デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
5節 修養団体
1款 財団法人竜門社
■綱文

第43巻 p.172-177(DK430012k) ページ画像

大正13年1月22日(1924年)

是日、帝国ホテルニ於テ、当社評議員会開催後、有志晩餐会催サレ、高松豊吉ノ化学工業ニ関スル講演アリ。栄一出席シテ、スミスノ百歳不老ニ就イテ演説ヲナス。


■資料

竜門雑誌 第四二五号・第三七頁大正一三年二月 ○本社評議員会(DK430012k-0001)
第43巻 p.172 ページ画像

竜門雑誌  第四二五号・第三七頁大正一三年二月
    ○本社評議員会
 本社評議員会は、一月廿二日午後四時より、帝国ホテルに於て開会す、阪谷評議員会長、議長席に着き、青淵先生並現評議員及前評議員諸君列席の上、前月の評議員会に於て提議せられたる、本社組織改正に関する寄附行為案に就き、起案者たる高根義人・穂積重遠の両君、及明石・増田両幹事説明者となり、逐条慎重に協議を重ねたる上、左記の通之を決議し、尚財団法人設立願に関し、字句修正の必要生じたる場合には、之を阪谷評議員会長に一任することに決したり、又寄附行為案第三十七条に依り、第一期の評議員は青淵先生に指名を請ふ次第なるが、尚同理事及監事並設立者も併せて指名を請ふことに決し、直に列席の先生より快諾を得、午後五時半散会せり。
当日出席の現評議員及前評議員左の如し。
 石井健吾君    穂積重遠君    土岐僙君
 渡辺得男君    永田甚之助君   中村鎌雄君
 八十島樹次郎君  増田明六君    明石照男君
 阪谷芳郎君    佐々木勇之助君  木村雄次君
 渋沢元治君    諸井恒平君    杉田富君
                   (以上現評議員)
 服部金太郎君   星野錫君     大川平三郎君
 田中栄八郎君   高根義人君    高松豊吉君
 植村澄三郎君   山口荘吉君    斎藤峰三郎君
 桃井可雄君    (以上前評議員)
  ○財団法人竜門社寄附行為案、小修正ヲ加ヘタルモノ後掲ニツキ略ス。


竜門雑誌 第四二五号・第四〇―四一頁大正一三年二月 ○本社会員有志晩餐会(DK430012k-0002)
第43巻 p.172-173 ページ画像

竜門雑誌  第四二五号・第四〇―四一頁大正一三年二月
 - 第43巻 p.173 -ページ画像 
○本社会員有志晩餐会 一月二十二日午後五時半帝国ホテルに於て本社会員有志の新年晩餐会を開会したるが、当日は晩餐会に先立ち、工学博士高松豊吉君の化学工業に関する講演あり、終つて七時食堂を開き、食後更に別室に於て、浅野総一郎君並青淵先生の演説ありて、一同和気靄々裡に十時散会せり。
 因に当夜の出席者諸君左の如し。
 青淵先生    高松豊吉君
 石井健吾君   井上徳治郎君   磯野孝太郎君
 石川一郎君   磯野敬君     犬丸徹三君
 石川道正君   服部金太郎君   西村暁君
 西野恵之助君  星野錫君     戸村理順君
 苫米地義三君  千葉清君     大川平三郎君
 大原万寿雄君  大山昇平君    渡辺得男君
 脇田勇君    和田義正君    金子喜代太君
 金井滋直君   神谷義雄君    横山正吉君
 横山徳次郎君  田中栄八郎君   高橋金四郎君
 多賀義三郎君  高山慥爾君    高橋毅一君
 塘茂太郎君   中村鎌雄君    永田甚之助君
 成瀬隆蔵君   中野時之君    武藤忠義君
 植村澄三郎君  内山吉五郎君   八十島樹次郎君
 山口荘吉君   矢野由次郎君   山本栄男君
 増田明六君   松平隼太郎君   前原厳太郎君
 二神駿吉君   後藤謙三君    小林武次郎君
 明石照男君   浅野総一郎君   新井源水君
 阪谷芳郎君   佐々木勇之助君  斎藤峰三郎君
 阪谷希一君   西条峰三郎君   桜田助作君
 木村雄次君   北脇友吉君    木下憲君
 湯浅徳次郎君  渋沢義一君    清水釘吉君
 清水一雄君   渋沢篤二君    平形知一君
 諸井恒平君   桃井可雄君    関根要八君
 杉田富君    鈴木紋次郎君


