デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
5節 修養団体
1款 財団法人竜門社
■綱文

第42巻 p.681-690(DK420112k) ページ画像

大正8年11月9日(1919年)

是日、当社第六十二回秋季総集会、飛鳥山邸ニ於テ開カル。栄一出席シテ演説ヲナス。


■資料

竜門雑誌 第三七八号・第三六―三九頁 大正八年一一月 ○竜門社秋季総集会 附評議員会(DK420112k-0001)
第42巻 p.681-684 ページ画像

竜門雑誌 第三七八号・第三六―三九頁 大正八年一一月
    ○竜門社秋季総集会
        附評議員会
 本社第六十二回秋季総集会は、十一月九日午前十時より、王子飛鳥山曖依村荘に於て開かれたり、是れより先き、荘内晩香廬に於て、本社第二十六回評議員会を開き、先づ評議員会長阪谷男爵、会長席に着かれて開会を宣し、幹事石井健吾君、第一号議案入社申込者諾否決定の件(会員名簿追加の部参照)及会員中種別編入替希望申出者諾否の件を附議したるに、満場一致原案通り可決し、是れにて評議員会を閉ぢたり、当日の出席評議員は左の如し
                       (いろは順)
 石井健吾君      堀越善重郎君
 穂積重遠君      土肥脩策君
 植村澄三郎君     増田明六君
 阪谷男爵       佐々木勇之助君
 清水一雄君      諸井四郎君
 当日は曇天にて、空合甚だ怪しかりしに拘らず、定刻には来会者三百有余名に達し、振鈴を合図に講演場を開かれ、幹事石井健吾君の開会の辞あり、次いで法学博士添田寿一氏の『欧米視察談』(追つて本誌掲載)あり、最後に青淵先生の講演ありて後、阪谷男爵より山鹿素行の中朝事実を引用せる警告的挨拶あり、之れにて講演場を閉ぢ、園遊会に移れり、例に依り、生麦酒・煮込燗酒・天麩羅・蕎麦・寿司・団子・甘酒の摸擬店を開き、帝国劇場管絃楽部の奏楽裡に、或は庭園を逍遥し、或は杯を挙げ、満庭款談笑語湧くが如く、和気靄々興の尽くるを知らず。折柄響く振鈴は余興の開始と知られたり、かくて豊田旭嬢の筑前琵琶、高砂屋富士松一座の小品喜劇数番あり、各自歓を尽して三々伍々帰途に就きたるは午後三時過なりき、当日の来賓及来会者は左の如し
 - 第42巻 p.682 -ページ画像 
△来賓
 青淵先生      同令夫人
       法学博士添田寿一君
△特別会員(イロハ順)
 石井健吾君   伊藤登喜造君  池田嘉吉君
 一森彦楠君   原胤昭君    長谷見次君
 西田音吉君   堀越善重郎君  同令夫人
 星野辰雄君   穂積重遠君   堀江伝三郎君
 堀内明三郎君  土肥脩策君   豊田春雄君
 利倉久吉君   大野富雄君   大橋光吉君
 尾高幸五郎君  大原万寿雄君  渡辺嘉一君
 渡辺得男君   脇田勇君    川村桃吾君
 鹿島精一君   片岡隆起君   神田鐳蔵君
 柿沼谷雄君   金子喜代太君  吉野浜吉君
 吉岡新五郎君  横山徳次郎君  吉池慶正君
 田中太郎君   高橋波太郎君  高松録太郎君
 多賀義三郎君  滝沢吉三郎君  高根義人君
 田辺淳吉君   高橋金四郎君  坪谷善四郎君
 塘茂太郎君   中井三之助君  中田忠兵衛君
 中川知一君   中村鎌雄君   永野護君
 武藤忠義君   植村澄三郎君  植村金吾君
 浦田治平君   野口半之助君  倉沢賢治郎君
 久住清次郎君  日下義雄君   山口荘吉君
 山本久三郎君  八十島樹次郎君 矢野由次郎君
 安田久之助君  簗田𨥆次郎君  松平隼太郎君
 丸山誠之助君  前原厳太郎君  松谷謐三郎君
