デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
5節 修養団体
1款 財団法人竜門社
■綱文

第43巻 p.220-224(DK430020k) ページ画像

大正15年4月19日(1926年)

是日、当社第七十四回会員総会ヲ兼ネ、穂績陳重追悼講演会、日本工業倶楽部ニ於テ開カル。栄一出席シテ追悼演説ヲナス。


■資料

竜門雑誌 第四五三号・第七八頁大正一五年六月 ○本社第七十四回会員総会(DK430020k-0001)
第43巻 p.220 ページ画像

竜門雑誌  第四五三号・第七八頁大正一五年六月
○本社第七十四回会員総会 四月十九日(月曜日)午後四時三十分、麹町区永楽町日本工業倶楽部に於て本社第七十四回会員総会を開く。出席会員二百三十余名。定刻阪谷理事長の開会辞に次ぎ、常務理事増田明六君より、寄附行為第八条に依り評議員会の承認を経たる別項記載の大正十四年度社務及決算の報告○略スあり、満場異議無く之を承認す。依りて阪谷理事長は玆に閉会を告げ、引続き前号記載の如く、故穂積男爵追悼講演会を開催したり。


竜門雑誌 第四五二号・第七頁大正一五年五月 故穂積男爵追悼講演(DK430020k-0002)
第43巻 p.220 ページ画像

竜門雑誌  第四五二号・第七頁大正一五年五月
  故穂積男爵追悼講演

図表を画像で表示故穂積男爵追悼講演

  穂積男爵の薨去は国家並に学界の一大損失であるが、我竜門社としては、創立当初より常に指導誘掖を忝ふした関係から、尚更痛恨の情を禁ぜざる次第である。依て、四月十九日午後五時より、第七十四回会員総会を日本工業倶楽部に開き故男爵の追悼講演会を催した。当日は令嗣穂積重遠君・同夫人、並に渋沢元治君夫人・穂積律之助君夫人・穂積真六郎君市川三喜君・同夫人等列席し、青淵先生其他会員出席するもの二百三十余名の多数であつた。  阪谷理事長の開会の辞に次ぎ、故男爵と深き関係を有せる山田・富井・一木、三博士の講演があり、最後に穂積重遠君の謝辞があつて、追悼講演会を閉ぢ、次で晩餐会に移り、席上、特に本会の為めに出席せられた青淵先生の追悼談、穂積重遠君の謝辞、阪谷理事長の故男爵に関する逸事に付ての談話があつた。かくて穂積重遠君は、記念として永く家に蔵せん為めとて、参会会員一同の署名を求められ、午後九時に至つて散会したのである。○下略 