青淵先生演説速記集(三) 自大正十年四月至大正十三年二月 雨夜譚会本(DK430012k-0003)
第43巻 p.173-176 ページ画像

青淵先生演説速記集(三) 自大正十年四月至大正十三年二月 雨夜譚会本
                      (財団法人竜門社所蔵)
            大正十三年一月廿二日帝国ホテル
            於竜門社会員有志晩餐会
                  子爵 渋沢栄一閣下
 申し上ぐべき良い腹案もありませぬし、時間も大分移りましたから唯十三年の初めに、斯く多数の竜門社のお集りを得ましたに就て、一言祝辞を述べて置くに止めやうと思ひます
 今浅野さんから年寄云々のお話がありました、歳を算へるとどうしても、私が一番上に相違ない、六・七十はまだ洟垂小僧とか仰しやつたが、まさか小僧でもありますまいが、私は此間百歳不老と云ふ翻訳した書物を時々車の中で見て居ります、英吉利人のラプーソン・スミ
 - 第43巻 p.174 -ページ画像 
スと云ふ人の著した書物であります、どんな字であるか、原語を知りませぬから分りませぬが、年寄の最も注意すべき書物のやうでございます、早稲田の文明協会で翻訳されたもので、その人は医者であつて段々老年に及んで種々なる研究から、百歳不老と云ふ著述をなしたやうに見えます、もう少し細かに読だら、尚ほ面白い所がありませうが最も老人の注意すべきのが、六十から九十、この三十年が、先づ老境に入つて十分注意すべき時機である、と云ふやうに訓へてあります、故に先づ五十台までくらいは洟垂小僧でないか知らぬが、若い者で、敢て教訓の必要ないと云ふくらいに、その人は看做して居るやうであります、年寄の最も注意すべきのが、自己の経験を只主張して、自分の働を満足に施さずに、人に対して我儘を言ふのが年寄の癖である、是れは必ず年寄が嫌はれもするし、また無用な年寄に相成る、もし有用な年寄にならうと思ふならば、六十から先、老人たる事をコロリと忘れて、始終活動的に生活して行かなければいかない、さらばと云ふて活動的のみではいかぬ、どうしてもその老人は、節制と云ふものに心懸けなければならぬ、節制と云ふのは衛生ではない、すべて約束を重んじ、自己の分量を測つてすまじき事はせぬ、せねばならぬ事は必ずすると云ふが如き老人自己を節制せねばいかぬ、それからもう一ツは、其老人は力めて心を平和にし、始終満足に生活を保たねばいけない、是が最も老人に必要である、兎角老人には或は気に入らぬ、是れは困る、さう云ふやうな観念から始終自己をも歎ぎ、他を怨む、所謂社会を託つと云ふやうなことになり易いものである、この観念を充分防がぬと、有益な老人でなくて、厭ふべき無用な老人に陥る、凡そ人の世に生存するは、社会公共の有益なるに依つて生存するのが、生存の意義あるものである、もし之無き生存ならば、人は極く極端にいふたら、生存せずともよいと言はねばならぬやうである、敢て今申した処が、ラプーソン・スミスの百歳不老の趣旨を皆申述べ尽したではございませぬけれども、大体の趣意は其辺にあります、洵に私共大いに心せねばならぬやうに思ひまして、是までも多小活動とか、平和満足と云ふやうな事には、心を用ゐて居りましたし、又自己の此世に存在するのは、社会公共に利益あればこそ生存する効能あり、と云ふことは甚だ不肖ながら常にさう思うて、何の為に自分が世にあるのか、世に効果あるに依つて初めて存在の意義があるのだ、斯う心に思つて居りますが、厳しくラプーソン・スミスが、その事を繰返して居りますで、大いに我心を得た、大いに我思つた処に、他国人の戒めが相応ずると思うて、兎に角喜んで居るのでございます、お集りの皆様はまだ当分はさう云ふお考をお持ちなさらぬでも宜い人ばかりである、極く若いお方であるけれども、併しさらばと云ふて、もう六十と云ふ台をさうまだと仰しやれぬ方が此中にあるから、そろそろスミスの意見に多少お感じなさるお方があるであらうと思ふので、併せて百歳不老の一端を、此間読んだ書物の受売りを致すのでございます、併し浅野さんの如きは例外で、決してラプーソン・スミスの或はその軌道を歩かぬ方の、悪く言へば脱線、もう一ツ言へば超越して居ると申してよいのでありませう。(拍手笑声)
