂先生記念碑除幕式 青淵先生米寿記念品献呈式(八基小学校)
        午後三時サヽラ舞参観(養蚕組合市場)
        夜血洗島之諸氏懇談会
        中之家ニ御一泊


竜門雑誌 第四七〇号・第一―五頁 昭和二年一一月 故郷を訪ねて 青淵先生(DK410103k-0002)
第41巻 p.492-495 ページ画像

竜門雑誌  第四七〇号・第一―五頁 昭和二年一一月
    故郷を訪ねて
                      青淵先生
 十月二十二日故郷八基村へ赴いたに就ての談話をせよと云ふことであるが、特に書き立てる程の事柄もありません。たゞ今回は例年の帰省と異り用件が三つありました。即ち一つは鎮守の祭礼で、これは九月二十七日の筈であつたのが悪い病気の流行の為め延期して居たのであります。又一つは桃井可堂先生の記念碑除幕式、尚ほ一つは私が米寿に達したと云ふので集会を催してくれましたので、それに出席する為めでありました。
 故郷血洗島の祭礼は、私が子供の頃から心になじんで居るもの故、毎年都合をして参ることにして居ります。先づ氏神に参詣し、稚い頃
 - 第41巻 p.493 -ページ画像 
から目に馴れた獅子舞を見て楽しむのであります。私は血洗島を二十四歳の時出ましたが、何んと云つても自分を生み且育てゝ呉れた所であり、又先祖や父母の墓所もありますから、別して大切に思はれ、いろいろの感想も湧く訳で、子供の頃大きな川だと見て居たものを今は小さく感じ、幼い頃非常に遠いと思つた所が、意外に近いと云ふやうなことも屡々あつて、目に触れ耳に聞くもの、一つとして懐しい思ひ出の種ならぬものはないのであります。殊に一年一度の秋の祭を見ては、真に子供の頃に還つたやうな、何とも云へぬ嬉しさを感ずるのでありますが、今年も同じ感想を得たことは申すまでもありませぬ。
 可堂桃井先生は今八基村の一字になつて居る北阿賀野村の貧しい農家に生れたに拘らず、苦学力行江戸に出で、東条一堂先生の門に入り漢学を修め学者として世に出でた人であります。当時漢学を習つた人は殆んど尊王攘夷論者であつて、可堂先生も其の例に洩れなかつたが私なども多少とも漢学を学んだだけに同じやうな思想を持ちました。先生は六十歳近い年齢であつたけれどもなかなかに尊王心が強く、幕府が外国との通商を勅許がないのに締結したことを甚だしく憤慨し、又其の夷狄と称して居た外国船の頻りに来航するのを、恰度支那宋朝の末北方の金或は元が中国を襲ふて遂に宋を亡した時の状態に等しいとして大に憂へ、又忽必烈が日本を攻めたとき敢然として起つたから彼の様な勝利を得たのである、此場合に於ても同様であるから直ちに排斥せねばならぬなどと論じたのでありました。
 私共も同じ様な意見を持ち、尾高藍香先生を中心として渋沢喜作・尾高長七郎・私など所謂梁山泊を組織して暴挙を行はうとしたのでありますが、可堂先生は其の仲間ではなかつた。可堂先生は最初漢学生の学問的憂慮で江戸にあつて議論して居たが、遂には田舎の方に或る思ひ入れを持つたと見えて郷里へ帰つて参りました。そして私共は未だ青年で可堂先生とは年齢が非常に相違して居りましたが、私達の主脳者と仰いで居た藍香先生は既に三十四歳になつて居りましたから、可堂先生と昔語りなどをして頻りに懇親にし、時世を慨し、外交を論じて居る内、双方に何事をか企てやうとする心があつたから、自然に相知るやうになり、其内討幕の軍を起すと云ふ主義の一致から、文久三年の秋頃協力して旗を挙げやうと両人の間に話合ひが出来た模様でありました。かくして藍香先生は喜作と私とに、共に事を起すに就ての内談をしましたが、私共の考へは或は浅かつたかも知れないけれども、協力して旗を挙げるのは考へもので、事を誤るもとになるであらう、斯様な事柄は衆を頼むべきでなく、我々のみでやらうと力説し、結局一緒にやることを断りました。今から考へると、小人数で事を計らうなどとは無謀なことであるが、私共はやり遂げ得られると信じて居たのであります。可堂先生等の主張は、兵を挙げる時の主脳者は家柄が大切であるとて、新田義貞の血統と云はるゝ岩松満次郎を推して謀主にしようと云ふので、其の心事は真に国家の事を憂へて居るのでなく、単に時の幸福を待つものゝ如く思はれる節もありましたから、程よく相共に事を行ふことを断つたのでありました。すると私共の方は形勢を見る為に京都へ行つて居た尾高長七郎が帰郷し、暴挙の不可
