デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
5節 修養団体
1款 財団法人竜門社
■綱文

第43巻 p.107-124(DK430006k) ページ画像

大正10年10月2日(1921年)

是日、栄一ノ渡米送別会ヲ兼ネ、当社第六十六回秋季総集会、帝国ホテルニ於テ開カル。栄一出席シテ謝辞ヲ述ブ。


■資料

竜門雑誌 第四〇一号・第四二―四四頁大正一〇年一〇月 ○第六十六回秋季総会兼青淵先生渡米送別会(DK430006k-0001)
第43巻 p.107-110 ページ画像

竜門雑誌  第四〇一号・第四二―四四頁大正一〇年一〇月
    ○第六十六回秋季総会兼青淵先生渡米送別会
 十月二日午前十時より、帝国ホテルに於て、青淵先生の送別会を兼ねて、本社第六十六回秋季総集会を開きたり。定刻会を開き、先づ評議員会長阪谷男爵登壇して、別欄記載の如き送別の辞を述べられ、之れに対して、青淵先生の謝辞を兼ねたる演説あり、次で別室に於て午餐の饗応あり、デザート・コースに入るや、佐々木勇之助君会員一同を代表して青淵先生の一路平安を祈り、且つ同君の主唱にて、青淵先生の万歳を三唱し、次いで青淵先生の発声にて、竜門社の万歳を三唱して、和気靄々裡に散会したるは、午後一時過なりき、当日の来賓及来会者諸君は即ち左の如し
    △来賓
 青淵先生
    △陪賓
 堀越善重郎君    増田明六君   小畑久五郎君
    △特別会員
 石井健吾君     五十嵐与七君  一森彦楠君
 今井又治郎君    池田嘉吉君   伊東祐忠君
 - 第43巻 p.108 -ページ画像 
 井上公二君     伊藤半次郎君    伊藤幸次郎君
 石川道正君     犬丸徹三君     林愛作君
 原胤昭君      伴五百彦君     速水柳平君
 服部金太郎君    萩野由之君     長谷見次君
 林武平君      長谷川粂蔵君    二宮豊太君
 二宮行雄君     堀越善重郎君夫人  堀内明三郎君
 堀田金四郎君    堀切善次郎君    堀井卯之助君
 戸村理順君     土肥脩策君     土岐僙君
 利倉久吉君     岡本忠三郎君    大野富雄君
 大倉喜三郎君    大友幸助君     尾高幸五郎君
 大原春次郎君    岡本儀兵衛君    尾高豊作君
 大川平三郎君    大橋光吉君     大沢省三君
 大原万寿雄君    大沢正道君     尾上登太郎君
 脇田勇君      渡辺得男君     金子喜代太君
 片岡隆起君     神谷十松君     川田鉄弥君
 笠井愛次郎君    角地藤太郎君    神谷義雄君
 神田鐳蔵君     川村桃吾君     書上庸蔵君
 金井滋直君     吉池慶正君     横山徳次郎君
 米倉嘉兵衛君    竹田政智君     田中元三郎君
 多賀義三郎君    竹内実君      高松豊吉君
 高橋波太郎君    田中楳吉君     田中太郎君
 田辺淳吉君     滝沢吉三郎君    田中徳義君
 田中栄八郎君    高根義人君     曾和嘉一郎君
 坪谷善四郎君    塘茂太郎君     中村高寿君
 中田忠兵衛君    成瀬隆蔵君     中井三之助君
 長島隆二君     仲田慶三郎君    永井岩吉君
 中村鎌雄君     永田甚之助君    武藤忠義君
 村井義寛君     村木善太郎君    植村澄三郎君
 内田徳郎君     上原豊吉君     野口半之助君
 野口弘毅君     野中真君      栗田金太郎君
 日下義雄君     久住清次郎君    倉沢賢治郎君
 山下久三郎君    山口荘吉君     山田昌邦君
 矢野由次郎君    簗田𨥆次郎君    山中譲三君
 山田敏行君     八十島樹次郎君   矢木久太郎君
 山下亀三郎君    前沢浜次郎君    松平隼太郎君
 前原厳太郎君    馬越幸太郎君    松谷謐三郎君
 松本常三郎君    福鳥甲子三君    同令夫人
 古田錞次郎君    古橋久三君     藤村義苗君
 藤田好三郎君    福島宜三君     昆田文二郎君
 小林武彦君     小西喜兵衛君    小池国三君
 小林武次郎君    河野正次郎君    古田中正彦君
 小畔亀太郎君    河野通君      手塚猛昌君
 浅野総一郎君夫人  安達憲忠君     安藤保太郎君
 浅野泰次郎君    赤羽克巳君     有田秀造君
 - 第43巻 p.109 -ページ画像 
 明石照男君     麻生正蔵君     朝山義六君
 阪谷男爵      佐藤正美君     佐々木勇之助君
 斎藤福之助君    佐々木保三郎君   斎藤精一君
 佐々木慎思郎君   斎藤峰三郎君    笹沢仙右衛門君
 阪谷俊作君     佐々木清麿君    斎藤章達君
 木村清四郎君    北村耕造君     湯浅徳次郎君
 三好海三郎君    宮崎喜久太郎君   渋沢義一君
 清水釘吉君     白石元治郎君    同令夫人
 白石精一郎君    芝崎確次郎君    清水揚之助君
 白石重太郎君    白岩竜平君     白石甚兵衛君
 渋沢武之助君    同令夫人      渋沢正雄君
 同令夫人      渋沢秀雄君     渋沢敬三君
 清水一雄君     柴田愛蔵君     渋沢治太郎君
 白石喜太郎君    弘岡幸作君     肥田英一君
 桃井可雄君     諸井恒平君     諸井四郎君
 関直之君      鈴木金平君     鈴木善助君
 鈴木実君      杉田富君      鈴木紋次郎君
 同令夫人
    △通常会員
 石田豊太郎君    伊藤大三郎君    石井与四郎君
 今井晃君      石田友三郎君    井野辺茂雄君
 井田善之助君    磯村十郎君     蓮沼門三君
 橋本修君      萩原英一君     秦乕四郎君
 林興子君      西潟義雄君     西村暁君
 堀口新一郎君    富永直三郎君    東郷郁之助君
 戸谷豊太郎君    土肥東一郎君    落合太一郎君
 大塚四郎君     大井幾太郎君    小川銀次郎君
 岡崎惣吉君     大野五三郎君    岡崎寿市君
 渡辺轍君      書上安吉君     金子四郎君
 川口寛三君     川口一君      神谷祐一郎君
 金沢弘君      吉田升太郎君    吉岡鉱太郎君
 吉岡俊秀君     高橋光太郎君    高橋俊太郎君
 高橋森蔵君     高橋耕三郎君    田中鉄蔵君
 高田利吉君     田淵団蔵君     高橋毅一君
 曾志崎誠二君    月岡泰治君     内藤太兵衛君
 中山輔次郎君    中北庸四郎君    長井喜平君
 中西乕之助君    中野時之君     村松秀太郎君
