デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
4節 キリスト教団体
1款 救世軍
■綱文

第42巻 p.147-157(DK420043k) ページ画像

昭和4年11月13日(1929年)

是日栄一、アメリカ合衆国救世軍総司令官エヴァンジェリン・ブースノレセプションヲ、飛鳥山邸ニ催ス。


■資料

(ヘンリー・ダブリュー・タフト)書翰 渋沢栄一宛一九二九年一〇月一六日(DK420043k-0001)
第42巻 p.147-148 ページ画像

(ヘンリー・ダブリュー・タフト)書翰 渋沢栄一宛一九二九年一〇月一六日
                    (渋沢子爵家所蔵)
Cadwalader, Wickersham & Taft
                    76 William Street
                      New York
                    October 16, 1929
Viscount E. Shibusawa,
  Tokyo, Japan.
My dear Viscount :
  This letter will introduce to you Commander Evangeline Booth, who is at the head of the Salvation Army in this country. It is especially fitting that Miss Booth should be made acquainted with you, who are engaged in so many good works in your native country, and I am glad to be the means of bringing you and her into personal contact. You, of course, know of her gerat work for humanity as the leader in this
 - 第42巻 p.148 -ページ画像 
country of the Salvation Army. I have been much interested in that organization for a good many years, and I am sure that anything that Commander Booth attempts to do in your country will result in the uplifting of the depressed and illconditioned part of your population.
  I hope that your health continues to be good.
  I have had the pleasure recently of seeing and entertaining the officers of your Training Squadron in this city,―― a fine body of men. Admiral Nomura I found to be one of the finest of your race.
  With kind regards, I am,
            Very sincerely yours,
             (Signed) Henry W. Taft
HWT-cpr
(右訳文)
          (栄一鉛筆)
          四年十一月十一日一覧
          来ル十三日にはブース女史と会見之筈ニ付、其際此来状を女史に一覧せしめ余とタフト氏との関係を説明し、畢而此来状ニ対し、意義ある回答書を発送致度事
 東京市                 (十一月六日入手)
  渋沢子爵閣下
              紐育市
   一九二九年十月十六日  ヘンリー・ウイリアム・タフト
拝啓、益御清適奉賀候、然ば当国救世軍の主脳者たるエヴアンゼリンブース女史御紹介のため、一書拝呈仕候、貴国に於ける非常に多方面なる公益事業に従事せらるゝ閣下と、ブース女史とが御懇親と相成候は、特に当を得たることに御座候、閣下を女史と親しく御会見相成候様御仲介申上候は、小生の欣幸とする処に候、同女史が当国に於て、救世軍指導者として人類のための大事業に従事せられ候義は、勿論閣下も御承知の事と存候、小生は多年此団体に対して大いに興味を有するものに御座候、貴国に於てブース司令官の企画せらるゝ事は、何事にせよ、貴国民中の沈淪不遇の境にある人々を向上せしむる結果を将来することゝ確信仕候
閣下には益御健勝ならん事を奉願候、最近当市に於て貴国練習艦隊の将校諸氏――優秀なる人々の一団――と会見饗応致候は欣快不禁候、野村中将は貴国人中最も卓越せる人士の一人と御見受申候
右得貴意度如此御座候 敬具


救世軍米国総司令官ブース女史歓迎会書類(DK420043k-0002)
第42巻 p.148-149 ページ画像

救世軍米国総司令官ブース女史歓迎会書類
                     (渋沢子爵家所蔵)
(控)
拝啓、益御清適奉賀候、然ば今般御来遊相成候に付ては、聊か御歓迎
 - 第42巻 p.149 -ページ画像 
の意相表度、来十一月十三日午後三時より、飛鳥山拙宅に於て、レセプシヨン相催候間、御迷惑恐縮ながら、尊臨被成下度候、右御案内申上度、如此御座候 敬具
  昭和四年十月廿六日            渋沢栄一
    エヴアンジエリン・ブース殿
    リチヤード・グリフイス殿
                  各通
    メリー・ウエルチ殿
    プリンドレー殿
(欄外記事)
 [昭和四年一〇月二六日奉書捲紙ニ認メ、救世軍本営山室少将宛ニ使ヲ以テ届ケ置候也


