デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
5節 修養団体
1款 財団法人竜門社
■綱文

第42巻 p.587-593(DK420103k) ページ画像

大正6年2月2日(1917年)

是日、当社評議員会、帝国ホテルニ於テ開カレ、引続キ論語年譜編纂関係者慰労晩餐会催サル。栄一出席シテ意見ヲ述ブ。


■資料

渋沢栄一 日記 大正六年(DK420103k-0001)
第42巻 p.587 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正六年          (渋沢子爵家所蔵)
二月二日 晴 厳寒
○上略 午後六時帝国ホテルニ抵リ、竜門社評議員会ニ出席ス、三上・林博士連来会シテ、論語年譜ニ関スル演説アリ、余モ一場ノ意見ヲ述フ十時過散会 ○下略


竜門雑誌 第三四五号・第一〇二―一〇三頁 大正六年二月 ○本社評議員会 論語年譜編纂諸氏慰労会(DK420103k-0002)
第42巻 p.587-588 ページ画像

竜門雑誌  第三四五号・第一〇二―一〇三頁 大正六年二月
    ○本社評議員会
      論語年譜編纂諸氏慰労会
 本社評議員会は二月二日午後五時より帝国ホテルに於て開かれたり評議員会長阪谷男爵、会長席に着きて開会を宜し、幹事八十島親徳君先づ大正六年度収支決算を報告して満場の承認を得、次に入社希望者の諾否を諮りたるに、是れ又満場一致原案通り入社を承認することに決せり。次て阪谷男爵は述べて曰く
 評議員会閉会後、論語年譜編纂に尽力せられたる諸氏の慰労晩餐会を開き、之が終りますと、論語年譜を編纂せられた博士の方々から其編纂の経過、並に論語に就ての御意見をお話し下さる筈であります。又青淵先生もお出になつて居りますから、夫れに就て評論もあることゝ存じます。
目下世界は切迫した時局になつて居りますが、今後日本に於ては益益竜門社の主義綱領に基いて、愈々商業上の道徳を進めて行かねばならぬ必要ある事は勿論であります、夫れに就ては支那の実業家であるとか、或は其他の人々が来られた場合には、日支実業家の接近を図ります為めに、成べく日本語の出来る人々に出て貰ひまして、色々コチラの意見も述べ、先方の意見をも承ると云ふ機会を作ると云ふことは、最も必要であらうと思ひます。支那公使が赴任せられたならば、本社に於て御招待して晩餐を共にし、顔を見合つて居る中には、自然東洋問題に付て有益な話も出ませうし、又将来日支相提携して行く上にも、お互に顔を知合つて居れば、意志の疏通を円滑にする便もあらうと存じます。又東洋問題に就ては、亜米利加と交渉を要する事も御座いませう。故に日支の接近を図ると同時に、日米の親善をも図らなければならぬ。亜米利加の有力者とも相互に知合つて、名前を覚えて置くことは必要であらうと思ひますから、時々さう云ふ会合を催して、普通の国交の外に、商業上の国家的発展策を加味する方針を執りたいと云ふ考を、幹事並に評議員会長は持つて居ります。一応皆様の御意見を仰有つて頂きたい。試みた上で面白くなければ廃めても宜しう御座います。
 - 第42巻 p.588 -ページ画像 
阪谷男爵の提議は満場一致にて可決し、是れにて評議員会を閉ぢ、別室に於て、論語年譜編纂諸氏の慰労晩餐会を開きたり。来賓及出席者は左の如し
 青淵先生
    来賓
 文学博士 三上参次  文学博士 林泰輔
 中村久四郎  和田英松  萩原拡  久米卯之彦
    評議員(イロハ順)
 井上公二   石井健吾     土岐僙
 尾高次郎   大川平三郎    高松豊吉
 植村澄三郎  上原豊吉     八十島親徳
 山口荘吉   男爵 阪谷芳郎  佐々木勇之助
 渋沢義一   清水釘吉
    前評議員(イロハ順)
 服部金太郎  男爵 穂積陳重  山田昌邦
 斎藤峰三郎  佐々木清麿    佐々木慎思郎
 桃井可雄
    会員
 渋沢正雄   穂積重遠     阪谷希一
 野口弘毅   増田明六     白石喜太郎
 矢野由次郎
晩餐後林博士・三上博士及青淵先生の演説(追て本誌掲載)ありて散会したるは十時過なりき。


