デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
5節 修養団体
1款 財団法人竜門社
■綱文

第42巻 p.497-508(DK420096k) ページ画像

大正4年10月16日(1915年)

是日、栄一ノ渡米送別会ヲ兼ネ、当社第五十四回秋季総集会、帝国ホテルニ於テ開カル。栄一出席シテ演説ヲナス。


■資料

渋沢栄一 日記 大正四年(DK420096k-0001)
第42巻 p.497 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正四年          (渋沢子爵家所蔵)
十月十六日曇
○上略 五時竜門社総会ニ於ル送別会アリ、阪谷氏代表ノ演説ニ対シ、一場ノ答辞ヲ述フ、夜十時散会、帰宿ス


竜門雑誌 第三二九号・第七七―八〇頁 大正四年一〇月 ○竜門社秋季総集会(DK420096k-0002)
第42巻 p.497-501 ページ画像

竜門雑誌  第三二九号・第七七―八〇頁 大正四年一〇月
    ○竜門社秋季総集会
竜門社に於ては、例年多くは十一月初旬頃、青淵先生別邸曖依村荘に於て秋季総集会を開催する例なりしが、本年青淵先生には、本月二十三日を以て、日米親善を図るの意味に於て、又々老躯を提げて、渡米の途に上らるゝことに相成りしより、俄に会期を繰上げ、十月十六日午後五時より、帝国ホテルに於て、先生祖道の宴を兼ねて秋季総集会を開きたり。
当夜の来会者は実に四百有余名に上り、非常の盛会にて、軈てデザート・コースに入るや、幹事八十島親徳氏開会の辞を述べ、評議員会々長阪谷男爵会員を代表して、慇懃に送別の辞を述べ(本誌十一月号掲載)、之れに対し青淵先生の答辞(本誌十一月号掲載)ありて宴を撤し、別室に移りて歓談に時の移るを覚えず、軈て一同散会したるは十時前なりき、当日の来会者左の如し。
      △来賓及来会者氏名
一正賓
 青淵先生
 同令夫人
一陪賓(いろは順)
 渋沢武之助君
 - 第42巻 p.498 -ページ画像 
 星野錫君
 堀越善重郎君
 横山徳次郎君
 野口弘毅君
 増田明六君
一来賓
 大倉喜八郎君
一特別会員
 石井健吾君    石川範三君    石川道正君
 石川卯一郎君   伊藤新策君    伊藤登喜造君
 伊藤半次郎君   一森筧清君    池本純吉君
 岩崎寅作君    今井又次郎君   井上公二君
 池田嘉吉君    犬丸鉄太郎君   萩原源太郎君
 服部金太郎君   早速鎮蔵君    原田貞之助君
 林武平君     原胤昭君     西野恵之助君
 西村直君     西田敬止君    西谷常太郎君
 二宮行雄君    穂積陳重君    堀井宗一君
 堀井卯之助君   堀田金四郎君   堀江伝三郎君
 本間竜二君    土岐僙君     鳥羽幸太郎君
 土肥脩策君    豊田春雄君    沼崎彦太郎君
 沼間敏朗君    大川平三郎君   大野富雄君
 大沢正道君    大沢省三君    大原春次郎君
 大友幸助君    尾高幸五郎君   尾高次郎君
 大橋新太郎君   尾川友輔君    織田雄次君
 渡辺嘉一君    鹿島精一君    河田大三九君
 川上賢三君    川田鉄弥君    川村徳行君
 神田鐳蔵君    加藤為二郎君   加賀覚次郎君
 神谷十松君    神谷義雄君    柏原与次郎君
 金谷藤次郎君   柿沼谷蔵君    吉田節太郎君
 横田清兵衛君   吉野浜吉君    田中栄八郎君
 田中太郎君    田中徳義君    田村秀光君
 田中楳吉君    田中元三郎君   田辺淳吉君
 竹田政智君    多賀義三郎君   高松豊吉君
 高松録太郎君   高橋金四郎君   高橋波太郎君
 曾和嘉一郎君   坪谷善四郎君   塘茂太郎君
 角田真平君    成瀬仁蔵君    中井三之助君
 永井岩吉君    長滝武司君    仲田正雄君
 仲田慶三郎君   村井義寛君    村上豊作君
 村木善太郎君   内田徳郎君    内海三貞君
 内山吉五郎君   上原豊吉君    上野金太郎君
