デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
5節 修養団体
1款 財団法人竜門社
■綱文

第42巻 p.546-564(DK420101k) ページ画像

大正5年11月11日(1916年)

是日、当社評議員会、帝国ホテルニ開カレ、後、引続キ評議員並ニ有志ニヨル、阪谷芳郎帰国歓迎会催サル。栄一出席シテ演説ヲナス。


■資料

竜門雑誌 第三四二号・第七四―七五頁 大正五年一一月 ○本社評議員会並に有志の阪谷男爵歓迎晩餐会(DK420101k-0001)
第42巻 p.546-547 ページ画像

竜門雑誌  第三四二号・第七四―七五頁 大正五年一一月
    ○本社評議員会並に有志の阪谷男爵歓迎晩餐会
本社に於ては、十一月十一日午後五時より、帝国ホテルに於て、第十八回評議員会を開きたり。第一議案即ち
 本月二十六日第五十六回秋季総集会開会の件
 (一)当日、青淵先生喜寿祝賀式を挙行し、併せて阪谷男爵帰朝歓迎の意を表する事
 (一)時刻・場所・当日の順序等は幹事に一任する事
右は全会一致を以て、原案通り可決し、次に「入社申込者諾否決定の件」も全部原案通り可決し、最後に阪谷男爵より「会員には紳士の態度を保たしむるの要あるを以て、苟も本社の主義に背くものあるときは、直ちに除名することゝしたし」との発議ありて、一同之に賛成し之にて評議員会を終り、引続き別室に於て、評議員並に有志の阪谷男爵歓迎晩餐会を開きたり、食後評議員会長代理佐々木勇之助氏起ちて歓迎の辞を述べて曰く
 竜門社評議員会長阪谷男爵閣下、閣下が曩に聯合国経済会議特派委員長の大命を帯びられて、仏蘭西巴里に開かるべき聯合国経済会議に御出席の為め、御出発に相成りましたのは、本年五月一日でありました。其当時は独逸の勢ひが甚だ熾んにして、陸に於ては空中より爆弾を投下し、海に於ては潜航艇が商船等に向つても水雷を発射する抔、甚だ危険の状態で、途中の安否如何あらんかと窃に懸念致し、何卒無事に使命を果たして御帰朝に相成るやう祈つて居りました。
 幸に何等のお障りもなく、巴里に御到着に相成り、聯合国経済会議に御列席の上、重大なる使命を果されたと云ふことは、国家の為め洵に慶賀に堪えざる次第であります、且つ露西亜・仏蘭西は申すに及ばず、帰途に英米諸国を経て戦時状態其他経済事情等をお取調に相成り、多大の土産を齎らして、而かも立太子式を行はせらるゝ祝日、即ち十一月三日払暁、無事御帰朝に相成りましたる事は、殊に我々竜門社員の喜びに堪えざる所であります。就きましては、お取
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調に相成りました欧米諸国に於ける戦時状態、並に経済事情を承ります事を得ば、此上もない光栄で御座います。玆に謹で竜門社を代表して、歓迎の誠意を表し、且つ男爵閣下の健康を祝します(一同起立乾盃)
之に対し、阪谷男爵は簡単に謝辞を述べ、且つ戦時状態其他経済事情に就ては、別室に於てお話し申すべしと挨拶せられ、是れにて宴を撤し、別室に移りて阪谷男爵の有益にして興味ある欧米視察談(演説速記次号掲載)あり、次いで青淵先生の慇懃なる挨拶(追て掲載)ありて散会したり当夜出席の評議員及有志来会者は左の如し(イロハ順)
    評議員
 井上公二君    堀越善重郎君   星野錫君
 土岐僙君     尾高次郎君    大川平三郎君
 田中栄八郎君   高松豊吉君    竹山純平君
 植村澄三郎君   上原豊吉君    八十島親徳君
 山口荘吉君   男阪谷芳郎君    佐々木勇之助君
 渋沢義一君    清水釘吉君
    前評議員
 服部金太郎君  男穂積陳重君    高根義人君
 山田昌邦君    明石照男君    斎藤峰三郎君
 清水一雄君    佐々木慎思郎君  桃井可雄君
    外来会者
 井上徳治郎君   西村道彦君    土肥修策君
 利倉久吉君    尾高幸五郎君   大沢佳郎君
 大塚磐五郎君   脇田勇君     横山徳次郎君
 竹村利三郎君   永井啓君     内山吉五郎君
 野口弥三君    野口弘毅君    八十島樹次郎君
 矢野由次郎君   松井万緑君    増田明六君
 藤森忠一郎君   河野正次郎君   江藤厚作君
 西条峰三郎君   渋沢武之助君   渋沢正雄君
 白石喜太郎君   杉田富君


竜門雑誌 第三四三号・第二三―四四頁 大正五年一二月 ○阪谷男爵の欧米視察談(DK420101k-0002)
第42巻 p.547-563 ページ画像

竜門雑誌  第三四三号・第二三―四四頁 大正五年一二月
    ○阪谷男爵の欧米視察談
  本篇は、本社有志が阪谷男爵の無事帰朝を祝する為め、十一月十一日夜、本社評議員会開会の際、特に阪谷男爵を招待して、歓迎晩餐会を開きたる折、食後別室に於て阪谷男爵の演説せられたる欧米視察談なり。(編者識)
 閣下並に諸君、私の出発は、先刻佐々木君からお話のありました通五月一日でありまして、巴里へ行きましたのが六月七日、東京へ帰りましたのが十一月三日、丁度満六箇月の旅行でございます、此旅行中の話は、平常と違ひまして、沢山お話を致しまする廉がございます、到底一夕に之を尽すことは出来ませぬ、それ故に今夕は其中に就きまして、或る一部分をお話致しまして、又残りました点は、他日を期してお話を致したいと考へます。
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 第一に竜門社の主義綱領の上から申上げて置きたいと考へまするのは、彼地に居ります時分にも、能く戦争が長く続けば宜い、と云ふやうな意味の手紙を受取りました、戦争が長く続けば日本が繁昌する、仕合せだ、又此方へ帰りましても、此度の戦争は寔に日本に金が這入つて来て結構である、どうか永く続けば宜い、と云ふやうな話を往々承ります、海外へ参りまして、海外の事情を見ました者の考から申しますと、此問に接しまするのが何より一番辛うございます、と申しまするのは、吾々は今八箇国――今日では羅馬尼が加つて九箇国、互に誓を立て死生存亡を共にして戦つて居るのであります、他国の疲弊を喜ぶと云ふやうな感情を、我国人として持たれると云ふことが、外国人に聞えますのを、甚だ恥と致します、のみならず、国家将来に此の如き卑劣なる思想の存在致しますことは、立国の基礎を危くするものであると云ふ感を抱きます、只今此戦争に就て一番利益を得て居るのは、米国続いては日本、其他の中立国であります、私は瑞典・諾威と云ふ中立国も経過致しましたが、此辺は極く僅かしか留りませぬでした、比較的一番長く留りましたのは米国であります、米国の如きは非常な金が這入つて来る、非常な輸出超過であると云ふことは、諸君御承知の通であります、併ながら、志ある人は極めて、此他国の疲弊に依つて金を儲けると云ふことの卑屈なることを憤慨して居られます、固より物事は時の運でございまして、戦争が永く続いて、其戦争の続くが為めに利益を享くる者があるとすれば、どうぞ我国も成べく多く利益を享けたいと云ふのは、我人共に希望するところでありますが、已むを得ざる結果に依つて、我国が他国よりも余分の利益を得やうとして、商業上努力すると云ふ精神と、又戦争を成べく永続させて我国が利益を得やうと云ふ考とは、之を区別して考へなければならぬ、米国に於きまして、或る有名の人が、私の手を握つて言はれたときの言葉に