デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
5節 修養団体
1款 財団法人竜門社
■綱文

第43巻 p.93-107(DK430005k) ページ画像

大正10年5月8日(1921年)

是ヨリ先、是月四日、当社評議員会、東京銀行倶楽部ニ開カル。栄一出席シテ感想談ヲナス。次イデ是日、当社第六十五回春季総集会、飛鳥山邸ニ於テ開カル。栄一出席シテ演説ヲナス。


■資料

竜門雑誌 第三九六号・第六一―六六頁大正一〇年五月 ○竜門社評議員会(DK430005k-0001)
第43巻 p.93-94 ページ画像

竜門雑誌 第三九六号・第六一―六六頁大正一〇年五月
    ○竜門社評議員会
 本社に於ては、五月四日午後六時より、銀行倶楽部に於て、第二十九回評議員会を開きたり。評議員会長阪谷男爵、会長席に着きて開会を宣し、石井幹事報告の第一号議案「大正九年度社務及会計報告」を承認し、第二号議案「入社申込者諾否決定の件」は全部入社を承諾することに決し、第三号議案「第六十五回春季総集会開催に関する件」は原案通り可決し、次に第四号議案「評議員半数改選の件」及第五号議案「評議員二名補欠選挙の件」は、現評議員阪谷男爵重任の条件附
 - 第43巻 p.94 -ページ画像 
にて会長の指名に一任する事に決し、会長は詮考の上之を決定依嘱すべき旨を陳べ、是を以て評議員会を終り、別室に於て晩餐会の催しあり、食後、最近欧米の視察を終り帰朝したる内務省書記官堀切善次郎君の戦後の独逸視察談、及び青淵先生の感想談ありて、散会したるは十時過なりき。当夜の出席者は左の如し。
    来賓
 青淵先生   堀切善次郎君
    現評議員
 石井健吾君  服部金太郎君  高根義人君
 植村澄三郎君 増田明六君   明石照男君
 阪谷男爵   佐々木勇之助君 渋沢元治君
 諸井四郎君
    前評議員
 井上公二君  土岐僙君    高松豊吉君
 上原豊吉君  日下義雄君   山口荘吉君
 斎藤峰三郎君 清水釘吉君   渋沢義一君
 杉田富君
    会員
 利倉久吉君  尾上登太郎君  渡辺得男君
 横山徳次郎君 八十島樹次郎君 渋沢武之助君
 渋沢正雄君  渋沢秀雄君   渋沢敬三君
 白石喜太郎君 矢野由次郎君  高橋毅一君
○評議員の改選 評議員半数任期満了に付き改選の件及補欠評議員選挙の件は、別項評議員会記録の通、阪谷評議員会長にて指名する事に決せられたるが、其後会長は留任評議員の推薦に依り、左の人々を選定して、去六日嘱託の書状を発送して、其承諾を得たり
  穂積重遠君  土岐僙君
  渡辺嘉一君  明石照男君
  阪谷男爵   佐々木勇之助君
  渋沢義一君  渋沢武之助君
  諸井恒平君  杉田富君
及び補欠評議員
  八十島樹次郎君 鈴木紋次郎君