 増田明六君   福島甲子三令夫人 福島宜三君
 小林武之助君  河野通君    小林武彦君
 手塚猛昌君   浅野泰治郎君  安達憲忠君
 麻生正蔵君   阪谷芳郎君   佐々木勇之助君
 佐々木清麿君  佐田左一君   佐藤正美君
 斎藤章達君   湯浅徳次郎君  清水一雄君
 渋沢武之助君  渋沢正雄君   渋沢義一君
 白石甚兵衛君  白石喜太郎君  下野直太郎君
 肥田英一君   弘岡幸作君   諸井四郎君
 諸井六郎君   桃井可雄君   鈴木善助君
 鈴木清蔵君   鈴木紋次郎君  鈴木金平君
△通常会員(イロハ順)
 石田豊太郎君  石井与四郎君  伊藤寛治君
 石川政次郎君  板倉甲子三君  伊藤英夫君
 伊沢鉦太郎君  家田政蔵君   井田善之助君
 磯村十郎君   井出轍夫君   蓮沼門三君
 浜口嘉一君   萩原英一君   橋本修君
 林興子君    坂野新次郎君  林広太郎君
 - 第42巻 p.683 -ページ画像 
 西正名君    西潟義雄君   堀口新一郎君
 星島米治君   友野茂三郎君  東郷郁之助君
 土肥東一郎君  斗ケ沢純也君  時田友次君
 豊田喜重郎君  都丸隆君    岡田能吉君
 大畑敏太郎君  太田資順君   尾高豊作君
 岡崎寿市君   岡本亀太郎君  織田槙太郎君
 岡原重蔵君   岡崎惣吉君   小沢清君
 大平宗蔵君   奥川蔵太郎君  織田磯三郎君
 渡辺轍君    金子四郎君   川口寛三君
 上倉勘太郎君  河崎覚太郎君  神谷新吾君
 金沢求也君   金沢弘君    金古重次郎君
 阿見卯助君   神谷岩次郎君  吉岡慎一郎君
 吉岡仁助君   横尾芳次郎君  高橋森蔵君
 高橋毅君    俵田勝彦君   田中寿一君
 田島昌次君   武笠達夫君   玉木真君
 田村叙卿君   高橋光太郎君  田子与作君
 玉虫貞介君   高山金雄君   高橋毅一君
 竹島憲君    塚本孝二郎君  堤真一郎君
 蔦岡正雄君   長井喜平君   中山輔次郎君
 中正一郎君   中島徳太郎君  内藤太兵衛君
 中西善治郎君  中村新太郎君  中村習之君
 武者錬三君   村山革太郎君  村松秀太郎君
 上野政雄君   宇賀神万助君  梅津信夫君
 浦田治雄君   上田彦次郎君  生方祐之君
 久保幾次郎君  黒沢源七君   桑山与三男君
 熊沢秀太郎君  九里真一君   紅林英一君
 山下三郎君   山村米次郎君  山口乕之助君
 山本宣紀君   八木仙吉君   矢崎邦次君
 八木安五郎君  松本幾次郎君  松園忠雄君
 松村五三郎君  松田兼吉君   松井猛三君
 松村修一郎君  松村繁太郎君  福本寛君
 藤木男梢君   福島三郎四郎君 小林茂一郎君
 河野間瀬次君  小林清三君   近藤良顕君
 近藤進君    小山平造君   小熊又雄君
 小島鍵三郎君  江原全秀君   江口百太郎君
 有田秀造君   阿部久三郎君  粟生寿一郎君
 綾部喜作君   赤萩誠君    明楽辰吉君
 佐々木哲亮君  桜井竹蔵君   桜井武夫君
 斎藤捨蔵君   佐野金太郎君  佐藤林蔵君
 斎藤又吉君   座田重孝君   木村金太郎君
 木村亀作君   木村弘蔵君   北脇友吉君
 木下憲君    木村弥七君   湯浅泉君
 湯浅孝一君   御崎教一君   箕輪剛君
 水野豊次郎君  三輪清蔵君   三上初太郎君
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 清水鑙君    柴田房吉君   塩川薫君
 塩川政巳君   島田哲造君   清水景吉君
 篠塚宗吾君   平賀義典君   平岡五郎君
