デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
2節 神社
7款 日光東照宮三百年祭奉斎会
■綱文

第41巻 p.600-612(DK410127k) ページ画像

大正4年5月16日(1915年)

是日、川越町喜多院ニ於テ、星岳保勝会総会並ニ東照宮三百年遠忌法要執行セラル。栄一、総会ニ出席シテ演説ヲナシ、畢テ法会ニ参列ス。


■資料

渋沢栄一 日記 大正四年(DK410127k-0001)
第41巻 p.600-601 ページ画像

渋沢栄一日記 大正四年         (渋沢子爵家所蔵)
五月十六日 半晴
今朝ハ川越喜多院ニ於テ挙行スル保勝会総会ト、及東照宮三百年ノ遠忌ヲ修ムルトテ出席ヲ請ハレタレハ、午前八時起床入浴、朝飧畢リテ桑島某ノ来訪ニ接シ、九時半過ヨリ自働車ニテ川越ニ赴ク、十一時前同地着、喜多院ニ於テ小憩、直ニ昌谷県知事ト共ニ電気館ニ於テ大偉人ノ功徳ト云フ演題ニテ一場ノ講演ヲ為ス、聴衆満場立錐ノ地ナシ、畢テ寺院ニ帰リテ午飧ス、後本堂ニ開カレタル東照宮ノ遠忌ニ参列シ三時頃院内ニ挙行スル大名行列ヲ一覧ス、帰路川越町ニ新築セル図書館ニ抵リテ、学生一同ヘ一場ノ訓示ヲ為ス、午後四時川越ヲ発シ○下略
(欄外)
 - 第41巻 p.601 -ページ画像 
 此日川越町ハ近郷ヨリ多数ノ参観人来リ聚シテ、全町人ヲ以テ埋ムルノ有様ナリ、喜多院ノ境内モ地ヲ見ル事能ハサルニ至レリ


竜門雑誌 第三三一号・第二一―三七頁大正四年一二月 ○大偉人の功徳 青淵先生(DK410127k-0002)
第41巻 p.601-612 ページ画像

竜門雑誌 第三三一号・第二一―三七頁大正四年一二月
    ○大偉人の功徳 青淵先生
 本篇は、本年五月十六日、東照宮三百年祭執行の際、埼玉県川越町に於て開催されたる、星岳保勝会総会に於ける、青淵先生の講演なりとす(編者識)
知事閣下、高僧各位及び本会の役員諸君、今日は此星岳保勝会の総会でございまして、私も予てより本会には微力を添へ居りまするので、罷り出るやうとに云ふ遠賀御住職からの御通知を得ましたので、今朝来着致した次第でございます、殊に此総会は恰も東照公の三百年の記念祭に会し、当御寺院内には東照公の御社も祀られて居る、旁々深き御縁故もあるのでございますから、最も記念すべき日と思ひますので今日諸君と共に御当地の斯る名刹に於て、過越した昔を偲び得ることは此上もない愉快のことゝ存じまする、変つた事を申すやうですが、私は若い時分に欧羅巴へ旅行をしまして、仏蘭西に居つて、巴里及其他の都市を彼の国の人に案内されて見物したことがございます、さなくとも斯様のことは人の感ぜねばならぬのであるが、其時に感じたことを常に記憶に存して居ります、それは同行した仏蘭西人が、別段名高い学者とか政治家とか云ふ人ではないやうでございましたが、何れの都市へ参つても、先づ其地方の公共物を能く注目しろ、日本で申さばお寺とか神社とか、其地方公共の力に依つて存立されて居る、今日で申せば公会堂とか美術館とか、兎に角多数の人の力に依つて造設されて居るものを先づ以て注目すると、其地方の人情風習、更に進んでは其住民の人格までが大抵解るものであると教へられました、学者たらざる者すら仏蘭西の人は左様申したので、如何さま然ることであらうと感じたのであります、例へば私は埼玉県の田舎に育つた人でございますが、自分の所から三里ばかり隔つた妻沼と云ふ所に聖天宮があります、是は中々立派な社であるが、果して其近所の村落は多少富んで居る、又人柄も幾らか宜しい、今日はどうか存じませぬけれども、或は世良田と申す村方に大なる寺がある、長楽寺と申して徳川家に由緒がある、さう云ふやうな関係を、昔時に溯つて考へても、其言が道理であります、爾来東京に住居しますが、あの通り広い東京のことで中々私共の微力では思ふても考へても充分に行はれる訳ではないけれども、併し努めて此名所勝地又は由緒ある遺跡をば保存すると云ふことに、始終意を致して居ります、是は其土地の人格を現はすとまで言ひ得るやうに思はれます、単に其意味からばかりではございませぬが先年遠賀御住職に此喜多院のことを承りまして、嘗て南光坊天海と云ふ天台宗に於て有名なる大僧正が居られた、此の人の中興に依つて喜多院は一時東叡山とまで相成つた、後に天海僧正は徳川家康公即ち今日三百年祭を行はれて居る所の東照公に識られて、其帰依の著しかつた所と、又多少政略上の関係もありましたらうが、東叡山の称号は上野に移して上野といふ大伽藍を創設に相成つたのです、併ながら此喜
