デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
5節 修養団体
1款 財団法人竜門社
■綱文

第42巻 p.436-448(DK420091k) ページ画像

大正2年11月23日(1913年)

是日、当社第五十回秋季総集会、帝国ホテルニ於テ開カル。栄一出席シテ演説ヲナス。


■資料

竜門雑誌 第三〇七号・第六九―七三頁 大正二年一二月 ○竜門社第五十回秋季総集会(DK420091k-0001)
第42巻 p.436-440 ページ画像

竜門雑誌  第三〇七号・第六九―七三頁 大正二年一二月
    ○竜門社第五十回秋季総集会
 本社第五十回秋季総集会開催時日決定後、俄然徳川慶喜公薨去せられたるに付き、或は開会を見合はす方然るべしとの議もありしが、本会は他の諸会とは趣きを異にし、学術研究を主とするものなれば此度は単に講演会に止め、余興を廃して、最も静粛に開会せば差支なかるべしとの青淵先生の御意見もあり、旁以て其旨を体し開会するに至りし次第なり(編者識)
本社第五十回秋季総集会は、去十一月二十三日午後一時より、帝国ホテルに於て開催したり、当日の出席者は左記の如く無慮四百有余名に上り、定刻に至るや、幹事八十島親徳君登壇、開会の辞を述べ、次に本社評議員会長阪谷男爵は、従一位徳川慶喜公薨去に就て、本社会員一同を代表して沈痛なる一場の哀悼演説(講演談参照)を為したる時は満場水を打つたる如く、寂として咳きする者だになく、何れも今昔の感に堪へざるものゝ如くなりき。夫れより政尾法学博士の暹羅視察談、長岡理学博士の液体空気に関する実験講話及び大倉喜八郎氏の「個人健康法の質問に答へて国家の健康法を為政当局者に質す」と題する演説ありて、講演会を閉ぢ、夫れより大食堂に於て晩餐の饗応ありて散会したるは午後九時頃なりき、当夜は晩餐後落語其他の余興ある筈なりしが、徳川慶喜公薨去に付き遠慮し、食後直に解散したり、当日の来賓及び来会者は左の如し
玆に当日会費中へ金品を寄贈せられたる各位の芳名を録して、謹て厚意を謝す。
 一金参百円        青淵先生
 一金五拾円        第一銀行
 一金参拾五円       綱町渋沢家
 一金参拾円        大橋新太郎君
 一金弐拾五円       東京印刷会社
 一金弐拾円        穂積陳重君
 一金弐拾円        阪谷芳郎君
 一金弐拾円        佐々木勇之助君
 一金弐拾円        神田鐳蔵君
 - 第42巻 p.437 -ページ画像 
 一金拾五円        大川平三郎君
 一金拾五円        東洋生命保険会社
 一金拾円         朝鮮興業会社
 一金拾円         堀越善重郎君
 一金拾円         中井三之助君
 一金拾円         野崎広太君
 一金拾円         田中栄八郎君
 一金拾円         平田初熊君
 一金拾円         渋沢義一君
 一金五円         伴直之助君
 一金五円         星野錫君
 一金五円         尾高幸五郎君
 一金五円         尾高次郎君
 一金五円         成瀬隆蔵君
 一ミユンヘン弐箱
 一シトロン弐箱      植村澄三郎君
 一生ビール百六十リーター 大日本麦酒会社
    来会者氏名
一、名誉会員
 青淵先生
一、来賓
 長岡半太郎君   政尾藤吉君     大倉喜八郎君
一、特別会員
 石井健吾君    井上金治郎君    一森彦楠君
 伊藤登喜造君   伊藤新作君     池本純吉君
 岩崎寅作君    萩原久徴君     萩原源太郎君
 原胤昭君     服部金太郎君    西田敬止君
 西田音吉君    西野恵之助君    新原敏三君
 堀井宗一君    本間竜二君     星野錫君
 堀越鉄蔵君    島羽幸太郎君    利倉久吉君
 土肥修策君    土岐僙君      豊田春雄君
 沼間敏朗君    大野正君      大橋新太郎君
 大川平三郎君   同令夫人      岡本銺太郎君
 沖馬吉君     尾高次郎君令夫人  尾高幸五郎君
 尾川友輔君    大塚磐五郎君    渡辺嘉一君
 脇田勇君     河村徳行君     川田鉄弥君
 神谷義雄君    神谷十松君     柏原与次郎君
 神田鐳蔵君    鹿島精一君     吉岡新五郎君
 横山徳次郎君   米倉嘉兵衛君    田中太郎君
 田中忠義君    田尻武次君     田中楳吉君
 田辺為三郎君   高橋波太郎君    高松豊吉君
 高松録太郎君   多賀義三郎君    高橋金四郎君
 田中栄八郎君   同令夫人      高根義人君
 曾和嘉一郎君   塘茂太郎君     成瀬隆蔵君
 成瀬仁蔵君    仲田慶三郎君    永井岩吉君