 平塚貞治君   両角潤君    森谷松蔵君
 関口児玉之輔君 鈴木順鑙君   杉山斎五君
 鈴木房明君   鈴木富次郎君  鈴木勝君
 鈴木正寿君   鈴木豊吉君   鈴木源次君
 尚ほ当日会員諸君其他より左の如く寄附を辱うせり、依て玆に厚く各位の御芳志を感謝し、併せて之を誌上に録す
 一金弐拾円也       男爵 穂積陳重君
 一金拾円也           堀越善重郎君
 一金五円也           星野錫君
 一金拾円也           大川平三郎君
 一金弐拾円也          神田鐳蔵君

 一金拾円也           田中栄八郎君
 一金拾円也           植村澄三郎君
 一金弐拾円也          山田昌邦君
 一金拾円也           浅野総一郎君
 一金参拾円也          佐々木勇之助君
 一金弐拾円也       男爵 阪谷芳郎君
 一金弐拾円也          東京印刷会社君
 一生ビール百リーター シトロン一箱、瓶詰一ダース 大日本麦酒会社殿
        以上


竜門雑誌 第三八六号・第一一―一六頁 大正九年七月 ○竜門社秋季総集会に於て 青淵先生(DK420112k-0002)
第42巻 p.684-688 ページ画像

竜門雑誌 第三八六号・第一一―一六頁 大正九年七月
    ○竜門社秋季総集会に於て
                      青淵先生
  本篇は、大正八年十一月九日、曖依村荘に於て開きたる本社秋季総集会に於ける、青淵先生の講演即ち是れなり(編者識)
 竜門社の秋季の総会に当りて、多数の御来会諸君にお目にかゝることを愉快に存じます。他の来客のあつた為めに、会場への出席が後れて、添田博士の大演説を全部拝聴せなんだのは、甚だ残念でございます。同君の今般の御旅行は、阪谷男爵と私とは大に望を嘱して、其お出発をお勧め致して御決行下され、即ち其行を終つてお帰りになつたのでございます。過日来数回お目にかゝつて、断片的に欧羅巴に於ける講和会議の概略、若くは国際聯盟・国際的労働問題等をも拝聴しまして、私の最初予想したよりは、実地の景況が変つて居るやうに思はれましたが、先刻来段々と世界の軍備に関し、労働に関し、又国際間の状勢を、縦からも横からも詳しい御観察の次第を、会員一同の為めに御縷述下すつて、私にも稍々理解されたやうに思ひます。今般の欧羅巴の講和会議の有様は、実に私には少し物足らぬと思ふよりは、一歩進んで寧ろ失望と謂はねばならぬのである。当春添田博士のお発足の後、私は流行感冒に罹つて、只今添田君の御演説中にもあつた如く姉崎君の御出発の時には、殆ど自身では回復が覚束ないと思ひつゝ、
 - 第42巻 p.685 -ページ画像 
兎に角斯かる御覚悟を以て此御旅行をなさることを希望する、彼の地に於ては添田君にも御会合になるから、充分御協議をなすつて、私の微躯の存在と否とに拘はらず、将来御国の為めに充分なる御尽瘁あることを懇願すると、病苦を忍むで喘ぎ喘ぎお談話をしたのを、今尚ほ記憶して居ります。其後私の病気も軽快に赴き、爾来新聞紙の報道を見ますると、ウイルソン大統領の国際聯盟の主張は、他の国々にも頗る歓迎されたやうであつたからして、私が添田君の渡欧を乞ふと共に理想として心中に描いた、此世界が、斯の如く利益にのみ競争して、其結果は知識と兵力とある者ほど、奪掠侵略を恣にすると云ふことは真に人類の無上の罪悪である。此上もなき恥づべきことである。凡そ人類は今少しく意義あり、道理ある生活が出来ぬ筈はない。宗教もあり哲学もある国民が、其智恵が進めば進む程、殆ど猛獣と同じ生活に転化して、弱肉強食の惨禍を増大すると云ふことは、どうしても私には理解が出来ない。