デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
5節 修養団体
1款 財団法人竜門社
■綱文

第43巻 p.124-134(DK430007k) ページ画像

大正11年4月16日(1922年)

是日、栄一ノ帰朝歓迎会ヲ兼ネ、当社第六十七回春季総集会飛鳥山邸ニ於テ開カル。栄一出席シテ渡米ノ顛末及ビ所感ヲ述ブ。


■資料

竜門雑誌 第四〇八号・第五六頁大正一一年五月 ○本社評議員会(DK430007k-0001)
第43巻 p.125 ページ画像

竜門雑誌  第四〇八号・第五六頁大正一一年五月
○本社評議員会 本社評議会員は四月十六日午前九時半、曖依村荘内晩香廬に於て開催せられ、左記諸氏出席の上、阪谷評議員会長より第一号議案「大正十年度社務及会計報告」第二号議案「入社申込者諾否決定の件」第三号議案「第六十七回春季総集会並青淵先生帰朝歓迎会開催の件」等を附議せられたるに、孰れも満場一致を以て原案を可決したり
 石井健吾君   土岐僙君     渡辺嘉一君
 高根義人君   八十島樹次郎君  増田明六君
 明石照男君   佐々木勇之助君  清水一雄君
 渋沢武之助君  杉田富君     鈴木紋次郎君


竜門雑誌 第四〇八号・第四九―五六頁大正二年五月 ○春季総集会並青淵先生帰朝歓迎会(DK430007k-0002)
第43巻 p.125-132 ページ画像

竜門雑誌  第四〇八号・第四九―五六頁大正二年五月
    ○春季総集会並青淵先生帰朝歓迎会
 本社に於ては、四月十六日を卜し、曖依村荘に於て青淵先生帰朝歓迎会を兼ねて、第六十七回春季総集会を開きたり。時恰も郊外散策の好季節、三々伍々筇を曳きつゝ来会せる会員諸君三百有余名、定刻午前十時、振鈴を相図に会場は開かれ、幹事石井健吾君登壇、大正十年度社務及会計報告を為したり。即ち左の如し。
    大正十年度社務報告
 社則第二十二条により社務報告をなすこと左の如し
一会員
 入社  {特別会員 一七名通常会員 三〇各}         合計四十七名
 退社  {特別会員 一〇名通常会員 一五名}         合計二十五名
 現在会員{名誉会員 一名特別会員 四四五名通常会員 五六三名}合計一千九名
一現在役員
 評議員会長       一名
 評議員(会長幹事共) 二十名
 幹事          二名
一集会
 総集会         二回(但内一回は青淵先生渡米送別会を兼ねたり)
 評議員会        一回
一雑誌発行部数
 毎月一回        約一、一〇〇部
 年計          一三、二三〇部
 此の如くして聊か本社の目的を遂行することに努めたり
    会計報告
      収支計算
        収入之部
一金六千九十七円八十一銭    配当金及利息
一金二千一百八十円也      会費収入
一金二百六十一円也       寄附金収入
 - 第43巻 p.126 -ページ画像 
一金三十五円六十銭       雑収入
合計金八千五百七十四円四十一銭
        支出之部
一金一千五百六十四円三十銭   集会費
一金二千三百四十五円四十一銭  印刷費
一金一千二百円也        俸給及諸給
一金一千五十四円二銭      郵税及雑費
  合計金六千一百六十三円七十三銭
差引超過金二千四百十円六十八銭
           但積立金に編入したり

      貸借対照表
        貸方之部
一金三万九千九百三十一円三十六銭 基本金
一金二万七千六百八十二円三銭   積立金
一金一万三千円也         借入金
一金四百五十五円五銭       銀行当座借越金
 合計金八万一千六十八円四十四銭
        借方之部
一金八万三百九十七円二十五銭   有価証券
    内訳
 一金五万七千円也     第一銀行旧株九百株(一株に付金六十三円三十三銭の割)
 一金二万二千五百円也   第一銀行新株九百株(一株に付金二十五円の割)
 一金八百九十七円二十五銭 四分利公債額面一千円(額面に付金八十九円七十二銭余の割)
一金五百七十八円六十六銭     仮払金
一金七十一円十銭         什器
一金二十一円四十三銭       現金
 合計金八万一千六十八円四十四銭
 