 - 第43巻 p.175 -ページ画像 
 老人の心の持方に就て、自己がちよつと或書物を読んで感じました事を、一言申上げたに過ぎませぬが、玆に私はお集りの諸君に対して篤と考へて戴かねばならぬと云ふのは、実業界と政治界との関係を、どの程度に心得て居ねばならぬか、どうしたら宜いかと云ふことは、余程研究ものではなからうかと思ふ、蓋し私は皆様に押上げられて、この竜門社も渋沢に依つて成立した、私を中心として下さる、その中心として下さる趣旨は何処までも、この実業界をして道理正しい、苟くも紳士道徳を踏み外すやうな事をせぬものである、恰度前申しますやうに、私は七十・八十でも尚ほ一日も世にある限りは、社会に効果なくて居つては済まぬと云ふ観念、大抵皆さんが一致であらうと思はれる、即ち生産殖資が只自己の産を増す一点張りでない、と云ふことは申上げるまでもない、道徳経済合一と云ふことは、竜門社諸君に於ては、言ふだけ野暮だ、斯う仰しやられるであらうと思ひます、故にその点は、他に向つてこそ喋々せねばならぬけれども、我が内々に於ては必ずそれを以て諸君に希望すると、それはもう百も心得て居る、と仰しやれるに相違ないから、洵に頼母しく思ふと同時に、その辺は懸念致しませぬけれども、併し段々に世の進歩、進歩の中に又退歩と云ふものもある、此推移して行く有様に対して、実業界と政治界が、どういふ風に接触して行くか、而して先づ直接に竜門社員として、この政治界に対しては、如何なる態度、如何なる心懸を持つて処するが一番適当であらうか、と云ふことは、余程の攻究を要する事ではなからうかと思ふのであります、私自身を申すと、申さば私は頗る安楽な人間である、政治界に対して全く断念して居りますから、少しもその方に対しての心を、所謂巧名心を持つて居らぬ、所謂死灰の如きもので、何ぼ火を点けても火の点かぬ私の身体であります、それは事々しく申すまでもなく、度々皆様にお話してありますけれども、恰度今年は六十一年目、二十四の年に家を出まする頃おひには、多少政治界に雄飛しやうと云ふ、甚だ未熟な思想ではあつたけれども、考を持つて出掛けた、処が故あつて、一ツ橋の家来になるといふが、私の身の一転化、更に変じて幕府の家来になつた、それから、一歩転じて仏蘭西に参つた、その留守中に幕府は倒れた、帰つて来て見たら、我大切な主人、あの慶喜公は駿河に蟄居してござる、玆に初めて、私は世の憂ふしに感じて、微力なる吾々が政治界にかれこれと考へたのが、斯う屡々変化して皆着々誤る、抑々考が間違つたのである、自己の如き微力が、さう云ふ事に心を労するに及ばぬ、日本の国に尽すには、それ以外に尽す方面がある、実業界に力を委ねて、その方で微力を尽して見やうと云ふのが、恰度駿河に行つて居る時の覚悟であつた、誤つて明治二年に新政府に召されましたけれども、勿論本心でないから、数年微力を官途に尽しましたが、明治六年に全くその方は辞して、爾来政治界と云ふものに対しては、所謂成るべくは見物人として、良い座敷は買ふ積りでありますけれども、馬の足であらうとも立役者であらうとも、舞台へ登らぬと云ふ覚悟で、一生を送りまして、今日に及んだのであります。故に政治界の思想と云ふものは、全く断念して居りますから、自ら我念頭にちよつとも上りませぬから、批評はしますけ
 - 第43巻 p.176 -ページ画像 
