デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
5節 修養団体
1款 財団法人竜門社
■綱文

第43巻 p.166-172(DK430011k) ページ画像

大正12年12月5日(1923年)

是日、東京銀行倶楽部ニ於テ、当社評議員会開催後、有志晩餐会催サレ、佐野利器ノ建築ニ関スル講演アリ。栄一出席シテ、精神ノ復興ニ就イテ演説ヲナス。


■資料

竜門雑誌 第四二四号・第七〇―七一頁大正一三年一月 ○本社評議員会/○本社会員有志晩餐会(DK430011k-0001)
第43巻 p.166-167 ページ画像

竜門雑誌  第四二四号・第七〇―七一頁大正一三年一月
○本社評議員会 十二月五日午後四時三十分、東京銀行倶楽部に於て本社評議員会を開催す。阪谷評議員会長議長席に着き
 石井健吾君    穂積重遠君  土岐僙君
 渡辺得男君    中村鎌雄君  永田甚之助君
 八十島樹次郎君  増田明六君  明石照男君
 佐々木勇之助君  木村雄次君  杉田富君
 鈴木紋次郎君
の各評議員諸君出席の上、幹事より入社申込者諾否の件を附議し、其承認を求めたるに、満場異議なく之を可決したり。
 次で幹事は本社の組織改正に関する寄附行為案を提出し、次回の評議員会に於て更に評議を為すこととし、午後五時三十分閉会せり。
○本社会員有志晩餐会 十二月五日午後五時三十分、東京銀行倶楽部に於て、本社会員有志晩餐会を開催し、席上工学博士佐野利器君の建築に関する講演あり、次で青淵先生及び阪谷男爵の演説ありて、午後九時散会せり。当日の出席者諸君左の如し。
 青淵先生     佐野利器君
 石井健吾君    井上公二君    井上徳治郎君
 磯野孝太郎君   石田友三郎君   井田善之助君
 服部金太郎君   長谷川粂蔵君   穂積重遠君
 土岐僙君     土肥修策君    戸村理順君
 千葉清君     大川平三郎君   織田雄次君
 大原万寿雄君   大山昇平君    渡辺得雄君
 脇田勇君     和田義正君    金子喜代太君
 金井滋直君    横山正吉君    高根義人君
 - 第43巻 p.167 -ページ画像 
 田中太郎君    高山慥爾君    高橋金四郎君
 玉井周吉君    竹村利三郎君   多賀義三郎君
 高橋毅一君    中村鎌雄君    永田甚之助君
 中間高州君    成瀬隆蔵君    中野時之君
 内山吉五郎君   野口半之助君   倉田亀吉君
 八十島樹次郎君  矢野由次郎君   増田明六君
 松平隼太郎君   前原厳太郎君   古河虎之助君
 古田錞次郎君   二神駿吉君    後藤謙三君
 昆田文次郎君   河野正次郎君   小林武之助君
 小池国三君    河野通君     明石照男君
 新井源水君    佐々木勇之助君  阪谷芳郎君
 斎藤峰三郎君   阪谷希一君    西条峰三郎君
 桜田助作君    木村雄次君    木下憲君
 湯浅徳次郎君   清水釘吉君    清水一雄君
 渋沢正雄君    渋沢秀雄君    平形知一君
 弘岡幸作君    杉田富君     鈴木紋次郎君