、自分は米国人であるけれども、貴国人に恥づる、貴国は今白耳義に対する独逸の横暴を憤つて、白耳義の自由、白耳義の独立を恢復せんが為めに、力を露西亜に添へ、英国に添へ、仏国に添へ、独逸・墺地利に対して宣戦をして奮闘して居られる、我亜米利加は何だ、唯物質的の金儲ばかりして居つて、少しも世界国民の自由、世界国民の独立の為めに努力することが出来ぬのを恥ぢます、と云ふ話がございました、是は其人の口ばかりではございませぬ、米国人にして段々義勇兵に加つて、戦線に立つて居ると云ふ人や、或は飛行機に乗つて居ると云ふ人もあるのでございます、我青淵先生の深き友人たるワナメーカーと云ふ人、是は青淵先生以上の老齢であります、元と大した資産もない、殆ど赤裸々の有様から仕上げて、今では何億と云ふ財産を持ち、費府にも三井のデパートメント・ハウス以上の大きなものを持つて居られます、其他紐育にも店を持つて居り、大した財産家でありますが、是が十月一日に是非私に来て呉れ、費府で而も日曜日でありました、私を招かれて共に午餐を喫し、それから先生が精神的経営の為めに努力して居られます日曜学校に私を誘はれ、私に米国の旗を贈つて私の来たことを歓迎せられて、さうして私にも一場の演説を求められました、そこで私は甚だ不束なる英語を以て二十分間ばかり演説
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を致したのであります、其日は日曜日でありましたにも拘らず、ワナメーカー氏が、是非自分のデパートメント・ハウスを見て呉れと云ふことで案内をされて参りました、窓が閉ざされて真暗でありますから隅のところの戸を一つ開けて這入て、ワナメーカー氏が自ら電気灯を点し、デパートメント・ハウスの中を案内して、迚も今時間がないから全部を御覧に入れることは出来ない、殊に御覧の通今日は日曜日で休みであるから、一寸見て呉れゝば宜いと云うて、案内をされました其時に何か深い意味があつたらしうございましたが、書物を沢山積んである所がある、其中から二冊の書物を引抜いて私に呉れました、之を船中で御覧なさい、能く私の店を見て下すつた、之を紀念に差上げますと云ふことであつた、そこで其書物を船中で読んで見ますると、一は亜米利加人が非常に崇拝して居るアブラハム・リンコルンの伝、一は過去及び現在の亜米利加人と云ふ書物でございます、其アブラハム・リンコルンの伝記の中に、色々面白いことが書いてある、其中に"Suspicion and jealousy did never help any man in any situation."即ち訳して申せば「人を疑ひ人を猜むことは、如何なる場合に於ても、人を助けしことなし」翻訳は甚だ拙うごいますが、さう云ふアブラハム・リンコルンの名言が掲げてある、それから他の一冊の過去及現在の亜米利加人と云ふ書物の中に書いてあるところを段々読んで見ると、是は今を去ること百三・四十年前、亜米利加の独立戦争のときに、亜米利加の方は段々英吉利兵の圧迫を受けて国勢日に蹙まり、愈々亜米利加の独立と云ふことが危殆に陥つた場合に、ベンザミン・フランクリンが使者となつて、仏蘭西に援兵を乞ひに行つたことの記事がある、其援兵を乞うたときに、当時の仏蘭西政府が熟慮の末ロシヤンボーと云ふ人を大将として、五千の援兵を送ると云ふことを決定した、其当時不完全なる運送船に依つて、五千の兵を送ると云ふことは、却々容易ならぬことであります、其時にフランクリンが大に喜んで、此援兵の報償と致して、加拿陀を仏蘭西に差上げたい、当時加拿陀は仏領であつたものを英人に取られた、其加拿陀を報償に差上げたいと云うたところが、仏蘭西政府の答に、仏蘭西は自由と独立との為めに戦ふ国民を救ふのに、何等一銭たりとも報償は要求しない、詰り仏蘭西政府は英国を悪むが為めに戦ふにあらず、自由と独立の為めに戦つて居る人を助くる、言換へれば自由と独立の存在を保証する為め戦ふのである、決して報償を求める為めに援兵を送るのではない斯う云うて答へたと云ふことが出て居ります、玆に於てワナメーカー氏が、黙つて其二冊の書物を私に贈られた意味が余程了解せられた、それで今日第一に諸君に申上げたいのも、聯合国の戦争を自分の利益にしやうと云ふ考はお持なさらぬことを希望する、吾々は平和な商業上の経営に依つて利益を得ることは、幾らでも努めるのでありますが人が命を捨て人が難儀をする其隙に乗じて、火事場泥棒的に利益を占めやうと云ふ卑屈なる考が、此日本に発したならば、私は国本危しと考へる、私が日曜学校で演説を致しました趣意も、畢竟今日の此戦争を独逸が仕掛けて来たのも、余りに独逸が物質的に走つた弊が玆に陥つたのである、精神的の方面も同時に進まなければ、国家の基礎は危
 - 第42巻 p.550 -ページ画像 
いものであると云ふ演説を致しました、甚だワナメーカー氏が満足せられて、態々紐育へ向けて、昨日の御演説を深く感謝する、と云ふ電報を送られたと云ふやうなことでございます、是等のことは唯一場の座談とお聴流ないやうに願ひます。
 此民心を視察するとか、国情を観察するとか云ふことは、却々六ケ敷いものであります、併ながら、病人を医者が診察すると同じやうに斯う云ふ熱があり、斯う云ふ脈が打てば、斯う云ふ病気があると云ふやうに、一つのものから判断して行かなければならぬ、亜米利加が今日単に物質的にのみ走つて居る、と云ふことは事実であります、私の目撃するところに依つて見ましても、甚しく卑猥なる舞踏などが、随分料理店、甚しきはホテルの食堂に於ても行はれて居る、其音楽たるや甚しく優美を欠いて居る、併ながら一方に於ては、又精神的純潔なる所のものを常に維持指導する先覚者があると云ふことは、国家の基礎を堅固ならしむる上に就ては、非常なる大切のことであります。
 先づ此度の戦争に就て、自分が視察致しましても、露西亜領へ自分の這入りましたのが、五月一日に東京を立つて、東海道鉄道で一泊し次で釜山・京城の間の鉄道で一泊し、又京城に一泊して、其翌日長春から哈爾賓の方に向つたと云ふやうな訳でありますが、露領に這入りますと、彼のウオツカを飲むと云ふことを、露西亜皇帝が戦争が始ると直に禁ぜられまして、此度の戦争はもう国運を賭しての戦であるから、一切ウオツカを飲むことを禁ずると云ふ勅令が出たのであります然るに其勅令が一たび出るや、露西亜各州若くば各都市に於て銘々に決議を致して、更にウオツカ以外の酒も段々附加へて、酒は総て禁ずることに致さうと云ふので、即ちペトログラードの如きは酒はもう一滴も売ることはならぬと云ふことになつた、持つて居るのを飲むのは差支ない、飲むのを禁じたのではない、売るのを禁じた訳でありますが、是等も能く其命令が、皇帝が命ぜられた以上に行はれて居る、又昨年の六月カルパシヤン即ち墺地利方面に露西亜が大敗を招きまして其結果としてワルソーを取られ、既に独逸の軍勢が潮の如くに露西亜に押寄せる、其時分に日本に来た電報に依ると、もう露西亜は再び起つことは出来ぬと云ふやうな報道もありましたが、丁度私の参りましたときに、非常なる艱難を冒して八十万の新軍を組織した、従来の老熟したる士官は多くは討死したので、新規に士官も拵へ、大敗北の後に、寧ろ以前より有力なる新軍が出来た、戎器弾薬は主に浦潮斯徳から輸入したのでありますが、それと非常なる苦心を致して、瑞典と露西亜の境、即ち芬蘭の北、北氷洋に面したるアーカンゼルの附近に一の不凍港を発見して、其不凍港と露西亜の都を鉄道で繋ぎて、今ではそれから盛に戎器軍需品を輸入して居ります、露西亜の軍隊の供給は此アーカンゼル方面よりの供給と、浦潮方面よりの供給に依つて、充分に備つて来たのであります、是ならば必ず昨年の敗北を盛返してやらうと云ふのが、私の到着した五月十三日頃の説でありましたが、果せるかな其後間もなくガリシヤの戦争となつて、続々独墺の軍隊を撃破して、到頭羅馬尼の方へ聯絡を取つて、今日は羅馬尼も聯合軍に加つて起ち、将に墺地利の方面に露西亜軍が向はんとして居る有様でご
