デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
4節 キリスト教団体
1款 救世軍
■綱文

第42巻 p.128-137(DK420037k) ページ画像

大正15年10月15日(1926年)

是日栄一、救世軍大将ブラムウェル・ブースヲ飛鳥山邸ニ招キ、レセプションヲ催ス。


■資料

救世軍ブース大将招待会書類(DK420037k-0001)
第42巻 p.128 ページ画像

救世軍ブース大将招待会書類        (渋沢子爵家所蔵)
拝啓、時下益御清適奉賀候、然は近く来邦の英国救世軍大将ウイリアム・ブラムヱル・ブース氏御招待致、来る十月十五日午後二時、飛鳥山拙宅に於てレセプシヨン相催候後、同大将に御講話相願度と存候間御繰り合はせ御来臨被成下度、此段御案内申上候 敬具
  大正十五年九月二十八日
                       渋沢栄一
二伸 御諾否別紙葉書を以て御一報被下度候


(増田明六)日誌 大正一五年(DK420037k-0002)
第42巻 p.128-129 ページ画像

(増田明六)日誌 大正一五年       (増田正純氏所蔵)
九月十四日 火 晴                出勤
午後一時森村男爵を日本工業倶楽部ニ訪問し、日本救世軍の、英国よりブース同軍の大将歓迎ニ要する費用、五千円醵集の件ニ付き協議す
○下略
   ○中略。
十月五日 火 小雨                出勤
日本救世軍本営ニ於て、近日来訪の英国同軍総本営ブース大将滞在費金五千円醵集方、山室軍平氏より懇望あり、森村男爵と協議の上、渋沢子爵の御同意を得、右両家より各壱千円、三井・岩崎・安田の三家より各壱千円寄附を請ふ事として、本日三井の阪井氏、三菱の青木氏を訪ふ、両氏とも協議の上挨拶すべしとの事、安田の結城氏ハ即坐ニ快諾したり、依て此旨山室氏ニ通知し置きたり
   ○中略。
十月十四月 木 曇                出勤
朝飛鳥山邸ニ子爵拝訪、明日のブース大将歓迎の件ニ関し御指揮を受く
○下略
十月十五日 金 曇                出勤
○上略
午後二時飛鳥山邸ニ於て、ブース救世軍大将歓迎茶話会あ(大将去十二日来邦、爾来鎌倉ニ滞留、昨十四日夕入京、日比谷公園ニ於て市民の大歓迎会あり)り、渋沢子爵ハ、去明治四十年先代のブース大将来朝の際歓迎会を催うされ、今又二代ブース大将を迎へて、実業家に紹介せられたるなり
大将一行(其中ニ大将の長令息ブース中佐もあり)ハ、日本救世軍山
 - 第42巻 p.129 -ページ画像 
室少将の案内ニて、午後二時二十分来着、子爵ハ一行を青淵文庫に請し、来会の人々に紹介、握手を為し、夫れより庭を逍遥しつゝ客室ニ案内し、其処ニ子爵の紹介の辞ニ次いて、大将の今回渡来の理由並救世軍の事業ニ関する講話あり、山室少将之を一語毎ニ通訳したり(子爵の通訳ハ小畑久五郎氏之ニ当る)
講演後茶菓の饗あり、主客歓を尽し、午後五時散会


渋沢子爵と救世軍 山室軍平稿(DK420037k-0003)
第42巻 p.129 ページ画像

渋沢子爵と救世軍 山室軍平稿        (財団法人竜門社所蔵)
○上略
一、大正十五年十月、大将ブラムヱル・ブースの来朝に際し、子爵は金千円を投じて其の費用を助けられたるのみならず、いよいよ其の来朝に際しては、同月十五日、之か招待会を飛鳥山の邸に開き、代表的の実業家・教育家・社会事業家等百余名を集めて、大将より一場の講演を聴聞せられたり。
○下略


中外商業新報 第一四六〇〇号大正一五年一〇月一六日 胸襟をひらきお互に感慨無量 きのふは渋沢子邸でブース大将のレセプシヨン(DK420037k-0004)
第42巻 p.129-130 ページ画像