 - 第41巻 p.494 -ページ画像 
なる所以を極力説いたので、私等は大に驚き、大いに議論したが、結局説破せられて、此処に私達同志の兵を挙げる企ては中止し、色々に後始末を為しました後、私と喜作とは浪人となつて京都へ参りましたすると其内長七郎が江戸へ出る途中戸田の辺で間違を起して捕縛せられ其関係から、嘗て私共から長七郎に出した手紙が一つの嫌疑の的となり危険が身に迫るやうなことになつたので、已むなく一ツ橋に仕へることになりました。然るに桃井先生は其のことを企てゝ居る内に手違を生じ、岩松氏が謀主たることをどうしても応諾せず、さうこうして居る間に謀が洩れ幕府の詮議が厳しくなりましたから、嫌疑者を多く出すにしのびないとして、可堂先生自ら全部の責を負ひ、川越藩に自首して出たので直に捕縛せられ、其後福井藩にお預けになつて居たが、世の成行を憂憤した末絶食して遂に逝かれたのであります。
 斯様に既往を顧みると、人の運命は真に分らぬもので、誠に感慨無量であります。可堂先生と私とは故郷を同じくしたとは云へ、年輩も違ひ、出所も異つて居りましたから、深く交りは結びませんでした。併し先生に二男があり、兄を之彦、次を直徳と称しました。二人共私とは同じ年頃であつたから、私が大蔵省に出仕して居た時、民部省と大蔵省とに推薦して倶に循吏の聞えがありましたが、短命で世を去りました。直徳君に五男がある内、長男可雄君は横浜の渋沢商店に入り生糸輸出の業に従ひ、季の健吾君は石井氏を冒して現に第一銀行の副頭取として経済界に知られて居ります。之は何れも私が推薦したのであります。故に桃井氏とは古い縁故であり、又相当深い交りの間柄であると申してよろしいと思ひます。此様な関係から、此度八基村の教育会で先生の碑を建てるに就て、私に碑文を書くことを委嘱されましたので、漢文よりも仮名交り文がよからうと、之を草し、先頃表面の字と共に書きましたが、此等の彫刻も終り、建碑もなりましたので、其の日除幕式が行はれたのであります。碑は字の鎮守の境内に建てられて居りましたが、此所では除幕のみに止め、更に小学校で除幕式が行はれましたから、此席に於て先生の行動、当時の歴史などを話して祝辞に代へました。可堂先生の生れた村はこれまで未だこれぞと名のある人は出て居なかつたのでありますが、先生のやうな方があつた上其の後に右の如く有為の士が生れたことは誠に心強いことであります従つて私も碑文を書くに当つては意を傾け情を尽した積りでありますから、心ある人は肯定して之を読んで下さるだらうと思ひます。又其の子や孫と此の如く懇親でありますのは、単に私が推薦する為めに推薦したのでなく、双方の情意が相通じたからで、道理に基き、朋友としての信を尽し義を重んじて交つたと、自ら深く信じて居るのであります。
 私の米寿の祝賀は、甥の渋沢治太郎等が世話役となり、是非にと申しますので受けることにしました処、新らしく出来た養蚕に関係した公共的建物を式場に当て、私を其処へ招待して、大したものではないが、質朴に真情の溢れた会を催してくれましたので、私も心からそれを受けました。尚ほ余興として私の好きな獅子舞を見せられたので心嬉しく思つたのであります。
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 其の夜は血洗島の生家で、村方の人々の摺子『サヽラ』獅子舞に興を催しました。当夜は村内の人も参り、相当広い庭に一ぱいとなり、実に文字通り歓を尽しました。そして翌二十三日は父母・祖父母其の他の人々の展墓を為して後、直ちに帰京したのであります。
