デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
4節 キリスト教団体
2款 世界日曜学校大会後援会
■綱文

第42巻 p.192-209(DK420052k) ページ画像

大正7年12月3日(1918年)

是日、延期中ノ第八回世界日曜学校大会開催ノ件ニ付、大隈重信邸ニ於テ協議会開カレ、栄一出席ス。是ヨリ栄一ソノ準備ニ奔走ス。


■資料

竜門雑誌 第三六八号・第六一頁大正八年一月 ○日曜学校世界大会(DK420052k-0001)
第42巻 p.192 ページ画像

竜門雑誌 第三六八号・第六一頁大正八年一月
○日曜学校世界大会 欧洲戦争の為め延期となり居たる日曜学校世界大会は、欧洲大戦争も愈々終熄を告ぐるに至りたるより、本年五月東京に於て開催することに決定し、旧臘三日大隈侯邸に於て、侯を首めとし青淵先生・阪谷男・木下東部管理局長諸氏会合して、経費其他の準備に就て協議せられたる由なるが、経費は戦前の予定額は約六万五千円なりしが、爾来、物価騰貴著しきより十万円を要するならんとの予定にて、来会者は米国より約二千人、欧洲各国より約一千人、之に日本各地の代表者約一千人を加へて、約四千人の多数に上るならんと云ふ。


竜門雑誌 第三七〇号・第七三頁大正八年三月 ○宗教的大会合の準備(DK420052k-0002)
第42巻 p.192-193 ページ画像

竜門雑誌 第三七〇号・第七三頁大正八年三月
○宗教的大会合の準備 明春五月、日比谷公園に於て、万国日曜学校大会即ち宗教的の大会合開催せられ、内外人約五千人の出席者ある由なるも、何分東京市には一堂に斯く多数の人士を会合せしむる建物な
 - 第42巻 p.193 -ページ画像 
きより、過般来大隈侯を会長とせる万国日曜学校大会後援会なるもの組織せられ目下寄附金の募集中なるやにて、右会合の会堂も寄附金の多寡により、半永久的か若くは一時的の建物か乃至は天幕張かに決すべく、青淵先生・阪谷男・田尻市長等亦夫々斡旋中の趣、霊南坂基督教会牧師小崎弘道氏の談として、二月九日の東洋新報は報ぜり。○下略


各個別青淵先生関係事業年表(DK420052k-0003)
第42巻 p.193 ページ画像

各個別青淵先生関係事業年表       (渋沢子爵家所蔵)
 大正七年十二月三日
欧州大戦ノタメ延期サレタル世界日曜学校大会ノ開催ニツキ、大隈侯邸ニ協議会ヲ開ク
 大正八年七月二十六日
大隈侯邸ニ会合シ、大会出席代表ノ旅館等ニツキ協議ス
 大正九年八月十二日
銀行倶楽部ニ午餐会ヲ開キ、期日接迫セル大会ノ準備ニツキ協議ス、青淵先生ノ演説アリ
 大正九年七月二十三日
大会々場新築起工ヲ行フ


渋沢栄一 日記 大正八年(DK420052k-0004)
第42巻 p.193 ページ画像

渋沢栄一 日記 大正八年        (渋沢子爵家所蔵)
二月四日 晴 寒
○上略 鉄道院ニ抵リ、木下淑夫氏ニ面会シ、日曜学校大会ニ関スル設備ノ事ヲ協議ス、三時頃事務所ニ抵リ ○下略
   ○中略。
六月十日 雨 冷気
○上略 午飧後早稲田大学維持委員会ニ出席ス、会議畢リテ大隈邸ニ抵リ日曜学校大会ノ事ニ付会議ヲ開ク、各委員来会ス、阪谷氏ヨリ提出ノ議案ヲ決定ス ○下略
   ○中略。
六月十二日 雨 冷気
○上略 午前九時波多野宮相ヲ官舎ニ訪問シテ、日曜学校大会○中略ニ対シ帝室ヨリ御下賜金ノ事ヲ請願ス ○中略
   ○中略。
七月六日 雨 冷
午前○中略八時宮内大臣官舎ヲ訪フテ日曜学校大会○中略等ヘ御下賜金ノ事ヲ請願ス


渋沢栄一 日記 大正九年(DK420052k-0005)
第42巻 p.193 ページ画像

渋沢栄一 日記 大正九年         (渋沢子爵家所蔵)
三月四日 晴 寒
○上略 午前十一時銀行倶楽部ニ於テ、日曜学校大会ノ事ニ関シ、内田嘉吉氏ノ報告会ヲ開ク、午飧前ニ於テ種々ノ打合ヲ為シ、食事中諸氏ノ演説アリ○下略


集会日時通知表 大正八年(DK420052k-0006)
第42巻 p.193-194 ページ画像

集会日時通知表 大正八年         (渋沢子爵家所蔵)
六月十日 火 午後二時 世界日曜学校大会後援会(大隈邸)
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六月十二日 木 午前九時 波多野宮相ヲ御訪問(官邸)
七月二十六日 土 午前十時 世界日曜学校大会ノ件(大隈邸)


竜門雑誌 第三七五号・第五七―五八頁大正八年八月 ○世界日曜学校大会協議会(DK420052k-0007)
第42巻 p.194 ページ画像

竜門雑誌 第三七五号・第五七―五八頁大正八年八月
○世界日曜学校大会協議会 明秋東京に於て開催さるべき第八回世界日曜学校大会に関し、七月二十六日午前、大隈侯邸に於て、同侯始め青淵先生・阪谷男・内田嘉吉・井深梶之助・浅野良三・永島義治・木下淑夫・生野団六、其他の諸氏会合して、同会協議会を催したる由なるが、聴く所に依れば、其際世界各国より来朝すべき多数の人士に対しホテル不足にして、京浜間及鎌倉方面を合するも到底其間に合はず又一流の日本旅館及在留外人・宣教師等の自宅を之に充つるとするも尚数百名不足の見込なる故、此上は貴族並に富豪の邸宅開放を希望するより外なき状態なり。


渋沢栄一書翰控 シドニー・エル・ギューリック宛 一九一九年五月(DK420052k-0008)
第42巻 p.194 ページ画像

渋沢栄一書翰控 シドニー・エル・ギューリック宛 一九一九年五月
                    (渋沢秀雄氏所蔵)
    五月二十二日大磯寓居ニ於て修正
    シドニー・エル・ギユリック氏への返信案文
久々にて貴翰に接し得たるハ小生の欣幸と致す処に御座候、来示に依れバ貴下にハ姉崎博士と充分御会談相成候由、定めし日本の近況を詳細御聴取の御事と存候
御心配被下候小生病気の経過ハ、三月一日より発熱いたし、一時ハ重患ニ候ひしが、四月下旬より漸く快方に向ひ、昨近にてハ稍平時に復し、目下大磯に転地療養致居候間、御休心被下度候
○中略
来年十月頃我国に於て開催可致万国日曜学校国際大会に付てハ、小生は我邦の基督宗教家と倶に、精々尽力可致と相考居候、此程も江原・井深・長尾・川澄等の諸氏拙宅へ来訪せられ、右の開会に就き種々協議する所有之候、想ふに来年十月と云ヘバ、一年有余の未来に属し候得共、所謂歳月は流るゝ如くに候へバ、可成其準備に注意し、大会之到来を相待居候、而して其設備に付而兎角財務的雑事之繁多なるは、小生之過去の経歴よりして難免事と勉力いたし居候
終に臨み、貴下の御健康と百事精神的之御鞅掌とを祈りつゝ擱筆仕候
                          敬具
  千九百十九年五月十七日
                        渋沢栄一
    シドニー・エル・ギユリック殿