中外商業新報 第一四六〇〇号大正一五年一〇月一六日
     胸襟をひらきお互に感慨無量
      きのふは渋沢子邸でブース大将のレセプシヨン
十四日日比谷公園音楽堂の市民歓迎会に臨んだブース大将は、十五日も早朝から、旅の疲れも見せず、帝国ホテルで各方面の関係者に面接したが、午後二時からは故ブース大将とも
 縁故 深い渋沢子から招かれて飛鳥山の同子邸で盛んなレセプシヨンを受けた、出席者は実業家や社会事業家をはじめ各方面一流の人達ばかり
 大倉喜八郎男・阪谷芳郎男・平山成信男・浅野総一郎・大谷嘉兵衛・串田万蔵・有賀長文・福井菊三郎・江口定条・小野英二郎・服部金太郎・白仁武・林毅陸・門野重九郎・橋本圭三郎・藤田謙一・森村開作男・倉知誠夫・阪井徳一郎・山田三良・山室軍平、ウイリアムイーデー等の諸氏約八十名
先づ渋沢子は青淵文庫に出迎へ、堅い
 握手 を交はし、この遠路の客をねぎらひ、芝生におりて一同記念の写真を撮影した、子爵は往年を追想して
 「私は先代を廿年の昔にお迎へしたが、はからずも今日こゝでブース大将に御目にかゝり、更にその御令息も御同伴のことゝて、三代に亘つて御面接が出来た訳で非常に喜ばしい」
と述べ、これに対して大将は子爵の歓迎を心から謝し
 「亡父のことが出て私も色々なことを思ひ浮べる、父は日本国民に依つて深い感動を受けた」
と約四十分に亘る演説をして
 「私の事業の行はれるところでは、ローマでもブカレストでも、乞食は殆んど影をたつて行く、たゞ集金をして歩く救世軍だけは乞食だが……」などと
 聴者 を笑はせた、渋沢子も
 - 第42巻 p.130 -ページ画像 
 「世に宗教は多いが、精神的にのみに偏して力がない、而も世の富豪は力はあるが精神がない、社会事業のことは霊と力の一致にあるので、救世軍に望むところが多い」と述べ
来客一同胸襟を開いて歓談し、和気靄々裡に四時過ぎ子爵邸を辞した
   ○右ニ出席者トサレタル串田万蔵、小野英二郎ノ二名ハ欠席ナリ。