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多院を当時に隆盛たらしめたのは、南光坊の功績であると申して宜からうと思ふ、然るに物変り星移つて、殊に維新以後種々なる災害に遭遇して寺院も頽廃に及んだことを承知致して、私は前に申述べたやうな観念を持つて居りましたから、実に遺憾の事と存じまして、爾来御住職の御相談相手になつて、遂に此星岳保勝会の成立を見るに至つて私も其賛助を致すと云ふやうな次第でございます、御住職の御丹誠と地方諸君の御同情、殊に綾部君を始めとして山崎君・野々山君、其他の諸君の種々なるお力入れ、又唯今当埼玉県知事公の此会に向つて懇篤なる御示諭のございました如く、もしも本会の事務取扱上、仮令曲れることはしなくとも、完全ならざるものは相当なる御監督を以て、矯正をお加へなされ、懇切に御指導御整理を下さると云ふことは寔に此上もないことゝ考へます、私共最初より御住職のお勧めに応じて、聊かながら力を費しましたことも、玆に至りて追々と効果を奏し得るやうに思うて、数年間を回顧して深く喜ぶのでございます、併し今日の有様に於て星岳保勝会が完全になつたとは申し兼まする、之が完全を図るには第一に資金が必要でありますが、其寄附を地方に求むると云ふことも、無理からぬことである、此大伽藍を充分に維持しやうと云ふには、地方の人ばかりでお出来なさることではない、故に先づ近くは東京に之をお求めなさるのは相当の手段であるが、さて何れの地方にもさう云ふ企望が多くあるので、皆其地方々々で種々なる方法によりて勧誘して居りますから、求むる所のものは多くして応ずる所の力は寧ろ少ないと云ふやうな訳である、故に帰する所地方の諸君が大に奮発して充分なお力入をなさらぬと、此星岳保勝会は完全に行き届くとは申上げ兼るやうに思ひます、此点に付て今知事公からの御示諭にも、会員たる諸君は勿論、会員たらざるも当地方の諸君が此名刹の保存に付て相当なるお尽力のあるやうに致したいとの御希望は、私の御尤千万と深く感佩する所でございます。
星岳保勝会に対する私の意見は今申上げましたに過ぎませぬが、私は今日斯る記念すべき日に於て即ち天海僧正の遺跡を存続すべき星岳保勝会の総会に当り、又当御寺院に於て施行せらるゝ東照宮の御法会は大英雄の三百年の祭典で仏法で云ふたら御遠忌でございませう神道で云ふたら奉斎でございませう、兎に角昔を記念するの儀式である、斯る機会に来集の諸君に対して私は玆に大偉人の功徳と云ふ演題にて聊か愚見を申上げて見たいと思ひます、蓋し大偉人の功徳は沢山あります、先づ神武天皇を始め奉りて我帝国の大偉人である、今日二千五百五十五年を経て斯の如き隆盛を得るのは、即ち其大功徳が玆に現はれて来たのである、斯の如きことは申すも畏れ多い訳であるが、御歴代の中にも神功皇后・応神天皇・仁徳天皇・天智天皇と、古い昔から申上げると際限もないが、左様な帝室の事は見合せまして三百年以前の武将たりし徳川家康公、即ち撥乱反正の大功徳ある偉人である、此偉人の功徳が如何に我邦に及ぼしたかと云ふことを先づ以て申上げて見たいと思ひます、それから続いては徳川の末路に将軍となられた慶喜公即ち十五代の将軍である、此将軍は僅に在職一年許りに過ぎなかつたのであります、而して極く険悪の時に於て幕府の相続をされたお方
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であるが、此御方の大功徳と云ふことも諸君はお忘れなすつてはならぬと思ふのでございます、故に相対照して徳川中興の祖たる家康公、幕府の政権を返上した慶喜公、悪く例へて言はゞ会社を解散したお人だ、家康公は会社創設の人、慶喜公は会社解散の人、而して其清算が実に巧妙であつた、此両偉人の功徳に付て私は斯く感ずると云ふことを述べて、更に当保勝会に御縁故深い南光坊天海僧正の功徳も玆に偲んで見たいと思ふのでございます、故に之を名付けて大偉人の功徳と云ふ演題に致したのでございます。私は歴史家ではございませず学者でもないから今の三偉人の経歴を申上げることは或は杜撰の処もありませう、又前後不揃のこともございませう、日常雑務に忙殺されて居る身が、僅かに種々の歴史や伝記を拾ひ読に致して玆に申上げるのでありますから、学者先生がお聴になつたら、片腹痛いとお笑があるかも知れませぬが、併し偉人を観察すると云ふことは唯学者だけで完全に其心事を洞見することの出来るものではないです、此政策は如何なる理由あるか、此挙動はどう云ふ訳であるかと云ふことを査察するには単に歴史の考証だけで必ず知れると云ふものではなからうと思ふ、と云ふと私が大層深い観察力がある如くに自慢するものとお聴き下さると甚だ赤面でございますけれども、学者・歴史家であれば偉人の心事が明瞭になり、其功徳が充分に知悉せらるゝとは私は申せまいと思ふ、故に私の如き拾ひ読をする浅薄なる学問でも、其大功徳を見出すことは強ち出来ぬことではなからうと思ひます、それで私は通俗眼を以て此大偉人の功徳を玆に顕はして見たいと思ふのであります。
