デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
5節 修養団体
1款 財団法人竜門社
■綱文

第42巻 p.508-523(DK420097k) ページ画像

大正5年1月17日(1916年)

是日、当社会員有志主催、栄一ノ帰国歓迎及ビ穂積陳重授爵祝賀晩餐会、帝国ホテルニ於テ開カル。栄一出席シテ米国旅行談ヲナス。


■資料

竜門雑誌 第三三二号・第五七―六〇頁 大正五年一月 ○青淵先生帰朝歓迎穂積法学博士授爵祝賀晩餐会(DK420097k-0001)
第42巻 p.508-510 ページ画像

竜門雑誌  第三三二号・第五七―六〇頁 大正五年一月
    ○青淵先生帰朝歓迎穂積法学博士授爵祝賀晩餐会
青淵先生には、別項記載の如く、一月四日米国より無事帰朝せられ又本社創立以来監督・顧問・評議員等として永く尽力せられたる、法学博士穂積陳重氏は、昨年十二月一日勲功に依り特に男爵を授けられたるを以て、石井健吾・大川平三郎・尾高次郎・植村澄三郎・八十島親徳・男爵阪谷芳郎・佐々木勇之助・清水釘吉・渋沢元治・諸井恒平諸氏発起人総代となり、渋沢・穂積両家の親族及び我竜門社中の有志二百二十有余名の諸氏連合して、青淵先生の帰朝歓迎と穂積法学博士授爵祝賀とを兼ね、両男爵及御家族並に米国帰朝の一行諸氏を招待して、本月十七日午後五時より帝国ホテルに於て晩餐会を催せり、来賓及来会者は左の如し
 △来賓
  青淵先生      同令夫人
  男爵穂積陳重氏   同令夫人
   渋沢武之助君   同令夫人
   渋沢正雄君    同令夫人
   頭本元貞君
   堀越善重郎君   同令夫人
   増田明六君    脇田勇君
   横山徳次郎君   永野護君
 △来会者(イロハ順)
  伊藤新作君    板野吉太郎君   井上金治郎君
  石黒忠篤君    同令夫人     石田豊太郎君
  伊藤潔君     一森筧清君    犬丸鉄太郎君
  岩崎寅作君    今井又治郎君   池田嘉吉君
  石井健吾君    服部金太郎君   同令夫人
  原胤昭君     波津久清君    早速鎮蔵君
 - 第42巻 p.509 -ページ画像 
  新原敏三君    西田敬止君    堀井宗一君
  穂積重威君    堀切善次郎君   同令夫人
  堀井卯之助君   堀田金四郎君   堀江伝三郎君
  土岐僙君     土肥修策君    富永直三郎君
  利倉久吉君    豊田春雄君    尾上登太郎君
  大川平三郎君   同令夫人     大川鉄雄君
  大川義雄君    織田令夫人    織田雄次君
  尾高幸五郎君   尾高次郎君    同令夫人
  尾高豊作君    尾高朝雄君    尾高鮮之助君
  尾高定四郎君   大原春治郎君   大友幸助君
  大沢正道君    沖馬吉君     小口金三郎君
  渡辺嘉一君    片岡隆起君    川口一君
  加賀谷真一君   金井滋直君    同令夫人
  加藤為次郎君   加賀覚次郎君   川田鉄弥君
  金谷藤次郎君   柿沼谷蔵君    神谷十松君
  神谷義雄君    柏原与次郎君   吉田嘉市君
  米倉嘉兵衛君   吉田節太郎君   田中二郎君
  田中栄八郎君   中田寿一君    竹田政智君
  田中太郎君    田中楳吉君    田中元三郎君
  多賀義三郎君   高橋波太郎君   高橋金四郎君
  高根義人君    高松録太郎君   高松豊吉君
  滝沢吉三郎君   塘茂太郎君    鶴岡伊作君
  坪谷善四郎君   角田真平君    成瀬隆蔵君
  中井三之助君   同令夫人     中村省三君
  永田母堂     永田令嬢     仲田正雄君
  仲田慶三郎君   永井岩吉君    長滝武司君
  村木善太郎君   内山吉五郎君   浦田治平君
  上原豊吉君    同令夫人     上田彦次郎君
  植村澄三郎君   植村甲午郎君   野村鍈太郎君
  野口半之助君   野崎広太君    倉沢粂田君
  日下義雄君    同令夫人     栗田金太郎君
  簗田𨥆次郎君   山内政良君    山中善平君
  八十島親徳君   同令夫人     同令嬢
  八十島樹次郎君  八巻知道君    矢野由次郎君
  矢野義弓君    矢木久太郎君   山中譲三君
  山口荘吉君    山下亀三郎君   山本久三郎君
  安田久之助君   松平隼太郎君   前川益以君
  福原有信君    同令夫人     福島三郎四郎君
  古田元清君    藤田英次郎君   藤山雷太君
  福田祐二君    福島宜三君    古田錞次郎君
  古田良三君    小池国三君    小林武彦君
  小林武之助君   小林武次郎君   小橋宗之助君
  小西安兵衛君   古仁処豊君    古田中正彦君
  寺田洪一君    手塚猛昌君    青木要吉君
 - 第42巻 p.510 -ページ画像 
  有田秀造君    朝山令夫人    阿部吾市君
  粟津清亮君    浅野総一郎君   同令夫人
  浅野泰次郎君   同令夫人     安藤憲忠君
  酒井正吉君    佐藤毅君     佐藤正美君
  佐々木保三郎君  佐々木勇之助君  同令夫人
  佐々木清麿君   佐々木慎思郎君  斎藤章達君
  斎藤峰三郎君   斎藤孝一君    西園寺亀次郎君
  坂倉清四郎君   笹沢仙左衛門君  阪田耐二君
  男爵阪谷芳郎君  同令夫人     阪谷希一君
  阪谷令嬢     佐々木和亮君   木村弥七君
  木村亀作君    北脇友吉君    木下英太郎君
  湯浅徳次郎君   水野錬太郎君   芝崎確次郎君
  清水釘吉君    同令夫人     清水一雄君
  清水揚之助君   白石元治郎君   同令夫人
  渋沢秀雄君    白石甚兵衛君   渋沢信雄君
