デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
5節 修養団体
1款 財団法人竜門社
■綱文

第42巻 p.533-543(DK420099k) ページ画像

大正5年5月21日(1916年)

是日、当社第五十五回春季総集会、飛鳥山邸ニ於テ開カル。栄一出席シテ演説ヲナス。


■資料

竜門雑誌 第三三七号・第七九―八二頁 大正五年六月 ○竜門社春季総集会(DK420099k-0001)
第42巻 p.533-537 ページ画像

竜門雑誌  第三三七号・第七九―八二頁 大正五年六月
    ○竜門社春季総集会
本社の第五十五回春季総集会は、予報の如く、五月廿一日午前十時より、飛鳥山曖依村荘に於て開かれたり。夜来の雨霽れて新緑匂やかに絶好の集会日和にて、朝来村荘指して集ひ来れる者、約二百五十余名に達しぬ。定刻午前十時過、園内芝生に設へられたる講演会場を開きて、幹事八十島親徳君登壇、先づ社務及前年度の収支決算報告をなし次に今年「喜」の字の齢に躋らせられたる青淵先生に対し、祝意を表する為め論語年譜を編纂して贈呈することを、評議員会に於て議決し目下萩野・三上両博士監督の下に林博士が主任となりて折角編纂中なりとの報告を為し、直に講演に移り、法学士穂積重遠氏は「敵株主の会社に就て」と題し、又工学博士子爵大河内正敏氏は「欧洲戦争と兵器」と題して、交々時節柄趣味津々たる演説(追て本誌掲載)を試み最後に青淵先生には「道徳と経済の合一」に就て諄々として説示せらるゝ所あり、是れにて講演会を閉ぢ、会員一同後園の園遊会場に雪崩込み、ビール・燗酒・寿司・団子、扨てはおでん・天麩羅等、各自思ひの儘に之を味ひ、笑声歓語湧くが如く、歓楽を尽せる風情、宛も一家団欒の趣きありき。三越の楽隊、宝家一座の曲芸に日頃の労苦を忘れ、暮近く散会せり。因に大正四年度社務及会計報告、金品寄贈者及び当日の来会者諸君は左の如し。
    社務報告(大正四年度)
 - 第42巻 p.534 -ページ画像 
 △会員
  入社  {特別会員 七 通常会員 三九}          合計四十六名
  退社  {特別会員 七 通常会員 九}           合計十六名
  現在会員{名誉会員 一 特別会員 三八〇 通常会員 五二三}合計九百〇四名
 △現在役員
  評議員会長      一名
  評議員(会長幹事共)十九名
  幹事         二名
 △集会
  総集会        二回
  評議員会       一回
 △雑誌発行部数
  毎月一回   約一、〇〇〇
  年計     一二、〇四〇
    会計報告
      収支計算
        収入の部
 一金参千弐百六拾九円参拾弐銭 配当金及利息
 一金壱千八百九拾四円五拾銭 会費収入
 一金壱千百八拾四円也 寄附金収入
  合計六千参百四拾七円八拾弐銭
        支出の部
 一金弐千参百七拾五円七拾四銭 集会費
 一金千五円六拾参銭      印刷費
 一金九百弐拾九円四拾五銭   郵税・報酬・雑費
  合計金四千参百拾円八拾弐銭
  差引
   残金弐千参拾七円也    収入超過金
    但積立金に編入せんとす
      貸借対照表
        貸方の部
 一金参万七千弐百九拾弐円八拾銭 基本金
 一金壱万参千四百六拾弐円七拾銭 積立金
 一金弐千参拾七円也       収入超過金
  合計五万弐千七百九拾弐円五拾銭
        借方の部
 一金四万六千弐百八拾八円拾五銭 株券
 一金八百九拾七円弐拾五銭    公債
 一金五百七拾円弐拾壱銭     仮払金
 一金参拾参円拾銭        什器
 一金四千八百拾八円九拾八銭   銀行預金
 一金百七拾七円八拾壱銭     現金
 - 第42巻 p.535 -ページ画像 