申すまでもなく徳川家康公は三河の国岡崎城にてお生になつて、其頃の有様と云ふものは戦国時代で西も東も敵国に取巻かれて、素より大なる力がなかつたから困難の間に御成長になつたのであります、御誕生は天文十一年十二月二十六日と覚えて居ります、広忠公のお子であつた、広忠公の父が清康公と申上げた、其清康公から広忠公、広忠公から家康公、幼名を竹千代と申上げた、是は嬰児も知つて居ることで小学校へ通へば直ぐ解るのでありますが、清康公と云ふ人は重臣の阿部と云ふ人の一子弥七郎といふ者に一時の過誤から殺されて、為に広忠公も幼年の時から岡崎に居ることが出来ない、左様なる乱離の中に生れたる家康公も幼少の時より人質として今川に行つたり織田に行つたり、所々方々を流浪し、お負けに同族中に種々の悶着があつて、水野の家より来りたる公の生母、後に伝道院と申せし方も家康公を生まれると直に政治上の関係から離縁になり、家康公は六つの時に今川義元への人質として駿河に赴く途中、尾張の織田信秀に奪はれた、玆に其顛末を調べると、元来今川義元の父は氏輝といふて東海道に於ける大名であつて、徳川家は常に之に隷属して居た、然るに其頃尾張に織田信秀と云ふ人が段々勢力を張つて、丁度家康公が六つの時に今川へ人質に行かれる途中に、田原に居つた戸田康光と云ふ人が織田に内通して、観潮坂と云ふ所で家康公を奪つて、暫くの間織田家に人質に取られ、尾州に二年ばかり居られたのであります、物心附かぬ少年から左様に流離艱難の間に御成長なすつた、どう云ふ訳であつたか、信秀が何時までも家康公を自分の処に人質に置くのは気の毒と云ふので、
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八歳の時に岡崎に返された、併し返されると間もなく又今川家に人質に行かれた、今川に人質となつて居られる間が十年余りであります、此間に種々なる逸話がある、一々記憶はしませぬけれども、尾張の熱田に居られる時、もう七歳位であつたと思ふ、熱田の神官から御慰みにとて九官鳥のやうな鳥を此可愛い坊ちやんに差上げた、それが色々な啼声をする、鶏の声もすれば鶯の声もする、鳶の声もすると云ふやうな塩梅で、大層人が珍らしがつて持囃すと、此坊ちやんは熟々と考へて、私は此鳥を好まぬと言はれた、其訳は鳥は自分の声だけ啼いたら宜いではないか、斯やうな色々なる声で啼く鳥は、自己の良い声を持たぬに相違ないから、私はそんな鳥は嫌だといふて神官に還した、是は実に味ある言葉です、蓋し幼少から精神を集中される大見識を持つて居られた御方であると云ふことは此一事でも解る、私は総じて人はさうありたいと思ふ、近頃の人は役人にもなれば、実業家にもなる甚しきは昨日は政友会と思つたら、今日は同志会に行つた、今の九官鳥どころではない、色々な声で啼く、私などは何時も第一銀行の外に啼くことは出来ない、寔に一声しか啼けない人間で甚だお恥かしいれども、若し家康公に見られたら、却て褒めて下さつたかも知れぬのであります、今一つ御幼少の時の逸話に、駿河の阿部川で児童が集りて石投があつた、其時の御供は誰であつたか、判然覚えませぬけれども、其人の背に負はれて石投を見に行つた、一方は百人以上、一方は三四十許りであつて、何方が勝つであらうと云つたら公は小勢の方が勝つと云はれた、果して其競争は小勢の方が多勢を破つた、思ふに多数の方は衆を恃み、少数の方は却て一団となつて充分に働いたから其方が勝になつたのである、是等も既に名将の兵を用ゆる眼識が備つて居つたものと見えるのであります、それから十八の時に今川義元と織田信長の戦争に、大高城の兵粮入れといふ名高い話もあります、余り斯様なる事を言うて居ると、講談師に類して扇子で机を叩かぬと似合はぬ様になりますから略しますが、殊に其行動に付て慎重なる態度であつたと云ふは、岡崎の城は其時今川義元の番城となつて、其家来が詰て居られた、義元が桶狭間で討死した後、徳川家の人々から最早今川も勢力が衰へたから、此場合岡崎の城へ復帰しても宜からうと申した時に、公は之に反して元来義元に随従した徳川である、其時は松平と云ひました、義元の死なれたに付て私が岡崎城へ入るのは不信であると云うて本城へ帰らなかつた、然るに其番城に居つた今川の家来が駿河の乱れたに依つて引払つて帰つた、是ではもう主人が無いから元へ戻ると云うて漸く岡崎に戻られたが、多分十八のお年であつた、御幼少から青年までの境遇が左様であつて、其後も種々なる艱難に際会された、或は一向宗の騒動とか、甲州の武田との戦争とか、算へ来れば数限りもございませぬが、それを残らず申上げることは出来ませぬ遂に織田信長と合同した、是も大に意気が合うたと云ふではないが、家康公も信長の人物を畏敬し、信長も亦沈着質実にして将来為すあるの英雄と信じたから深く信頼されたやうに見えます、姉川の戦に付ても、徳川の加勢と云ふことは織田家にては大層尊重した、又長篠の戦争にも織田は始終徳川を先鋒にした、斯の如く表面は赫々たる功績は
