デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
4節 キリスト教団体
1款 救世軍
■綱文

第42巻 p.138-144(DK420040k) ページ画像

昭和3年6月20日(1928年)

是日栄一、神田区一橋通ノ救世軍日本本営復興落
 - 第42巻 p.139 -ページ画像 
成式ニ祝辞ヲ寄ス。


■資料

渋沢子爵と救世軍 山室軍平稿(DK420040k-0001)
第42巻 p.139 ページ画像

渋沢子爵と救世軍 山室軍平稿     (財団法人竜門社所蔵)
○上略
一、昭和三年六月二十日、神田区一ツ橋通町に救世軍本営の復興落成を告げ、之が開営式を挙行す。復子爵より懇篤なる祝辞を寄せられたり。即ち左の如し
   救世軍ノ日本々営ハ、去ル大正十二年ノ大震災ニ因リテ空シク灰燼ニ帰シタルガ、玆ニ其復興成リテ開営式ヲ挙行セラルヽニ至レルハ、慶賀ニ堪ヘザル所ナリ
   救世軍ノ事業ノ我ガ邦ニ創メラレタルハ、早ク三十三年前ニアリト雖モ、初メ世人ハ多ク其主義精神ヲ解セズ、徒ニ事ヲ好ミ声ヲ大ニシテ名ヲ衒フモノト誤認セリ、余ガ如キモ亦実ニ其一人ナリシガ、山室軍平氏ト会談スルニ及ビテ、本軍ハ真摯ナル基督教ノ一団体ニシテ救霊ヲ以テ第一義トナシ、其階梯トシテ諸般ノ社会事業ヲ行ヒ、尤モ力ヲ下層ニ沈淪セル民衆ノ救済ニ致サントスルモノナルコトヲ審ニシ、且日本司令官以下各位ノ熱誠ナル行動ニ因リテ顕著ナル成績ヲ挙ケツヽアルニ感激シ、是レヨリ聊微力ヲ添フルニ至リシガ、後本軍ノ創始者タルウイリアム・ブース大将及二代ノ総督タルブラムヱル・ブース大将ノ相継デ渡来セラルルニ及ビ、親シク会晤シテ其崇高ナル人格識見ニ服スルト共ニ、深ク本事業ノ緊切有用ニシテ、将来益々発達セシメザルべカラザル所以ヲ知レリ
   抑モ救世軍ハ理論ヲ排シテ実行ヲ主トセリ、是ヲ以テ費用少クシテ効果多シ、是レ一般社会事業団体ニ於テモ大ニ学バザルべカラザル所ナリ、明治ノ末年ニ及ビ、本軍ノ社会事業上ノ功績畏クモ天聴ニ達シ、爾来歴代ノ皇室ヨリ数々優渥ナル奨諭ト金品ノ御下賜トヲ辱クシ、内務省其他ノ官公署ヨリモ諸般ノ施設ヲ幇助セラルヽノミナラズ、山室氏ニ対シテ特ニ叙勲ノ恩命ヲ降サルヽニ至レルモノ、決シテ偶然ニアラザルナリ
   今ヤ内外多事ニシテ、人心甚シク動揺セリ、此時ニ当リ、本営落成シテ其活動ノ本拠ヲ固クスルコトヲ得タルハ、頗ル人意ヲ強クスルニ足レリ、庶幾クハ、士官各位、更生新鋭ノ意気ヲ以テ、益々奮励シテ、第一世大将ノ主義精神ヲ発揚スルニ努メラレンコトヲ
  是レヲ祝辞トナス
   昭和三年六月二十日          子爵 渋沢栄一
○下略


救世軍本営開営式順序書(DK420040k-0002)
第42巻 p.139-140 ページ画像

救世軍本営開営式順序書          (渋沢子爵家所蔵)
    救世軍本営
      開営式順序書
 昭和三年六月二十日(水曜日)午後二時開会
  軍歌
 - 第42巻 p.140 -ページ画像 
  祈祷           大佐 矢吹幸太郎
  聖書朗読         中佐 植村益蔵
  軍歌
  式辞及報告        少将 山室軍平
  献堂の祈
  ブース大将よりの祝文朗読 大佐 バグマイヤ
  軍歌
  祝辞              内閣総理大臣閣下
                  宮内大臣閣下
                  内務大臣閣下
                  文部大臣閣下
                  司法大臣閣下
                  東京府知事閣下
                  東京市長閣下
               子爵 渋沢栄一閣下
        メソヂスト教会監督 鵜崎庚午郎君
  軍歌              唱歌隊
  演説     農学博士法学博士 新渡戸稲造君
  奏楽              参謀音楽隊
  祝祷
  君が代
  閉会