右の報告終るや評議員会長阪谷男爵登壇、歓迎会開会の辞を述べられて曰く
  閣下並に諸君、今日は我竜門社の恩人たる青淵先生の米国より帰られましたことに付きまして、玆に歓迎会を開き、斯く多数の御来会を得ましたことを感謝致すのであります。且つ天気も仕合せに非常な好都合でございまして、是は特に幹事諸君の尽力よりも、所謂天祐であつて、天も亦此歓迎会に賛成を表せられたと申さなければならぬ。昨年先生を送りました時分には、洵に重大なる御任務で、どうしても先生を煩はすの外ないと云ふ決心より、御送り申しましたのでありますけれども、御高齢のことゝ云ひ、内心は甚だ御同様心配を致して居つた訳でありますが、想像以上に御健勝であらせられて、却て随行した若い人の中には病人があつたと云ふやうなことで、随行した所のお医者さんも、若い人の為に薬を盛つたけれども先生の為には薬を盛るの必要がなかつたと云ふやうな次第でありまして、又お帰り後も至つて御壮健であると云ふことは、吾々竜門社員として御慶びを表する次第であります。
  昨年先生の御旅行は、実は重大なる事でありました。日米関係が
 - 第43巻 p.127 -ページ画像 
支那問題又移民問題に就て、段々険悪になつて来て、識者の憂へて居る所でありましたが、之に加へて欧洲大戦の結果と致して、非常に又世界の形勢が一変して参り、日本に対する地位を或は妬み、或は羨み、色々なる事情から、日本が又世界平和の事に就て、重大なる関係を持つ地位に立つて、甚だ此日本の立場が所謂孤立困難に陥らんとしたと云ふやうな状況であつた。固より列国の識者の間には此欧洲大戦争の後に於て、再び又戦乱を繰返すと云ふことは得策でない、又人道上宜しくないと云ふことは一致して居る所でありますけれども、世界の形勢と云ふものは、どうしても其識者の力のみに待つ訳に行かない。時として一般公衆の感情に支配せらるゝと云ふことを免れぬのであります。最初に世界の識者の企てた所謂国際聯盟に依つて、従来の平和を維持しやうと云ふ計画が、米国上院の不同意の為に蹉跌致しまして、是に於て甚だ有識者は憂へて居りました。所が幸に又華府会議を開くと云ふことになりまして、此華府会議に於て識者が集つて、将来の平和の基礎を定めやう、兎に角大体の方針が定らぬと、何分此世界平和の順序を立てる訳に行かない、殊に日英同盟の関係と云ふものが一種の問題となつて、甚だ世界の識者を悩した訳でありましたが、華府会議の結果として、日英同盟と云ふことも、更に之を拡張して四国の協約になり、又極東問題に就ても諒解が徹底致し、軍備の縮少も約束が略々出来上つた。斯う云ふことになりましたから、更に世界の識者は此後を善くする為に今ゼノアに於て列国会議を開くに至つた。是は欧洲の事情が独逸・露西亜、孰れも未だ安定致して居らぬに依つて、是等の問題に就て就中独逸の償金支払の問題が、経済界の不安を来しましたから、是等の事に就て大体の方針を一致せしめやうと云ふ重大の会議に移つて居ります。是は即ちヴエルサイユの会議からして華府会議に転じ華府会議よりして、更に欧洲一般の安定に関するゼノア会議に移つて居る、ゼノア会議の前途は今日の所甚だ気遣はしい、殊に仏蘭西の政治上の事情が少しく面倒になつて居ります。併し既にヴエルサイユの会議で一つの大なる箍を掛け、更に華府会議で以て第二の大なる箍を掛けました、謂はゞ欧羅巴の此度のゼノア会議には、二つの箍が既に掛つてある、此上にもう一つ掛け様と云ふのでありますから、是は兎に角さう重要のものではない。一番重要であつたのは華府会議の最中の箍であつて、若し此箍が巧く掛からぬと、日米の間干戈相見ゆると云ふことが無いとも限らない。