 - 第41巻 p.605 -ページ画像 
見せませぬが、所謂地元の確実なる三河武士の特質を元亀・天正の間に於て充分に発揮したし、前に言ふた九官鳥の色々の声で啼くを郤けたと云ふ精神は、何れの方面にも現はれて居るやうであります、殊に私は頼山陽の最も注意して書いた日本外史の徳川氏の評論に深く敬服して居ります、但し私は山陽先生を政治家とは見ませぬ、学者と思ひますけれども、此具眼の学者の説に感心せざるを得ぬのであります、山陽先生は徳川家のことに付て何と言はれた、世人が大阪の事に付て徳川家康公を種々に批難するけれども、是は抑々末である、大阪を滅したに付て始めて徳川が天下の権を収めたのではない、それは何時であるか、関ケ原であるか、関ケ原でもない、何処であるかと云ふと小牧である、小牧に於る豊臣秀吉との戦と云ふものが、家康公の天下に対して其武力を確実に示したのである、殊に其戦争は人道に基く義軍であると言ふた、成程さうです、実に山陽先生の大勢を看破つた活断である、私は常に徳川家に対する此評論を愛読して居りますが、当時の秀吉の勢力と云ふものは、実に旭日昇天の有様であつた、殊に其兵略に富んで居つたことは、毛利の征伐に当つて、高松城で清水長左衛門を水攻にして居る中に、六月十日の本能寺の変があつて、其事を聴くと直に引返して来て速かに光秀を滅してしまつた、既に織田家が斯くなつた以上は、織田の家臣中で誰か一人天下の先に立たなければならぬと云ふは当然の成行である、故に柴田勝家・佐久間信盛・滝川一益、是等の連中が皆形勢を観望して居つたが、秀吉は早くも柴田・滝川を倒さなければならぬと考へたから、自分から寧ろ戦を挑んで、勝家が越前北の庄に居るを幸に賤ケ岳で之を打破つてしまつた、柴田を滅してしまふと今度は信雄・信孝を邪魔にした、そこで信雄・信孝、信孝は其前に死にました、信雄が徳川家に頼つて家康公は義に依りてこれを引受けたのである、此時の秀吉の勢力は実に旭日昇天であつたから、本当に戦つたら勝敗何れであつたか知るべからずでありませう併し徳川家の兵は義軍である、秀吉の処置が如何にも醜悪と見たからそこで義に依つて戦を宣した、家康公の心事は所謂身を殺して仁を成すの覚悟であつた、彼の小牧・長篠の戦争で兵略に富める徳川勢は、一戦に豊臣方の池田勝入斎森武蔵守と云ふ人を討ち取つた。
是で両雄相争ては到底天下を太平にすることは出来ぬと見たから、秀吉の方から和を講じて、其和議に付ても、家康公は容易に承知しない家康公が岡崎から京都まで行くに付ても、到頭秀吉から自分の母を岡崎へ送つて人質として、家康公の上京を促し、さうして相共に力を協せて天下を統一したのである、其時の実力は寧ろ三河武士に多かつたかも知れぬ、此実力があるから、秀吉が死なれた後、五大老の一人として自然と家康公に権力の帰すると云ふは必然の勢であります、玆に於て石田三成・大谷吉隆・増田長盛・長束正家等の鼠輩が段々にそれじ媚嫉して、西国の薩摩・毛利と云ふやうな大名の、秀吉にすら心服せなんだから、況んや徳川には心憎しと思ふて居るを見てこれと相通して、一の騒動を起したのが関ケ原の大戦である、此関ケ原の戦争の工合などは、私は歴史家でないから細かに調べ得られませぬけれども、家康公は上杉景勝を征討する為め上国を発足するに臨み、鳥居元忠と
 - 第41巻 p.606 -ページ画像 
云ふ人を伏見の城に置て討死させた、討死させたと云うては語弊があるが、西国の兵の東下するを抑へて置いて、自身は下野の小山まで来て、而も石田と仲の悪い両加藤・福島・池田・細川・黒田・浅野の所謂七大名、是は何れも秀吉とは深い縁故があるにも拘はらず、此人々が、徳川に味方すると云ふことに成つたのは、能く其気合を察し加ふるに真実の衷情を以て到頭之を服さしめたのである、故に関ケ原の戦争も其始めは両軍相軋つて、それこそ天下分目の戦であつた、能く世間で互角の力で相争ふを関ケ原と申しますが、殆ど東西の力を一処に集めて大決戦を試みたのであります、而して其実は当初より勝算は東に存して徳川の勝利に帰したのである、玆に至ては家康公の天下と云ふことは争ふべからざる事実となつた、故に大阪の処置の如きは、例へば片桐且元の関東へ使節に立たれた時には頗る厳格なことを云ふて所謂条件を沢山提出し、其交渉問題が中々複雑であつた、ところが反対に淀君から婦人を使者としたものに対しては至て寛大であつて、親類突合で温言これに接し、謂はゞ帝国座へ行つて、芝居でも見ろと云ふやうな待遇であつた、そこで両方の使者が帰つて来る、婦人の方は関東の態度は至て穏和であるといふて、且元の復命とは全然相違して居ると云ふので大阪城内は内輪割が生じた、甚しきは且元は叛心ありとまで誣ゐられて、忠臣が退けられる、此辺の事に至ると家康公の処置が余りに略が過ぎた様に見える、男女両様の使に対して一方は厳にし、一方は寛にしては、家へ帰つて双方突合