  渋沢義一君    渋沢長康君    渋沢虎雄君
  渋沢市郎君    渋沢元治君    同令夫人
  渋沢治太郎君   肥田英一君    弘岡幸作君
  平沢道次君    平田初熊君    諸井六郎君
  諸井時三郎君   諸井恒平君    同令夫人
  諸井四郎君    同令夫人     持田巽君
  森岡平右衛門君  桃井可雄君    関直之君
  鈴木金平君    鈴木紋次郎君   同令夫人
  鈴木清蔵君    鈴木善助君
 予定の如く午後六時、食堂を開きてデザート・コースに入るや、阪谷男爵は発起人を代表して
  ○阪谷ノ祝辞演説後掲ニツキ略ス。
 玆に於て一同起立、盃を挙げて、青淵先生並に穂積男爵御一家の万福を祝し、次いで青淵先生の簡単なる謝辞あり。穂積男爵亦起ちて謝辞を述べて曰く
  渋沢男爵閣下の歓迎会を開かれまする驥尾に附して、私の授爵を御祝ひ下さいますのは、私の此上もない栄誉と感謝致す所であります。其の次第は、亜米利加今日の隆盛を来たしましたのは、全く学問と実際との密接の関係を保たるゝ結果であります。其の真相を日本実業界の代表者たる渋沢男爵が親しく御視察ありて、御無事御帰朝に相成りました此際、宮中に於て私が従来学究として教育の為めに本分を尽しました微功を思召されまして、男爵を授け賜はりました無上の栄誉をお祝ひ下さると云ふことは、此上もない喜びで御座いまして、深く感謝致す次第で御座いまする云々。
 是れにて宴を撤し、別室に於て、青淵先生の米国御旅行談あり。最後に露国女流音楽家ベルソン嬢のバイオリン演奏二曲あり。散会したは午後十時過なりき。当夜青淵先生には露国大使館夜会に招待を受けられ、為めに米国紀行談の委曲を悉くす能はず、他日を約して午後九時同夜会に赴かれたるは遺憾なりき。

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竜門雑誌 第三三三号・第五八―六二頁 大正五年二月 ○青淵先生、穂積男爵招待会に於て 法学博士男爵阪谷芳郎(DK420097k-0002)
第42巻 p.511-514 ページ画像

竜門雑誌  第三三三号・第五八―六二頁 大正五年二月
    ○青淵先生、穂積男爵招待会に於て
               法学博士男爵阪谷芳郎
  本篇は、一月十七日帝国ホテルに於て開かれたる、青淵先生帰朝歓迎会と穂積法学博士の授爵祝賀会席上に於ける、本社評議員会長阪谷男爵の祝辞演説なり(編者識)
 私は発起人を代表致しまして、皆様に御挨拶を申上げます、今日は渋沢男爵及び御一行並に穂積男爵閣下を御招待申上げましたのであります、斯く多数御来会を得ましたことは、来賓諸君も定めて御満足下さることゝ存じます、何分発起人が甚だ不行届でございまして、席順其他総て御満足を得ませぬことは重々御詑を致します。
 さて渋沢男爵閣下には、昨年十月御渡米の際に、丁度斯かる会を催しまして、御送別を申上げました際に、どうぞ無事にお帰り下され、無事の御顔を拝するを得ば何よりの御土産で、之れで沢山でございますと云ふことを申上げましたが、寔に御出立の時より尚一層御健康なる御様子を以て、お帰りなさつたと云ふことは、もう吾々に取りましては、予期以上の御土産でございます、然るに之に加ふるに、欧洲大戦乱に当りまして、非常に此世界の形勢が変化しつゝある、商工業の将来が益々多事である際に、有益なる御観察を遂げられ、日米間の問題に付きまして、色々有益なる意見を交換せられ、又巴奈馬博覧会に関して、米国人の好意に対する本邦実業家、並に国民一般の意見を充分に御伝へ下すつてお帰りなさつたと云ふことは、実に何と申しませうか、予期以上、望外のお土産でございまして、有難く御礼を申上げる次第でございます、男爵のお土産話の中には、沢山有益の事がありますが、それは後刻別室に於て緩くりお話をして下さると云ふことでございます、私が男爵のお話を伺ひまして、最も深く脳裡に染みましたのは、どうも良い人が米国に居る、段々働いて金持になると、段々えらい人間が出来て来る、実に公益を重んじ道徳を重んずる、どうしてあゝ云ふ人が出るものかと云ふお話を伺ひましたときに、是は吾々の教訓として、大に味ふべき事であると感じました、それから又同行者の一人の方が、実に米国の進歩に驚いて、段々米国が礼義作法に於ても発達して来た、米国の不作法と云ふことは評判でありましたが、今度行つて見ますると、サンキユー、或はエース・サーと云ふやうにサーを附け、又サンキユーを云ふやうになつたのは、実に大なる進歩である、のみならず、以前には禁酒日曜日、或は禁酒の都市と云ふやうなものがあつたが、今度行つて見たら、禁酒の州と云ふものが出来た、而も其州の数が十三に達し、皆な禁酒をして居る、此例を以て推せば、遂に米国全州が近き将来に禁酒をするかも知れぬ、而して其禁酒をした地方の状況が如何であるかと云ふと、銀行の預金が禁酒令の行はれた以後五割増したと云ふことである、之を以て見ても、米国の人が如何に作法が良くなり、如何に宗教心が進んだかと云ふことが察せられる、富は社会を腐敗させると云ふことを、往々にして申します東洋では所謂清貧に安ずるなどゝ申して、富むと云ふことは、或は品
 - 第42巻 p.512 -ページ画像 
性を卑ふすると云ふことを意味するやうでありますが、米国では愈々富んで愈々貴くなるやうな様子に見えると云ふことを、同行の方が申されました、此二つは、お土産話の中でも最も私の脳髄を刺激致しまして、吾々顧みなければならぬことゝ考へましたのであります。
 随行員の諸君に対しましては、昨年御出発の際吾々より御希望を申上げ、どうぞ渋沢男爵の御健康を護つてお帰り下さいと云ふことを、特に申上げましたが、完全に其任務をお果し下さいまして、男爵の健康、少しも御出立前と異ならざるのみならず、より以上の進歩を以てお帰りになつたことに付きましては、頭本君・堀越君、其他段々ありますが、御一行の諸君に対しまして、深く感謝の意を表します、固より男爵の意思を疏通する所の通訳其他の御尽力は申すまでないことでありますが、此健康を充分お護り下すつてお帰りになつたことを深く感謝致す次第でございます。