 宇賀神万助君    上田彦次郎君    浦田治雄君
 野治忠直君     野口米次郎君    野島秀吉君
 熊沢秀太郎君    黒沢源七君     山本宣紀君
 山村米次郎君    山下太君君     山下近重君
 山田源一君     万代重昌君     松村修一郎君
 松本幾次郎君    馬淵友直君     藤木男梢君
 古田元清君     藤浦富太郎君    福田盛作君
 - 第43巻 p.110 -ページ画像 
 近藤竹太郎君    近藤良顕君     後久泰次郎君
 江原全秀君     粟飯原蔵君     浅木兵一君
 安孫子貞治郎君   佐々木道雄君    斎藤亀之丞君
 佐藤林蔵君     佐野金太郎君    酒井正吉君
 木村金太郎君    北脇友吉君     木下憲君
 木村弥七君     湯浅泉君      行岡宇多之助君
 水野豊次郎君    蓑田一耕君     南塚正一君
 峰岸盛太郎君    渋沢信雄君     渋沢智雄君
 島田延太郎君    塩川政己君     島田房太郎君
 清水百太郎君    柴田亀三郎君    東海林吉次君
 清水景吉君     下川芳太郎君    平賀義典君
 平塚貞治君     森江有三君     関口児玉之輔君
 鈴木源次君     鈴木正寿君     鈴木勝君
   外に
 堀内寛正君     和田義正君     浅野八郎君
 山田太熊君     安田武彦君
 尚ほ当日左記会員諸君より寄附金を辱うせり、玆に謹んで御芳志を謝す。
 一金参拾円也            佐々木勇之助君
 一金弐拾円也            穂積陳重君
 一金弐拾円也            阪谷芳郎君
 一金弐拾円也            石川政次郎君
 一金拾五円也            白石元治郎君
 一金拾円也             浅野総一郎君
 一金五円也             小池国三君


竜門雑誌 第四〇二号・第一一―二四頁大正一〇年一一月 ○本社主催渡米送別会に於て 青淵先生(DK430006k-0002)
第43巻 p.110-120 ページ画像

竜門雑誌  第四〇二号・第一一―二四頁大正一〇年一一月
    ○本社主催渡米送別会に於て
                      青淵先生
 本篇は、十月二日午前十時、帝国ホテルに於ける、本社第六十六回秋季総集会兼青淵先生渡米送別会席上に於ける、青淵先生の演説にして、同月二十一日、春洋丸船中に於て先生親しく修正せられたるものなり。(編者識)
 我が竜門社の秋季総会を兼て、今度私の亜米利加行を御送別下さると云ふは、洵に有難い事と感謝致します。
 只今評議員会長として、阪谷男爵から少し不相応な送別の御言葉がありました、敢て左様な事ではございませぬが、如何にも阪谷男爵の言はれる通り、私一身が妙に亜米利加に因縁が多くて、今日又亜米利加へ旅行する様に相成つた、其事柄が丁度六十年前とは全く反対の現象を呈すると云ふ、阪谷男爵の御説は実に御尤と思ふのであります。既に男爵から御詳話がありましたから、繰返す必要はございませぬが私が国家と云ふものを観念したのは、十四歳の時で、亜米利加の国が日本に其名が聞えたに依つて、初めて世界各国のある事が分つた、世界各国のある事が分ると同時に、自分の国家と云ふものは、大事なも
 - 第43巻 p.111 -ページ画像 
のであると云ふ観念が、子供心に生じたのでございます。其頃は、亜米利加人が今日日本の軍閥とか侵略主義とかを嫌ふよりも、より以上に、総ての日本人が外国を嫌ふた、而して其嫌ふ人の方が優勝者であつて、又頗る過激であつた、私は遂に其過激の仲間に唆かされて、十四歳から二十四・五歳迄の間は、頻に攘夷論を主張したのであります蓋し我国が大切であると云ふのと、世界の大勢を知らぬのと、外国に取られては大変だと思ふ、所謂盲目的愛国心とで、単に亜米利加ばかりではない、他の国々も甚だ油断が出来ぬのである、殊に其頃、私の此観念を強めた実例があつた、それは侵略の事実を一の小説的に作つた書籍で、即ち英吉利と支那との衝突を取扱たもので、清英近世談と云ふ書名で刊行し、当時の阿片問題から生じた清英の戦争を詳しく書いたものでありました。英国の商人が印度で製造した阿片を支那に売込む、支那政府が、阿片は人の身体に害があるから買つてはならぬと禁じても、中々に売買が強いから、遂に勇断なる政治家の林則徐と云ふ人が、英商の持つて来た阿片を残らず没収して、焼棄した、是が戦争の起源であります。其時の両国の交渉は如何であつたか、細かい事は知りませぬが、遂に戦争となつて、英国が強くて支那は弱いから、負けるのは当り前である、羊と狼との喰ひ合ひで、羊は喰ひ倒されたと云ふ有様である、さうして結局、香港の土地を割譲して此解決を告げたのであります。其頃の私の浅い知識、狭い了簡で左様な事を聞くと、日本も其有様に陥りはしまいかと憂へたのは、決して無智だとばかりは譏られぬのでございます。故に私は過激なる同志と謀りて、或る不穏の事件を計画しましたが、仲間内から其非を論ずる者があつて其事は中止して変つた方面から徐々と微力を尽して見やうと云ふのが遂に農民をやめて浪人となり、京都に出掛けると云ふ一転化を為した訳でございます。
 爾来、一橋の家来の時も旧幕府の役人となつても、又は新政府の官吏となつても、勿論東洋式の道徳説は飽迄も高調しましたけれども、どうも其頃の一般の人心が物質文明を軽蔑して、唯政治論にのみ傾き利用厚生は見向きもせぬ、仁義の説を唱へる者が、利害得失を論ずれば、全然仁義に背くとまで、固陋なる見解を持し、儒教に就て誤解を為して居る者もあつた。私は二十四歳から二十八歳まで京都に居つて一橋の役人をして居る間に、以前の攘夷論を緩和し、敢て欧羅巴の事情が詳しく知れたのではありませぬが、勉めて之を知らんとして居つた。折柄に民部公子に随行して仏蘭西に行くことに相成つた。実地に参りますと、聴いて知るよりも見て感ずる方が甚だ強いもので、所謂百聞は一見に如かずであります、私は其後三遍ほど欧羅巴・亜米利加を旅行しましたが、五十余年以前に、仏蘭西に於て言語も通ぜずして極めて不規則に、欧羅巴の物質文明の一端に接触したけれども、其感想は寧ろ其後に満足なる通訳によつて種々取調べたものよりも、効能が多いやうに思ひます。後の十分な調査よりも、尚ほ益が多かつたと感ずる位であります。蓋し暗黒なる所から僅かな光明を見ると、能く事物を識別する、寧ろ全然明るくなつたよりも、物の弁別が鮮明であると云ふ道理でもありませうか。
 - 第43巻 p.112 -ページ画像 