竜門雑誌 第四五八号・第一〇二―一〇八頁大正一五年一一月 ブース大将歓迎(DK420037k-0005)
第42巻 p.130-134 ページ画像

竜門雑誌 第四五八号・第一〇二―一〇八頁大正一五年一一月
    ブース大将歓迎
   青淵先生は来朝中の救世軍大将ブース氏一行を十月十四日午後二時《(五)》から飛鳥山邸にお招きになり、盛んなレセプシヨンを催された、出席者は主客を合して八十名であつたが、当日の青淵先生の歓迎辞並びにブース大将の演説は次の如くである。
      子爵歓迎の辞
 今日から恰度二十年前に、故ブース大将をお迎へした私は、此処に二代目の大将をお迎へすることの出来たのを欣びます。東洋には「英雄に二代なし」と云ふ格言がありまして、偉人は二代続かないと申しますが、ブース大将には此言葉があてはまらぬ、現大将は大将創始の救世軍をして益々発展せしめて居らるゝ優れた方で、英雄に二代ある証拠を示したものであります。誠に故大将は大いなる後継者を遺された。そして国家を超越して多くの人々に幸福を与へて居らるゝのであります。救世軍の働きが偉大であるのも、当然と申すべきでありませう。又日本に於ける救世軍には山室少将の如き人がある。と同時に其組織が非常によく出来て居りまして、私なども之を見て感心に堪へぬのであります。今日は種々御多忙であるにも拘らず、ブース大将始め皆様が此処にお出で下さつたことを感謝いたします。更に大将には其の御子さんをお伴ひになつて居る。故に私は故大将、大将及びお子さんと三代の方にお目にかゝつた訳でありますが、斯様に三代もの方が同事業に身を委ねられることは実にブース家の光栄で、天の特別なるお恵みがあるからであります。今日は此事業に関する大将の御意見を聞かせて頂き度いと存じ、尊来を願つたのでありますが、此処に居らるゝ皆さんも喜んで、謹聴せらるゝことゝ思ひます。
      ブース大将の演説
 私は先づ子爵の御親切に感謝致します。そして子爵初め皆様に対し救世軍の話が出来ることを光栄と致します。子爵が父の事に就てお話し下さつたことを、特に感謝するのでございます。父は日本の国民から受けた好意に感動して、単に感佩のみでなく、深い愛着をも持つて居りました。父は実際的の人でありました。其実際的の所が信仰の上にも力を添へました。又その信仰のみでなく、彼の宗教にもそれが力を与へまして、早くから弱い者に興味を持つたのであります。其考へることも、図ることも弱い人の為めでありました。一言に云へば無能力な人の力となることであります。父が宗教を重んじたのは、無能な人の力になるのに都合がよかつたからで、実際よく貧乏人に尽しました。私は前後四十年間、参謀として常に共に働きましたから、よくそれを知つて居ります。そんな訳で、人々の注意を惹かぬ、感化の及ん
 - 第42巻 p.131 -ページ画像 
で居ない弱い人々に注意しました。然らば何故にさう云ふ人が居るかと申しますと、沢山な人間がありますから、其中に何処か弱点のある人があるのは、已むを得ないので、それ等の人々は、他からの力をからねば立つて参ることが出来ませぬ。父は宗教上からも実際上からも左様な力の入用な人に対して、助力を与へることを喜びとしました。多くの心配や重荷もありましたが、仕事から喜びを感じて、落ちぶれた人を救ひ上げるのを、楽しみとしたのでありまして、実に救世軍は父の人格の反射であります。今日私の喜びと致しますことは、愛を奨励鼓舞する為めの団体である救世軍が出来、父の刺戟により、世に捨てられた人を助ける為め働いて居ることであります。併し救世軍は愛らしいものを愛するのではなく、愛らしくないものを愛することを鼓舞するものであり、単に善を進めるのみでなく、愛の奉仕をする団体であります。こうした言葉を許されるならば、どん底に落ちた、友もなく、家もなく、神もない人々に眼をつけて、これ等の人々の為め、骨を折るのであります。