 段々伺ひますると、御失策も随分あつたやうでございます、其一例を申しますと、男爵がオークランドへ午前十一時の案内を受けて居つたのに、時間を誤て午後の一時に参られて、大にまごつかれたと云ふことで(笑)是は上陸早々の御失策であつたやうであります、当時の新聞にも出て居ります、それから又同行者中の洋行通を以て任ぜられるお方で、お名前は少々憚りますが(笑)、汽車の旅行中寝所を間違へて、幕の下からウンと手を突込むと、女の顔に触つて大に叱られた人が、此お席の中にあると云ふことでございます(笑)是はどうも失策中の失策と申して差支なからうと思ひます、お名前だけはお預りに致して置きます。
 それから今一つ申上げなければならぬのは、渋沢男爵が御旅行中、未だ船にお在になるときに、大隈総理大臣より、此度の御大典に就て旭日大綬章を 陛下より賜はると云ふことが、無線電信を以て伝達せられましたさうです、殊に帝国の総理大臣が、態々無線電信を以て、叙勲の御沙汰を伝へられたと云ふことは、開闢以来始てのことで、洵に吾々一同竜門社員として深く喜びますと共に光栄に存じます、尚今度旭日大綬章が、如何なる意味で男爵に授けられたものかと云ふことを、過日ちよつと政府筋の人から承りました所が、此度の御大典に就て、もう渋沢男爵に対して、実業方面からお礼を云ふことは数へ切れぬ程ある、併ながら、未だ此日本に慈善の事業を以て勲章を賜つた者がない、殊に旭日勲一等を慈善の事業に由つて賜つた者はない、然るに此度の御大典に就ては、慈善者にも勲章を賜はるやうにしたいと云ふ各府県からの申出がありましたが、先づ最も功労のある渋沢男爵に慈善のことに就て勲章を授けられぬと、他の者に賜る訳にいかない、それで此度の旭日大綬章と云ふものは、即ち男爵が多年東京市養育院を始め、有ゆる社会の慈善事業に尽されたることが、天聴に達せられての御恩命である、斯う云ふことを漏れ承りまして、吾々竜門社員は最も天恩の厚きに感泣致します次第でございます、是は今夕御挨拶を申す重要なる事項の一に算へて宜からうと考へます。
 それから穂積男爵閣下に対しまして、実に吾々竜門社員の深く喜びますのは、閣下が終始学問を以て一貫せられ、殊に此法律と云ふもの
 - 第42巻 p.513 -ページ画像 
が日本では甚だ不完全であつて、此法律を学問として研究したと云ふことは、蓋し穂積博士の御洋行帰り前夜から始つたと云つて宜い、現に渋沢男爵が大蔵省にお這りの時分に、佐野惟馨と云ふ人がありましたが、此人の後に初めて民部省のお役人を仰付つたときに、之から裁判官を勤めなければならぬと云ふことである、サアどうするのかと思ふて、其当時の卿とか大輔とか云ふ人の前へ呼出されて、之を読めと科条類典俗に徳川百箇条と云ふものを示された、之れを読めと急かれる、中々急に読めるものではない、何でも善い、早く読めと催促される、之れは旧徳川政府のものではありませんかと云へば、なんでも善いから早く読で誓書を書け、親子兄弟たりとも決して他言致すまじと云々、法律は裁判官に任ぜられたときに、ちよつと見せられて、しかも其法律は他言することは出来ないと云ふやうな、さう云ふ裁判であつた、其後に出来ましたのが、新律綱領改定律例で、是は鶴田とか水野とか云ふ漢学素養の人々が尽力して拵へた、是も明律とか清律とか徳川百条とか云ふものを焼直したやうなものであるが、それが段々進んで、刑法治罪法となり、又進んで法典となり、其間に於て、今日の弁護士と云ふ者は三百代言、或は公事師と云ふて卑められて居りましたのを、段々根本的に学術的に改善して、総て現在に於ける大審院を始め、裁判所の組織、又法典の編纂を、学術的新基礎の上に樹立致すやうになりましたのは、勿論博士御一人の力とは申しませぬが、其間に諸学を教授し、判事・検事・弁護士を養成し、大に力を尽されたのであります、それが而も政治家と云ふ立場でなく、純粋の学者の立場から国家にお尽しになつて、玆に男爵を授けられたと云ふことは、洵に芽出度い中にも最も芽出度い、或は千軍万馬の中で敵の陣を破ると云ふことも芽出度うございますが、併ながら学問を以て、殊に平和を重んずる学問を以て、此恩典に浴せられたと云ふことは、閣下の名誉は勿論でありますが、吾々竜門社員としては、深く聖恩の厚きことに是亦感謝せざるを得ぬ次第であります、前の青淵先生の旭日大綬章の恩賜と云ひ、又穂積博士に対する授爵の恩命と云ひ、共に倶に其光栄に浴し、又共に倶に天恩の優渥なることを、玆にお祝詞を申上げる次第でございます。
 今夕は丁度九時から、露国太公の為めに大使館に於て夜会があります、渋沢男爵又私も其方に参らねばならぬのでありますが、夜会は少少後れても差支ないとのことでありますから、どうぞ渋沢男爵には御緩くりお出を願ふことに致しまして、別室に於きまして、タツプリ一時間はありますから、お話を承ることに致したいと存じます、此席に於きまして、何れ両男爵より御挨拶がございませうが、それは極く簡単に願つて置きまして、緩くりした御旅行談は別室に於て、殊に今日は世界の形勢に最も重きを置かなければならぬ際に、最近に米国の財界の有様を見てお帰りになつた老練なる男爵のお考を、此人材に富んで居る竜門社の多数の人にお聴かせ下さることは、最も大切なることと考へまするので、どうぞ充分なる時間を割いてお話下さるやうに願ひます(拍手)
 玆に私は諸君の御同意を得て、渋沢男爵閣下及び御一行、玆に穂積
 - 第42巻 p.514 -ページ画像 
男爵閣下の御健康を祝したいと思ひます(拍手)
  (起立乾盃)


竜門雑誌 第三三五号・第二三―三五頁 大正五年四月 ○竜門社員の歓迎会に於て 青淵先生(DK420097k-0003)
第42巻 p.514-523 ページ画像

竜門雑誌  第三三五号・第二三―三五頁 大正五年四月
