デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
3節 寺院及ビ仏教団体
6款 其他 3. 増上寺再建後援興勝会
■綱文

第42巻 p.95-99(DK420015k) ページ画像

大正7年10月(1918年)

是月栄一、増上寺再建後援興勝会ノ副総裁ニ推サル。


■資料

渋沢栄一 日記 大正七年(DK420015k-0001)
第42巻 p.95 ページ画像

渋沢栄一日記 大正七年           (渋沢子爵家所蔵)
四月十一日 雨
○上略午後三時増上寺ニ抵リ、徳川公爵及壇家総代諸氏ト共ニ、本堂再建ニ係ル寄附金募集ノ方法ヲ協議ス○下略


集会日時通知表 大正七年(DK420015k-0002)
第42巻 p.95 ページ画像

集会日時通知表  大正七年         (渋沢子爵家所蔵)
十一日○四月 木 午後三時 増上寺興勝会ノ件(同寺)
  ○中略。
廿九日○四月 月 午前十時 増上寺興勝会ノ件(東京商業会議所)


各個別青淵先生関係事業年表(DK420015k-0003)
第42巻 p.95 ページ画像

各個別青淵先生関係事業年表         (渋沢子爵家所蔵)
  増上寺
 明治四十二年三月
火災ニ罹リ焼失ス
 大正七年十月
大殿再建ノタメ、増上寺再建後援興勝会ヲ組織ス、徳川家達公ヲ総裁ニ、青淵先生ヲ副総裁ニ推ス


竜門雑誌 第三六五号・第七七―七八頁大正七年一〇月 ○増上寺再建後援興勝会(DK420015k-0004)
第42巻 p.95-96 ページ画像

竜門雑誌  第三六五号・第七七―七八頁大正七年一〇月
○増上寺再建後援興勝会 芝増上寺大殿再建工事は、今や其三分の一
 - 第42巻 p.96 -ページ画像 
程竣成せる由なるも、用材工費の騰貴により最初の予算に相違を生じたるより、其不足額約八十万円を得て、大正十年の秋まで其竣成を遂げしむべく、今回興勝会なる再建後援の一会を組織する事となり、徳川家達公を総裁に、青淵先生を副総裁に、星野・藤山の諸氏及同本山重役等を理事として五十万円を調達すべく、近々大勧進に着手する筈なるやに伝へらる。
右に就き十月五日の万朝報は左の如く報ぜり。
 徳川家達公曰く 家祖家康以来関係が深いだけ、自分が主となるのは遠慮すべきだが、翻つて考へると、本山は江戸開創の偉業と相俟つて、東都も甚大なる関係を有するのみならず、明治元年には、先帝が始めて東京に臨幸の砌鳳輦を駐めさせ、其翌年には、昭憲太后御入京の折亦玉車を寄せ給うた、恁く由緒ある以上、霊跡保護に努むるは市民が為すべきの道だと思ふ、故にこの事業に当る決心をしたのである云云。
 青淵先生曰く 伊東博士、李・佐々木両技師に就き詳な説明を聴くと、明治・大正に亘る日本建築の代表者的作品として、後世に遺すべき理想の下に運ばれたのである、将来模範的公園として改造さるべき芝公園を背景として、信仰的建物となるのであるから、国民と交渉を有た大問題で、特に東京市民の立場から、都市経営の大策の下に、決して此事業を軽視すべきでない云云。
因に他の三十万円は末派寺院及東仏教婦人会にて調達する筈なりと。


竜門雑誌 第三七三号・第五七頁大正八年六月 ○芝増上寺再建現況(DK420015k-0005)
第42巻 p.96 ページ画像

竜門雑誌  第三七三号・第五七頁大正八年六月
○芝増上寺再建現況 東京市にては市の名所保護の意味にて、芝増上寺大殿再建費に相当の寄附金を為すに略決定せる趣なるが、六月九日田尻市長は永井助役・市参事会員等と再建の現況を実地検分し、再建後援の興勝会副総裁青淵先生・同会々長阪谷男爵・理事長藤山雷太等の諸氏も参集の上、本多再建局長より詳細の説明を聴取せし由なり。尚聴く所に拠れば、大殿は全部槻材にして、丸柱直径二尺五寸、長さ三十九尺のもの四十八本は既に立柱を終り、外陣の大虹梁二丁は稀に見る巨材にて、垂木の如きも四寸五分角千五百本の多きに上り、石材も全部据付け、三千坪の平地工事も完了し、全体を通じて七分の出来を示せり、而して其高さは棟迄百余尺、建坪千百余坪、起工以来就業職工は八万三百三十人に達し、目下一日平均四十人の職工之に従事しつゝある由なり


