デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
5節 修養団体
4款 財団法人修養団
■綱文

第43巻 p.444-447(DK430077k) ページ画像

明治45年1月27日(1912年)

是日、東京高等工業学校ニ於テ当団高工春季修養大会開カル。栄一出席シテ講演ヲナス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四五年(DK430077k-0001)
第43巻 p.444-445 ページ画像

渋沢栄一日記 明治四五年          (渋沢子爵家所蔵)
一月二十三日 曇 寒
○上略朝飧ヲ食ス、畢テ修養団員ノ来訪ニ接ス○下略
   ○中略。
一月二十八日 晴 寒
○上略朝飧ヲ食ス、後○中略修養団員二名来リ昨日大会ニ出席ノ事ヲ謝ス
 - 第43巻 p.445 -ページ画像 
ル旨ヲ申出ル○下略


向上 第五巻第三号・第六九―七〇頁明治四五年三月 ○高等工業主催春期修養大会報告(DK430077k-0002)
第43巻 p.445 ページ画像

向上 第五巻第三号・第六九―七〇頁明治四五年三月
    ○高等工業主催春期修養大会報告
△一月廿七日寒気強く天よく晴れたり。各学校修養の士遠路を馳せて集り来る。高工生徒は修養団の精神を悦ぶ者、定刻前に堂に入つて待つ。午后一時三十分開会す。
△坂本剽氏 立ちて開会の辞を述ぶ。音吐朗々熱誠面に溢る。「吾人は不肖ながら真に国家の将来を憂へざるを得ざる也、青年の気慨なきを憤らざる能はざるなり。力微にして身卑しと雖も然れども叫び且つ起つの止むなきに際会せるを奈何せん。吾人の霊感は玆に熱血を湧かしめ筋骨を躍らしむ。諸君は実に国家の中堅たるべきもの帝国の後継者たり。国家の運命懸りて諸君の双肩に在り。帝国各学校の秀才相結合し盟契して帝国の進運に貢献するあらば、来るべき帝国は真に富強歓楽の浄土たるべきに、各俊秀青年学生にして尚修養を怠り、快楽主義・自然主義を云々し、中心報国の丹心なきの徒続出せんとするに至る。吾人は同志と共に奮闘努力し、以て此の悪風潮を撲滅せんと期するなり。」と
△手島校長 莞爾として壇上に立たれ「歓迎の辞」を述べらる。「修養団は蓮沼君及幹事諸君の多年の苦心と熱誠とは遂に天に通じて着々好成績を挙げ、幾多の先輩に歓迎せらるゝ所となりたり。蓮沼君の満足はさることながら、幹事団員諸君の歓喜亦思ふべき也。余校務多忙にして思ひながらの無沙汰慙愧に堪へずと雖も、然れども諸君の精神に感じては幾分の助力をなしつゝあるもの也。尚一層の奮励を以て最後の勝利を得られんことを望む」と諄々として訓へらる、慈愛の御言葉皆深く感激したり。
△蓮沼主幹は欣快堪へ難き態度を以て
「吾人は玆に奮起して、青年志士の大同団結を企てたり。背水の陣を張つて、大道維持のために尽瘁す。吾人の宣言は実に時弊を矯正すべき火団たるべきを信ず。吾人は吾人の敬慕感謝して措能はざる殉国忠誠の英霊に導かれつゝ、正義のために闘はざるべからず。不道を除去するためには実に一身更に一族を棄つるの覚悟なからさるべからず、精神的第二の維新に際会し、誰か松陰を慕はさらん、リンコルンを思はさらん」と
△次に
  ○蔵原惟廓氏
  ○渋沢顧問
  ○添田博士
の有益なる御講話ありて午后四時予定通りの閉会をなし、直ちに教官食堂に於て茶話会を催したり。
   (先輩の御演説は向上誌に掲載すべきにより略す)
○下略