 従つて現に私の気にかゝる事が三つあります。一つは、欧洲の大きな町には宿る処のない人達が多いことであります。ベルリン、パリー、ブタペスト、ローマなど、何時でも沢山な宿なしが居りますから、こうした人々を無くしやうと、ロンドンで成功してから、我々の努力により全部を片づけたいと非常な熱心でやつて居ります。二は乞食のことであります。何故乞食に注意するかと云へば、自分が乞食をして居るからであるかも知れませんが、如何にも乞食の数が多い為めであります。ボンベイ、カルカツタ等には沢山な乞食が居りましたので、救世軍で整理を致しましたが、政府でも大さうよくしてくれました。現在ではコロンボには乞食は居なくなりました。救世軍が働きます以外に政府も努力して、家を与へて救護した上、働きに出すようにして居ります。其処で私達の乞食救護の成績を見たと見えまして、北京政府でも北京の乞食に就て何とか方策はないだらうかと、相談を持ちかけて居ります。処が北京の乞食は余り沢山で、二の足を踏む程であります。先づざつと二万人は居ります。勿論之を全部引取りたいのは山々でありますが、物事の落ちつくまで引取り兼ねて居るのであります。私は日本を去れば、北京へも寄る考へでありますから、現状を観てから何とかしやうと思つて居ります。兎に角、私達が乞食をする以外の乞食を絶滅させる積りであります。第三には癩病の問題で、これは遺伝の如く云はれて居ります。救世軍は蘭領印度では、癩病患者の為め政府の要求もあつて働いて居りますが、新らしい計画として、患者を一ケ所に集めることなく、家族と同居せしめ、いよいよと云ふまで置く、先づ手がどうかする、足が失はれる、耳が或は眉が抜けるやうになると、すてゝ置けぬから病院へ入れる。それまでは自分の家で尽されるだけ尽させます。此事業の為め、同政府が一万エーカーばかりの土地を提供しましたから、二千人を収容する計画で事業を進めて居ります。さうした話に興味があるかどうか判りませんが、私達の最も困つて居るのは、未婚の患者を如何に取扱ふかであります。年頃になれば病気も徐々に進むが結婚もしたい、若い娘が或は男子が、足の何処
 - 第42巻 p.132 -ページ画像 
かに徴候が一寸ある位だとしますと、若しさうした人の結婚を拒絶することになれば、他に困難が生れる。然し此等の男女が結婚すれば、子供が出来、其子供に影響して二代目まで癩病患者をつくることになる。かくして問題は中々難しいのであります。
 救世軍はさう云ふ気の毒な人々の世話をすると同時に、真の友達にならうと努力して居りますが、他面に、さう云ふ人々自身が、救世軍は自分等の友達であると云ふ風に理解しだしたのであります。斯の如く助けられる人々が、救世軍を理解して呉れることは非常に好都合であります。一例を挙げますと、ロンドンにごろついて居る人が小さい時から仕事をしなかつたが、救世軍が世話をするなら働いてやらうと考へてくれるのは、私達の大きな資本であります。実際さう云ふ落ちぶれた人が、救世軍を信用して呉れるのは非常な力であります。で、さうした人が救世軍の軍人を見て、彼等もひよつとすると嘗て自分等と同様の境遇にあつた者だらうと思ふ場合もありませうが、左様に考へられるのも結構であります。曾てメルボルンの電車で、泥酔者が釣革にぶら下つて苦しさうにして居るのを見た救世軍の一人が「兄弟おかけなさい。私が立ちます」と云つて席を譲つた処が「此電車の中で酒に酔つた者の気持の判るのは君だけだ」と申したさうであります。此酔漢は、救世軍の人がかつて酒呑であつたから同情が出来、自然酒呑みの自分を助けたと思つたのでありませうが、そう思つてもよいのであります。又数ケ月以前のことでありますが、一人の女性に会ひました。此人が少し飲んで居りました。見かけた処美人でもあり立派な児を持つて居ります。色々話した処「私は悔ひ改めても駄目である。余りに酒が親し過ぎて飲まずには居られません。然し救へるなら救つて欲しい」と申しました。幾度も申すことですが「頼れば救つてもらへる」と信用されるのが、大なる力であります。
 救世軍は又進歩した国々に於て、夫々の秩序ある働きをして居ります。これは或は政府が認めて力を与へ助けて居てくれるものもあるので、或る階級に働く道を開いて居るのであります。英・印・米・独、若くは仏・和・瑞に於ても、同様の仕事を為しつゝあります。