 - 第42巻 p.438 -ページ画像 
 中井三之助君   仲田正雄君     中田忠兵衛君
 村井義寛君    村上豊作君     村木善太郎君
 内田徳郎君    内山吉五郎君    植村澄三郎君
 上原豊吉君    野口弘毅君     野崎広太君
 野口半之助君   野中真君      倉沢粂田君
 日下義雄君    八十島親徳君    矢野由次郎君
 山本久三郎君   山中譲三君     山中善平君
 山田昌邦君    山田敏行君     山口荘吉君
 矢木久太郎君   八十島樹次郎君   矢野義弓君
 増田明六君    松本常三郎君    松平隼太郎君
 松谷謐三郎君   前田青莎君     前原厳太郎君
 松井万緑君    福島甲子三君    福田祐二君
 古橋久三君    古田錞次郎君    古田良三君
 郷隆三郎君    小林武次郎君    小口金三郎君
 古田中正彦君   小橋宗之助君    手塚猛昌君
 寺井栄次郎君   明石照男君     麻生正蔵君
 安達憲忠君    阿部吾市君     男爵阪谷芳郎君
 佐々木慎思郎君  佐々木勇之助君   佐々木修二郎君
 阪倉清四郎君   佐々木和亮君    佐々木清麿君
 斎藤章達君    斎藤峰三郎君    佐藤正美君
 木下英太郎君   木本倉二君     吉川宗充君
 湯浅徳次郎君   三好海三郎君    白石甚兵衛君
 白石重太郎君   志岐信太郎君    芝崎確次郎君
 清水釘吉君    清水一雄君     清水揚之助君
 渋沢義一君    下野直太郎君    渋沢元治君
 平岡利三郎君   平田初熊君     肥田英一君
 弘岡幸作君    広瀬市三郎君    桃井可雄君
 持田巽君     諸井恒平君     諸井時三郎君
 関屋祐之助君   関誠之君      鈴木善助君
 鈴木紋次郎君
一、通常会員
 石井健策君    石井与四郎君    石井禎司君
 石井義臣君    石川竹次君     石田豊太郎君
 石田誠一君    井田善之助君    井出轍夫君
 伊藤英夫君    伊沢証太郎君    伊知地剛君
 市川廉君     板野吉太郎君    家城広助君
 伊藤美太郎君   林弥一郎君     原久治君
 長谷川謙三君   長谷川潔君     長谷川方義君
 秦乕四郎君    伴五百彦君     長谷川粂蔵君
 馬場録二君    長谷井千代松君   西尾豊君
 西正名君     堀家照躬君     堀内歌次郎君
 堀内良吉君    本多竜二君     友田政五郎君
 友野茂三郎君   東郷一気君     千葉重太郎君
 大友忠五郎君   大島正雄君     大畑敏太郎君
 - 第42巻 p.439 -ページ画像 
 大沢〓君     大島勝次郎君    大原万寿雄君
 大竹栄君     大井幾太郎君    太田資順君
 小熊又雄君    小田島時之助君   岡原重蔵君
 岡本椿処君    岡本治弥之君    奥川茂太郎君
 恩地伊太郎君   落合太一郎君    小倉槌之助君
 小沢清君     大平宗蔵君     尾上登太郎君
 岡本謙一郎君   岡本亀太郎君    脇谷寛君
 和田勝太郎君   河村桃三君     河野通吉君
 河野間瀬治君   河崎覚太郎君    川口一君
 金沢求也君    金井二郎君     笠原厚吉君
 笠原広蔵君    金古重次郎君    金子四郎君
 上倉勘太郎君   金沢弘君      狩野淳之助君
 兼子保蔵君    加藤雄良君     加藤伊蔵君
 鹿沼良三君    唐崎泰助君     神谷岩次郎君
 河瀬清忠君    加藤万四郎君    吉岡鉱太郎君
 横田晴一君    横尾芳次郎君    吉岡慎一郎君
 吉田升太郎君   高山仲助君     武沢与四郎君
 田中一造君    田川季彦君     田沼賢一君
 俵田勝彦君    高橋耕三郎君    高橋森蔵君
 高橋毅君     高山金雄君     竹内玄君
 武笠政右衛門君  武沢顕次郎君    玉江素義君
 只木進君     田子与作君     曾我部直之進君
 左右田良三君   塚本孝二郎君    堤真一郎君
 辻友親君     葛岡正雄君     鶴岡伊作君
 成田喜次君    長井喜平君     中村習之君
 中村敬三君    永田常十郎君    中西善次郎君
 滑川庄次郎君   中北庸四郎君    内藤種太郎君
 村井盛次郎君   村松秀次郎君    村田五郎君
 村木友一郎君   生方祐之君     梅田直三君
 宇賀神万助君   氏家文夫君     鵜沢真利君
 梅津信夫君    上田彦次郎君    上野政雄君
 内海盛重君    宇治原退蔵君    野口森君
 野口央君     野村鍈太郎君    野村修三郎君
 野村喜一君    久保幾次郎君    熊沢秀太郎君