 そこで恰も明治の政変を、私の一つの動機としまして、物質の進歩に対して勤勉して見たいと思つて、自分では必死になつてやりましたそれは寔に微々たるものではございますが、段々経営して居る間に、再び考へて見ますと、どうも唯だ物質の進歩、知識の発展のみが、人類の最上の幸福ではないと云ふ観念を十数年前から起しました、詰り自己が実業従事の間、素より利用厚生の重んずべきは知つたが、併し忠君愛国、即ち君臣の義とか、父子の親とか、朋友の信とか云ふものは、常に忘却せぬ積りでありましたけれども、一般の社会で、兎角物質文明の度が過ぎて智育に傾き、仁義道徳が荒むやうになりはせぬかと云ふ惧れを持ちました、それが為に物質文明に力を尽される実業界に於ては、時として道理を誤ることがある、利益の為には、仁義も道徳も余所にすると云ふやうになる虞がある、斯る有様に進み行くと、知識の進歩、事物の発展する程、禍乱罪悪が増して来る。先刻阪谷男爵は羊と狼との譬を引かれましたけれども、羊であると歯も弱し、爪も無いから、彼等の仲間では争ひをしませぬ、若し争つた所で、其争ひや至つて柔和である。併し之が犬になると牙がある、更に虎狼となると其闘争は激しくなる、而して羊であれば、狼に出遭ふと畏縮するから、其禍害は甚だ少い、若し狼と虎、虎と獅子であつたならば、其争は激烈で其禍も甚大である、斯う考へて見ますると、知識が進み富が増す程、人類の惨禍は多くなると云ふ事になる。私は基督教信者でもなければ、仏教家でもないから、神を祈ることもせぬ、阿弥陀仏をも唱へぬが、之を儒教で言ふたら天である。天が人類に対して、之を放任するであらうか、又それが人類の天に対する務であらうか、左様に害毒ばかりが増す様に、物質文明を進めるといふは、詰りまだ物質文明に精神が伴はぬのではないかと云ふ感じが起つて来た。私は十数年以前から此疑を持つて居りまして、時々竜門社の会合では、此事を申したのでありますが、頃日もホスデツクと云ふ米国の宗教家が来られて、私の言はんと欲する事に就て、其雄弁と博識とを以て、頻に物質文明を攻撃しました、而も此帝国ホテルで、同氏の御話でありまして、私は一般の通訳に依つて聴きましたから、隔靴掻痒の歎がありましたけれども、知識の進歩に伴うて精神が向上せぬ結果は、意外なる惨禍を来すものである、想像し得ぬ害毒を流すものであると云ふ事を口を極めて論じました。東洋で私が一人でさう云ふ事を言つて居るばかりでなく、西洋の識者も同じ様な説を唱へると思うて、実に同情に堪えぬのでありましたが、寧ろ彼が私に同情して呉れるやうな心地して、聴いたのであります。斯様なる種々の関係から、私は前段に述べました少年時代に、亜米利加に対する観念が大に誤つて居つたと云ふことを、年経つ程恥ぢると共に、我が帝国と亜米利加との国交上に就て種々な行違ひがございますと、昔を思ひ出して、どうぞ之を平和に解決し、道理正しく共に進みて、両国民の幸福の為に尽すやうにしたいと思ひますのは、私の微力若くは一個の志願としては、余りに大な希望なれども、天に対し神に向ひ、斯の如き期念を持つと云ふ事は、縦令相応はしからぬ希望であるとしても、決して不都合なる事ではないと思ふのでございます。それで、従来日米の関係に就ては、細大と
 - 第43巻 p.113 -ページ画像 
なく力を尽したいと思うて、今日まで殆ど二十年に近い幾月を経て居るのでございます。是が即ち今度亜米利加に旅行を致さうと、思ひ定めた所以でございます。何だか本問題に入る前置きが大変長うございましたけれども、今日までの沿革を一応申述べたのであります。
 日米の国交は当初コムモンドル・ペリーが来て、多少脅迫的に国を開かせられました、爾来総ての公使を悉くは記憶しませぬけれども、第一にタウンセント・ハリス、其後種々な大使・公使が来られて両国の国交も都合好く、又好い具合に物産の出合がついて貿易も進んで参り、取引上から言つても、社交上から見ても寔に程好く進んで参りましたが、十数年前から不図起つて来たのが、加州に於ける多数の日本移民を、加州人が排斥すると云ふ所謂排日問題であつた。蓋しカリフオルニヤ州に日本人が行つたと云ふ其原因は、日本から無理に割込んだと云ふ訳でなくて、加州人が招いて行つたのである、尤も布哇から転航した者もありましたけれども、其初めは至つて善い有様でありました。然るに十数年前から、加州の白人労働者から之を嫌ふたのが主なる原因で、排日と云ふ問題が現はれて来た。忘れもせぬ、小村侯爵が外務大臣の時、明治四十年に例の紳士協約と云ふものが成立したのであります。それは日米条約では、日本の移民が行つて勝手に土地を持つことは出来ぬのであるに就て、是からは移民を遣ると云ふ事をせぬ、其代り日本の移民を虐待せぬと云ふやうな意味の、懇親上の相互的協約でありました。併し之に続いで其時の我が政治家は、亜米利加は、国民多数の輿論を大切にする国であるから、政治上にも勿論努めねばならぬけれども、民間から能く情意を通じて、両国民の間に意見の交換が、十分に出来たならば宜からうと云ふ事で、四十一年に米国太平洋沿岸の八商業会議所の人々を日本に招待する事になり、四十余人の米人が日本に参りました。其時に私も其接伴役を勤めましたのが事実に於て日米関係に手を染めるの初めでございました。其時は故中野武営君が、東京商業会議所の会頭でありましたが、私は其前の会頭であつたのと、懇親の厚い関係とで、商業会議所議員の仲間に入つて亜米利加から来るお客の接伴方になつて呉れと云ふことで、国際上必要な事と考へて之に従事し掛けたのが、今日まで尚ほ継続して居るのでございます。
 其翌年は、渡米実業団と云ふものを組織して、渡米致しました、是は東京始め六商業会議所から多くの人を選出し、他の方面からも人を加へて、私は会議所の議長ではなかつたけれども、相集つた人の中では年長者であるし、亜米利人も知つて居ると云ふので、団の代表者、即ち団長と云ふ名を附けられて、渡米致し、前後四箇月、巡回した都市が五十六箇所と覚えて居ります。随分忙しい旅行を致しました。唯だ遊覧的の旅行ではなくて、兎に角情意を徹底せしめ、思想の交換、事物の融合と云ふ趣意に依つて、米国各地を巡回して参りました。けれども、さう云ふ事をしたから、都合好く一般の人気が融和して呉れるかと思ふと、其後も色々な面倒が生じて来て、殊に加州に於ける有力なる米国政治家は、其位の事では容赦して居ない、頻に日本移民を逐斥けて返さうと云ふ悪意を以て努めました、のみならず、単り加州
 - 第43巻 p.114 -ページ画像 