竜門雑誌 第四〇一号・第二五―二八頁大正一〇年一〇月 ○竜門社評議員会に於て 青淵先生(DK430005k-0002)
第43巻 p.94-97 ページ画像

竜門雑誌 第四〇一号・第二五―二八頁大正一〇年一〇月
    ○竜門社評議員会に於て
                      青淵先生
  本篇は、本年五月四日午後六時より、帝国ホテルに於て開かれたる、竜門社評議員会に於ける、青淵先生の講演なりとす。
                        (編者識)
 別に話はありませぬが、唯今お話を伺つて斯くも世の中は変化するものかと思ふのであります。御維新以前に、仏蘭西へ参つた時の昔を回想すると云ふと、人間と云ふものは五十年経つて、段々知識が進み人文の発達があるならば、さう云ふ有様にならぬでも宜さ相なもので
 - 第43巻 p.95 -ページ画像 
あると、疑はざるを得ぬやうな気がします。どうしてさう云ふ風になるものか。既に昨日も、阪谷君と一緒に、亜米利加から来たスタルヂスと云ふ人に会ひましたが、其人が頻に日本の制度文物が、五十五年の歳月を経て十分に進んだと云ふ有様から、其進んだのに対して褒め言葉が呈せられぬで、寧ろ此有様から行つたならば、どんな悪い国になるか、お褒めしたいけれども、却て御忠告申すと云ふやうな事でありました。是は十分に討論をするならば、其人に向つて、日本は御忠告は受けるけれども、貴方の国はどうでござるか、お手許拝見と言ひたひやうでありましたが、そんな議論はしませぬでした。詰り物質的進歩が、寧ろ良い風俗を破つて、唯だ利に走ると斯の如き害を及ぼすのである、と云ふやうな大趣意に論結されるやうであります。
 日本に対する非難は、私共は今申す五十五年前に、日本の有様を見ると、総ての文物なり制度なりが、個々別々で統一がなく、方法が学問的でない。あちらの有様を見、立派な翻訳物を見ると、学術上の議論などは一向知る事は出来なかつたけれども、皮相からしてどうしても学ばなければならぬのだ、之を学んで富を増さなければ、日本は迚も進むことは出来ないのだ、と云ふ事を深く観測したのであります。是は仏蘭西ばかりではない、瑞西・伊太利・英吉利など四・五箇国を見て、唯だホンの皮相の観察でありますけれども、強く、深く、之に倣はねばならぬと云ふ事を、感じて帰つたのであります。丁度折柄政界が大変化をして、自分等は迚もさう云ふ仲間に入つて国に尽すことは、寧ろ我が本分でないと感じましたので、今のやうな物質上に多少力を尽して見たら宜からうと云ふので、十年前までの境遇を維持したのでございまして、それに就ては、全く海外のそれを真に実行しやうと思つたのであります。其時分には、今堀切君の御話のやうな労働主義はありましたけれども、左様に激しくはなかつた。それで文物は段段進んで行つたには相違ないが、其結果は遂に富と云ふもの、知識と云ふものが、唯だ人情を菲薄にし、利是れ争ふと云ふやうに段々進んで来て、甚しきは一体独逸のカイゼルはどう云ふ観念であつたか、心事は何れにあつたか、私共皮相には分りませぬけれども、或は空想であつたか知らぬが、学術其他の進歩が遂に世界を征服することが出来る位に考へたから、あゝ云ふ騒動を及ぼしたのだらうと思ひます、即ち奪はずんば饜かずの極端に陥つたと云ふより外はない。其結果が遂に今伺ふやうに、左様な反動となつて現れて来た。どうも斯うなると今の五十年の進みに着いたのが、丁度昨日スタルヂスの言ふやうに、寧ろそれが為に悪くなつたのだ、と云ふやうな嫌ひが無いとも言はれないが、さらばと云つて、今のやうな有様になつて、お互が皆な平等で、比々相並ぶと云ふのが宜いか、それが人間の最上であると云ふ事ならば、地位を進めることも出来ぬ、地位を進めると云ふ事になれば今のやうな状態になつて、厄介千万と言はなければならぬやうに思ひます。
 そこで所謂仁義道徳と生産殖利とが全く一致して行つたら左様な弊害は少なからうと思ふのであります。そこから考へると、孟子の教が尤ものやうに思ひます。『天時不如地利地利不如人和。三里之城、七
 - 第43巻 p.96 -ページ画像 
里之郭。環而攻之而不勝、夫環而攻之。必有得天時者矣。然而不勝者是天時不如地利也。城非不高。池非不深也。兵革非不堅利也。米粟非不多也。委而去之。是地利不如人和也。故曰域民不以封疆之界。固国不以山渓之険。威天下不以兵革之利。得道者多助。失道者寡助。寡助之至。親戚畔之。多助之至。天下順之。以天下之所順。攻親戚之所畔故君子有不戦。戦必勝矣。』道を失ふ者は助け寡ない、助寡きの至りは親戚之に畔く、助多き者は天が之に順ふ。天下の順ふ所を以て親戚の畔く者を討つから、仁者の相対する時には戦ひはない、戦へば必ず勝つのだと、孟子が戦争を極く分り易く論じて居りますけれども、丁度今の独逸の有様などは、殆ど遂に人和を失つて其処に陥つたのであります。其後がどうなるかと云ふ事に就ては、どうも私共は理解し得ぬ。それだけ知識のある人であつたならば、覚つて早く考がつきさうなものである、どう云ふ風に成行くものであるか、まだ所謂騒乱の過渡時代であらうと思はれる。それで以て、お互に全く共産主義底の有様で、是が長く継続するものでなからうと思ひますが、今御聴きした所では、何処に落着するか想察するに苦むやうであります。
 それに就ても、是から一国がうつかりして戦争にでもなれば、其惨禍は独逸ばかりではない、日本でも吾々人民は困難を受けねばならぬのであります。さらばと云つて道理なく、戦争は厭やだと云ふ訳には往かない、或る場合には全国焦土となるとも、皆な共に死ぬ、城を枕に討死すると云ふ覚悟がなくてはならぬが、併し悪くすると、甚しきは道理以外の自己主張が国を禍するやうな事が、今日は聞えるやうでありますから、一方かう云ふと余程注意をして余り自己主張をさせないやうにしなければならぬし、又余りそれを強めると、甚しきは一国の立前を失つてしまふやうになる、丁度仁義道徳のみを論じて、生産殖利を忘れると国の勢ひは傾く、是は余程注意をしなければならぬ。併し物質の進みが甚しくなると、如何に仁義道徳を論じても争ふて富を集める、富を集める結果は、随分人を凌ぐ為に其手段を択ばぬ様になる、其結果は遂に国として相争ふと云ふ事になる、其相争ふ極は、独逸の有様其の儘になるとは限らぬけれども、必ずそれに似た有様が生ずるものと考へなければならぬ。どうも世界に対する日本の位地は余程今日は困難な有様であると思ひます。竜門社でどうすると云ふ訳にも往かぬ。さうは言ふものゝ、竜門社の吾々が斯かる方針を以て、道理に依つて維持すると云ふ考を少部分でも持つ事が必要である。極端に云へば、己れ一人でもさう云ふ覚悟を持つが宜い、皆ながさう云ふ覚悟を持てば、全国さうなる。拠ろない、小さくても何でも、一番善い主義を自分自身が守る、其守る人が多数になれば、全国の人が其主義になるに相違ない。先づお互に近い間で相共に覚悟して、道理正しい地位を進めて行けば、必ず他国との面倒を惹起さぬ、又物質文明を進める側から言つても、貪慾とか、自己主義と云ふ事がなかつたならば、必ず生産殖利が争ひを来すと云ふやうな虞れもなく進んで行けるに相違ない。今のやうな独逸の主義になつたら、一国の存立は失つてしまふ、且つ人に依つて能率も必ず悪いに相違ない、さうなればサボタージが一番宜いと云ふ事になつてしまふ。困つた有様である、何
 - 第43巻 p.97 -ページ画像 
処まで行つて回復されるか、知りたい事であるけれども、今想察はつかぬ。現在困つたものと思ふと同時に、一方には乱暴な考を以て無暗に行くと、さう云ふ根源を、日本も作り成さぬとも言はれぬ、第二の騒動を惹起すと云ふ事は、悪く云へば目前にあると云つても宜い。私共はそれに就て懸念して居ります。けれども私一人が懸念する訳ではない、お集りの方々も御心配になつて居る事と思ひます。随分間違つて行つたら、飛んだ面倒を惹起して、それこそ上げも下げもならぬやうな事に押向けぬとも言へないやうに考へられる。現在の有様では此姿で推して行くと着々と色々な面倒が起る。昨日のスタルヂスの言葉でも、日本に対して軍国主義を嫌ふから、自らさう云ふ口を利くのでありませうが、私の方から云へば、其亜米利加はどう云ふ考であるか自ら改めて人を責めるが宜いと言ひたいやうでありますけれども、或る点から言ふたら、随分向ふでも甚だ困る国柄であると見る所があるので、蓋し親切から言つたものであらうと見える、悪様に言つたのではない。斯う云ふ有様が段々重なつて行くと、欧羅巴の戦乱のやうなことは生ぜぬだらうけれども、併し遂には如何なる極端に走らぬとも言へないやうに思はれるので、今の社会に対してどうと云ふ事はありませぬけれども、お互に注意して竜門社だけでも窃かに覚悟をして己れ其過ちに陥らないやうにしなければならぬと思ひます。