渋沢栄一 日記 大正八年(DK420015k-0006)
第42巻 p.96-97 ページ画像

渋沢栄一日記  大正八年          (渋沢子爵家所蔵)
六月十一日 曇又雨 冷
○上略増上寺役僧本多氏、酒井府会議長ト共ニ来リテ、頃日ノ謝詞ヲ述ブ○下略
六月十二日 雨 冷気
○上略午前九時波多野宮相ヲ官舎ニ訪問シテ○中略増上寺興勝会ニ対シ、帝室ヨリ御下賜金ノ事ヲ請願ス○下略
  ○中略。
 - 第42巻 p.97 -ページ画像 
六月二十五日 晴 暑
○上略酒井府会議長来リ、増上寺ノ事ヲ談ス○下略
  ○中略。
六月二十八日 晴 曇
○上略午前十時芝増上寺ニ抵リ、各区長ノ会同ニ対シテ、興勝会寄附金ノ事ヲ依頼ス○下略
  ○中略。
七月六日 雨 冷
○上略八時宮内大臣官舎ヲ訪フテ○中略芝増上寺再建等ヘ御下賜金ノ事ヲ請願ス○下略


集会日時通知表 大正一〇年(DK420015k-0007)
第42巻 p.97 ページ画像

集会日時通知表  大正一〇年      (渋沢子爵家所蔵)
四月五日 午前九時 増上寺興勝会ノ件(同寺)
  ○中略。
六月十八日 午前十時 増上寺興勝会(増上寺)


中外商業新報 第一二九六二号大正一一年四月一二日 増上寺遷仏式 再建殆ど成つて十三日から三日(DK420015k-0008)
第42巻 p.97 ページ画像

中外商業新報  第一二九六二号大正一一年四月一二日
    増上寺遷仏式
      再建殆ど成つて
      十三日から三日
明治四十二年三月類焼の厄に遭つた芝増上寺は、其後全国の信者から寄附金で、帝室技芸員佐々木岩次郎氏を主任に、伊東忠太博士を顧問として、大正二年四月芝浦の海浜を一眸の裡に眺望し得る旧鳥山跡に再建に着手したが、爾来満九ケ年の歳月を閲した昨今、九分通り工事も捗つたので、来る十三日午前十時から朝野の名士、信者千余名を招待して、盛大な遷仏式を挙行する事となつた、再建の本堂は間口・奥行共に二十間で、落し縁を容れると、総坪数四百九十八坪四合と云ふ宏壮なものである。其工費は二百万円で、全部の竣成を見るには、尚一年余を要すると云ふ、因に遷仏式後十三・四・五の三日間御忌会を行ふので、善男善女で非常な賑ひを見るであらう


増上寺寺務所回答(DK420015k-0009)
第42巻 p.97-98 ページ画像

増上寺寺務所回答              (財団法人竜門社所蔵)
    増上寺ト渋沢子爵        増上寺々務所
我ガ増上寺ハ、明治維新ノ際廃仏毀釈ノ余波ヲ承ケテ、境内ハ上地ヲ命セラレ、大殿ハ神仏合併ノ大教院ニ充当セシメラレ、方丈ハ開拓使庁トシテ官没セラルヽノ悲運ニ際会セリ、明治六年尽日火災ノ厄ニ遭ヒ、昔日ノ栄華夢ノ如ク消ヘテ、一山殆ント失神セントスル時、渋沢子爵ハ其他ノ篤信ノ人士ト共ニ外護至ラサル所ナク、其ノ回興ヲ計ラレ、四十二年三月末日、十八間ノ新大殿漸ク完成セントスルノ時、再ヒ祝融氏ノ襲フ所トナリ、大殿・護国殿・大方丈等一朝ニシテ烏有ニ帰シタリ、本山当事者ハ直チニ門末会ヲ開キテ再建ノ議ヲ決シタルモ渋沢子爵ハ別ニ甚深ナル斡旋ヲナシ、増上寺興隆会《(興勝会)》ヲ起サレ、徳川公爵ヲ総裁ニ戴キ、子爵自ラ副総裁トナリテ、興隆ノ大業ヲ翼賛セラレタリ○下略
  ○右ハ当資料編纂所ノ問合セニ対シテ回答セラレタルモノナリ。
 - 第42巻 p.98 -ページ画像 
  ○右資料ニ言フ明治六年云々ニ就イテハ他ニ資料ヲ見ズ。
  ○増上寺ハ、浄土宗大本山ニシテ、三縁山広度院ト号ス。慶長三年八月現在ノ地ニ移リ、徳川幕府ノ優遇ヲウケ、将軍家ノ廟所タリ。