 前にも述べた如く、私の故郷を訪ねる時には、何時でも心静かに一日を送るのが例でありますのに、此度は祭礼のみならず、桃井可堂先生の建碑除幕式及び私の米寿祝賀と云ふ三つものが重なつて居ましたから、特に此の旅行は忙しく且別の趣があつたのであります。
                    (十一月五日談話)


竜門雑誌 第四八一号・第三〇〇―三〇八頁 昭和三年一〇月 郷党及親戚故旧に厚き青淵先生 穂積歌子(DK410103k-0003)
第41巻 p.495-500 ページ画像

竜門雑誌  第四八一号・第三〇〇―三〇八頁 昭和三年一〇月
    郷党及親戚故旧に厚き青淵先生
                      穂積歌子
 青淵大人の米寿記念号に、私に郷党及親戚故旧に厚き青淵先生と申す題で、感想を記せと云ふ御申聞けであります。至極適当な題の様に一寸は思はれますが、よく考へると私は適任では無いのであります。何故ならば、常に日当りのよい場所で不足なく日光に浴して居る者は稀れ稀れ天日を仰ぎ得るものに比して其恩恵を感じることが割合深く無いものでありますから。実に私共が大人から蒙つて居ります精神上物質上の恩恵に比べては、海も浅く山も低い程であります。せめて万分一の報恩に少しでも孝行らしく致したいと心掛けますが、大人はこちらから致す慰めはいさゝかでも深く喜んで受けられますが、あちらから要求せらるゝことは絶対に無いのであります。又姻戚の親子関係の人々に対しては学者なり官吏なり会社員なり各々の本分と公職を深く尊重せられ、其成功をば心から欣んで下さりますが、どの様な場合でもその行為に干渉するとか、強ひて長者の意に随はせようとするとかいふ様な我儘は微塵もないのです。前かたは公の事に付いて銘々見解を異にした節、相応に議論を戦はし互ひに譲らなかつた場合も稀には有りましたが、その為に立腹するとか機嫌を損じるなどいふことは露ばかりもありませんでした。故穂積はことに其大海の様な雅量に深く敬服もし感謝も致して居つたのであります。
 これ程孝行の致しよい親は又と無いと有難く思ひながら、恵に狎れて機嫌伺ひの訪問などもついつい怠りがちになります。多数の孫曾孫の中、曾孫の幼少な人達には名も顔も覚えて頂き得ぬものもありますが、蒙つて居る恩恵は皆一様であります。子や孫に対する慈愛は別として、外のことを考へて見ませう。
 大人の父上市郎右衛門様は境遇上広く名は表はれませぬが、実に立派な人格者であられたことは屡々懐旧談で物語られる通りでありますが、とりわけて文久三年の秋郷里を去られる時、家に及ぼすべき後難を慮り勘当を請はれた処、「もし御前が左様な悲運に立到ることがあらば、近親としてはそれを分担するが人間の道である」と仰せられて御聞入れが無かつた広大なる御慈愛には、六十余年を過去つた今日まで感激に堪へぬと常に云はれて居ます。然るに大人がいよいよ立身なさるべき曙光を見られたばかりで御逝去になり、孝養を尽すことが叶
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はなかつたことは、大人にとつて終生の恨事と御察し申上られます。
 大人の幼時の保育に付て母上の心尽しは一通りでなく、春の朝秋の夕肌寒い風が吹く折に、遊びに出て居る愛児の跡を、子供の羽織を抱へて追ふてあるく母上を、村人がよく見かけたと申すことであります実に大人の健全な精神と身体とは、この厳父慈母のたまもので御座りませう。