  合計金五万弐千七百九拾弐円五拾銭
玆に当日会費中へ金品を寄贈せられたる各位の芳名を録し、謹で厚意を深謝す
    金品寄贈者
 一金弐拾円           男爵穂積陳重君
 一金弐拾円           佐々木勇之助君
 一金拾円            堀越善重郎君
 一金拾円            田中栄八郎君
 一金拾円            山下亀三郎君
 一金拾円            小池国三君
 一金五円            福島甲子三君
  外に生麦酒二百廿五リーター大日本麦酒株式会社殿
    来会者氏名
一、名誉会員
 青淵先生      同令夫人
一、来賓
 子爵大河内正敏君   穂積重遠君
   添田寿一君
一、特別会員
 石井健吾君     伊藤新作君      井上権之助君
 一森筧清君     池本純吉君      原胤昭君
 林武平君      西野恵之助君     西田音吉君
 西田敬止君     男爵穂積陳重君    同令夫人
 穂積重遠君令夫人  穂積律之助君令夫人  堀越善重郎君
 堀江伝三郎君    堀内明三郎君     沼崎彦太郎君
 大友幸助君     沖馬吉君       小田川全之君
 大倉喜三郎君    大原春次郎君     尾高幸五郎君
 大橋光吉君     渡辺嘉一君      川田鉄弥君
 川村徳行君     神谷十松君      横山徳次郎君
 田中太郎君     田中元三郎君     竹田政智君
 滝沢吉三郎君    多賀義三郎君     高松録太郎君
 高橋波太郎君    高橋金四郎君     高根義人君
 曾和嘉一郎君    塘茂太郎君      成瀬仁蔵君
 中井三之助君    中村鎌雄君      武藤忠義君
 内山吉五郎君    上原豊吉君      植村澄三郎君
 野口半之助君    野口弘毅君      久万俊泰君
 倉田亀吉君     八十島親徳君     矢野由次郎君
 山田敏行君     山中譲三君      山中善平君
 矢野義弓君     山下亀三郎君     山口荘吉君
 山本久三郎君    増田明六君      松平隼太郎君
 前原厳太郎君    福島甲子三君     福田祐一君
 古田中正彦君    小林武次郎君     小橋宗之助君
 小池国三君     昆田文二郎君     安達憲忠君
 佐々木勇之助君   佐々木清麿君     佐藤正美君
 - 第42巻 p.536 -ページ画像 
 斎藤章達君     斎藤峰三郎君     木下英太郎君
 芝崎確次郎君    白岩竜平君      白石甚兵衛君
 清水釘吉君     清水一雄君      渋沢義一君
 白石喜太郎君    渋沢虎雄君      渋沢元治君
 渋沢市郎君     渋沢武之助君     同令夫人
 肥田英一君     弘岡幸作君      桃井可雄君
 諸井恒平君     諸井時三郎君     諸井四郎君
 持田巽君      鈴木金平君      鈴木清蔵君
 杉田富君
一、通常会員
 石井与四郎君    石田豊太郎君     石川政次郎君
 井出轍夫君     猪飼正雄君      家城広助君
 板野吉太郎君    飯沼義一君      石田誠一君
 井戸川義賢君    市川廉君       磯村十郎君
 伊藤英夫君     橋爪新八郎君     林広太郎君
 原梅三郎君     原田質君       西正名君
 堀家照躬君     堀内歌次郎君     友野茂三郎君
 東郷一気君     富永直三郎君     豊高春雄君
 苫米地義三君    大畑敏太郎君     岡田能吉君
 小田島時之助君   奥川蔵太郎君     小倉槌之助君
 川口一君      川西庸也君      金沢求也君
 金井滋直君     金沢弘君       金子四郎君