 浦田治平君    植村澄三郎君   野口半之助君
 野崎広太君    日下義雄君    久万俊泰君
 栗田金太郎君   倉沢粂田君    八十島親徳君
 八十島樹次郎君  山中善平君    山下亀三郎君
 - 第42巻 p.499 -ページ画像 
 山口荘吉君    山崎繁次郎君   山内政良君
 山本徳尚君    山本久三郎君   山中譲三君
 安田久之助君   矢木久太郎君   矢野由次郎君
 松平隼太郎君   松本常三郎君   前川益次君
 前田青莎君    馬越幸次郎君   福田祐二君
 古田良三君    古田錞次郎君   藤田英次郎君
 藤村義苗君    古田中正彦君   小林武次郎君
 小橋宗之助君   小池国三君    古仁所豊君
 小西安兵衛君   江藤厚作君    手塚猛昌君
 寺田洪一君    阿部吾市君    麻生正蔵君
 安達憲忠君    粟津清亮君    男爵阪谷芳郎君
 佐々木勇之助君  佐々木慎思郎君  佐々木保三郎君
 佐々木清麿君   坂倉清四郎君   斎藤精一君
 佐藤正美君    桜田助作君    笹沢仙左衛門君
 佐藤一雄君    斎藤峰三郎君   木下英太郎君
 木村清四郎君   湯浅徳次郎君   三好海三郎君
 渋沢元治君    渋沢市郎君    渋沢治太郎君
 芝崎確次郎君   白石甚兵衛君   白岩竜平君
 清水釘吉君    清水一雄君    白石重太郎君
 清水揚之助君   渋沢義一君    平岡利三郎君
 肥田英一君    弘岡幸作君    広瀬市三郎君
 平沢道次君    平田初熊君    桃井可雄君
 諸井恒平君    諸井時三郎君   諸井四郎君
 諸井六郎君    森岡平右衛門君  本山七郎兵衛君
 関屋祐之介君   鈴木紋次郎君   鈴木金平君
 鈴木清蔵君    鈴木善助君
一通常会員
 石井与四郎君   石田豊太郎君   石田友三郎君
 石川政次郎君   井田轍夫君    井田善之助君
 伊藤英夫君    伊藤美太郎君   猪飼正雄君
 家城広助君    伊沢鉦太郎君   板野吉太郎君
 磯野孝太郎君   伊東勝三郎君   長谷井千代松君
 橋爪新八郎君   林広太郎君    伴五百彦君
 長谷川粂蔵君   蓮沼門三君    早川素彦君
 堀家照躬君    友田政五郎君   友野茂三郎君
 東郷一気君    富永直三郎君   苫米地義三君
 大沢〓君     大竹栄君     太田資順君
 大島勝太郎君   小熊又雄君    落合太一郎君
 御崎教一君    奥川義太郎君   尾崎秀雄君
 尾上登太郎君   小田島時之助君  小倉槌之助君
 河崎覚太郎君   川口一君     川西庸也君
 金沢求也君    金井滋直君    片岡隆起君
 鹿沼良三君    神谷善太郎君   上倉勘太郎君
 唐崎泰助君    兼子保蔵君    金沢弘君
 - 第42巻 p.500 -ページ画像 
 金子四郎君    神谷岩次郎君   金古重次郎君
 吉岡鉱太郎君   吉岡仁助君    吉岡慎一郎君
 田淵団蔵君    田中一造君    田島昌次君
 武沢与四郎君   竹島憲君     俵田勝彦君
 武笠政右衛門君  武沢顕次郎君   田子与作君
 高橋静次郎君   高橋俊太郎君   高橋森蔵君
 高田利吉君    田宮鉉三郎君   武島章二君
 武田仁恕君    竹島安太郎君   塚木孝二郎君
 堤真一郎君    辻友親君     中北庸四郎君
 中村習之君    中山輔次郎君   中西善次郎君
 永田常十郎君   滑川庄次郎君   長井喜平君
 長島郷英君    内藤種太郎君   永田市左衛門君
 中島徳太郎君   村田五郎君    武者錬三君
 浦井吉三郎君   梅沢鐘三郎君   生方裕之君
 梅田直蔵君    上田彦次郎君   上野政雄君
 宇賀神万助君   野村揚君     久保幾次郎君
 熊沢秀太郎君   久保田録太郎君  桑山与三男君
 山田仙三君    山口乕之助君   山村米次郎君
 山崎一君     山田直次郎君   山田昌吉君
 松園忠雄君    松村繁太郎君   松村修一郎君