 明治十五年の夏に早く世を去られた私共の母上千代子刀自に対しては、許多の年を経た近年に到つて懐旧の情が益々深くならるゝ様に存じられます。忌日は元より其外でも折にふれて、度々郷里の家を立ち去つた時のことを語り出でられて「千代子が男勝りの健気な気性であることは知らぬでは無かつたが、其時代の古風な考へから、女わらべに実際を知らして哀別の悲劇を演ずるよりも、それとなく別れる方がよいと思ふて、只一時の伊勢参宮及び京都見物の旅行の様に云ひなした処、千代子から道理正しい怨言を受けて其堅固な覚悟に感じ入り、改めて実情を告げ後事を託したのであつたが、あの時の千代子の心中今に到つても同情の涙が浮ぶ、又其後家を省みずに過した六年間、両親に孝行を尽し家を守つて呉れた心尽しは今更に感謝に堪へぬ」との仰せを度々うけたまはります。亡き母の霊も歿後五十年に近い歳月を経て斯くまで厚く追憶して頂くことを嘸かし嬉しく思はるゝで御座りませう。
 尾高惇忠先生は元から親戚である上に、大人十歳の頃から漢学の師として教を受けられ、後義兄弟の関係を生じ親しみが増した上に、憂国の義挙の首脳として重ね重ね縁故の深い間柄故、先生に対する情誼は至つて濃やかであられ、殊に惇忠先生は小聖人とも云ふべき人格者であられましたから、先生の晩年深川で隣家に住居の頃は、度々大人の許に来られて一緒に夕食をとられ、四方山の御話やら昔語りやらをせらるゝのが、御互ひに如何にも楽しげに見上げらるゝことでありました。
 尾高長七郎殿に対しては深く深く恩義を感じて居られまして「あの当時憂国の志が燃え立つた際のことゝて実に無謀な事を企てたのであつた、其節長七郎が京都から帰つて来て切諫してくれなんだなら、徒党の人々は皆捕縛せられて無告の鬼と為つたであらう」と常に申して居られます。然し私共から考へますと、大人程な有徳な人には自ら天祐が有つて、其場合たとへ長七郎殿の諫止が無く、事敗れて一同が獄に繋がるゝ様な事になつたとしても、大人に限つてやみやみ徒死する様な場合には立ち至らなんだであらうと思はれるのでありますが、大人は決して左様には考へられず、其以後の生命は全く長七郎殿の賜ものであると信じられ、長七郎殿が志を抱きながら空しく病死されたを悲み、六十五年間常に感謝と哀惜の念を以て追憶して居られ、最近にも「我が生涯に最も多くの涙を灌いで繰返したものは、元治元年に長七郎が江戸の獄中から京都の自分の寓所に送つて来た書翰である」と語られました。
 渋沢平九郎殿は義弟である上に慶応三年の渡欧に際し、見立養子に定められた間柄であります。徳川幕府の瓦解に当り、一片の義侠心か
 - 第41巻 p.497 -ページ画像 
ら終に討死するに立至つた運命を深く憐まれ、且一面には其節大人は洋行中であつた為、徳川幕府に対する情誼を充分尽せなかつたのを、代つて果した様に考へられて、一層同氏の薄命を気の毒に思はれるのであります、「平九郎は彰義隊に加はる為寓所を出た時、僅か二十二歳であつたが、寓居の障子に『楽人之楽者憂人之憂、食人之食者死人之事』といふ韓信の語を大書した悲壮な振舞から見ても、将来有為な人物であり、且眉目秀麗な好い青年で有つたのに」と、これも最近追憶談をせられたことであります。
 大人の兄弟姉妹は実に十余人であつたさうですが皆夭折して、成長せられたのは姉上と大人と妹御との只三人であります。姉上は故吉岡新五郎氏の母上で、早く吉岡家に嫁がれました故、妹御の貞子殿に須永家から市郎殿が婿養子に入られて、郷里の渋沢家の跡目を嗣がれたのであります。貞子刀自は昔の田舎育ちのことゝて、規則立つた教育は受けられませなんだが、天性賢明な婦人でありましたから、自然大人と御話が合ひ、友情が深かつたのでありますのに、大人に比してはことの外早世せられたのであります。猶在世であらるゝならば、年々故郷の家の訪問も一層御楽しいことであらうのにと、いまだに遺憾に存ぜられます。
 多数の親戚へいづれおろかはなく深切を尽されますが、其中とりわけて、従兄の渋沢喜作氏に対しての情誼は非常に厚いことでありました。明治十二・三年頃から後数年間に亘り、同氏の事業が大に困難に陥つたことがありまして、其援助の為大人は深甚な配慮も致され、多大な犠牲も払はれたことが数回ありました。実に子でも兄弟でもこれ程の御世話には預り得られまいと思ふ程でありましたが、これは単に親戚の情誼のみでは無く、其昔憂国の志を同くし、死生を共にせんとした間柄で有るのに、同氏は大人に比しては不遇な運命であるのを、深く深く同情せられて、同氏の家道の挽回を根本的に援助せられた次第であると存じます。