向上 第五巻第三号・第一二―一三頁明治四五年三月 渋沢顧問の講演 (高工春季大会)(DK430077k-0003)
第43巻 p.445-447 ページ画像

向上 第五巻第三号・第一二―一三頁明治四五年三月
 - 第43巻 p.446 -ページ画像 
    渋沢顧問の講演 (高工春季大会)
多数の青年諸君に久々にて御目にかゝつて喜ばしく存じます、先日主幹より出て何か話をしてくれと御注文がありましたが、何しろ時間を繰り合はせて出席しました様な訳で、何分時間も切迫して居ますから長く御話する余裕もありません、本日私が諸君にお話せようと思つて居ることは、修養団の向上雑誌にかいてありますから、雑誌によつて説を見て下さい。顧みれば修養団が生れてから六年になります、私が幹事と懇意となつてからも三年を経過しました。修養団が世に生れてから半分の歳月は自分も聊か力を注いだと思ひます、とつらつら学生の風潮を見ますれば知識熱にのみ浮されて、動もすれば道徳を重んぜざるに至り、或は軽躁に趨り、淫靡に流れ、精神が惰弱となつて実践躬行する強意志が欠乏し体格軟弱となる、修養団はこれを矯正せんが為に起り、時弊を改むるに最も適当なるものと認めます。私は古風の教育を受け今日の教へはよく知りませぬが、蔵原君が人格につき充分御説きになりし如く、敬神の念の必要なる事は左ありたいと深く感じます。
    △松平公の敬神
別題なるが敬神の事につき私が嘗て松平定信の敬神の念の深かかつた事に深く感じましたから、蔵原さんのにつけ加へて御話しませう、松平楽翁は天明八年弊政を改革しました、此の改革に就ての楽翁の決心は実にすばらしい者である、己れの精神を労するは云ふに及ばず、一身妻子更に眷族を犠牲としても是非改革を断行せねばならぬと観念しました。本所の吉祥院聖天に献げた起証文あり(美濃紙)其の文の大意は「松平定信一命を捧げて祈る。凶災打ち続き徳川の政治危殆に陥る故に金穀融通をよくし万民を塗炭の苦しみより救はんとす、然れども微力及ばず改革することを得ざれば聖天の力によりて助けて下さい生き長らへて己が職責が尽せぬ程ならば、自分の生命を引取つて下さい」との起証文をひそかに献つたのである。この事は誰れも知らなかつたが、維新後初めて知られて越中守の家にこれを収め得て今は松平家の宝物となつて居る。私がこれを知つたのは東京市の養育院の資金は、定信の倹約せるものを、東京市に献じたものである。故に養育院では定信を尊敬して居る、此の起証文は養育院で見る事が出来ました定信は和漢の学に通じ骨董を好み又和歌の上手な人であつたが、自己を犠牲に供したのは全く教神の情が強かつた為めである。只今の御趣旨は至極御もつともと思ひまして、之れを加へた次第でございます。人格を作らないと完全なる人にはなれないが一つ蔵原さんの説に対して異存があります、夫は人格は前にありて後にはないと云はれましたが、私の様な老人では前がないので誠に困ります。次に人生観は如何に考ふべきかと云ふと主観・客観の二種がある。主観的になりますと自己本位で、自分が世の事に恥しからぬだけの道理を以つて人の助を受けず自己の力で働く者であるから、其人の働が増加するのは勿論であるが、人は皆聖人であればよいが、自己本位は動もすれば遂に其極相争ふ様な事になる。
人の上に立つ人には社会国家の念がなければならぬ。故に自己の外に
 - 第43巻 p.447 -ページ画像 
国家本位を考へなければならぬ。社会国家を主としては、自己が社会に対し一家に対し、一郷一村一国に対して相結びて、富強盛大になり行くならば、自己が国と体を同じうすると考ふ可きである。扨て人たる者は此世に尽すに材主義人格《(ママ)》を押立て行くには自己を本位とするとも、自己さへ立つれば其れに満足すると云ふ様な考は文明国の人の覚悟すべき事ではありません。
尚此上委しく申上たいが、大体に於て人は自己のみで立つものではなく、一方に客観的に考ふべきであると云ふ事を必要と思ひます。
                    (文責記者に在り)