デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
2節 神社
5款 財団法人明治神宮奉賛会
■綱文

第41巻 p.566-569(DK410111k) ページ画像

大正7年6月1日(1918年)

是日、当奉賛会ヨリ明治神宮造営局ニ設計及ビ施工ヲ委嘱セル明治神宮外苑ノ地鎮祭挙行セラル。栄一参列ス。


■資料

中外商業新報 第一一五五六号大正七年六月二日 ○地鎮祭 明治神宮外苑に於ける祭典(DK410111k-0001)
第41巻 p.566 ページ画像

中外商業新報 第一一五五六号大正七年六月二日
    ○地鎮祭
      明治神宮外苑に於ける祭典
明治神宮外苑地鎮祭は一日午前九時から執行された、老杉巨松前夜の雨に湿つて自ら涼気人に迫る北寄りの一境
△斎竹を廻ら して祭壇を設けた、五色の帛を垂れた一対の真榊が祭壇の両端に置かれて軽い風を受けてゐる、波多野宮相・水野内相・徳川公・井上元帥・田尻市長・渋沢男・徳川頼倫侯・藤波子・奈良軍務局長・岡田警視総監など約三百人に垂んとする参列者が幄舎に威儀を整へて立つ、型の如く簫篳篥の音が起つて一同敬礼をする、司祭久保直隣氏が直衣の裾を
△浄砂に曳き つゝ直前し、大麻を取り祝詞をあげ降神の請をなせば一境森厳の気に蓋はれて絶えて人語もない、斯かる中に副司祭西氏は真榊を取つて地を掃ふ型をする、地鎮祭は之で終り、参列の諸員順次に祭壇に進んで玉串を奉り、今や移築の功を終へた憲法記念会館を参観して散会した、時に十一時、帰途を代々木へする者と原宿へする者とは、共に両側に植付けられた諸方よりの献木の若葉に栄てゐるのを賞でた。


竜門雑誌 第三六一号・第八〇―八一頁大正七年六月 ○明治神宮外苑地鎮祭(DK410111k-0002)
第41巻 p.566-567 ページ画像

竜門雑誌 第三六一号・第八〇―八一頁大正七年六月
○明治神宮外苑地鎮祭 明治神宮外苑地鎮祭は六月一日午前九時、青山練兵場中央三百余坪の地に於て厳粛に挙行せらる。青淵先生亦参列せらる。而して其光景の一斑は左の如くなりしと云ふ。
 △式場 外苑の中央に南面して設けられ、その囲りに白と黒の幔幕を張り、幄舎内には祭壇を神々しく飾られ、その四方には注連を張り、神座に神籬を置き、左右に二基の真榊をかざつて
 △五色帛 を滝の如く垂れた上に鏡玉と剣を懸けられ、祭場前面の
 - 第41巻 p.567 -ページ画像 
入口には斎竹を立て、参拝路には玉川の小砂利を敷き詰めて、左右に楽舎・神饌場・参列所等を設けて式場厳かに見えた、午前八時頃若草に煙る微雨の中を参列者は先づ外苑御造営青山工務所と書かれた建物に集まつて、其処から徒歩で祭場へ足を運んだ、此の日
 △御造営 総裁宮伏見貞愛親王殿下の御代理として副総裁の水野内相を始め、奉賛会長徳川家達公・波多野宮相・井上元帥・渋沢男・田尻市長・中野武営・岡田総監・貴衆両院議員・市府各名誉会員・郡市町長・奉賛会員等約三百余名が参列すると、祭員は
 △大麻を 執り塩湯を撒いて祓の式を行ひ、斎主久保日枝神社宮司は降神の儀を行ひ、神饌を献じ、此の間奏楽の声劉喨と青山の原頭に響き渡つた、更に又宮司は涼しい声で宣詞を読み上げ、副斎主宮西根津権現社司は宮地の四方祓を行ひ、次いで総裁代理の水野内相は玉串を献げ、徳川公と井上元帥とは参拝者総代として
 △玉串を 献じ終ると神饌は徐に撤せられて、神は再び昇天ましまし、地鎮祭はこれで式を閉じられたが、参拝者一同は特に憲法記念館の拝観を許されて、散会したのは十二時頃であつた。(都新聞)