せて見ると必ず行違が起るに相違ない、其行違を以て大阪を滅す材料にしたのだと云ひますが或はさう云計画ではなかつたのかも知らぬ、併し山陽先生が大阪のことに付て、徳川氏を忌む者があるけれども、それは間違つて居ると示ふ解釈を下されたのは、私は歴史家の評論として頗る其当を得たと賞讚します、それから家康公は丁度六十四歳の時に駿河へ退隠されて七十五まで十一年間駿府に居られた、是は世間で言ふ隠居である、然るに此隠居様が大層に国事に努めたのであります、隠居までの行動は武勲である、隠居して後の十一年間は全く文政である、嘗て初代奈破崙の伝記を見ました時に、那帝が其治世十五年ばかりの間に奈破崙コードとも云ふのを作りて、独り仏蘭西人ばかりでなく、法律・政治を論ずる人は皆此奈破崙コードに資することは非常である、あの武略一遍と思ふた人が左様な考案を持つて居る、それのみならず、彼の仏蘭西銀行の如きも奈破崙の創意で出来たのである、して見ると古今東西ともに英雄と云ふものは種々の方面に注意の届くものと見えます、公が駿河に十一年隠居せられた間の文政と云ふものは、実に偉大なるものであります、第一に儒道を起しました、仏法を修めました、神道を攻究した、さうして古文書、即ち古い書類をあれ程までに集めたお方はないのです、徳川家の制定した公家法度・武家法度・青表紙などゝ云ふ律令は皆それから出来て居るのであります、或る点から評すると少しく恐入つたことゝ思ふのは、天子に対する勧学の事に付ては、もう少しどうかなすつたら宜くはなかつたかと云ひたいやうに思ひます、併し其時の形勢から見ましたら已むを得ぬことがあつたかも知れませぬ、玆に中村と云ふ人の著した「徳川家康」と云ふ書物に就て、其時
 - 第41巻 p.607 -ページ画像 
分の有様をちよつと読んで御聴に入れませう、中々面白い、是は遺老物語と云ふ書物にあることが引かれたのであります。
 御奈良院宸筆の物世に多きは理なり、此の時公家以ての外に微々にして紫宸殿の御築地破れて三条の橋の辺より内侍所の御灯明の光も見えしとなり、右近の橘の下には茶を煎じて商ふ者あり、其の例に依りて其の茶売る人の子孫ども年に一度づゝ天子に茶を奉ると云ふ此の時銀などやうのものに札附けて、例へば百人一首・伊勢物語など云ふ札附けて御簾に結付けて置くに、日を経て後まゐれば宸筆を染めて差出されたりと云ふ、此頃は京中を関白料とて、袋にて米を貰うて歩きし、其の袋今も二条殿にありとかや云ふと記せるを読まば、誰か袖を掩ひて潸然たらざるべき。
実に当時の王室式微の有様が想像されるのであります、天子の貴きも戦国の末には斯様にまで御零落なされたのであります、此時に当りて徳川家康と云ふ人が、天下を太平にしたと云ふに付ては、後の尊王家が唯天子を粗末にした、あれは武力にのみ富んだお方であると云ふやうに批評するは少し酷ではないか、能く其時代を観察して見ますと、其評論は少しく偏する嫌があると思ひます、併し是は昔の話で向に述べた公家法度・武家法度等のことが、一々徳川家の制度が皆尤もだとは云へませぬかも知れぬから、此辺に付ては余り評論の限りではございませぬが、兎に角今日三百年祭として家康公を評するに、是等の点を察せずして一概に論じ去るは或は酷評に失しはしないかと思ひます否寧ろ撥乱反正の大功徳を賞讚して宜しからうと思ふ、殊に此儒道に就て又仏教に就て力を入れられたことは実にえらいものであります、何年であつたか判然覚えませぬが、半年の間に九十幾度か法談を聴かれたと云ふことがあります、それは多く天台宗と浄土宗で、其時には天海僧正は多くお出になつて問答をなされたかと思ひます、家康公も大抵隔夕に出て聴かれたと書いてあります、又儒道も林道春をお抱へになる前に、江州の人で藤原惺窩と云ふ人が漢学に長じて居つたので之を召された、其門人に林羅山と云ふ人があつて、是が優れた学問と記憶力のあつた人で、到頭官儒として召抱へられた、殊に徳川家康公の儒学は多く論語を主として居る、其証拠を一つ申上げやうならば、彼の神君の遺訓と云ふものが、世間に伝りて居ります、諸君も大抵御覚えでありませう、伊呂波は弘法大師の作だと申すがそれにも次ぐ位に徳川の家来は皆口授して居つたものであります、「人の一生は重荷を負ふて遠き道を行くが如く、急ぐべからず、不自由を常と思へば不足なし、心に望おこらば困窮したる時を思ひ出すべし、勘忍は無事長久の基、怒は敵と思へ、勝つことばかりを知りて負くることを知らざれば害其身に至る、己を責めて人を責めるな、及ぼざるは過ぎたるより勝れり、人は唯身の程を知れ、草の葉の露も重きは落るものかな」私が此位誦んじて居るのですから、諸君も大抵覚えて居らしやるに相違ない(笑)、若し覚えて居なければ諸君が悪い(笑)、「人の一生は重荷を負ふて遠き道を行くが如し」此意味は「士不可以不弘毅任重而道遠、仁以為已任、不亦重乎、死而後已不亦遠乎」論語の二巻目の曾子と云ふ人の言葉にあります、是と寔に合つて居る、夫れ