 山田昌吉君    山田仙三君     山崎豊次君
 山川逸郎君    山口虎之助君    山崎一君
 山本鶴松君    山田元太郎君    安田久之助君
 柳田観已君    柳熊吉君      安井千吉君
 八木仙吉君    山内篤君      山田源一君
 山村米次郎君   松村繁太郎君    町田乙彦君
 松井方利君    松村修一郎君    福島三郎四郎君
 福島元朗君    福本寛君      福田盛作君
 古田元清君    藤浦富太郎君    小林武彦君
 小林梅太郎君   小林茂一郎君    小山平造君
 - 第42巻 p.440 -ページ画像 
 小島鍵三郎君   近藤良顕君     小森豊参君
 古作勝之助君   小林武之助君    後久泰次郎君
 江山章次君    遠藤正朝君     江口百太郎君
 浅見悦三君    浅見録三君     阿部久三郎君
 粟生寿一郎君   綾部喜作君     秋元孝治君
 荒川虎雄君    赤萩誠君      合原六郎君
 猿渡栄次君    桜井武夫君     阪本鉄之助君
 斎藤又吉君    斎藤亀之丞君    沢田清寿君
 斎藤孝一君    佐々木哲亮君    佐藤清次郎君
 坂田耐二君    木村益之助君    木村弘蔵君
 木村金太郎君   木之本又一郎君   北脇友吉君
 木村亀作君    菊池市太郎君    湯川益太郎君
 行岡宇多之助君  箕輪剛君      御崎教一君
 宮川敬三君    宮下恒君      三宅勇助君
 真銅芳太郎君   芝崎保太郎君    芝崎徳之丞君
 東海林吉次君   柴田房吉君     篠塚宗吉君
 塩川誠一郎君   白石喜太郎君    島田延太郎君
 池沢長康君    平岡五郎君     平井伝吉君
 平岡光三郎君   久本順造君     広瀬市太郎君
 森茂哉君     森谷松蔵君     森江有三君
 元山松蔵君    門馬政人君     両角闊君
 関口児玉之助君  鈴木源次君     鈴木旭君
 鈴木富次郎君   住吉慎次郎君    椙山貞一君
 鈴木豊吉君    鈴木正寿君


竜門雑誌 第三〇八号・第一九―二四頁 大正三年一月 ○青年の箴 青淵先生(DK420091k-0002)
第42巻 p.440-444 ページ画像

竜門雑誌  第三〇八号・第一九―二四頁 大正三年一月
    ○青年の箴
                      青淵先生
  本篇は、昨年十一月二十三日午後一時より、帝国ホテルに於て開催したる竜門社第五十回総集会の講演会に於て、青淵先生が講演せられたるものなり(編者識)
 竜門社の総会が、季節の悪かつた為に室内に於て催しましたのは、是までの例に無いやうでございますけれども、其代りに雨が降りましても、諸君の御迷惑のことはございませぬ、時間もございませぬ為に私は至て簡単な意見を申述べて御免を蒙らうと思ひますが、前席に色色変つた珍らしいお話を聴き、且つ唯今鶴彦翁から、一身の健康と国家の健康とを適切なる譬喩を以て御演説がございました、其御説は私は予て伺ひ居りました為に、御演説は精しく拝聴致しませなんだけれども、御趣旨のある所は諸君と共に深く感服致したのでございます、長岡博士の空気を水にするといふ如き新しいお話の後で、鶴彦翁や私の如き古い人々が、代り代りにお話をするのは、何だか火と水のやうな相違で、古いものと新しいものが、ゴツチヤになる嫌はありますけれども、又場合に依つては、所謂新と旧とを化合する工夫で、是も一種の化学と言ひ得るかも知れませぬ(笑)
 - 第42巻 p.441 -ページ画像 
 私の今日のお話は、竜門社員中の若いお方の訓戒になれかしと思ふこと丈しか考へて置きませぬので、大方の諸君にお聴に入れるには、却て失礼と思ふのであります、さればと云うて、玆に御列席の上は耳をお塞ぎなさいと申上げる訳にもなりませぬけれども、殆んど価値の少ないことしか申上げられませぬ、凡そ人の世に立つに付て、最も肝要なるものは、知恵を増して行かねばならぬ、総て一身の発達、国家の公益を図るにも知識といふものがなければ進んで行くことは出来ぬけれども、併しそれ以上に人は人格と云ふものを養つて置かなくてはならぬ、所謂人格の修養、是は申すまでもなく極めて大切のことだらうと思ひます、而して此人格を修養するには常識を発達せしむるといふことが最も肝要であらうと思ふ、但し人格と云ふ定義は如何に論断せらるゝか知れませぬが、稀には、少し非常識とも云ふべき英雄豪傑に、人格崇高な人がありますから、果して人格と常識が必ず並行するものであるかどうか、知りませぬが、人が完全に役に立ち、公けにも私にも必要にして所謂真才真智といふのは、多くは常識の発達にあると言ふても誤りないと思ひます、而して其常識の発達に付て、第一に必要なるは己れ己れの境遇に注意するにある、故に之を文字にて示さうならば「人