 町田乙彦君    松本幾次郎君   松崎伊三郎君
 福本寛君     福田盛作君    福島三郎四郎君
 藤浦富太郎君   藤木男梢君    古田元清君
 小林清三君    小森豊参君    小島順三郎君
 小島鍵三郎君   小山平造君    古作勝之助君
 近藤良顕君    河野間瀬治君   阿部久三郎君
 綾部喜作君    粟生寿一郎君   荒井円作君
 桜井武夫君    斎藤亀之丞君   斎藤又吉君
 阪本鉄之輔君   佐野金太郎君   酒井正吉君
 沢隆君      佐藤金三君    木之本又市郎君
 木村益之助君   木村弘蔵君    木村金太郎君
 北脇友吉君    木村亀作君    木下憲君
 木村弥七君    三上初太郎君   南塚正一君
 三森礼一君    柴田房吉君    芝崎猪根吉君
 新庄正男君    白石喜太郎君   東海林吉次君
 篠塚宗吉君    渋沢秀雄君    渋沢長康君
 平塚貞治君    森由次郎君    両角潤君
 森江有三君    森島新蔵君    関口児玉之輔君
 鈴木富次郎君   鈴木勝君     鈴木豊吉君
 鈴木源次君    鈴木正寿君    鈴木旭君
 椙山貞一君
本会に対し金品を寄贈せられたる各位の芳名を録して、厚意を謹謝す
 一金参拾円       石川政治郎
 一金拾円        野崎広太
 - 第42巻 p.501 -ページ画像 
 一金拾円        平田初熊
 一ビール百廿五リーター 大日本麦酒会社


竜門雑誌 第三三〇号・第二二―二八頁 大正四年一一月 ○青淵先生送別会に於て 青淵先生(DK420096k-0003)
第42巻 p.501-505 ページ画像

竜門雑誌  第三三〇号・第二二―二八頁 大正四年一一月
    ○青淵先生送別会に於て
                      青淵先生
 本篇は、十月十六日午後六時より、帝国ホテルに於て開会せる、竜門社秋季総集会兼青淵先生送別会に於ける青淵先生の演説なりとす
                         (編者識)
竜門社の総会を兼ねまして、私及び星野君其他、今度亜米利加へ旅行する一同を御送別下さる此盛会でございます、銘々から御礼を申上るやうに致しては余り長くなりますから、――併し総ては代表しませぬ星野君からも勢ひ御答辞があるだらうと思ひますが、先づ私が幾分か年が余計でありますから、第一に玆に答辞を述べることに致します。唯今阪谷男爵から、私の旅行に就て、殊に既往にまで言及されて、今度の海外旅行は四度目である、最早七十六歳の高齢、成るべく健康に注意せよ、又一回々々に日本の国の進むと同時に、微力ながら私の身分も高まつて来て、今度の旅行に就ては、大に国家に裨補する所があるであらうと期待する、此お言葉に対しては寧ろ過賞であると、如何に内輪でも謙遜の辞を申さねばならぬやうに思ふ御演説がありました併し斯様な極く内々の親しい会合で、もうそれらに対して、可とか否とか云ふことの論断は止めまして、丁度今四度目の旅行であると云ふことをお申述になりましたが、私も古い記憶を玆に喚起しまして、既往三度の旅行が斯う云ふ有様であつたと云ふことを、短く玆に述べて見やうと思ひます。
抑々の初めの旅行は、未だ大抵の方の生れない前であつた、多くは其後に生れた方々と申して宜い、中にはさうでない方もありませう、大倉さんの如きは、其一人であります(笑)丁度私が算へ年二十八、明治維新の前年である、それが初ての旅行で、而も旧幕から命ぜられたのであります、元来私は其数年前まで壌夷論者であつたから、仏蘭西に行くと云ふ場合に始めて仏蘭西の文法書を買つて船に乗つたと云ふやうな次第である、殊に其頃の私の身分は、殆んど小使よりは稍々宜しいけれども、立派な役人とは申されぬ、民部公子に就ては、御傅役の山高といふ人がある、外国奉行は向山隼人正、其組頭には此間死んだ田辺蓮舟などゝ云ふ人があり、又水戸から御附の人が七人ほどあつて、其他に一人綱吉と云ふ髪を結つたり着物を縫つたりする人があつたが、私はそれの上役である(笑)故に大抵荷物を担いだり、併し或る場合には筆算を取扱ふから、会計役にもなる、唯悲しい哉、始めて仏蘭西の文典を買つた位であるから、通訳といふことは、帰る頃には多少出来るやうに相成つたが、其初めは殆んど出来なかつた、丁度慶応三年一月の十一日と覚えます、横浜を出帆して、其翌年十一月三日に横浜に帰着した、其発するや、兎に角将軍の親弟、民部公子の出立でありますから、実に其行を壮にされたが、政変の為に帰つた時には夜遅く皆コソコソと横浜に上陸すると云ふやうな有様でありました、