 - 第41巻 p.608 -ページ画像 
から「勘忍は無長久の基、怒は敵と思へ」是も確かに論語の中にある私は其各条を一々玆に引当てゝ申す程穿鑿は致しませぬが、論語を御覧になれば必ず解ります、「己を責めて人を責めるな」是は己欲立而立人。己欲達而達人。と云ふやうな句から出て居ります、唯最終の言葉を孔子の教よりも家康公は少し強く言はれた「及ばざるは過ぎたるより勝れり、孔子は「過猶不及」と教へた、是だけが違つて居ります、家康公は孔子よりも少し過ぎた方を抑へる為に、及ばざるは過ぎたるより宜いと云ふた、少々の違であります、斯の如く論語と相合つて居ります、如何に能く論語を読み、如何に能く論語を理解したか又如何に能く指導訓育の道を講じたかと云ふことは、是に依つても解るのであります、関東へござつたのは天正十八年であるが、天下を一統してから二百六十五年の太平を致したのである、日本をして上は天子、下は吾々一般の人民が、太平の余沢に霑ふことが出来たのは、実に家康公の功徳であります、末路に至つて世禄世官の役人が悪く、殊に外交の事柄は吾々も不満に思ふたのでありますけれども、此外交は独り徳川家のみが悪いとばかりは云へない、今日の外交たりとも余りに良いとは言はれぬかも知れぬ、それらの批評は措きまして、兎に角阿部伊勢守の老中たりし時、米のコモドル・ペリーが来て、先づ外交に付て其宜しきを失つたと云ふことは、間違ないことでありますが、併し之をもう一つ進めて論ずると、実は徳川の政事を失つたのは、諸君も御存知あるまい、私も知らぬが、天保の初めに死なれた十一代の将軍世に大御所様と称する御方、蓋し御所と云ふのは将軍の居所を指して云ふた言葉でありますが、大御所と云ふ称号は徳川家斉公に独占されてしまつた、文恭院と諡した方であります、此人が徳川の命脈を縮めたと云つて宜い、山陽先生が外史に何と書いてある、最終に家斉公のことを論じて徳川氏の盛なるは是に至て其極に達すと云ふと書いて其筆を止めてある、山陽先生と云ふ人は実に活眼なる人で、恰も春秋の筆法を用ゐて、徳川氏の命脈に極印を押された、悪く云へば酷い人である、人の家に対してお前の家は潰れると言はぬばかりの断案を下した、蓋し物は達すれば必ず降るに相違ないのであります、又極れば必ず変ずると云ふことは所謂易の上六にある、遂に其次の十二代の将軍慎徳院の末年にコモドル・ペルリが来た、慎徳院の死なれたのは六十一で、ペルリの来たのが嘉永六年である、それから海内の騒動が段々進んで行つて、流石に永年間勢力を扶殖して居つた徳川家でありましたから、左様に政事を誤りても、尚十数年の余命を続けて遂に御維新に相成つたのであります、故に此三百年の太平は前に申上げたやうな家康公御幼少からの勤労がこれを致したのであると見ますると、何と大偉人の功徳と云ふものは、実に深遠なるものではないか、然らば此三百年の祭典に付て、斯の如き大偉人を尊崇追慕することは吾人当然の務と言はねばならぬのであります。
次に申上たいのは前将軍即ち徳川慶喜公のことでございます。此方に対しては余り詳しいことを述べ兼るのです、殊に其事柄が現在であて幕末の政変よりして一旦朝敵と之まで呼做され、其後謹慎恭順と云ふやうな紛糾した時勢に処されたことゆへ、余り多くを論ずると、朝廷
 - 第41巻 p.609 -ページ画像 
へ対して御批判を申上げるやうなことが生ぜぬとも云へぬ、恰も慶長の末の大阪と其時の徳川家との事を評論するやうな場合が生ずる、さりながら私が玆に一つ申上げて見たいと思ふのは、若し慶応三年十月十四日に、前将軍が政権返上と云ふことをなさらなかつたなら、当時の政争は如何なつたであらう、又慶応四年即ち明治元年の正月、伏見鳥羽の衝突にて幕軍の敗北は実に不手際であるけれども、慶喜公は早く其形勢を悟つて、速に大阪を引上げ江戸へ御帰りになつた、さうして江戸へ着すると直ちに謹慎恭順と決心せられ、縦令如何様なる御処分を受くるとも、御自身の死生抔は一向に問はぬ、国家の安寧を謀るには朝命に恭順するの外に道はないと、斯う覚悟をなすつた、此定めた覚悟も其後色々の誘惑があつた、但し是は誘惑とばかりは言へぬ、極く近親なる律義の臣下又は御側には出られぬでも、意気の壮烈なる青年等がそれは余りに腑甲斐ない、天子は左様に思召される筈はない是は外藩たる薩摩とか長州とかゞ自己の私を営む為めの奸策であるから、何もさう御遠慮なさらぬでも宜いではござらぬかと切諫した、時に意志の薄弱なる大抵の人ならば大きにさうだと同意する、若し其同意を以て当時の事を処置されたならば帝国はどうなつたでありましやうか、差詰め江戸の町は悉く焦土となつてしまつたであらう、江戸の町が焦土となつても、日本国が潰れるとは言はぬが、其有様で戦乱が継続したならば其頃の外国の関係はどうであつたか、私は、当時の形勢を少しく知つて居りますが、