 救世軍の兵士は、愛と実行の精神を持つて居りますから、平生の交際にも、高い標準で働くことを念とし、たゞ単なる唯物的の考へを敵として立つのであります。そして自分自身の道徳を重んずると同時に自ら精神の変化を感じ、神を信ずる性質が変つたことをも経験して居ります。先には偽つた者が変化し、汚れた世渡りの者が見違へるやうな生活に入ります。唯物的な人々に反対するやうになる経験を持ち、同時に自分の友達がこんな人にもなり得ると云ふ、まぼろしを見、道徳的の力が生涯に働く、高い人から善と認められ、他の世界から善しと認められ、友人の間に高い望を持つのであります。従つて、現在行はれて居る社会主義・共産主義等過激なる主義の反対の立場に立ちます。それらの主義は唯物主義であるからであります。そして愛の宣伝者となり、奉仕者となります。
 私は今日救世軍に興味を持つ人々の非常に進歩して居ることを喜びます。私は先刻も申したやうに、亡き父が居て此席に出席出来たらど
 - 第42巻 p.133 -ページ画像 
のやうに喜ぶだらうかと思ひます。私が嘗てボストンへ参りました折或るスピリチュアリストが参り、父の霊からの伝言があると云ひますので、それは「何か」と聞きますと「前大将の伝言によると、天国へ行つたが、どうも取計ひがよろしくないから、大いに改革をやつて居る、と伝へて呉れとの事であつた」と申します。或は左様かも知れませぬ。又ロンドンへ帰つた所、別のスピリチュアリストが、伝言があると申しました。此人は貴族でありましたが、私は其の伝言を書いて下さいと云ひました処、手紙に書いてくれました。それには「救世軍の仕事をよくやつて集金に勉強しろ」とのことで、爺の云ひさうな事だと苦笑しました。それは兎もあれ、身勝手でなく、安全に向上せしめることに努め、多く下層にある人々を引上げるに力を尽して居ります。要するに救世軍は、其生ひ立ちに於ても、援けると云ふことを仕事として居るのであります。此処にお集りの方々の中にも、斯かる仕事に従事さるゝ人も多いことゝ思ひますが、貴方方の仕事が成功することを祈り、重ねて此処に子爵に又皆様に感謝致します。
      子爵の答辞
 御懇切な御話を深く喜び厚く御礼申上げます。救世軍のことに関しては、故大将のお越し前から知つて居りましたが、斯様にお親しくするに及んだのも、一つは霊の力であり、其の助けに依るものでありませう。実に宗教は尊いのであるが、此世の中は霊のみでは進められず経済的な力をも必要とするのであります。即ち私の唱導する経済道徳合一の主義はそれでありますが、救世軍は此両方面に力を尽して居られる。前大将が御出でになつた折、其の御話を聞き、大いに趣旨に感動し、賛成したのでありました。今日此処に集りました方々は、政治界・経済界・教育界等一般社会の主脳に立つ人々のみと云つて過言でないと思ひます、何れも各の方面に於て社会の改善と云ふことに努力して居られるのでありますから、只今大将の御意見を承つて感動せられたことゝ思ひます。殊に私は、癩病の事に就ては別して深い感触を有つのであります。日本に於ても、癩患者の救済が稍其緒についたと云ふ状態でありまして、到底完全と申すことは出来ませず、之を完成することは中々容易でないけれども是非さうしたいと思つて居ます。要するに、社会のことは急に進むものでないから、漸々に進ましむるより外はないと思ひます。私達は微力の為め、事多きに対し常に力の不足を嘆じて居ります、献身的に社会的に尽すべきことは、有り過ぎる程沢山あります。従つて只今の御演説を忘れぬやうに致しまして、努力致したいと思ひます。世の中には思ふやうに行かぬ事の多いのを憂へる人が多く、私も之を憂へる一人であります。前大将が御帰国の折、日本の社会事業に対する三つの希望を云はれました。然るに残念ながら今日に於ても、此等が完全になつたと云へぬ状態にあります。只今大将のお話に依りますと、スピリチュアリストが二人まで、大将に前大将の伝言を伝へたさうでありますが、若し私への伝言がありとすれば「あの希望に対する確答をせよ」と云はれるでありませう。然るに之に対しては、私は顔を赤くして答へる処を知らないのであります。謹でブース大将に御礼を申上げます。
 - 第42巻 p.134 -ページ画像 