〔参考〕竜門雑誌 第四八一号・第三七四―三八〇頁昭和三年一〇月 渋沢子爵と救世軍 山室軍平(DK420040k-0003)
第42巻 p.140-144 ページ画像

竜門雑誌 第四八一号・第三七四―三八〇頁昭和三年一〇月
    渋沢子爵と救世軍
                      山室軍平
      一
 日本の救世軍を今日あらしむる為に、外部から後援者とし、又軍友として、賛助せられた方々の多くある中に、渋沢子爵の如きは其の随一に挙げねばならぬお方である。
 渋沢子爵が、始めてあらはに救世軍を賛助せられたのは、明治四十年、軍の創立者、大将ウイリアム・ブース来朝の時の事であつた。其の少し前に私は島田三郎氏の御紹介状を得て、子爵を飛鳥山の邸にお訪ね申上げ、大将の歓迎に就いて御相談申上げると、子爵は喜んで其の企を賛成せられ、東京市会議事堂に於ける其の歓迎会に出席して、長文の歓迎の辞を朗読せられたのみならず、数日の後には大将を案内して養育院を参観せしめ、又飛鳥山邸に朝野の名士二百余名を集め、大将から其の社会改善に関する講演を聴聞せらるゝやうなことゝなつた。此は唯半日の催に過ぎなかつたけれ共、其の影響する所は案外大きかつた。といふのは、此等の事が当時追々芽ばえんとしつゝあつた我が朝野有識者の社会事業に対する注意を、促進し、助長し、或る意味に於ては、此等の催が日本に於ける社会事業の一新紀元を象徴したものといふても可いやうに見えたからである。それと同時に、此の時迄約十二年間、いぢめられたり、迫められたりし乍ら、頻りに事業上
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の基礎工事をやつて居つた日本の救世軍が、かうした機会を以て、始めて社会の明るみに引出され、爾来其の運動上に多大の便宜を得るに至つたのは、これ亦忘るベからざる事実であった。
      二
 ブース大将は、日本に於ける一ケ月余の滞在を終ヘて、帰英せんとするに先だち、大隈重信侯・渋沢子等九人の紳士に宛、それぞれ懇ろなる書面を発し「今後何分日本救世軍の為に援助を与へられん事、又差当り一貧民病院を設立したい計画があるにつき、それに助力を与へられんこと等を依頼して行かれた。そこで幾程もなく、右九人の紳士方は名を連ねて、救世軍病院設立の計画を助くる為に、帝国劇場にて二回の慈善観劇会を催さるゝことゝなつたのであるが、これは其の実渋沢子爵が主となりて、大隈侯等と打合せ、時の東京市長尾崎行雄氏と連絡をとつて、其の計らひをせられたものゝ如く見えた。
 此の慈善観劇会の催をせらるゝ前に、私は帝国劇場の一室にて子爵に御面会申上げたのを記憶して居る。私は子爵から此度の御計画の事を窺うた時、甚だ言ひづらかつたけれ共、止むを得ず正直に私共のそれに就いての立場を申述べたのである。「実は私共の救世軍では、平生成るべく芝居など見物に行かず、其の時間と金銭とを、もつと有益なことに用ひよといふやうなことを教へて居ります。然るに此度のお催は、救世軍の為の慈善観劇であるから、今度に限つて見にお出なさいと言ひ出したのでは、平生の主張と矛盾します。どう考へても主義を二、三にする如き恐がありますから、折角のお催に対して甚だ相済まぬことながら、此度の慈善観劇会には、私共としては誰一人見物に参らず、又一枚の切符をも売らないことを許して戴きたいのですが、如何のものでせうか」と、此は当時まだ日蔭者のやうな状態にあつた救世軍を、折角引立てゝ日向に出さうとして下さる有力者方に対して甚だ失礼な言分とは思ふたが、しかし実際止むを得ないことであるから、心配しひしひ正直ありの儘の処を申述べたのであつた。すると子爵はそれを聴き終つて、「成程、それがあなたがたの主義であるなら主義は大事なものであるから、どこ迄も尊重したが宜しい。就ては此度の観劇会に対し、救世軍では切符も売らない。見物にも来ないといふことは、それで可いとして、然しさうして作つた金は受取らないと言ふかね」とのお尋であつた。それに対して私は、「否その事に就いては、あなたがたの御寄附下さるお金を、どうしてお作りになつたか迄立入つて、私共がかれこれ申上げるべき筋とは心得ません。そこはブース大将が曾て申しましたやうに、私共はその寄附せられた金を、寡婦と孤児との涙で洗うて使用すれば可いわけであらうと思ひます」と、此んな御返事を申上げると、子爵は些とも悪い顔をせず、反つて非常に興あることとして聴き取られ、乃ち私共の方では其の為に指一本動かさずとも、一切の事は専ら観劇会の方で弁ぜらるゝことに取定められ、前いふ如く二回の同じ催の結果、程なく救世軍病院設立費の内へ金八千五百円を寄贈せらるゝことゝなり、それに英国の慈善家エミリー女史からブース大将を通じて贈られた金を合せ、計五万円を投じて、下谷区仲御徒町にちよつとした一病院を設立することゝなつた