必ず此終局は知者も愚者も強者も弱者も大に悔悟することゝなりて、各国民共に自覚して、斯くすれば戦争を避けることが出来る、といふ考案が生ずるに違ひない。故に其討議の結果は、或る方法によりて、国際の平和を保つと云ふ協定が出来るであらう、故に此会に参加したる吾々の同志は、能く其有様を観察し、日本人は斯く思考して居ると云ふことを、彼の文明国民に向つて、吾々の主義を披瀝宣伝する位にしたいと云ふのが、私の希望であつた。独り希望のみならず、順次に具体的の協議が進んで、所謂国際聯盟の如きは、鞏固の組織が成立して、各国共に之に服従するやうになるであらうと予想した。然るに其国際聯盟の本家が、本国の議会にて大騒ぎをして破壊を努めて居ると云ふに至つては、何たる道理の分らぬものぞ、亜米利加の国民は、或る部分には左様に没理漢が多いのか、若し亦其事を唱道したウイルソン氏の原案に、何か違却の点があるか、前者が是なるか、後者が非なるか、殆ど是非の迷路に彷徨せざるを得ぬと云ひたい位であります。幸に添田博士のお説にも、確に戦争の惨禍に懲りた様に見ゆると言はれるが、せめては懲りただけでも宜い。更に進んで悪いと云ふ観念が生れれば最も妙である。強国の人々が其処に至らねば、決して完全なる平和は得られぬけれども、既に懲りたと云ふことがある以上は、或る期間は此過を再びせぬといふ悔悟心が出るに相違ないから、世界の平和が絶対に不可能と思はぬでも宜うございませうが、前にも述べます如く、今一段の道徳的なる国際上の協議が成立しさうなものだと思ふたのが、予想の通りに行かぬと云ふは、詰り私共の見越しが間違つたと言はざるを得ぬのでございます。春季の竜門社の集会にも、お話をしたやうに覚へますが、其後に彼の銀行集会所の通信録にも、私は欧洲の戦乱に付ては、最初に鑑定を誤つた、後に斯く思考して、それから其意見を開陳したと云ふことを申述べたのでありますから、竜門社諸君は大抵御覧になつたであらうと思ふので、玆に喋々致しませぬ。兎に角世界が、今日の大勢から、仮令私共の企図する如き真正なる平和組織が追々に進展するとまで言へ得られぬでも、唯武力のみが最上のものであると云ふ、従前の妄想は多少衰へて来るに相違ないと思ひますれば、それだけでも是なりとせねばならぬ
 - 第42巻 p.686 -ページ画像 
が、其代りに、時代の気運が誘致したとも見るべき、労働界の有様が跋扈跳梁とも云ふべき程に、世界を席巻して来たのであります。但し一方から言へば、此気運は甚だ必要であつて、所謂資本と労働とは、依りて以て調和するのであるが、一方には、此措置に就ては、余程の考慮を要するものであると思ひます。此事は前に述べた事柄とは違ひますけれども、私は数年前からして、此資本・労働の関係は、我邦に於ても、何れ物議を惹起するに相違ないと断言した。斯く言ふと先見の明でもあるが如く、己れが従来言うて置いたと、兎角老人の口癖である。殊に先覚者の地位に在る、大隈侯爵の如き人の能く言はれるのであります。蓋し前でも後でも、予言的の警告は決して悪くはないが維新以来合本会社的の工業が追々に進んで来て、多数の職工を集め、機械に依つて事業を経営すると云ふことになると、自然此職工の組合も必要になつて、而して床次内務大臣の言はれるやうに、其組合を縦に切ることが出来ないで、どうしても横に切つて、資本者と労働者との両階級が出来る、是は已むを得ざるの成行と思ふ。如何にそれが悪いとか、困るとか云つて見た所が仕方がない。此間に於て、両者各能く自覚して、相共に一方だけの都合を計らずに協同調和して行くより外に、安全を保つことは出来ない。