 - 第42巻 p.502 -ページ画像 
一年半以上の歳月を費して、何の学ぶ所もなく帰りました、其間の艱難辛苦は到底今お話し尽すことは出来ませぬ、故に其当初の旅行と云ふものは、身体に或は精神に、余程の労苦をして帰りましてございます、況んや国家が左様な急変に際しましたから行末いかになるかと云ふことも分らぬ、今日の欧羅巴の大乱は、いかにも其過大なることは申すまでもございませぬが、私の当時身の切なる有様は、中々今日の戦乱どころの話ではない、所謂喪家の狗となつて日本へ帰つて来たと云ふやうな有様である、之が先づ初度の旅行の経過であります、併し其間に言語も解らず、事情も通ぜず、学び方も寔に変則極つて居りますけれども、第一に気着いたのは、役人と普通の実業家との関係が、日本のそれとマルで違つて居ることには、少し注目すると一驚を喫せざるを得なかつた、那破翁から附けられたコロネル・ウイレツトと云ふ人は、中々主我的の人で、仏蘭西は固より官権の高い所、殊にコロネルの職である、始終民部公子のお世話をするに就て、殆んど吾々に対して奴隷扱をする位であつたが、銀行者のフロリ・ヘラルトと云ふ人があつて、是は普通の商売人であるが、此人に対すると、いつも一目どころではない、二目も三目も置いて応待をする、日本などには到底斯う云ふ有様はない、何故であるか、或は借金でもあるのか知らぬ位に思ふた(笑)是は第一に自分が深く感じた点であります、それから段々気を着けて見ると云ふと、日本の官尊民卑の有様とは大に趣を異にして居ることに思ひ当つて、アヽ斯くありたいものだと深く感じた、それから更に他の国即ち白耳義・瑞西・伊太利・英吉利等を廻つて見ると、やはり仏蘭西と其状態が相似て居る、否更に進んで居る有様を見て、是は欧羅巴の風習は日本とは違ふ、若し彼が文明であつて我が野蛮であるならば、文明の国は官尊民卑でなくして、野蛮の国が官尊民卑であると云ふことは、是は智者を俟たずして、理解出来るのであります、それから続いて、私が深く感じたのは、政府から公債を出す、会社から社債を出す、而して会社と云ふ合資の方法に依つて、事業を進めて行くと云ふ点であります、例へば横浜に来る飛脚船会社或は仏蘭西に於ける鉄道会社、其他工業の会社、商業の会社と云ふものが、総てのものに社債はありませぬが、鉄道会社の如きは、其時分頻々と社債を発行した、成程財政と云ふことに就ては、斯う云ふ趣向が宜からうと云ふことは、深く感じました、仏蘭西の文法は解りませんでしたけれども、どうか日本にも、斯う云ふ方法を移し得られぬものであらうかと云ふ観念は、其綱吉と申す髪結兼仕立屋の上役たる私にさへ生じたのであります、第二に参つたのが明治三十五年、此時にはもう自身の身分も進み、極く安楽なる旅行でありました、而も此間故人になられた市原氏や、此席に居る八十島氏なども参られて、追々と所謂旦那旅行でありました為に海外の有様を――、便宜は甚だ便宜であつたけれども、併し若し比較して論ずるならば、真相を知ると云ふ点に就ては、寧ろ前の困難なる旅行の時の方が、却て事情を能く知悉し得られたかと思ふ位であります、続いて第三回の旅行は、欧羅巴には参りませぬ、即ち四十二年の渡米実業団、誤て団長といふ名を持つて参りましたから、此旅行は又二十八の時に欧羅巴に参つたのとは
 - 第42巻 p.503 -ページ画像 