是は事の行掛りでありますから、どうも唯識者の議論のみが常に行はれると云ふ訳には行かない。殊に問題が移民問題に引ツ懸つて居りまして、此移民と云ふ問題は甚だ面倒い問題である。而して人気を悪くする。如何となれば自分の同胞が侮辱を蒙むると云ふ問題でありますから、さうなると是が非でも干戈に訴へる、昔より人種問題位面倒の事はない。現在でも世界の平和を乱して居るのは、人種と人種の争が主に原因を為して居る。愛蘭の事と云ひ、印度の事と云ひ、埃及の事と云ひ、又日本でも朝鮮の問題、台湾の問題の如き、甚だ小ながら面倒い。さう云ふ訳でありますから、此華府会議に於て、独り政治家
 - 第43巻 p.128 -ページ画像 
の代表ばかりでなく、能く国民を代表し得る、又世界の人が、其人の公平無私なることを認識して居つて、直接に向ふの公衆なり又有力者に向つて話すより外に、緩和の手段がない、是に於て、青淵先生を煩はすの外には途がない、他に代る人がなかつた。御年齢と云ひ、御経歴と云ひ、御位地と云ひ、又平素懐抱して居られる議論と云ひ、又能く内外に――殊に亜米利加に知られて居られる事と云ひ他に代る人がない。故に御高齢にも拘らず、御苦労を願つたと云ふやうな訳でありますが、果して其人選が洵に適中致しまして、到る所非常なる歓迎、平素排日思想を持つて居る人も、先生の前には何も悪意は持たない。又厭悪の念を持たない。洵に年取つた老人が深切に、真に心から平和を希望して、遠路来て呉れた、気の毒の事だ実に吾々も其通り平和を望まなければならぬと云ふ念を以て迎へられた。極端なる排日論者まで、先生に向つて歓迎の辞を述べられたと云ふ訳でありまして、洵に吾々の期待した任務が完全に遂行せられた次第であります。此華府会議の政治上の方面に就て、先生が間接直接に好影響を此会議の結果に及ぼされたと云ふことは、是は勿論の事でありますが、併ながら是は先生の表向の任務ではない。詰り両国の国民の事情を疏通して、好き空気を造ると云ふのが、先生の任務でありまして、問題其ものに直接触れて、所謂樽爼折衝と云ふやうな事に、先生が加はられるのではない、謂はゞ唯好き空気を造り、事情の疏通を図り、和気靄々の裡に、互に公平なる相談の成立するやうにと云ふことに、尽力されたに止まる訳であります。併ながら、先生の最も重きを置かれたのは移民の問題であります。此移民の問題は多年の懸案で、今日如何ともすることが出来ない問題になつて居るので、是は日本人も能く了解し、米国人も能く了解して、極て正しき所に解決しなければならぬ。西洋の言葉に如何なる問題でも、正しく解決の着く迄は解決されないと云ふ諺があるが如く、正しき解決の着く迄は解決の著くものではない。即ちライトリー、セツトルド、正しき解決の道を開く為に、先生は此努力を尽された。即ち加州沿岸を寒中を厭はず、北の方まで行かれたり、又布哇にも数日滞在されて、即ち日本の在留民に向つて善き道を説き又亜米利加側の人に対しても道を説いて、此問題を正しく解決するライトリー、セツトルドの道を講ぜられた訳であります。是は亜米利加・日本、双方の国民が手を焼いて居る問題で、今日まで矢張両国の間に始終面倒を醸す原因を為して居る、一つの病源となつている此病源を除くと云ふことは、もう殆ど政治家では力が尽きたと云ふ位の問題である。即ち此度の御旅行に依つて其道を開き、遂に両国間に好き了解を見出すと云ふことに努力せられた、此御任務は非常に大なるものであらうと思ふ。若も先生の此任務がそれぞれ効果を現しまして、移民問題も相当な解決を見るに至りましたならば、即ち将来永遠に両国間の親交を害する禍源となるべきものが、玆に解除されたと云ふことになる。即ち先生の此度の御旅行が、如何に重大であつたかと云ふことは、是に於て益々明白になつた次第であります。殆ど之を大きく申せば、世界の平和の為に三つの箍を掛ける