救世軍米国総司令官ブース女史歓迎会書類(DK420043k-0003)
第42巻 p.149 ページ画像

救世軍米国総司令官ブース女史歓迎会書類
                     (渋沢子爵家所蔵)
(印刷物)
拝啓、秋冷之候益御清適奉賀候、然ハ近く来邦の米国救世軍総司令官エヴアンジエリン・ブース女史御招待致、来る十一月十三日午後三時飛鳥山拙宅に於て、レセプシヨン相催候間、御繰合はせ御来臨被下度此段御案内申上候 敬具
  昭和四年十月二十六日           渋沢栄一
二伸 御諾否別紙葉書○略スを以て御一報被下度候


救世軍米国総司令官ブース女史歓迎会書類(DK420043k-0004)
第42巻 p.149 ページ画像

救世軍米国総司令官ブース女史歓迎会書類
                     (渋沢子爵家所蔵)
  ○救世軍米国総司令官ブース女史レセプシヨン記録
         (昭和四年十一月十三日后三時於王子御邸)
○上略
一、ブース女史他数人は来邸直ちに応接室に入り、其他の一般来賓は直ちに青淵文庫に導けり。第一着に午後二時半頃星野錫氏を先登として約十分前位より来賓連続して入来す。○中略
一、三時過子爵ブース女史を案内せられて文庫に至り、来賓全部に御紹介あり。
一、三時半過、庭園を一巡せられ、書院縁側より書院に入り、着席せらる。卓位置左の如し。
○下略


竜門雑誌 第四九五号・第五三―六三頁昭和四年一二月 コンマンダ・エヴアンゼリン・ブース女史歓迎会(DK420043k-0005)
第42巻 p.149-156 ページ画像