 鹿沼良三郎君    上倉勘太郎君     神谷祐一郎君
 河崎覚太郎君    兼子保蔵君      吉岡仁助君
 武沢顕次郎君    武沢与四郎君     高橋耕三郎君
 高橋毅君      高橋森蔵君      高山仲助君
 高木岩松君     高瀬荘太郎君     田子与作君
 曾我部道之進君   蔦岡正雄君      成田喜次君
 永田市左衛門君   長井喜平君      中山輔次郎君
 武者錬三君     生方裕之君      梅田真蔵君
 上田彦次郎君    黒沢源七君      久保幾次郎君
 久保田録太郎君   桑山与三男君     紅林英一君
 国枝寿賀治君    八木仙吉君      山口虎之助君
 山村米次郎君    山田直次郎君     山下近重君
 松村五三郎君    松村修一郎君     松園忠雄君
 松本幾次郎君    町田正彦君      福島三郎四郎君
 福田盛作君     藤木男梢君      小林市太郎君
 小林武之助君    小林茂一郎君     小森豊参君
 小島鍵二郎君    小島順三郎君     後久泰次郎君
 河野間瀬治君    近藤良顕君      遠藤千一郎君
 阿部久三郎君    粟生寿一郎君     相沢才吉君
 荒井円作君     有田秀造君      佐野金太郎君
 佐藤金三君     坂田耐二君      斎藤孝一君
 三枝一郎君     木村益之助君     木村弘蔵君
 - 第42巻 p.537 -ページ画像 
 木村金太郎君    木下憲君       御崎教一君
 宮本昌三君     渋沢長康君      柴田房吉君
 塩川誠一郎君    昼間道松君      平賀義典君
 両角潤君      関口児玉之輔君    鈴木房明君
 鈴木富次郎君    鈴木正寿君      鈴木豊吉君
 鈴木旭君      鈴木勝君
      以上


竜門雑誌 第三四〇号・第一九―二六頁 大正五年九月 ○竜門社春季総集会に於て(DK420099k-0002)
第42巻 p.537-542 ページ画像

竜門雑誌  第三四〇号・第一九―二六頁 大正五年九月
    ○竜門社春季総集会に於て
  本編は、本年五月二十一日曖依村荘に於て開催せる、竜門社春季総集会に於ける、青淵先生の訓話なりとす。(編者識)
 今日の竜門社春季の総会は、頃日来の雨天で如何かと虞れましたが幸に雨も歇みました為めに、来会者の諸君の御迷惑を少くしたことを喜びます、段々に此会が繁盛して、唯今幹事の報告を聞きますと、殆ど千名に近い会員になつたのは、御同様最も慶ぶべきことゝ思ひます其初め微々たる流が、諸方から合流して、遂に大河の有様を為すやうになりましたのは、最も愉快に感じまする、殊に此会合は殆ど実業界のみに止つて居りまして、其方面が頗る広いのでございます、銀行者もあれば工業家もあり、運送業者もあり、其運送業者の中には陸もあり、海もあると云ふ有様である、又或は保険業なり倉庫業なりの各種類を網羅して居りますのは、自然に竜門社それ自身が、一国家を為して居ると云うても宜い位に感じます。斯の如く進歩拡大して参りましたのも、全く会員諸君が、此集会を有益視し、又其集る所の諸君が互に自己の事業と此竜門社とを相愛して、共に進み来つた結果であると信ずるのであります、唯今幹事の報告に、本年は私が七十七になつたに就て、之を祝するが為めに、論語の年譜を取調べて居られると云ふことでありました。来るべき秋季の総会に頂戴し得ることゝ喜んで期待致します。私は唯一己の実業家である。然るに二千五百年以前の支那の大経典を特に此会からお贈を戴くと云ふほど、経学に造詣の深い訳でもございませぬけれども、併し実業家として論語を説きますのは古来の事は知りませぬが、近頃に於ては先づ私が其主唱者であります而して此竜門社の諸君が、其論語説に就て、遂に渋沢と論語とを一緒に見て下さるに至つたと云ふのは、孔夫子は怪しからぬと、地下で睨むかも知れませぬけれども、私は又地上に於て大に喜んで居ります。軈て林君の御心配で、其年譜が出来ましたら、拝受することを深く楽みと致して居りまするが、今日も其論語に因んで、実業と道徳と申しませうか、仁義と申しまするか、詰り道徳経済合一の趣旨を、是までも度々申しましたけれども、更に玆に敷衍致して、自己の期する所を皆様に御了解を希ひたいと思ひます。