 - 第43巻 p.129 -ページ画像 
に就て、其真中の箍を締めるのに非常な関係があつた。桶屋が金槌を以て之を固める、其金槌の一つ二つは先生が叩かれたのであると言ひ得られるのであります。将来の世界平和史上に、如何に此事が関係があつたらうかと云ふことを、吾々が玆に竜門社員として記憶して当然であらう。又吾々竜門社員と致しましては、我社より斯の如き人が現れて、吾々を多年指導せられたのみならず、世界歴史の上に一つの恩恵を留められたと云ふことは、心の底より喜ぶ次第であります。只今此席へお出になりました外国のお方は、お一人はミスター・パーマー、お一人はミセス・パーマーと云うて、丁度加州からお出になつた有名の実業家で居らつしやる。矢張此移民問題に就て青淵先生が加州に居られました際に、極て青淵先生の一行を懇切に待遇せられたのであります。今日青淵先生のお客として此王子のお屋敷へお出になつたのに、丁度此会が始つて居りましたので、殊に只今私が青淵先生の歓迎の辞を述べまする際に、御臨席になつたと云ふことは、洵に偶然の事でありますけれども、吾々は亜米利加側に、斯の如き好紳士・好婦人があつて、共に倶に此平和の鍵を堅く握つて戴くと云ふことに就て、多大の感謝の念を共に表したいと思ひます。洵に青淵先生に対して世界平和の為に歓迎の辞を述る其将に辞の終らんとする所に、偶然此御夫婦の御出になりましたと云ふことは、是れ亦天の引合せと申すの外はない、是に於て愈々両国の親密は堅くなり、又世界の平和は堅くなつたと、斯う断言して憚らぬのであります。之を以て歓迎の辞と致します。(拍手)
 玆に於て青淵先生登壇、謝辞を兼ねて、渡米の顛末及所感(追て本誌掲載)を述べられて式を終り、最後に阪谷男爵より、折柄曖依村荘に来訪せられたるパーマー氏及夫人を紹介せられたり、即左の如し
      紹介の辞
  只今丁度偶然にお出になりましたミストル・パーマー、ミセス・パーマー両君を、私より御紹介致します。此御方は、加州に青淵先生並に御一行の滞在中、非常に深切に待遇して下すつたことであります。今日丁度、青淵先生の午餐のお客として御出になりました。我竜門社と致しまして、青淵先生に対する御好意に対し、感謝の意を表する為に、玆に諸君に対して万歳を表せられんことを希望致します。
  ミストル・パーマー、ミセス・パーマー万歳
    (会衆唱和)
      ミストル・パーマー氏挨拶
  亜米利加に渋沢子爵、並に一行がお出下さいまして、亜米利加の人は洵に大なる尊敬と歓喜を以て之を迎へたのであります、今日又此席に出まして、渋沢子爵並に御友人の方々に御目に掛りましたことを光栄と致し、並に、只今の御厚意に対して深く感謝致します。
                         (拍手)
 右終るや、是れにて本会を閉会し、引続き園遊会に移れり。例に依り、生麦酒・燗酒・天麩羅・煮込・寿司・蕎麦・甘酒・団子の模擬店を開き、余興場に於ては太神楽奇術の余興あり、各自十二分の歓を尽
 - 第43巻 p.130 -ページ画像 
して、帰途に就きたるは午後四時前後なりき。当日の来賓及来会社員は即ち左の如し
    △来賓
 青淵先生
    △特別会員
 伊東祐忠君    五十嵐与七君   今井又治郎君
 石井健吾君    池田嘉吉君    飯塚八平君
 速水柳平君    長谷見次君    林愛作君