 - 第42巻 p.551 -ページ画像 
ざいます、露西亜の政策と致しましては、君士坦丁堡を占領し、ダーダネルスの海峡を開くことを非常に今努めて居りますが、是は御承知の通ガリポリーの戦争と云ふものが、英吉利の計画が其当時失敗を致しましたが為めに、未だダーダネルスの開峡は通ぜぬことになつて居ります、今日のところでは、アーカンゼル、浦潮斯徳の二線路が、露西亜に対する供給線になつて居ります、露西亜は一日も早くダーダネルスの海峡を開いて、自国の農産物を世界に出すことを努めて居ります、玆に附加へて申上げて置きますが、此戦争が始るとダーダネルスの海峡が止つて、其時分は未だ此アーカンゼルの港が開きませぬが為めに、露西亜の農産物は世界の市場に出ることが出来なかつた、其為めに亜米利加の農産物は非常に売れたのです、それで米国と英国との間に、英国の行動が米国の中立権を侵害し、倫敦宣言に違反するものである、と云ふ問題が、英国と米国との間に非常に八釜しくなつたのです、けれども事実に於ては米国は大変に物資が売れたものですから其問題も極点まで――所謂干戈を動かすと云ふまでに至らずして終つたと云ふことであります、是は先づ世界の大なる経済の動き方の一の作用でございますけれども、其問題を今申上げますと、余り岐道に這入りますから、唯一寸其事を附加へて申して置きます。
 それから英国に於きまする人心はどうであるかと云ふと、御承知の通英国は陸軍は二十万しかない、陸軍国としては勿論役に立ちませぬ故キチナー将軍が職に就かれて第一の建策は、どうしても英国は百万の陸軍を造らなければならぬ、さうして其教練したる兵を戦場に送るまでは無惨なことであるが敗北も忍ばなければならぬ、是非とも一箇年若くは一箇年半の間に、教育ある百万の軍隊を造つて、戦場に送り出すと云ふ意見であつた、それが漸次増して今日は二百万になり三百万になり、遂に五百万の軍隊まで造ると云ふ計画が出来ました、それで只今は御承知の通に、徴兵令、所謂強制募入法が議会を通過致しましたのでありますが、最初の中は義勇兵であります、イングランド、ウォント、ユー、英国が貴方を要すると云ふ一片の布告の為めに、国民は争つて募集に応じた、其募集に応じたのは、どんな人かと云へば皆銀行なり会社なりで以て、立派な月給を取つて居る人が、ドンドン応ずるので、之を以て兵隊を造り、士官を造つて、続々戦場へ送つたのであります、それで独逸では、初めの中は英吉利の兵を町人兵と云うて侮つて居りましたが、一年経ち一年半経つ中に、果してキチナー将軍の言はれた通、英吉利の兵は大に傑出して来た、今年の六・七月の大進撃の時分には、英吉利兵は殆ど一番強くはないかと言はれる程に強い兵になりました、少くも英国の兵は他国の兵に劣つて居らぬ、私は英吉利の兵隊を沢山見ましたけれども、悠然としてニコニコして居る、例の通大きなパイプをくわへて泰然として居る、体格と云ひ勇気と云ひ、実に立派なものであります、其勇気のあります一例を申しますと、先達の戦の時に、塹壕の中で兵隊が番をして居る、丁度戦争の幾らか閑の間で、一人の士官に就眠を命じて居つた、八人の兵が居眠をして居つた所へ、独逸の方から不意に一つの弾が飛込んだ、そこで咄嗟の間に其士官が、弾が破裂すれば八人を殺さなければならぬ、
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自分が死んで八人を助けた方が宜いと考へて、直さま其弾を抱いてしまつた、すると其弾は破裂しましたが、実に天祐で、此の如きに仁恵ある義侠心に富んだ人は、天も之を殺さぬのであつて、其の士官は非常の負傷はしましたけれども、助かつた、それは倫敦に居られる日本の武官稲垣少将の話でありますが、此場合の如きは、実に日本の大和魂に譲らざる勇敢なる適例である、斯う云ふ勇気と云ふものは、実に非常に訓練された兵、又生れながらにして非常なる勇気のある兵でなくては、出来ることではないと云うて、深く感服して居られました、御承知の通、総理大臣アスキス氏の息子さんが戦場に臨まんとしたときに、陸軍省で参謀部附を命じませうと云うた、参謀部附と云ふものは幾らか戦線に遠ざかつて居るのでさう云うた、すると父のアスキス氏が其事を聴かれて、どうぞ息子丈は第一線に出して下さい、私の息子が第一線に出られぬやうでは、此多くの人を殺して尚英国を救ふことは出来ぬ、どうぞ第一線に出して下さいと云うて、遂に第一線に出て美事に討死をしました、それから今のアスキスの閣僚になつて居るボナー・ロー、是は反対党の主領でありますが、今日は挙国一致内閣でアスキス内閣に入つて植民大臣となつて、アスキスを助けて居りまます、此人は私と一緒に巴里へお出になつた人でありますが、此お方の息子さんも先達負傷しました、其事に就て私は見舞状を送りましたが、先達丁寧な御返事がありました、第一に総理大臣・植民大臣あたりの息子さんが、第一線に立つて命を捨てゝ居る、其他英国の貴族が七百人ありますが、其七百人の中で、相続人の日本で云へば従五位の位地に立つ人、他日公爵になり伯爵になると云ふ人が、五十余人まで戦死して居る、平時に於て貴族と仰がれ、富豪と言はれ居る人が、自ら進んで第一の戦線に出て、国難に殉して居る、或る場合には牛津・剣橋等に居る貴族の子弟が、皆戦線へ出てしまつて、大学の授業を続けることが出来なくなつたと云ふことも事実であります、是は誰も脅迫する訳ではない、皆喜んで自ら進んで出るのであります、又仏蘭西の衆議院へ行つて見ますと、衆議院の十七の議席に花環が飾つてある代議士十七人まで戦場に於て屍を曝して居る、ヴェルダンの戦争がどうも独逸の方が段々激しくなつて、仏蘭西の死傷が多いやうだがもう少し陸軍の遣方がありさうなものだと云つて、議院に於て所謂秘密会議を請求した、其当時私は総理大臣兼外務大臣のブリアン氏に会ひました、却々秘密会議で面倒なことを申しますなどゝ云ふて居られましたが、其時に秘密会議では、総理大臣に向つて、陸軍省の準備がどうであるとか、斯うであるとか云ふことを質問したものと見えます、ところが其時に、一寸名を忘れましたが、衆議院議員で少し怪我をして戦場から戻つて来た人で、而もそれは今の政府の反対党でありますが自分の怪我を忘れて、衆議院議員の間を盛に説いて、君方は一体何を言はれる、戦場へ出て塹壕生活もしないで何が分る、飽食暖衣巴里に居つて、政府の遣方が悪いなどゝ云ふのは大間違だ、若し陸軍が悪いと思ふならば、君方が充分軍費を出せ、独逸は白耳義の中立を破つて仏蘭西の都を取らんとしたのである、今日は政府に不足を云ふより先づ独逸を防げ――、反対党の議員でありながら、政府を攻撃するなら
 - 第42巻 p.553 -ページ画像 