ときのこゑ 第七三五号大正一五年一一月一五日 歓迎!勝利! 各地に於けるブース大将(DK420037k-0006)
第42巻 p.134 ページ画像

ときのこゑ 第七三五号大正一五年一一月一五日
    歓迎!勝利!
      各地に於けるブース大将
 ▽東京の集会
ブース大将は、十月十五日午後、飛鳥山の渋沢子爵邸に於けるレセプシヨンに臨まれた。子爵を初めとし、一流の実業家・政治家・社会事業家数十名が一堂に会し、山室少将の紹介にて、大将は一人一人と握手をされた。
 それより庭園を一巡して大広間に集り、子爵の歓迎の辞の後、少将の通訳にて、大将は一場の講演を試みられ、終りて晩餐会に移る、和気靄々たる会合であつた。○下略


(ブラムウェル・ブース) 書翰 渋沢栄一宛一九二六年一〇月二〇日(DK420037k-0007)
第42巻 p.134-135 ページ画像

(ブラムウェル・ブース) 書翰 渋沢栄一宛一九二六年一〇月二〇日
                    (渋沢子爵家所蔵)
      International Headquarters,
         London, E.C.4.
Private.
      TOKYO, WEDNESDAY 20th October, 1926
My dear Friend,
  Again I want to thank you for your kindness in receiving me into your home and arranging for the meeting with so many important gentlemen of your City. The sympathy which you expressed with me in our work and which has been so frequently manifested in recent years, as well as the opportunity you gave me for visiting that remarkable Institution at Itabashi, leave me deeply indebted to you. I pray that the blessing of God, Who is in Himself the chief good of the human spirit, may rest upon you and upon all you love. I shall pray that this may be so.
  Your allusion to my dear Father leads me to think that you may like to see a book of Memories which I have lately published, and I venture to send you a copy which I hope you will do me the honour of accepting.
  I am, my dear Viscount Shibusawa,
           Yours sincerely,
            (Signed) W. Bramwell Booth
Viscount Eiichi Shibusawa,
  Asukayama,
    Oji, Tokyo.
(右訳文)
          (栄一鉛筆)
          十五年十一月一日一覧
          (反響及紀念)ハ早々大意にても翻訳致し一覧致度候事
 - 第42巻 p.135 -ページ画像 
 東京府下王子町飛鳥山           (十月廿一日入手)
  子爵 渋沢栄一閣下
            東京、一九二六年十月廿日
             ダブルユー・ブラムウエル・ブース
拝啓、益御清泰奉賀候、然ば尊邸に御招被下、東京に於ける多数の有力者諸氏に会見の機を御与被下候御親切に対し、玆に重ねて厚く御礼申上候、直接承候救世軍の事業に対する御同情、又近年度々表はされたる御同情、更に今回は板橋に於ける驚異すべき施設(養育院)参観の機会をも与へられ候御好意に対し、拝謝の辞無之次第に御座候、人類の精神に籠れる徳性中最善性を具有する神の恵が、閣下並に閣下の愛せらるゝ人々の上に豊ならんことを玆に祈ると共に、将来永く常に神かけて祈るべく候
御高話の父のことに及びしことより或は御興味も候はんかと存じ、此頃出版の拙著「反響及記念」を一部拝呈仕候間、御受納被下候はゞ幸甚の至に存候
右得貴意度如此御座候 敬具