故に私は嘗て――添田博士は御記憶であらうと思ひますが、社会政策学会に出席して、学者連中の前に於て、私は学者ではありませぬけれども、兎に角工業経営者の関係から、一場の演説をしろと言はれて、愚見を述べたことがあります。其時の私の意見は社会政策の最善方法は雑作もない事である。簡単に論ずれば徳義より外に途はございませぬ。故に労働問題を解決し社会政策の完備を得るは、王道に依るの外はない。職工に王道があるものかと攻撃する人があるか知らぬが、私はさうは思はぬ。仁義道徳を其身に体現して、之を履行するのを称して王道と云ふ、故に其職業の尊卑に拘はらず、王道は履行し得るものである。之が完全に行はるれば、社会政策は直に解決が出来ます、と申したのであります。今日とても其外に妙案は無いと信じて居ります。併し、それは根本の要諦で、其処まで進んで行く中に、曲折もあり面倒も起らうと思ふが、此起る面倒をどう処置して行つて宜いのか、是れが政策の必要なる処である。詰り欧米に於けるが如き労働者の組合を造らせるのが第一の順序であらう。併し、さうなると、其組合に多数の勢力を生じて、会社に対して甚しきは同盟罷工を企てる。これを怖れて其勢力を一致させぬやうに努むるよりは、常に情意の疏通を謀りて、其間に疎隔を生ぜしめず所謂相依り相助けて、境遇の改善、能率の増進も出来るのである。若し会社が強いて労働者の不一致を作為し、其一致の無い為めには、万一不平の事ある場合に、却つて土崩潰乱の不幸を生ぜぬとも云へぬ。右の理由よりして、私は労働者には相当なる組合法のあるのが宜しくないかと思うて居ります。私は先年実業界を引退したる頃に諸君にも申上げて置いた通り、此老後の躯を聊かなりとも努力して見たいと思ふのは資本・労働の問題である、唯そればかりではありませぬ、慈善救済の如き事も従来好んで関係したから、善事か悪事かは知らぬけれども、微力を添へたいのであります。而して、前陳の資本・労働の関
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係に就ては、将来色々の面倒が起つて来ると予言しました。斯く云ふと、面倒を企望するが如くにも聞えるけれども、決して私は労働者を煽動すると云ふ意念はないが、何分面倒の生ずべき行掛りであると思ふ。先刻添田博士のお説の通りに、私も御同意します。寧ろ其気運が追々に悪化して来ると思ふのであります。前に申す如く、欧羅巴の戦乱は其極端から一転して大に人心が緩和し、仁義道徳の世の中が出現されるであらうと思うたのが、其処までは行かぬとしても、多少其兆候が見へるけれども、此労働界の事は、却て他の方面から社会の平和を破ることが、玆に生じはせぬかと憂慮を起さしめたのであります。当初の期待は、思想の改善と国際の平和との二つを望んだものが、一つも満足に得られぬので、頗る遺憾の事ではありますが、併し、添田博士の観察された欧米の大勢から日本の為に計ると、どうしても我邦の実業界が、穏健に進んで行くと云ふことが、最も必要である。而してそれは多く工業に依らねばならぬと考へる。それには原料の供給も必要であり、運輸の便利も必要であります。金融にも力を加へなければならぬが、総じて事物を生産せしむるには、物理・化学によりて、各種の工業が盛に進んで行く国が、世界の上位に居れると云ふことは如何にもお説の通りである。而して此工業に就て、我邦の短い間の発展から観察すると、他の先進国より大に劣つて居る、何事も優れりと思ふものはない、新進の技術的方面から見ても、例へば潜水艇の製造飛行機の組立等の如き、特殊の技工に関する事などに就ては、最近四五年間に多少の進歩は見ましたけれども、未だ先進国に比較すべしとは思はれぬ、どうも私共の素人眼には、決して彼等に優るとは云へない、只或る部分には、単に恐縮とのみ言はぬでも宜いやうに思ふこともありますから、漸次に進歩拡張して行つたならば、添田博士の御説の如く、他の国々に種々の紛紜動揺ある中に、我邦は適宜に進んで行くことを希望します。