は自己の境遇に能く注意をせねばならぬ」といふことにならうと思ひます、此文字は或は適当でないかも知れませぬが――私は西洋の格言などは余り知りませぬから常に東洋の経書に就てのみ例を引きますが、論語に自己の境遇に付て注意を厚うする、これを教へた例が、或は大きい場合、小さい場合に数多く見えるやうでございます、故に大聖人の孔子でも、やはり自己の境遇に適することを勉めた又人に対しても其境遇に不適当なる時は、必ずそれに賛同の言葉を与へぬ、一例を言へば、孔子が「道が行はれぬから桴に乗つて海に浮ばう、我に従ふ者は其れ由か」と子路を促した「子路之を聞いて喜ぶ」是は孔子がちよつと意地の悪いやうなことで、自分が問を懸けたのだから、子路が喜んだらう、自分も等しく喜びさうなものであるが、子路の喜ぶ程合が、自己の境遇を能く知悉しなかつたものと見へて「由や勇を好む、我に過ぎたり、材を取る所なし」と却て反対に戒めた、桴に乗つて海に浮ばうと言はれた時に、子路が喜んだのであるが、若し子路が能く我境遇を顧みたならば「さあさうでもございませうけれども、それに付ては、海に浮ぶだけの材はどうしたら宜うございませう」と答へたら、孔子が始めて我意を得たりとして、それならば、朝鮮へ行かうとか、日本へ行かうとか言はれたかも知れぬ、又或時孔子が二三の弟子の志を言へと促した時に、最初に子路が意見を述べた、もし自己をして国を治めしむるならば、忽ちの間に一国を治平たらしむることが出来ると卒爾として答へた、すると孔子は笑つた、続いて銘々志を述べて最後に曾点といふ人が瑟を鼓して居つたのを、孔子が汝も何か言はぬかと促した、然るに曾点は私の考は他の人と違ひますと答へたら、孔子は違うても宜いから志を言へと求めた時に、曾点は大層意気なことを言つた「暮春には春服既に成り、冠者五六人、童子六七人、沂に浴し舞雩に風し、詠じて而して帰らん」そこで「孔子喟然として歎じて曰く、吾は点に与せん」弟子が去つた後に、曾哲とい
 - 第42巻 p.442 -ページ画像 
ふ人が孔子に尋ねて、何故最初子路の答をお笑になつたか、孔子曰く「国を為むるに礼を以てす、其言譲らず、是故に之を哂ふ」一国を治むるには第一に礼儀を重んぜねばならぬ、然るに自身が勇にいさむからでもあらうが、卒爾に斯くすれば宜しうござると答へたに依つて、其言譲らず、故に之を哂ふと言はれた、蓋し子路が我位置を分別せぬ所を哂はれたやうに見えるのです、併ながら或時は孔子は極めて自負した如き言葉もある、例へば桓魋が孔子を殺さうとした時に門人が恐怖したら「天徳を予に生ず、桓魋其れ予を如何」即ち境遇に安んじて一向平気で居られた、又或時孔子が宋に行つて帰途に、大勢から囲まれて殆んど危害を受けさうになつた、此時にも門人が憂へたら、孔子が曰はれるに「天の斯文を喪さんとするや、後死の者此文に与るを得ざるなり、天の此文を喪さゞるや、宋人其れ予を如何」といふて、泰然として一身の危害を少しも憂へなかつた、又或る場合には「大廟に入つては事毎に問ふ」或る人これを怪みて、鄹人の子は礼を知つて居ると云ふが、大廟に這入ると総ての事を煩さい程尋ねる、あれでは礼を知つて居るのではなからうと云つたら、孔子答へて曰く「是礼也」それが即ち礼を知つて居るのだと言はれた、誠に自身の境遇位置を能く知つて、道理正しく活用するのが、即ち孔子の大聖人となり得る唯一の修養法であつたやうに見えるのです、して見ると、孔子の如き人でも場合に依つて、細事たりとも常に注意を怠らぬ、それが即ち聖人になり得る所以である、故に私も諸君も、お互に皆孔子の如き大聖人になると云ふことは不可能か知らぬけれども、我境遇我位置を見誤らぬだけのことが出来るならば、少くも通常人以上になり得ることは難くないだらうと思ふのです、然るに世間は是の反対に走るのです、ちよつと調子が好いと、直に我境遇を忘れて分量不相応の考を出す、又或る困難の事に遭遇すると、我位地を失して打萎れてしまふ、即ち幸に驕り災に哀む、兎角変つた事態に出会すると中正の心を亡失して、所謂七情の其節度に合ふことが出来ない――七情とは喜怒哀楽愛悪慾である、是は凡庸の人の常であります。
 其事に付て一の実例を玆に述べて見やうと思ふ、それは此間或る宣教師が私の家に来て、亜米利加に居る人の、其境遇に依つて変化した有様を詳細に話されたのである、是は私が平素考へて居つたことを益益証拠立られるやうに思ふたから、卑近な話ではありますけれども、玆に繰り返して見やうと思ふのでございます、其牧師は大久保といふ人で、出生は肥後の熊本で、長い間米国の加州に行つて居られ、此程帰朝されたに付て、一日私を訪問せられて、同じ熊本人の加州フレシノと云ふ土地に移住して、農業に従事して居る甲と乙、勿論二人に限つた訳ではありますまいけれども、仮に此処では甲と乙として、お話を致します、即ち一方は能く我境遇に注意したる為めに成功し、一方は其注意を怠つた為に大変に零落して、終に悪徒の境遇に陥つた、此二人の善悪二進経過が誠に歴然と分るやうに、其牧師から話されたのである、但し此甲乙二人は左まで教育もなく、位地も至て低いから、深く其人に付て評論する程のものではないか知らぬが、前に申述べた如く、人は其境遇に付ては深く意を留め審かにこれを考へて、而して