    ○竜門社員の歓迎会に於て
                      青淵先生
  本篇は、一月十七日竜門社の有志会員諸氏の催しにて、米国より帰朝せる青淵先生及穂積男爵を帝国ホテルに招待して、晩餐会を開ける際、青淵先生が食後別室に於て演説せられたる、米国旅行の梗概なりとす(編者識)
 食後の余興が諸君のお楽みとなるべき筈であるのに、余興代りに甚だ不似合なる私の旅行談は、果して諸君の御満足を買ひ得るや否やを懸念致します。併し今日の御会合は、私の旅行を祝することが、其一に算へられてあつたから、食卓では少しお話が長くなると思ふて、当席に於て申述べるのでございます。帰京以来彼方此方で旅行談を致しました為めに、口に慣れて古めかしいと云ふ感がございます、且御会同の中には既にお聴きなされた方もございませうが、旅行の順序を逐うて、概略を述べて見たいと思ひます。蓋し是は演説と云ふよりも、寧ろ竜門社に対して、私が旅行の経過を報告するのであるから、報告会と思うてお聴き下すつたら、事務の報告と云ふものは愉快な事ばかりはないものですから、御辛抱もなされるかと思ひます。其お積りでお聴を願ひます。
 私が日本を出立したのは昨年十月二十三日で、帰朝したのが本年正月の四日でございます。故に時日は丁度七十四日を経過致しました。第一に諸君のお喜を願ひたいのは、私は船が弱い為めに、此旅行に於ての最苦痛は船である、若しも病気になつたらそれまでの事と覚悟の上であつたが、船だけは実に辛いと云ふことを出立前に諸君にも申したが、然るに年取つてから船が強くなつたのか、又は風が少くて浪が穏かであつたのか、此程合は分りませぬけれども、幸に食堂に出ぬことはなかつたと云ふに依つて、船疾がなかつたと云ふことも御承知下さるであらうと思ひます。実に望外であつて、日々愉快なる旅行を致しました。船中が往復で一月以上。亜米利加に着してから、陸路の汽車往復も十数日を費しましたから、前に申す七十四日の旅行は、大半船と汽車とで費され、亜米利加の大陸に於て、御馳走を受けたり、人と談話したり、事物を見聞したり、或は宴会席其外で演説をしたりと云ふ時日は、丁度三十日しかございませぬ。恰も悪い果物の皮ばかり多くて食すべき実の少いやうな有様であつた。十一月八日に桑港に上陸して、十四日までに同地に居りました。此間の主なる経過は、博覧会を見物し、桑港に於て、嘗て相談の始つて居つた日米関係調査同志委員会と云ふものが組織されやうと云ふので、是等の人々と会見して意見を交換し、又其歓迎の宴会に出席しました。桑港博覧会を機会として、労働者大会が開かれて居りまして、此労働者の首領たるゴンパスといふ人が華盛頓から出張した。此人は七十近い老人で、労働界では中々の勢力家である。蓋し此人は労働者から段々に経上た人ださう
 - 第42巻 p.515 -ページ画像 
であります。又桑港にも加州方面の部長といふべきシヤーレンブルグと云ふ人がある。此人は未だ四十有余の壮年で、同じく労働者より出た人である。是等の人々に面談することは地方関係に於て必要であらうと云ふことで、牛島謹爾氏の主催で、パレース・ホテルで晩餐会がありまして、彼等と談話を交換しました。又博覧会見物の際には、博覧会に於て開かれたる午餐会にも出席し、十一月十日は御大典を祝する為めに、桑港の沼野領事が盛宴を張りて内外多数の人を饗応し、夜は九時頃より夜会がございました。桑港に於て数日間の経過は先づ此辺で、それから十五日に桑港を出立して北部に参りました。オレゴン州・華盛頓州即ちポルトランド市・シヤトル市を訪問し、夫より東部に旅行する積りにて、大体の予定が十五日から向三十日間、十二月十四日には再び桑港に帰る、と云ふ目的を以て出立したのであります。シヤトル市には二泊致しましたが、其一夜は宴会が済むと直ぐ夜汽車で出立すると云ふ昼夜兼行をやりました。シヤトルの夜汽車は、ポルトランドに着して夜が明ける。直にポルトランドの人が待構へて、朝餐の饗応があると云ふやうな、忙しい歓迎を受けました。先年此地方へ参つたとき、種々款待して呉れたクラルクと云ふ人は、シヤトルには二夜宿泊して当市には唯二時間と云ふことは、甚だ不公平であると云うて、食卓演説に小言を申されましたから、私は之に答へて、総じて事物は記念になることが肝要である。尋常一様では縦令当市に十日間滞留しても記念にはならぬ。亜米利加の諸君は朝寝だから、七時頃に人を訪問することはないであらう。然るに今朝私が七時半に当市に着すると云ふに就て、早起して迎へて呉れて、早朝より斯の如き盛宴を張つて、優待して下さると云ふのは、洵に感謝の至りであるけれども、習慣にない早起と云ふのは辛いものである、諸君が眠いのを我慢して起きた為めに、他日まで能く御記憶なさるであらう。如何に亜米利加の諸君が勉強なさると云うて、朝八時から宴を張りて客を迎へると云ふことはないであらう。然らば今日私の来訪は、諸君に一の記念を与へたやうなものである。故に私が当市に滞留し得なかつたと云ふことは、却て諸君をして、私が当市の訪問を永く記憶せしむるかも知れぬと申して、別れたのであります。シヤトルから市俄古へ参る汽車の旅行中に最も深く感じたのは、各停車場に於て、同胞の人々が私の旅行を如何なる事にて知り得たか、或は記念の花を持ち、或は林檎・蜜柑などを携へて、十人若くは十五人位で、慰問して呉れたのは、実に感涙を催しました。而も其夜は雪が降つて、余程寒いのに、夜に入るまで待つて居られた、甚しさは夜の二時頃汽車の停留する間慰問された。私が日本の在留民の為めに心配する好意を謝すると云ふ意味でもあらうが、実に可憐の心情と今も尚一の記念と相成つて居ります。市俄古市に参りましてからは、西部の有様とは様子が変つて、排日と云ふやうなことは、余り話頭に上らぬ。来栖領事の開かれた宴会に依つて、同市の有力の人々に紹介された。又先年渡米実業団の団長として訪問した時の人々も来りて、種々款待された。市俄古には商業会議所といふものはないが、商工業者の組合と云ふ名に依つて大なる会が組織されて居る。先年来訪したときは、其会の会長にて一行を饗応し