英吉利は薩摩長州と頗る親密であつた又仏蘭西は頻に幕府に力を入れて居つた、駐在の仏国公使レオンロツシユより毎度幕府に向つて対外藩策を建議したこともある、諸君は今日の支那を見て如何に御考なさる歟、万一此点にお気が附かない人であつたら、それこそ露骨に云へば国家観念のない人であります、露西亜は露西亜の勢力を張り、英吉利は英吉利の力を延し、独逸は其位地を失つたけれども、日本がこれに代つたとも言はれる、現に一方は甲の力に依頼し、一方は乙の斡旋に恃むと云ふのが目下の現状ではありませぬか、幕末の政変の我邦が国内の争闘の為に外国の力を頼むと云ふことになつたならば、日本の国はどうなりませうか、斯く考へて見ますと、慶長以後三百年の太平を致した家康公が功徳素より広大であるけれども、之に較べて慶喜公の苦衷は真に感佩すべきものありて一方は春の旭日、一方は秋の夕陽とも形容すべくして、誰人が御覧になつても、似たる日光は見えぬが、併し春の日の曙も麗しいが秋の夕日も又美しいものであります、慶喜公の其時の身を捨てたる御英断は、即ち身を殺して仁を成すといふ孔子教に基かれて、此国家をして災厄を免れしめ万民を塗炭の中から救つて下されたと申しても敢て諛言ではなからうと思ひます、随て明治維新の政令も寔に都合好く運むで行つた、畢竟明治二年に至りて薩摩長州を始めとして各藩挙つて其藩籍奉還を言出したのも、慶応三年に慶喜公が政権返上を容易に申出したから、天子に対して斯の如きものであるかといふ観念から、遂に大諸侯に浸染して藩籍奉還を誘導したのである、大諸侯がそれであるから他の小諸侯は煙に巻かれて吾も吾もと争つて其藩籍を奉還したのであります、是が完全なる郡県制度、満足なる王政復古の出来た原因であ
 - 第41巻 p.610 -ページ画像 
る、故に其根本は何れにあるかと繹ぬれば、慶応三年十月十四日慶喜公が政権返上をなされたるに起因すると申上げても宜いではありませぬか、詰り徳川幕府は滅亡したけれども、国家に対しては大功徳である、所謂大義親を滅するの覚悟がなければ出来ぬ事であります、斯く考察しますると、慶喜公の当日の御英断と云ふものは、大偉人の功徳と申上げて決して差支なからうと思ふのでございます。(拍手)
余り時間を費しましたから、成るべく短かくお話を致しますが、今日星岳保勝会に因みて天海僧正のお話を少しく申述べて見ます、是は此処に御住職が居らつしやるから、それこそ釈前の説法どころではない俗人が横合から此様なる歴史的のお話をするは、甚だ烏滸がましうございますけれども、昨年八月御住職から天海僧正の伝記を調べて見たいと云ふことで、其原稿をお作らせになつて御相談があつたのであります、私は其原稿に拠つた受売りでありますから所々間違もあらうと思ひます、家康公の歴史なり、慶喜公の伝記などは、仮令受売たりとも私が其書籍に就てこれを精読しこれを詳論し、殊に慶喜公の事に付ては現に調査中でもありますから誰とでも対論して、私の説が誤らぬと主張する積りであります、併し天海僧正のことは只原稿に拠つて申上げるのでございますから、或は誤があるか知れませぬが、先づ其書類に拠つて天海僧正の御履歴を見ると僧正は津の人で、蘆名家の一族船木兵部大輔と云ふ人の長子である、其母君は万寿前と申した、果して万寿前と云ふたかどうか、それは歴史家の筆の飾りで或はお万と云つたかも知れない、万寿前が大層二十三夜を信仰されて、月待ちをする為に川へ出て水垢離を取つたと云ふことが発端になつてあります、如何になる理由であつたか其細かいことは分りませぬが、遂に其母は懐胎して誕生したのが僧正である、僧正の幼名を兵太と申した、生れて穎悟にして気力の逞しいお人であつた、どう云ふ心理状態であつたか少年よりして僧侶にならうと云ふことを考へられた、会津に弁誉寺と云ふ船木家の菩提寺がある、其寺へ母に連られて行つて是非とも僧侶にして呉れと云ふことを懇願した、それが僧正の十一の年である、父は前に死なれて、母の手一つで育てた兵太郎である、但し一人の弟があつたがいまだ幼少である為めに、兄の兵太郎が是非僧侶になりたいと企望するを母は頻に諫止したが、何と云ふても肯かないので、拠なく万寿前はこれをお寺へ連れて行つて住職から意見をして貰はうとした、依て住持も母の心を察し種々兵太郎に説諭して思ひ止まらせやうとしたが中々肯かない、再三再四訓誡すると兵太郎は独り持仏堂へ行つて切腹しやうとした、そこで是は致方がないからと云ふので、遂に寺に留めて万寿前は立帰つた、併し其時は未だ幼年であるから其内に又心が変るであらうと母と住職と話し合うて帰られたが、兵太郎は決して其考を変るどころではない、お寺に留つて仏事三昧、お経を読ませると能く記憶する、住職が兵太郎の髪を剃らないものだから、段段迫つて其年の冬遂に髪を剃つて僧侶になられた、夫より追々に修業が積んで十八の年に雲水となつて修業に出掛けた、其時川越と宇都宮とに良い寺院があつて、其いづれへ行つて修業をしやうかと考へた様子でありますが、遂に宇都宮の寺院へ行かれた、何と云ふ寺であつた