 今日の総会に於て、穂積大学助教授の欧羅巴戦争に関して生じたる法律問題、又其次席には大河内子爵の戦争に関する最も注意すべき事柄を、諸君と共に拝聴致して、大に益する所がありました。私の玆に申しますことは、全くそれと方面が違うて、若し私の理想通りに行け
 - 第42巻 p.538 -ページ画像 
たならば、穂積博士のお説も要らない、大河内子爵の戦備説も不要に相成るのであります。併し世の中は却々さう思ふ通りには参りませぬから、仮令私が如何に声を枯して、此処で叫びましても、決して法律家を退去せしむる、軍需品の製造を廃止してしまふ事は出来ぬでございませう。出来ぬからして、成べく法律家を喜ばせる為めに、公事訴訟を起し、戦術を巧妙ならしむる為めに、戦争を奨励すると云ふ人が何処にありませうか、斯く思ふて見ますれば、私が今玆に絶叫する公事も要らぬ、戦争もするに及ばぬと云ふ説は、決して前席の諸君の御演説と矛盾するが如くに見えて、其実矛盾致さぬと思ひますから、どうぞ竜門社諸君も、前説を非難する如き考を以て申すのでないといふことを、御了解下さるやうに希望致します。
 元来実業と云ふものに付ては、心ず仁義道徳が加味さるべきものでありながら、それが引離されたと云ふことに就ては、是迄度々竜門社の諸君に申述べて置きましたから、或は陳腐に属する、けれども、往昔は兎も角も、徳川幕府三百年の間は、別してさう云ふ風習であつた殊に我邦の漢学者中には、実業界の人々に高尚な道徳仁義を教ふるは無用であるが如くに言ふたのが、強く其風習を為さしめたのであります。十年ばかり以前でありますが、私は孔子の祭典会に於て、実業界より見たる孔夫子と云ふ演題で、卑見を述べたことがあります。其時の言葉に、孔子の趣意は決して左様でなかつたと思ふけれども、後世の学者――後世と云ふも大分広い意味で、漢唐あたりから後世の一部分になつて、殊に宋朝の大儒が仁義道徳と、日常の生産殖利に属することゝを引離された。其引離した誤の儘を日本に承継して、元亀・天正の頃は戦乱の為めに、文学も余りに進まなかつたが、徳川家康公が文治に心を用ゐるやうになりましてから――公は慶長年間に六十四歳で駿河へ隠居をされましてから、最も文治に心を用ゐたのであります元和二年七十五歳で歿しましたが、此十一年の間が公の文治時代である。始め十八歳の時に、今川義元の幕下として大高城の兵粮入をしてそれより六十四歳までが武勲時代である。此文治時代の十一年の間に仏教も大層吟味したのでありますが、同時に儒数[儒教]も、藤原惺窩・林羅山を聘して、日本の文学、殊に経書の普及を努めたのであります。此林羅山が朱子の説を専らにして、且つ又頗る精しかつた為めに、自然と宋朝学者の説が広く日本に伝つた、是が特に仁義道徳と生産殖利の業体とを引離すべく教へたのが、一般の誤りを為したのであらうと思ふ。但し学者が尽く、実業界に仁義道徳が要らぬとは申しませぬけれども、現に物徂徠即ち荻生総右衛門と云ふ人は、確かに道と云ふものは士大夫以上に必要のもので、農工商の議すべきものでないと、或る書物に書いた程である。斯の如き大学者にして尚且つ実業と仁義道徳は引離したのであります。私は浅学で、自身左様な研究を為し得ることは出来ませぬが、是までも度々申述べる通り、故郷を離れる時は、心ずしも実業界に入らうと云ふのが主眼ではなかつたのであります、農家の生れでありますけれども、家を出るときの本旨は、寧ろ政治家となつて、所謂治国平天下を目的とし、修身斉家は常の事と云ふ思想であつたから、果して今日の身柄にならうと云ふことは、青年の時の