竜門雑誌 第四九五号・第五三―六三頁昭和四年一二月
    コンマンダ・エヴアンゼリン・
    ブース女史歓迎会
 昭和四年十一月十三日は雨に明けた。昼近くに雨は霽れたが一天クリーム色に曇り、風は稍寒かつた。
 午後二時半星野錫氏が見え、続いて梶原仲治氏が堂々と来られる。定刻に近くに従ひ、次第に来客の数を増して行く。三時稍過ぐる頃、ブース女史は、山室軍平氏、グリフイス氏等と同乗して来られる。直
 - 第42巻 p.150 -ページ画像 
に洋館応接室に導けば、待ち受けられた青淵先生が起つて握手せらる欣喜の情面に溢るゝの感がある。女史も亦歓喜に眼を輝かしながら、先生の傍近くの椅子に倚り、山室氏の通訳によつて談話がはづむ。かくて青淵先生の先導によって、青淵文庫にブース女史が来られたのは午後三時半頃であつた。青淵先生の紹介、山室氏の通訳によつてレセプションは始まつた。目白押に並んだ来客一同、順次ブース女史と握手しては出て行く。日本女子大学校の麻生氏が、偉大なる口を引締めて行くと、有馬四郎助氏が案外若々しい顔をかしげて過ぎる。有賀長文氏が粛然と行くと後から串田万蔵氏の温顔が続く。福井菊三郎氏が得意の英語で愛嬌を振まく後へ、留岡幸助氏が病後とは見えぬ元気な顔を出す。石井健吾氏が握手する。「石井健吾氏、第一銀行副頭取」と山室氏が説明する。
 "O! Important Position. Important Bank"とブース女史がうまい所をやる。
 山下亀三郎氏が澄してやつて来る。慶応の林毅陸氏が続く。結城豊太郎氏の後から、福沢桃介氏の顔が見える。原胤昭氏が口をとがらして来る。
 かくして佐々木勇之助氏が来ると、青淵先生は佐々木氏の肩をたゝきながら
 「私の四十余年頭取で居りました第一銀行の現頭取です。私の後継者です」と説明する。山室氏が明確に通訳する。思ひなしかブース女史は心を籠めて握手する。
 窪田静太郎氏が続く、西野恵之氏が精悍の気を漲らして行くと、古河男爵が端麗な顔を出す。末延道成氏が来る。杉田富氏が続く。大沢佳郎氏が来る。後から後から握手する。かくて野口弘毅氏を殿りにして一同庭へ出る。青淵先生はブース女史を案内して庭に出られる。やがて明石照男氏が野口弥三氏と共に見える。
 午後四時過書院に上り、夫々卓を占めた。
 青淵先生はブース女史を舞台に導き直ちに紹介の辞を述べられた。
  「ブース女史を御紹介申上げます。私は救世軍には別に直接の関係はありません。従て救世軍をよく知つて居るとも申し得ないのでありますが、女史の大人たる第一世ブース大将に明治四十年四月にお目にかゝり、また大正十五年十月第二世ブース大将、即ち女史の兄君にお目にかゝりましてから、聊か救世軍の主義信条を知り得た積りであります。社会事業に対する難しい議論はよく知りませぬけれども、救世軍のことはよく理解したのであります。其の縁故から女史の御来遊をよい機会として、此処に御臨席を乞ひ、更に皆様にも尊来を願つた訳でありますが、余り好天気と申すのでもないのに斯く多数御来会下さいましたことを感謝いたします。
  人は心と身体とが共に健全でなければなりませぬ。形態だけがよく、パンのみがあつても、心が真直でなかつたならば完全とは申せぬ、精神と身体とが共によくなることが、人類の尊い処でもあります。救世軍は、其の主義として、精神と身体の両方面から、救ひの手を延べて居られるのであります。私も社会事業には多少とも関係
 - 第42巻 p.151 -ページ画像 
を持つて居りますが、何処までもさうあらねばならぬと思ひます。第一世ウヰリアム・ブース大将に、此の邸でお目にかゝりましてから、既に二十二年になりますが、其当時から、救世軍のために容易ならぬ御骨折のことを承知して、感服して居りました。また其令嬢たるエヴアンゼリン・ブース女史が、米国に於ての御活動の御様子は、山室君から頂戴した女史の小伝によって、其概略を承知いたしまして、婦人として斯く迄に御活動なされることに対し、深く敬服致して居ります。かゝる有為の御方を、縁故深い此の場所へお招き申し、御話をうかゞひ得ることを愉快に存ずる次第であります。一言尊来を感謝すると同時に、女史を御紹介申し上げます」
小畑氏が通訳する。ブース女史は頻りに黙頭いて居たが軈て起つた。
  「閣下、紳士、淑女の皆様。
  子爵の行届いた御紹介を得まして、十分御了解のことゝ思ひますから、救世軍の意見を更めて申述べる必要はないと思ひます」
殆ど一句毎に切つて、直ちに山室氏が通訳する。