竜門雑誌 第三五二号・第五一―五二頁 大正六年九月 ○青淵先生の謝辞(本年二月二日於林博士等招待会)(DK420103k-0003)
第42巻 p.588-589 ページ画像

竜門雑誌  第三五二号・第五一―五二頁 大正六年九月
    ○青淵先生の謝辞
            (本年二月二日於林博士等招待会)
 評議員長及び御出席の博士、満場の諸君、私の七十七の齢を重ねたに就て、竜門社の諸君が申合せて論語年譜をお作り下すつて、私の寿を賀する為にお贈りなされたと云ふことは、此上もない喜ばしいことでございます、何よりも嬉しく頂戴を致して居ります、唯不幸にして当日は病気の為に、其席に参列が出来ませぬで、親しくお請を申上げ得られなかつたのを遺憾と致します。其中気候の好い時に、御答礼の為に、自分よりも諸君をお招待して、心ばかりの答礼を致さうと思ふて居ります。今夕は又其編纂に関する事柄に於て、林博士を始めとし御援助せられた三上博士・萩野博士、其他の諸君のお出を戴いて、御慰労の宴を開き、宴の終つた後に、編纂に付てお骨折の廉々を、私も共に伺ふことの出来ると云ふのは、最も愉快に存ずるのであります、而して其事は能く記憶に留めたいと思ふて居るのでございます、私が七十七の齢を重ねたに就て、諸方から賀詞を下すつたり、心を籠めた品物を贈つて下さる人もございますけれども、斯う申すと如何でありますが、私の心には論語年譜を戴いた程有り難いとは、正直思ふて居りませぬのであります。玆に一例を申上げますと、余計なお話になりますけれども、博文館で発行する生活と云ふ雑誌があります、主とし
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て社交のことを記載するのでありますが、其記者が頃日私の処へ参つて、家の宝は何かと尋ねられました、宝とは一体何を云ふのかと問ふて見ますと、例へば金銀も宝である、骨童品・金盃乃至鎧とか槍とか云ふものを意味した問でございましたから、私が答へたのは東京に住居してから五十年の歳月を経るから、相当なる家財もありますけれども、生憎趣味が無い為に、宝と思ふ物品は一つもない、故にこれを宝とするといふお答は出来ぬ、併し強て求めらるれば一つある、それは大学の章句を以て宝とする、大学に、楚書曰楚国無以為宝惟善以為宝と云ふことがあるが、私は唯至誠を以て宝とする、今日より二十年程も以前であつたが、家族の者に私の履歴を話したことがある、其履歴談の初に、私が序文を書いて、其結末に「ゆづりおくこのまこゝろの一つおばなからむあとのかたみとも見よ」と云ふことを述べて置いた之が即ち私の家の宝である、蓋し惟善以為宝、の意味であると答へたことがございます。記者は更に何か品物で示して呉れと云ひますから台所道具まで教へたら却々に云ひ尽せぬが、それは宝とは云へぬ、唯一つある、故徳川興山公から拝領した屏風がある、それが私の家宝であると、其由縁をも説明した、然るに近日其雑誌を見ると、大層其談話を敷衍して書かれたやうである、然るに此論語年譜を得ましたから私の家に又一つ宝が殖えた、私は此年譜をも屏風と共に貴重なる宝とする、惟ふに家宝なるものは物質上からも、精神上からも言ひ得るのでございますから、大学にある惟善以為宝と云ふことゝ、興山公から頂戴した屏風と、二つ合せたものが論語年譜であると申しても、決して附会の言ではなからうと思ひます。此心を以て論語年譜を大切の家宝と致すと云ふことを、竜門社員諸君に声明すると同時に、御編纂なされた博士諸君にも申上げるのでございます。それから尚一つ申上げたいのは、私は唯論語の抜き読をしたゞけで、博士連の前で私が論語を読んだとは申されませぬが、朱子の序文によりて評するならば、一両句を得て喜ぶ者であらう、是から此年譜によりて、追々に歩を進めて、遂に手の舞ひ足の踏むを知らざる者になりたいと思ふのでございます。是も即ち此宝を得たる効果と思ひますると、如何に竜門社諸君の此企が私に喜を与へ、私の幸福を増進して下すつたかを感佩するのであります、而して私は此心を以て御編纂なされた博士、諸君にも御礼を申上げます。(拍手)
  ○林泰輔ノ「論語年譜編纂に就て」ノ演説筆記ハ本資料第四十一巻所収「論語年譜ノ編纂」大正五年十一月二十六日ノ条ニ収ム。