青淵先生演説速記集(三) 自大正十年四月至大正十三年二月 雨夜譚会本(DK430011k-0002)
第43巻 p.167-171 ページ画像

青淵先生演説速記集(三) 自大正十年四月至大正十三年二月 雨夜譚会本
                     (財団法人竜門社所蔵)
        (別筆)
        大正十二年十二月五日於東京銀行倶楽部
    挨拶
                  子爵 渋沢栄一
 この評議員会○竜門社有志晩餐会に於て、皆様と共に、佐野博士の最も有益な御演説を承つたことを深く喜ぶのであります、私は今日恰度審議会○帝都復興審議会に於て、復興院の大体の計画、又土地区劃整理方法、或は運河等のお話を、宮尾・直木諸氏から先刻伺ひました、引続いて只今佐野先生のお話を伺つたから、先づ聴学問としては徹底致した訳で、震災復興に就ての事が理解し得たのであります。洵に有益なお話を承はつて深く喜ぶ次第でございます。
 玆に私の申上げやうと云ふことは、左様な物質的のお話でなくして寧ろ古めかしい、自己一流の精神的のお話であります、九月一日の大震災に対して、私の心に感ずる処が決して迷信的でなく、どうも一種の天変地妖とも云ふべき事ではないかと云ふやうな感がしたものですから、或る方面の人に、是は天譴と思ふが宜からうと云ふことまで、逸早く申したのであります、其事は新聞紙にも伝へられて、甚しきは嗤ふ人もありました、又心して考へねばならぬと云ふ人もあつた様でございます、勿論古い歴史を取調べる余暇もなく、学問も亦少い故に古来の歴史は知りませぬけれども、併し世の中が浮華軽佻に赴いた時分に、或変災を来たすと云ふことは、蓋し免れぬやうに思ふのであります、安政がどうであつたか、進んで元禄は如何であつたか、又往昔平家世盛りの時分に、京都の大地震などは歴史に明瞭に書いてある、是れも、平相国が驕奢放慢極りなし、と云ふ場合に生じたやうであります。
 私の一身が維新以後どう云ふ工合に経過したかと云ふと、詰り経済
 - 第43巻 p.168 -ページ画像 
界即ち物質的方面に拮据経営致して、此老人になつたのです、お集りの皆様方も、大抵其方面の方であるけれども、共に進歩発展を希望し且生活の向上、事物の段々に進化して行くことを努めたに相違ない、それと同時に、この富と云ふものに伴ふ道理と云ふものが、悪くすると富に覆はれて、道理が滅却とまで行かずとも減少すると云ふことはどうも是までの例として常であります、そこに至らしめては、必ず行き過ぎては後へ戻る、進んでは後へ衰へると云ふ、始終山径なりに進歩して行くやうになる、蓋し人類の悪く言へば情けないこと、さう云ふ径しか辿れぬものか、親が富を成すと其子が費ひ減らし、又其子は運に乗じて繁昌する、山径なりに行つたり帰つたりすると云ふことが人類に免れぬものとするならば、是れは我亦何をか言んやです、併し人の智識と云ふものは、決してさうでないだらうと思ふ、之れを山径なりでなしに、俄に登らなくても、順よく進んで行くと云ふことは、どうしても人類に出来ぬ事ではないものであらうか、世界を通じてこの道理を充分にまだ見開かぬのではないか、蓋しこの智識と云ふものに対して、道理と云ふものを厳しく観念せぬのが、結局今日に陥つた原因である、従つてそれが箇人々々の間に然るのみならず、或は一国に於ても、それから或向々には、自から軋轢を生じて、更に国際間には、最も其為に種々甲は乙を倒さんと欲し、乙は丙に向つて圧迫を加へると云ふやうなことで、世の中は唯それのみに汲々として、之に優ぐれた者が覇者であつて、之に劣つた者が敗滅に陥る、恰度三代経つて売家を書くと同じやうに、一時は衰へ、又盛になり、それが又衰へて行く、さう云ふ工合に更る更る始終グルグルと廻つて行くのが世の中の常、已を得ぬ事かも知れませぬ、併し私が常に申しますやうに、真正な道徳と経済が一致して進むことが出来たならば、其国全体の国民が、挙げて其方向に進んで行つたならば、その国家は詰り山径なりを描かずに、国が進んで行くに違ひないと思ふのであります。