に居る日本人を嫌ふと云ふよりは、新たの言葉で云ふ敵本主義で、政治の関係から、其地方の多数が日本人を排斥するに乗じてそれを一つの道具に使つて、自分の政治上の地位を取らうと云ふ野心もあつた。其事に就ては、亜米利加の上院議員の人、或は州の議員、或は新聞の主筆等にて、二・三の人は其名も著しく聞えて居ります。それ等の人人が首脳に立つて、なかなかに反対論が強い。遂に四十二年から後に大正二年に、日本人が土地を持つ事、又亜米利加に移住して居る者が亜米利加人から土地を貸借する事に就て、一つの制度を定めて、日本人が農業をし悪いやうにしました。それが千九百十三年の土地法であります。此時にも私は、故中野武営君と協議して、東京に日米同志会と云ふものを作つて、添田博士・神谷忠雄君の二人を米国に派遣して其立法をどうかして幾分緩めるやうにと、種々心配して見ましたが、無論満足には往かなかつた、然るに其土地法は、日本人の農業者には随分迷惑な法律と思つて居つたら、後から見ると、又大に抜ける途もあつて、左まで日本の農業家に取つて迷惑でない、日本の農業家に迷惑が少いと同時に、其方法を講じた人々は、あんなものではいかぬ、是は更に酷にしやうと云ふ考を強く持つて居つたのである、それが即ち昨年の国民投票となつた、此事はもしや生じはしまいかと云ふ心配を私共は前から持つて居りました。それのみならず、東部紐育方面の商工業者は、支那関係に就て、日本の政治、若くは日本人の支那の事業を経営する処置に就て、慊らぬ感情を持つて居りましたので、私は大正四年に又米国を旅行致しまして、桑港の博覧会に参列すると同時に加州移民の事及東部商工業者と支那に於ける関係を円満ならしめたいと思うて、特に日米協力支那開発と云ふ標題を以て、頻に紐育若くはボストン、ヒラデルヒア等に於て、政治家又は実業家に談話しました、其際敢て反対説は強くはなかつたけれども、十分にそれが容れられたとは言ひ得ぬやうでございました。去りながら、其頃は加州に於ける移民に就ては寧ろ大分緩和して、博覧会の賛同などは、カリフオルニアの人、就中桑港の実業家などは、日本に好感を持つて、此姿ならば大に良からうと思うて帰つたのでありました。
 然るに、其後又追々と、排日気分の深くなつて来たと云ふのは、大正四年はまだ欧羅巴の戦乱に亜米利加が参加せぬ前であつたが、戦争に参加の後、段々亜米利加の人気をして、日本に悪感を生ぜしむる様な事が多く生じた、其一・二の例は諸君もお聴きになつて居りませうが、大正四年であつたか、我邦より支那に対する二十一箇条の要求である、之に付ては、支那人から頻に、日本は狼である、隣国の羊を虐待すると吹聴した、そこで亜米利加人は、どうも狼は怪しからぬ、欧洲の騒乱を機会として鬼の留守に洗濯をする、火事場泥棒のやうなものである、と云ふ感じが強く生じたやうに見えた故に、私共の小さい声で、日米協力支那開発と云ふ公平説も、悪く申せば胡麻化し言葉を以て、支那の事業を日本人が独占しやうと思うて居る如くに疑惑された、或はそれ程に思はぬ人も、疑惑の声が高ければ、又それを信ずる人もある、中には道理正しく解釈する亜米利加人も、沢山あつたけれども、追々に亜米利加人の日本に対する感情が、大正四年ころよりは
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寧ろ悪くなつたのでありました。さなきだに加州の排日党の首領は、大正二年に立てた土地法が大に修正されて、所謂骨抜になつて居る為に、段々に借地が殖えて行く、日本の農業家に苦痛がない、斯の如きは、折角日本人を苦しめやうと思ふた値打が見えぬから、是は大に考慮せねばならぬと云ふので、遂に昨年の国民投票が起つたのである。日本人から云へば、随分迷惑至極な訳であるけれども、攻撃者から見たならば、折角摘むだ穂が又出て来るから、其出て来る枝を切り取ると考へたのも無理もないのであります。
 私は斯様に事が懸念に堪えませぬ為に、既に桑港の米人間に日米関係委員会と云ふものが出来て、大正四年に私が桑港に往訪して、其会と打合せて日本に帰つて、東京にも同じく一会を組織して、阪谷男爵などは其会に最も有力なる一人である、金子子爵・目賀田男爵・瓜生男爵・添田博士、日本銀行の井上総裁、横浜正金銀行頭取、或は三井岩崎両家の人々、其他米国に事業関係のある人々は多く之に加入して現に三十余人の会員で組織して、或る機会には打寄つて種々な相談を致して居ります、況や前に陳べた様な心配に対しては、是非何とかせねばなるまいと云つて、種々協議の末桑港に設立せる在米日本人会に此関係委員会から、或る方法にて力添へをしたり、又は特に人を派遣して後援をしたのであります。左様な微力は添へましたが、国民投票の結果は、どうも大勢救ふべからずで、八十万人の投票に、六十万は排日側、残り二十万が反対したと云ふから、吾々の丹精は全体の四分の一しかなかつたと云ふ計算でありました。斯の如き有様にて、国民投票は通過して、多年の借地法も絶対廃止せられた、但し亜米利加の制度では、彼地で生れた日本小児は亜米利加人である、亜米利加人になつた人は少年でも土地が持てる、さりながら自分が持つた土地を自分で支配は出来ない、其親にも出来ない、裁判所の指定に依る後見人でなければならぬと云ふやうな、面倒なる方法を定められた。是等の制度が愈々決定したら困つたものであると思うて、昨年の春、桑港の人士、東部即ち紐育の人士、此両方面の同志者と十分に協議したならば、米国民の意見が幾分か融和するであらうと思ひましたので、桑港はアレキサンダー氏一行、紐育はヴアンダーリツプ氏一行の人々と、東京に於て協議会を開いて、私共は昨春は殆どそれに没頭したのであります。其苦辛惨憺も前に申す通り徒労に了りまして、其後加州の移民は如何なる景況であるかと、頻に懸念して居りますが、爾来実状を見て来た人々の報告も十人十色である。甚だ困難と云ふ人もあれば否日本人は農業に対しては、十分な地位を占めて居るから左までの困難はない、縦令三箇年の借地は出来なくなつても、相対の約束で分割法を以てすれば、土地は借りられると云ふ人もある、さう云ふ部分も或はあるかも知れぬ、併しそれが借地と同一ならば、排日党は又八釜しく言ふであらう、詰り苦しめやうとするのを免かれむとするのであるから、困難と云ふのと、困難でないと云ふのとは、見方に依つて多少差があるけれども、追々に移民に困難を来すやうになりはしないかと想像される。況や土地法の定つた時はどちらも同じく、生産物は高く売れると云ふ時代であつたから宜かつたが、其後亜米利加も日本も、
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農業の利益が大分低落して居りますから、それ等の不利益と共に種々な困難が起るであらうと思ふのでございます。それを私が救ふとか、緩和するとか云ふ事の出来る訳ではありませぬけれども、日米間の面倒な問題は、多くは加州の移民から起つて居りますから、どうかして之を緩和したいと云ふのは、吾々同胞に対しても、又両国国交の平和を望む一要務であるから、其実状が如何になつて居るか、私は叮嚀に見て来たいと思ふて居つたのであります。又桑港には、米人側の日米関係委員会と云ふものが、アレキサンダー氏を首脳として立つて居りますけれども、東部にはさう云ふものがなくて、先頃ヴアンダーリツプ氏一行が渡来したのは、個人の資格であつた、又大正五年の秋ジヤツジ・ゲリー氏も来遊して、私は色々と日米国交の事を話しましたが是も矢張ゲリー氏一個人であつた。然るに近頃紐育にゲリー氏もヴアンダーリツプ氏も加入して居る日米関係委員会が成立して、二箇月ばかり前に、シドニー・ギユリツク氏と云ふ人から、吾々の日米関係委員会に其報告をして参りました。其会長は私はまだ面識がありませぬが、ビツカーシヤムと云ふ人で、副会長は私の知人たるハミルトン・フオルトと云ふ人であります。此の新らしく出来た紐育日米関係委員会と、日本の同会とが聯絡をつけて置いたならば、将来の東洋の開発に就て、私共が常に唱へて居る事をしつかりと結着け得るであらう、一般に拡充するとまでに至らずとも、日米の同志者だけでも、十分に了解するやうになつたら、自然と亜米利加の政治界にも、相感応して行くであらう、斯く考へますと、誰か日米関係委員会の中から、米国へ行つて貰つた方が宜いやうに思うたのであります。