 一人出家すれば九族天に生ずといふ譬の通り、親戚は云ふに及ばず幾分の縁故ある者は、直接間接に余光を受けて居らぬものは有りません。大人には毛頭依怙の沙汰は無いのですが、御蔭によつて過分な位置待遇を得て居るものが、多々有りまして、勿体ない次第で御座います。
 概して申しますれば大人の情と愛は、自然と道理とがおのづからよく調和が出来て居るものと云ひ得らるゝと存じます。
 徳川慶喜公の知遇に対しての報恩の志、及び一橋家の用人平岡円四郎氏が人を知り士を惜むの明が有つて、京都流浪の時代に、大人と喜作氏とを窮地から救つてくれた厚情に対する感謝の念の深いことについては、大人と懇親な方は、屡々其懐旧談を聞かれて御承知のことゝ存じます。総じて大人は人から受けた恩義及び厚意等を深く感じて末長く忘れることの無いに反し、人を怒り人を憎むといふことは極く稀れで、若し有つたとしても直ぐ打忘れてしまはれます。大人が青年であつた時代、郷里で親戚の年長者の一人に、至つて我儘な人が有りまして、始めの中は大人の学才を褒めそやし、「自分の親類中にこの様
 - 第41巻 p.498 -ページ画像 
な秀才が有る」などと自慢もして居たが、追々大人の学才が其人より遥かに優つて居ることを知ると共に嫉視する様になり、常に意地の悪い事や皮肉な事ばかり云ふ様になりました。心の広い大人も腹に据かねることもあつたさうですが、議論して其人をやりこめなどをすると親類間に面倒を生じ、父上に心配を掛けることにもなるべき事情が有つた故、いつも口を箝んで堪らへられたさうです。若年の時のことではあり、流石の大人も其憤懣は余程印象が深かゝつたと見え、折にふれてその悔しかつたことを話し出されますが、然しいつも斯様に付け加へられます「人の勉学修業には傍からの刺戟が大なる功を奏するものである。後になつて考へればあの人の意地の悪い言行が、大いに自分を鞭撻してくれたのであるから、決して恨むべきでは無い」と申されます。斯様に何事も善い方にのみ解釈せらるゝのが大人の天性であります。それ故大人には世界の人類が皆友人であつて、敵視なさるゝ者は一人も無いのであります。
 郷党及び郷里に対する情誼は頗る厚いものであります。郷里八基村の育英事業及び農村振興の為又思想善導の為に、長年間多大の援助をして居らるゝことは申す迄もありませぬが、高年になるにつれて益々故郷を懐しむの情が加はりまして、毎年の秋血洗島の鎮守諏訪神社の祭礼を楽しみにして、必ず帰郷せられます。そして其昔の若い衆仲間であつた人々と懐旧談をなされるのが何よりも嬉しいことの様に見受けられましたが、其人々も追々に故人となりまして、今血洗島で大人を待ち迎へる人々は、旧友の子或は孫と代がかはりました。然し大人はいか程老年になつても時代に応じて新しい思想を了解なさることが出来、且何人をも寛容なさるゝ性質でありますから、父祖に対してもたれたと同じ温情で子孫を遇されます。それ故大人一人を先方は祖父から三代に亘つて皆友達の様に感じて懐しんで居ります。
 血洗島村の鎮守諏訪明神の本社は至つて規模の小さい建物でありますが、これは文久二年頃に其以前の社殿が大破したに付、其当時の村の若い衆であつた大人や喜作氏等の尽力で造営が出来たのであるとのことです。其後長年間格別の拡張も出来ず、本社と鳥居のみの一小村社に過ぎぬ体裁であつたのを深く遺憾に思はれ、帰郷の度に村の人々に向つて「日本人は誰しも敬神の念が厚くなければならぬが、取分け農村にあつては、鎮守の神を中心として、心を揃へて業を励み其祭礼の時を機として共に楽しむといふ古来の好風俗をば永遠に尊重せねばならぬ」と説き聞かせられまして、神社造営のことを親らもつとめ、村人をも勧誘せられましたが、大正五年に至り漸く大人の希望が実現して、本社には石の玉垣が廻らされ、拝殿が造営せられ、桑原麦畑に囲まれる村社としては、なかなか立派に輪奐の美が見られることになりました。社殿落成して遷宮が行はれた時には、大人は関係の大会社の大建築が落成した時よりも、自身の邸宅の新築が出来た時よりも数倍優つて心から歓喜せられました。