 - 第42巻 p.539 -ページ画像 
祈念ではなかつたのであります。爾来目的が変じて、遂に今日の境遇に身を終りますのは、幸であるか不幸であるか、我一身からは幸不幸を申す必要はございませぬけれども、一旦一橋公の家来になつて、其一橋公が将軍になられるに就て、私は大に憂慮して、為めに徳川家の滅亡が早からうと感得したのであります。故に二十八歳の時に、民部公子に随行して仏蘭西へ参るとき、一両年の後には幕府は倒れるに相違ない、けれども夫は天命である、已むを得ぬと覚悟して、幸に海外の修学が出来たら帰つて参つて、何か其学んだ学問に就て国に尽すことが出来るであらう、と思ふた、封建制度を郡県に引直すとか云ふ事柄も、当初は漠然と予期したけれども、吾々には為し得られぬから、もうさう云ふ希望は止めて、他の方面に尽す外なからうと思ふて居つたのであります。果して想像の通と云ふは、甚だ申し悪い言葉であるが、仏蘭西に居る間に慶喜公が政権を返上され、尋て伏見鳥羽の騒動があつて、終に世は一転して幕府は倒れて王政維新となつた、私は左もありなんと海外で思うた位でありましたが、帰国して後どうも他に身を立てる所がございませぬ。既に政治界に従事せぬと決心した以上は、実業界に力を尽す外なからう、別に商工業に対する特殊の知識もありませぬが、合本会社と云ふものは、西洋で見た処では、日本にも出来るであらう、之を遣つたら宜からうと云ふ考を其時に起しました殊に海外にての実見では、実業家と官吏との接遇の工合が、日本の当時の有様とは、全く其趣を異にして、寔に珍しく思はれた。果して斯う云ふ訳のものであるかと、驚いて見る程であつた。其頃の日本の武士と平民との交際と云ふものは、絶体に伍を為さない、仮令商工業者が如何に賢くても、武士が如何に愚昧であつても、一も二もなく商工業者は恐入りましたと、低頭平身しなくてはならぬのであつた。然るに仏蘭西に於ては、却て反対である、個人銀行の頭取で、日本の総領事を委托されて居たフロリ・ヘラルトと云ふ人の、仏国の軍人又は外務省の官吏に接遇する様子を見ると、同等若くは夫れ以上に軍人官吏が其人を尊敬して居る。是は独り仏蘭西ばかりではありませぬ。瑞西でも、和蘭でも、或は白耳義でも、更に伊太利・英吉利等に於ても、其風習に余り相違はない、私は当時未だ其真相を知ると云ふ程の、海外の事情に精通することは出来ませなんだけれども、概見して余り間違のないやうに見えた、是は日本の習慣の目的を以て見ては、実に奇異の思を為したのでありました。前に述べた如く愈々徳川幕府が倒れても、民部公子は尚ほ仏蘭西に留学が出来るであらうと思ひました為めに、成るべく長く留学する方法を考へねばならぬと思うて、頻りに経費の節約を努め、更に籠城策として何か工夫がありさうなものと思ひ、総計二万円ばかりの予備金があつたのを、銀行に預けるか、又は何か有利のものを買つて置くか、確実なる利殖の方法があるかと穿鑿すると、仏国政府の公債と鉄道会社の株式を買ふが宜からうと教へて呉れる人がありまして、其人と同道にて有名なる巴里のブールスに於て、其同行者に頼んで公債と株式とを買つて貰つた、それで始めて仏国の株式会社の有様と、政府の発行する公債の手続を知つたので、実に僅かなる知識でありますけれども、併し私は日本の実業界も斯くあ
 - 第42巻 p.540 -ページ画像 