 曩に英吉利に向つて団体旅行をしたら宜からうと云ふ事を考へましたので、本年の正月頃英吉利のエリオツト大使に話したら、大使は非常に喜んでクローと云ふ横浜駐在の商務官をして、倫敦に通知をさせて、倫敦でも其筋の人が同意して、若しさう云ふ事があるならば十分に歓迎すると云ふ申越があつて、クロー氏から其事を私に通知して参りました。是に於て吾々は、遂に遣英実業団の組織を企てゝ、之を政府にもお話し、又実業界の人々にも色々勧誘しました。其企図が段々進んで、三井の団琢磨君が其一人に立つたが宜からうとお勧めするに当つて、日本銀行の総裁の井上君も、私と共に団君に勧めた末に、団君は亜米利加にも誰か行つたら宜からうと主張された。是に於て私は前に申す二個の企望の為には、已むを得ずは自分が亜米利加に行つたが宜からうと思ふて居つた際である、況や団君を勧めるには、先づ自ら犠牲になる位の考がなければならぬと思ひましたから、お前が飲めば私も飲みますと、酒家が飲酒を勧めるやうな具合で、玆に年寄の冷水を飲まねばならぬやうになつたのでございます。到頭、君が英吉利に行くならば、若し必要とあれば私は亜米利加に行かう、と云つて団君に勧めたのが段々と其話が進んで、遂に私が亜米利加へ行くべき事になつたのであります。
 其処へ今般の太平洋会議と云ふものが、偶然にも現れて出たので、日米関係委員の阪谷男爵は、太平洋会議と軍備縮少問題は、本会に於て常に焦慮して居るのであるから、此機会に於て、本会から此会議に
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誰か一人遣ると云ふ事が必要ではないか、詰り従来吾々の心配して居る亜米利加と日本との関係が、太平洋会議に於て、能く行つたら総決算がつくであらうと思ふのである、万一華盛頓が小田原と改名するかも知れぬが、それは吾々の深く嫌忌する所である。故に此総決算に当りては、縦令吾々公然の資格はなく、他人から云ふと余計の事と言はれるかも知れぬが、日米国交に付ては、長い間心配して居るのであるから、是非誰か一人派遣すると云ふことは、甚だ必要だと云ふ動議が生じたのである。而して誰かと云ふ中にも、金子子爵か又は渋沢などが適当であらうと云ふ事であつて、金子子爵は枢密院の要地にある人であるから、自由行動は出来ぬ、寧ろ渋沢の方が好からうと、玆に団氏との引合もあり、又太平洋会議視察と云ふ必要も生じて、愈々亜米利加へ行くことに確定したのであります。
 それに就ては、加州移民又は布哇移民の実状を成だけ叮嚀に研究して、又も物議の起らぬやうに、善後策の立ち得る限り努めて見たいと云ふ事が、第一の希望である。更に第二の望は昨年来られた桑港のアレキサンダー氏、紐育のヴアンダーリツプ氏に答礼もしなければならぬし、況や紐育に新日米関係委員会が成立したから、是れと十分聯絡を通じて来ると云ふ事も頗る要務である。而して是等の有志諸君と会合の場合には、先刻阪谷男爵の言はれたやうに、日本人多数の意見は斯うである、米国が其昔日本に開国を勧誘せられた六十年前の趣旨と反対にならぬやうに御注意下さいと云ふ事を、亜米利加の全国民に向つて、大声疾呼は出来ずとも、せめて小さい声で唱へるのは、決して矯激な所為と亜米利加人が思ひはしまいと信じます。私が今度米国旅行をすると云ふ事に立至つた理由は、概略右様な訳でありまして、或は既に其理由をお聴取り下すつた方もあらうと思ひますけれども、竜門社の諸君は万事腹蔵なき話の出来る方々でありますから、斯かる機会に、或は重複の事があつても、詳しく述べ置くのは、私の心遣りになりますから、諸君が聴きたいと思はぬでも、話させて頂きたいと思ふのでございます。
 そこで、是から私が米国に参つてどう云ふ事が出来るか、と云ふ適切な問題になるのでありますが、どうも私は思ふに、其効果は乏しからうと懸念します。前に述べた加州の移民、布哇の移民に対して、将来の善後策を考究すると云ふことは、私の知識が十分でないけれども心を罩めて調べて参つて、良い案が立ちまして、其案が行はれるやうになつたならば、将来の禍根を絶滅することが出来ると思ひますが、決して是は容易な事業でないと思ひます。唯だ惧れるのは、縦しや完全な調査が出来て、例へば二重国籍の事も、又は教育法でも、我が政府で吾々の希望通り行つて呉れるや否や、一寸疑問であると思ひます故に満足なる調査をするのも困難であるが、出来た調を果して履行すると云ふことに就て、心構へがあるかと問はれると、確言し難しと答へざるを得ぬのであります。又米国の日米関係委員会とても、左様に有力なものではない、第一の首脳者たるアレキサンダー氏と云ふ人は親切でいつも渝らぬ人である、私と同じやうに、十数年前から公平な意見を以てやつて呉れて居る、併し左様な有力者が沢山あるかと問ふ
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たら、否と答へざるを得ぬのであります。但し相当の同志者があつて関係委員会が成立して居るのでありますから、是から参つて相談を致したならば、将来移民に対する善後策に就ても、悪しかれとは思うて呉れぬに相違ないけれども、如何に満足な事が出来得るかと云ふことは、玆に明言し得る限りでないやうに思ひます。
 又紐育に出来た日米関係委員会は果してどれ程の性質のものであるか、名誉会員として参加された人々の名前を見ると、余程有力な紳士が連名して居る、ジヤツジ・ゲリーも、ヴアンダーリツプも、ヘボンも加入して居る、又ヘンリー・タフトもモツトと云ふ基督教界の有力者も這入つて居る。是等を名誉会員として、実務を処理するのはビツカーシヤム、ハミルトン・フオルトの両氏と、其他二十名ばかりの会員がある。此会とは其実際を見た上で、篤と将来を協議して参らうと思ひますが、蓋し私共の東京に於ける団体も、相当の力を尽して居りますけれども、世間に聞える所は未だ微弱であつて、大勢を動かすことが出来るかどうかと思ひます。而して吾々の殊に杞憂するのは、兎に角、亜米利加と英吉利と日本が賛同して、玆に軍備縮小の協議と太平洋会議とが、華盛頓に開かれると云ふ事は、実に千載の一遇とは思ひますけれども、唯だ名は千載一遇であつて、果して其実行が伴ふかと云ふことに就ては、多少懸念なき能はずであります。蓋し三国の中心に立つ人物が、真面目にやつて呉れるや否やと云ふことは、余り予言することは善くございませぬけれども、私は多少疑問なき能はずと申上げねばならぬのであります。