 - 第42巻 p.142 -ページ画像 
のである。私は当時の事を憶ひ出づる毎に、子爵の海の如く大な度量と其の他人の主義を重んぜらるゝことゝ、又其の救世軍に対する理解ある賛助とを、いつになつても感佩に堪へないのである。(因にいふ此の病院は後に一遍改築したのが、大震災の為に焼失したけれども、それを機会に更に之を拡張する筈にて、目下浅草区北三筋町に、約金四十万円を投じ、前よりずつと大規模の物を建築の最中である。)
      三
 子爵が救世軍の事業に対して、熱心なる賛助者となられたわけは、軍の創立者に出会うて、彼の崇高なる人格、又徹底した見識に共鳴せられた為でもあらう。其の大将からの懇篤なる使頼状に対し、片肌脱がるゝに至つた為でもあらう。けれ共それと同時に、子爵は又自分で親しく救世軍の施設を見てまはられ、其の規模の小さく、設備は貧弱であれど、それにも拘らず、一同がどこ迄も献身的に、真剣に事に従うて居るのを観て取られ、之を引立てゝやらうといふ決心をせられた事にもよるものゝ如く見える。其の曾て私に告げられた言に、「山室君、実業家は金を作ることを知つて居るばかりか、どんなに之を使うたら可いかといふことを弁へて居る。それだから、自分らよりも余り下手に金を使ふと見ると、出したくなくなる。しかしあなたの処では比軽的僅かな金で大きな事業をなし、金が活きて働いて居るやうに見えるから、それで私は熱心に賛助して居るのです」と、言はれた。又他の場合に自ら筆を執つてしたゝめられた長文のお手紙の中に
   老生が特に本軍の挙措に敬服する所以は、常に博愛弘済の大道を基礎とせられ、事を処するや真摯質実にして、苟も形式理論に偏せず、要は其事物の真相に徹底するにありとす。是を以て其の費途僅少にして、能く優秀の成績を見る。是れ本軍の一特長所にして、而して其世間を裨補するの功亦偉大なりといふを得ベし。
といふて居らるゝ。私共は果して子爵の御言通りに、其の事業経営し得て居るか、否やを、自分でも危むのである。しかし乍ら期する所はどうか右の御言に副ふやうに、之をやつて行きたい事である。それにしても子爵が斯く迄、行届いて私共の事業に注意を払ひ、勿体ないやうな理解を以て、なんぞの機会には、あらゆる援助を与へらるゝことを、心から感謝して居るのである。
      四
 其の以来、府下和田堀町に結核療養所を設けた時にも、太平洋沿岸の米国に、救世軍の日本人部を開いた時にも、神田区一つ橋通町に救世軍本部を建てた時にも、ブース大将第二世の七十の賀に対しても、又同大将の来朝歓迎に対しても、子爵はいつも率先して、自ら多大の援助を与へらるゝのみならず、亦各方面の紳士を勧誘して、此等の計画を助けしめられたお蔭で、何れも意外の好結果を見るに至つたのである。のみならず名古屋にて会館を設けるといふては、子爵からのお手紙を戴き、大阪に社会事業を創めるといふては、子爵の御紹介状を願ふなど、私共が折にふれた事に応じて、子爵を煩はしたこと如何ばかりか知れない。私は何遍か、今度は子爵の御助なしにやつて見ようと、或る財政上の運動に取りかゝつたが、さて愈事を進めて見ると、
 - 第42巻 p.143 -ページ画像 
行く先々で「此の事に就いて渋沢子爵は何を言はれますか」とか、「既に渋沢子爵には、御相談になりましたか」とか、いふやうな問をかけられ、どうしても、亦子爵の御厄介にならねばならないやうな場合が一再ならずあつた。