丁度二十八と七十と幾年違ふと云ふほど、それほど違つた、実にいかに何方が望んでも、あのやうな旅行は滅多になさることは出来ない、王公貴人でも或は為し能はぬと思ふ位、今度私が亜米利加に参りまして、多少の優遇は受けるかも知れませぬけれども、当時に較べたら甚だ待遇も小であらう、又旅行も甚だ軽微であらうと思はざるを得ぬのでございます、此四十二年の亜米利加旅行と云ふものは、実に亜米利加人の日本人に対する待遇が、能くも斯くまで注意致して呉れたと思ふ位であります、四十二年の旅行は八月十九日に日本を発して十二月十七日に横浜に着しました、丁度四箇月の歳月を費しました、其前の旅行は五月十五日に発して、十月三十日に神戸に着しました、是も五箇月余、殆んど六箇月に近い旅行であります、此三回目の旅行は今申上げまする通り亜米利加をお祭騒ぎで乗廻したと云ふので、御馳走と演説とを交互に、御馳走を頂戴しては演説をし、演説をしては御馳走を戴く、代る代る五十幾駅間を食ひ倒しお祭騒ぎをして帰つたと云ふ訳であります、それがどれ程日米間の親善を助けたかと云ふことは、私にも分らず、誰にも分らぬが、併しさらば一切効能が無かつたかと云へば、然りとは云へぬであらうと思ひます、亜米利加人が左様に、シヤトルから東部其他各地を経て桑港まで汽車を以て一貫して案内をして呉れ、又各種の人が中にはシヤトルを発して、途中交代した人もありますけれども、桑港に至るまで終始一貫して世話をして呉れた人が十数人ありました、其設備、其接待、実に至れり尽せりであります先づ斯う云ふやうな変つた旅行を二・三回致したのであります。
此度の旅行はどう云ふ訳であるかと申しますと、是は最終の旅行でございませうが、寔に無意味な旅行である、斯の如く竜門社も段々人員も増し、勢力も殖え、遂に総会に相集る者四百人・五百人に及ぶと云ふやうに相成つたのは、洵に喜ばしいことであつて、些細の私の旅行に斯く多数のお集りで、其行を壮にして下さることに対して、もう内内のことでありますから、私は決して御遠慮は申さぬ、仮令無意味な旅行、何等の功を奏せぬにした所が、兎に角竜門社と私とは離るべからざる因縁と申して宜しい、諸君が私の行を壮として下され、又私の身体を労つて下さることは、至極御尤の事と思ひますから、私は決して恐入もしなければ、御遠慮もしない、衷心より喜んで諸君の御厚意を受けるのであります、元来私の此度の旅行に就ては、何れの方面に向つても、私は斯様な趣意を以てお答致さうと思ひます、既に此程此ホテルで、平和協会多数の御催しで、私を送つて下さる会がございました、又今日は東京商業会議所の諸君が御催しで、送別会を開かれましてございます、近日又帰一協会が会を開いて下さると云ふことであり、其他彼此と御送別を受くるだらうと思ひますが、既に私は今日も申上げました、中野商業会議所会頭は、渋沢の此度の旅行は、年も取つて居り、船も好きではない、甚だ迷惑であらうが、然るにも拘らず玆に意を決して起つと云ふことは、定めて当人の意思もあるであらうが、其起りは、当商業会議所が時局に対して段々評議した結果、日米の親善を益々進めて行くには、我商工業者を代表すべき人に、亜米利加に行つて貰ふと云ふことが、爾来の関係上、大に裨益する所がある
 - 第42巻 p.504 -ページ画像 
であらう、それには代表的位地として、渋沢が一番宜からうと思ふから、老人と思ひもし、旅行を辛いと考へもしたけれども、之を以て今の希望を抛つ訳には行かなかつた為に、無理と知りつゝ望んだ訳であるが、蓋し同人の決心も寧ろそれから起つたであらう、此希望は独り東京商業会議所ばかりではなからうと思ふ、政治に関係する人も、又関係せざる人も、苟も日米の関係を思ふ者は、押しなべてさう云ふ観念を持つであらう、故に此行や必ず得る所があるであらう、と云ふ趣意の送別の辞がありましたが、私は之に答へて、今中野君が左様に仰しやるけれども、私は其言葉に就て意を決したのではございませぬ、斯う申すと、中野君に対して、好意を無にするやうに聴えるか知らぬが、自身が国民の一人として、国家の為に果して効能ありと思ふなら私自身で其意を決します、さう云ふお言葉は如何にも承つて、或は然らんと云ふ感は私の心に起つたか知らぬが、それに負ふ所は私はないと思ひます、故に今度の私の旅行は、官たり民たり、何れからも使命は聊かも帯びぬ、唯私が国民の一人として、亜米利加に参つて、日本人の多数は斯う思ふて居る、少くも私自身は斯様に考へて居りますと云ふことを述べるのが、多少の効能ありと予想したに過ぎませぬ、此趣意を以て旅行の本旨と致します、と云ふことを答