 八基村地方の神社の祭礼には昔から「さゝら」と云ふ一種のしゝ舞が催ふされます。秩父神社にも同じ型の舞がありまして、先年秩父宮殿下が同神社御参拝の時に台覧に供へ奉つたよしを、其当時の新聞紙
 - 第41巻 p.499 -ページ画像 
で承知致しました。其さゝら舞のしゝ頭は木彫で、顔が長くいかめしく、枝のある角が生へて居て婉然竜の頭であります。顔の長いのと角のある処から考へますと、しゝは獅々では無く、鹿の古語のしゝであつて神鹿の舞から転じ来つたものでは無いかと思ひます。伊予の宇和島の神社の祭礼には八ツ鹿といふ舞が出ますが、舞ひ手の子供のかぶるものは至つてやさしい鹿の顔で、さゝらのしゝとは一見似ても似つかぬ様ですが、元は同系のもので、関東では勇壮な形に、南国では優雅な姿になつたのでは無いかと思はれるのであります。
 其しゝ舞を「さゝら」と云ひそれを舞ふことを「擦《す》る」と云ふのは往昔は祭礼の舞曲の最初にびんざゝらといふ古楽器ん奏せられた故であつたが、いつしか其拍板は止められて、其名ばかりがしゝ舞の名称となつて残つて居るものと思はれます。諏訪神社祭礼の日には一同社務所で仕度をとゝのへ、まづ棒遣ひといふて長短各々一筋の棒を持つた人が二人、次に雄獅々雌獅々及び「法眼」といふ獅々の三かしら、其次には古代風な花のかぶりものを頂いたもの二人が、大勢の笛手の吹奏する「道下《みちくだり》」といふ行進曲につれて参道をねつて社前に到りまづ棒遣ひの型が演ぜられ、続いて其当年の「役者」の獅々舞が「一場《ひとには》」演ぜられます。それから夜に入つて其年の宿に当る家の前庭に集り、青年の者から追々に老成の人が出て数回の棒遣ひと獅々舞の巧拙を競ひ深更まで遊び楽しむのであります。獅々舞の頭の振りかた足の踏みかたいづれも勇壮活溌に演ずるのでありますが、其中雄獅々は新進気鋭の勢を現はし法眼は円熟老成の趣を見せねばならぬのださうです。
「役者」といふのは其年に始めて神前で獅子舞をつとめる者であつて村の人の子弟は十二・三歳になると必ず一度は其役者をつとめるのが慣例であります。大人の生家たる所謂「中《なか》の家《うち》」は代々雄獅々を擦るのが家例であつて、大人も十二歳の時に役者をつとめ、後八・九年間其技芸を練習して、相応に上達せられたものであるとのことです。
 維新後はいづれの地方も新知識の吸入に忙しく、古来の慣習などは省みられぬ有様でしたから、血洗島でもさゝらなどは閑却されてほんの形式が残つて居るに過ぎぬといふ程になりはてましたのを、大人は深く慨歎して居られました。明治四十年頃でもありましたか、諏訪神社の祭礼に帰郷されました時に、所の古老及び青年の人々を集めて、さゝら舞復興に付ての希望をことの外熱心に御説きなされました。其趣旨は「此血洗島一廓《ひとくるは》は、各々の祖先の代から鎮守の諏訪明神を中心として団結して居り、其祭礼はおのづがら村民親睦の機関と為つて居たのである。然るに近年は青年諸氏は獅々舞を田舎くさいとか云ふて一向に身を入れて練習せず、老成の人々も若い者に古いと云はるゝを憚つて真面目に指導もせぬ様であるが、斯くては遠からず此さゝら舞は跡を絶つに到るであらう。時勢の推移に応じて趣味の変り行くことを絶対に否認はせぬけれども、由緒ある慣例を訳もなく抛棄するは浮薄な風潮であつてとりわけ自然を尊重し、土に親しみを持たねばならぬ農村にとつては厭ふべき思想である。獅々舞を古いといふて止めにしたとて、代つてとり入れるものに好趣味のものが容易に得らるゝものでは無い。其隙に乗じて卑猥な道化踊様のものなど這入つて来るな
 - 第41巻 p.500 -ページ画像 