  「殊に既に御承知の通り、驚くべき立派な父及び兄が絶大の御歓迎を受けて居りますから、私などはかまつて頂ける余地はないと存じますに拘らず、格別の御招待を蒙りまして、感謝に堪へません。就中日本に於ける粒選りの人々と御面会の機会をお与へ下さいました上、救世軍に関する話を、皆様の前になし得るやうに御計ひ下さいましたことを厚く感謝いたします。然しまた子爵が斯様な御取計ひをして下さつたからとは申せ、斯くの如く多数の方々が御集りになつたことは、救世軍に対し少なからぬ興味をお持ち下さる証拠であり、間接には私に対する御厚意の現れであると存じます。実際私は日本へ参りまして、各方面から親切にして頂くのでいたみ入つて居ります。そして敬意を表するとか感謝するとか申すより外に言葉を知らない有様で、私の心の奥に此皆様の御親切を宝物として持つて帰りたいと思つて居ります。此等の御親切は私の胸に火となつて消える時がなく、私をして日本に対して為し得るだけのことを為さねばならぬと云ふ感激を持たせ、その思ひは胸のカップに満ち溢れて居るのであります。私が日本に来て驚きましたことは日本の指導者達に理解力があり信用があることを見出したことであります。」
女史の弁愈力を増し、山室氏の通訳亦速度を加へる。
  「それに就ても、二十二年前に参りました私の愛する父が、今日元気で居りまして、今一度此の日本の迅速な進歩を見たならば、さぞ喜ぶであらうと思ひます。私の父が日本で子爵にお目にかゝり、帰国の途中米国へ立寄つた時、申したことを薄々記憶して居ります何んでも其時子爵に『救世軍の友人として後援して下さい』と御願ひし『承知した』との御答を得たと申して居りました。此処に廿二年の後、此の父の娘である私が参りまして、子爵に御目にかゝり、其の時の契約を完全に尽して下さるのを見まして、誠に感謝に堪へないのであります。而して又斯様に世界の代表的な人々から信用されるに就ては、神の御わざに驚嘆する外ありませぬが、それと同時に救世軍の旗が翻る所に、まだ幼稚であつた当時の迫害を思ひ合し
 - 第42巻 p.152 -ページ画像 
て感慨なき能はぬ次第であります。」
女史は真に感慨無量の体である。一同粛然として聴き入る。
  「子爵閣下、米国で救世軍が救つた幼児の数は九万五千に達して居ります。また犯罪人を鉄窓の裡に訪ねて正義と真理とを教へますが、常に人の外見のみでなく内部に眼をとめて犯罪人の犯罪に向つて進みます為め神は其人をして変化せしめます。故に政府当局に於ても救世軍の行動を認めて居ります。今私共が囚人の為めに尽してよい結果を得た例に就て一寸説明致しませう。或る犯罪人があり、其家族の者のみでは生活の維持が出来ぬと知れば、救世軍は直ちに食物を運び、其妻なる人の面倒を見ると同時に、子供には牛乳を与へそして妻に『夫の方も訪問して、貴方達のことは心配せんでよいと伝へる』と申します。斯うして置いて其囚人を訪ねて話をすれば家族を助けて居るので物を言ふに力があります。扨て監獄から真人間となつて出たとしても、其の就職は非常に困難であります。誰も一度罪を犯した人をば使はない。銀行にも使ひません。会社でも採用しません。普通家庭の道具掃除にも傭ひません。自動車の運転手にもなることが出来ません。さうした仕方のない人に救世軍は申します『救世軍にお出でなさい』と、併し其人が慈善的に救はれることを好まないと云ふならば『救世軍は決して慈善的救済をするものではない。初めの二度や三度は仕事をしないで食を与へようが、其後は仕事をして食ふやうにする』と申します。だから市長にしても裁判官にしても、頼る辺のない人を助ける救世軍の授産場へ往けと申してくれます。授産場では大抵何でもやつて居ります。先づ訪ねた人の職業を聞きます。例へば家具の製作が出来ると云へば、恰度あつらヘ向きに椅子や卓子の修繕があります。日本人なら皆指先がよく働くから、何でも自ら修繕するでありませう。私の父が日本人の器用さには感心して居りました。それ故日本では無駄なものがないでせうが、米国には沢山あります。即ち手紙の袋を捨てる、壊れた椅子を捨てる、古くなつて破れた衣服も捨てるのであります。そこで『捨てるなら救世軍に下さい』と云つて、もらつて来るのであります。其処で家具の修繕の出来る人には、此の椅子や卓子を修繕させる。故に無駄な品を無駄な人に修繕せしめる。かくして監獄から放り出された人に、仕事を与へるのであります。さうすれば彼等をして、自ら生活すると云ふ望を持たせることが出来る。自尊心を失つた人には、かくの如く働かして自尊心を起させる。さう云ふ風にしますと、寝床の代金も自ら支払ふことが出来ます。かうして救世軍で修繕したものは、救世軍の道具屋へ出します。すると此等を貧しい刑務所から出たばかりと云ふやうな人が買ふ。元来もらつて来たのを修繕したのであるから、安くてよい品がある。故に此の仕事にありついた人は、家庭もつくり得ることになりませう。今まで泣いた者も笑ふやうになります。妻の蒼白かつた額に赤味がさします。そして家族の為めに靴も買ひませう。その靴も救世軍の授産場で修繕したものであれば、無駄なものが役立つのでありまして、現に救世軍が斯様な無駄な品物を無駄な人に修繕せしめ、且つ売り出
 - 第42巻 p.153 -ページ画像 