竜門雑誌 第四五二号・第四〇―四三頁大正一五年五月 所感 青淵先生(DK430020k-0003)
第43巻 p.220-223 ページ画像

竜門雑誌  第四五二号・第四〇―四三頁大正一五年五月
    所感
                      青淵先生
 閣下、諸君。所労やら老衰やらで、久しく竜門社の総会にも欠席致し居りました。今日は特に故穂積男爵の追悼会と云ふことに承知しましたので、追悼の辞をも述べたうございますし、又お目に掛りたかつた皆さんにも余り暫く振りでありますから、自分の思つて居ります所は斯様でありますと云ふことをも、簡単たりともお話したいと思ひま
 - 第43巻 p.221 -ページ画像 
して、声も苦しうございますし、甚だ工合が悪いので御座いますが押して参上致したので御座います。斯様の次第で、お聴苦しからうと思ひますけれども一言を申上げたいと思ひます。今夕の追悼会を御開き下された皆様の御誠意は、深く感佩致す所で御座います。又特に一木富井・山田、三先生の各方面からの至れり尽せりの哀悼のお言葉は、厚い姻戚の身柄である私と致しましては我身に受けるやうな感じを以て拝聴致したのでございます。畢竟、斯の如く御鄭重な御説を伺ふのも竜門社が追悼の会をお開き下さつたればこそである。竜門社あるが為めに斯かる機会を生じたのであると思ひますと、三先生にお礼を申すと共に、満場の諸君に厚く謝意を表さなければならぬと思ふのであります。只今重遠は斯かる有様を死なれた親に見せたいと頻に申しましたが、私は又丁度反対に、死んだればこそ、斯様な有様を見るのである、と云ふ喜びを感ずると共に、死なれたことを残念に思ふ情が深いのであります。真に意外なことで、何とも申上げる言葉は無いのでございます。故男爵との間柄は、もう殆ど五十年に近い関係で、姻戚の情愛ばかりでございませぬ。私は御承知の通り、学問の無い人間で御座いますが、当人は三先生から御弔詞を下さいました通り、何処迄も学者の型を備へた人であります。故に其の性格行動は、全く相反すると云ふ程ではありませぬけれども、多少共趣を異にして居つたのであります。然し或る点に於ては、意見の全く相合ふたこともあつたと申上げ得るやうでございます。私は亜米利加人と会ふと能く申しますが、亜米利加は民国であり日本は帝国である。亜米利加は広く日本は狭い。亜米利加は富んで居り、日本は貧乏である。斯く数へると、全く相反するやうであるけれども、正義を重んじ、人道に依つて立たなければならぬと云ふ点に就ては符節を合するが如くであらうと思ふ。此方にも中には必ずしもさうでない事が無いとも言へず、又向ふにも甚だ異なる所が無いとも限りませぬが、或る点に至つて一致して居ると言つて能く話をしますことであります。故穂積男爵と、私とは左様に違ふのではありませぬが、私は無学であり、故男爵は学者である、従つて其の従事する所も全く異つて居りました。然し或る点に於ては実に相一致したと申しても宜からうかと思ふのでございます。甚だお恥かしい事を申上げるやうでありますが、今夕一木・富井・山田、三君が懇篤に各方面から穂積の学事を重んじ、又事に対して細心の注意の届いた有様を、丁寧に御話下されたのを伺つて、玆に初て、穂積が左様な学者であつたかと云ふことを知つた次第で御座います。甚だ迂論な申分でありますが、さう云ふ学者であつたかと云ふことを、今更ながら思つたやうな次第で、丁度私は、我家の物なるが故に、惣菜を大してうまくも思はずに食べたやうな心地が致します。然し斯く申しますと、穂積を学者と思はぬ様でありますが、決して左様ではなかつたのであります。只左様にまで鄭重な考を持たなかつたことは事実であります。実に残念千万な話であつて、穂積が存在して居れば、大に考を変へねばならぬと思ひますが、今や既に亡し矣。斯う申さなければならぬのでございます。
 斯かる御席に於て、自己の家事に就て喋々するのは、甚だ相応しか
 - 第43巻 p.222 -ページ画像 
らぬことでございますが、併し左様な学者であつた故穂積博士を、私が最も専にした一つの事がございますから、申上げたいと思ひます。是だけは、三先生の御丁寧なる御講演に依つて、左様な学者であつたかと云ふならば、私自身は其の学者を、申さば惣菜に使つたと申しても宜い位であつて、私程幸福な者はないとも、又申し得るだらうと思ふのでございます。それは何かならば、私の極く微々たる家庭、何等法律の必要はございませぬけれども、打明けて申すと、私は妻を両度に持ちまして、従て子供も両様にあります、始めて東京に出掛けて家を持つたが故に、新組織であります。どうか此の家を好い工合にして相争はず、相競はず、和して進んで行く様にしたいと考へましたが、此等の事はどうしても其の本職に頼まざるを得ぬので、多分明治二十年頃と思ひますが、姻戚となつてから四・五年経つてから、其の事を故人に相談しました。御承知の通りの綿密な、又事理明白な性質ゆゑに、種々に考案されて、二十四年に、私の家の家法と云ふものを作つて呉れたのであります。それは今も尚ほ現存して、此処に居ります同族の人々は、皆其の家法に依つて、些細なものでありますから、勿論大した幸福も御座いませぬが、何の物議もなく相和して、小家庭を維持して居るのであります。蓋し家庭は至つて微々たるものでありますけれども、其の法律は、今日三先生から伺ひました通りの立派な学者の作つたものでありまして、実により以上のものは、さう無からうかのやうに考へますと、何やらん、私の家法が更に尊くなつたやうな心地が致します。斯様に考へますと、大事な愛婿を失つた不幸は、打つて変つて、自分は大変な幸福な者だとも申し得らるゝやうに思へるのでございます。先程の一木先生の御追悼のお言葉の中に、故人に就ての事柄は、富井・山田両君から各方面より詳しく話された所に尽して居るけれども、更に一つ加へて言ふと、故穂積が丁度自分に代る子供を遺して死なれたのは、真に後ありと謂ふべきで、此点に於ては、死んで憾みなからうと云ふ意味があつた様に伺ひました。果して如何あらうか、私が玆に保証の限りではございませぬけれども、孫である重遠のことを、皆さんの御面前で、斯様な事を申すのは、甚だ憚り多いやうであるが、一木博士の此の御賞讚は、私別して喜んで拝聴致したので御座います。蓋し本人も実に深い感じを以て拝承し、未来に勉強されるであらうと思ふのでございます。「積金以遺子孫、子孫未必守。積書以遺子孫、子孫未必読。不如積陰徳於冥々中、以為子孫長久之計此先賢之格言。乃後人之亀鑑也。」と云ふことがあります。多分温公の短い家訓と覚えて居ります。故穂積は決して金は積みませぬが、書は積んだのであります。書は積んで幸に読む人があるが、併し読む読まぬは第二に置いて、幸に父に肖たる子と、充分鑑識ある御方が御批評下さる、又親戚たる私共も或は然らんと思ふのは、是は死して余栄ありと申しても宜からうと思ふのでございまして、蓋し所謂積善の家と或は言ひ得るかも知れぬと思ひます。世間押並べてどうぞ左様にありたいと庶幾するが、あると云ふことを期し難いのが人事の常でございます。特に一木博士の殊更に御述べ下さつたことを深く感じましたので、私から故穂積の嗣子であり、又私の孫である重遠の将来を、祝
 - 第43巻 p.223 -ページ画像 
福致したいと思ふのでございます。まだ申上げたい事も沢山ございますが、甚だ声が立ちませぬから、唯僅に私の心に思ふ一部分を述べまして、御臨場の皆様方への御礼に代へる次第でございます。