縦令各政事家が真面目ならざるも、其為に此大事を等閑視することは、忠実な国民の為すまじき事と思ひますから、私は専心努力しますけれども、私の窃に懸念する事を、極く内々で諸君に申上げるのであります、但し私の帰りの土産が無かつた時の申訳と、諸君は御疑ひ下さるまいと思ふのでございます。昨晩も、英吉利に旅行する実業家の集会で私は主人側となつて相会して、旅行者の行動に就て、思ひ思ひの希望を述べ、又旅行者側よりも、留守居の人々に現在及将来に付て留別の辞がありまして、食卓の上に言葉の花が咲きましたが、其中の一人が、旅行者に対する注意は十分に了解したが、玆に提出する一問題は、支那に対し亜米利加に対し、英吉利に対して、我邦の今日の立場が十分に安心し得ぬ。支那の排貨と云ひ、亜米利加の排日と云ひ、其種類は違ふけれども実に心苦しく思ふ、又英吉利の日英同盟も、目今の有様は何だか頼りないやうに思はれる、是は外交の秘密であるから、此席に居る人にも明答は出来まいけれども、旅立つ人よりも留守する人に多少の考があるだらう、井上日本銀行総裁とか、末延海上保険会社の理事長抔は何等考案がありはせぬかと、大橋新太郎君の動議であつて、二・三の答弁もありましたが、蓋し問ふ人からは要領を得た答とは思はぬであつたらう、大橋君の此問は頗る重要であるが、其答は甚だ為し悪いのであります。第一は、支那と亜米利加が何故に我邦を左様に排斥するか、此処置はどうしたら宜からうか、排日の原因、排日の沿革、未来の落着と、斯様に大別して答へて貰ひたいであつたらう、旅行者が海外に於て他の質問でも受けた時、其要領が明瞭であつたら、寔に良い都合であるから、
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時に取つての必要な問であらうと思ひますが、是に対する答は誰にも完全な事は出来ぬ。
 併し私をして若し之に答へさせれば、全体我邦の外交が常に変化多く右に行つたり左に曲つたり、高くなつたり低くなつたりするのが、一番悪いのである。一以て之を貫くやうにありたい、一とは何ぞや、至誠である、忠恕である、至誠忠恕で本当にやつて行けば、左様な疑惑も起らず、嫌悪の情も生じはせぬ、畢竟今日あるは、対手国にも善くない所があるに相違ないから、其責を唯だ日本ばかりが受けるではないけれども、然らば日本には欠点が無いかと言うたならば、否な大にあると答へねばならぬ。果して欠点があるとするならば、能く之を理解し融和して、彼に対するやうにせねばならぬ、其関係の度合が長かつたら其弊害も長い、即ち長い月日が掛つて生じた病気は、之を治すにも長い月日を要する。畢竟脈絡なき不統一なる外交が、其原因を為したのであらうと思ひます。而して脈絡ある外交と云ふものは、辞令とか手際とか、術数抔で行けるものでない。然らば何を以てするか即ち至誠である。誠を以て接すれば、千年経つても、万年経つても変るものではないと思ひます。私が初めて欧羅巴に行つたときと、今日とは六十年に近い歳月を経過して居ります、即ち五十六年目になります、其間に於ける自分の身の上も、日本の位地も、西洋各国の有様も実に驚くべき変化であります。其頃はナポレオン三世が、実に世界を風靡した、千八百六十七年の仏国の博覧会の如きは、欧羅巴の帝王を悉く引付けたと云ふ程であつたが、其ナポレオン三世は、其後数年にして倒れて其帝政は速に共和政治に変化した。仏帝ナポレオンを倒した独逸のカイゼルはどうであるか、爾後覇を鳴らし、雄を鼓して、欧羅巴否な世界に跋扈したのである。併しそれも今日はどうなつたか、現に和蘭に屏息して、其居住さへ分らぬ程の有様である。一国の元首たる仏独の帝王が左様に変化して居る。又私の一身から言うても、其時には紅顔の美少年ではなかつたけれども、併し年齢は若かつた、それが斯の如く老翁になり、其思想も追々変化を来して居ります、故に世の中の変化は限りないもので、甚しきは雪が黒くなつて、炭が白くなるかと思ふ程であります。然らば何もかも左様に変化したかと云ふと、君に忠、親に孝、朋友に信といふが如き、五倫五常は千古不朽、万代不易であると云うて宜いと思ひます。
 斯く考へ来れば、国交に於ても然りで、術数を以てすれば変化する至誠を以てすれば変化しない。時代に於る多少の変化はあつても、其中心は決して変るものではないと思ひます。私は今日微々たる一閑人であるけれども、此見地に於て、至誠だけは五十年でも百年でも変らずして、亜米利加の人々にも交際する考でございます。今日来会の竜門社の諸君は、常に私の愚見を珍重して下さるから、竜門雑誌の冒頭にも、其要旨は記載してございます、諸君も必ず御愛読下さる事と思ひますから、斯かる機会に於て一言を列べるのであります。想ふに、世の変化は能く観察すると、変るものは次第に変つて行くけれども、変らぬものは少しも変らぬ、宋の蘇東坡の赤壁賦に、変ぜざるものより見れば斯々である、又変ずるものより見れば斯様であると云ふて、
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其変化するものとせぬものとの差別を論じた名文がありますが、是は多く時代に就て論じてあるが、私は精神上変ずべからざるものは、斯かるものであると申述べたのであります。故に私の人に対する交道は内外親疎を論ぜず、其変ぜざるものを、何処までも維持する積りであります。諸君どうか左様に御承知を願ひます。

竜門雑誌 第四〇一号・第二九―三三頁大正一〇年一〇月 ○送別の辞 男爵阪谷芳郎(DK430006k-0003)
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竜門雑誌  第四〇一号・第二九―三三頁大正一〇年一〇月
    ○送別の辞          男爵阪谷芳郎
  本篇は、十月二日午前十時より、帝国ホテルに於て、青淵先生の送別会を兼ねて、本社第六十六回秋季総集会を開きたる際、本社評議員会長阪谷男爵が、本会を代表して演じられたる送別辞即ち是れなり。(編者識)
 唯今より第六十六回総会を開きます。今回は御承知の如くに、青淵先生が御渡米になりますに就て、送別会を以て此秋季の総会に代へることに致しました。尚ほ青淵先生と御同行の本会員の中、堀越君・増田君、増田君は幹事であります、小畑君の三君を併せて、今回御送別致す次第でありますから、左様御承知を願ひます。