す為めに、二千台からのトラックが動いて、貧しい人達に仕事を与へて居ります。曾て父と子とが話し合つた事柄が、今や実現して此通りになつて居るのであります。仕事をしない貧しい人に、仕事を愛する心を起させるのであります。」
女史の口調は信念に満ちたのであつた。
  「何時ぞやも、浮浪人が或る夫人に対して、一食を恵まれんことを求めました。夫人が『ストーヴの薪を割れば食を与へよう』と申しますと『奥様駄目でございます。食つた後でないと働けません。』と男が申しますので、食物を皿に盛つて与へました。男はそれを食べてしまひましたが、まだじつとして居るので『薪割りはどうしたか』と聞きますと『奥様腹一つぱいになつて働けません』と申したさうであります。之れは一つの例話でありますが、之れではいけませぬ。子爵閣下、故に救世軍はよいかげん食はせて、働かせるのであります。最近のことでありますが、救世軍の若い女士官が紐育の貧民窟を訪ねました。すると或る家に、可愛い弱々しい娘が腰をかけて居ます。寒いのに火がなく、室の有様を見ても非常に貧しいことが判るので、女士官は火を焚き、食物を与へ、箱に腰をかけて、聖書を読み、神に祈りました。そして女士官が立上ると、娘は其親切を感謝し『お話を聞かせて下さつたので、また十年辛抱が出来ます』と申しましたので『十年とは何の事ですか』と尋ねますと『私は十年間戸外へ出たことはありません』と答へました。救世軍はかうした人達を訪ねて、陰惨な処へ出かけて行くのであります。
  次に救世軍の成功は、仕事を為すに足る教育をされて居ることで仕事はやり度いのでなく、やることだと考へて居ります。世間では救世軍の者は、貧しい者に対する気の毒だと云ふ愛の心に燃えて居ると申しますが、同情だけでは足りません。『貴方私も気の毒に思ふからお手伝しよう』では駄目でありまして、救世軍は責務を尽すと云ふ観念で仕事をやつて居ります。救世軍には六十以上の士官学校があります。日本にもあります。此間も日本の士官学校の候補生の如何にも賢さうなのを見て驚きました。士官学校では男女の青年に救世軍に在る者は、どうしたらよいかを教へます。大戦中米国からも、女士官が戦線へ赴きました。彼等は必要に応じて働くことを知つて居りました。だから聯合軍の能率は、其為め不思議に上つて参りました。パーシング将軍の驚いた程に、彼等は仕事が出来るやうに訓練せられて居ります。又救世軍成功の原因の一つは愛であります。」
温き愛を持つて愛を説く女史は、実にエヴアンゼリン(慈悲のエンゼル)の名に恥ぢぬ女性である。
  「此愛は子爵閣下、父が持つた愛をそのまゝに受け継いで居るのであります。父がエドワード陛下に謁見しました時、色々御物語致しましたが、父は申しました『私の名誉は熱情である。或は美術に或は物質に或は事業に名誉を感ずる人もありませうが、私は熱情を名誉とします』と、私の父に於ける熱情とは火であります。否それは私の父のみでなく、其の足跡を歩む者の持つ処のものであります
 - 第42巻 p.154 -ページ画像 
人に対する愛の熱情は、人を助ける為には如何なることをもいとはず、どのやうな犠牲をも払ふのであります。務めだからそれだけはやると云ふのではない。慈善だからやると云ふのではない。企業だからやると云ふのでもない。それでは何故であるか、キリストの刺戟是である。罪人の心に宿る神の姿を見詰め、必ず善心に立帰ることを確信して努力するのであります。キリストの刺戟は生命であり血であり、浪打つ心臓であります。自分達のみが生きて居て、周囲が亡びるより、私達も共に滅びたいのであります。かくて我が弱々しい女子救世軍は、よく仏軍をして働かしめました。三人の女士官の如き、四週間枯草の上に寝て、コーヒーを温めて、兵士達に飲ませました。また暗夜汽車の来る度毎に、毎日のやうに雨の中に立つて、娘達は菓子を兵士達に贈つた。それは愛が然らしめたのであるが、一つは神に対する信仰に依るものであります。仆れたる人を起し、引立てる為めに「エス」を信仰して今日に到つたのであります捨てられて迷うて居る人を、信仰の力によって指導者たらしめたのであります。然しかゝる事業に対する熱情も、其初めに於ては、学者からも、哲学者からも、文学者からも、政治家・実業家からも、更に宗教家からまで、冷笑されました。私の父は空想家であると見られました。人間一人前の常識を欠くと嘲られて、斯う云ふ問を発せられました『破壊せられた人物の中から、信用あるものが作り出せるか、犯罪の中から、為すある人物が作り出せるか』と。かくして教会からも、政府からも、同情されず、甚だしきは、父が救はうとする人々からさへも、同情を得られなかつた。何となれば、救世軍の働や、精神を当の相手が理解しなかつたからであります。斯くして総ゆる困難に遭逢しました。先づ金がない、人がない、同情は父の胸の裡以外にはない、父が神をあてにする以外には望みがない然るにも拘らず、「種子が樹木になるには期間がある」との比喩があるが、救世軍は之に当嵌まらぬ程の速度で進んで行き、大酒家・盗人をも改心せしめた処から、思慮ある男女によつて援助せられ、今や世界的の団体となりました。人種の別があり、言語の差違があり、国を異にして居ても、一団となつて働くに到りました。世界の歴史あつて以来、未だ見たこともない程の、種々の民族の協力になる大団体となりました。」
