公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15
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昭和6年12月2日(1931年)
是日当会、増上寺ニ於テ国士館・静寛院宮奉賛会ト共同主催ニテ、故渋沢子爵追悼会ヲ催ス。
竜門雑誌 第五一九号・第八〇―八二頁昭和六年一二月 国士館増上寺催故渋沢子爵追悼会(DK420016k-0001)
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竜門雑誌 第五一九号・第八〇―八二頁昭和六年一二月
国士館増上寺催故渋沢子爵追悼会
(十二月二日午後二時より増上寺に於て)
十二月二日午後二時より増上寺に於て、国士館・静寛院宮奉賛会・増上寺興勝会の三団体合同にて、青淵先生の追悼会が催された。
参列者は国士館の生徒約五百名に、主催団体関係者約二百五十名。
会場に充てられた本堂の祭壇には、青淵先生の霊位を安置し、その前段や左右には、果物・菓子が盛られ、花環や樒が飾られてある。
二時『喚鐘』を合図に、本堂の左手より、青淵先生令夫人を先頭に渋沢篤二氏・同令夫人・子爵渋沢敬三氏令夫人・穂積男爵御母堂・阪谷男爵令夫人・渋沢武之助氏・同令夫人・渋沢正雄氏・同令夫人・明石照男氏・同令夫人・穂積男爵令夫人の渋沢家御遺族の方々が見えられて、祭壇の左側に設けられた遺族席へ着座される。
『奏楽』『衆僧昇殿』の順序書により、緑色の法衣を着けた五人の僧が楽を奏するのを合図に、本堂の右手から、道重大僧正を中央に、衆僧が現はれて祭壇の周囲に居ならぶ。
次に『作相』の大鏧が鳴つて『四智讚』が称へられる。次に『合鈸』が鳴つて、故人の徳を讚へた『宣疏』が、渡辺海旭氏によつて代読される。『宣疏』が終つて『三尊礼』となり、衆僧が立つて、奏楽と共
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に読経をはじめる。しばらくして読経が止み、ひとわたり静粛となると、先づ静寛院宮奉賛会を代表して、理事長の星野錫氏が弔詞を読まれる。続いて国士館総長水野錬太郎氏が同じく弔詞を読まれる。次いで国士館々長柴田徳次郎氏が立つて大要次の如き追悼講演をされる。
私が渋沢先生に初めてお目にかゝつたのは、早稲田大学の騒動の時で、あの騒動の始末を「何故御引受になつたか」と申して、その理由を聞きに参つたのであります、勿論まだ私は学校を卒業したばかりの青年でありましたが、先生はその青書生の私に対して、二時間ばかりも諄々として人の道を説いて下さいました、其後私は日本従来の学校教育は駄目である、日本には本当の学校がないと感じましたので、此処に国士館と云ふ、日本の中堅となる人物を養成する学校を創立することに志を立て、頭山先生・徳富先生などの御賛助御助言を得、更に渋沢先生の御賛成と御後援を得まして、中学校、また専門学校を創めることが出来ました。実に渋沢先生は国士館の財政的基礎を固めて下さいました大恩人であります、そして大正十一年にはわざわざ国士館へ御光来下さいまして「秋霜澟烈」の感じがあるなどゝ御過分の御褒めをいたゞきました。
今や先生は逝かれました、そして世人は巨人であるとか偉人とかいろいろ申して居りますが、私は渋沢先生こそ聖人である、神様であると思つて居ります。
強い、熱のこもつた柴田氏の追悼講演が終ると最後に佐藤正範氏が弔詩を朗吟される。
次に『開経偈』となつて、一人の指導僧の下に衆僧が『讚偈』を称ふる裡に、青淵先生令夫人を先頭に、渋沢家御遺族の御焼香が行はれる。同時に祭壇のずつと前に別にしつらへた壇で、一般の人々の焼香が始まる。朗々たる衆僧の読経の声と共に、心からなる追慕の念に焚く香の煙りが、縷々として広い本堂一杯に充ち拡がつて行く。
「総願偈」「三敬礼」が終つて、道重大僧正によつて「十念」が「授与」されると、国士館生徒の校歌の合唱がある。
やがて一般の焼香も終ると遺族を代表して渋沢篤二氏が挨拶される
今日は斯様に盛大なる追悼会を御催し下さいまして有難く存じます。
父は九十二歳の高齢で亡くなりました、実際人間としてはその死を悲しまずには居られないのでありますが、これも人が一度はどうしても遭遇しなければならぬ運命でありますから、致方がないことと存じて居ります、しかしその逝去後、聖上から優渥なる御沙汰書を賜りましたことは、父は勿論大変喜んで居ることと存じますが、私共遺族と致しましては、聖恩の深厚なるに感泣致した次第であります、而もそれには「高く志して朝に立ち、遠く慮りて野に下り」と仰せられ、続いて「経済界の泰斗にして社会人の儀型」と御褒めいたゞきましたことは、この上ないところの喜びであります。
父は亡くなりました、けれども十一月八日、恰度郷男爵や佐々木さんが、御見舞に御出で下さつて居られました時、遺言致しまして「渋沢は死んでも、皆さんの御事業と御健康を御祈りして居ります
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どうか私は此世に居ませんでも、他人行儀にして下さいますな」と申しました、何卒皆様も、渋沢の生前と同じやうに、何時までも此世に居るものと御思召して、他人行儀にして下さいませぬやう、私からも特に御願ひ申上げる次第でございます。
挨拶が終ると、奏楽を合図に渋沢家御遺族の方々が退堂し、次に衆僧が退堂して、粛然たる裡に四時式が閉ぢられた。