渋沢栄一書翰 控 フランク・エル・ブラウン宛一九一九年七月(DK420052k-0009)
第42巻 p.194-195 ページ画像

渋沢栄一書翰 控 フランク・エル・ブラウン宛一九一九年七月
                   (渋沢秀雄氏所蔵)
    ブラウン氏への返信案
拝啓、益御清適奉賀候、然ハ久々にて貴地五月廿七日付之尊翰に接し賢台か益御健勝の御様子を承知致候ハ小生の欣幸とする所ニ御座候
世界日曜学校大会も愈明年十月を以て我国に開催の事に確定致し候ハ
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小生の喜悦を以て是が時期を待ち居る次第ニ有之候、唯小生等の懸念致候ハ、御承知の如く日本に於ては如斯世界的大会に際して許多の外国人を接待するの設備に乏しき一事にして、会長大隈侯爵を始めとし後援会員一同ハ、此大会の為め渡来せらるゝ数千の淑女紳士を如何にして便宜且愉快に滞在せしめん歟と、種々焦慮致し居候、貴状中に御申越之船室提供の件に付ては、一応東洋汽船会社へ交渉致候得共、何分遠き将来に属するを以て確答難致旨返事有之、乃ち川澄氏を通して其段貴台に御返信致し候も、同氏の書翰簡略に失し、為めに小生の意嚮を尽さゝるの懸念有之候ニ付、玆ニ重ねて拝答仕候次第に御座候、尤も後援会に於ても可成其努力を有効ならしむる為め、過般来委員を設けて各自の分担を定め、海陸交通事務に関しては阪谷男爵及東京鉄道管理局々長木下淑夫氏専らこれに当る事と相成候間、向後船舶其他交通に関してハ阪谷・木下両氏より御引合申上べき手筈に有之候間、左様御承知被下度候
ハインツ氏の御長逝ハ実に痛惜の外無之候、先年小生貴国へ罷出候節ピツツバーグ市に於て再三御面晤いたし、来年開催さるべき大会に付ても相互之意見を交換し、同しく高齢の身なから、来るべき大会に際し日本に於て相逢を得るは無上の快事と相約せし事は、今尚小生の記憶に存し居り、一層悲傷を深うする所に御座候
ワナメーカー氏も来年の大会準備に御尽力相成候由拝承致し候、爾来小生は同氏と時々文通致居候、過日も同氏より基督教に関する専門家の名著数種を寄贈せられ、其厚志を感謝致居候、幸に来年我国に於る再会を楽みつゝ相待居候間、貴台にして自然同氏へ御面会之節ハ何卒右の趣御伝言被下度候
○中略
終に臨み貴下之御健康を祝し、且来年我東京が盛大なる日曜学校大会に拠りて、秋の錦の色彩一入麗ハしきを期待致して擱筆仕候 敬具
  千九百十九年七月 日
                        渋沢栄一
    フランク・エル・ブラウン殿
   ○大正八年六月二日、麻布霊南坂教会ニハインツノ追悼会催サレ、栄一出席ス。本資料第四十巻所収「慶弔」同日ノ条参照。


中外商業新報 第一二〇一二号大正八年九月五日 ○無意味な其語 世界日曜学校大会は決して米国人のみの意見で動かぬ(DK420052k-0010)
第42巻 p.195-196 ページ画像

中外商業新報 第一二〇一二号大正八年九月五日
  ○無意味な其語
    世界日曜学校大会は決して
      米国人のみの意見で動かぬ
来年の十月に東京に於て、世界日曜学校大会が開かれる旨は屡々報道したが、最近米国費府の一新聞に「世界日曜学校大会は
◇基督教徒 を虐殺した政府の招聘に応じられない、会場を変更する必要がある」と云ふ記事があつたので、日本に於ても問題になつたが之は明かに一種の排日的弄策で取るに足らぬものとされてゐる、第一日曜学校大会は政府の事業でなく、特に世界日曜学校協会本部は米国にあるが、元来世界的事業であつて、只米国だけの大会でないから、
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万一
◇米国人と して何等か含む処があるとしてもへ勝手に開会地を変へる権利はないのである、従つて関係者は着々各方面に渉つて準備を進めてゐる、専ら事に当つて居るのは総委員長たる江原素六翁、副委員長たる井深梶之助、平岩煊保、長尾半平、デ・アール・アツニー、シビ・テニーの五氏を始め、内外人各五十名の委員で
◇此の他に 大隈侯・渋沢男・阪谷男・木下淑夫・生野団六等諸氏を代表とする後援会もある、欧米各国からの来会者輸送に就ては、エンプレス・オブ・ジヤパン号に対しては既に借切りの契約を了し、猶二三汽船に対しても交渉中である、東洋汽船会社は三百五十人から四百十七人迄を引受け、又場合によつてはサイべリヤ丸を提供する事になつて居る、処で
◇一番問題 となつてゐるのは宿舎で、或は汽船を品川湾につけてホテルにすると云ふ案もあつたが、結局内外紳士・紳商及び宣教師などが、其家庭を開放する事になつたから大いに安心されてゐる、又大会会場も曩に後援会委員会で約十万円を投じて三千余名を収容すべきバラツク式会場建設の事を可決したから、来春早々着手する運びにならう、此他神田青年会館は全部陳列会場に充て、銀座教会・中央会堂・三崎会館等七ケ所の会堂も部会的会場に用ゐられる筈だと云ふ


第八回世界日曜学校大会記録 第七頁大正一〇年三月刊(DK420052k-0011)
第42巻 p.196 ページ画像

第八回世界日曜学校大会記録 第七頁大正一〇年三月刊
大正七年欧洲戦乱の終熄により、大正八年世界日曜学校協会幹部と交渉の結果、大正九年に於て予定地を変更することなく、日本東京に開催すべしといふ決定を見るに至り、後援会の運動も、日本日曜学校協会の活動も復興し、従前に増したる勇気を以て之が準備に着手した。


第八回世界日曜学校大会後援会報告 同会編 第二頁大正九年一二月刊(DK420052k-0012)
第42巻 p.196 ページ画像

第八回世界日曜学校大会後援会報告 同会編
                    第二頁
                    大正九年一二月刊
    二 大会の中止及大正九年十月開催のことに
      決定せられたる事情
○上略 第八回大会は大正五年東京に於て開催の事に決定せられたるが、大正三年欧洲大戦乱起り、開会期に至るも猶終熄の模様なく、到底開催の望なきを以て、其旨を米国に於ける世界日曜学校本部に通じたるに、同本部に於ても同様の事情を以て之を延期するの意嚮あり、旁々遂に平和克復迄延期す可きことに決定せり。然るに大正七年戦争も終局を告げ、再び平和の時期に到達したるを以て、大正八年更に本部とも交渉し、大正九年十月五日より十日間に亘り之を行ふことに確定せり。