竜門雑誌 第三九六号・第六二―六六頁大正一〇年五月 ○本社第六十五回春季総集会(DK430005k-0003)
第43巻 p.97-101 ページ画像

竜門雑誌  第三九六号・第六二―六六頁大正一〇年五月
    ○本社第六十五回春季総集会
 本社第六十五回春季総集会は、五月八日午前十時より、飛鳥山曖依村荘に於て開かれたり。連日の降雨未だ晴れやらず、朝来細雨粛々として降り濺ぎしが、午前九時過ぐる頃より、密雲次第に薄れ行き、新光うらゝかに若葉を照し、天亦今日の集ひを祝するに似たり。定刻振鈴を合図に、阪谷評議員会長登壇、開会を宣し、次で幹事石井健吾君左記大正九年度社務及会計報告を為し、之より講演会に移り、過般欧米諸国の現況を視察して帰朝せる法学博士浮田和民君の「欧洲大戦の教訓」と題する講演あり、終つて青淵先生の同講演に対する所感並に会員に対する訓話ありて、阪谷評議員会長閉会を宣し、夫れより園遊会に移り、或は初夏の香濃かなる木立の下、晩春の名残を惜む躑躅の丘に、三々伍々、新を談じ旧を語ひ、或は生麦酒・煮込燗酒・天麩羅蕎麦・寿司・団子・甘酒の各模擬店に於て、款談笑語、和気靄々たる光景は、左ながら一幅の画図を展べたるが如し。軈て余興は開始せられ、錦城斎典山の講談、丸井一座の太神楽に一同歓を尽して、帰途に就けるは午後四時前後なりき。
   大正九年度社務報告
社則第二十二条に依り社務報告をなすこと左の如し
 一会員
  入社{特別会員 四名  通常会員 弐拾壱名}合計弐拾五名
  退社{特別会員 弐名拾 通常会員 拾七名} 合参拾七名
    外に通常会員より特別会員へ編入者拾五名
 - 第43巻 p.98 -ページ画像 
  現在会員{名誉会員 壱名 特別会員 四百参拾八名 通常会員 五百五拾弐名}合計九百九拾壱名
 一現在役員
  評議員会長      壱名
  評議員(会長幹事共) 拾八名
  幹事         弐名
 一集会
  総集会        弐回
  評議員会       弐回
  其他         壱回(千葉氏招待会)
 一雑誌発行部数
  毎月一回       約一、〇八〇部
  年計 一二、九七〇部
 此の如くして聊か本社の目的を遂行せんことを努めたり
    大正九年度会計報告
      収支計算
        収入之部
一金五千五百九拾九円五拾七銭    配当金及利息
一金弐千弐百拾七円八拾銭      会費収入
一金弐百拾九円也          寄附金収入
  合計金八千参拾六円参拾七銭
      支出之部
一金弐千参百拾八円五拾参銭     集会費
一金弐千弐百四拾壱円五拾参銭    印刷費
一金九百参拾九円也         俸給及諸給
一金八百八拾七円八拾五銭      郵税及雑費
  合計金六千参百八拾六円九拾壱銭
 差引
  超過金壱千六百四拾九円四拾六銭
             但積立金に編入したり

      貸借対照表
        貸方之部
一金参万九千九百参拾壱円参拾六銭 基本金
一金弐万五千弐百七拾壱円参拾五銭 積立金
一金四千七百七拾円六拾六銭    銀行借越金
 合計金六万九千九百七拾参円参拾七銭
        借方之部
一金六万九千百四拾七円弐拾五銭  有価証券
        内訳
 一金五万七千円也     第一銀行旧株九百株(一株ニ付金六拾参円参拾参銭余ノ割)
 一金壱万壱千弐百五拾円也 第一銀行新株九百株(一株ニ付金拾弐円五拾銭ノ割)
 一金八百九拾七円弐拾五銭 四分利公債額面壱千円(額面ニ付金八十九円七拾弐銭余ノ割)
一金七百参拾七円拾弐銭      仮払金
一金七拾壱円拾銭         什器
 - 第43巻 p.99 -ページ画像 
一金拾七円九拾銭         現金
  合計金六万九千九百七拾参円参拾七銭

