デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
5節 修養団体
4款 財団法人修養団
■綱文

第43巻 p.415-420(DK430066k) ページ画像

明治42年6月13日(1909年)

是ヨリ先、明治三十九年二月十一日、当団創立セラル。是日蓮沼門三、栄一ヲ飛鳥山邸ニ訪ヒ、援助ヲ懇請ス。栄一、其趣旨ヲ賛シ賛助員トナル。後、四十三年五月、顧問トナル。


■資料

向上 第一四号・第一三―一四頁明治四二年七月 訪問録 一、渋沢男爵を訪ふ 東京団員 蓮沼門三(DK430066k-0001)
第43巻 p.415-417 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
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修養団三十年史 同団編輯部編 第六五―六八頁昭和一一年一一月刊(DK430066k-0002)
第43巻 p.417-418 ページ画像

修養団三十年史 同団編輯部編 第六五―六八頁昭和一一年一一月刊
 ○本篇三十年史 二、育ての親
    渋沢翁を訪ふ
 熱烈国を憂ふるの赤誠は、眠れる人の魂をも呼び醒す。況して憂国の士の心をや。
 主幹の胸は絶えず憂国の念に溢れ、明るき世界建設の画策を以て充されてゐた。
 世を思ひ国を憂ふる人があれば、訪れずには居られなかつた。地位や、貧富の懸隔等、主幹にとつて問題ではなかつた。
 訪れては語り、語つては、慷慨した。しかもその胸奥に流るゝ赤誠は、相手の心を動かさずには置かなかつた。
 手島校長(高工)・宮田校長(成女)・渋沢翁・森村翁――を訪れたのはこの頃であつた。
 明治四十三年六月《(二)》の第二日曜○一三日主幹は雨を冒して、駒込の通りを飛鳥山の方へ歩いてゐた。――歩き乍ら考へた。
 『今日こそお会ひ出来るのだ。あの真心こめて書き送つた奉書の文字が大翁の眼に触れたのだ。さうだ、俺は大翁に会へるのだ。』
 足の運びも軽い。
 『今日の会見の結果がどうなるかは問題ではない。自分は自分の信念を、真心籠めて吐露するのみだ。』
 主幹が汗ばんだ手で、しつかり握りしめて放さなかつた翁からの面会通知の葉書を見たときの渋沢家執事の驚き!
 意気揚々たる主幹の姿は、やがて渋沢家の応接間に現はれてゐた。
 暫くして、質朴な老偉人の温顔が見えた。
 その柔和な眼ざし、その温厚な態度、何か予期せぬものにぶつかつて、思はず主幹の眼頭が熱くなる。
 主幹は衷心をぶちまけて、修養団の精神を語つた。
 熱心に傾聴して居られた翁は、やがて口を開かれた。
 『色々と承つて修養団の精神がはつきり判りました。悦ばしい団結です。
 自分は予て、算盤と論語とを以て処世の要道として来ました。その何れを欠いてもいけない。貴君方の愛と汗は、正しく算盤と論語――経済と道徳――を一致せしめるものです。そしてこれが国家社会を明るくする道です。
 私は貴君方青年に期待する。邦家の為に層一層の努力を続けて下さい。不肖私も力の限り助力さして戴きませう。』
 静かな老男爵の微笑が感激にふるへる主幹を送り出した。
 - 第43巻 p.418 -ページ画像 
  『誰か知る、世の最も卑しき人々より、
   此の世が、何を要求しつゝあるかを。
   その目的に於て、之より清き生命はなく、
   その聖戦に於て、之より強き生命はなし。
   されば、凡ての生命、
   これより勝りて清からず、
   又、強からざるなり』
 オーエンス・メレデイスはかく歌つてゐる。
 世に軽んぜられ、人に棄てられてゐた修養団を拾ひ上げて、哺育された道の親こそ実に渋沢男爵その人であつた。