ば戦線の弾の来る所へ行つて見ろと云つて、非常に議員を罵倒して、到頭秘密会議も全会一致政府を信任すると云ふことになつた、実に人心と云ふものは非常に興奮して居ります、彼の独逸軍が白耳義の中立を犯し、其白耳義の中立を犯しますときにも、一の美談がございますのは八月の三日に独逸から一通の最後通牒がブラッセルに到着した、独逸は此度仏蘭西と開戦を致すに就て、貴国内を通過する、穏かにお通しになるやうに願ひたい、若し御違背あるに於ては、甚だ貴国の不利であるが、御返答如何と云ふ通牒である、外務省に電報が着くと、直に政務局長が――之が又面白い話です、政務局長の名は忘れましたが、其通牒を外務大臣のところへ持つて行く、外務大臣が是はどうも大問題、白耳義の存亡此返事一つで決する訳であると云うて、直に臨時閣議を請求して、其電報を持つて外務大臣は閣議に出られた、外務大臣を見送ると、政務局長は直に独逸への返事を書いた、未だ閣議の済まぬ中に政務局長が筆を執つて、白耳義は名誉があります、此名誉の存する間は断じて御請求に応ずることは出来ませぬと云うて、チヤンと返事を書いてしまつた、是より外に思案が要るものかと云つて、悠々煙草を喫んで居る、政府では御前会議を開いて、どうしても是は名誉の為めに忍ぶことは出来ぬと云ふことに廟議が決して、それでは返事を書かうと云ふので、外務大臣が戻つて来て、チーンと鈴を鳴して政務局長を呼んで、愈々廟議開戦と決したから、其趣に返事をしろ其処に書いてございますが、それでは如何です、成程これで宜いよと云つたさうです(笑)是は彼地に居る日本の代理公使の山中君から聴いた話です、遂に其国を焦土と致し、幾千万の財産、幾十万の生命を失つても、尚白耳義の旗を或る一角に樹てゝ屈しない、此一事が前にお話した米人が、日本が白耳義の自由・独立の為めに戦ふと云ふ精神に感動した、米国は甚だお恥しいと云うた点であります、即ち人間には或る一種犯すべからざる精神と云ふものがなければ、国家は保てぬ金ばかりで国家が保つと思ふならば、大間違の話と思ひます、それで其独逸軍が破つて、破竹の勢を以て巴里に押寄せて参ります、シャルロアーの戦には、今日仏蘭西の参謀総長をして居るカステルノー将軍は二人の息子を唯一戦に討死させて居る、乃木大将は南山と二百三高地と二度の戦に二児を失ひましたが、カステルノー将軍は一度の戦に二児を失つた、非常の苦戦で、遂にジヨッフル将軍が是は退却の外仕方がないと云ふので退却を命ずる、独逸のクルック将軍が、右翼から潮の如く押寄せる、愈々巴里が危いと云ふので、仏蘭西銀行にある金貨を何十台の貨車に積んでボルドーに運んだ、それから政府も引上げる、石井大使の如きも汽車に乗つて引上げられたのでありますが、其際は非常の混雑で、パンを持つて来るパン屋がない、杉村書記官などは自らパンを買ひに行くと云ふやうな騒ぎであつた、ヤツト荷物を拵へて引上げた、其汽車が当り前の通路を通るときは、独逸の騎兵が徘徊して居つて危険だからと云ふので、道を変へてボルドーに引上げると云ふやうな次第であつた、最早愈々危険だと云ふときに、ジヨッフル将軍が、ガリエニー将軍を推挙した、君に巴里の守備を托する、其時にガリエニー将軍の答が「ジユスコーブー」、「最後まで」簡単に唯
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其一語を以て答へた、此最後までと云ふ言葉が、仏蘭西人は非常に気に入つて居る、活動写真などを見ますと、ガリエニー将軍の肖像が出ます前には必ず「ジユスコーブー」と云ふ文字の写真が出る、すると満場手を拍つて喜ぶ、それから円いメダルが出来て居りまして、裏には「ジユスコーブー」と書いて、表にはガリエニー将軍の像が描いてある、それは私も持つて居ります、非常に此言葉が受けて居る、ガリエニー将軍は最早巴里も最後だ、然らば凱旋門の如き歴史ある建物は独逸人の手に渡したくない、是は自分の最後と共に爆発してしまはうと云ふので、爆発の準備を命じた、それから、諸君御承知のボアドブーロンの森の所が、丁度サンゼルマンの方から攻めて来る道に当りますので、自動車で突貫すると云ふことが此節あります、青島の戦争のときにも、自動車の突貫で日本軍が非常に苦められた、第一線・第二線と破られて、第三線でヤツト喰止めた、騎兵の突貫は日本兵が慣れて居りますが、自動車の突貫と云ふものは、日本兵は未だ慣れてゐない、そこでボアトブーロンの所へ壕を掘つて、自動車を防がうとしたが、其壕を掘る人夫がない、もう非常に切迫して居る、凱旋門さへ爆発しやうとして居る際でありますから、非常に困難であつたときに、社会党の首領トーマス・アルベルトと云ふ人に、ガリエニー将軍が相談した、此人は今軍需省の大臣をして居ります人で、私共一緒に食事をしたことがあります、血色の好い、筋骨の太い、如何にも労働者のやうな愉快の人で、学者であります、此トーマス氏にガリエニー将軍が相談をすると、宜しうござる、一言の下に引受けた、直に社会党に触を出して、今社会党が国家を救ふ時だ、起てツと云ふと、一時間経つか経たぬ中に、二千人の職工が何処から出て来たものか、鋤鍬を持つて来て、巴里とボアトブーロンの間に壕を造つた、丁度先日私の巴里に参りましたときには、其壕は埋めてありましたが、もう今日は安全になつたから壕を要さぬ、併ながら幾分か窪んで居りますから、当時を追懐して感慨無量でありました、若し青淵先生に此実況を御覧に入れましたならば、必ず立派な詩が出来たらうと思ひます、而してガリエニー将軍は斯の如き決心を極めて、何か機会があつたなら、独逸軍を撃破しなければならぬと云ふので、飛行機を飛ばして敵情を窺つて居ると、天なるかな、クルック将軍が巴里を包囲するのは手緩い、それよりは寧ろ巴里を右に見て、マルヌの河を渡つて、直ちにヂジヨンからクルーゾーへ出て、クルーゾーの兵器製造所を取つてしまはうさすればもう仏蘭西軍は袋の鼠同様のものだから、巴里を右に見て直にクルーゾーの方面へ出てしまはうと云ふので、独軍の右翼がマルヌの河に沿うて廻り掛つた、其時ガリエニー将軍は丁度賤ケ岳の戦争に豊臣秀吉が八幡戦さは勝つたるぞと踊り上つて悦んで云つたさうですが、ガリエニー将軍も八幡とは言はなかつたでせうが、戦さは勝つたるぞと叫んだ、自分の手にあつた二個軍団と云ふものは、残らず自働車に乗れと云ふ命令を下した、今国家危急の際に、自働車が四万台要ると云ふことの命令が下ると、其時の光景と云ふものは実に盛なもので、途中の紳士も自働車から降りて、早く行け、何処かのお婆さんもお嬢さんも自働車を降りて、早く行け早く行けと云ふので、往来の自
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働車が尽く軍隊に集り、ガリエニー将軍が自働車を要すると云ふ声を伝へ聞いた人は、争つて自分が如何なる用事があつても、途中で皆自働車を降りて陸軍省へ送つた、立どころに四万台の自働車が集る、それへ兵隊を乗せて、疾風の如くにクルック将軍の背を突いた、二個軍団の精兵が突然要塞から現はれた為めに敵は大敗北、是が抑々独逸軍が西の方で敗北をし始めた動機でありますが、実際今日の仏蘭西と云ふものは、社会党が仏蘭西の為めに戦つて居る、ブリアン氏を始めトーマス氏、皆社会党であります、社会党が仏蘭西を助けて居る、英国に於ても社会党の首領たるロイド・ジョージ氏が、大に英吉利を助けて居る、詰り是等の人々と云ふものは、一片の精神即ち国家を思ふ精神の存在が強い人でありますから、国家の危急の秋に当つて、自分の平素の説であるとか、平素の私と云ふものを以て、国家を捨てると云ふ人ではない、即ち一時危かつた仏蘭西が今日の如く恢復したのは、是等社会党の人々、労働者、就中軍器製造者の努力と云ふものが大に与つて居るのであります、今日は婦人まで労働者となつて働いて居る仏蘭西は今日大に労働者に不足して居ります、私の居る中にも支那人を千五百人輸入した位であります、それ故に婦人まで労働に従事して居ると云ふ有様で、非常に精神の興奮したものであります。