 青淵先生の此度の御渡米は、丁度海外御渡航の第五回目になります第一回は徳川家の末に、徳川政府の命を奉じて洋行せられたのであります。それから後の三回は、実業界を代表して御渡航になりました、此度は実業界の代表ではなくして、寧ろ人道を代表して御渡米になる斯う云ふ訳に承知致しました。言葉を換へて言へば、第一回の洋行は全然政治的意味の洋行である。其時の将軍の相続人とも申すべき民部大使を、欧米列国で御歓迎申上げたのは、丁度此度の我が皇太子殿下を御歓迎申上げたと同じ意味に於て、無論歓迎の程度は違ひますけれども、同じ意味に於て御歓迎申上げたのでありまして、其事は青淵先生六十年史の中の航西日記の中に詳しく出て居ります。列国の待遇振りは全く皇族を遇するの扱ひになつて居る。其民部大使を輔佐しての御旅行でありますから、純然たる政治的の意味で、日本の国威を大に輝かさう、斯う云ふ趣意に外ならぬのであります。其後の三十五年の欧米旅行、又其後米国へ実業団を率ゐて行かれたこと、千九百十五年の巴奈馬博覧会に行かれたこと、是は全く実業界を代表せられた、即ち博覧会の出品に就て行かれたと云ふ意味の中には、人道も加味して居りますけれども、先づ日本の実業家を代表する意味に於て、又米国と日本との関係を親密にし、殊に移民問題、支那の開発の問題に就ての話をすると云ふ意味も、無論千九百十五年の御旅行には籠つて居つたのでありますけれども、マア性質が主として実業家を代表せられる意味であつたのであります。
 此度の御旅行は無論実業家の歴史を帯びて居るのでありますし、又団君の御一行とも御一緒でありますから、実業家を代表せぬと云ふことは無論言へないのでありますけれども、併ながら七十七歳を以て実業界を退かれて以来、人道の為に一身を捧げて尽されて居るのでありまして、而して人道の為と云ふことは即ち世界の為め、日本の一国と云ふよりも広い意味でなければならぬ。其人道の為に尽されると云ふ
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趣意に依つて、此度の御渡米は主として成つたものであると私は考へるのであります。五回の御旅行は何れも国家に利益する所が大であつて、吾々会員は今より期待して居るのであります。而して青淵先生の八十二歳の歴史の上に於て、二十二・三、即ちペルリの日本に参つて続いて安政の条約、即ち米国に依つて日本が開かれた安政の条約頃から志を大きく立てられたのである。それまでの青淵先生は専ら一農家の仕事に従事せられて居つたのでありますが、米国の使節が渡来したと云ふ事が、其当時日本全国の民心を大に刺戟して、其最も強い刺戟を受けた一人として、是は大に国家の為に尽さなければならぬと云ふ念を起した其当時の青年中の最たるものであつた。是が即ち今より六十年程前であります。而して六十年経つた今日、日本を開きに来た米国を、或る意味に於て開きに行かれる、是は甚だ面白い関係であると私は考へる。六十年前の日本は、申すまでもなく全く海外の事情に通ぜず、国際の事情に通ぜず、異国船を見れば彼は皆な野心を包蔵して来たものと認めたのであつた。然るに段々交際つて見ると、和親通商道理を以て交際へば、少しも侵略と云ふ意味はないと云ふ事が明かになつて、爾来西洋の文明を日本に入れる、実業界にも西洋の知識を入れて開かねばならぬと云ふ考が起り、横浜を焼払つて外国人を殺さうとまでせられた青淵先生が、攘夷論を全然抛棄して、西洋主義に変じて日本の実業界に尽された訳であります。六十年を経過して、日本は世界の五大国の一に列し、此度の欧洲戦争に就ては、与つて非常な力がある、是は何人も否認することは出来ない。若し日本が此度の戦争に加袒せず、若くは反対の側に加袒したとしたならば、此世界の文明の結果、又世界の形勢はどうなるかと云ふことは、甚だ疑はしいのであります。日本は日英同盟の義務を重んじ、又世界の人道文明の為に剣を抜いて聯合国側に立つたのである。是が即ち五ケ年の欧洲の惨劇を、遂に決勝せしめたのである。勿論一国の力で勝敗が決したとは申しませぬが、併ながら日本の力が、此勝敗を決する上に於て、決して小さいものでないと云ふことは、明瞭である。而して其自然的報酬として、日本は世界の五大国の一に列し、今日に於て国勢が第三位に落ちないと云ふことになつた訳である。斯の如くに進歩致して見れば、今日の日本は六十年前の日本とは違ふ、世界の国勢の事情にも通じ、ヴエルサイユ会議にも列し、国際聯盟にも第一に加はり、以て世界の平和に貢献せんことを欲して居る。而も其国の力は決して此戦争に依つて疲弊して居らぬと云ふ国民である。然るに、米国は国際聯盟は発議したけれども、未だ之に加入せぬ、又米国は多少国際の事情に通ぜぬ所から、往年日本が外国人を忌み嫌つた如くに、今日は、米国が日本移民・支那移民等を忌み嫌ふと云ふことになつた、のみならず、日本の為すことを、総て野心を包蔵すると見るやうになつて来た。六十年前と全然形勢が一転して、ペルリの渡来の事情と、此度青淵先生の渡米の事情とが、全く互に義務を相殺すると云ふやうな形勢に変化して参つた、是は世界の歴史の不思議な出来事と申して宜しい。而も青淵先生の始りがペルリの渡来に始つて、遂に此度の使命を為されるに至つたのであります。大隈侯爵の説に依れば人間は百二十五、もつと
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其上に生きると云ふのでありますから、今後如何なる生命が、青淵先生の負担となるとも、是は予期せられませぬのでありますが、先づ普通の人間の働から論ずれば、八十二歳を以て海外万里の旅行に出ると云ふ事は、さう度々あり得ぬことゝ私は思ひます。今後に於て二度も三度も繰返されると云ふことは、先づそれは例外としなければならぬさう致しますと、ペルリの渡来に始つて、青淵先生の渡米を以て、日米の関係が全く是で融和附着する、斯う云ふ結果を見はせぬかと云ふことを、想像せざるを得ぬのであります。
 此度の太平洋会議に就ては、色々な疑を挟む人がある、是は全く其人の偏見に生ずるものであります。既に国際聯盟の出来た時分にも、国際聯盟と云ふものは、狼と羊とが一緒になると云ふ聯盟であつたから、到底出来ないと云ふ事を批評した人もあります。又此度の太平洋会議を批評して、狼と狼の寄合では、到底是が結果は見られまいと云ふやうな、批評をする人がある。若し狼即ち豺狼の野心を以て集る会議であつたならば、決して良い結果は見られませぬが、併ながら、私は矢張り、羊の心を以て皆が集まるのであらうと思ひます。世界の進運を見ますと、初は互に隔絶して居つたものが、次第に寄集つて相談する、是は国内でもさうである。一国の中でも隔絶して居つたものが次第に集つて相談すると云ふ形勢が、翻つて国と国との間に於てもさうなつて来る。此度の欧洲大戦争の始まるまで、千九百十四年七月二十五日から八月四日まで、此十日程の間に、英吉利の大政治家たるグレー氏は、畢生の尽力を以て欧洲戦争の起らざらんことを努めた。其唯一の手段は、会議を開くことである、兎に角寄つて相談をしやうではないか、電信を以て問答をして居ると誤解をするから、コンフエレンス即ち寄つて相談を開かうと云ふことを提議した。所が其寄つて相談を開く前に、事を起させたのが独逸の政治家である、寄ると必ず平和になるから、人が寄らぬ中に到頭戦端を開いてしまつた。是が世界の政治家が、独逸を責める一つの原因になる。又今日に於て、吾々の想像する所に依れば、若し当時グレー氏の説の如く、列国の代表者が集つたならば、唯一人の兇漢が、或る一人の皇太子を暗殺したと云ふことで、此大惨劇を五年間演ずるの必要が無かつたらうと云ふ事は、集つた人の知識に依つて、判断が出来るのであるが、到頭集まらなかつた。仮令豺狼の野心を以て集まる人であつても、集まれば豺狼の説は述べられず、次第に融和して来るのは屡々例があるのであります。是は会社の相談でも何でも、主なる株主とか重役が寄らずに相談をして居ると、距離が遠いが、段々寄つて話をするに随て、寔に穏当な所に結着するのである。労働の騒ぎでも、資本家と労働者と喧嘩をして居る間は何時までも、キリが着かないが、双方から代表者が出て相談をすると話が纏る。是は文明の進歩、知識の程度、道念の発達が、次第々々に会議に依つて事を決すると云ふことに進みつゝあるのであります。