此事は真に博士と御同感であります。但しそれと同時に、資本・労働の関係も、他の国々の先例程激烈でないとしても将来色々と面倒を生じて来ることは、免れぬ運命と覚悟せねばならぬ。現に今日此処に罷り出ることの遅延したのも、朝来数名の労働者が来訪して、印刷職工中に一の物議が起つて、之が円満に解決し得るか、又は更に面倒になり行くか分らぬ位でございます。曩に成立したる協調会と云ふものも、私が当初から主張したのではなかつたが、前にも申す通り、労資の関係に就ては何とかせねばなるまいと思つて居つた結果、各方面の意見が集合して、遂に此協調会に依りて、其間に幾分貢献し得られるかと思つて居るのでございます。故に此施設によりて、屹度是だけの効果は得られると云ふ確信を持つとは申上げられませぬ。是は世間に向つて明言せぬのみならず、竜門社の如き内輪の方々に対しても、云ふことは出来ぬけれども、当初より充分の賛成を以て、巨額の寄附金を此会に申込れた向もありて、既に相当なる資金を備へ、適任者も得まして、玆に会の成立を見るに至つたならば、労働者にも資本者にも偏依せず、況哉政府の提灯持をするといふが如き卑屈の行動なく、公平中正なる意見を以て、労資の間に協調を努むるものであると云ふことが、世間に知れ渡つたならば、仮りに労資両者
 - 第42巻 p.688 -ページ画像 
の間に紛議が生じたとしても、それは資本者が無理である、是は労働者が暴戻であると云ふことが、必ずしも言ひ得られぬものでもなからう。果して之が両者間に聴察せらるゝやうになつたならば、両者の間に介在して、之を調停することが出来はしないか。詰る処は常に道理に基いて、至誠と忠愛とを以て、之を解決致したいと思ふのでございます。故に曰く、社会政策の根本は王道に在る。仁義道徳に依る外に妙案はないと私は堅く信じて居ります。協調会の将来も、嘗て論語を以て銀行を経営したといふ如く、其趣意は失はぬ積りであります。
 最早時間もございませぬけれども、前席の添田博士の御講演に依つて、欧米に向つて注意せねばならぬ吾々の事務が、益々多くなつたと感じますが、先づ資本・労働の調和を計ると云ふことも、お土産話の中に就て、最も心せねばならぬものと思ひます。幸にして私も老衰の身ながら、博士の御憂へになる所の労資の関係に付て、仮令微々たりとも力を尽し得られ、協調会の成立も上来陳上する如き成行であるから、其趣意が幾分にても貫徹し得られるならば、海外の事情と相俟つて、内外呼応して国家に貢献し得らるゝだらうと考へるのでございます。
 春季の竜門社の総会にも、老人は特に歳月の経過の速かなることを感ずる、といふ愚見を述べたやうに思ひます、実に事多歳月促と云ふ唐の杜子美の警句があります。盛年不重来、一日難再晨、及時当勉励歳月不待人とは、晋の陶淵明の名吟であります。又元禄年間室鳩巣が七十九歳の元旦の試筆は、其全部を記憶しませぬが、歳月の過ぎ易きを惜むと共に、当時の世態を憤慨して書いた文章であります。私は其原文を見出して、此処で読みたいと思ひましたが、生憎見当りませぬで朗読が出来ませぬ。只其冒頭に、月日迭に移りて白駒の隙過ぎ易く衰病日に加りて黄金の術成りがたしと、云ふ書き出しで、追々と世態人情が変化して行くが、人たるの務は甚だ肝要であつて、如何に老衰しても、自己の務を尽さずして済むものでないと云ふことを痛論して当時名声高かりし徂徠派を散々に攻撃して、曲学阿世と痛詈し、自己が斯の如く病み衰へて居るとても、仁義忠孝の志は毫も変ぜぬと云ふことを、反復した文章であります。