中外商業新報 第一四四二一号大正一五年四月二〇日 故穂積男追悼講演会竜門社主催で(DK430020k-0004)
第43巻 p.223-224 ページ画像

中外商業新報  第一四四二一号大正一五年四月二〇日
    故穂積男
    追悼講演会
      竜門社主催で
竜門社にては、十九日午後四時半から、日本工業クラブに、春期総会を兼、故枢密院議長穂積陳重男の追悼講演会を催した、そして会場正面には生けるが如き大写真を飾り、先づ司会者たる理事長阪谷芳郎男開会の挨拶として、穂積男が竜門社創立当時より指導者の地位にありその関係の密接なる旨を述べた後、山田三良博士は「法学教育特に人才養成に就て」と題し
 (一)穂積男が邦語を以て法律学を教授するに苦心したこと(二)しかして後英法・仏法・独法の三法科が出来たが、之等は参考として教授せしめるやうにした(三)且つこの三法科分立のため、各長所を採り以て日本の法律学の進歩を促したこと(四)又英国留学の当時自然科学の進化論に刺戟せられて、法律にも進化あるの法則を発見、爾来五十年の間一貫してその研究を為し、而も慎重容易に発表せられなかつたこと(五)多数の門下生の世話を為し、自宅に法理研究会を起し、何処までも懇親に指導したこと(六)西洋法律に詳しいのみではなく、東洋の法制に通じ、比較法学の権威であつたことは世界に稀である。
などのことを演述し、次には富井政章博士は「法典編纂並に法律制度の確立改善に就て」と題し、穂積男と共に、わが国法典の編纂に従事し
 (一)日本の民法・商法等法典編纂に対する男の功績を述べ(二)明治廿六年法典調査会の主査委員となり、故男爵及び梅博士、自分とが、その起草を四ケ年にして為したこと(三)当時英・仏両学派が旺んに相争つてをり、仏人の起草した民法・商法の実施に就て延期論と断行論とがあつたが、男は延期を主張し、これが貫徹した、それから後は、法典起草に各派の人々を加へることになり、自然融和するに至つた、これには男の功績も少なからぬこと(四)其他刑事訴訟法の改制正等、諸種の法律制定に大功労のあつたことを説き
また一木喜徳郎博士は「科学思想の普及特に科学的研究の高調並に政治上の経歴に就て」と題し
 (一)男は学者として生れ、学者としての天分を遺憾なく有してゐたから、枢密顧問官として意見を立てるに当つても、常に学者的一貫せる意見を発表して、両者資格の使ひ分けをしなかつたこと
 (二)しかも後継者に重遠博士の如き人を持つことは、いよいよ学功績を完うせしめる所以である
と称した、そしてこれ等講演を終つて、穂積重遠博士の謝辞ありて閉会したが、なほ晩餐会に移り、デザート・コースに入るや、渋沢子爵
 - 第43巻 p.224 -ページ画像 
は、故穂積男に明治二十四年家法を作つてもらつたこと、その他の追懐的所感談あり、また重遠博士は、重ねて謝辞を述べ、九時散会した
 当日の主なる出席者は渋沢子爵・阪谷男爵・一木博士・富井博士・山田博士・穂積博士・佐々木・浅野・服部・石井・植村・山下・田中・持田・杉田・神田の諸氏、その他約二百五十名であつた
  ○此時期ニ於ケル当社ノ前掲以外ノ主ナル会合左ノ通リ。
    大正十五年四月十九日 理事会・評議員会(午後三時半ヨリ、於日本工業倶楽部)栄一出席セズ。
    同年五月二十四日 講演会・会員有志晩餐会(午後四時半―八時半、於東京銀行倶楽部)栄一出席セズ。
    同年六月十六日 理事会・評議員会・講演会・会員有志晩餐会(午後四時半―九時、於東京銀行倶楽部)栄一出席セズ。
    同年九月二十九日 理事会・講演会・会員有志晩餐会(午後四時五十分―九時、於東京銀行倶楽部)栄一出席セズ。