雨夜譚会談話筆記 上・第八―一五頁大正一五年一〇月―昭和二年一一月(DK420037k-0008)
第42巻 p.135-137 ページ画像

雨夜譚会談話筆記 上・第八―一五頁大正一五年一〇月―昭和二年一一月
                     (渋沢子爵家所蔵)
  第一回 大正十五年十月十五日 於飛鳥山邸
○上略
 敬「次には、恰度今日ブース大将も見えましたので、前大将なり、現大将なり、又救世軍に対する御感想をお願ひ致します」
先生「私が、救世軍を援助する様になつたのは、救世軍そのものよりも山室軍平氏との知合ひからである、山室は廿年も前から知つて居り、最初に会つた時は、廿歳そこそこの年配でありました。中々活溌で、うかつな事もせず、実着に救世軍の為に働いた、多少そつじの嫌はあつたが、必らずしも生意気ではない、例の廃娼問題で、女郎屋側から殆んど腕力汰沙にも及ばれそうであると聞いては、主義の為行きがゝり上やる事なら止むを得ず、悪いことではあるまいと思つて、山室其人を見、其宗教を以て人心を救ひ、職業をも与へ労役にも就かせる。そして只単に働くのみでなく、精神と肉体とを共に改善する方法でやると云ふのであるから、社会事業としては助けて行くべきものとして、山室に力添をして居た。処が、其内救世軍の方は愈組織が固つて段々完成して来る。此時に当つて、其発意者であるブース大将が日本に来ると云ふので、其歓迎をすることに賛成した訳であります。実際此処まで事業を拡張したのは容易な事ではない。全く偉人であると思つたから、其人の精神や趣旨を詳しく知り度いと、個人としての歓迎会も開き、ブース大将に養育院をも見せました。兎に角、救世軍と私との関係は、山室と私との関係でありました。又大体に霊と肉とを働かせるのがよいと思つた、即ち信仰心を起させて霊を救ふ、然しパンがなくては何事も出来ぬので働かせると云ふ。根本の主旨はどうか知らぬが、其方法が経済道徳の合一と似通つて居りますから、特に此飛鳥山へ呼んだ訳で、名高
 - 第42巻 p.136 -ページ画像 
い人、評判の人だから歓迎したのではないのであります。爾来救世軍には幾度か寄附もしましたが、ブース大将との交際は、皆山室からの関係であります。何時頃からか、森村さんも相当の寄附をする様になりましたが、実際救世軍は比較的よいものと思ひます、主義の立派なものであつても、それに人が伴はなくては無暗に賛成は出来ない、如何に孔子の主義がよくても、之れを奉ずる人が悪ければ反対に扱はれ、良い人ならば良く行はれることになる故に、奉ずる主義と人との関係を見て、よい主義をよい人が行ふのがなるべく結構であります。然し主義を以て人を救ふ以上、如何なる人でも拒まずではなくして《(マヽ)》はならぬ、救世軍もそうであるが、野依秀市の真宗も左様だと云ふことであります。野依の云ふ所によると、真宗に行けば如何なる不心得者も阿弥陀様は同じ様に可愛がる。心掛がよいと可愛がるが、心掛が悪いと可愛がらぬと云ふのでは、阿弥陀様は駄目であると云ふことであります。救世軍など、其人が賢者で行がよいのに不幸であるから救ふが、心掛の悪い人は自業自得であるから救はぬのでは、真の救済にはならぬ。救ふ以上は公平に救はねばならぬと思ひます。一宮(鈴太郎)などは区別する方で、米国にある邦人の救済のことを相談した所、悪いものであるから救はぬでもよい、と云ふ様な事を云つて居た。これは金をなるべく出すまいと云ふ所から云うたのであるが、私は前申した通り、救ふ以上は其人が心掛が悪いとか善いとか区別して考へる筈のものではない、と云ふ意味を話した事があります。要するに、私が救世軍に力を添へるのは、単なる基督教よりも強い働があり、効果が多いと思ふからであります。多少とも雑駁な嫌がないでもないが、霊肉一致で、山室が弊害なくやつて居る、本当のもので、いかさまものではないと思ふ」
 敬「前ブース大将が来朝した当時、救世軍は我官辺では頗る評判が悪かつたと申しますが、御祖父さんが力を入れだしてから取扱などもよくなつたそうです」
先生「さあそう云ふ気味が幾らかあつたと思ふ」
白石「此事は今日留岡さんから聞きましたが、当時の警保局長が非常に救世軍反対であつた相であります」
先生「何故そんなに嫌つたろう」
白石「留岡さんの説明では「サルヴエシヨン」と「ソシアリズム」とを一しよに考へて居つたと云ふことであります」
 敬「成程クリスチアン・ソシアリズムと見た訳でありませう」
先生「間違ひそうだ。廃娼問題等も物々しく、まるでぶちこわしにかかつた様に見えたから」
増田「救世軍を実業界へ紹介したのは子爵で、ブース大将は又日本では子爵に頼ると云ふ風でした、清浦さんなども単に個人として後援したが、子爵は実業界の人々と共に助けられ、病院を下谷や雄司ケ谷へ建てた時、随分御援助になりました」
 敬「森村さんはどう云ふ関係にあつたのですか」
先生「三万か四万救世軍に金の入用があつた時、森村さんに相談した
 - 第42巻 p.137 -ページ画像 
雑司ケ谷へ病院を建てた時であつたと思ふ、初めあの人は仏教に行き雲照律師に帰依して居た」
 敬「近角さんが、森村さんの基督教に行つた事を歎いて居るのを聞いた事があります。話は変りますが、両ブースを比較した処はどうですか」
先生「それは前の方が偉い、今の人よりも第一気質が強い。よく接触して見ねば判らぬが、一方は何分一派を開いた人である。今日の話でも父は斯うして呉れたと云ふ風で、極端に云へば比較にならぬ。叮寧に考察して見ねば、詳しい批評は出来ないが――我より古きをなす人と、人の足跡を踏む人では、どしても其処に異つたものがある。才能などは、よく研究して比較せねば解らぬ。然し大分異ふと思ふ」
   ○此回ノ出席者ハ栄一・渋沢敬三・増田明六・白石喜太郎・高田利吉・岡田純夫。