へて、商業会議所の諸君に御礼を申しましたが、併し自ら思ふ所では、其念慮は唯単に私自身だけがそれを必要とする訳ではありませぬ、丁度阪谷男爵の今言はれる通り、欧羅巴は彼の如き戦乱である、此結果いかに相成るか東洋に於ては充分なる力を備へ、将来に望を属するのは、我帝国より外にはないと云ふても宜からう、亜米利加は御承知の通り、今日は欧洲の戦乱中にも拘らず、寧ろ其為に国運隆々たる有様である、此両国が若し誤つて従来の行懸り上、遂に禍乱を起すと云ふやうなことになつたならば、遂に世界を挙げて戦乱の巷に陥るであらう、斯く考へて見ますれば、世界の平和は、せめては東洋に於ては帝国、西洋にあつては亜米利加に依つて、維持さるゝと思はなければならぬ、然るに此両国の間に、若しも一歩を過たば、必ずしも平和にのみ終らぬと云ふ一の云為があると云ふことは、諸君も皆御承知の通りである、而して此事は彼の国情として、速に之を解決することは出来ない、政府も充分に力を尽すであらう、国民も或る部分は種々なる方法を以て、宗教家は其宗教の見地より、人道を以て論じて居り、色々な方面で努力して居りますけれども、全く之を完全に理解することは出来ぬ、若し之が更に行違うて、一方にのみ進んで行くやうになつたならば、将来いかゞ相成りませう、斯く懸念しますると、此場合両国の親善を保つ為に最も努力しなければならぬと云ふことは、是は全国民皆思はなければならぬ、私もやはり国民の一人として、深く憂ふるのである、果して有効であるか無いかは分りませぬけれども、私の此旅行が、幾分なりとも更に生ぜんとする禍害を除き、又従来の紛糾を緩和するに力ありと信ずるならば、国民として黙する訳には行かない、斯く申すと甚だ烏滸がましい申分であるが、幾らか其望ありと信ずるならば、自ら奮て其任に当るのが、即ち帝国臣民の気象である(拍手)斯く覚悟した訳であります、故に今度の旅行は果して有効であるか無効であるか
 - 第42巻 p.505 -ページ画像 
敢て其効果如何は顧みませぬ、唯我大務を尽すと云ふまでのことである(拍手)殊に我一身を論ずると、丁度彼の埋骨豈限墳墓、人間到処有青山と云ふのは、独り壮年の時に必要のことではありませぬ、寧ろ年を取つてからが必要である、老爺になつたから、炬燵の上に死なうと考へるならば、若い時にもやはり、畳の上でなくては死ねなくなるのであります、私などは何時死んでも構はぬ、『いざさらば雪見に転ぶ所まで』と云ふを趣意として、旅行をするのでありますから、併し斯様申したからと云うて決して船中で死んで、諸君に再びお目に懸らぬと云ふことを諷する訳ではない、必ず此度の旅行は斯様であつた、前回の旅行は斯様であつたが、此度は斯様に変化しましたと云ふことを、軈て帰つて御報告が出来るだらうと思ひます、私の此旅行の骨折をお察し下されたならば、諸君は我本業に、又は其会社の事業に若くは一家の事業に、充分御奮励下さることは容易いことであらうとお察し申しますから、どうぞ充分御勉強あらんことを希望致します(拍手)多数のお方々には尽く御送別が出来兼ますから、此場合にお暇乞を致して、軈て戻つて来るまで、どうぞ皆様が御健康で且つ御勤勉あることを希望致します(拍手)


竜門雑誌 第三三〇号・第三五―三七頁 大正四年一一月 ○青淵先生送別会に於て 法学博士男爵阪谷芳郎(DK420096k-0004)
第42巻 p.505-507 ページ画像

竜門雑誌  第三三〇号・第三五―三七頁 大正四年一一月
   ○青淵先生送別会に於て
              法学博士男爵阪谷芳郎
 本篇は十月十六日、帝国ホテルに於て開催したる、竜門社秋季総集会兼青淵先生送別会席上に於ける、本社評議員会長阪谷男爵の送別辞なりとす(編者識)