 - 第42巻 p.443 -ページ画像 
後に行ふと云ふ覚悟がなければならぬものであると云ふことを、益々確信するのであります、即ち大久保と云ふ牧師がフレシノに於て善悪両方の友人に会つたと云ふ談話です、一人は段々と身を持くづし、遂に落魄して、今は其地方のゴロツキと云ふやうな人となつて、他人に嫌はれて居る、蓋し以前は決して悪い人ではなくして、其善化した人の朋友であつて、決して左様に悪漢となるべき素質を持つた人ではなかつた、故に前の友人たりし大久保氏は、これに面会して、どうしてお前は左様に身を持くづしたと云ふ問に対して、其人が、自己の経歴を丁寧に話された、例へば移住者が亜米利加の農業に従事するに、雇主の指揮に依つて、都合の好い所又は都合の悪い所に使はれる、葡萄畑にて労働するとしても、葡萄の能く熟して居る畑もあれば、悪い畑もある、一籠摘めば幾らと云ふの賃銭でありますから、悪い場所へ向けられた時には其摘料が至て少ない、一籠二十銭として一日十籠摘むべきものが、五籠しか摘めなければ一円にしかならぬと云ふことになる、巧者の者は良い畑に廻つて余計摘むから、随て収入も多いが、不器用なるものは収入が少ない、家族もなくして人に雇はれて居るのだから相集つて衣食をする、さう云ふ人は友達からも冷遇される、食事なども後で食べさせられる、事に依ると起臥万端にも始終人から軽蔑される、仕事の十分に出来ない為に、得る所の少ないのみならず、彼処へ行つても冷遇され、此処に行つても苛められると云ふやうな風で段々に自分の身がいぢけて来る、始終其心が安泰ならぬやうになる、斯る場合に本国から手紙が来る、其手紙には、お前が亜米利加に行くに付て旅費を造つてやつたとか、仕度をしてやつた、それは亜米利加から若干の金を送るだらうと期待したのであるが、今日まで何も送らない、又は送つたけれども甚だ少ない、国元では斯の如く困難して居るに、お前の働きが甚だ鈍いではないかと云うて、己れが甚く労苦に悩んで居る場合に、親若くは兄から苛察にして情愛の薄いところの来状に接する、其手紙を見るとそれこそムラムラと忌々しいと云ふ邪念が起る、斯る場合には多くは或る遊興の場所へでも行くと酒を飲ませるとか、或は婦人が待遇するとか云ふやうなことになりて、始めて快楽の心が生ずる、そこで自己の境遇、日常の丹誠をコロリと忘れて、酌婦に向つて余分の金を与へると、益々待遇を能くされるから益々溺れる、終に折角貯蓄した金も皆使ひ果してしまふ、それからどうかして一儲けしたいと云ふことになると、今度は支那人の賭博場に入りて勢ひ其処へ身を投ぜざるを得ぬ訳になる、此に至ると最早ゴロツキの仲間となりて、他人の争闘でも見付て、之を喰物にして、労役以外の方法で生活しやうと云ふ念が段々長じて来る、即ち己れの境遇が段々悪い方にのみ進んで、悪い境遇から更に悪い境遇を造り出して、日一日と悪事が進化して来る、之に反して、善化して、成功した人は、国元から来た手紙を見ると、是が妹の手紙である、両親も兄様の身の上を心配して居ります、あなたが相当の働きをして、両親を安心させて下すつたなら、此上の喜びはございませぬ、遠方で楽みも少なく、さぞ御不自由でありませうが、身を大事にして下さい、私も学校へ行く間には、始終家政の手伝をして、身を粉にして働いて居ります、あな
 - 第42巻 p.444 -ページ画像 
たの出世して帰つて来るのを、指を折つて待つて居ります、斯う云ふ至情を籠めた手紙が来る、其手紙に深く感ずると同時に、相交はる友達も能く厚遇して呉れる、どうも悪いことは出来ないと云ふので、益益善い心を以て勉強し、勤倹せし余金を送つてやる、再び又温情のある手紙が来る、引続いてどうしても悪事は出来ずに段々善人となつて終に仕合せものと称されたといふて、大久保氏が此実際を見て来た目から、亜米利加の移住民に対しては、境遇の注意から、善く誘ふと悪く誘ふと、僅かの所で毫差千里の相違が出来るから、総ての点に注意せねばならぬ、故に宗教の訓導は甚だ必要だと云はれた、果してそれが基督教に依つてのみ善導さるべきものか、私から申せば孔子の教でも十分に正道に導くことが出来るであらうと思ふが、其教旨は兎も角もとして、今申す如く、人の心と云ふものは何れにも動き易い、独り青年で無くても、尚同様であらうと思ひます、此席に会同せられた諸君は斯くお互に常に相会して相磨いて居る、国を離れて他邦に移住せぬ人々には、先づさう云ふことは余り無い訳であるけれども、さればと云うて人の身上には誰にても今日のやうに天気ばかりではない、雨も降れば風も吹くのである、其場合には前に述べたやうな状態が期せずして生ずるものでありますから、人は常に其人格を高めることを心掛けねばならぬ、人格を高くするには我境遇を顧みて、此場合には斯う、彼の場合にはあゝと、造次にも顛沛にも、道理に適ふか適はぬかと云ふことに注意するのが甚だ肝要と思ふのであります、前席に伺ひました如き珍らしいお話でなくて、誠に古めかしい訓戒でありますけれども、青年諸子には或る場合に於て、今申したことが成程斯る時に注意を為すべきものだと云ふことが、若しも思ひ浮べられることがあつたならば、私の婆心足れりと申して宜からうと思ひます、時間がございませぬから卑近なことを簡単に申し述べて、青年諸子の訓戒と致すのでございます。(拍手)