第八回世界日曜学校大会記録 第一八―二〇頁大正一〇年三月刊(DK420052k-0013)
第42巻 p.196-197 ページ画像

第八回世界日曜学校大会記録 第一八―二〇頁大正一〇年三月刊
○上略 約三千名の代員を収容し、十日間の大会を継続すべき適当なる会場は開会地なる東京市に出来てゐない。此点も亦当局者を苦心せしめた問題である。○中略
 玆に於て後援会は、既設の建物を使用して多くの不便を感ずるよりも、大会の為めに最も便利なる設計を有する新会場を建築せよとの議
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を通過し、其経費を悉く負担することになつたのである。
○中略
 建築建坪数は六百四十一坪、総建坪数は千二百十三坪、而して一階は各事務室及び休憩室・大食堂となし、東側は事務室・郵便局・電話交換室・日本ツウリスト・ビユーロー及びトマス・クツク社出張所、新聞記者・通訳者・案内者控所等に当て、西側をば休憩室・病室等に当て、正面をば受付・案内所として用ゆることにした。
 食堂は後部に在りて約そ四百人を容るゝを得ベく、建物の中央は言ふまでもなく大講堂である、講堂と食堂との間は大廊下にして、休憩所に利用せしめ、宗教画を掲げ又はベンチを配して其形式を整へた。講堂には二層のギヤラリー(桟敷)を設け、一階の座席は第二層のギヤラリーに連続する様になつてゐる。二階及び三階・四階の後部両翼には六室あり、印刷・文書編輯等の部屋にした。
 講壇は約一千人の唱歌隊を登壇せしむベく、後部に階段席を設け、前面にはオーケストラ席を設けたのである。
○中略 七月二十三日より起工し、工事中屡々暴風雨に襲はれたこともあつたけれども、損害を蒙ることなく進捗し、八月五日には構造部成り八月二十五日には壁塗工事に着手した。


中外商業新報 第一二二七二号大正九年五月二二日 ○日曜学校大会準備 会場は東京駅前、呼物は行列(DK420052k-0014)
第42巻 p.197 ページ画像

中外商業新報 第一二二七二号大正九年五月二二日
    ○日曜学校大会準備
      会場は東京駅前、呼物は行列
来十月東京に於て開かれる第八回世界日曜学校大会の為めに、米国本部総幹事ブラウン氏は之が
 ▽一番乗 として七月早々来朝し、万端の指揮に任ずる筈で、日本側でも已に夫々在留外人と打合せつゝ出来る丈の準備を進め、之が会場である東京駅前に建設す可き一時的建物の如きは、古橋建築事務所に於て施工明細図を作製中である、此大会中の最も驚威に値す可き催しは、十月十日の日曜の午後開催せられる市内及附近日曜学校生徒大会並に
 ▽行列で 精々外人の眼を喜ばす事が出来るであらうと専ら小平国雄氏が奔走してゐる、それからボストン大学の教授として知られてゐるよりも寧ろ音楽家として知られてゐるオーカスチン・スミス氏は夫人と同伴にて八月初旬来朝し、直に軽井沢に赴き、有志外人合唱団の指導に当る筈であるといふ


中外商業新報 第一二三四二号大正九年七月三一日 ○日本一のホテル 三千人を容れ得る三階建 日曜学校大会来会者の為に(DK420052k-0015)
第42巻 p.197-198 ページ画像

中外商業新報 第一二三四二号大正九年七月三一日
    ○日本一のホテル
     三千人を容れ得る三階建
      ◇日曜学校大会来会者の為に
今秋十月五日より同十四日まで開催せらるゝ第八回の世界日曜学校大会々場は東京駅前井上銅像の後に長方形に建てられ、九月廿日迄に
◇竣工の 予定である、会場建築の様式はゴシク式と近世式とを折衷し、六百七十坪、上に高さ六十尺の三階建にて、二千五百人を収容し
 - 第42巻 p.198 -ページ画像 
得らるゝ見込といふ、内部の構造は一・二階を会場とし、郵便電信局印刷部・病室・婦人休憩所等を設備し、三階には五・六百名の聴衆を容るゝ座席を設け、欧米東洋諸国の装飾法を採用して世界的美観を集め、其
◇予算は 十五万円である、又来会者は欧米各国より二・三千名以上ある積りだつたが、大分減少して米国よりイー・エル・タスチン(費府参事会員)マーガレツト・スラタリー嬢(マ州教育局長)ヱフ・ビー・マイヤー博士(元会長)ジエー・ジエー・マクラレン氏(大審院長)を始め七百五・六十人、支那及東洋諸国より五・六百名許り、そして市内十八ケ所の日曜学校及横浜の二ケ所(大会聖歌隊で、総勢一千名、此中外国より来るもの四百名)であるさうだ、右に就て
◇東京駅 構内のジヤパン・トウリスト・ビユロー主任猪股氏曰く、「何しろ世界各国の人が来るのですから、東京市民は理解と同情とを以て、好感を与へる様尽力し、日本国民の襟度を示す事を心掛けて貰はねばならない、市の各方面の施設は甚だ整はないやうだが、旅館・交通機関・公会堂等の不完全の点も尠くないのであるから、一層注意して外国人に接近して貰ひ度いと思ふ」云々


中外商業新報 第一二三五二号大正九年八月一〇日 ○日曜学校大会を機に 日米親交を熱望 会長マ氏米国より来る 先班として一行廿七名(DK420052k-0016)
第42巻 p.198-199 ページ画像

中外商業新報 第一二三五二号大正九年八月一〇日
  ○日曜学校大会を機に
    日米親交を熱望
      会長マ氏米国より来る
      先班として一行廿七名
今秋東京に開かるべき万国日曜学校大会に出席する北米合衆国・加奈陀派遣員廿七名を乗せた、加奈陀太平洋汽船会社エンプレス・オブ・ルシヤ丸は、九日午後六時半
 △晩香坡 から横浜港に入港した、船が機関の音を緩めつゝ静かに桟橋に横着となるや、例の如く其処へ蝟集した数百の出迎ひ人、其多くは日曜学校大会の関係者で思ひ思ひに歓迎の辞やら無沙汰の挨拶に一頻り賑やかさを見せた、此光景を甲板上から嬉しげに見下してゐた一行中、日曜学校大会長たるべきジエ・ジエ・マツクラレン氏と幹事長フランク・ブラオン氏は、覚束ないながら日本語で盛に
 ▽万歳を 連呼した、齢既に八十に近く、而も身の丈群を抜いて七尺といふ矍鑠たる白髪の好々爺マ氏は、記者を顧みて語る「私は加奈陀トロント市の高等法院判事と云う鹿爪らしい職を持つてゐるが、それでも法律の他に経済に多くの趣味を有ち、之に関する著書も既に十数種がある、又日曜学校に関しては、十六年前頃から関係して、之れまで色々と
 ▽世話焼 をやつたので、今度の大会にも会長といふ名の下に遥々渡来した、大会が開かれる迄には、一度東京に在る大会の幹事諸君と大会の打合せをして、其れから暫く軽井沢へ避暑し乍ら大会を待つ考へだが、尚詳しき事はホテルで……」といそいそ群集の中に姿を消した、又ブ氏は「私は紐育市の或銀行の重役で、銀行の用件を帯びて今まで三度許り御国に参つた事がある
 - 第42巻 p.199 -ページ画像 
 ▽四度目 の今度は前と変つて、紐育市の日曜学校を代表して来た今回の大会に欧米から出席する人は約七百名位はあらう、其内大部分は矢張自国の者である、私は思ふのに、此度の大会は単に日曜学校の大会に終らせず、此好機を以て従来日米両国に蟠まつて居る香しくない弊害を一掃し、将来益々親交を固めて行きたいと
 ▽熱望し て居る」と語つた、一行は折柄の夕暗を踏んで、一先づグランド・ホテルに休息し、同夜東京に向つた(横浜電話)