増上寺寺務所回答(DK420015k-0010)
第42巻 p.98 ページ画像

増上寺寺務所回答             (財団法人竜門社所蔵)
    渋沢子爵に就て
明治四十二年 東京市々参事会の増上寺三門修理補助金壱万円補助につき渋沢子爵は特に奔走せらる
同年四月 増上寺大殿・護国殿等炎上のため
 大正四年大殿新築再建の計企につき、宮内省より金弐千円を下賜せられ、渋沢氏より金壱千円を大殿再興費として寄附、続て岩崎・三井・安田家其他の寄附につき自ら勧進せらる
○下略
  ○右ハ刊行ニ当リテ追補ス。昭和三十六年七月二十五日回答。



〔参考〕新聞集成明治編年史 同史編纂会編 第一四巻・第七四頁昭和一一年六月刊(DK420015k-0011)
第42巻 p.98 ページ画像

新聞集成明治編年史 同史編纂会編 第一四巻・第七四頁昭和一一年六月刊
    増上寺=炎上
      ルンペンの焚火から
〔四・二○明治四二年東京日日〕昨一日午前一時五分、芝公園内増上寺本堂西北の廊下床下より発火し、本堂・護国殿・通天橋及び大方丈を烏有に帰せしめて同二時四十分鎮火したり。
△発火の原因 函館元町四十八番地平民栄蔵長男土方職広沢順吉(二十一)なる者あり、先年出京して諸所に雇はれ居りしが○中略三十一日午前芝公園に来り、目下増上寺山門大修繕中故、其の工事に雇はれんと請負人にまで申込みしも、乞食の如き風姿なりしため断られしかば其夕人夫等が立去りし後にて、修繕中の山門囲ひの葭簀を本堂西北隅廊下の床下に持行き、其を敷き眠りに就きたれど、床の高き為め寒き風の四方より吹込み眠り兼ねしかば、午後十二時三十分頃附近より新聞紙を拾ひ来り焚火を始めし処、風強く吹込みし為め、敷き居たる葭簀に燃え移り○下略



〔参考〕慈善 第六編・第四号(大正四年四月) 浄土宗皇恩奉答会(DK420015k-0012)
第42巻 p.98-99 ページ画像

慈善  第六編・第四号(大正四年四月)  (渋沢子爵家所蔵)
    浄土宗皇恩奉答会
浄土宗に於ては別項の趣旨を以て、去る二月十日皇恩奉答会を市内両国国技館内に開催せられ、山下管長の祝祷及祝示、久保田東京府知事並に渡辺内務省地方局長の祝詞等あり、次で皇恩奉答に関する決議を為し、長唄・ダンス・喜劇等の余興ありて、午後五時閉会せり、来会者は無慮五千人に達し頗る盛況なりし、趣旨書及決議文は左の如し。
    皇恩奉答会趣意書
浄土宗円光大師法然上人は夙に口称念仏の信仰を創唱し、一化八十年道跡都鄙に偏く徳沢海内に満ち、貴賤化に浴し、道俗益を被るもの挙て数ふべからず、宜なる哉、歴朝の 天子其の徳行を旌表して数々優詔を下し、徽号を賜ひ、寵眷を加へさせ給ふ、近く明治四十四年大師七百年御忌を邀へんとするに膺り、同年二月二十七日 明治天皇は更
 - 第42巻 p.99 -ページ画像 
に明照大師の徽号を追諡あらせ給ひ 今上天皇畏くも復た先帝叡崇の御儀を追念あらせ給ひて、大正三年二月二十七日、御書明照の二大字を下賜あらせ給ふ、是の如きの恩遇を重ぬるもの古今曾て其の例あることを聞かず、洵に是れ宗門最大の栄誉なり、宗徒たる者誰か無窮の天恩に感泣せざらんや、即ち是等至仁の皇恩を記念せんが為め、玆に本会を創設し、専ら利生済民の途を講じ、広く慈善救済の事業を奨励して、皇化輔翼の実を収め、以て聖恩の万一に奉答する所あらんと欲す、大方の諸賢幸に我等が微志の存する所を諒し、奮て此の企挙を賛し、援助を賜らんことを。
  大正四年二月
      発起人
知恩院門跡山下現有 増上寺法主堀尾貫務 久保田政周 大橋新太郎 鈴木梅四郎 片山国嘉
    賛助員
渋沢栄一 河野広中
    決議文
浄土宗徒は和協一致し、現代風教の振作を図り、感化救済の事業に力め、内に国民精神を確立すると共に、外に仁愛正義の平和事業に尽し以て 皇恩に報答し、祖徳を闡揚せん事を期す
  大正四年二月二十七日
                     皇恩奉答会