尚当日の出席会員諸氏は左の如し
    △来賓
 青淵先生 同令夫人
     法学博士 浮田和民君
    △特別会員
 石井健吾君    今井又治郎君   一森彦楠君
 石川道正君    伊藤与義君    原胤昭君
 速水柳平君    服部捨太郎君   西村好時君
 土肥脩策君    尾高豊作君    大橋光吉君
 大原春次郎君   織田雄次君    岡本忠三郎君
 渡辺得男君    河田大三九君   神田鐳蔵君
 角地藤太郎君   横山徳次郎君   吉岡新五郎君
 高根義人君    高橋波太郎君   田中太郎君
 竹内実君     竹田政智君    高広次平君
 坪谷善四郎君   中田忠兵衛君   永野護君
 中井三之助君   中村鎌雄君    中村高寿君
 植村金吾君    内山吉五郎君   久住清次郎君
 日下義雄君    同令夫人     山口荘吉君
 八十島樹次郎君  矢野由次郎君   矢野義弓君
 簗田𨥆次郎君   松平隼太郎君   前原厳太郎君
 増田明六君    間崎道知君    古橋久三君
 昆田文次郎君   古田中正彦君   河野通君
 小林武之助君   明石照男君    安達憲忠君
 安藤保太郎君   有田秀造君    坂田愉三郎君
 佐々木勇之助君  阪谷男爵     斎藤精一君
 斎藤峰三郎君   斎藤章達君    斎藤福之助君
 渋沢武之助君   渋沢正雄君    渋沢秀雄君
 渋沢敬三君    渋沢義一君    渋沢元治君
 清水釘吉君    白石元治郎君   白石精一郎君
 白石喜太郎君   柴田愛蔵君    杉田富君
 鈴木金平君    鈴木善助君
    △通常会員
 伊藤美太郎君   石田豊太郎君   井上成一君
 石井禎司君    今井晃君     板倉甲子三君
 石井与四郎君   石井竜一君    井田善之助君
 磯村十郎君    伊藤保雄君    伊沢鉦太郎君
 橋本修君     長谷部九能君   原久治君
 林広太郎君    早川素彦君    長谷川三郎君
 西正名君     西村暁君     堀内歌次郎君
 堀家照躬君    保坂孝直君    富永直三郎君
 東郷郁之助君   友野茂三郎君   斗ケ沢純也君
 都丸隆君     豊田喜重郎君   土肥東一郎君
 - 第43巻 p.100 -ページ画像 
 大井幾太郎君   奥川蔵太郎君   落合太一郎君
 大石良淳君    織田槙太郎君   太田資順君
 岡崎寿市君    小倉槌之助君   岡崎惣吉君
 小畑久五郎君   大塚四郎君    渡辺轍君
 渡辺喜雄君    上倉勘太郎君   金沢求也君
 神谷祐一郎君   川口一君     河見竹之助君
 金子四郎君    菅野肇君     金沢通誠君
 吉岡鉱太郎君   吉岡慎一郎君   吉岡仁助君
 高橋毅君     玉木素義君    高橋森蔵君
 高畠登代作君   田島昌次君    高山仲助君
 田村叙卿君    高橋毅一君    辻徳四郎君
 鶴岡伊作君    根本源一君    根岸綱吉君
 中島徳太郎君   中西善次郎君   中山輔次郎君
 長宮三吾君    中野時之君    長井喜平君
 中村新太郎君   上野正雄君    宇野芳三君
 上田彦次郎君   野口米次郎君   野治義男君
 野治忠直君    黒沢源七君    九里真一君
 桑山与三男君   久保田録太郎君  山本宣紀君
 山本米次郎君   八木安五郎君   八木仙吉君
 山下三郎君    山下近重君    大和金太郎君
 山本鶴松君    松村修一郎君   松村五三郎君
 松本幾次郎君   松井猛三君    古田元清君
 福田盛作君    藤井政蔵君    福島三郎四郎君
 福島元朗君    近藤竹太郎君   小島順三郎君
 河野間瀬次君   小林梅太郎君   近藤良顕君
 小山平造君    江山章次君    出口和夫君
 粟飯原蔵君    阿部久三郎君   秋元藤吉郎君
 明楽辰吉君    荒川虎男君    桜井竹蔵君
 佐藤林蔵君    斎藤平治郎君   座田重孝君
 斎藤亀之丞君   佐野金太郎君   斎藤又吉君
 酒井次郎君    木下金太郎君   北脇友吉君
 木下憲君     湯沢泉君     蓑田一耕君
 御崎教一君    水野豊次郎君   三宅勇助君
 三輪清蔵君    湊屋梅吉君    塩川薫君
 渋沢信雄君    渋沢智雄君    芝崎猪根吉君
 芝崎徳之丞君   平塚貞治君    森戸伝之丞君
 両角潤君     鈴木富次郎君   杉田丑太郎君
 杉山斉吾君    鈴木正寿君    鈴木勝君
 鈴木源次君
其他三十余名の諸君なりき。
 因に当日本会に対し左記の会員諸君より寄附金を辱うしたり、謹で玆に御芳志を拝謝す。
 一金弐拾八円也        佐々木勇之助殿
 一金弐拾円也         穂積男爵殿
 - 第43巻 p.101 -ページ画像 
 一金弐拾円也         阪谷男爵殿
 一金弐拾円也         東京印刷会社殿
 一金弐拾円也         朝鮮興業会社殿
 一金拾八円也         神田鐳蔵殿
 一金拾円也          白石元治郎殿
 一金五円也          星野錫殿