中外商業新報 第一二三五七号 大正九年八月一五日 ○二番目のお客様 日曜学校大会列席の廿四名 千人唱歌隊の指揮者も来朝(DK420052k-0017)
第42巻 p.199 ページ画像

中外商業新報 第一二三五七号 大正九年八月一五日
  ○二番目のお客様
      日曜学校大会列席の廿四名
      千人唱歌隊の指揮者も来朝
米国バルチモア日曜学校長ヱー・ヱム・モーア氏を団長とする、第二着の万国日曜学校大会委員二十四名の一行は、十四日横浜入港の郵船伏見丸で賑々しく来朝した
▽一行中 には、大会中千人唱歌隊の指揮者たるボストン大学教授オーガス・スミス氏夫妻がある、ス氏はテノール声楽家として米国楽壇に其名高く、夫人は亦ソプラノ声楽家として声名夫君に劣らない、其他バクネル大学教授ウヰリアム・オーヱン氏、ロング・ビーチの実業家ジヱー・ウオーレスト氏、クラリオン市日曜学校教師ヱー・ブラノン氏等もある
▽団長の モーア氏は曰く「私は、十数年日曜学校長としての経験を有する関係から、今回来朝したのである、私は初めて此種の会合が日本に於て企てらるゝのを非常に興味あることゝ思ふので、此大会の結果が如何に日本国民に印象せらるゝかを聞きたいものだ」と語つた


渋沢栄一書翰 増田明六宛(大正九年)八月二五日(DK420052k-0018)
第42巻 p.199 ページ画像

渋沢栄一書翰 増田明六宛(大正九年)八月二五日 (増田正純氏所蔵)
○上略
外務省より加州排日之援助ニ金壱万円、日曜学校之方へ金三万円下付相成候趣、重畳之事ニ御坐候、会員其他より之寄附金も、願くハ此程書状ニテ申通候如く同意を得候様企望之至ニ候
右来書ニ対し貴答如此坐候 匆々不一
  八月廿五日
                     渋沢栄一
    増田明六様
         貴酬
増田明六様 貴答 渋沢栄一
従小涌谷 八月二十五日

 - 第42巻 p.200 -ページ画像 

中外商業新報 第一二三六九号大正九年八月二七日 ○完成近き大会場 東京駅前の広場に四階建で 千坪の大建物が聳え立つた(DK420052k-0019)
第42巻 p.200 ページ画像

中外商業新報 第一二三六九号大正九年八月二七日
    ○完成近き大会場
      東京駅前の広場に四階建で
      千坪の大建物が聳え立つた
東京駅頭にバラツク式四階楼の建物が雄々しい姿を現して将に完成せんとして居る、之は第八回世界日曜学校大会々場で
 ▽総建坪 一千坪、経費十三万円を概算して、過ぐる七月廿一日から古橋工学士が工事監督に当り、遅くも九月廿日迄には、遺漏なく竣成する筈である、右会場は約三千人を収容すべく、最下の両側を休憩室・食堂・衛生室に宛て、中央が会場となり、恰度帝劇の内部に類似して居る、そして二、三、四階が傍聴席になる
 ▽開会期 は十月五日から十四日迄であつて、毎日午前九時から正午、午後七時から九時半迄議事が行はれる、日本日曜学校協会幹事川澄氏は語る「此大会に最も多く出席するのは米国で、普通の観光団などは全く除去し、日曜学校事業熱心家のみでも一千名に達する見込である、大会実行委員長たるワナメーカー氏は、九月四日晩香坡発の西比利亜丸で渡日する事となつて居る
 ▽大会に 就て我々が最も腐心して居るのは例の宿舎問題で、外来客専門の宿舎は現在東京・横浜・鎌倉・日光を合して約二千二百名分あるが平時の客で満員である、市外のホテルで約三百人位は都合が付きさうだが、他は市内在住の外人家庭や邦人篤志家の家庭を開放して貰はねばならぬ」云々、因に此大会の
 ▽一回は 千八百八十九年七月一日から六日迄倫敦、第二回は千八百九十三年九月三日から五日迄聖路易市、第三回は千八百九十八年七月十一日から十六日迄倫敦、第四回は千九百四年四月十七日から十九日迄エルサレム、第五回は千九百七年五月十八日から二十三日迄羅馬第六回は千九百十年五月十九日から廿四日迄華盛頓市、第七回は千九百十三年七月八日から十五日迄瑞西ヅーリツヒに開催された


中外商業新報 第一二三八二号大正九年九月九日 ○国民外交の好機 日曜大会出席者の為に家庭の一室を開放せよ(DK420052k-0020)
第42巻 p.200-201 ページ画像

中外商業新報 第一二三八二号大正九年九月九日
    ○国民外交の好機
      日曜大会出席者の為に
      家庭の一室を開放せよ
今秋十月我東京に開かるべき世界日曜学校大会に各国から参加来朝する客は約千三百であるが、是等多数の
◇賓客に 対して如何にせば最も満足と好感とを与へ得るか、就中其宿舎に就ては、予てから同大会委員等の頭を尠からず悩まして居たが其中千名を算へらる欧米人に対しては、各委員の奔走と各富豪の好意とによつて大体の片は付いた、然るに残余の三百名、之は重に支那・朝鮮・比律賓・印度等の代表者で、しかも其過半数は我新領土朝鮮人であるのに、是等最も
◇接近し 最も親密ならざるベからざる東洋の友邦に対しては、未だ宿所すら定まらぬ模様であるのは遺憾である、之に就ても各接待委員
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の苦悩も一通りでないが、要するに、是等東洋友邦諸君に対して、多く醜陋の紹介者となる今日の旅館に泊らしめたくなく、出来得る限り其全部を我都市人士の美しき家庭に之を迎へ、朝夕客人等の旅愁を慰めるに、同情と
◇友愛の 至情を以てしたいといふにあるからである、尚之は独り各個人的の関係に止まらず、国際上有ゆる難局を控へたる今日、外に向つて大に国民外交の手腕を発揮すべき最も好き機会であるから、此際東京市民は宗教的感情を脱して、宜しく揮つて其家庭の一室を客人に割ち与へられたきものである、一委員は「出来る事なら朝食だけのお世話に与れば結構だが、単に
◇宿泊の 便を与へるのみでも充分である、若し賛成の諸賢は日本橋本材木町二の三基督教同胞教会新山泰治氏又は神田美土代町基督青年会館内日曜学校接待部に宛て申込んで戴きたい」と語つた