竜門雑誌 第三〇七号・第三三―三七頁 大正二年一二月 ○竜門社総集会に於て 歴史上の偉人前将軍慶喜公の薨去に就ての所感 男爵阪谷芳郎(DK420091k-0003)
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竜門雑誌  第三〇七号・第三三―三七頁 大正二年一二月
  ○竜門社総集会に於て
    △歴史上の偉人前将軍慶喜公の薨去に就ての所感
                   男爵阪谷芳郎
  本篇は、十一月二十三日午後一時より、帝国ホテルに於て開きたる本社総集会講談会に於て、評議員会長阪谷男爵が徳川慶喜公の薨去に就て、本社会員を代表して哀悼の意を表せられたるものなり(編者識)
 諸君、私は本社の評議員会の会長と致しまして、玆に諸君を代表して、前将軍徳川慶喜公の薨去に就ての所感を申述べたいと考へます、是は私一己の所感にはあらず、願はくは満堂諸君の所感に代るやうにありたいと考へます、否、我東京市民全部、進んでは日本帝国一体の国民も、斯く思つて居るであらうと云ふ所を述べ得ますやうに、希望致すのであります、且つ御承知の如くに、前将軍は、我社の青淵先生とは非常に親密、甚だ畏多いことでありますが、殆んど兄弟も啻ならずと云ふお間でございまして、将軍は青淵先生を慕はれ、青淵先生は
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将軍を深く尊崇して居られたのでございまして、青淵先生は別段に徳川家の三代相恩の臣といふ訳ではない、徳川幕府の末年、国家多難の秋に京都に於て、始めて徳川慶喜公のお眼鏡に依つて、一橋家に登庸せられ、次で慶喜公が将軍職をお継ぎになるに就て、幕臣の末に列せられたと云ふ、極く主従の関係としては日が浅いのでございますが、其以来殆んど五十年、実に美しき関係を保つて双び立つて居られたのである、今其青淵先生を最も慕はれたる慶喜公の伝記は、青淵先生自ら委員長として筆を執つて、其稿将に成るに垂として、此訃音に接したといふことは、青淵先生は如何に遺憾に考へられるであらうか、又其青淵先生を中心として組織して居る我竜門社員も、青淵先生の胸中を想像して、一掬の涙を浮べざるを得ぬのであります、殊に青淵先生の今日あるに至つたに就て、先生の話される所に依れば、徳川家の末年、最早幕府は将に倒れんとして居ると云ふことは、前将軍自ら能く知つておゐでになる、其時に於て此有為の青年を日本に置いて、むざむざ徳川家の末路の難儀の中に、万一生命を失はしむるやうなことがあつてはならぬといふ、深き思召に依つて、民部大輔に従つて欧羅巴へ使するの命を受けられたと云ふことは、青淵先生が最も慶喜公に感ぜられた一段でございます、次に王政維新となつて、先生は民部大輔と共に日本に呼戻されて、而して徳川前将軍は既に駿府に蟄居せられて居りました時分に、駿河へ参られた時に、どうしても民部大輔に随従せられた順序として、青淵先生は水戸に行かなければならぬ、然るに前将軍は、水戸は党争の激しい所であつて、渋沢の如き血気壮んなる者が参つたならば、必ず殺されるであらう、生して置くまいといふ深き御懸念から、断じて水戸に行くことは其必要がない、青淵先生は深く水戸に行つて復命したいと云ふことを申されたに拘はらず、水戸に行く必要はないと云うてお止めになつた、是又再び青淵先生の命をお助けになつた、青淵先生は二度前将軍に命を救はれた、此再生と言はうか三生と言はうか、此恩は子々孫々忘れてはならぬぞといふことを常に申されて居るのであります、然る関係でありますからして、前将軍が薨去になりましたと云ふことは、深く先生の心を痛めておゐでであらうと想像するのであります、就きましては今日の竜門社の会は或は延期致しませうかと云ふことを、幹事から青淵先生に伺ひましたら、それには及ぶまい、斯く道徳を重んじ学術を研究するといふ有益の集会であるから、決して其儀には及ぶまいといふ、先生のお言葉であつた為に、今日は順序の通、会を開くに至りましたが、幹事に於きましては、此余興は青淵先生に対し、又前将軍に対するの敬意として見合はせることに致すといふことでございます、それ故に今日の順序書には余興といふ一項は加へてございますが、是は削除になりまして単に晩餐に止めると云ふことでございます、此幹事の決議は是も賛成する所でごいます、諸君も御同感であらうと思ふ、又東京市に於きましては、未だ市会は開きませぬでございますが、未だ公けに薨去のことが御発表になつて居りませぬから開きませぬが、併ながら昨朝以来薨去の報に接して、有力なる市民諸君は昔の江戸ツ児の精神を以て、市長の所へ段々お話がございまして、前将軍の礼遇を以て、東京市民