りたい、是で以て成立つならば、其繁昌期すべきであると思ふた。其知り方は極く浅薄でありましたが、今考へて見ても、其真理は見違へなかつたと思ふのでございます。海外旅行前に、頻に攘夷を唱へたのは、事を識る明のなかつたことゝ私は恐縮しますけれども、是も全部は恐縮しない、若し我国を侵略する敵国があつたとすれば、やはり攘夷は必要であります。正義人道を以て我国と相交はると云ふ国に対しても、尚且つ攘夷を論じたのは、攘夷論者の盲目であつたけれども、若し侵略主義で来る敵国であつたならば、攘夷すべきは当然である。然るに当時の幕府の外交は、唯偸安姑息の為めに、何でも外国の言を容れると云ふ風に見へましたから、吾々は何でも攘斥すると云ふ方に傾いた、幕府は右、攘夷家は左といふ有様になつたからいけないので中正に居れば宜かつたのであります。既に公債証書や鉄道の株式にて合本会社と云ふことを知り得たによりて、事業の発達を図るには、先づ金融を滑かにしなければならぬ。それには公債証書や会社組織が甚だ必要なものである。又実業家と政治家若くは軍人と云ふ者が、左様に位地の違ふものではない、対等に相接するものであると云ふことは当時の日本の有様と海外の夫れとが、全然違うて居つたから、此外国の有様を日本に移したいと云ふのが、私の期念であつた。夫れ故に私は帰朝しますと、それを以て身を立てる覚悟で、駿河へ行つてから、互に商法会所と云ふものを作つたのであります。私は暫時大蔵省の官吏はしましたけれども、此れは心から望んだ訳でなく、余儀なくさせられたので、全く駿河に於て、商法会所を造つたと同じ心を以て経過して、遂に銀行者となつて、其業を立て通したのが、維新以後に於る私の精神であると云ふことを、どうぞ御覧を戴きたいのであります。銀行者になるときに、私が深く考へたのは、実業家の位地を高め、其品格を上げると云ふことは、唯威張るに依つて得られるものではなからう、今日の商工業者の有様は、悪く例すれば、唯諛言を以て自己の本分とし、お世辞で掠めて利益を得るを以て、能事と心得て居つたから、左様に其品格を損したのである、此有様にしては、大なる業体の出来べき筈はない、決して国家的実業の発達すべきものではない、又今日までの封建制度、即ち武断政治に在つては、国家的商工業者はなくてもよい、商工業者は殆ど一種の自家の使用人同様に見られたのであるけれども、斯く国政が変化した今日は、左様な考で居つては、大なる誤である、現今の政治家は唯政事の力を増すことにのみ力を入れるけれども、国家は政事のみで進歩発達するものではないと思ふた。思ふと同時に、自分がこれに任するならば、自ら率先して実業を経営しなければならぬ。而して実業を経営するには、古聖賢の示された仁義道徳の主義に則つて、行き得る筈である。忘れも致しませぬ、私が大蔵省の官吏を辞して、第一国立銀行を創立する時、故玉乃世履君に誓ふて、私は向後論語で銀行を経営して御覧に入れますと云うたことがあります。玉乃君は今は世に在りませぬから、証明は出来ませぬけれども、私は其時より確乎たる覚悟を以て事に当つたのであります。爾来道徳経済合一の説を、実業者仲間に対しても唱道して居りますけれども、左様な面倒の事はといふて、余り人が耳を傾けて呉れませぬ
 - 第42巻 p.541 -ページ画像 
から、やはり漢学者社会にお話をするやうになりますが、其学者先生も経学に重きを置くお方でないとお話が一致しませぬ。其後十数年を経てから今日は老衰されて、心細く思ひまするが、三島中洲翁に時々にお話を致して、同翁の賛成を得ましたのであります。玆に持参致して居るのが、先年三島先生の書かれた道徳経済合一説と云ふものであります。之を書して私に送つて下されたのが、明治四十年の十一月であります。前に述べた事柄を度々会談したる後であると思ひます。但し先生をして斯かる文を草せしめた原因は、明治三十九年の孔子祭典会に於ける私の演説に、実業界より見たる孔夫子と云ふ一説を述べました。それを三島先生が丁寧に聴かれて、足下は実業家であゝ言はれるが、学者側でも亦斯う云ふとて、此の小冊子を下されたのであります。