 - 第41巻 p.611 -ページ画像 
か其寺名を覚えませぬが、其寺に暫く足を停められ、それから比叡山に上られたのです、叡山には大乗戒壇と云ふ僧侶の学問をする所があつて、其頃の叡山は中々盛なものであつた、未だ織田信長が焼討をせぬ前であつたかも知れませぬ、僧正は叡山で充分に学業を修めて、未だ三十にならぬ中に奈良へ行かれた、其時に故郷で母親が病気になられたので、使が奈良へ来た、ところが是は名僧知識にはあることか知らぬが僧正は前夜の夢に依つて既にこれを感得して居つて、其使の口を開かぬ中に其事を知つて居られたといふ、是等は奇怪の談話で、果して其事があつたかどうか知りませぬが、僧正は使と共に会津に帰つて大切に母の病を看護した為に、母の病も一時快くなつたが、遂に再発して、到頭母は死なれた、併し僧正の実弟がある為が、それが船木の家を相続した、其頃蘆名家は伊達正宗に攻撃せられて散々に打負け終に縁戚の関係から水戸の佐竹義宣に頼ることゝなつた、此際僧正は其生家が蘆名の一族であるの縁故から、此宗家を維持することに付ては、僧侶の身にも似合はず所謂砲烟弾雨の間を奔走して衣の袖で蘆名の遺統を保護したと云ふことであります、蘆名の家が佐竹に頼つて立行くやうになつたに付て、僧正は再び仏法修業に出掛けた、玆に於て始めて川越の喜多院に来られたと云ふことです、爾来種々勉強して喜多院を再興せられた、元来左様な高僧であつたからして、其時の川越の人々即ち臨場の諸君の御先祖が深く帰依なすつて、此寺院が段々盛大になり且其基礎を固めたのであります、其中に比叡山の或る高僧が家康公にお親みがあつて、其高僧の紹介にて遂に天海僧正が家康に知られたのです、初度の謁見からして家康公は変つた僧侶だと思ひ、変つた武将だと思ふて、此両偉人の意気が投合した、遂に種々なる政策にも参与して居られたやうであります、彼の大仏供養の鐘の銘所謂国家安康は家康を調伏したのであるとは南光坊天海の注意だと云ふ説もありますが、是等は果してどうであるか、兎に角鐘の銘に付ては多少の関係はあるやうです、現に当喜多院に僧正の日記が十一冊ありますが、其中に金池院崇伝と南光坊天海との名に依つて板倉伊賀守・片桐市正両人へ往復した手紙が二つ三つあつて、それに鐘の銘の事に付て云々と書いてあつた、私は日外其日記を一覧して覚えて居ります、右等によりて推察しても僧正は当時の幕政には余程枢機に参与したに相違ないと思ふのであります、殊に僧正に敬服すべき一事は、全体家康公は前に述べた如く仏教には厚く帰依をなされた、黒本尊は我護身でと云ふことも伝記にあります、それ位であるからして、最初三河の大樹寺は浄土宗である、此浄土宗に帰依して居られて、中頃から天海僧正の戒を受けたいと望まれた、耶蘇教で云ふたら洗礼のやうなものでありませう、此席には立派なる大僧正が居らるゝから、こんな話をするのは甚だ可笑しうございますが、家康公が前に浄土宗の戒を受けられたのを更に南光坊天海に授戒を望まれた、すると南光坊天海はそれを承知しない、其時分に家康公は最早将軍の隠居でいられる時であつたらう、故に天海僧正が若し権勢に近寄ることのみを望むならは、二つ返事で「宜しうございます、どうぞ御意の変らぬ中にと云ひさうなことであるが、中々僧正は承知しない、御前は浄土宗で受戒せられた
 - 第41巻 p.612 -ページ画像 
お方である、戒を受けると云ふことは屡々変ずるものでありませぬ、深くお考へなされて強てお望ならば私が戒を御授けしませう」と答へた、そこで三年ばかり過ぎて是非ともと望まれて、然らばとて始めて其式を行つたと云ふことが伝記の中に書いてあります、此一事に依つて見ても、天海僧正の如何に見識の高かつたかと云ふことを察し得られるのであります、遂に此喜多院のみならず、上野に於て東叡山を開いたのは、即ち天海僧正の功徳であると思ふ、而して此事に付ては、家康公の覇業を助成する為であると云ふて勤王家からは多少の非難もありますけれども、是は恰も大阪の事に付て其政略を毀けたり、公家法度の事に付て其制度を謗つたりするのと同じやうなもので、少しく偏する嫌がないとは申されぬやうでございます、又東叡山を創建すると云ふは実に容易ならぬことであつたらうと深く察し上げるのでございます、殊に百二十余才の長寿を保たれて三代将軍家光公までに帰依せられたといふは真に稀有の高僧と思ひます、斯る偉人の功徳は東叡山は勿論のこと、比星野山喜多院の今日あるも、やはり其余沢と申して宜いやうに考へます、玆に於て武将としての徳川家康公、又幕府の末路を危機一髪の間に救ひ所謂身を殺して仁を成された慶喜公、更に家康公の政事に参画された天海僧正、此三偉人の功徳を私は玆に稍々申述べ尽したやうに考へます、是で今日の講演を終ります(拍手)