 長谷川太郎吉君  服部捨太郎君   長谷川粂蔵君
 林武平君     原胤昭君     西野恵之助君
 西谷常太郎君   西田音吉君    堀井卯之助君
 堀内明三郎君   富沢充君     土肥脩策君
 土岐僙君     戸村理順君    豊田春雄君
 利倉久吉君    尾高幸五郎君   織田雄次君
 大野富雄君    大原春次郎君   尾高豊作君
 大山昇平君    大西卯雄君    大橋悌君
 渡辺嘉一君    渡辺得男君    和田義正君
 神谷十松君    金谷藤次郎君   川田鉄弥君
 神田鐳蔵君    片岡隆起君    鹿島精一君
 川島良太郎君   横山徳次郎君   滝沢吉三郎君
 田中徳義君    高橋波太郎君   竹田政智君
 高根義人君    竹内実君     田中楳吉君
 田中太郎君    竹村利三郎君   高橋金四郎君
 高松録太郎君   塘茂太郎君    坪谷善四郎君
 中村高寿君    中田忠兵衛君   成瀬隆蔵君
 永野護君     永田甚之助君   野口半之助君
 野中真君     久住清次郎君   倉沢賢治郎君
 倉田亀吉君    山中譲三君    安田久之助君
 簗田𨥆次郎君   矢野由次郎君   八十島樹次郎君
 山口荘吉君    山田敏行君    山下亀三郎君
 松村守一君    松本常三郎君   増田明六君
 松平隼太郎君   松谷謐三郎君   藤巻太一君
 古田錞治郎君   古橋久三君    藤森忠一郎君
 河野正次郎君   河野通君     小池国三君
 小畔亀太郎君   小西喜兵衛君   小林武之助君
 江藤甚三郎君   江藤厚作君    手塚猛昌君
 甘泉豊郎君    有田秀造君    阿部吾市君
 明吉富士男君   明石照男君    浅井佐一郎君
 浅野泰治郎君   安達憲忠君    佐藤正美君
 阪谷男爵     佐々木勇之助君  桜田助作君
 佐々木清麿君   木村雄次君    弓場重栄君
 三好海三郎君   守随真吾君    柴田愛蔵君
 清水一雄君    清水釘吉君    白石甚兵衛君
 渋沢義一君    渋沢武之助君   渋沢正雄君
 - 第43巻 p.131 -ページ画像 
 渋沢秀雄君    渋沢敬三君    白石元治郎君
 白石精一郎君   白石喜太郎君   弘岡幸作君
 肥田英一君    諸井恒平君    諸井四郎君
 関直之君     関根要八君    杉田富君
 鈴木紋次郎君   鈴木善助君    鈴木金平君
    △通常会員
 伊藤英夫君    石田豊太郎君   伊沢鉦太郎君
 入江銀吉君    石井与四郎君   井上成一君
 家城広助君    家田政蔵君    井田善之助君
 磯村十郎君    飯島甲太郎君   井出轍夫君
 飯沼儀一君    石川二郎君    伊藤保雄君
 蓮沼門三君    浜口嘉一君    早川素彦君
 橋本修君     伴五百彦君    秦乕四郎君
 西潟義雄君    西正名君     西村暁君
 西尾右三郎君   堀口新一郎君   東郷郁之助君
 友野茂三郎君   奥川蔵太郎君   太田資順君
 大野五三郎君   大井幾太郎君   小田島時之助君
 大塚四郎君    岡崎寿市君    大石良淳君
 落合太一郎君   岡原重蔵君    織田槙太郎君
 岡崎惣吉君    大平宗蔵君    大木為次郎君
 小川銀次郎君   小倉槌之助君   岡田熊吉君
 渡辺喜雄君    鷲尾貞蔵君    渡辺轍君
 川口寛三君    上倉勘太郎君   金沢弘君
 加藤伊蔵君    笠間広蔵君    金子四郎君