れども、何等観念を持たぬのです、併しこの実業界に世に立つには、左様にいつまでも、竜門社諸君が政治界を、私が度外視するが如く度外視して居られるものかどうか、余程此処は攻究を要するものではなからうかと思ふのであります、併し私は実業界に専らに尽さうと思ふならば、所謂職業的政治家になることは、どうしても是は宜しくないと思ひますから、切にその事はお諫めするけれども、さらばと云ふて政治観念は、竜門社ばかりでありませぬ、健全な実業界の人々は充分に理解し、或場合には色々の方面に立ち得るだけの能力は備へねばならぬ位いに、私は必要だらうと思ふのであります、殊に従来の政治界が如何あるか、我々は――と云ふ中にも私などは、古風な学説に育てられて居りますから、所謂先王の政、王道と云ふものを主義として、我帝国に於ては所謂帝室中心、君主が徳が高ければ、之に皆国民が従うて行けばそれで宜いと云ふやうな処にも、勿論希望を持ますけれども、併し今日の国家は、単り東洋主義のみで安んじては居られぬ、既に憲法政治も布かれたと云ふことでありますと、即ち今の場合、もう今日も明日も種々なる議論百出、此政治がどうなるか、どう変るかと云ふことに対しては、どうしてもお互が頭の上に戴かざるを得ぬ、又思はざるを得ぬと云ふと、之に処するに、実業界はどう考へたが宜いかと云ふことは、どうしても思はざるを得ぬやうになつて来るだらうと思ひます。
 敢て今夕この政界に対して、竜門社はどう云ふ態度で何としたら宜からうと云ふ、即ち政友会にどうとか憲政会に加入なさいと云ふ趣意ではございませぬけれども、どうしてもこの時勢相応に、竜門社員の諸君も、政治上に相当なる観念を持つて、所謂是を是とし、非を非とする、是々非々と云ふことは、よく新聞で言ひますが、唯文句にあるのみならず、完全な鑑識を持つて、此時代をよく識別する能力は、どうしても持たねば、自己を安全に立て通す訳には行かない、のみならず、善い政治をなさせると云ふことは、我々に力がなければならぬので、果して此竜門社だけが寄つて、以て善い政治をなさせると云ふことは出来ませぬでせうけれども、併しそれはどうなつても構はぬと云ふが如き観念で、商人はそんな事に頓着せぬと言ふて居られぬ世の中ではないかと、私は思ふのであります、故に私自身が余り政治界と、前に申すやうな縁故から、無関心没交渉で居ります為に、竜門社の皆様が、それでいゝとは思はぬと云ふことを、殊に政治界に面倒の多い場合に、別して一言御忠告申して置く必要があらうと思ふ為に、玆に無用の弁を費すものでございます、殊に去日来の有様は別して政界に波瀾百出と思ひます為に、其感ずるや深し、其思ふや篤し、遂に玆に此一言を為したのであります、竜門社中には、阪谷男爵を除く外、多く政界には、先づ俺たちは縁が遠い、と云ふやうな諸君と思ひますけれども、併し相当なる考慮を要すると云ふことだけは、蓋し私は無用の弁ではなからうと思ふので、自己の斯様な関係であるから、自ら其方に対して知識も乏し、観念も少い、諸君はそれで居て下さつては困りますので、玆に一言の御注意を申し、御了解下さるやうに願ひとうございます(拍手)

 - 第43巻 p.177 -ページ画像 

(増田明六)日誌 大正一三年(DK430012k-0004)
第43巻 p.177 ページ画像

(増田明六)日誌  大正一三年     (増田正純氏所蔵)
一月廿二日 水《(火)》 晴
出勤
午後四時より、帝国ホテルに於て、竜門社評議員会を開いた、同社則改正の議を附するので、現評議員ハ勿論、前評議員にも意見ある人々にハ出席を請ふた、阪谷評議長議長席《(員脱)》ニ着き、明石氏及小生幹事席ニあり、逐条協議したが、格別異論も無く、二・三字句修正で原案を可決せられた
午後六時から、会員高松豊吉博士の化学工業ニ関する講話があつた、七時になつたので新年宴会に移り、終て浅野総一郎氏の勤倹力行を会員に臨《(望)》むとの趣旨の演説があり、最後に青淵先生の訓話ありて、阪谷評議員長の挨拶に依りて終了を告け、午後九時散会