私が前に申述べたのは、実業家側から仁義道徳を論じたのでありますけれども、三島翁は道徳経済の根原に就て論じられたものであります。此小冊子は大分長いものでありますから、朗読は止めて、其要領だけを一通り申上げて見たいと思ひます。先づ其初めに中庸を引いて、孔子曰誠者天之道也、誠之者人之道也と云ふことから立論されて居ります、三島翁の着目の極めて適切なるものを喜ぶのであります。元来儒教では神と云ふことを申しませぬ。又仏と云ふことも言はないさらば霊的の観念がないかと云ふに、それは大にある。耶蘇教・神道などでは、甚しきは人格的に神を認むるやうでありますが、儒教の霊的観念は、広く天と云ふ、例へば天之未喪斯文也匡人其如予何、又天生徳於予、桓魋其如予何、獲罪於天無所祷也、天を論じた孔子の言は此外にも数々あると思ひますが、最も適切に明〓に誰が聴いても直に解るのであります。孔夫子は天に対しては厚い信念を持つて居られましたが、さらばと云うて天に対して依頼心は持たない、人たる者は斯様にせねばならぬ、此道を尽すのが人の本分であると思ふので、其外に何も無いかと云ふと、さうではない、天と云ふ彰明なものがあると云ふことを感じて居つたやうでございます。而して此天と云ふものは洵に道理正しいものである。天と云ふものは霊妙不可思議なものであるけれども、所謂天道善に幸し淫に禍すると云ふことを確信して居られたやうであります。故に誠者天之道也、誠之者人之道也と三島先生が此孔子の言を、道徳経済の合一と云ふ所に結び付けて、天者成養万物誠也、成養万物天之経済也
 是が三島先生の道徳経済合一説でございます。道徳と経済との関聯した処を丁寧に説明されてあります。幸に学者側から、道徳経済の合一を説かれましたに就て、私が平素実業側から唱へて居つた道徳経済合一説が、恰も此方から出掛けて行つたら、向ふからも迎へに来て呉れて、途中で相会つたやうな心地がして、益々其事の信用を世間に増すやうに思はれて、自分にも頗る愉快に感じましたのでございます。私の言ふて居る論理が、自分は千古不易と思つて居りますけれども、唯悲しい哉、私の不学菲徳で自分の思ふ程、世間に強く感ぜぬのは、実に遺憾と思ひますけれども、私は思ふ此竜門社の諸君に於ては、必ず道徳経済を完全に一致せしむることを、心に誓ふて、行にも必ず之を表はされるであらうと深く信ずるのでございます。斯くの如く個人
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間の道徳が発達して参りましたならば、前席の穂積助教授の法律問題は、其規定は入要でありませうけれども、事実之を用ゆることは、殆ど稀と云ふよりは寧ろ、絶無とまでになりはしまいかと思ふのであります。又此道徳の関係が国内だけに止まつて居つたなら、やはり大河内子爵の戦備を不必要とする訳には参りませぬ。但し国内とても、事に依つて国乱を生ぜぬとは云へぬが、国民相共に道徳を守り、経済を進めて行きましたら、其心配はないとしても、国外に至ては、此経済道徳の一致は大に疑問であらうと思ひます。此点に就ては、私は此席に於て、必ず一致し得られると云ふことを申し得るやう、又は申し得られぬやう、自身にも頗る疑を持つのでありますが、世界の中で文明が進むと共に、国際上の道徳も進むべき筈である、若し国際上の道徳は無いものだと云ふ謬見が、益々進んで行くならば、欧羅巴の今日の戦乱は、いつ迄も終熄せぬのみならず、仮令止んでも亦起る。殆ど奪はずんば飽かずして、遂に世界を挙げて混乱に陥らしむるものである斯の如きは人世の不幸是より大なるものはない、若しも左様に懸念するならば、国際上にも此の道徳を普及せしむべく、努力絶叫せざるを得ぬのではありませぬか。果して国際上は唯弱の肉は強の食、強い者の申分がいつも勝つものであると極りますならば、王道と云ふものは全く絶えてしまふ。若し個人間に正義道徳と、生産殖利の経済が一致するならば、国際上にも其道理の行はれぬ筈はないであらう。