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は之を送ると云ふことは、略ぼ申合せが附いて居ります(拍手)従ひまして前将軍の礼遇を以て、此大人物を葬るの日に、市民は如何にして宜いかと云ふことは、市会を開いた後に其順序を極めることになつて居るので、是も私は市長として最も賛成致す所であります、昨年は吾々の最も大切と致す所の明治天皇陛下を失ひました、此明治大帝は明治維新の関門として、永く我国の歴史に遺る所の大なる御人物である、今年は又不幸にして旧徳川政府の最後の関門として歴史に遺るべき大人物たる徳川前将軍を失ふに至りましたのは、東京市に取りましては、否な日本帝国に取りまして、最も大切なる二人の偉大なる歴史的人物を失ひましたことは、此上もない不幸であります、併ながら寿命といふのは是は已むを得ぬ、前将軍は徳川三百年の末に当つて、最も国歩艱難なる日に其位に就かれ、而も最も適当なる方法を以て、明治維新の歴史に移り変りの順序を造られた人と言つて宜しい、三百年前に於て徳川家康公は、豊臣太閤と云ふ大人物が亡なつて、朝鮮支那との外交が非常に困難になつて、国内は十何年の朝鮮征伐の為に大に疲弊し、群雄を統率すべき豊太閤は既に彼の世の人となつて、国家が大に乱れるか、外国の干渉を蒙るがと云ふ、国歩最も艱難なる時に、徳川家康公は鎖国の政策を立て、而して此江戸を以て日本の首府として、幕府の政治を開かれたのである、爾来三百年、十五代の系統を継ぎたる所の前将軍は、国を開くべき任務を以て世に立たれた、祖先たる東照公は、国を鎖すべき政策を以て世に立たれ、其十五代の将軍慶喜公は、国を開くべき任務を以て世に立たれたのであります、祖先が之を閉し、自分が之を開かれたといふ奇なる関係、奇なると云へば奇なるやうなものでございますが、併し、是は歴史的自然の関係を以て世に立たれ、而も此三百年間に東京は大なる発展をして、今日の繁昌を保つて居るのであります、而して徳川政府の末年に当りまして、慶喜公は官武両立せず、即ち政権は一に帰せなければならぬと云ふ見識を持て居られたのであつて、世には大政奉還と云ふことは、土佐守が其事を建議せられて成立つたかの如くに申伝へて居りますが、此度慶喜公の伝記編纂の事実に拠つて見ると、慶喜公は未だ将軍職を継がれざる以前に於て、其当時の有力の政治家たる原市之進と、既に大政奉還のことを相談して居られた、原は之を止め、慶喜公は之を断行すると云ふ論であつたが、原の意見に依つて暫く両三年時機を見やうと云ふので、延ばして居られる中に、家茂将軍が薨去となり、種々なる困難が起つて、遂に自ら将軍職を襲ぎて、此大政奉還といふことを断行せらるゝに至つたのであります、慶喜公の伝記を読んで見ますると、御幼少の時から薨去の日に至るまで、一に忠義と云ふことを以て一貫して居られます、十九歳の時に一橋家を相続されましたが、其時に父上の烈公より、其方は此度一橋家を継がれるが、如何なる考を持たれるかと云ふ簡単な問を発せられた時に、慶喜公は答へて、如何なる事があつても弓を朝廷に彎きませぬと申上げた、問も簡単であるが答も簡単であつた、而して真に如何なる場合と雖も弓を朝廷に彎かぬと云ふ心を以て、遂に徳川家三百年の忠節を全うせられて、芽出度王政維新となつて、今日の開国進取の政策を立るの道を開くに至つたのであ
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つて、而も其事に就て最も深き恩恵を受けたのは、此東京が兵乱の巷ともならず、家も焼かれず人も傷けられず、上野寛永寺に於て少々の衝突があつたに止つて、爾来帝都となつて、益々繁昌するに至りました、此大なる恩は、三百年の恩と共に、此明治の初め徳川の末に当つて受けた恩は、我東京市民の、終生忘ることの出来ざる大なる恩である、今や斯の如き歴史的の人物が世を去られたと云ふことは、最早今日政治上に御関係の無い人であるから、何等政治上に於ても亦実業上に於ても、関係を及ぼさずと雖も、薨去と云ふ声が吾々市民否日本全国の民心に及ぼす感じは、何となく温き情愛を持つて、大事のお爺さんが亡なつたと云ふやうな感が致します、随て其葬儀の日に於ては、識ると識らざるとに論なく、前将軍といふ考を以て、此人を送るといふことが、最も適当なることであらうと考へられます、私は前申しましたる通に、丁度青淵先生との関係より、又公の日本の為に大切なる歴史的人物なりし関係より、又我竜門社は青淵先生を中心とする会合であつて、随て此公に対する感じの深き関係より、玆に諸君を代表して、往ける前将軍に対して、一片の追悼の辞を述べることを得ますのは、自分の光栄と致すと同時に、胸中に於ては、無限の感を生じます次第でございます、之を以て前将軍に対する追悼の辞と致します(拍手)