中外商業新報 第一二三八八号 大正九年九月一五日 ○全国で鉛筆デー ハ氏記念会館の資に 日曜学校大会の諸準備(DK420052k-0021)
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中外商業新報 第一二三八八号 大正九年九月一五日
    ○全国で鉛筆デー
     ハ氏記念会館の資に
      ◇……日曜学校大会の諸準備
世界日曜学校大会も目睫に逼つたので、委員連は転手古舞をして居るが、同大会では此世界大会の主意を宣伝し、併せて
▽我宗教会に 功労浅からぬ故ハインツ氏記念会館の資金を得ん為に来る二十三日午前八時より、全国に亘り一斉に、鉛筆デーを開催する筈である、同鉛筆は二本一組十銭とし、二十万人の全国日曜学校生徒をして販売せしめ、売上金五万円中資金雑費等を控除し、約一万五千円の純利益を見る筈である、販売場所は全国の都市四十ケ所で
▽東京には 電車停留場等百五ケ所に設けるといふ、又十月十日午後二時から、日比谷公園音楽堂を中心に四千坪を借入れて会場とし、生徒大会を開催すべく、東京並に全国の代議員・来賓等も参加して、出席者は二万人の予定である、式後日曜学校生徒の二年生以下は一音楽隊を先頭として、裏門より内幸町に進み、三年生以上は山下門より銀座・呉服橋を経て
▽二重橋に 於て二年生以下の一隊と合し、大会の万歳を三唱する筈で、軽気球を揚げ煙火を打揚げて気勢を添ヘる、次に大会第一呼物たる大音楽は、海軍省でも非常に好意を表して、軍楽隊のオーケストラを組織して参加せしむる位で、連日の盛況今から予想さるゝが、聖歌隊は一千名中日本人六百名、外人四百名を以て組織され、其外人中二百名は代員中より、残り
▽二百名は 在日宣教師より各選抜し、日本人六百名の募集に対しては既に八百名の応募者あり、練習は東京十八ケ所、横浜二ケ所に於て毎週一回宛試みられ、海外代員二百名は夫々船中に於て、又在日宣教師は軽井沢・高山・御殿場等に於て、音楽部総委員長スミス氏が自ら巡回指揮棒を振るつて居る、斯の如き大音楽団は我国では最初の試みで、大会中十月九日午後三時半を期して之を公開する筈である

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中外商業新報 第一二三九六号大正九年九月二三日 鉛筆デー 今日全国で(DK420052k-0022)
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中外商業新報 第一二三九六号大正九年九月二三日
鉛筆デー 今日全国で
    世界日曜学校大会では、此世界大会の主旨を宣伝し、併せて故ハインツ氏記念会館資金の一部たらしむベく、既報の如く今二十三日の秋季皇霊祭当日を選び、全国一斉に鉛筆デーを開催する、販売場所は東京・大阪・京都・名古屋・福岡・神戸・横浜を始め、全国の都市四十ケ所で、二十万人の日曜学校男女生徒が之に当る筈である、鉛筆は青赤二本一組十銭、総数百万本の予定で、市場の相場に比し約半額に相当するといふ大会自慢の品である、東京市内は日比谷・須田町・銀座を始め、目貫の電車停留所約百五十ケ所で売る事になつてゐる


中外商業新報 第一二三九七号大正九年九月二四日 鉛筆日の鉛筆を召せ =昨日全国一斉に=(DK420052k-0023)
第42巻 p.202 ページ画像

中外商業新報 第一二三九七号大正九年九月二四日
鉛筆日の鉛筆を召せ =昨日全国一斉に=
    世界日曜学校大会記念会館建築の資金を得る為めに、全国の各日曜学校にては、秋季皇霊祭の二十三日午前八時半を期して、一斉に鉛筆デーを催した、市内にては、百三十の各教会の日曜学校生徒一万人が、電車の各停留場百二十箇所で、万国日曜学校を表徴した、地球の上に十字架の彰に「鉛筆デー」と赤く抜いた三角な小旗を胸にして、道行の人々に桃色の紙で結んだ青赤の鉛筆を進めた、殊に須田町日本橋には最も多く、何れも三百人から四百人の坊ちやん嬢ちやんが集まつて居たが、午前十一時にはもう殆ど売れ切れて、須田町を始め日比谷・中央停車場などの団体は、夫々教会に引き上げた、川澄大会総事務部長は、村上同主事などと九時頃から本部の青年会を自動車で出で、各所を廻つてゐた


中外商業新報 第一二三九八号大正九年九月二五日 ○思ひ思ひの国選び 日学大会来会者と邸宅開放 高田早苗氏は独逸人を 思想学者は支那朝鮮人(DK420052k-0024)
第42巻 p.202-203 ページ画像

中外商業新報 第一二三九八号大正九年九月二五日
    ○思ひ思ひの国選び
      日学大会来会者と邸宅開放
      ▽……高田早苗氏は独逸人を
      ▽……思想学者は支那朝鮮人
第八回世界日曜学校大会期日は旬日の中に切迫して、各国の来会者は続々として入京しつゝあるが、今此等来会者の
▽宿舎問題 に就いて、同大会接待部主事岡崎義孝氏は語る「来会者は大概ホテルや牧師の邸宅に収容されてあるが、市内有志者にして邸宅を解放せんと申込んだ者は、目下二百五・六十人である、今主なる申込者及申込数を挙げると、渋沢子(綱町別邸)五名、大倉男(向島別邸)六名、益田太郎氏二名、園田男六名、志立鉄次郎氏六名、門野重九郎氏五名、横浜市長二名、神奈県知事五名等で、又
▽朝鮮人 百余名、支那人三十名余列席する筈であつて、朝鮮人に対して宿舎の申込者は島田三郎氏一名、吉野作造博士三名、五来素川氏一名があり、支那人に対しては岩瀬正氏三名、和田剣之助氏二名、村井直雄氏三名、其他高田早苗博士は独乙人六名を申込んである、それ
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に中流階級者の申込者も非常に多い、尚
▽委員長 ワナメーカー氏が来朝の筈であつたが、目下非常に健康を害つて居るから出席しないかも知れない」云々、因に一行の歓迎日程を列挙せば左の如くである
 △五日午後七時半東京イブニング主催歓迎△六日午後三時半新宿御苑拝観△八日午後四時日比谷に於て東京市主催歓迎△九日午後二時音楽会開催(本部)△十日午後二時市内日曜学校主催音楽会(日比谷)△十一日午後一時鎌倉町有志歓迎△十三日午後四時日曜学校後援会主催音楽会(本部)△十四日午後二時横浜有志歓迎会△其他個人として、大隈侯・渋沢子等の歓迎会も申込んである


第八回世界日曜学校大会後援会報告 同会編 第二三―三六頁 大正九年一二月刊(DK420052k-0025)
第42巻 p.203 ページ画像

第八回世界日曜学校大会後援会報告 同会編 第二三―三六頁 大正九年一二月刊
    後援会々員(大正九年十月現在)
会長  侯爵 大隈重信
副会長 子爵 渋沢栄一
副会長 男爵 阪谷芳郎
副会長 子爵 田尻稲次郎
副会長    藤山雷太
○中略
    大会費寄附者芳名(イロハ順)
    金五万円 宮内省御下賜金
    金弐万円 特別寄附金
○中略
    金六千円 子爵渋沢栄一
○中略
 合計金参拾壱万八千七百五拾円也
    出席外人収容者芳名(イロハ順)
○中略
子爵 渋沢栄一
○下略