青淵先生、並に来賓各位、社員諸君、私は評議員長たるの資格を持ちまして、玆に青淵先生並に御一行の渡米に就て、御送別の辞を述ぶるの光栄を有します、青淵先生の御洋行は、今回が第四回目でございます、第一回は慶応三年、第二回が明治三十五年、第三回が明治四十二年、第四回が即ち今回であります、一回々々と段々年を取られると云ふことは、是は免れませぬ、今回は七十六歳の高齢を以て御洋行であります、第一回は今を去ること殆ど五十年の昔、先生の未だ二十七・八才の頃であらうと考へます、其当時の幕末に際し、我国の議論が開鎖の二つに別れ、政治界は佐幕勤王の両説に別れ、危きこと累卵の如き有様でありまして、先生の洋行は、未だ旧政府時代の命令に依て行はれたのであります、而して洋行中に於て、先生の主人家たる徳川幕府は潰れたのである、先生の帰られたときは、即ち王政維新の後であると云ふやうな時勢であつたのであります、此度は如何なる時期であるか、世界は今や大戦乱の巷となりまして、対岸の支那の一角には、日独の間に、一時戦端は見ましたけれども、直に是は鎮定し、又亜米利加は初めより戦乱を免れて居りまして、今日に於ては世界の富は、亜米利加と亜細亜に集らんとして居る、亜米利加と亜細亜の生産を以て漸く世界に就中欧洲方面に物資を供給して居ると云ふ有様である、玆に於て世界の将来を考へますれば、亜米利加と亜細亜はどうぞ深く此戦乱に関係せず、而して欧羅巴の戦乱をして、成るべく早く終局せ
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しめ、世界をして一日も早く平和の時代に回復せしむると云ふのが、今日最も大切なる世界的問題である、而して天下の形勢、米国と日本とは最も親むべき事情が、戦乱に因つて益々生じ来つたのである、今日の電報にある、米国の陸海軍の大拡張の如き、其目的は蓋し欧羅巴の戦乱の、北米南米に波及せんことを恐るゝの結果に相違ない、又相当なる時期に於ては、戦乱の鎮定を早からしむるの目的であらうと考へる、若も此戦乱が、不幸にして亜細亜・亜米利加にまで波及致しますれば、それこそ所謂応仁の乱の如く、群雄割拠、遂に三十年・四十年、平和を見ること能はざる状態に陥るかも知れぬ、今日の世界の議論は、国の如何を問はず、どうか戦乱の区域を縮少せしめたい、飛火をせぬやうにしたい、火を早く消したいと云ふのが、世界識者の希望であつて、而して其衝に当れる欧羅巴は、段々疲弊して来ますから、勢ひ亜米利加と日本とが、此の平和の擁護者、恢復者、或は場合に依ては武力を以て鎮定者とならなければならぬのでありまして、此場合に於て日本と米国との関係を親密にすると云ふことは、独り両国の幸福であるのみならず、世界の平和の上に非常なる関係を及ぼすのであります、且つ米国は戦乱前に計画せられたる博覧会を、戦乱にも拘らず断乎として遂行し、之に参加した者は、独り日本であると云ふやうな状況の下に於て、日本より日本の実業界・経済界、或る意味に於ては政治界までをも、真実に代表すべき大人物が渡米することの必要は何人も感じて居る所である、此場合に於て渋沢男爵が、七十六歳の高齢をも顧みず、人間到る処青山ありと云ふ勇気を以て、渡米せらるゝと云ふことは、吾々竜門社員の甚だ敬服に堪へぬ、又甚だ壮なりとして喜ぶ所であります(拍手)先生の名望は国の内外に高く、必ずや先生の渡米は好き感情を米国人一般に与へ、随て日米両国間の平和親善は勿論、商業上にも好き結果を来すと云ふことに就ては、疑を容れぬ次第であります、米国人は青淵先生の平常に於て平和に熱心なる、日米の関係に就て最も努力せらるゝことは、能く知つて居るに相違ない仮令一言の説明を用ゐずとも、先生既往の経歴が明かに充分なる説明を与へて居る、即ち青淵先生が渡米後何等語る所なくても充分であるのに先生は最も言論に長ぜられ、日本国民の意思将来に於ても、既往より一層米国と親善を加へると云ふ、日本臣民一般の真誠なる意思をお述べ下さることに於て、非常に巧みなる弁舌を有して居らるゝことでありますから、所謂之が鬼に金棒、誠に適当なる人が適当なる国民的使命を帯びて、お出になるのであります、併ながら吾々は社員として、多年先生の薫陶を蒙る者である、又殊に私は親族の関係者の一人として、其御高齢に就て、深く心配を致します、先生の御健康は少しも壮時と異ることはありませぬが、どうぞ二十七・八歳と七十六歳とは大層違ふと云ふことを御自覚あつて、余り御無理をなさらぬやうに充分御健康に御注意あらんことを熱望に堪へませぬ(拍手)如何なる我儘を仰しやつても、年が之を許すであらうと考へます、強てお努めにならぬでも、年が必ず之を許すのでありますから、どうぞ呉々も御健康に御注意の上に、国民としての使命を完うして、お帰りになることを望みます次第であります、又御同行の堀越君始め其他の諸君に於