竜門雑誌 第三五二号・第四六―五一頁 大正六年九月 ○林博士招待会に於て 青淵先生(DK420103k-0004)
第42巻 p.589-593 ページ画像

竜門雑誌  第三五二号・第四六―五一頁 大正六年九月
    ○林博士招待会に於て
                      青淵先生
  本篇は、本年二月二日、帝国ホテルに於て、論語年譜編纂主任林博士其他関係諸氏の慰労会開催の席上に於ける、青淵先生演説なりとす(編者識)
 別段申上げる程のことを蓄へて居りませぬ、唯有難いと一言申上げるに過ぎぬけれども、私が従来論語に対せし観念を、幸に先生方の御
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会同に付て、聊か繰返して見るのでありますし、殊に林先生などには親しく申上げたことはございませぬから、斯かる場合に一言を述べて御教示を願ふのであります、論語読みの論語知らずと云ふ古諺は、三上先生も唯今仰しやいましたが、私も田舎で少年の時父に能く言はれて、苟且にも論語も素読したではないか、論語読み論語知らずは困るぞと、或は業体に不勉強であるとか親の命令を能く聴かぬとか、又は不行状のことでもあれば、互に論語読みの論語知らずの一語を以て、訓誡を与へられ、頗る恐縮して反省した場合も少くなかつたのであります、併し其頃大学・中庸・論語・孟子を四書として、重要の経書と推尊しながら、大学にも中庸にも同様の古諺がなくして、独り論語にのみあるは如何なる理由であるかとの疑問を持て居りました、然るに今日能く熟考すると、論語は他の三書と少し引離して見るのが宜いやうに思ひます、論語とても矢張治国平天下の教旨を含む処が多いから士大夫以上の読むべきものとして、四書中に編入せしならむも、学庸とは全く其趣を異にして居る、中庸も大学と違ふて必ずしも治国平天下ばかりを論ぜずして、特に深遠なる哲理を説いてある、孟子に至りては全く王道覇道の差別を論じ、或は性善養気又は四心四端の説など挽ふ自家の主張を詳論するのである――彼の梁の恵王篇でも、斉の宣王篇でも、多くは国を治め天下を平かにすることを論ずるに在りて、同じ士大夫以上の学ぶべき学問と思はれる、そこで私が故郷に居る時に、論語読みの論語知らずと云ふ訓誡は何故であるか、又他の三書に其諺なきは如何なる理由であるか、論語が左程民間に尊重すべきものであるか、と幾分か論語の意義を了解し得るに至りて、論語は士大夫以上の読むべきものであつて、同時に亦中人以下の人も日常適用し得べきものであると云ふ疑問を持つた。其後は例の尊皇・討幕・攘夷・鎖港と云ふやうな時代の流行に感染しましたから、論語の講義どころではない、まるで反対の行動をしまして、遂に一橋公の家来になつて卑しい吏員たりしと雖も、矢張治国平天下の初歩下級に在る積りで、到底此天下は大に乱れるであらう、其時に処するのは、如何なる心念を持つが宜いかと自問自答はしましたが、論語に考案を及ぼすと云ふことはなかつた、唯幼年の時に読ませられた事を記憶して居つたから時々に思ひ回したに過ぎぬのであつた、私は銀行者となるに付て、始めて此論語と云ふものを重んずべき観念を起したのである。是は度々お話したのであるが、玉乃世履といふ人が、私が官を辞したに付て甚く之を惜みて、必ず将来を誤るであらうと懇ろに忠告して、仮令官を辞したにもせよ、錨銖の利を争ふ所の商人をば止めたが宜からうとまで云ふて呉れました、其時私は深く自ら決心して、今三上先生のお話もございましたが、彼の趙普のことを引証して、烏滸がましいが趙普は論語の半部を以て宋の太祖を助けて天下を定め、半部を以て太宗を助けて太平を致したと云ふが、私は論語を以て銀行を経営し、同時に一身を臨めて御覧に入れますから、長く見て居つて下さい、決して過言ではありませんと、真にさう思ふたから断言したのであります。此時に論語を四書中より引離して日常の処世に適応する書物であると解釈した。殊に孔夫子が自己の事を談ずを場合は、学問的に論ずるとか