日曜学校 第七八号大正九年一〇月 世界大会を迎ふ 子爵渋沢栄一(DK420052k-0026)
第42巻 p.203-207 ページ画像

日曜学校 第七八号大正九年一〇月
    世界大会を迎ふ
                   子爵 渋沢栄一
 第八回の日曜学校世界大会が今度日本に開かれるに就て、私は宗教家ではありませぬけれども、爾来之に関係し且つ微力を尽した者でありますから、玆に感想を述べることは私の最も愉快に感ずる所であります。回想すれば千九百十三年、瑞西ズーリツヒに第七回大会の開かれる前、日本に於ては大隈内閣の当時、日本の宗教家の連中が其会に出るに就て、次の会は成るべく日本に開かれるやうに希望したいと思ふが、併し初めてのことではあるし、余程の注意を要するから、我々宗教家のみでは到底力及ばずと思ふ、故に経済上及び其他種々の助力をして呉れることは出来まいか、と云ふ話がありました。大隈侯爵は
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左様な世界的仕事は、どうしても日本に於ても、機会ある毎に之を催し、欧米の国々と成るたけ伍班に列し、友達となつて行くやうにしたい、故に若しさう言ふことが議に上つたならば、成るべく我々も日本に於て力添をしやうから、次の会合を日本に開かるゝことを希望するは、我々も国民として同意する所以である。斯う云ふ大隈侯爵の言葉でありました。
 又私は国民として力の及ぶ限りは助力致さうと云ふことを話したのであります。是は、当時日本の宗教家側が、次の大会を日本に開いて貰ひたいと云ふことを云ひ能ふ所の一の原動力と云つて宜しい。果してズーリツヒの会に於ては、日本の宗教家が其主張を強くした為であるか、若くは他の原因からか知りませぬが、次の大会は日本に開かうと云ふことに決定せられたのであります。
 然るに其中に欧羅巴の戦乱が起つた為に、何時開くかと云ふ時機の問題が生じて来た。それが大正四年(千九百十五年)であつて、戦争が左迄大きくならなければ千九百十六年に開かれると云ふ宗教家の協議もあつたやうである。そこで前の関係があるから、大隈侯爵が日本に於て日曜学校世界大会の後援会を作らうと云ふことを建案せられ、私も発起者の一人となりました。当時総理大臣官舎に後援会の発起者を集会して、日曜学校世界大会は斯の如き性質のもので、ことに依れば来年開かれるかも知れないから、之に相当の力を添へたいと思ふが宗教家のみでは物質上の力が足らないから、我々が国民として相当の助力をする為に後援会を作らうではないか、それは至極宜からうと云ふことで、集まつた人が皆発起者となり、委員となつて後援会が組織せられた、それが千九百十五年の九月頃のことであつたと思ふ、夫れが段々宗教家側で、亜米利加や欧羅巴の方面と電報書状の往復をして見ると、此戦争で船の都合が付かぬから来年の開会は見合せ、戦争の終了を待つより仕方がなからうと云ふことになつたことは、当時宗教家側から聞いて居つたけれども、折柄私は亜米利加を旅行するに就いて、大会には亜米利加から来る御客さんが一番多いから、後援会の主要位置に立つ渋沢が、亜米利加の人々といろいろ話をして置いたらよからうと云ふことで、私の渡米の本務は別であつたけれども、一の附帯事業として先に、第一にピツツバーグのハインツさん、フイラデルフイアのジヨン・ワナメーカーさん、及びブラウンさんなどと、開会の時機や開会の手続等に就て親しく御相談を致しました。是は宗教家側からも頼まれ、又後援会長及び幹部の方からも依頼せられたのであります。そこで先づハインツさんにお目にかゝつて、いろいろお話をし、日本はさう云ふことの経験が乏しい故に、余り多勢の集まりに不都合が生じてはならぬと懸念する、殊に一番困るのは会場である、又多勢の泊る旅宿である。西洋人を泊めるホテルはあるけれども、到底千五百人、二千人が来ては入れる所がなくなりはしないかと思ふから成るべく人数は少くして欲しい、殊に亜米利加の御婦人が多勢来られるが、亜米利加の御婦人が自国の有様にばかり慣れて、日本のホテルや何かに就ていろいろ不足を云はれても困ると云ふことも打明け、又船の準備なども成るべく善くして下さらなければならぬと云ふやうな
 - 第42巻 p.205 -ページ画像 
御話しあつて打合せをしたのであるが、併し何時開がれるかが解らなかつたので、先づ大体話を終つたのであります。
 次ぎにフイラデルフイアのジヨン・ワナメーカーさんに会つていろいろ御相談をし、殊にワナメーカーさんとは宗教以外の所謂精神上の談話を交した為に私は特に其ことを記憶して、今尚ほ当時の話を愉快に思つて居ります。ワナメーカーさんが私に問はれるのに「お前は宗教家でない、基督教信者でない、お前の主義として居る所は儒教に依つて居ると云ふことである、然るに日曜学校世界大会に就て特にさう心配するのは一体どう云ふ訳であるか」と云ふことでありました。私は之に答へて「第一日本は成るべく欧米と一緒に世界の大勢に順応することに努めたい、故に左様なことに就ても日本は別でござると云つて取除けものにならぬやうにしたいと云ふの希望を国民が持つて居る宗教は人の自由であるから無理に勧める訳にもいかず止める訳にもいかず、是は成行きであるけれども、見渡すのに日曜学校大会は国民的の仕事のやうに思はれる、さすれば日本の宗教家が欧米の多数の御客様を迎へる以上は、日本国民として御客様に成るべく不満足を与へないやうにすることは国民の務めであつて、即ち世界の大勢に順応する所以であると思ふ、精神上の交りをしやうと思ふには、さう云ふことには国民協力しなければならぬと思ふ、更に今一つの理由は私はどうしても日本の国民に信念を強く持たせたいと思ふ、私自身は儒教に依つて信念を持つて居るが、中には仏教に依つて居る人もあり、又基督教に依つて居る人もある、何れにせよ信念には宗教心が基礎を成すと思ふから、私は宗教に対しては極めて自由であつて、基督教たるも仏教たるも儒教たるも宜しい、儒教は宗教ではないけれども信念を維持する方法としては何れでも宜いと思ふ、殊に今日日本の若い人は兎角知育にのみ進んで信念が乏しいと思ふから、何れの宗教であらうとも賛成して、成るべく信念の得られるやうにしたいと思ふ、故に前に述べた世界の大勢に順応し世界の伍班に列し得るやうに、又若い者に信念の下拵へをする材料を与へることは何事に依らず力を添へたが宜からうと云ふ趣意から、宗教家ではないけれども出来るだけの力を尽し貴方とも御相談する訳である」と申しました。するとハインツさんは「それでは支那の儒教は如何なる主義を持つて居るものであるか」と問はれましたから、私は「君に忠、親に孝、朋友に信義、人に対しては真実、至誠を以て交らなければならぬ、凡そ人の世に在るは決して自分の為にのみ生存するものではなく、国の為め社会の為に生存すると云ふ観念が必要なことである、儒教の趣意は斯の如きものであつて之を守つて人事を尽して居れば、それから先の天命は或は運不運と云ふこともあらうが、それは人の問ふ所でない」と答へました所が、ワナメーカーさんは横手を打つて喜ばれ「それは大抵基督教と同じことではないか、さう云ふことを完全に事実に於て尽せるならば、お前は神の前に出られる男である、それならばなぜ基督教になつて呉れないか、儒教も悪いことはないか知れぬが、今日の時代には基督教が活きた宗教であると思ふ、儒教が死んで居ると云つては悪いかも知れぬが現在の支那の有様を見ても私には少し慊らぬ所がある、是非基督教に