 七月十四日丁度バスタイルの城の落ちた日、即ち革命の日でありますが、其バスタイルの国祭日に巴里に観兵式がございました、昨年は戦争の為めに止めましたが、其観兵式の光景と云ふものは、実に私は泣きました、其概略を申上げますと、元と博覧会の跡でグランド・パリーと云ふ、大きな数万人も這入やうな建物があります、先づ其中に這入つて見ますと、約五千人ばかりのお爺さんお婆さん、若い後家さん、小さい子供と云ふやうな遺族が、皆勲功に依つて招待されて居るそれから一方には、聯合国から来た有力者、名誉ある人達が一杯列んで居る、すると第一に仏蘭西の国歌を奏し、それから英吉利の国歌を奏し、日本の国歌を奏し、各聯合国の国歌を奏し、それから大統領ポアンカレーが起つて、滔々たる雄弁を振つて、一時間余演説をされましたが、其演説の趣旨は、先づ仏蘭西の今日の国難の事情を初めから精しく述べられて、今仏蘭西の状況は斯う云ふ有様である、今日独逸の強敵を防ぎて居るのは、斯々の人の力に依つて居ると云うことを述べて、最後に其処に列んで居る遺族の方に向つて、仏蘭西は戦死を遂げられた人々の恩を忘れませぬ、是は満場を泣かしめた言葉です、仏蘭西は先立たれた人の恩を忘れませぬと言はれたときには、皆手巾を以て遺族の人が目を掩ひましたが、実に其光景と云ふものは詩的光景でありました、それから大統領の演説が終ると、士官が附いて一々其五千人ばかりの人を大統領の前へ案内をする、大統領が一々名前と軍隊の所属を聴いて握手される、老人が見えると、貴方の息子さん……それはさぞ御残念でございませう、何処の戦地で亡くなられました、どうぞ身体をお大事にと云うて、一々丁寧に話をされる、或は又七つ八つの子供が、お母さんとか妹さんとか姉さんとか云ふ人に連れられて来ると、大統領が其子供を抱上げて頬を吸つて、貴方のお父さんが戦死されましたか、満場は皆泣いて居る、其時の光景は何と云うて宜
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いか、実に感慨無量と云ふより外に形容の致しやうがない、私も泣きましたが、私の同行者皆仰ぎ見ることは出来ない、殊に其光景のところで、仏蘭西の立派な音楽隊が極めて美音を以て、悲壮なる楽を奏し国歌を歌ひます、さうして一方には大統領が小さい子供を抱いて居られる所を見ると、あの大統領が、国家の大事を双肩に荷ふて、斯くまでに心を挫かるゝかと、実に何とも私の訥弁では言表すことの出来ぬ感情が生じました、それから其儀式が済みますと、今度は表の道路の方で軍隊の行進が始まる、又マルセーユを歌ひ、楽を奏し、最初に騎兵、其次に歩兵、それから自転車隊、それから白耳義の兵、露西亜の兵、英国の兵と次々に聯合国の軍隊が行進する、此内に日本兵が居つたらと云ふ気が致しました、それで軍隊が吾々の前を通つて、日本で云へば銀座通のやうな所をズツと行進して行くと、左右の群集が其軍隊に対して、感謝の念を以てする状況と云ふものが、実に是が又涙の種で、窓から手巾を振る、花束を投げる、殊に露西亜の軍隊、多数来ては居りませぬけれども、貴方の方から仏蘭西まで態々来て戦つて下さると云ふ感謝の念から、婦人などは花束を投げたり、中には露西亜の士官の馬の首へ取付く者がある、すると露西亜の士官がサーベルの柄を握つて、丁寧に挨拶をする其時の光景を見て、所謂江州司馬青袗湿とでも申すべきか、如何にも戦時の状態の思遣りを致したのであります。
 さう云ふ訳で、実に今日の仏蘭西の人心と云ふものは、非常に振つたものであります、就中私の感じましたのは、日清・日露の両戦争、私共も多少経験致しましたが、停車場の送迎と云ふものは、実に万歳万歳で大騒をしたものです、或は赤十字社の旗を樹てたり、各区の奨兵義会とか、星野さんの実業聯合会とか、毎日々々万歳々々で大騒をやつたものですが、今度は何れの停車場へ行つて見ても、トントさう云ふ形跡がない、兵隊は自分でランドセルを背負て、自分で切符を買つて出て行く、帰つて来る者も側に二・三人位自分の家族友人などの附いて居るのもありますが、それも偶であります、中に五・六人も隊伍を組んで、如何にも戦地から帰つて来たと云ふ様子があると、其辺に居る人が手巾を振りますが、朝から晩まで万歳々々で旗を振ると云ふやうな、あゝ云ふことはない、それから又兵隊が、如何にも是は自分が国家に対する義務を尽して居るので、何も万歳など言はれる筈がないと云ふ様子が能く見えます、汽車の窓から見ましても、兵隊の着物を着たなりに、自分の女房を助けて鍬を使つて居る人があり、又兵隊の着物を着たなり店の世話などをして居る人もある、是は時々戦地から暇を貰つて帰つて来て、又戦地へ出て行く人で、一向再び出て行くことを嫌がる念慮もない、現に私共巴里に居ります時分に、ヴェルダンへ行つて二度も負傷したと云ふ人の実話を伝へ聴きましたが、其人などは、是で自分は二度負傷したが、今度行けば死ぬるかも知れない、辛いことは辛いが、併し行けと云ふ政府の命令であれば行きます此人は神戸・大阪に居られた仏人で、現に鶴見さんのお友達で、鶴見さんに話されたと云ふ話でありますが、自分は二度怪我をした、併ながら政府の命令なら又戦地に行くが、唯遺憾に思ふのは、自分は日本
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に八年居つた、大阪・神戸の商売には多少経験がある、私が生きて居れば幾らか其点に就ては国家に貢献することが出来ると思ふが、私が今度戦地に行つて死んでしまへば、それが出来ぬやうになるかと思へば、聊か残念に思ふ、併ながら、戦争に行くことは自分の義務だから決して不満には思はぬと云うて居つたさうです、其他私の知つて居る名誉領事などに会ひますと、大概皆私の息子三人は戦地へ行つて居るので、今忙しくて困る、爺父が三人前働かなければならぬと云ふ領事もあれば、私は息子が怪我して帰つて来て居る、それはお気の毒だ、病院へ行つて見て上げたら宜いでせうと云ふと、貴方も同盟国の為めに態々お出になつたのだ、御案内もしないでは済まないと云つて、方方案内をして呉れまして、昼飯を一緒に食ひませうと云ふと、イヤ昼飯を食ふ時間があれば、子息を見てやりたうございます、是は人情です、昼飯食ふ時間があれば、息子を見てやりたいと云ふ程の人情を持つて居りながら、朝から私を案内をして呉れた、詰り私は同盟国の為めに、日本から来て居る人である、其人が此処へ来たのを案内をせぬと云ふのは、自分が日本の名誉領事として済まぬのである、併し飯を食はうと言はれて、飯を食ふ時間があれば病院を見舞ひたい……其位の人情を以て、少しも戦争を困つたことゝは思はぬ、日本なら言ひさうなことですが、少しもそれを憾みとしない、却々日本が大和魂などと申して、吾々自ら忠君愛国を誇として居りますが、決して是が劣れりとはしませぬが、余程日本は是等の実況に就て、自ら顧みなければならぬと思ふ、却々向ふにも感ずべきことがあります。