 此度の会議は即ち矢張り羊の心、即ち善良なるウブな心を持つて、代表者が集まると見なければならぬ、又さう見た以上は、今日に於て日米間に解決の付かぬ問題は無い。即ち其主たる問題に就て、それぞ
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れ政府の有力なる代表者が任命されて、列国から集まるのでありますが、我が青淵先生のはそれには直接の関係はない。詰り青淵先生は全く人道と云ふ大なるものを包含して、日本の国民性を華盛頓・紐育の間に発揮せられる訳である。日本にも斯う云ふ意見を持つて居る人物があると云ふことを、発表するのであります、此空気を以て会議を抱擁したならば、必ず結果は良いと思ひます。二百十日の荒れ天気の下に会議を開くよりも、其外に人道を以て世の師表ともなるべき人が、意見を発表すると云ふ事は、総ての問題を解決せしむる空気を養成する上に於て、大変大切な事であらうと思ふのであります。それ故に今日、吾々竜門社員は深く愛する所の青淵先生を、殊に老境にあらるゝ青淵先生を送るに就ては、聊か御心配を申上げるのでありますが、併ながら、青淵先生の御健康と云ひ、又此度の御大役に就て、殊に何人の依頼も受けない、国民的発動に依る人道の為にせられる御渡米に対しては、満腔の喜びを以て送るものであります。どうぞ海外万里の御渡航、気候も変化のある事でありますが、一路平安に御旅行を遂げられて、又速かに御帰朝になり、有益なるお土産話を、此竜門社の総会に於て承ることを、今より楽んで御送り申上げる次第であります。
 殊に青淵先生に御同行の三君に対しましては、吾々は、吾々が共に送るべき任務を宜しくお願ひ致します。どうぞ此処に集つたる此数百名の会員が、総て自分が送り、自分が又御同行して帰りたいと云ふ、此心を三君に御託しする次第であると云ふ事を、御了解の上で、三君も亦一路平安、青淵先生と共に無事御健康で、目出度御帰朝の上、三君の視察せられたる側面観或は背面観・裏面観、色々な有益なる御話を、重ねて斯かる会に於て承りたい、是亦今より深く楽んで居る次第であります。
 私は玆に会員一同を代表致しまして、青淵先生並三君の御渡米に対して送別の辞を申上げます。(拍手)


中外商業新報 第一二七七一号大正一〇年一〇月三日 竜門社員の渋沢子爵渡米送別会(DK430006k-0004)
第43巻 p.123-124 ページ画像

中外商業新報  第一二七七一号大正一〇年一〇月三日
  竜門社員の
    渋沢子爵
      渡米送別会
竜門社は、二日午前十時其秋季総集会を兼ね、渋沢子渡米の送別会を帝国ホテルに開く、席定まるや
 阪谷男爵 は社員を代表し、青淵先生の外遊は既に四回、第一回は徳川幕府の時で、政治的意味のもの、残る三回は経済的旅行で、之は実業界を代表せられたもの也、然るに今回の旅は少しく趣を異にし、人道を代表せらるゝ訳である、即ち六十年前ペルリが来航して、日本を開いて呉れたと同じ意味で、今日米国の一部には、却て国際間の事情を諒解しない人々が幾分あるやうであるから、今度は此方から行つて、之等の蒙を啓くと云ふ趣旨で、先生が八十二才の高齢をも省みず此重大なる意義を有する旅行をなさる事は、実に我々壮者を奮起せしむる次第である、我々は、先生が一路平安此大任を果されて、無事御帰朝になる事を祈る、尚先生と行を共にせらるゝ堀越氏・増田氏・小
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畑氏御一行の無事を祈ると送別の辞を述べ、之に対し
 渋沢子爵 は今日の送別会を衷心感謝すと述べ、余は年少攘夷を唱へたる事あるも、其後我国には空疎なる政治論多く、国民の利用厚生を慮る者少きを憂へ、大いに欧米の物質文明を輸入するに努めたるが物質的進歩を見、知識の開発を見るも、人類の幸福は之のみにては増進せざるのみか、却つて不幸惨禍を見ることになる、即ち物質文明の進歩のみを以てしては、社会の福祉を増す所以でないことを悟り、大いに精神的方面に力を注ぎたいと考へた、而して二十年前から日米問題に注意し、明治四十一年、米国加州に日本移民問題起るに及び、始めて
 日米問題 に手を染めた、斯くして、明治四十二年には太平洋沿岸商業会議所の招きにより、訪米実業団を組織して彼地を訪問し、其後東京に日米関係委員会なるものを作り、更に桑港にもアレキサンダー氏の努力により、同種の委員会を作りたるが、二・三ケ月前には、紐育にも同委員会が生れ、タフト、ゲーリー、ヴアンダリップ諸氏の如き有力なる人物が、名誉会員になられたと云ふ有様なので、余の今度の行は、曩に来朝せられた諸氏への答礼を兼ね、旁前記委員会等の現状を見、両国間の問題を解決すべき充分なる調査をなし、尚出来得べくんば適当なる施設を為すに在るが、偶々太平洋会議開催に際して居る所から、之が主要討議題目たる
 軍備縮少 其他を満足に遂行するやうな空気を、同国の上下に造りたいと思ふて居る、近来我国は、米国・支那・英国等の国交が何等か不安があるやうに思はれて居るが、之は畢竟するに、我国従来の外交に一貫せる或物を欠いた結果である、此一貫せる或物とは何であるかそれは即ち至誠である、権謀や術数は結局成功するものでない、至誠こそは常に不変のものであるから、我国の外交も須らく
 至誠を以 て一貫する様にしなければならぬ、私は之を以て進みたい、諸君も亦此至誠を処世の大方針とせられん事を切望す
と述べ、右終つて食堂を開き、デザートの前、佐々木勇之助氏の発声にて一同立つて子爵の万才を三唱乾盃し、子爵の発声にて竜門社の万歳を三唱乾盃し、別室にて歓談に時を移し、午後三時散会せり、当日出席者は
 阪谷男・佐々木慎思郎・同勇之助・木村清四郎・服部金太郎・大川平三郎・高松豊吉・小池国三・植村澄三郎・日下義雄・山田昌邦・井上公二・昆田文次郎・堀越善重郎・山下亀三郎・高根義人・萩野由之・白石元治郎・石井健吾等
諸氏を始め約三百余名にて頗る盛会なりき
  ○本資料第三十三巻所収「第四回米国行」参照。