其事の行はれぬのは、欧羅巴の学者・政治家にある。真正の文明が了解し得ぬからである。真に此文明が興振して行くならば、遂に訴訟も無く、兵備も止むと云ふ時代になり得るのである。之に反し国際上は唯強くさへあれば宜いとして、道徳と云ふものは全く入用はないと云ふ有様には、私はどうしても此戦後に於てはならぬであらうと思ふ、又ならせたくないものと希望するのであります。少くも此竜門社の諸君だけは、是非とも此主義を保持して、弥増拡張せしむるやうに致したいと深く期待致すのであります。玆に自分の所感を述べて、諸君の御尽力を切望致します。(拍手)


中外商業新報 第一〇八一三号 大正五年五月二二日 ○竜門社春季総会 於王子曖依村荘(DK420099k-0003)
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中外商業新報  第一〇八一三号 大正五年五月二二日
    ○竜門社春季総会
      於王子曖依村荘
渋沢男に縁故ある人々、並に男の門下生を以て組織せらるゝ竜門社の第五十五回春季総集会は、二十一日市外王子飛鳥山の曖依村荘に開かる、恰も雨霽れて新緑匂やかに、絶好の集会日和にて、朝来村荘を目掛けて集まる者多く総員約二百五十名と註されたり、特別会員として添田博士・渋沢義一・佐々木勇之助・小池国三・堀越善重郎・植村澄三郎・上原豊吉・石井健吾氏等の顔も見ゆ、定刻の午前十時を過ぐる三十分頃、園内芝生に設へられたる講演会場を開きて、先づ幹事より社務及会計に関する報告と共に、今年喜の字の賀に達せる名誉会員渋沢男に対し祝意を表する為め、論語の年譜を作り贈呈するに、評議員会の議一決し、目下萩野・三上両博士監輯の下に、林博士が折角編纂中の旨をも報告する所あり、愈々講演会に移りて穂積帝大教授は「敵
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株主の会社に就て」と題し、大河内博士は「欧洲戦争と兵器」と題して、交々趣味ある一場の演説を試み、続いて渋沢男は钁鑠たる老躯を壇上に運び、咳一咳して曰く
 竜門社も今や会員千名の多きに達するの盛況を見るに至れるは、洵に余の欣喜に堪へざる所なるが、這は畢竟会員諸子が、本会を以て有益なる組織なりと為し、各自其職務を愛する如く励み合ひたる結果と謂ふべし、幹事の報告を聞くに、今年七十七の寿に達せりとて論語の年譜を編み贈呈さるゝ由、一個微々たる実業家にして此光栄に浴す、顧みて忸怩たるものあり、孔夫子亦地下に怪しからぬ事と謂はれんが、余は地上に在りて悦に堪へず
とて、冒頭諧謔一番、更に語を継ぎ、先生の持論たる道徳と経済の合一に就て、諄々説いて倦まず、其要旨に曰く
 由来仁義道徳のたる《(マヽ)》、実業家の日常生活と相離る可らざるは余の曾て唱道して渝らざる所也、余や素と弱冠郷関を出づるの時は政治家たらんとの希望を有し、一橋家に仕ふ、偶々機会ありて民部公子に随ひ仏国に遊学したるが、其間に維新の政変あり、帰来時勢の変遷を洞察して、爰に政治家たらん野望を捨て仁義道徳に則り国家的の実業家たるべき決心を樹立したり、駿河に合本会社を起したる以後一度大蔵省に任官したるも久しからずして野に下り、一意素志に向つて進み、孔夫子と題し論じたることすらありし也、然るに明治四十年十一月に至り、三島中洲翁余の志を知られて道徳経済合一の説を吐かれ、一文を余に寄せらる、余の大に徳とする所也、若し此道徳経済合一の説にして大に個人間に発達せんか、法律は一の規矩として必要を存するに至り、更に国際間に了解されんか、軍備は今日の如く其必要を減ぜん、会員諸君の幸に服膺を望んで歇まざる也
と結ぶ、講演玆に了つて、会衆は後園の園遊会場に移り、新緑の下、露店の珍羞に舌鼓を鳴らし、三越音楽隊太神楽等の演芸に興じて、暮近く散会せり