女史の声は自信と誇とを以て力強く響き、其明眸は更に冴えた。
  「子爵閣下、極めて大掴みでありますが、救世軍が如何にして成功したかに就て申述べました。尚ほ時間を割愛し下さいますならば此席に御集りの方々を友人と見て、無遠慮に、日本をより優れたる国家とする為め、も少し救世軍の事を申上げたいと存じます。救世軍は需要によつて働く、救助を要する処で働く、どんな暗い処へでも、必要のある処へは行くのであります。従つて誰も面倒を見て呉れず、公園や野原に捨られて居る子供の世話をしに出かけます。大都会の貧民窟で、食物や寝床のない人達の処へも参ります。寝ない子供、それを腕の中へ避難せしめ、汗になつた顔を洗ひます。寒さに震へる身体には衣服を着せます。清潔な場所へ移して乳を飲ませ
 - 第42巻 p.155 -ページ画像 
ます。そして私達はそれがよき者となることを、神に祈るのであります。それによつて喜びを与へるのであります。
  父は死ぬ前両眼の視力を失ひました。私は米国からカナダの代表者と共に見舞に参りました。或る夕暮に、父と一しよに室の中に座つて居りました。私は嘗て幾度か陽の入りの美しさを見ました。ホノルヽでも素晴しい日没を見たのでありますが、只今申上げた夕暮に湖水を距てて、真紅に燃ゆる陽の入りを見た時は、真に美しいと思ひました。」
女史は其灰色の上衣を裏返して猩々緋に燃ゆる裏を示して「此の如く紅かつた」と註釈した。
  「そこで『おゝ美しい、空が真紅で覆はれて居ます。お父様此窓の所へいらしてごらんなさいまし』と、父の眼が少しく見えることを知つて居た私は申したのであります。すると父はよろめいて来て窓に倚つて見たのでありましたが『見えない』と申します。『お父さん本当に奇麗ですから見て下さい。見ようと試みて下さい』と更に申しますと、父は私の肩と頭上に手を置いて『愛する娘よ、陽の入りは見えない』と申しました。そして此の世の日没よりも美しい天からの光が見える如く微笑して『私には陽の入りは見えないが、あの世で日の出を見るだらう。あの世に太陽が出る。その時、此の世に居る間に親切をしてよかつた。一つでも人の為めになることをしてよかつた。総てよき人によき事をしてよかつた。と云ふ意味が判るだらう』と申しました。」
女史の眼に露が光り、声さへ曇つて聞えた。
  「長い話を御静聴下さいましたことを感謝致します。私達は青年がうろついて居る間は、子供が泣いて居る間は、娘が悲しみ、年老いて行方のない人が居る間は進むのであります。どうか救世軍の為めに、引続き御援助下さることを御願申上げます。」
かくて女史が拍手の裡に椅子に倚れば、青淵先生は代つて起たれた。
  「御鄭寧なる御演説に対して厚く御礼申上ます。女史の勇気と云ひ精神と申し、実に立派であるに感じ入り、小伝で承知したよりも数倍して、その人格に敬服致す次第であります。従て救世軍が今日の発展を為し、二十二年前に比し一新紀元を劃して居るのも、女史の如き人があつたればこそと肯かれるのであります。女史の如き御方に御会ひしますと、日本の婦人の方々の十分でないことを沁々と思ひます。日本の婦人は柔順貞淑を旨とし、積極的でありませんが女史の如き人が、日本の婦人に対しても、亦一新紀元を劃するやう御導き下さることを御願ひ申します。」
かくて、拍手の裡に先生の先導にて舞台を降り、設けの席に着き、テイーのサーヴイスの始まつたのは、午後五時頃であつた。かくて談笑の声湧き、和気堂に満つるとき、突如拍手が起つた。舞台を見ると、青淵先生が微笑を湛ヘながら、山室氏令嬢民子氏と共に起つて居られる。一同拍手を新にする。稍静まるを待つて先生は口を開かれた。
  「先刻日本婦人をして、積極的たらしめるやうにお導き下さいとブース女史に希望致しましたが、女史が日本婦人を刺戟せられた一
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例として、此処に山室君のお嬢さんを紹介致します。此人も救世軍で働き、外国へ行かれたさうであります。追々に日本の女子も斯うなるので『女だから黙つて居れ』と云ふやうなことが無くなるだらうと存じます。其一例として御承知置きを願ひます。」
 喝采頻りに起る。ブース女史も席を起つて、穂積男爵御母堂や、渋沢武之助氏令夫人、渋沢正雄氏令夫人、明石照男氏令夫人等の食卓に近づき、石黒重子、同元子の両嬢を捉へて盛に話し、やがて設けの席に帰つて、頻に気焔を挙げた。かくて散会したのは、午後六時頃であつた。