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て呉れたスキンナーといふ人が、今回も主人となりて、商工業者の多数会同して、宴会を開いて歓迎して呉れました。又市俄古第一国立銀行を訪問して、近頃亜米利加に於て各地方分権の銀行制度を中央集権組織にする、言葉を換へて言ふならば、各地散在の分立銀行では、一朝恐慌等のことがあつても、全国の金融を統一することが出来ぬ、一方には余財があつても、一方には逼迫して居ると云ふやうな有様で、金融の調和を欠く、此事に就ては、従来亜米利加の政事家・学者・実業家の議論を重ねつゝあつて、先年参つたときにも、市俄古銀行者の会合にて、米国の銀行制度の英吉利や日本と違ふことを、彼等自身に歎息して、日本の銀行は亜米利加の制度を移したけれども、創立後十年を経て中央組織を採用したから、寔に完全であるけれども、亜米利加は今日も元の儘で居る為めに、或る場合には金融上に差支を起すと云ふて居りました。然るに一昨年から段々其論が向上して、遂に之を統一するの目的にて、フエデラル・レゼルヴ・バンクと云ふものを組織することになつたのである。併し全然中央に統一すると云ふことは亜米利加の政体と相合はぬと云ふので、種々討論の結果、訳して云へば、日本銀行を各都市に十二組立てゝ、十二の中央銀行が出来た。此十二の銀行を、制度上から華盛頓の大蔵省中に中央局と云ふものを置いて、指揮監督して、一銀行たる働をさせやうと云ふのであります。此事は私が日本を出立する時に、大蔵省でも、日本銀行でも、横浜正金銀行でも、既に相応に調査されて、現に亜米利加が欧羅巴の戦争に依つて、段々富が増して来る、金融の有様も、終に倫敦が紐育に変じはせぬかと云ふ説もある、其亜米利加に於て、此際金融の統一に注意して、中央銀行制度が布かれるのであるから、銀行者として、成べく丁寧に其実況を観察して来て呉れと云ふことであつて、其組織に就ても、規則類を翻訳された印刷物もあり、又正金銀行に於て調査せし各種の書類を渡されましたから、私は船中から多少之を攻究し、同行の堀越君・野口君・福田君及今西兼二君も幸に同船にて、是等の諸君と時々調査会の如きものを開いて、規則の条章をも研究しました。
 桑港では寸暇もございませなんだが、市俄古・費府・ボストン・紐育などが、十二の準備銀行中でも主なる場所でございますから、先づ市俄古に於て、準備銀行経営の実状を承つて見ました。蓋し此十二の準備銀行の各地方に散在して居るのを統一すると云ふ方法は、政事家学者の種々討論審議の上に作つたものでありますから、万一恐慌の時又は一時金融逼迫もしくは緩慢の場合に、各地の便宜を謀りて有無を相通ぜしむると云ふ仕組は、巧妙に出来て居るやうであります。元来亜米利加では、発行紙幣の準備金も強い割合を以て貸立られ、又国立銀行の預金に対する準備金割合も強く極められて、預金高の二割五分は常に銀行の手許に存して置かねばならぬであるから、是等は金融の逼迫の場合には大に不便を来すと云ふことを論じて居つた、故に準備銀行が各都市に十二出来て、其株主は多くは国立銀行である。而して其資金は、預金準備の割合を減じたものが用ゐられたのである。例へば二割五分のものを一割六分に減ずれば、大変に其差があるから、それだけのものは、準備銀行に向つて株金に払込み、又預金も出来る訳
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になる。準備銀行は、又払込資本と預金とに依つて、営業を為して、其利益は年六分の割合までは資本者たる国立銀行へ仕払ひ、其余は政府の所得とする。斯う云ふ方法であるから、詰り準備として保存すべき金が運転されて利益を生ずると云ふ事になる。而して各地方金融の緩急に応じて、有無相通ずると云ふのだから、理論の上からは良い制度と云ひ得るかも知れない。此準備銀行は紐育に設立したのが一番大きいので、預金の高が多うございます。此準備銀行の設立後の現状を紐育に於て研究して見やうと思ひましたが、寧ろ市俄古市が真相を知るに便であると思うて、市俄古の第一国立銀行総裁のホーマンと云ふ人は、予ての知人でありますから、之を訪ね其副総裁たるアーノルドと云ふ人が銀行事務に精通して居るので、之に就て準備銀行の近況を質問して見ました。私が第一に問ふたのは、特に欠点の存する二・三の箇条を挙げて、規則の条章などに付ては、少しく研究的であつて、時間も要しますから、他日の事として、所謂制度の骨子ともいふべきものを質問して見たのであります。アーノルド氏は私の質問に対しては、如何にも共通である、其辺に就ては此新法が完全に行はれ得るやを疑ふと申されました。後に紐育に於て、同様に質問しましたが、紐育の人は従来の銀行者でなくて、新規に準備銀行の総裁となられて、此新法を金科玉条として、無理にも之を以て活動して行きたいと云ふ念慮が強いからして、私の問ふた要点に重きを置かずして、便利のことだけを自慢顔に話すと云ふやうに聴えました。是等の事情は銀行業に精しい人であると、大抵御了解なさるだらうと思ひますが、私も銀行者の一人として、其質問したことだけを簡単に申述て見ませう。