青淵先生演説速記集(三) 自大正十年四月至大正十三年二月 雨夜譚会本(DK430005k-0004)
第43巻 p.101-106 ページ画像

青淵先生演説速記集(三)  自大正十年四月至大正十三年二月 雨夜譚会本
                      (財団法人竜門社所蔵)
                (別筆)
                大正十年五月八日竜門社
                春季総集会に於て
    渋沢子爵演説
本日の総会に意外にも好天気を得ましたのを、竜門社員諸君と共に喜ぶのでございます。庭の遊びに雨の降りますことは頗る困難で、誰にも望んで直すことの出来ないのを、諸君の御信心が宜かつた為めか、洵に幸福の事と存じます。時間も迫つて居りますから、私は簡単に所感を一言述べて、今日の責任を塞がうと思ひます。
只今浮田博士が欧米御旅行に関する御話を、種々な方面より詳しう承りましたことは、諸君と共に拝聴して、独り興味を有つばかりでなく真に大戦の教訓を、今玆に適切に吾々御与へ下すつたやうに感ずるのでございます。総て物事は見方に依つて大に感触を増しまするし、又見方に依つては効果を現さぬ、其見方は知識学問又は平素の用意と云ふやうな事にあらうと思ひます。博士の平素の御考察又広い御学問時に取つての御意見は、吾々最も深き教訓を受けたやうに思ふのでございますが、殊に当初に御話のあつた、事を為すのは成べく若い人でなければいかぬ、併し物を考へるのは、年取つた者も必要である、是は自己が老人だからとて、自ら抑損して卑屈に陥るは宜しくないと云ふことは、私自身にも常にさう思うて居ります。己れが高齢になつたから老人を珍重しろと云ふではありませぬが、青年ばかりが威張つてはいかぬと云ふことは、始終申して居ります。それは自分が青年の時分には、年寄が威張つてはいかぬぞと反対に申した。だから浮田博士の仰つしやる通り、どうも仕事をするときには、或は果断力を要する精力を集中すると云ふには、年取つてはいけませぬです。自身が昔を顧みると、明治政府に勤めたのは丁度三十の歳でございます。一橋の家来になつたのは二十五の歳であつて、今思ふと極く青年でありましたけれども、其青年中に多少考へた事は、今でも左迄間違へたとは思はぬ。中には突飛の思案もありましたが、総てを誤つたとは思ひませぬ。思切つて斯う云ふ事をしたと云ふのは、唯私一身の仕事だから、些細な仕事ではありますが、若し今日であつたら出来なかつたと云ふ場合があるに相違ない、即ち或る仕事に対し、果断力、逞しい勢力を以てやると云ふには、若い人でなくてはいかぬ。さりながら、其仕事が成たけ緻密な考を持たなければいかぬと云ふ一段に至ると、どうしても過去の経験を積んだ思案が、必ず良いに相違ないと思ひます。是等の点に就ては、洵に御尤千万と感じます。
 - 第43巻 p.102 -ページ画像 
婦人の参政権若くは婦人に対する教育上の事などに就ては、吾々甚だ知識も乏しく、是迄の考も甚だ鈍かつたので、殊に東洋に於ては、私共は未だ英吉利・亜米利加などの道理に依つて、善いか悪いかと云ふことは、尚ほ疑問に思うて居る位でございます。併し海外のそれを能く吟味して見ますれば、是等は識者の宜しく考へねばならぬ事と思ひます。但し婦人の知識を進めねばならぬと云ふことは、是はもう問題外で、私共其点に就ては微力を尽して居ることは、今日に始まつた事ではありませぬ。併し、今亜米利加若くは英吉利に行はれて居る有様に、日本が直さま移つて善いか悪いかと云ふことは、敢て今日浮田博士が、日本に即座に望むと仰つしやつたのではないと思ひますが、追追に是は攻究しなければならぬ大問題と思ひます。
資本・労働の関係に就て、亜米利加の有様も御観察になり、殊に英吉利の現況を余程深く御調査にもなり、御観察にもなつたやうでございます。而して其態度、一体の風習の大に立上つて居る所の有様を詳しう示して下さいましたが、どうしても国の真正なる進みは其処まで立至らなければ、完全とは申せぬだらうと思ひますが、悲しい哉、我国が其処までに進むのは何時であるか、時を限つて望むのは甚だ難いやうである。私共其点に就ては頻に心配致して、現に協調会と云ふものに関係致したのも、其等の事を思うて、今の事を行ふ方の人でなく、事を議する方の側では多少苦心を致して居りますけれども、未だ皆様の前に申上げる程の充分な材料が生じたとは申せませぬ。段々直接に事に当るお人が、昨年の十月頃から代つて、現在に従事するお人は、力めて今の資本と労働との関係、即ち各工場などに就て、成べく実地に詳しく、又事情に精通するやうに、今立入つて取調べもし、又労働者の自覚と云ふ言葉は少し穏当でないかも知れませぬが、唯旧習に泥んで、一方は働きは鈍し、給金は沢山欲しい、一方からは労働を商品の如く取扱はれると云ふやうな考は、どちらも止めて、調和せしめたいと云ふことを、今努めつゝあるのでございます。
将来の世の中は、どうしても此物理・化学が必要であつて、遂には百事此処に帰するであらうと云ふ御見識は、洵に博士は其方の専門家で居らつしやらぬでも、実地の教訓から、さう云ふ御感じが生ぜられたものと、深く眼識の高い事を敬服致しますが、併し、私も矢張同じくさう云ふ学問も何もないのですけれども、実業上の行末が、遂に其処に帰宿する、否実業上ばかりではない、世界の事総てさうであらうが頻に日本の始終模倣的ばかりであつて、独創観念の乏しいことを残念に思うて、数年前からして、特に其事を標榜して説を起したのは、友人高峰博士でありましたけれども、其人の刺激に基いて、私も其一人となつて、理化学研究所と云ふものを、敢て政府ばかりでなしに、民間からも力を添へて貰ひ、政府からも援けて貰つて、今小石川の染井に、物理・化学の研究所が出来まして、相当な学者が打揃つて研究をして居る。併し、是は斯様な場合に皆様に、えらい悲観説を訴へるやうでありますけれども、中々に容易の資金では出来ない。最初凡そ八百万の金を集めやう、民間から五百万、帝室なり政府なりから三百万の金を、若し貰ひ得たならば、工場が出来上つてスツカリ設備が整う