 - 第42巻 p.591 -ページ画像 
哲理を説くとか云ふでなくして、其間に時々大に考ふべきことが多い様に思はれる。第一学而篇の初め抔は、唯修身ばかりでなく、自己の覚悟を言ひ顕はした大文字と思はれる、私も其始めは左程に感じませなんだが、段々先生方の講義は聴くにつけて、成程三段に区別した説明は、真に適切のものだと思うて、今日も服膺して、人は斯くこそありたいものと企望して居ります、要するに、論語は一般の人の日常のことに就て、必要なものだと云ふことを感得した、故に甚だ浅学でございますけれども、日々の処事接物の尺度として、論語には如何に教へてあるかと云ふことを研究して、決案を立てると、其措置を誤らぬやうに思ふ、独り誤らぬどころではなくそれが自己の安心となる、此論語の教ふる所、或は読んで充分に其意を尽さぬ所は、二度も三度も読み返して益々趣味を増すやうになつて、単に銀行業の経営に付て標準となるばかりでなく即ち処世の指南車と思ふて居るのであります。
 孔夫子の七十三年の一生を、林博士及他の先生の御尽力によりて、現に論語年譜の調査の如くに、順序的に研究する工夫があらうと思うて居る、それに就ては、今日まで先生方に御質問をして見ませぬが、例へば史記の世家に、孔子が魯の昌平郷の陬邑に生れて、幼時は常に爼豆を陳ね、礼容を設けたと云ふが、其成長時代はどう云ふ境遇であつたか、夫から委吏となり司職吏となり、又周に適いて礼を老子に問ふとあるけれども、其時は幾歳位であつたか、其修学の始めは如何様にて就職せしやは何等の意見なりしや、精密とまでには分らぬでも、孔夫子の生涯をもう少し詳しく調べて見たならば、其心事が能く分るやうになりはせぬか、而して其心事が分り得るならば、此論語と対照して、斯る場合に斯う言はれた、斯う云ふ境遇の時此言があつたと云ふことが、一層能く判るであらうと云ふ希望を持つて居つたのであります。朱子の註釈に依つても、概略の行動を察することが出来る、彼の少正卯を誅したときなどは、却々其勇気が見受けらるゝ、又正しくして犯すべからざるは、斉人婦女楽、季桓子受之、三日不朝、孔子行、と云ふやうな所を見ると俗に云ふ厳格にして見切の早い人のやうでもある、さらばと云うて、魯の国を去るときには遅々として行くとありて、少しく決断のつかぬ行動のやうである。故に其履歴行状若しくは他の背景を丁寧に調べて見たならば、其実状が明瞭になりて、更に深い意味を発見することがありはしないかと思ふのであります。蓋し論語は孔夫子の世に処したる、日常の事を記録したのであるから、誰であつても斯る時は此様にと孔夫子の行動に毫も違はず、或る場合の広い範囲に応ずるとか、其守るべき所は必ず守ると云ふやうに、人々皆為し得たならば、大小の差はあるとも、尽く孔夫子だけの人にはなれる筈である、嘗て故人福地桜痴居士が孔夫子と題せし小冊子を以て孔子の生涯を概論したことがある、其色々と論じた中に、孔子は学問的に極めて窮屈に論じた場合もあり、又は世事を茶にして風雅に評したこともある、現に子路・曾哲・冉有・公西華侍座の章に、莫春者、春服既成、冠者五六人、童子六七人、浴乎沂、風乎舞雩詠而帰、といひし曾点の言に付て、夫子喟然歎曰、吾与点也。と賞讃されし所などは春着が出来て箱根辺へ入湯し、新浄瑠璃を作り、遊楽して帰つたのだ