らば、一般の風儀にまで影響して甚だよろしくないと思はれる。さゝらは笛の曲も獅々の舞も、業務を打捨てゝ練習せねばならぬ程のむづかしい技芸では無いが、さりとて一寸の思ひ付や慰み気分で為し得らるゝものでは無い。難易の程度も適当なものなればこそ、遠い昔から伝はり来つた神事である。祭礼の十数日も前から村の老若が毎夜一と所に集つて吹奏舞技を練習し、各自其巧みを競ふといふ風習は頗る掬すべき野趣が有つて床しいことであるのみならず、其集会によつて各自意志の疏通も知識の交換も為し得られて、農村自治の上にも好影響を及ぼすことゝ思ふのであるから、何卒諸君奮つて、此さゝらの神事復興に尽力せられんことを希望致す」と云ふ様な趣を、恰かも国家の経済を論議せらるゝ時などと同じ熱誠を以て演説されたのでありました。大人のこの訓戒に村の人々は大に感激して、其後一同心を揃へ、斯の道に老練の人々は指導につとめ青年の人々は練習に励み、両三年の中に笛曲も舞技も復旧の上に進歩を見得ることになりまして、年々の役者に当る少年達は勿論、青年の人々も老成の諸氏も老子爵の観賞に預りたいといふはり合で益々其技芸を勉強して居られます。大人はこれを深く満足に思はれて、毎年の秋の祭礼に必ず帰郷して神前に於ての一場、中の家に於て四五場を見るのが無上の御楽しみなのであります。笛の音に耳を傾け指先で拍子をとり、獅々舞の足どりに連れて少し首を振り、余念も無く見入つて居らるゝ様子は、私共が能楽或は演劇で入神の芸を観る時よりも数倍の熱心であられます。此時の老子爵の胸裡には、平生さしも重きを措かれる政治も、実業も、社会事業も、国際親善も消え失せて、只一つ愛郷の楽天地が有るばかりのやうに見受けられるのであります。誠に大人の慈愛は、之を大にしては世界国土人類の上に及び、之を小にしては一村社神事の獅々頭にとゞまるとも申し得られませうか。大人愛誦の論語の一句「老者ハ之ヲ安ンジ朋友ハ之ヲ信ジ少者ハ之ヲ懐ケン」が即ち青淵先生其人の心事と存じます。



〔参考〕集会日時通知表 昭和三年(DK410103k-0004)
第41巻 p.500 ページ画像

集会日時通知表  昭和三年       (渋沢子爵家所蔵)
十月七日 日 午前七時五七分赤羽駅発
       血洗島ヘ御出向
       御一泊ノ予定
  八日 月 血洗島ヨリ御帰京



〔参考〕集会日時通知表 昭和四年(DK410103k-0005)
第41巻 p.500 ページ画像

集会日時通知表  昭和四年       (渋沢子爵家所蔵)
十月七日 月 午前九時四五分血洗島へ御出向(赤羽駅発)
  八日 火 午後四時四十七分血洗島ヨリ御帰京(赤羽駅着)赤羽駅ヨリ電車ニテ王子駅ニ御着御帰邸



〔参考〕渋沢栄一書翰控 渋沢治太郎宛 昭和五年一〇月三日(DK410103k-0006)
第41巻 p.500-501 ページ画像

渋沢栄一書翰控  渋沢治太郎宛 昭和五年一〇月三日   (渋沢子爵家所蔵)
拝啓、秋冷の候益御清適奉賀候、然ば来七日血洗島諏訪神社御祭礼に付て特に笠原・吉岡・渋沢三氏御上京御来訪被下、敬三と共に飛鳥山
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拙宅に於て会議致、貴台始め関係者諸氏の御厚情篤と拝承感佩致候処御承知の通り兎角健康十分に無之、医師も頻りに懸念し自身としても極力摂生に注意致居候次第に有之、自然今回の祭礼に付ても必ず参上致兼候と申程には無之候得共、然りとて確に御引受も致兼候次第に有之、此辺の事情詳細申上、貴方諸氏の御好意は拝謝致候も御祭礼に参列の義は相叶兼候旨申述、三氏も御了解被下候次第に御座候、右御諒承被下、関係者諸氏にも可然御伝声被下度候、笠原氏等態々御上京被下候義は真に恐縮千万に有之、敬三と共に深く拝謝罷在候間、右よろしく御伝へ被下度候
右不取敢得貴意度代筆如此御座候 敬具
                    渋沢栄一代
    渋沢治太郎殿
(欄外記事)
 [昭和五年十月三日