 敢て竜門社の主義綱領と強いてした訳ではなかつたけれども、元この会の起つたのは、私が深川に住つて居つた時に、十数名の書生が集つて、偶然にも端を発したのが、斯の如き大会堂に満つる程になつたことは、私は玆に涙の溢れる程喜ぶのでございますが、併し左様に進んで参つたのも、即ちその主義が頗る道理正しいと云ふことの観念が諸君に強いからこそ、斯く経過して来たのである、その竜門社の主義は今申します通り、只単に物質上の進歩のみを図るのではない、それが始終精神あるものに根拠あるものにして進めて行く、即ち道徳と経済の一致、之れをどこまでも本社の精神としたいと私が希望すると同時に、皆様はそれを是なりとして、所謂その主義に向つてお進みなさることゝ、私は確く信じて喜んで居るのであります。
 斯う申すと、私一人がえらさうに、なんだか自慢を言ふらしく聞こえても、甚だ恥入る言葉になるかもしれませぬけれども、今服部さんが、お前の数字を読んで居ることを今もまだ覚えて居る、と仰しやられたが、私は元来明治元年に欧羅巴から帰つた時に、官途に就いて政治上に栄達すると云ふ望はなかつた、故に明治六年に官を辞したと云ふのも、申さば腰掛に暫時地盤を造ると云ふ、悪く申せば下働きに大
 - 第43巻 p.169 -ページ画像 
蔵省に勤めたので、全く一身を物質上に力を尽さうと、深い覚悟を以て、微力ながら其方に勤勉しやうと思つたのであります、それは一身のそれまでの変化が、どうも政治に栄達すると云ふことは、自分の身としては甚だ心苦しく感じました、又自己の国に尽す働が、決してそれのみに満足な感じがしませぬので、微力故に寧ろ我が分に相応した方で働きたい、さりとて百姓の又元に帰る訳には行かぬから、そこで先づ実業界をして欧羅巴式に進めるやうにする道がありさうなものだと云ふのが、私の目的の一番早く注目した所である、続いて其時に浮んだ考が、大いなる身代を作つて、所謂三井・鴻池、さう云ふものになると云ふことが主眼で家を出たのか否や、さうではない、此日本の国をして、どうぞ西洋に対して恥しくない国家たらしめたい、微力ながらそれに何程でも力が尽されゝばそれで満足だ、それ以外の事は私等には望かない、斯う考へて出た以上は、その方面で尽せぬならば、出た初一念を偽はる訳になるのだから、是はどうしてもその趣意で尽さなければならぬ、それで既に政治界を退くと云ふことは、それまでの経過、平たく申すと、先祖以来受けた知遇に対して、倒れた幕府を傍に見て、尻目に掛けた働きは、人情として出来ぬ、然る上からには何かと云ふと、今の実業界を欧米式にする、その欧米式と云ふのは自己の富でないと云ふ以上は、力めて正式の方法に依つて、日本の実業界を進めて行きたい、蓋し分相応な望でありました。
 それで富を計ると云ふ観念なく、一生を其処に投ずるには、どうしても何かそこに根拠を持たなければならぬ、或は宗教でありませうか学問でありませうか、玆に初めて、従来子供の時から嘗て教はつた儒教、即ち孔子の教と云ふものは、是は一番よく知つて居つた、どれが良いと云ふことを研究する程の学者でなかつた為に、一番知つて居る事に就て、これを尊奉するが宜からうと云ふのが、即ち恰度銀行に依つて微力ながら見たいと考へたのであります、故に道徳経済合一と云ふことは其時から先づ支持致して努め争ふたとまで言へますまい、甚だ力足ぬで何も彼も意の如くにはならぬでしたけれども、心には恥ぢたことは先づない積りであります、先づ微力意に任せぬ事のみ、併し是れは諸君の前で申上げると、私が伸びぬばかりではない、皆様がまだ伸びぬと申すやうになつて、甚だ相済みませぬが、竜門社の評議員の諸君には、相当に御伸びなすつた方はありますけれども、実体から云ふと、是れが天下を指揮するまでにはまだなつて居ないではありませぬか、果して然らば、我々決して之を以て満足には思へぬだらうと思はざるを得ないのであります、まだ経済界には所謂血を戦はして、弱肉強食に至らんとしつゝある、私の希望する真正なる経済を、完全なる道理に依つて、之を支配して行くのでなくして、折もあらば我富だけを目的として、所謂自我に汲々たる有様たることを免れぬやうであります。
 私は今晩特に此処に申上げたいのは、頻りに震災に就て種々なる方面に、一転機々々々、その心を改めねばならぬと云ふ、前にも申す通り、或は軽佻華美の有様が俄の変事に対して、大いに様子が変つて来ると云ふことの理由とすると云ふ言葉になるでせう、その位の極く浅
 - 第43巻 p.170 -ページ画像 