明治神宮外苑志 明治神宮奉賛会編 第一一―一二頁昭和一二年八月刊(DK410111k-0003)
第41巻 p.567-568 ページ画像

明治神宮外苑志 明治神宮奉賛会編 第一一―一二頁昭和一二年八月刊
 ○第一編 造営
    第二章 外苑計画
 明治神宮外苑経営の目的は主として先帝先后を記念し奉るべき建造物を設け、兼て公衆の悠遊、逍遥するに適当なる庭園を築き、内苑と相待ちて神域を大成せんとするにあり。明治神宮奉賛会成立して、其募集する献金が予期以上の好成績を収めたるを以て、六年二月一日常議員会を開いて
 一、外苑の設計及工事施行を明治神宮造営局に委嘱す
 二、設計は奉賛会の希望に基き、其同意を得て決行すること
 三、設計の模様に依り必要なる敷地は既定敷地以外の民有地をも買収するを得ること
 四、工費は約四百万円と予定し、事業の進歩に従ひ別に定むる規約に依り支出すること
の四条件を議決し、翌日設計及施行方委嘱の件を後藤明治神宮造営局副総裁に申請せり。仍りて政府は六年度追加予算として外苑工事施行費を特別議会に提出して其の協賛を得、尋いで委嘱事務施行に関する法令を制定し、且つ関係職員を任命し、十月一日を以て本会の申請を認可せり。是より先五月、工学博士古市公威を設計及工事顧問に、工学博士日下部弁二郎・同伊東忠太を設計及工事委員に嘱託し、九月更に工学博士近藤虎三郎・同塚本靖・同関野貞・同佐野利器・林学博士川瀬善太郎・同本多静六・農学博士原熙を委員に追加し、委員会を開くこと前後十数回、斯くて外苑計画綱領及工事概算書を決定し、参考図を添へて、十月三十日造営局に提出せり。
 大正七年六月一日外苑地鎮祭を行ふ。水野造営局副総裁・徳川本会会長以下関係者一同参列し、久保日枝神社宮司、斎主として之に従ひ造営局を代表して水野副総裁、本会を代表して徳川会長、参列者を代
 - 第41巻 p.568 -ページ画像 
表して井上元帥玉串を捧げたり。同年十二月、造営局は本会提出する所の計画綱領に基き、慎重審議して、外苑造設大体計画図及説明書を決定し、本会は之に同意を表せり。
○下略



〔参考〕中外商業新報 第一一四一九号大正七年一月一六日 ○神宮奉賛報告会(DK410111k-0004)
第41巻 p.568 ページ画像

中外商業新報 第一一四一九号大正七年一月一六日
    ○神宮奉賛報告会
明治神宮奉賛会にては、一昨々年同会創立後計画の事業略終結に近づきしに付、十五日午後六時より帝国ホテルに於て、会長徳川家達公の名を以て同事業関係者を招待、晩餐会を開催せるが、出席者五十余名主人側よりは徳川公を首め渋沢・阪谷両男等出席の上定刻食堂を開きデザートコースに入るや、会長徳川公は起つて
 一昨々年明治神宮御造営を奉賛して創立したる本会は献金募集、神宮外苑建設の事業を企て、前者は予期以上の好成績を収め、外苑の設計工事は明治神宮造営局に委嘱し、略々事業の終結近づきたるを以て、玆に本会事業を翼賛尽力せられたる諸君に感謝し、併せて報告せん為め招待したる次第也
と挨拶し、是れに対し角田真平氏の謝辞あり、終つて阪谷男は同会長として詳細なる報告ありたる後
 予は諸種の寄附行為を要する事業に関係せしが、今回の献金募集の如き大好成績を収めたるを見ず、即ち予定額を超ゆること三百余万円に達し、其献金者は貴族富豪の如き一部階級に限定せらるゝことなく、各種階級を通じ其範囲亦全国津々浦々に及びたるのみならず海外同胞よりの献金意外に多額に上り、其額四十余万円を算し、特に南洋の果、我同胞移民の在るすら驚嘆すべき土地よりの献金を見るに至つては、是れ一に 明治英主の御遺徳の然らしむる処なりと今更ながら敬仰崇拝の念禁えず、而して又我国民特に海外万里異境に在る我同胞の忠君愛国の至誠の蒙露を見るに及び涙禁ずる能はざるものあり
と報告し、次て渋沢男亦起つて同会事業の成果は
 恐れ多くも万代不世出の英主を永久に斎き奉り、又更に国民至誠を記念するに至らん
との主旨の演説あり、同九時頃撤宴散会せり



〔参考〕竜門雑誌 第三五七号・第八一―八二頁大正七年二月 ○明治神宮奉賛会々務報告(DK410111k-0005)
第41巻 p.568-569 ページ画像

竜門雑誌 第三五七号・第八一―八二頁大正七年二月
○明治神宮奉賛会々務報告 明治神宮奉賛会にては、創立以来、熱誠を罩めたる国民の献金額が、最初の予想額四百五拾万円を超過すること約二百五十万円、即ち約七百万円余の多額に達して昨年末その締切を了りたる由なるが、右奉賛会の主趣たる明治神宮外苑工事も、既に大体の計画を定めて内苑の美と相俟つべく、其工事を明治神宮造営局に委嘱するの運びに至りたるより、一月十五日夕刻より爾来の献金状況の報告を兼ね、会務に尽瘁したる主なる関係者及び都下の各新聞社代表者等五十余名を帝国ホテルに於て招待して、会長徳川公爵・副会長青淵先生・理事阪谷男爵等の詳細なる報告及び謝辞等ありたる由。
 - 第41巻 p.569 -ページ画像 
 因に一月廿七日の時事新報に当夜の談として左の如き記事あり、録して以て先帝崩御の当時を偲ばん。
△市民が線路へ寝る 帝国ホテルで開かれた明治神宮奉賛会の会上で渋沢男が先帝崩御の時を追憶して語る、「先帝の御遺骸を東京市から外へ御移し申すなら、市民は線路へ寝て動かぬと云ふ決死的の決議を齎らして、其の代表者が自分の所を訪問した熱誠には私も実に動かされた」。阪谷男も亦語る。「実際あの当時の勢ひでは捨てゝ置いたら実行し兼ねない有様であつた、何しろ宮城前は人で足が地に付かない程だつたからね」と。席に列した人々の頭には、先帝の御英姿がありありと頭に浮かんだ云々。