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た後、凡そ六百万以上の基金が備はる、三十万乃至三十五万の年々の費用は使はれるから、敢て立派とは言はぬでも、相当なる研究が出来るであらうと云ふ予想であつた、所が集める方の金は思ふやうに進まぬので、五百万と考へたのが三百五十万ばかりで、望みが百五十万ばかり減じた。政府と帝室からは、吾々の希望通り御補助を得ましたけれども、而して其設備に対して、地面も政府から借りることが出来るであらう、建築も此位で宜からうと思うた想像は、戦争の関係から、諸物価が頗る上つて、二倍にも三倍にもなると云ふ有様の為に、大に資金を要して、今日の所では三十万若くは四十万を年々生せしむる元本を備ふべき見込であつたのが、僅に二十万にも足らぬやうな年々の資金ほかないと云ふ有様になつて居ります。此有様では、満足なる研究所とは言へぬから、将来如何したものであらうかと、今苦心惨澹の場合であります。斯の如き有様になると、前に申した通り年に五十万近い資金を得て、是で研究をして見た所が中々其仕事は微々たるものである。況や其三分一にも足らぬと云ふやうな年々の経費を以て掛るときには、殆ど一杯の水を以て一車薪の火を消すと云ふ孟子の教と同じやうな訳で、甚だ欧米の有様を伺ひますると別して理化学研究所の微々たる有様、吾々の働きの頗る鈍かつたことを歎息せざるを得ぬのです、蓋し是も私は当事者の方ではなくて、年寄ですから、浮田博士の御示しに基いて、実務に若し当つたならば、私が悪かつたと云ふのだが、仕事は他の人がして呉れ、私は寄附等の事を専ら丹誠致しましたが、今申上げるやうな訳で、果して其事業を完全に設備したからと云うて、如何なる進歩があるか、どう云ふ発明があるかと云ふことは是は別問題でありますけれども、もう既に其為に、池田菊苗先生などは、塩の製造に就て一種の発明を起しつゝ居ります。是が果して実用されるやうであつたならば、それ御覧なさい、理化学研究所の効果が斯う現れましたと、或は来年にも申上げ得るかと思ふ位でありますから、其事柄に就ては、甚だ思はぬ曙光が見えて居るのですけれども、実際は今申すやうな姿であります。
最終に帰一協会の事に就て、現在は斯様であるが、将来はどうしても此処に目的を持たねばならぬ、と自分は思ふと云ふ博士の仰せは、洵に私共意を強うします。元来、博士も最も有力なる帰一協会の会員であらつしやるので、此間も丁度欧羅巴話を、今日とは少し方面が違ひまして、段々御講演を戴いて、吾々共深く感謝致しましたが、其起りは、軈て十年少し余りになります、死なれた成瀬仁蔵氏、又今は日本に居りませぬが、亜米利加人シドニー・ギユリツク氏、或は姉崎正治君・中島力造君・森村市左衛門君等と偶然に話し合うたのが、遂に帰一協会と云ふものを組織する動機と相成つた。其帰一協会の希望は、丁度博士の御話の通り、甚だ遠大であつて、少し天に梯子を懸けるやうなる希望であつたのです。私共は今も尚無宗教で基督教も信せず仏教も信せず、近頃は又野依秀一氏から真宗を勧められましたけれども是も信者には成れまいと思ひます。唯心に奉ずる所は孔子の主義、論語主義でありまして、夫子の道は忠恕のみ、渋沢の道も尚ほ忠恕のみ此信念は今も尚ほ改めない積りでありますけれども、併しどうも此多
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数に就て考へて見ると、矢張一つの看板に掲げる宗教が必要であらう是は識者ならざるも尚ほ其考を持つ、況や未来を憂へる学者連中は、必ずさう云ふ考が深い。さらば此形式に当る宗教が果して完全なるものがあるか、マーテイン・ルーテルは、基督教に対してあゝ云ふ新機軸を出したが、更に人類の将来を考へたならば、耶蘇も孔子も釈迦も何も彼も失くなつて、所謂世界の万有を保持すると云ふやうな、一の信すべきものが成立つて来はしないか、余り空想の議論のやうであるけれども、どうも真に世界の平和を求めるならば、此処に望みを置くのがマルで空想でもなからう、人類としてさう云ふ考を起すのは、間違つた訳ではなからうと云ふ、先づ空論家が相集つて、甚しきは宗教を一にしやう、所謂帰一論を唱へたやうな訳であつたのです。所がさう云ふ事を露骨に言出しても、却て世の物笑ひにならうと云ふので、独り宗教のみならず、総ての物が一に帰するであらうと云ことを、先づ主義として、英語にコンコーデイアと云ふことがある、私は英語を知りませぬけれども、遂に帰一協会と云ふ名を附けて、余り勢力ある会ではありませぬが継続致して、時々学者若くは実際家の講演会を開き、其方面の研究を致して居ります。今申す世界の宗教を一にするとか、世界の道徳を一にすると云ふことは、容易に企て及ばぬとしても或る方面には、追々に帰一しつゝあるやうに思ひますから、博士が将来は斯様に思はるゝが、今日の有様は斯う云ふ姿である、殊に旧教には、今日も斯様に敬服すまじき事共が混つて居ると云ふ事までも見破つての御話は、成程此世の中と云ふものは、利に附いたる弊の免れぬもの、と思はざるを得ぬやうであります。総て是等の廉々に就て御述へ下すつたことを残らず繰返して、博士は斯う仰つしやられた、私は斯う思ひます、と云ふことを申上げる訳には行き兼ますけれども、私の身に接して居る事に就て、二・三博士の御講演に対する、自分の感想を申しましたのでございます。