墓な考ではない方が宜いと思ひますけれども、併しそれにしても、又甚だ所謂機乗ずべしとまで言ひたいのです、故に先頃或場合には復興と云ふものゝ、物質復興、復興院も先づ主として物質復興を主眼として経営されて居る、誠にそれに対しては、種々なる智慧もそこに注入し、力も亦そこへ加へつゝありますけれども、併しこの復興は只物質ばかりのものではないではないか、どうしても精神を復興しなければいかぬのではないか、精神を復興するのは何であるか、即ちこの道理と云ふものを、もう少し世の中に著しく進むる外ないではないか、又明かにするのでなくてはならぬではないか、恰度玆に至ると云ふと、大学の所謂三綱領、明徳を天下に明かにする、民を親にする、至善に止まる、是れは大学の三綱領としてある、三つの条目になつて居る、道徳経済一致と云ふことも、どうしても是でなければいかぬ、真正なる復興を精神の復興とし得られるならば、或はこのお互の力を以て、必ず社会を大いに改造することが出来るのではございますまいか、果してさう致しましたならば、是こそ物質の復興と精神の復興と共に進む訳になり得るだらうと思ふのでございます、その精神の復興は何であるかと算へ来つたならば、色々ありませう、仁義の道も復興、孝悌忠信勿論復興、殆ど論語二十篇に、大抵精神の復興に当るべき箇条が各方面に言ひ現はしてありますが、私は誠に短い言葉で「真正なる道徳と正しい経済」とを一致させて進むと云ふことが、御同様竜門社の諸君のお力で、今一段に拡張することが出来たならば、所謂我党の働きが終に天下をして、成程あれにあると云ふことに至らしめる、所謂「君子の徳は風なり、小人の徳は草なり、草之に風を加ふれば必ず伏す」風靡と云ふ言葉は何か力強く圧迫するやうに聞える穏当の言葉でないかも知れませぬけれども、所謂徳化が決して出来ぬ事ではなからうと思ふのでございます、故にこの震災に際して、総て事物の復興を努めると共に、どうしても精神の復興を努める、その精神の復興の事物に顕はれるは、これ即ち竜門社が道徳経済を一致させねばならぬと云ふ事、これは今日皆さんに無理にお願する言葉でなくして、寧ろ私よりか諸君が御所持の品物であるこの御所持の品物をこの場合に大いに復興させて、此力をもう一つ社会に、更に進んで海外にまで発展させて、日本の経済は道理に適つたものぞ、日本の道徳は只空に道徳を論ずるものではないぞよ、必ず経済を伴ふものである、その経済は道理を失はぬものである、と云ふことが益々拡大されることを、諸君と共に希望して止まぬのでございます。
 恰度土井香国と云ふ人が詩を作りまして、あの人は死にましたけれども、老人の身体を家に譬へた面白い詩がありました、屋根が腐つて雨が漏る、さうかと思ふと壁が悪くなる、庇が悪くなる、何してもどうしても古い家はいかぬ、斯う言ふて、老衰した身体を家に譬へて頻りに歎息した詩がありました、その文句を覚えて居らぬのは甚だ遺憾でありますけれども、恰度自分の身体が、或は喘息が起つたり、或は足が痛かつたり、こちらが宜いと思ふとあちらが悪くて、香国の詩を想ひ回して、洵に同感に堪えないのであります、併し左様な洵に衰弱な身体ではあるけれども、志はまだ全く磨滅はせぬ積りです、丁度室
 - 第43巻 p.171 -ページ画像 
鳩巣が七十九の時に「壬日の言葉」と云ふものがあります、是れはお正月の元日に書いた文章である、月日はかはるがはる逝いて前日に帰し得られぬとか何とか言つて、月日を回へすことは出来ぬと言ふて居る併し、人は志を以つて立つものである、仮令左様に衰弱しても、この精神を十分に発達して行けば、世に対して平生修めた儒教を以つて、人の心を或は鞭撻し、或は刺戟し、決して世に裨益する処がないとは云へぬ積りだ、今私の身体は動けぬけれども、この志はまだ世界を雄飛する、と云ふやうな意味の「壬日の言葉」と云ふお正月の文章があります、通俗文で書いてあつて、大変面白いと思つて、文も覚えて居りますけれども、恰度老人に相応はしい文章で、何でも通俗文範とか云ふ書物にある、私共只今室鳩巣の七十九どころではない、更に八十五にならうと云ふのであるから、さう云ふやうなことを考へ出すと、古人の身体が衰へても、志は尚ほ且動かぬと云ふことを想ひ起して、或場合には床しく考へるのでございます。
 私は恰度幸に、この竜門社の評議員会に、地震に対する物質復興のお話がありましたから、更に精神の復興に就て、いつも申す言葉を繰返したことに過ぎないのでありますけれども、深く希望して居る事故に申上げるのでございます、只今佐野さんのお話下さつた物質復興をなさいます方が、若し今の私の精神を十分に加味して下さいましたならば、それこそ真正の復興に至るだらうと思ふのでございます。
                         (拍手)