 第一に私が問ふたのは、若しも恐慌と云ふやうな場合に、一国の金融が統一されるが宜いと云ふて、中央組織を造つたとすれば、それが十二あると云ふことは、十二の分身は一体にはなれぬと思ふ、或は制度の上からは出来ても、事実は困難であらうと思はれる。況んや其十二の銀行は各其利益を別にして居る。紐育の銀行と市俄古の銀行とは得失が全く別である。仮令華盛頓に中央局があつて指揮監督をするとしても、完全に統一の働きが為し得られるとは、私には信じられぬ。此問に対してはアーノルド氏も同案であつて、他に此規則は改正されるであらうと言ふた、それから第二には、其十二の準備銀行が、金融の緩慢なる場所と逼迫する地方とは、中央局の命令に依つて、自由にこれを移動するやうな規則である。例へば中央局が電信で達するとか電話で命ずるとか云ふ方法にして、袋中の物を探る如く為し得るやうに見えるけれども、果して其時の中央局の命令が、実際に適応して、不足と思ふ所が真に不足で、余るといふ地方が真に余つて、所謂痒い所へ手が行くやうに為し得るか、若しも其指揮が不適当であつたら、中央局は実情も知らないでと云うて、各銀行は其命令に服従せず、種種反対の意見を云ふて、十二銀行の間に、時々齟齬扞挌が起りはしないか、甚だ疑はしく思ふと云ひましたら、アーノルド氏も同様の懸念を持つて居るやうでありました。更にもう一つの疑問は、前に説明した如く、各国立銀行が自己の資金を準備銀行に預けて、準備銀行はこれに対して相当の利子を仕払ふのである。而して決算の際には、年六
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分迄の利息を株主銀行に渡して、其他のものは政府に納めることになつて居る。故に準備銀行は、自家の経営の為めに自然と株主たる国立銀行と競争する様になり、又国立銀行から云ふと、自分の為したる預け金が取も直さず自分に対する競争者となるから、各国立銀行が大に迷惑をしはせぬかと問ふと、アーノルド氏は現に今日が其通である。市俄古に於ては同業者が大変其点に付て困却して居ると答へました。新規の制度に対して、皮相の見を以て非難をするは穏当でございませぬけれども、市俄古又は紐育にて、其関係の人々と問答した概略が右様な次第で、此新設の銀行は相応の効能もありませうが、或は多少の面倒を惹起すことが無いとも申し得られぬと思ひます、是は私の浅薄なる意見であるが、船中から研究して、市俄古・紐育で再三問答を試みたから、其顛末を開陳したのであります。
 更に方面を転じて、ピツツバークと費府で、地方の有力者と交渉した事は、日米関係とか、若くは金融の統一とか云ふ話でなく、欧洲戦争の終局した後に、日曜学校の世界大会を日本に於て開かれると云ふことに付て日本の宗教家と海外の宗教家との間に約束が出来て居る。此日曜学校と云ふものは、其昔し欧洲にて或る篤志の人が、日曜に悪少年の遊んで居るのを見て、気の毒だと思ふて、日曜学校の教授を始めたのが発端で、今日では欧米に伝播して一の流行物とも云ふべき有様で、一面から云ふと教育であり、一面から云ふと慈善事業である。詰り慈善と教育とを混淆した一大事業になつて居つて、富豪若くは貴婦人達が、専ら世話をして居るやうに見えます。殊に多数の人が集つてやるのでありますから、単に富豪・貴婦人ばかりでなく、一般の人が其会に出入して、時々開催する日曜学校の会に出席するのを、一の快楽として居るやうに見えます。日曜学校の世界大会の際などは、米国の貴婦人達は喜で出掛ける、而して其大会が一昨年は瑞西に開かれて、其際の決議にて、来年は日本に開かれることになつて居る。斯る世界的の事だから、日本でも成るべく其会を都合能く開催せしめたいといふ事で、大隈伯爵を会長として、此席に居られる阪谷男爵なり、私なり、其他多数の同志から合せて、日曜学校大会の後援会を組織して、主任者たる耶蘇宗教家を助力して居ります。現に今日御会同の諸君中にも、後援会にお加入を願つた方々もあります。右様なる次第で欧洲の戦乱が終局したならば、相当なる時期に於て、日本に日曜学校の大会を開くことになつて居る。然るに、其大会に来集する人が頗る大勢で、二千人にも達しはせぬか。殊更米国より貴婦人・令嬢が多数来られると、東京にはこれに相当する宿屋がない、或は食事が不満足だとか、風呂場が不便だとか云ふ苦情が、諸方から出る様になると、折角世界的の大会を日本に開きて、却て世界から日本を誹謗されることになりまして、亜米利加の貴婦人は活溌でもあり突飛でもあるから先づ以て米国の大会担当者に能く協議をして置いたが宜からう、と云ふ日本の宗教家諸氏よりの委託であつた。そこでピツツバーク市のハインヅ氏と、費府のジヨン・ワナメーカー氏が、日曜学校大会の亜米利加に於ける世話人であるから、此両氏に篤と打合せて呉れたが宜からうと云ふのが、私が出立の際の附帯用件であつた。先刻阪谷男爵か
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ら私の第一の失敗談として、オークランドの日曜学校に出席する時間を誤つたと云ふお話がありましたが、これは伝へた人が誤つたので、午前十時と云ふ約束が十一時頃になつて、少しく遅れたには相違ないが、三時も四時も遅れた訳ではない。且つ之を弁解すると、オークランドから自働車が迎へると考へて待つて居ると、船から行かなければならぬと云ふことで、彼れ是れと時間が延引したのであります、此処で言訳をした所が、オークランドまでは此声は聞える訳でありませぬ(笑)そこでオークランドへ行つて始て、日曜学校の体裁を一覧しました。其後ピツツバーグ市に拠りて、ハインヅ氏と会見し、日本に開かるゝ大会に付て、種々の協議をしました。段々と談話して見ると、同氏が左様に日曜学校に尽力して居ると云ふことは、私はもしや一種の好事か、又は名聞位と思ふて居りましたが、篤と同氏の心事を察すると、寔に誠心誠意にして、宗教上神に事へるには斯くなくてはならぬ――。人として世に処するには斯様にせねばならぬといふ、極く単純なる信仰心よりやつて居ることを了知して、別して感服しました。私は亜米利加の実業に従事する人が、斯の如く深い信念で、而も事物に敦厚切実であるのを見て、亜米利加の富力の淵源あることを窺知しました。曾て亜米利加に漫遊せし時に、同国の実業の発達は単に其業に勉励するばかりではない、特に学問を重んずる為めであると云ふことは穂積博士も常に言はれるが、実に亜米利加は学問と実際と工合能く密接して居る国と感じて居りました。併し今回の旅行にて更に別段の感が生じました。其理由は此ハインヅ氏などゝ云ふ人が、宗教的信仰心から人は唯自己の為めにのみ世に在るべきものではない。