 - 第42巻 p.206 -ページ画像 
なつたら宜いではないか」と云つて勧められましたが、私は其時「宗教と云ふものは人の心から生ずるものである、如何に貴方と厚く懇親を結んだとは云へ、宗教を人の勧誘に依つて直様変ずると云ふことは宗教心の厚くない所以であるから、私はものを信ずるならば深く信じたい、深く信ずるが故に、親友とは云つても、未だ親しみの日の浅い貴方の一言に依つて、直様信ずる所を変じて基督教に移ると云ふことは出来ない」と答へて別れたのであります。此会話は僅か一日であつたけれども、ワナメーカーさんと私とは、是が為に殆ど百年の知己と云ふべき程に、お互の情意が貫徹したやうに思はれた、是は忘れもしませぬ千九百十五年の十一月二十五日でありました、朝から夕の六時頃迄殆ど終日いろいろのことを御話してお別れをした。今度同氏の来られないのは何よりも残念に思ふのでございます。
 次いで更に紐育にブラウンさんをお訪ねして、将来此会を開かれる上に於ては如何なる順序を取つたらよからうと云ふ御相談をしたのであります。以上は私が千九百十五年に旅行した時の御話で、私が日曜学校世界大会に就て興味を持つやうになつたのは、ハインツさん、ワナメーカーさん、ブラウンさんの三人にお目にかゝつてお話をしてからのことで、殊に心に属するいろいろの談話を交したことは、特に深い興味を生じたのであります。併し何時開かれると云ふことは、其間解らずに居つて、帰つてから其顛末は大隈侯爵初め後援会の幹部の人人にも、亦江原さん初め基督教の方々にも御話し、何れ戦争終熄の後に於て開かれることであらうから、其時お互に力を尽さうと云ふ申合せをしたことでありました。其ことが今日愈々実現することになりましたから、私は日曜学校大会の主唱者でもなければ宗教家でもないけれども、併し今述べたやうな経過から考へると、どうしても之に力を入れて満足なものにしなければならぬのであります。
 所で、こゝに三千人の人の這入る所がないので、後援会の人々にもいろいろ相談をして、誠に一時的の者であつて欧米の御客様に対してはお恥しい訳であるけれども、会堂を建築する事になりました。初めは或は相撲の場所がよからう、芝居の場所がよからうと言ふ説もあつたが、永久的のものでなくても、特に此為に建てた方がよからうと云ふことに一決して、玆に新しい会堂が出来たのであります。是は一方から云へば、甚だ粗末なものであるけれども、亦一方から云へば、特に此為に建てたと云ふことは、御客様に対し多少日本人の心が或る点からは親切であると云ふ、御了解を得たい願であつたと思ひます。此以外の手続に就ては前に申す通り、私は宗教上の関係がありませぬので、宗教家の御手配に譲つて、後援会の幹部の一人たる私は、それに対して申上げることは出来ませぬ、聞く所に依れば、相当のお顔が揃ひ、又いろいろ設備も出来たさうであるから、定めし立派に会が開かれ、満足なる情意が一般に徹底することであらうと思ひます。又さうあらんことを希望して已まないのであります。御客様は亜米利加を主とし、欧羅巴諸国、又支那・朝鮮からも大分来られるやうであるが、唯旅宿に就ては大に心配し、ホテルに就てもいろいろ相談をして居つたのであるが、或る部分は普通の家庭も開放して御泊め申すやうにし
 - 第42巻 p.207 -ページ画像 
たらよからうと云ふことから、現に私も数名の方の御宿をすることになり、其他幾らか家に余裕のある人は何れもさう云ふことにして、殊に宗教家の方々は自分の不便をも顧みず、御宿を引受ける様になつたので、此ことに就ては後援会よりも寧ろ宗教家の方が、大変に骨を折られたのであります。
 唯私の懸念するのは御客様が東京に居られる間は宜いが、各地を巡遊なさらうと云ふのに余程注意して下さらぬと、汽車其他で、日光或は箱根に、或は京阪に行かれ、名所旧蹟を御巡りになるのに、都合よく旅行が御出来にならぬではなからうか、併し之も成るべく其道に精しい人を御附け申し、私共も知つた人を御手伝させて、十分なる力を尽さうと思つて居ります。中にはクツク会社其他旅行の関係を主として引受けて居る人もありますから、大した不都合もないで済むかと思ひます。是は一方には国として成るべく尽すやうに、又よく接触の出来るやうにしたいと思ひます。敢えて私一人が努めた訳ではないが、後援会は当時の総理大臣たりし大隈侯爵が会長になつて居られ、又其後の総理大臣にも、斯様なる性質を以て開かれるのであると云ふことをよく話をして、国家が引受けてやると云ふことではなくとも、現に此会に対し帝室からも御下賜金があつたことを以て見ても、帝室も政府も之に就て深く興味を持つて居られると云ふことは申し得られると思ひます。又後援会の人々が会場を造ることを初め、いろいろ力を尽して居ることを以て見ても、日本国民が此会に対し、頗る同情を寄せて居ると云ふことも証拠立てられると思ひます。又日本には仏教が随分古くからあつて各宗派に分れて居るけれども、仏教家の連中が同じく宗教でありながら、日曜学校大会が開かれるのに傍の方で知らぬ顔をして居るのは甚だ心苦しいから、遠来の宗教家に対し相当の御接待を申したいと云ふことで、或る寺院に全部の方でなくとも或る部分の方に寄つて貰つて、仏教式の会見と云ふか饗宴と云ふかを催して、且つ仏教の沿革を英語に訳して、来客に差上げたいと云つて心配して居る、是にも私は仏教家ではないけれども、矢張り助力を請うて来たから、力を添へて成るべく宗教家は宗教家で親しくして戴きたい。右の宗教家が左の宗教家を悪み見るやうな有様になつてはいかぬからと思つて、其調和を計りつゝあるのでございます。
 日曜学校大会の根本のことに就ては、私は其プログラムを詳しく知つて居りませぬが、補助位置の後援会の側から自分の感想と是迄の経過を御話して、斯かる所に依つて私は力を添ヘて居るのだと云ふことを申すのでございます。蓋し此ことは必ずや或る点迄では国交にも益するであらうし、少くとも相共に各国民の情意が大に貫通するやうになつたならば、我々の希望する通り日本が世界の仲間入りをし、同時に世界の人も日本の仲間入りをして呉れて、両者の間の親睦を増すに至ることは期して待つことが出来ると思ひます。それは即ち神に対しても仏に対しても人民の務めであると云つて宜しからうと思ひます。