 河見竹之助君   神谷祐一郎君   神谷善太郎君
 金沢通誠君    吉岡慎一郎君   吉岡鉱太郎君
 吉岡義二君    高橋森蔵君    田淵団蔵君
 玉江素義君    玉木真君     滝本真一郎君
 田村叙卿君    田子皖庸君    田島昌次君
 高橋光太郎君   高橋毅一君    曾志崎誠二君
 辻友親君     鶴岡伊作君    根岸綱吉君
 中山輔次郎君   内藤太兵衛君   中村松太郎君
 中野時之君    中西虎之助君   長宮三吾君
 村山革太郎君   村松秀太郎君   浦田治雄君
 上原久二郎君   宇野芳三君    梅津信夫君
 内海盛重君    野治忠直君    野口米次郎君
 野村喜一君    野村鍈太郎君   野島秀吉君
 野治義男君    黒沢源七君    熊沢秀太郎君
 久保田録太郎君  紅林英一君    九里真一君
 山本鶴松君    八木安五郎君   八木仙吉君
 山口乕之助君   山村米次郎君   大和金太郎君
 安田武彦君    山本宣紀君    山田太熊君
 山下大吉君    安井千吉君    松園忠雄君
 松本幾次郎君   万代重昌君    馬淵友直君
 - 第43巻 p.132 -ページ画像 
 松井猛三君    松沢広夫君    松村修一郎君
 藤井政蔵君    藤木男梢君    古田元清君
 福島元朗君    福島三郎四郎君  藤里稲田君
 福田盛作君    近藤竹太郎君   小林茂一郎君
 河野間瀬次君   小島順三郎君   後久泰次郎君
 小林徳太郎君   小林梅太郎君   近藤良顕君
 小見波隆朔君   小山平造君    江原全秀君
 江口百太郎君   出口和夫君    安孫子貞治郎君
 粟飯原蔵君    粟生寿一郎君   阿部久三郎君
 浅木兵一君    明楽辰吉君    佐藤林蔵君
 座田重孝君    斎藤亀之丞君   桜井竹蔵君
 猿渡栄治君    佐藤金三君    桜井武夫君
 斎藤又吉君    三枝一郎君    三瓶覚君
 佐野金太郎君   木村金太郎君   北脇友吉君
 木下憲君     湯浅孝一君    水野豊次郎君
 宮谷直方君    御崎教一君    峰岸盛太郎君
 三輪清蔵君    蓑田一耕君    湊屋梅吉君
 東海林吉次君   重野治右衛門君  塩川薫君
 渋沢智雄君    島田延太郎君   清水百太郎君
 柴田亀太郎君   塩川政巳君    清水鑙君
 清水景吉君    平賀義典君    平塚貞治君
 森戸伝之丞君   門馬政人君    瀬川太平次君
 関口児玉之輔君  瀬川光一君    杉田丑太郎君
 鈴木房明君    鈴木勝君     鈴木富次郎君
 鈴木正寿君    菅野肇君     鈴木豊吉君
   其他
 穂積男爵令夫人を始め三十余名
 尚ほ当日同会に対し左記諸君より寄附金を辱せり、玆に謹んで御芳志を謝す
 金参拾円也           佐々木勇之助殿
 金参拾円也           東京印刷会社殿
 金弐拾円也           穂積男爵殿
 金弐拾円也           阪谷男爵殿
 金弐拾円也           神田鐳蔵殿
 金拾五円也           白石元治郎殿
 金拾円也            浅野総一郎殿
 金七円也            小池国三殿
 金五円也            星野錫殿
 金五円也            八巻知道殿
    以上
  ○右総集会ニ於ケル栄一ノ演説ニ就イテハ、本資料第三十三巻所収「第四回米国行」大正十一年二月十二日ノ条参照。