 欧洲大戦の突発して間もない頃、某大会社の重役某氏が、用事があつて大隈重信侯を早稲田の邸に訪問せられ、誘はるゝ儘一室に入れらると、今しも侯と渋沢子爵とが頻りに何事か語り会つて居られる最中であつた。聞くともなしに聞いて居ると、「どうもあれ程本気でやつて来た仕事を、戦争の影響で行悩ませては気の毒である。是非何とかしてやらねばなりますまい」と言ふやうなお話である。何のお話かと訝つて居ると、やがてそれは救世軍の事であると解つたので、「さては救世軍もえらい所に真実なる同情者を得たものである」と、重役は用事を終ヘて早稲田からの帰途、救世軍本部に私を訪ねて、今見て来た事実を語つて、一緒に喜んでくれられたやうなこともあつた。
 私は又渋沢子爵が、幾年かの前に言はれたことを想ひ出すのである「大隈侯と、森村男(故市左衛門翁)と私とは、真剣に救世軍の為を思うて、援助して居るのだが、何れも年寄ばかりでお気の毒である」と。
 私は英国の昔にシヤフツバリー卿といふがあつて、身を社会の上流に置きながら、社会のどん底に沈んで居る人々の事を、我が事のやうに心配し、各種社会事業の後援者・庇護者として、非常な尽力をせられたことを聞いて居る。而して渋沢子爵は一面に於て、少くとも日本のシヤフツバリー卿と呼ばれて然るべき方ではないかと、いふやうなことを感じて居るのである。
      五
 或時F某といふ男があり、何年か刑務所に行つて居つた後、放免になると渋沢子爵を訪問した。もとより前々から面識があつたわけでも何でもなかつたらしい。此のF某は聊か誇大妄想のやうな傾を有つたもので、誰かに数万円の金を出してもらひ、或る事業をしたいといふやふな、実行不可能と覚しきことを夢想して居つたのであるが、彼の妻は夫に似ない働きのある女で、現にどこかの賄方を勤めて多少の収入を有し、夫がおとなしくさへして居れば、之を養ふに不自由はなかつた、こんな男が子爵を訪問したのであるから、子爵としては「大袈裟なことばかり考へないで、落着いて手におふ仕事を勤め、家内と仲睦しく暮したが可からう」といふ位に忠告でもして返されたら、それでも済まない筈はなかつたのであるが、子爵はそんなことでは満足せられなかつた。一面には、彼を釈放者保護で有名な原胤昭氏に紹介して、懇ろに依頼せらるゝ所あり、更に亦私にも同人の事を頼んでよこされたのである、それで安心して居られるかと思つたら、数週を経て或日子爵から私の処へ電話があり、「一寸会ひたい」とのことであるから、直ちにお訪ね申上げると「時にF某の事はどうなりましたらうか」とのお尋であった。私は此の時くらゐ、子爵が申訳の為でもなければ、誰に対する義理からでもなくて、本当に人間一人を心にかけらるゝ方だといふことを、痛切に感じたことはなかつた。子爵は直ちに
 - 第42巻 p.144 -ページ画像 
人間を愛する人である、真の博愛家であると、私は其の時以来、尚更子爵に敬服するに至つたのである。
      六
 斯して私は、去二十有余年、子爵から事業上に、多大の援助を与へらるゝにつけても、若し何か多少でも、私の方から之に報ゆる法があつたら、尽したいと真面目に考へて見たが、それは唯一つ、私が毎日神の御前にぬかづく時、子爵の上に祝福あれと祈る以外に、何も見出し得なかつたのである。それ故私はそれを勤むることにしました。既に少くとも二十余年間、私は毎朝神の御前に、子爵の名を呼んで、其の上に御助の加はらんことを祈らぬ日とてはないのである。それと同時に今一つ、子爵は誰も知る如く論語によつて安心立命を得て居らるるお方ではあれど、私共の信仰から言へば、どうか更に一歩を進めて孔子の所謂「天」を、基督の「天に在す我等の父」と認められ、孔子の所謂「未だ生を知らず焉ぞ死を知らん」から進出して基督の「我は復活なり、生命なり、我を信ずる者は死ぬとも死なず、凡そ生て我を信ずる者は、永遠に死を見ざるベし」といふ処に到著して下さるならどんなに幸福のことであらうと、思はざるを得なかつた。それ故折々は、そんな意味のことを御話の中に混へ、又は手紙の端に記して差出したやうなことも幾度かあつたが、それがどれ程お役に立つたかは、私の全く知り得ない処である。たゞ此うした非礼に近い行動の奥に、いかにもして子爵の御親切に、多少でも報いたいと願ふ真実の籠つて居つたことを、明言するに憚らないといふ迄である。私は尚も幾久しく天父の恩寵、渋沢子爵の上にあらんことを祈りつゞくるであらう。