渋沢栄一 日記 明治四三年(DK430066k-0003)
第43巻 p.418 ページ画像

渋沢栄一日記 明治四三年         (渋沢子爵家所蔵)
一月三十日 曇 寒
○上略朝餐ヲ食ス、後蓮沼門三氏等修養団諸氏ニ面話ス○下略
   ○中略。
二月二十日 晴 寒
○上略蓮沼門三氏来話ス、品性修養ノ事ニ関シテ種々ノ談アリ○下略


向上 第三巻第二号・第二〇頁明治四三年三月 九、名士訪問と其尽力(DK430066k-0004)
第43巻 p.418 ページ画像

向上 第三巻第二号・第二〇頁明治四三年三月
    九、名士訪問と其尽力
△二月二十日 蓮沼幹事は渋沢栄一氏を王子に訪ひ、二時間に亘る快談の末遂に同氏を動かして「尽力すべし」との誓約を得たり。
○下略


向上 第三巻第五号・第二〇頁明治四三年六月 ○名士の賛助(DK430066k-0005)
第43巻 p.418 ページ画像

向上 第三巻第五号・第二〇頁明治四三年六月
    ○名士の賛助
○上略
三、渋沢男
賛助員たりし渋沢男は、顧問となりて大尽力をなさんと申さる。
○下略


向上 第二五巻第一二第・第三六頁昭和六年一二月 渋沢顧問の修養団関係年表(DK430066k-0006)
第43巻 p.418 ページ画像

向上 第二五巻第一二第・第三六頁昭和六年一二月
    渋沢顧問の修養団関係年表
明治四十三年 五月 本団顧問たることを承諾せらる。
   ○「青淵先生職任年表」ニハ六月トスルモ、玆ニハ右ニ依ル。後掲資料参照。


蓮沼門三談話筆記(DK430066k-0007)
第43巻 p.418-419 ページ画像

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〔参考〕修養団三十年史 同団編輯部編 第四七―四八頁昭和一一年一一月刊(DK430066k-0008)
第43巻 p.419-420 ページ画像

修養団三十年史 同団編輯部編 第四七―四八頁昭和一一年一一月刊
○前篇 主幹の生ひ立ち 六、修養団創立
    創立の準備
 献げて倦まず祈つて息まざる主幹の至情は次第に青山師範学校の職員生徒を動かして、舎風改善、校風振興の熱望も今や漸く達せられんとするに至つた。
 かくて夢寝にも忘れざりし救世済民の大誓願は、総親和総努力の揺籃、青山師範学校を根拠としてその第一声を揚ぐるに至つた。
 是より先、主幹は寸暇を割いて、
『修養団設立の趣旨』、『人格修養の急務』なる二論文を完成し、同志に示して已むに已まれぬ決心を明にした。
 心あるものは敢然此の壮挙に馳せ参じ、互に人格を練磨し、相扶け相励みて、赤心以て児童教育の天職を全うし、更に進んで社会の風教を革正し、皇国の進運に貢献すべく渾身の試を尽さんことを誓つた。
 後更に『バチルス征伐論』、『理想寄宿舎設立論』を発表して愈々聖戦の旗を進め、同志の盟契を高めた。
 あゝ、天の時、地の利、人の和、今こそ立派に成就したのだ。
 いざさらば、友よ起てと、準備いよいよ怠りなく、
 明治三十九年二月十一日、紀元節の佳辰を卜して、
 - 第43巻 p.420 -ページ画像 
青山師範学校食堂に於て栄ある発会式を挙行した。
此日、天晴れ気澄みて、神武聖帝大業成就のめでたき日に、
誓願を仰いで集ふ数百の同志。
若人の血は湧き肉は躍つて、意気正に天を衝かんとするものがあつた。
式は滝沢校長の祝辞に依つて開かれた。
全員粛として邦家の前路を思ひ、殉国の覚悟を胸に秘めて、
聖戦の門出に、出で立つたのであつた。