 それで丁度六月の十四日に、巴里経済会議が開けまして、十四・十五・十六・十七日と四日間で終りました、其決議文は新聞にも出て居ります、非常に忙しい人の集りで、平素ならば二箇月も掛からうと云ふ万国会議が、要領も大概分つて居ることでありますから、殊に前に強敵を控え、遠くにはヴェルダンでありますか、何処でありますか、遠く大砲の音も聞えると云ふ場合でありますから、さう悠々閑々と議して居る訳にはいかない、其大綱を決して、後は宜しきに従つて銘々極めるが宜からう、目的は敵を倒すにある、併ながら暴を以て暴に代へることは慎まなければならぬ、吾々は畢竟独逸の暴を制し、独逸をして再び暴を逞うせしめざるまでに目的を達すればそれで宜いのである、暴を以て暴に代へると云ふことは、各々慎まなければならぬと云ふ態度で、譲るべきは譲らうではないかと云ふのでありますから、此四日間に於きまして随分議論がありました、議論がありましたにも拘らず、相譲つて全会一致で決議をして、各其政府へ報告をしやうと云ふことになつた、此決議文のことは既に新聞にも出て居りますが、是は未だ私と致しましては、政府若くば経済調査会へ報告が済みませぬから、其未だ報告を終らざるに先立つて、さう皆さんの前に精しく申すのも如何と思ふのみならず、是は大分長い話になりますので、他日のことに致しますが、兎に角有力の人が集つて、著名なる歴史的の部屋で会議を致したので、其光景も却々感慨無量でありました、而して此各国の独逸に対する決心は、前申上げました色々の場合で以て略ぼ御想像の出来ます如くに、実に挙国一致、最後の勝利までやらうと云
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ふことに決心して居ります、今日もう是だけの人を殺し、是だけの金を使つて、中途半端で止めたところが仕方がないと云ふことは、皆能く了解致して、吾々は最後まで自由の為め独立の為めに戦はう、殊に大国が小国を圧すると云ふやうなことがあつてはならぬ、白耳義小なりと雖もヤハリ一国、人間の貧富に依つて権利に差等がない如く、国の大小に依つて差等が附かないやうにしなければならぬと云ふ精神を以てやつて居ります。皆様倫敦へお出の方は御覧でありませうが、蝋細工の人形、是も私は別に蝋細工の人形を見る必要はありませぬが、今戦時中英吉利人は如何なる事をして居るかと云ふことを見たかつたものですから、一日其蝋細工の人形へ這入つて見ますと、先づ眼に着くものは白耳義の中立の条約と云ふものをスツカリ其通に写して、本物ではないが、独逸・英吉利、皆白耳義の中立を保たうと云ふ条約に署名して書判がしてある、其書判のある所、玆に其大切なる箇条の所を書いて、其上へ朱を以てスクラツプ・ヲブ・ペーパー(Scrap of Paper)と記してある、独逸の外務大臣に対して英吉利の大使が白耳義の中立を守ると云ふ条約がありますから、どうぞ独逸が白耳義の中立を犯さぬやうにして下さいと主張したときに、独逸の外務大臣が、貴方はあのスクラツプ・ペーパー即ち反古の為めに、何故そんなに心配をなさるですかと云うた言葉が、是が抑々英吉利人並に世界の人を怒らせた本である、それで其事を蝋細工に表はして、日々数千の人に示して居る、それからロード・キツチナーの像を飾つて花輪を供へてあります、それから又キヤピテン・フライヤットの肖像にも花輪を供へてある、ナルス・カーヴェル即ち英吉利特志看護婦であつて、独逸人が密探だと云つて撃殺したものです、是にも花輪が供へてある、御承知の通キヤピテン・フライヤットと云ふ人は、商船に乗つて物を運びに行つたのを、潜航艇に襲はれて、一度は免れた、ところが独逸の方ではもう一遍捕へてやらうと云うて、再び来たときに捕へて、軍法会議に掛けて撃殺したと云ふのが非常に喧しい問題、商船に乗つて居る者を不当なる軍法処分に掛けて撃殺すとは何事だと云ふので、到頭英吉利の大問題となつて、英国総理大臣アスキス氏は、下院に於て此キヤピテン・フライヤットの処分が満足に解決する迄は、独逸は交際国の仲間に入れないと云ふ宣言をした、其キヤピテン・フライヤットを銃殺した責任者と云ふ者が満足に処罰される迄は、詰り平和は出来ぬことになりますが、平和回復すと雖、独逸を交際国の中に入れぬと云うて居る、さう云ふやうなものをチヤンと飾つてあります、さう云ふ風にして、総て人気が何処迄も戦争を継続して、挙国一致で行かうと云ふ精神が見えて居る、彼のサンライト・セーヴイング即ち太陽の光線を倹約すると云ふ法律、太陽の光線を倹約すると云ふのは、時計を一時間前へ繰下げると云ふことで、一時間だけ人間が早起をする訳になる、すると電気灯から瓦斯から総てのものが大変倹約が出来るから、一箇年には一国で二千万磅、即ち日本の二億万円倹約が出来ると云ふのです、此倹約法と云ふものが却々議会を通過しなかつたですが此度英国が行ひ、英国が行ひますと仏国でも行ふ行はぬと云ふ論がありましたが、丁度私が居ります時分に法律が実行になりまして、今晩
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は一時間繰下だと云ふので、吾々は丁度其晩夜業をして居りましたが十二時頃になつて、一杯飲まうではないか、未だ十一時だと云つて、時計を後へ戻してやつて居つたと云ふやうな訳でありました、伊太利でも行つて居ります、是などは一寸したことのやうですが、如何に人心が倹約と云ふことに注意して居るかと云ふことが分ります、又英吉利で以て自働車に渡しまする油と云ふものを非常に制限して居る、商売用の自動車などには油の制限はありませぬが、唯散歩の為めにドライヴすると云ふやうなものは、自動車の油を制限して、お前は大概此位走れば宜いと云うて切符を渡して置く、其以上に油を得ることは出来ない、又英国人はさう云ふことを黙つて能く守る、それから又先達て商業会議所でも申しましたが、戦時利益税法などゝ云ふ、一寸日本では行はれ悪いことです、戦争の為めに得た利益は、其三分の二を政府に納める、それはどうして計算するかと云ふと、即ち開戦前三箇年の利益を計算して、さうして其会社なり個人なりの毎年の利益から差引きます、さうすると戦争後に増した利益が出ます、それを戦争後に増した利益を見て、三分の二は政府に納めさせる、それは遡つて取ります、千九百十四年八月一日からと云ふやうに、チヤンと遡つて取る是などは却々日本で所得税の納り方から考へますと、六ケ敷いことでございますが、英吉利あたりの様子を見ますと、寔に国民の方から少しも隠さずに、自分は税が重くて甚だ困るけれども、法律は曲げることは出来ないと云うて、皆ドンドン納める、詰り戦争は国家の共同の難儀である、其一部の人が利益し、一部の人が損をして、或は命を捨てると云ふことはない、皆共同して戦争をしなければならない、殊に英吉利では、戦争は吾々の時代の戦争である、此戦争の費用を後世に遺してはならぬ、吾々が此戦争の費用を負担しなければならぬと云ふ所から、大蔵大臣に向つて、却て議員の方から増税を請求して、モツトお取りなさい、モツトお取りなさいと云ふやうな訳である、それ故に英国の戦争前の租税は二十億でありますが、戦時税は三十億掛つて居ります、是などは如何に人心が興奮して居るかと云ふことが分る。