室鳩巣の壬申元旦の試筆と同じく私も歳月の移り行くことの早きを歎ずると共に、現世に対して憂慮することが多いから、幾分たりとも貢献したいと云ふ心事は、決して鳩巣に譲らぬのであります。故に協調会のことに就ても、前に申上げたる精神を以て、充分力を尽す積りでございますから、どうぞ満場の諸君、左様に御諒承を願ひます。添田博士のお土産話を、諸君と共に拝聴致して、別して見聞を広く致したやうな心地が致します。玆に諸君に代つて博士に厚く御礼を申上げます。


竜門雑誌 第三七九号・第四一―四三頁 大正八年一二月 ○秋季総集会に於て 男爵 阪谷芳郎(DK420112k-0003)
第42巻 p.688-690 ページ画像

竜門雑誌 第三七九号・第四一―四三頁 大正八年一二月
    ○秋季総集会に於て
                   男爵 阪谷芳郎
  本篇は、去十一月九日本社秋季総集会講演会席上に於ける、阪谷男爵の演説なりとす。(編者識)
 - 第42巻 p.689 -ページ画像 
 私は竜門社の評議員長として、一寸一言御挨拶を申上げます。今日は青淵先生には御風邪の所、推して御出席下さいまして、有益なる御訓誡を下さいましたことは、洵に感謝の至りであります。又添田博士には、長時間に亘つて、有益なる御演説を下さいまして、一同深く御礼を申上げます。竜門社も今回が六十二回、即ち還暦を越えました次第でございます。恰も今青淵先生・添田博士の御演説の通りに、日本の極く重要なる時機に遭遇致しましたので、諸君に於かれましては、只今の先生・博士の御演説の趣旨に依つて、益々此日本国の危機の際に処せらるゝやうに致したいと思ひます。丁度今室鳩巣先生のお話が出ましたが、其時分に山鹿素行と云ふ人が、中朝事実と云ふものを書いて示されたことがあります。それは徂徠先生が、日本を自ら称して東夷々々と言つたことに対して憤慨しまして――支那人は自分の国のことを中華と申します。それに対して山鹿先生が日本のことを中朝。日本を忘れてはならぬと云ふ所から、彼の有名の中朝事実と云ふものを書きました。其中朝事実を、乃木大将が非常に感じられて、之に自ら評を加へて、圏点を打つて、皇太子殿下に差上げられたと云ふことは、乃ち美談となつて、益々中朝事実と云ふものを、今日尊敬するやうになつたのでございます。今日の世界の時局に処しまするのにも、矢張此中朝事実と同じやうな精神が、極めて必要である。今日の電報を御覧なさいましても、亜米利加の新聞は、日本の労働代表者が社会主義を輸入して困る、と云ふことを書いて居る、日本では亜米利加から社会主義が来て困ると云ふ。只今演説があるのに、日本の労働代表者が社会主義を亜米利加に輸入するから困ると云ふ電報が着いたと云ふのは、諸君驚かざるを得ぬではありませぬか。併しながら、又一方に、加州の知事が、排日法案の為めに議会を開いて呉れ、と云ふ要求を断然拒絶して、此多事の際に、更に日本と事端を重ねるやうなことは宜しくないと云つて、之を拒絶したと云ふ電報が見えて居ります。まるで反対した電報である。独り亜米利加のみならず、欧羅巴各国の思想界は、洵に混乱して居るのでありますから、此際に於て、列国の形勢を能く考へなければなりませぬ。所謂中朝事実を忘れてはならない。私は昨晩大阪から帰つたのでありますが、大阪地方の状況を見ますると、極めて穏健で東京とは違ひます。一・二の工場も見ましたが其工場は何れも労働者と資本主と洵に能く和合致して、殊に其一つの工場の如きは、労働者と云ふ考を持たせぬ様に職工など云ふ名を附けませぬで、何技生とか云ふ様な名前を附けまして、七百余人の男女が洵に円満に和熟して、一家族の如く働いて居るのを見まして、此処が日本の中朝事実であると云ふことを、深く感じた次第であります。