言ひ換れば人は必ず国家社会に対して、我生存する分限に応じて、相当なる報酬的勤労がなくては、其本分が済まぬものだと云ふことを厚く信じて居る。談論すればする程、其覚悟の強いことが察せられます。依て私も従来孔子の教に依て安心立命を保つて居るが、帰する処は耶蘇教の趣旨と大差はない、己れを修めて百姓を安むずるとか、博く民に施して能く之を済ふとか、身を立て道を行ひて名を後世に揚ぐる抔といふ教旨は、東洋哲学即ち孔子教の主眼とする処であると答へますと、彼れは少しく疑惑の口調にて、貴下が左様の事を論ずる人とは思はなかつたと申しましたから、それは反対である、吾々は亜米利加人は功利の事ばかり知りて、左様な精神的の事は考へぬと思うたといふて笑いました。(笑)斯く会談に興味が生じたので、ハインヅ氏は益々愉快に感じられて、日曜学校大会には米国から大勢連れて行く、旅宿抔に少々位の差支があつた所が苦情は言はせぬ。米国人から千人又は千二・三百人になつても構はぬではないかと言はれるから、私はそれはいけない。其為に特に来て斯く協議をするのだ、東京の旅宿屋は八百人乃至千人以上は容れられぬ、若し千人以上来られるのなら其乗船に宿泊の出来るやうにして呉れねば困る、貴下等は辛抱も出来るだらうが、貴下の令嬢はさうはいかぬ、他の貴婦人は尚更である。総じて亜米利加の貴婦人達は実に我儘である(笑)いや左様に我儘は言はさぬと云ふて、日曜学校大会に亜米利加人の来る手続を相談致しました。其相談にも相応の時間を費しましたが、当市到着の夜には、ハインヅ
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氏の本邸にて鄭重なる晩餐会を催ふされ、当日と其翌日にて工場をも参観し、又カーネギー・ホールを見物し、ピツツブルグ大学生とフエラドルヒヤ大学生とのフツトボールを一覧し、其夜は同市の実業家倶楽部で、商工業者からの晩餐会に招待され、種々鄭重なる款待を受けましたが、最も愉快に感じましたのは、ハインヅ氏と宗教的信念の談話が頗る懇切にて、為めに御列席の頭本君をお苦しめ申したことゝ思ひます。併し後に頭本君に聴いたら、変つた通訳であつたから面白かつた、と言はれました。費府には僅かに一泊で、翌日直に出立しましたから、ワナメーカー氏との会見は、ハインヅ氏との談話よりも少ない時間でありました。恰も十一月二十八日が日曜で、其日午後に学校を参観して、実際の有様を視察し、又婦人連の聖書研究会にも出席し技術者階級の人々が集会せる聖書研究会にも臨席して、一場の演説を為せし後に、来会の数百人と握手した時は、後に手の痛かつたことを覚えて居ります、其日の日曜学校参観の事は、実に宜い記念となりましたが、其前夜六時頃、ワナメーカー氏の店舗たる費府の有名なるデパートメント・ストーアーに到着すると、正面に大きなる両国の国旗を交叉し、種々光輝あるイルミネーシヨンを以て眩目する計りに飾立て、店舗には充満せる来客ありて、殊に多くの婦人が花の如く室内に居並むで居る。其中を主人ワナメーカー氏が私の手を取つて歩行するのですから、何か芸人の貌見世に似て、多数の人がワイワイと云つて拍手する(笑)私も少しく赤面をしました(笑)それから主人の案内にて、店内に設置しある店員教養所・食堂・庖厨の設備、或は秘密会議室抔、殊に事業に必要なる場所を一覧して、其夜は旅宿に帰宿した翌日氏は九時前より私の旅宿に来訪せられ、十一時頃まで款談をしましたが、恰もハインヅ氏との談話の如く、彼れワナメーカー氏は、私の東洋哲学即ち孔子教の要旨を説くと、東洋人にして単に実業家とのみ思ふた貴下が、左様なる精神的談話をするかと云ふ疑を以て居られた様に見えた。段々相共に一身上の経過を語り合ふて、彼も十歳の時から日曜学校で修学した人であると申して居りました。昨年七十七歳の高年で、尚其業務の大体は自己の能力で指揮する様に見えます。費府と紐育に大商店を開きて、何千といふ使用人があるから、各方面に相当の人を使用するは勿論でありましやうが、枢要の事柄は素より氏の方寸にあつて、万事に注意の届き方と云ひ、処事接物の精力は実に偉いものであると、真に私は敬服しました。其日午後の二時から、日曜学校の会堂に行きました、其会堂に於て、氏は牧師の後に一場の演説をしまして、私の出席せしことをも来会の人に紹介した。当日の来会者は、私の見た所では千五・六百人と思ひましたが、其後熟知の人に聞きますと、あの会堂は三千人位は這入ると云ふことであつた、勿論立派な牧師が聖書の講義をして、会衆が讚美歌を歌ひ、私にも演説を依頼されて、日曜学校大会を日本に開催する事に付て当地に来りし次第を演説しました。それから最終に、氏は会衆に向つて、此東洋の珍客は東洋哲学を信じそれに依つて安心立命して居る人だ。さうして其哲学は吾々の奉ずる耶蘇教と略ぼ似たやうなものである、依て私は此珍客に向つて一の企望がある、企望と云ふよりも寧ろ忠告がある。
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東洋の忠君愛国の教旨は、耶蘇の教義に下らぬか知らぬけれども、私の見る処では支那の古道は更に死んだ教と思ふ。耶蘇教は生命がある故に死したる教を奉じて居るより、生命ある耶蘇教信者となることを切望すると、大勢の面前で要求された(笑)是には私も即答が出来なかつたから、先づ其壇を下りてから後の談話にしませうと答へましたが、熱心の余りに発した言語にて、決して突飛又は無遠慮と誹るは宜くないと思ひます。