中外商業新報 第一二九六七号大正一一年四月一七日 竜門春季総会 渋沢老子爵歓迎(DK430007k-0003)
第43巻 p.132-134 ページ画像

中外商業新報  第一二九六七号大正一一年四月一七日
 - 第43巻 p.133 -ページ画像 
    竜門春季総会
      渋沢老子爵歓迎
竜門社の第六十七回春季総集会と渋沢栄一子の帰朝歓迎会とは、十六日午前十時から、王子なる曖依村荘(渋沢子邸)で開かれた、社務と会計報告があつて後、阪谷芳郎男歓迎の辞を述べ、次で渋沢子爵は渡米の動機と渡米する迄と渡米中の動作経過を物語つた上、感想談を述べた、其要に曰く
 加州と布哇に於ける移民問題・学童問題と併せて、日本が支那に対して一種の野心を包蔵して居ると以ふ、専ら東部地方人士間の対日的慊焉感情との二つは、日米間の不調和に最も有力の原因を為して居る、此二つを其儘に打棄て置く事は、日米間延いては世界の平和をも遂に攪乱するに至るであらう、私は移民問題に就ては、明治四十一年から世話を焼き、日米関係委員会を組織して之に関係して居るが、其解決を一層進捗せしむるが為の視察と、一面には米国人士の日本に対して抱く悪感情を出来得可き丈け払拭し、国民的諒解を為させ度いと云ふ、所謂老人の冷や水とも云へば云へるやうな見地から、渡米したのである、夫の軍備の縮少、太平洋問題・極東問題に触た華盛頓会議の趣旨を徹底せしめ、人類平和の基礎となるべき問題の解決を欲しての上であるが、私の渡米は、政府を代表すると云ふ表面の使節では勿論なかつた、但だ裏面に於て、相当心配もし使節に対して意見も述べ、又私言を以て勧告する所もあつたが、若し多少にても、私の尽力でそれが効果を齎すものありとせば、其第一は、亜米利加全体に亘つて、日本に対する一種疑惑の念を取り去つて、日本は自我一点張りでなく、軍国主義謳歌の国民でもないと云ふ事を、比較的深く広く米国の上下に諒解を求め、又諒解させた事柄であらうと信ずる、移民問題に就ては、華府会議の議に上らなかつたが、帰途西部地方並に布哇にある移民の実際状況を、内容に立入つて自から研究調査もし、又しても貰つた、要するに、国民間の関係は其内情に深く広く立入つて調査研究を遂げた上、相当の協議をし、其解決を図るの必要があるからであり、行く行くは、日米間に蟠る禍根を絶つ為に、糊張りでない膠や漆附の協約が成立する事を切望するのである、最後に一言して、せめて社員諸君丈にても判断を願ひ度い事は、物質的に過去五十年間偉大に向上した日本が精神的に却つて退歩して居りはせぬかと云ふ事である、即ち奉仕の念が乏しく、謝恩の心に欠け、犠牲的の精神を忘れ、己れの権利は主張するが、去り迚、義務には忠実でない、約言するならば、孝悌忠信義に欠けて来た事が多く、推しなべて不真面目になつたと云ふ事である、公共的であつて、社会奉仕の心掛けに厚く、犠牲的精神に富んで居る亜米利加の人士に接して、特に此感想を深くする訳である
終つて、米国から最近渡日した公平な紳士パーマー氏と同夫人が、折よく来邸して臨席したのを、阪谷男が社員に紹介して会を閉じ、園遊会では、各種の摸擬店が設けられ、太神楽と奇術との余興があつた、当日は渋沢子爵と同夫人を来賓とし、三百名近くの会員が集まつた、
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出席会見中主なる諸氏左の如くである
 穂積陳重男・阪谷芳郎男・佐々木勇之助・渋沢正雄・義一・武之助・土岐僙・尾高幸五郎・小池国三・石井健吾・増田明六・土肥修策・高根義人・渡辺嘉一・伊東祐忠・竹田政智・白石元治郎・諸井四郎・林愛作・神田鐳蔵・林武平・西野恵之助・山口荘吉・有田秀造・阿部吾市・川田鉄弥・野口米次郎・江藤甚三郎・山中譲三



〔参考〕竜門雑誌 第四〇八号・第五六―五七頁大正一一年五月 ○本社有志晩餐会(DK430007k-0004)
第43巻 p.134 ページ画像

竜門雑誌  第四〇八号・第五六―五七頁大正一一年五月
○本社有志晩餐会 本社に於ては、去五月八日午後五時より丸之内銀行倶楽部に於て、現評議員渋沢元治君及前評議員堀越善重郎君の帰朝歓迎を兼ね、新旧評議員並に会員有志の晩餐会催す所ありたるが、当日は阪谷評議員会長の挨拶に次ぎ、右両君の視察談、及最近帰朝せられたる工学士中村与資平君の独逸視察談、並に青淵先生の所感等ありて、極めて盛会裡に十時散会したるが、当日の出席者は左の如くなりしと云ふ。
    来賓
 青淵先生
 渋沢元治君   堀越善重郎君   中村与資平君
    主人側
 石井健吾君   服部金太郎君   土岐僙君
 渡辺嘉一君   高橋義人君    八十島樹次郎君
 増田明六君   明石照男君    阪谷男爵
 清水一雄君   渋沢義一君    諸井恒平君
 杉田富君    (以上現評議員)
 土肥修策君   山口荘吉君    山田昌邦君
 福島甲子三君  佐々木慎思郎君  佐々木清麿君
 清水釘吉君   白石元治郎君   (以上前評議員)
 西野恵之助君  渡辺得男君    横山正吉君
 吉田嘉市君   永田甚之助君   野口弘毅君
 矢野由次郎君  山下亀三郎君   前原厳太郎君
 木村雄次君   渋沢正雄君    渋沢秀雄君
 白石喜太郎君  山本栄男君    岡本五郎君
                  (以上会員其他)
      附記
 尚ほ当夜阪谷評議員会長より目下米国実業界の重鎮たるフランク・エ・ヴアンダーリツプ氏著「欧洲の将来」を本社に於て発行したき希望を述べられたるに満場異議なく之を可決したり。