又私が発明協会大阪支部の演説と、禁酒会の演説と此両回致しましたが一方は五百人、一方は六千人、実に多数の人が集つたのでありますが其集つた人が皆立派な人で、私が東京の青年会館で演説を致しますると、殆ど悉く学生か浪人見たやうな人が集るのでありますが、大阪で集つた人を見渡しまするのに、五百人の多くは悉く皆相当の職に従事して居る人で、それが皆謹聴して居ります。又禁酒会の如きは、大阪抔では迚も傍聴人はあるまいと思うて私は行つたのですけれども、そ
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れが六千人も来て、到頭這入り切れませぬで、木戸を締めて、漸く断つたと云ふ位で、六千の人が禁酒問題を謹聴して、一言半句弥次つた者もなく、反対する人もない、続々賛成するのみならず、少からぬ寄附金が忽ち集ると云ふやうな形勢であります。大阪は日本の工業地である。今添田博士の仰しやつた、日本工業の中心となるべき土地の人気が、此の如くであると云ふことは、深く喜ぶのであります。固より此一端を以て全豹を察する訳には参りませぬが、先づ私が視た所では甚だ宜しい。故に今日の此労働問題を処する上に付きましても、充分慎重に、所謂中朝事実を失はぬやうに、日本の国体・歴史・習慣と云ふものに基いて物事を解決しなければならぬ。尚只今労働協調のお話が、青淵先生からございましたが、之に就て大阪方面の一・二の実業家にも会ひました所が、東京よりお望の金額は、必ず其以上集めると云ふことを申して居りました。洵に福音であります。東京から幾らの御要求があつたか知りませぬが、大阪地方の人が、必ず其要求額以上のものを集めると云ふことを、有力の人が申して居りました。どうか斯う云ふ際でありますから、日本が中朝事実に依つて、此労働問題を完全に解決し、世界の形勢に狼狼せぬやうに、我を失はぬやうに、只今青淵先生の申されました論語、添田博士の申されました世界の形勢に鑑みて、吾々判断を誤らぬやうに致さなければならぬ。即ち竜門社が、此六十二の還暦の過ぎた所で、一番力を入れて日本を救はなければならぬ、と云ふ決心覚悟を持たねばならぬと思ひます。評議員長として青淵先生・博士の御演説を感謝すると同時に、一言所感を述べました。是より例に依つて粗末なる露店尚余興の準備がございます。又本社に対して相変らず同情を寄せられたる諸君に向つては、厚く御礼を申上げて置きます。尚会員の数が今日千名に達したと云ふことは、最も諸君と共に喜びを以て御報告致して置きます。(拍手)


中外商業新報 第一二〇七八号 大正八年一一月一〇日 ○竜門秋季総会 飛鳥山曖依村荘(DK420112k-0004)
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中外商業新報 第一二〇七八号 大正八年一一月一〇日
    ○竜門秋季総会
      飛鳥山曖依村荘
竜門社第六十二回秋季総集会は九日午前十時渋沢男爵邸なる飛鳥山曖依村荘に於て開会せり、石井健吾氏開会の辞に次で講演会に入り、法学博士添田寿一氏の欧米視察談、並に渋沢男の労働問題と王道に関する左記講演ありたり
○中略
次で委員長阪谷男爵より山鹿素行の中朝実録を引用せる挨拶あり、終つて午後一時園遊会に移り、余興等あり、四時前後歓を割きて散会したるが、当日は阪谷男始め、佐々木勇之助・石井健吾・堀越善重郎・植村澄三郎・山口荘吉・諸井四郎・増田明六・穂積重遠氏、其他会員三百余名なりき、因に竜門社会員は九日を以て一千名に達したり。

渋沢栄一伝記資料 第四十二巻 終