それから氏は私を其自宅に連れて行つて、一夜たりとも歓談したいと頻りに云うて呉れましたけれども、ボストン市に行く約束であるから已むを得ず辞しました、依て氏は是れ限りで別れるのは残念だと云ふから、貴下は日曜学校大会には日本に来られる筈であるから、其時は又会へるといふと、氏はそれは明年の事である、紐育の滞在は何日と問はれて、五日間と答へると、然らば自分も紐育に用があるから、紐育で又会はうと云つて別れましたが、其後十二月の二日に、氏は紐育の店に来られて、私も他の午餐会を済して、爾後紐育なるワナメーカー氏の店舗に抵り、暫時氏と会話して、遂に告別の握手をしましたが実に氏は現在どれ程の事業を為て居られ、又どれ位の資力を持て居るか、其詳細は判らぬが、氏の今日に至るまでの径路は、峻山もあり大沢もあつて、色々の艱難辛苦もしたであらう、其経歴は兎も角も、真に壮にして且最も派手なる事業を為し居るに拘はらず、其信念の堅実なると、挙動の真摯なるは敬服するに余あるやうであります。氏は食事の饗応もせぬで別れるのは残念だといふて、数部の書籍を贈られた。さうしてリンコルンに私淑して居るといふて、リンコルンの伝とゼネラル・グラントの伝其他、種々の聖書類を私を饗応する代りにすると言はれ、来年又は再来年開かれる所の日本の日曜学校大会には、是非出席して再会を期待する、実に千載の知己を得たような感がすると言ふて、染々と其衷情を吐露せられた、私が日米両国の国際上の事に付て、日本と亜米利加とは、其国交の全体は親善ではあるけれども現に西部の地方には、多少の紛議もある、併し私は信ずる、真成の国交は其国民相互の相知るに在る、政事家の国交は言詞が綺麗ではあるけれども、恰も経師屋の糊で貼けたやうなものである。君我の如き相信ずる国民同志の国交は漆膠で付けたやうで如何なる時でも離れぬ、斯の如くして始めて国交は完全と云ひ得ると思ふ、と述べると、氏は一体貴下は詩人のやうなる言詞を為すと言つて頻りに笑はれて、其一語は大に氏をして首肯せしめたやうに思ひました。宗教に就ての談話は其位のことでありまして、それから紐育では様々なる方面の人に会ひました。但しボストンにてエリオツト氏に面会した。氏は嘗て日本にも来遊せられ、政治上学問上の問題に就は常に注意を厚ふし、現に或る事柄に付て、我政治界に向つて伏臓なき意見を寄せられた程の日本思ひの人でございますから、東西洋の目下の政界に付て色々の質問を試みましたが、実に深い情意を持つて日本を見て居る様に思はれました。併し順序を追うて是等の事をお話すると随分長くなります。殊に今夕は、九時から露国大使館に夜会がありまして出席を約し置きましたから、到底詳細にお話を尽す訳には参りませぬエリオツト氏の戦争に就ての意見は現在の政事に触れますから、此処
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では申上げぬ方が宜いと思ひます、又紐育でヴアンデリツプ氏と会見しました。此人はナシヨナル・シチー・バンクの総裁であつて、紐育の経済界に於て、重鎮と称せらるゝ一人である。殊に目下東洋に向つて事業を発展しやうといふ一大会社を起し、其首脳に立て居るのであります、依つて此人に数回会談し且一日同氏の宅へ午餐会に招かれて緩々と談話しました。私は今西部に於ける排日問題に就て懸念するよりも、支那に対して亜米利加が力を尽して発展すると、日本の当業者と衝突が起りはしないかと痛心しますから、其事に就ては前の大統領ルーズベルト氏に逢ふた時も、其他の有力者に会見した時も、切に其事を述べて見たのであります、而て此日ヴアンデリツプ氏との会話は亜米利加は内国に対する事業も多いけれども、外に発展する力が強い而して其発展は必ず東洋であると思ふ、日本も支那に向つて大に発展しなければならぬから、勢ひ日本と亜米利加とが、事業上支那に於て衝突を惹起すやうになりはせぬか。是は大に懸念すべき大事であるから、両国の有志家が、共に其間に注意按排して、物議を起さぬやうにせねばならぬと云ふことを、切実に談じました。此談話が果して充分の効能を持つかどうか分りませぬが、私の説に対して、ヴアンデリツプ氏は至極同案なりと答へた。且ヴアンデリツプ氏は、近々に東洋視察の途に上ると申し居りましたから、私は切に其事を勧告しました、果して旅行せらるゝかどうか分りませぬが、喜んで他日歓迎すると云ふて分れました。若し是等の人が来て、実況を見たならば、私の懸念を幾分慰することが出来るだらうと思ひます。
 西部に就ての御話もまだ残して置きました。私は帰途再び桑港へ参つて、到着の時に着手せし事柄を取纏めて帰国する都合であつた。演説の順序として東部の経過を述べて、是れから桑港の落着をと思ひますが、時間が段々迫つて参りましたから極く略して申します。詰り加州移民に関する問題は、追々に薄らぎて来ると思ひます。但し是から又日本から移民を入れることを希望するならば、其の反対は激烈となると思ふが、今日我が政府は紳士協約によりて、労働者を送らぬと云ふことになつて居るから、此有様を維持するなら、加州人も多少遠慮するかと思はれる。而して桑港博覧会へ対する日本の仕向けは、加州若くは桑港の人々が日本の好意を感謝して居ることは、決して虚礼でもお世辞でもなからうと思ふ、況や前に述べた桑港の労働者との会合などは、大に感情を融和し得たやうである。若し向後日米の労働者間に相協和する途が開けたならば、益々面倒は無くなるであらうと思ひます。故に私の今回の渡米は、敢て日米親善に効能を奏したとは申されませぬけれども、博覧会の日本の仕向けが、大に感情を融和せしめたと云ふことを確かに見届けたと思ひます。日本が之に参加した為めに、博覧会に関する多数の人々及び桑港の市民が、如何に日本が親切なる心を以て、これに臨んで居たと云ふことは、充分理解したと思ひますから、此点から云へば、私の旅行も満更無用ではなかつたかと思ふのであります。七十四日間の旅行が、過半は船と汽車に費へまして僅に三十余日が前来述べましたやうな有様に各地を巡回して、先づ無事に帰朝し得て、此お話の出来るのは、自分も天祐と喜ぶのでありま
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す。先刻阪谷男爵が丈夫で帰国したのが何よりの土産だと言はれましたが、是だけが諸君に対する確なるお土産であります、どうぞ左様に御領承下さるやうに願ひます。(拍手)