 英吉利の皇帝に謁見致しましたのは、六月の二日であります、陛下が戦地からお帰りになつて、私は仏蘭西へ立つと云ふ場合で、非常に忙しいところを、井上大使に相談を致しました所ろが、それはどうもお忙しいから、迚も謁見は六ケ敷からうけれども、併ながら敬意を表することであるから、御都合は伺つた方が宜からうと云ふことで、外務省を経て御都合を伺ひましたところが、直ちにお許になつた、直に謁見を賜はると云ふことで、私始め委員一同が謁見を賜はりました、是などは、如何に英国の皇帝陛下が、軍国のことに御注意を遊ばされて、同盟国から来た者の待遇を大切に遊ばされるかと云ふことが分りますのであります、而も謁見の際は丁寧なる御勅語がございまして、井上大使にお話があり、又私にもお話があり、それから他の一行の者にも一々一寸したお話がありました、私に対しましては、経済会議の必要なること、独逸の遣方の横暴なることを滔々と御論じになり、どうしても独逸の横暴は軍事の行動に於ても制さなければならぬが、経済の上に於ても制しなければならぬ、独逸は最近五十年間に勃興した
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国であるが、英吉利は三百年の苦心を積んで出来上つた国である、其五十年の苦心を以て、三百年の苦心を破らうとするのは、独逸の遣方が甚だ無理だ、朕は独逸の屈するまでは断じて兵を熄めぬ、四股を踏んで滔々と数分間私にお話がありました、どうぞ君経済会議で宜しくやつて呉れと云ふお希望であります、実に御議論と云ひ御態度と云ひ又御音声と云ひ、万障繰合せて謁見を賜つて、さうして宜しく頼むと云ふお言葉と云ふものは、甚だ外国から使に参りました者としましては、感激せざるを得ぬのであります、及ぶ限りは一臂の力を添へませうと申上げるの外はない、此勢を以て始終戦線へもお出になり、英国の皇太子殿下の如きは、兵隊と一緒に毎朝調練をしてござるのですから、実に欧洲の今日の皇帝なり大統領なり、又総理大臣其他の人々の遣方と云ふものは、如何にも奮励努力、一に国難に殉ぜんとする様子は、実に感服に値するのであります。
 欧羅巴の戦況を申上げますと、是は却々面白いお話がございます、けれども此戦争のことは話が大分長くなりますから、申しませぬが、最後に此経済会議に就て、独逸の横暴々々と云ふことを欧羅巴で能く申しますが、どう云ふことが横暴かと云ふことが、定めしお尋があらうと思ひますから、此一端を申上げます、是は極く六ケ敷い訳である一方から見れば独逸が勉強したと見えますが、一方から見れば横暴と見えます、独逸は御承知の通、メルトン会社と云ふものを拵へて、世界中の工業に用ゐます大切なる原料を買占めに掛つた、同時に金属銀行と云ふものを造つて、其金属銀行から金を融通して、世界中にある工業上必要の金属を買占めやうと掛つた、現に日本からもモリブデン或はタングステンなどを殆ど買占に掛つて、何処へ輸出するのか知らぬと云つて居る中に、原料用の大切なる鉱物を安く買占めて、さうして製品にして高く売る、大事な原料を買占められると、其真似を余所の国ですることが出来ませぬ訳、それ故にもう印度でも濠洲でも、独逸人の持つて居る会社は皆買潰してしまつた、其他伊太利でも買潰してしまつた、それは独逸人の名で買へる山は独逸人の名で買ふし、独逸人の名で買へない山は、独逸人が帰化して買ふと云ふやうな手段を以てやつたのです、殊に伊太利の如き、伊太利商業銀行と云ふものがあつて、此商業銀行が甚だ振はぬやうになつて居つた、それを独逸から人を出して、伊太利銀行の整理をすると称して、スッカリ資本を増して、今では伊太利商業銀行と云ふものは伊太利中央銀行と勢力を競ふと云ふ位、各地にも支店がある、其銀行から伊太利の水力電気とか鉄道とか、汽船会社とか、何とか云ふやうなものに金を貸して、総て勢力は銀行へ収める、先づ水力電気が出来ると云ふと、独逸の士官が技師職工に交せつて、あの辺の水力を測量すると称して、尽く秘密の図を作つて持つて行つてしまふ、尚極端の例を挙げますと、或る印刷会社の振はぬものがある、すると商業銀行が其会社の社長を呼んで、お前の会社を改良してはどうだ、金があればどうか致したい、宜しいと云ふので、会社の資本を増した、さうして伊太利商業銀行が、自分の得意に向つて、どうぞ印刷はあの会社にさせて呉れと云うて、注文をさせたものですから、一株百円のものが百五十円、二百円と騰貴し
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た、騰貴すると伊太利銀行は其持つて居つた株を皆売つてしまつた、借金を引いて非常に儲かつた、さうして今度は注文をピタリと止めてしまつた、注文を止めたから、今まで二百円もした株が七十円とか六十円に下つてしまつた、すると又一方から手を廻して買取つて、又ドンドン盛に遣出すと云ふやうな遣方で、実に独逸は勉強には相違ないが、遣方の中にどうも一つの野心があると云ふことが、即ち此度の経済会議と云ふものを開かなければならぬ必要を生じたのです、私の宿りました巴里のはホテル・マゼスチツクでありますが、今の日本赤十字病院を開いて居つた巴里のホテル・アストリヤと云ふのは、欧羅巴の各地に二十余箇所もある、それで仏蘭西政府も巴里のホテル・アストリヤを没収しかゝつたですけれども、独逸人も考へて唯一人仏蘭西人を株主として居る、それが抗議をするものですから処分が極りませぬでしたが、実際は没収同様であります、露西亜もペトログラードのホテル・アストリヤを没収しました、巴里にあるホテル・アストリヤと云ふものは、凱旋門附近にありまして、其辺は五階以上の建築は許さぬことになつて居る、其処へ七階のホテルを造つたから、巴里の市長が上の六階・七階を壊させやうと云ふ中に、戦争が始つた、段々調べて見ると、煙突の中に無線電信が仕掛けてある、独逸皇帝の便殿と云ふやうなものが出来て居る、独逸皇帝が巴里に乗込んだときには、何時でも間に合ふやうな場所を拵へてある、之れは他の場所であるが或るレストウラントの床下には、鉄砲が一杯蔵つてあつたさうです、巴里へでも侵入したときに使ふ積りであつたものと見える、兎に角豪い仕掛です、而してホテル・アストリヤと云ふものは、一番勉強するから流行る、其ホテルが巴里で儲けて、儲けた金で仏蘭西の探偵に従事して居ると云ふ訳である、それから諸君御案内の独逸のベデッカーと云ふ旅行案内と云ふものは、各国から材料を取寄せて、日本からも色々なホテルから鉄道から人力車賃まで書いて送つたですが、それの大部分は参謀本部へ行つて、後が旅行案内となつて居ると云ふ訳ですから、皆各国から自分の国情を敵に知らせてやつたと云ふことになるベデッカーを造ると云ふことは勉強に違ひないけれども、さう云ふ危険な思想を包含すると云ふことは、どうも各国として堪へられぬ、日本は大変国が離れて居りますので、多少さう云ふことに就て憤慨の度が違ひますけれども、仏蘭西の如く国を接して居る所では、堪へられぬ、そこで以て今後再び独逸のやうな事をやられては困ると云ふので此後外国人に許す会社条例等は大分変るだらうと思ひます、前に申した金属の山を買占られることを防ぐ方法などを講じて居ります、けれども根本義としては、海関税をどうせ戦争の為めに、財政上已むを得ず引上げませうが、海関税を楯に余り自分の産業を保護すると云ふことは薄弱であると云ふ論です、是などは実に感服した論ですが、どうしても実力から養はなければいかぬ、全体独逸が経済上の力が強いから、此方が競争に負けたのだ、それを防ぐには吾々の経済上の力を強くすると云ふことをしなければならぬ、それが即ち巴里経済会議の決議第二項に掲げてある、聯合国が互に原料を供給して云々と云うたのは其処です、又国に依つては財政の整理の為めに海関税を引上ぐるで