中外商業新報 第一二四〇六号大正九年一〇月三日 ○会場の清めも終つた 日曜学校の大会(DK420052k-0027)
第42巻 p.207-208 ページ画像

中外商業新報 第一二四〇六号大正九年一〇月三日
    ○会場の清めも終つた
 - 第42巻 p.208 -ページ画像 
      日曜学校の大会
第八回世界日曜学校大会は愈々明後五日から十四日迄十日間、東京駅前の新築大会場に於て盛大に挙行される、建物は仏国ゴシツク式に近代式を巧妙に配した本骨漆喰塗りの
◇三階建で 総坪数六百四十一坪、総建坪数千二百十二坪、一階には事務室・休憩室・食堂を設け、東側に事務室・郵便分局・電話交換室新聞記者室・通訳者室其他、両側に男女休憩室・病室を配し、正面広間に面し受付・案内所を設け、後部は約四百名を容るゝ和洋両食堂である、講演座席はガラリー二層を設け、一階座席は二階ガラリー一席に続いて居る、二階と三階後部は委員室四室に分ち
◇講壇は 約六百名の唱歌隊を登壇せしむることが出来る、後部は階段席、前面はオーケストラ席が占め、正面講壇に大アーチを飾り、前面下部に美しい造花の百燭電灯五十個が既に取付けられ、中にもページエントに使用さるゝ着色彩光灯と外部採光灯とは、却々凝つたものである、五日の第一日は午後七時半井深明治学院長の司会で開式、後援会長渋沢子・田尻市長の
◇歓迎辞 に対し、会長エス・アール・フヱーレンス氏、実行委員長ワナメーカー氏代理の答辞あり、次で九時二十分より大会総幹事ブラオン博士の「世界進歩の必須条件なる宗教々育」と題する講演あり、当日の議題は「日曜学校と世界の進歩」で第二日に亘り、翌六日午前九時各国各世紀の讃美歌の音楽に次で、九時半「日曜学校の運動の興起と発達」と題して市俄古市のアリオン・ローラン氏並に費府の
◇統計家 ランデス氏の「日曜学校の統計的力」の二講演ある筈である、又大会出席者は亜米利加人千五百名、東洋人百名、日本人五百名合計二千百名の予定であるが、大会第一の難問題であつた旅館も係員の斡旋で既に大部分決定し、尤も外賓は宿所で朝飯を喫するだけで、其他は帝国ホテル、ステーシヨン・ホテル等で済ますといふ、尚
◇二日は 会場清掃の意味を以て午前六時より早天祈祷会を開き、ブラオン博士の奨励並に有志信徒の熱心なる祈祷があつた


中外商業新報 第一二四〇七号大正九年一〇月四日 日曜学校大会 宗教思想の高調(DK420052k-0028)
第42巻 p.208-209 ページ画像

中外商業新報 第一二四〇七号大正九年一〇月四日
    日曜学校大会
      宗教思想の高調
世界日曜学校大会は明日より十日間に亘り東京市に於て開催せられんとす。我国に於て斯の如き宗教的国際大会の開かるゝは最初の事なるのみならず、通例三年目毎に開かるゝ世界日曜学校大会が世界大戦の為に八年間も開会の機を失ひ居りし後を承けて、特に我国の首府に於て開かるゝは一層此大会の意義を深からしむるものなくんばあらず。海外の宗教家は此大会に参加すべく海を越えて遥々我国に来朝し、大会開会前既に大阪・京都・神戸・横浜其他の各地方に於て巡回講演を行ひ、宗教思想の鼓吹に努力する所あり、畏くも皇室に於かせられては、大会の事業を嘉させられ御内帑より金五万円を下賜あらせられ、我朝野の有志も大会の趣旨に賛し夙に後援会を組織して大会費を寄附し、特に篤志家中には快く自己の家庭を解放して外客の宿泊に便ずる
 - 第42巻 p.209 -ページ画像 
等、遠来の参列者を歓迎し、大会の事業を後援するに於て殆ど遺憾なし、外国よりの参列者千数百名中には米国より来朝せる者最も多く占むるが、伝ふる所に依れば米国本部に於て参列者を選ぶに当り、単に観光を主たる目的とする者は一切之を拒絶し、誠心誠意大会に臨み、宗教々育の上に貢献せんとする真摯の人士のみ選びたりとの事なれば今回の参列者は必ずや品性の高き好個の代表者を以て充されたるものと解すベく、大会其ものが一時のお祭り騒ぎに終らずして重要なる使命を発揮すべきを予期し得べきと共に、此等の人士が故国に還るに当りても我が国情に対する最も正当なる理解者として、将来日米両国の国交上に良好なる影響を与ふるに至るべきを信じて疑はず。恰も加州に於ける排日問題の紛糾して頗る憂慮すべき事態を呈せんとするに当り、主として人類の精神上に正義と友愛の観念を植付け、四海同胞の主義の下に国際情誼の道を拓かんとする多数の米国宗教家を一時に我国に迎ふるを得たるは、日米両国国交の為にも大に慶すべき事ならずんばあらず。此意味に於ても我国民が歓迎の誠意を披瀝して之を待つべきは当然の処置にして、此等の外賓の為に喜んで家庭を解放するが如きは最も機宜を得たる行為と称すべく、仏教徒中の有志が宗派の異同を度外視して歓迎会を開かんとするが如きも余輩の賛意を表するに躊躇せざる所なり。
日曜学校が児童に対する宗教々育上の機関として顕著なる実績を挙げつゝあるは玆に絮説するの要なきが日曜学校経営の根本信条たる「世界の児童を正しく教育することに依りて、一代の間に新しき天地を創造せん」とする努力が今や漸次に世界的となり、日曜学校の事業も国際的社会事業の一たる地位を占むるに至りし事は注意すべき点にして我国の如きも近時児童に対する感化矯正の施設に就き之が必要を論ずるの士漸く多からんとする時に当り、特に少年に対する宗教々育問題は決して軽視す可らざる重大問題ならずんばあらず。殊に各種の社会運動が其基調を物質万能の思想に置ける結果は其理論に於て欠陥の指摘すべきもの歴々たるに止まらず、実際上の運動に現れたるものが必ずしも社会の福祉、個人の幸福を齎さずして却て幾多の不幸と害毒とを与へつゝあるに徴すれば、社会の福祉を増進し個人の幸福を齎さんが為には須らく先づ人類の道徳化を急要とすべく、科学の普及発達に伴ふて漸く其権威を失はんとしつゝある宗教思想の如きも、更に一層之を高調して人心を正しき方面に転向し、物質万能の思想より離れて更に深奥なる人生の妙機に目醒めしむるに努めざるベからず。世間或は宗教と科学の相容れざるを説き、宗教上の信仰を以て一種の迷謬なるが如くに論ずるものあれど、心霊上の問題は尚科学の窺知を許さゞる辺に存し宗教的の感情は到底人類の胸底より払拭し尽さるべきにあらず。余輩は今回の世界日曜学校大会に際しても我国民が寧ろ之によりて宗教的感情の上に好個の刺戟を受くべき好機会として之を観察せんとするものにして、一種のお祭り騒ぎ視して之に対する無からんことを望むものなり。