渋沢子爵と救世軍 山室軍平稿(DK420043k-0006)
第42巻 p.156 ページ画像

渋沢子爵と救世軍 山室軍平稿       (財団法人竜門社所蔵)
○上略
一、昭和四年十一月、救世軍の米国総司令官コンマンダー、エバンゼリン・ブースの来朝に際し、子爵は金千円を贈つて其の費用を助けられ、同月十三日ブース女史を其の飛鳥山の邸に迎へて之か招待会を営まる。
 此は来会の紳縉にとりて、極めて感動深き会合なりき。
○下略



〔参考〕読売新聞 第一八九二〇号昭和四年一〇月二八日 大震災の恩人ブース嬢来朝 来月一日タフト号で横浜へ 滞在中の日程決る(DK420043k-0007)
第42巻 p.156 ページ画像

読売新聞 第一八九二〇号昭和四年一〇月二八日
  大震災の恩人ブース嬢来朝
    来月一日タフト号で横浜へ
      滞在中の日程決る
【横浜電話】救世軍総司令官ヱバンゼリン・ブース嬢は来る一日シヤトルから横浜へ入港の米船プレシデント・タフト号で来朝する旨救世軍日本本部並に横浜の関係筋へ通報があつた
 ブース嬢は故ウヰリアム・ブース大将の四女で本年六十三歳、関東大震火災の際にはこの悲報を聞き敢然街頭に起つて「日本を救へ」と絶叫し、立ち所に百万円の義金を集め日本へ送つた恩人であり且つ大の親日家である
滞在中の日程は左の如く決定してゐる
 十一月一日タフト号で横浜着、直ちに鎌倉の海浜ホテルに投宿△九日午後八時十分東京着帝国ホテルに投宿△十日午後二時東京公会堂で講演△十四日午後七時廿五分よりラヂオ放送△十五日大隈会館で学生大会に臨み講演△当日午後九時半東京駅発大阪へ関西地方遊覧△廿三日帰京△廿六日横浜出帆の米船タフト号で帰米



〔参考〕WHO'S WHO P.294 1926. 【BOOTH, Evangeline Cory】(DK420043k-0008)
第42巻 p.156-157 ページ画像

WHO'S WHO P.294 1926.
BOOTH, Evangeline Cory, D. S. M. ; M. A. ; Commander in the Salvation Army; 7th c. of late General Booth. Had charge of the work successively in Great Britain and Canada and Newfoundland, and now in the United States, with over 4300 officers and cadets and over 1400 corps and institutions under her command; orator and lecturer. Publications: Love is All;
 - 第42巻 p.157 -ページ画像 
contributor to the principal periodicals. Address; 120 W. 14th Street, New York City, U.S.A.
   ○本資料第二十五巻所収「其他ノ外国人接待」明治四十年四月二十日ノ条及ビ本款大正十五年十月十五日ノ条参照。