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かれましては、未だ何れもお若い、但し星野君はどうであるか(笑)
星野君は年の多い方でありますから、其点に就てはやはり同じ注意を促しますが、其他の諸君に於ては、何れも御壮年である、併ながら風土も変りますから、御健康には充分の御注意を加へられ、明年一月、一陽来復の時期に於て、御健康なる御顔を、日本の地に於て拝見することを、切に希望に堪へぬ次第であります、私は玆に諸君の御同意を得て、青淵先生並に同御一行の為に盃を挙げて万歳を三唱致します。(万歳三唱、全員唱和)


中外商業新報 第一〇五九六号 大正四年一〇月一七日 ○竜門社の総会 渋沢男爵送別会(DK420096k-0005)
第42巻 p.507-508 ページ画像

中外商業新報  第一〇五九六号 大正四年一〇月一七日
    ○竜門社の総会
      渋沢男爵送別会
十六日午後五時、帝国ホテルに於て、竜門社第五十四回総会に兼ね、渡米すべき渋沢男爵の招待晩餐会を催したり、来会者四百十名にして頗る盛況を極む、デザート・コースに入るや、八十島親徳氏一場の挨拶を述べ、次で会長阪谷男爵は、青淵先生今回の渡航を送るの辞を述べて、曰く
 渋沢青淵先生の洋行は、今回を以て第四回目となす、而して第一回は明治維新前の国事多端の時に於てせられ、今回は世界の大戦乱の最中に於てせらる、思ふに、米国は現に海軍大拡張案を立て居れるが、其拡張は要するに将来の戦乱に対して拡大を防ぎ、其鎮定を速やかならしむる用意と観るべく、実に米国は世界平和の保護者たるもの、此平和の保護者たる米国と、東洋に於ける平和の保護たるべき日本を結び付くに当りて、経済界は素より、政治方面にも関係ある人物の渡米は、何人も要望し居れる所なりき、幸ひ青淵先生が高齢を物とせられず、今回の使命を帯びて渡米せらるゝ事は、其人を得たりと云ふべく、先生は寔に平和を愛するの人、米国人は先生の渡米によりて、大に日本の真意を解する所あるべし、冀はくば健康に注意を払はれ、明年一月無事の御帰朝あらん事を
阪谷男の送別辞に対して渋沢男爵は左の如き答辞を述べたり
 予が第一回の洋行は、明治維新前一年頃で、第二回は明治三十五年第三回は明治四十二年にして、第四回目が今度也、して、第一回の洋行は身体と精神に非常の辛苦を払ひ、第二回目は第一回に比すれば旦那旅行にして、旅行上便宜多かりしも、事の真相を観察せる点は、或は第一回に及ばざりしなるべし、第三回は誤まつて渡米実業団の団長となり、米国に於て非常の款待を受け、王侯も及ばぬ程の優遇に接し、五十余日間を、米人の懇切を極めたる馳走に与り、馳走の合ひ間には演説を為して廻り、悪く言へば喰ひ倒しの観なきにあらざりしも、又多少の使命を有したれど、今回の米国渡航は別に何等の意味を有せざるに拘らず、斯く多数会員の御集り下され、送別の宴を催されたるは、感謝に絶へず、予は国民の一人として渡米する者にして、日本人の多数は、米国に対して斯くの如く考へ居れり、尠くとも予一人の考へは斯々也とし、彼国人に若しも誤解ありとせば其誤解を解くに聊か尽力せんとす、要するに予が此行にして
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日米国人間に於て互ひに生じ易き誤解ありとして、之を艾除し得ば予は旅行上の苦痛を厭ふものにあらず、果して此行効果を挙げ得るや、又無効に終るやは不明なれど、此行は己が本分を尽す意味に外ならず「いざ去らば雪見に転ぶ所迄」の句あり、幸に予か衷情を御汲取ありて、会員諸君の勤勉と身体の健康を祈る
星野錫氏は渋沢男の引例せし雪見に転ぶ所までの句を引き、転ぶべき地に入りて転ばず、必ず職責を完ふして帰朝すべしとの抱負を述べ、九時限りなき和気の間に散会したり、当日は渋沢男の外に、男の随行者たる星野錫・堀越善重郎・野口弘毅・増田明六・横山徳次郎諸氏を招待したり