(増田明六)日誌 大正一二年(DK430011k-0003)
第43巻 p.171-172 ページ画像

(増田明六)日誌  大正一二年     (増田正純氏所蔵)
十一月廿四日 土 雨
○上略
夕、明石照男氏を銀行ニ訪問し竜門社々則改正の件○中略を談話したり
○下略
  ○中略。
十二月三日 月 晴夕雨
○上略
午後三時半、事務所に出勤す、夕刻第一銀行ニ至り、明石氏と会し、竜門社々則改正案ニ付き協議し、来五日同社評議員会ニ提出すべき案を得たり
十二月五日 水 曇
○上略
午後四時半、銀行倶楽部ニ於て、竜門社評議員会を開き、入社申込者諾否の件、社則改正の件を協議し、前者ハ入社を応諾し、後者は重大なる案件なるを以て、次回の評議員会迄に熟読を請ふ事と決したり、次て
午後五時、佐野利器博士の家屋建築ニ就ての講話あり、日本家屋木造煉瓦造・鉄筋コンクリート造と地震との関係ニ就き、有益なる講話なりし
食後、青淵先生より、地震後物質の復興ニ付てハ官民共ニ大ニ努めらるゝが、同時ニ精神の復興にも尽力セられたし、殊ニ竜門社会員ニ於
 - 第43巻 p.172 -ページ画像 
ては、最も此点ニ留意せられたしと訓話せられたり


渋沢子爵親話日録 第二 自大正十二年十二月至 高田利吉筆記(DK430011k-0004)
第43巻 p.172 ページ画像

渋沢子爵親話日録 第二 自大正十二年十二月至 高田利吉筆記
                     (財団法人竜門社所蔵)
十二月五日
○上略
△四時半、銀行倶楽部に於ける竜門社評議員会に出席せらる、此日佐野工学博士(利器)の震後の建築につきて講演あり、時節柄適切の問題なり、殊に話し上手の事とて興味深く聞かれたり、終りに子爵よりも同社に対して単に口舌のミならず、心からなる精神的復興の竜門社より発祥せんことを希望する旨を演説せらる