 - 第42巻 p.592 -ページ画像 
と言ふた。
 夫から其評の結末に、孔子は政事家として魯国を始め他の諸国を遊説し、道行はれずして六十八歳で遂に魯国に帰つて来て、玆に始めて政界を断念して、もう政事はいけないと云うて、始めて教育専門となつたのである、故に孔子は大悟徹底は甚だ遅かつた人であつたと、諧謔的に批評しました。福地氏の此評語は、自己の経歴を回護する為め累を孔夫子に及ぼした様に見えますけれども、併し孔夫子は至誠忠実にして、事務に熱心なるも不遇に終りし人であつたらうかと思ふ、夫等の事も秩序的に研究して見たら、余程面白い事が見出し得るかと思ひます。夫から私の一疑問とするのは、只今林博士の御演説にもありましたが、論語が左様に人に愛読されると云ふのは、論語其者が稀有の好書たるゆへであるか、或は孔夫子の人物の偉い所から自然と永く世人に尊重されるのであるか、是も又研究せねばならぬと思ふ、孔夫子の春秋を作られたことなども、彼の筆誅が寔に其宜しきを得たと云ふならば、孔夫子の説く所は家庭夫婦の間にまでも、緻密に行届くと同時に、当時の天下の大政も是を是とし、非を非として、一言以て天下の法となりて、千載の模範と為し得るやうに見えます、又其他にも詩書易礼記などゝいふ、所謂学問的の研究が、どれ程まであつたのか是等の点に就ても、充分の調査を望む、吾々論語を読むだばかりでは孔夫子の学殖が、どれ程深遠であつたかと云ふことを知り得ることは出来ませぬ、幸に林博士の如き、此論語年譜をお作りなされた先生が更に一歩進んで、孔夫子の一代記に就て、綿密に研究せられたならば実に面白く思ふのであります、併し此問題は、今夕之を確定してお願ひすると云ふまでに言ひ得られぬけれども、論語二十篇に就て先生から斯く専門的のお話を承ると云ふことは、日本人中では、私が第一であつて、斯く論語に因縁が深いから、どうぞ社会の人々に、広く論語主義を伝へたいと、自分が論語の代表人のやうに自任して居るのであります。竜門社の諸君が、論語年譜を作つて私に下さつたと云ふことは、必ず此年譜に添ふ御精神がなくてはならぬ。年譜は年譜、論語読みの論語知らずで居らるゝことは出来まいと思ふのでございます。私は是から先の仕事をば、孔夫子の魯へ帰つた年より数年を超へて居りますから、大なる期待は出来ませぬが、併し諸君は此論語に趣味を持つばかりでなく、論語にある要道を行つて下さるであらうと思ふ、私はそれを喜ぶと同時に、若しも先生方に恰好なる方法があるならば、既に此年譜に於て大に講究されてある、尚ほ御研究なされて孔夫子の一代を、此場合は斯うである、彼の事柄は之に応ずると云ふ確証を挙げて下すつたならば、実に満足するのであります、是は或は隴を得て蜀を望むものかも知れませぬが、希望として玆に申述べ置くのでございます。
 特別に論語に対する感想はございませぬが、始め私は論語をば政治的書籍と思つたのが、銀行者となるに就て、凡人の日常処世に必要なるものと考へたのは、今日より思ふても、間違はなかつたのである、而して此好書に依つて、四十余年の間大過失なきを得たのは、即ち孔夫子のお蔭だと有り難く思ふて居ります。而して此大切なる経典が、
 - 第42巻 p.593 -ページ画像 
本家の支那では段々衰微するに反し、我邦に於て斯く隆盛となつて、然も今日竜門社の諸君から、論語年譜を寄贈せらるゝと云ふことは、単に此年譜に止まらずして、向後論語が竜門社員に依つて、益々発展する運命を持つことゝ思ふと、私は孔夫子に対する一の忠臣となり得るかと喜ぶのであります、どうぞ竜門社諸君も、此論語をして、唯之を文学的学究的に読まるゝのみでなく、処世の好書として実用せられむことを希望致します。(拍手)