中外商業新報 第九九〇九号 大正年一一月二四日 ○竜門社総集会 諸名士の有益なる演説(DK420091k-0004)
第42巻 p.447-448 ページ画像

中外商業新報  第九九〇九号 大正年一一月二四日
    ○竜門社総集会
      諸名士の有益なる演説
男爵渋沢青淵先生を中心とせる竜門社は、其第五十回秋季総集会を、廿三日午後一時より、帝国ホテルに開く、来り会する者六百余名、流石の大会場も立錐の地なく、非常の盛況を呈す、開会宣せらるや、先づ阪谷男起ち、徳川慶喜公薨去に付き、維新前より公と渋沢男との深き関係を説き、我が竜門社員が特に無限の感に堪へざる所以を語り、公が事績を述べ、竜門社員を代表し、此に哀悼の意を表せんとて、悲痛を極めし講話を為し、次いで来賓法学博士政尾藤吉氏(暹羅国顧問)起ち、明治三十年氏が始めて羅国に法律顧問として聘せられし当時に於ける同国の状態を語り
 当時同国には仏国の勢力最も優越し、而して列強は同国に対し治外法権を有し、同国の苦痛甚しかりし、特に同国人は性惰怠にして遊食の民頗る多く、総ての労働は殆と皆多数の支那人に依りて弁ぜられ、是等支那人は無条約国民とし、仏国公使館の力に依り治外法権を有する等、同国は益々其圧迫に苦み、之が為め完全なる司法制度法典編纂を為し法権独立の条約改正を計らんとし、余は其編纂委員として赴任し、中途此大事業の遂行を妨げらるゝこともありしが、以後約十年の星霜を経、漸く四十年に至り仏国も之を認め、英・丁等も認め、遂に多年の希望達せられしもの也
と其経歴を詳細に述べ、我国も治外法権には辛らき経験を有せるのみならず、松隈内閣の時大隈外相の発意に依り彼の法典事業に余が関係することゝなりし歴史もあり、旁々以て彼我の条約は之が改正を為さ
 - 第42巻 p.448 -ページ画像 
ずんば、我国の名誉にも係はらん、但し之には代償の伴ふものあるべく、仏国が代償的に権利獲得を為せる事例を述べ、彼国には米作地に関すること、棉花栽培地に関すること、森林事業に関すること等我国に取り、非常に有利有望事業あるを述べ、我朝野の注意を惹き起さしめ、次で来賓理学博士長岡半太郎氏は、幾多の材料と器械を持参し、近来科学界に於て斬新の研究発明を遂げつゝある液体空気の実験を為し之に一々詳細の説明を加へ
 柔軟なる護謨を液体空気中に入るれば、忽ち硬堅なる固形物になり更に之を普通の空中に戻せば漸次元との柔軟なる護謨に帰することの実験より、鉛を硬形ならしむる事、筒管の中を真空にし、電気・光力の変化を来すこと、冷水忽ち氷となること、棉を以て直に爆発物たらしむる事等
総て液体空気に依つて一大変化を来すの状を一々実験し、更に進んで此液体空気を工業に応用すべきことを述べ、近来の発見に係る新元素論にある「電子」の実験をも為し、尚窒素肥料を説明し、液体空気が工業界に一革新を齎らすべきものなるを語り、来会者一同に非常の興味と有益なる科学的智識とを与へたり、次で大倉鶴彦翁起つて、別項記載の個人長寿法と国家健康論とを熱心に演説し、右終るや渋沢青淵先生起ち、青年実業家に対する訓諭演説を為し
 人は其智識の増進を常に心掛くることの必要なるは勿論なれど、之と共に徳性の涵養は亦大に之を勉めざるべからず、即ち崇高なる人格の向上を特に注意すること頗る必要也、若し夫れ如何に材力優秀なりと雖も、人格にして賤劣ならんか、人として殆ど人たるの値なしと云ふも不可なけん、而して人格の向上を計るには、種々の方法もあらんも、最も要用なるは、所謂常識を具備し、之を完全円満に発達さするにあり、而して常識の発達に付て特に心掛くべきは、己れの境遇に応じて事を処すと云ふこと最も肝要なり
との趣旨を述べ、孔子が常に此人格常識境遇に付て卓見を有し、且如何に最も能く之を論明したるかを、論語其他を引証して説明し、尚進んで近頃米国より帰朝せる我一牧師が男に対し語りし、加州に於ける甲乙両日本人の、一人は成功して善玉となり、一人は一時成功に近づきしも、忽ち身を持ち崩し失敗して悪玉となりし実見談を述べ、此失敗者は幸に怩み禍に悲み遂に身を破りしもの也とて、人格の要を切論し、警告的に世道人心の向上を熱心に説く所あり、之にて講演を了り晩餐会に移り、食後更に別室に於て雑談に時を移し、予定は、此時各種の余興を催し更に歓興を添ゆる筈にて、一切の準備を為したりしも青淵先生と関係深き慶喜公の薨去に付き、当日俄に、余興一切を中止し、哀悼の意を表したれば、静粛に各自談を交へ、午後八時過ぎ散会したり