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あらう、又特殊の産業を保護する為めに輸入税を課するであらう、それも宜しい、併ながら保護税と云ふものは、一の品物を保護する為めに他の品物が上るのであるから、それを楯にすると云ふことは第二義に考へなければならぬ、第一義は税に依らぬで奮闘するだけの力を持たなければならぬ、故に染物工場なり製鉄所なり、ドシドシ起すが宜い、斯う云ふ口吻でありました。
 段々お話が長くなりましたが、未だ申上げたいことは沢山ありますが、要するに前申上げますやうに、どうも日本は此度の戦争と云ふことに就ての決心が浮いて居るやうに、海外から見ると見える、政府に於ても中立を守るなら中立で宜しい、中立なら中立の態度がありませう、今日本は兎に角戦争に加入して、共に死生存亡を誓つて居る国である、玆に於て大和魂に欠けると云ふことになつてはならない、欧羅巴諸国に於てはどうも日本がもう少し働いて呉れさうなものだと云ふ考を始終持ちます、兎に角日本から英吉利に斯うして呉れ、あゝして呉れと、色々注文が来る、其輸出を禁じては困る、此輸入を禁じては困る、造船の材料が乏しい、何でも日英同盟日英同盟と喧しく云ふけれども、造船の材料を送つてやれば、今度は船を売りに来る、一方に材料がないと云ふから、材料を供給すれば、今度は船を高く売付ると云ふのは何事である、どうも日本人の遣方が分らない、斯う云ふ感じを持たれて居ります、是はどうも商売人が各儲けると云ふことは一向差支ない、何処の国でも商売人が儲けると云ふことは、誰も異存はない、儲かるときには儲けるが宜しい、唯前に云ふ、人の疲弊に依つて自分が儲けやうと云ふやうな――其処に已むを得ざる戦争があるから儲かると云ふのは構はぬが、人の不幸を喜ぶと云ふ念を以て、儲けてはいけない、詰り名義を正し、誠意で儲けると云ふ決心がなければいけない、それで私の視察した所に依りますれば、日本が今少しく誠意を以て、此共同の敵に当ると云ふ決心を以てしたならば、商売上まだ大なる利益を得られる、日本に対する安心を有し、日本に信頼し、リンコルンの所謂人を疑ひ人を猜む者は、如何なる場合に於ても人を助けしことなし、詰り自分が縁の下の力持になりはしないかと云ふやうな、始終疑を以て仕事をすると云ふことは間違である、又仏蘭西国民が嘗てフランクリンに答へたやうに、報償を求むる為めに戦闘に加入はせぬ、報償と云ふものは自然の結果附いて来るものである、それを求める為めに血を流すと云ふことは、間違つて居る、私の云ふのは決して利益を捨てろ、何を捨てろと云ふ意味ではありませぬ、精神的誠意と云ふものが人間にない以上は、一家の経営に於ても、会社の経営に於ても、決して行けるものではないと云ふことは、屡々青淵先生より聴いたことより深く感じました、ヤハリ今日一国の存亡を賭して既に塞爾維の如き、白耳義の如き、将に亡国たらんとして、尚戦つて居ると云ふやうな場合に於て、汚い根性を以て、此仲間に這入ると云ふことは間違つて居る、それなら這入らぬ方が宜い、此観念が日本に居る人と、海外に居る者と、頗る相違致す様に思はれます、恐くは私の感じましたことは、竜門社の主義綱領に一致するであらうと考へる即ち此点は、青淵先生並に玆に御列席の各位の御判断に任すの外はあ
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りませぬが、私はさう感じまして、どうぞ日本が此時局に於て、潔い戦争をし、潔い結果を得、そうして大に国威を揚げ、国利を進めると云ふことでなければならぬ、外交に於て信義を失し、人を欺き、人を殴つて知らぬ顔をして居るやうな、若し外交の仕方であつたならば、それは間違つて居る、信義と云ふものがなくては、到底最終の勝利は得られるものではない、又最終の利益を得られるものではない、よしんば得られても、それは汚れた利益であると深く感じた次第であります、甚だ長々と御清聴を汚しましたことを感謝致します。(拍手)


竜門雑誌 第三四四号・第三〇―三一頁 大正六年一月 ○竜門社評議員会に於て 青淵先生(DK420101k-0003)
第42巻 p.563-564 ページ画像

竜門雑誌  第三四四号・第三〇―三一頁 大正六年一月
    ○竜門社評議員会に於て
                      青淵先生
  本篇は、昨年十一月十一日午後五時より、帝国ホテルに於て開かれたる、本社評議員会講演会に於ける、阪谷男爵の欧洲戦争視察談に対し、青淵先生が挨拶かたがた述べられたる意見なりとす
                         (編者識)
竜門社評議員の御会合に、斯く多数の諸君とお目に掛かることを、私は甚だ愉快に存じます、阪谷男爵の重大なる使命を帯びて、欧羅巴を旅行して此程無事に帰朝され、今夕其旅行談を諸君と共に承りましたのは喜に堪へぬのであります、殊に男爵から、此戦争に就て自国の利益を増加すると云ふことは、吾々竜門社員の平素主眼とする、人道と経済との背馳せぬ様に努めねばならぬといふ趣旨を、諸君に向つて深く注意せられたのは、私は実に大切なことゝ承りましてございます、昨年私も亜米利加に旅行して、二・三箇所の宴会で、亜米利加の多数の実業家に向つて演説しましたのは、只今阪谷男爵の意見と、全く一致して居ると思ひます、現に欧羅巴の戦乱は、如何にも亜米利加に利益を与へつゝあるので、諸君は喜びを以てこれを迎へるでござらうけれども、併し亜米利加人の正義を貴び、人道を重んずる気象から、此利益ある為めに戦争が長かれと望む人は、亜米利加には絶無と申して宜からうと思ふと断言しましたが、其時集会した人が、総てさう思うたかどうか分りませぬ、元来日本人の常として、忠君愛国、若くは武士道は我国民性の特有である、欧米の国民は個人的思想の発達から、利己主義が多い、これに反して、吾々は国家観念が強い、それが即ち日本魂だと云ひ居るのでありますが、段々英仏其他の国々の実状を承つて見ると、忠君は兎も角も、愛国といふに至つては、日本ばかりの専売とは言ひ得ぬやうに思ふ、現に今夕阪谷男のお話に較べると、目下の我国民の状態は或る点に於ては、心憂く感ずることがあると思ふのでございます、不肖ながら私は、世の進歩は物質的文明を進めねばならないと云ふ方針にて、四十余年拮据経営して自分の力は甚だ微弱でも、世間は大に発展したやうである、而して其発展に伴ふて、或は古来の武士道とか、日本魂とか云ふものは、多少減退を来しはせぬか果して然りとするならば、今日盛大と喜び進歩と感じて居ることが、焉ぞ知らん、将来の日本は唯人慾のみに充たされて、其知識の進めば進むほど、貪慾の念が増長し、罪悪が多くなつたならば、実に恐ろし
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いことを憂へるのでございます、故に今日私は実業界を去りましても微力の続く限りは、どうぞ此道徳経済の一致を図つて行きたいのでございます、独り内心にそれを企図するのみならず、広く天下に此主義の行はれるやうに致したいと観念して居るのであります、而も其事実が頗る範囲の広い、欧米諸国に比較して、只今阪谷男爵から、詳細にお話下すつたことは、所謂他山の石が吾々の珠を磨くのか、又は他山から持つて来た珠が吾々の石を磨擦して呉れるのか、真に好個の刺撃と思うて、深く感激したのであります、満場の諸君も定めて同様にお感じなされたことゝ思ひます、此観念は独り吾々竜門社の一団体のみならず、日本全国に行渡るやうに致したいと望むのであります、阪谷男爵の談話が至極同感である為めに、私の平常の主義を一言申添へたのでございます。(拍手)