私は今日は、利弊と云ふものゝ相関聯して行くと云ふことを、一寸皆様に御話して見たいと思ふのであります。禍福は糾へる縄の如しと云ふことは、古の諺にあります、禍と福は丁度縒り絡んで、福があると思ふと禍が来る、禍の後には福が来る、引離して福ばかりで居られるものでもなければ、禍ばかりで居るものでもない、是は古人が長い実験から起した言葉と思ひます。それと同様に、利益と弊害とが矢張糾へる縄の如く、必ず生じて来るものであります。利と云ふものに必ず弊が附く、又弊に段々堪へぬやうになつて、之を打破つて大に利益を起す、政治上から旧い古を考へ及ぼすと云ふと、段々其有様が明瞭になつて来るやうで、多分太田錦城と云ふ人が、形勢不依制度弁と云ふ旧弊譚でしたか何かに書いてあつたのを、青年の時分に読んだことがあります。学者として歴史的に観察して、利と思うたことが段々変化して弊になつて来る。決して制度を以て自然の形勢を制する訳にはいかぬ。形勢と云ふものは自然に変化する、と云ふ意味を論じたやうに思ひます、其本文をハツキリ記憶して居りませぬが、実に道理ある面白い理窟と思うたのです。何でも其初めに、支那の歴史を論じてあつたと思ふ、尭舜遷譲は別の話として、周の天下と云ふものは諸侯を強
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くして、さうして其間の統一を図つたのが周の文王の政治、随て武王もそれであつたのだ、所が中々に其政治が良かつたから永く続いた。永く続いたけれども、封建制度が段々移つて行つて、諸侯が強くなつた、本元の周は全く弱くなつてしまつた。もう東周と云ふものは実に憐れなものになつてしまつた。之を見破つたる秦の始皇が、是ではいかぬ、どうしてもさう云ふ藩力を強めるから、斯かる弊害が生じたのだと云ふので、遂に段々に或は戦国七雄――其七雄の中の六国、燕なり、趙なり、斉なり、魏なりを皆滅ぼして所謂六国を併せて秦にしてしまつた。同時に兵力を擁してさうして完全の君権制度を施いた。為に一時は洵に天下が無事に治まつた。秦の始皇の政治と云ふものは、其暫時の間は斯の如くなれば、実に天下泰平だと思うた。所が其政治は二世になつてどうなつたかと云ふと、総てが圧迫政治であつたから一つ潰決し始めると、それこそ洪水の溢れる如く、戍卒叫んで幽谷挙ぐ、楚人の一炬憐むべき焦土たり、と云ふやうな有様で、秦と云ふものは僅かの間に滅びてしまつた。漢の天下が功成つて、遂に唐宋にまで説及ぼしたのであります。それから、支那に似寄つて日本の事も、保元・平治の乱からして、武門の制度の起ることに就て、是は山陽が大層詳しく説いてありますが、総て大に長じた所は、其長じた所から短所を生じて、其短所の為めに遂に破れる、と云ふ事を論じたやうでございます。即ち、是は今の禍福は糾へる縄の如しと云ふ言葉の意味と同様に、利に伴ふ弊害が始終附いて行くやうに思ひます。現に私自身が、日本の御一新匆々に、日本の富を増さなくてはいかぬ、斯の如き貧乏で理窟ばかり言つて居る国は、到底世界の友達になることは出来ない。どうしても、物質的なる富を増すより外仕方がない、斯う云ふ観念が、えらい大思案・大計画と云ふ程でもありませなんだけれども、明治の初めに深く感じて、微力ながら其方面に力を投じて、多少苦んで見たら宜からうと思うたのが、殆ど明治の初め、欧羅巴から帰ると直ぐであります。数年の間大蔵省に居りましたけれども、是は僅に其階梯を造る位の所存で、明治六年から全く専心四十五年の間努めましたのです。
微力何事も出来ませぬけれども、併し勤労は多少多として下すつて宜からうと思ふ。為に総ての物質上の進歩は、私共の微力幾らか効果ありと思ふのだが、併し其効果は、矢張初めに今の利益論からして、遂に甚だしきは道理と殖益とが相伴はぬ、と云ふやうなことが段々と生じて参るやうです。尤も今日一体の思想の混乱とか、思想の険悪などと云ふことは、敢て物質文明を進めたからのみ起つたものではないと考へますけれども、併し此間スタージスと云ふボストンのお方が来てマツキム監督、阪谷男爵なども一緒でした、共に段々其人の日本観察を説かれるのを聴くと、是等に至ると、殆ど渋沢等は罪人の如き有様に言つて居る。三十五年前に来た時分には、日本は洵にウブな国であつた、三十五年後の今日は、鉄道も出来た、電車も盛んだ、併し一体の人気は、実に罪悪に陥つて居る、昔を懐しく思ふとまで言つて居りました。私は若し充分な言葉が出来るならば、お手元拝見、お前の方はどうでござるかと言ひたかつたけれども、討論会ではなかつたから
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そんな話はしませなんだが、併し、此評言は、少しスタージスの説は過激に又偏見を以て論じたやうですが、併し自身にも亦、其点に於ては厭ふ場合がないとは言へぬ。即ち之が利に伴ふ弊害、所謂前に言ふ政治上の関係なども全く同じ道行を為すものではないかと思ふです。そこで私はどうしても、さらば実業界が若し物質的に進むことなかつたと斯う反対に考へて見るとどうなるか、直に印度・朝鮮になつてしまふ。さうすると又一方から、スタージスに言はせたら、あんな馬鹿なことをする、三十五年前に来たときは斯うはなかつたと言ふに違ひない。さうすると、若し人の説ばかりを聴くならば、どうして宜いか分らぬと云ふことになる。故に、どうしても此両者を全く結付けて、精神観念の動かぬ程度に於て、物質を進めると云ふ外道はない。是に於て、予て云ふ論語算盤が矢張一つの帰一に相成るであらうと思ふ。此二つを本当に帰一せしめたならば、スタージスにも非難をされないし、又真正なる物質も本当に進み行くであらうと思ふのであります。斯様に考へて見ると、利と弊と云ふものは、どうしても共に道行をするものであるから、其事を御互に能く知ると同時に弊を無からしめんとするならば、多くは竜門社の諸君は、物質上にお力を尽す方々が、先づ多数と思ひますが、是非此物質上にも力を尽す御方々には、道理に基いたる物質の進歩を図ると云ふこと、即ち論語と算盤とは全く一致されるものだと云ふ、此帰一を充分に御考を願ひたいと思ふのであります。果してそれであつたならば、必ず利のみを存じて弊なからしむる、即ち福のみあつて禍を防ぐことが出来ると斯う思ふのでございます。甚だ簡単な申分でありますが、博士の御演説を感謝すると共に自分の所感を一言添へたのであります。(拍手)
  ○冒頭ヨリ十八行「……始終申して居ります」マデ栄一検閲済。


中外商業新報 第一二六二四号大正一〇年五月九日 竜門春季総会 浮田博士講演(DK430005k-0005)
第43巻 p.106-107 ページ画像

中外商業新報  第一二六二四号大正一〇年五月九日
    竜門春季総会
      浮田博士講演
竜門社第六十五回春季総集会は、八日午前十時、渋沢子爵邸なる飛鳥山曖依村荘に於て開会す、社務及び会計報告ありて後、法学博士浮田和民氏は、欧洲大戦の教訓と題し講演せり(一)活動上の分業(二)女子の参政権と女子教育問題(三)英米に於ける資本と労働関係より労働者の思想問題(四)智力の自然界征服としての発明研究(五)宗教の統一より人種問題に説き及べり、其一説に曰く
 英国の労働者は立憲的に行動し、憲法に則りて徐々其目的の貫徹を期しつゝあり、彼の上院貴族階級の保守的にして新時代に適せざる旧思想の所有者たる事は、啻に労働者方面のみの解釈に非ず、上院の如き早晩廃止乎改造乎の運命を担へりとは、恐らく多数の一致する意見なるべし、然れども上院の改廃は、上院自からの発意を要する関係上、労働者も敢て憲法を無視して迄でも改廃を要求する事なし、此点に於て、英国労働者は思想に於ても行動に於ても立憲的にして、且つ秩序を保ち、常軌を逸する事なく、協商にも応ずべき襟度と余裕とを有せり、偶ま其運動方法に過激に失するの嫌ひなから
 - 第43巻 p.107 -ページ画像 
ずと雖も、开は畢竟表面上の事、一時的の手段に過ぎずして、根本と基礎に於ては全く然らず云々
渋沢子爵は浮田博士に次で、博士の所説に論及し、日本の国情より、婦人参政権問題の如き充分考究の要あるべく、発明に対しては理化学研究所を設けて、折角文化の進歩発達に資せんと期しつゝあれど、資金充分ならず、遺憾の点なしと云ふ可らずとなし、更に
 壮者は活動し、老いたるは考ふと云ふ事は、大に同感也、自分も壮年の場合に於ては、年寄は引込むべきものなるかに解説したる事なきに非ざれど、元来経験を累ねて過去に富みたるものが、研究考慮に任ずるは当然にして、活力あるものゝ大に働く、亦当然の事なるべし
と説き、統一と帰一とは啻に宗教のみに止まらず、凡ての上に融和統一を図るべきなるが、物には利弊あり易く、利のある所弊の伴ふは、各般の人事に於て往々免る可らず、努めて利を採つて弊を除くの工夫を要し、斯る見地よりして、論語と算盤の帰一を冀はずんばあらずと結び、終つて午後一時半、伸々と園遊会に移り、三時過ぎ思ひ思ひに散会したるが、当日の来会者は、阪谷芳郎男爵始め、佐々木勇之助・石井健吾・原胤昭・高根義人・昆田文二郎・山口壮吉・明石照男・増田明六・安藤保太郎・清水釘吉・白石元治郎氏等外二百五十名にして盛会也き