デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
5節 修養団体
4款 財団法人修養団
■綱文

第43巻 p.450-456(DK430079k) ページ画像

明治45年3月3日(1912年)

是日、浅草三筋町ノ当団高等工業第二向上舎ノ発会式並ニ披露茶話会開カル。栄一出席シテ訓話ヲナス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四五年(DK430079k-0001)
第43巻 p.450 ページ画像

渋沢栄一日記 明治四五年          (渋沢子爵家所蔵)
三月三日 曇 寒
○上略午飧後浅草三筋町ナル修養団ノ向上寄宿舎ノ発会ニ出席シテ、団員ニ一場ノ訓示ヲ為ス、畢テ宮田・蓮沼其他ノ人々ト雑誌改良ノ事ヲ談ス○下略
   ○中略。
三月十日 晴 寒
○上略朝飧ヲ食ス、後第二向上寄宿舎学生四名蓮沼氏ノ添書ニテ来訪ス修学上ノ訓示ヲ為ス○下略


向上 第五巻第三号・第六八頁明治四五年三月 第二向上舎設立披露茶話会(DK430079k-0002)
第43巻 p.450 ページ画像

向上 第五巻第三号・第六八頁明治四五年三月
    第二向上舎設立披露茶話会
開会。四十五年三月三日午後一時(晴雨に拘らず)
会場。浅草北三筋町五十九番地
       修養団高工第二向上舎
            (上野広小路乗換楽山堂病院前下車)
報告。蓮沼主幹・小林幹事
講演。顧問渋沢男爵・宮田主筆・賛助員清水一雄氏(清水組)
    外名士の御出席あり
余興。独唱小島兵太郎・ヴァイオリン花田虎介・詩吟坂本剽外数名
○紀念撮影
 △感謝、第二向上舎は特志先輩の出資と高等工業学校々長教官の御尽力により成立するものなり、玆に其高志を感謝す。
                      修養団本部


向上 第五巻第四号・第七六―七七頁明治四五年四月 修養団高等工業第二向上舎設立披露茶話会報告(DK430079k-0003)
第43巻 p.450-452 ページ画像

向上 第五巻第四号・第七六―七七頁明治四五年四月
    修養団高等工業第二向上舎
    設立披露茶話会報告
修養団高工第二向上舎設立披露茶話会は桃の節句三月三日を以て開催さる、薄暗の凜風雨を伴ひ寒気尚強しと雖も天候志を奪ふべからず。道の為めに相集るもの数十名、定刻に至り舎生総代貞定忠一氏立て開会の辞を述ぶ。
 - 第43巻 p.451 -ページ画像 
顧問渋沢男爵閣下を始め、手島高工校長其外先輩諸賢の御助力と団員諸君の熱心とによりて、玆に修養団高等工業第二向上舎の設立を見るに至りたるは、不肖始め当舎一同の深く感謝して措かざる所なり。吾人舎員一同堅く肝に銘し心に刻み以て奮進努力、能く其の実蹟を挙げ御厚恩の万分の一に答へん事を期す、閣下諸賢向后尚御指導を賜り度亦団友諸賢の厚き御同情に預り度し、之れ生等の切望して止まざる所なりと。
小林幹事は、次ぎて演壇に現はれ、向上舎設立の経過を報告す。吾人入団以来、此種の宿舎設立を希ふや切なり、現今学生の志気を鼓舞督励し、自然の誘惑より生ずる精神的疲弊を防止せんとせしも、時機之れを許さゞりしが、旧臘以来坂本剽氏等熱心なる運動あり、団員諸君の懇望あり、愈々寄宿舎設立の機運熟せりとなし、志気大に勇み、宿舎位置の調査選定に着手せり、爾来牛込及駿河台に適当の位置ありと聞き、調査に歩を進めしも、何れも通学距離の点に於て、収容の人員の点に於て、団員の要求を充たすに足らず、玆に於て上述方面を断念し、通学距離三十分以内及収容人員経済等に由り浅草方面を捜索にかかれり、而して現在宿舎の決定を見るに至れり。当舎は関口氏の所有にかゝる敷地坪にして、一の邸宅として固より狭しとせず、加ふるに位置街路に添ひ商業上枢要の地位なれば地価も低廉ならず、然れども関口氏は修養団の主義を賛成せられ、吾人の要求通りに成りて当舎今日の成立を得たり。当初宿舎の設立に志すや固より自主自立力を他に求めず、独立経営を以て創立の美を収めんとせしも事情境遇はこれを許さず、決算収支不償を告ぐ、此れ甚だ遺憾とする所なり、これより先き設立に際し先輩清水氏は多額の金員を支出せられ、本舎経営に大援助を与へらる、一同堅く肝銘して忘れざるを期すると共に玆に深く感謝の意を表す。河野広中先生及瓜生とめ子女史の御紹介により女中両名を雇ふ、準備漸く整ひ玆に現員十七名、即ち電気科九名、紡機科一名、機械科三名、電気化学科三名、応用化学科一名を収容し向上舎の基礎全く成る、然れどもこれ未だ微々たる現況を以て満足すべきにあらず、宿舎拡張と共に堅実なる団員の充実を希ふ所なり。
願くば先輩諸賢本舎の為め益々御援助下さる様切望す。次に蓮沼主幹の説明、渋沢男・手島校長・宮田主筆・二木博士の有益なる御講話あり、終つて邸園に於て一同紀念撮影す。
茶菓に移り会友互に胸襟を披瀝し、喜々談笑此裡に於て舎生数名の氏名紹介あり。
余興として舎生花田氏のヴアイオリン・小島氏独唱・坂本剽氏詩吟及蓮沼主幹の詩吟、外数番。
和気靄々堂に満つ、舎生一同為紀念撮影終て柏木氏閉会の辞につぎ、蓮沼主幹音頭の許に万歳を三唱して散会す、時に午後九時。
今日の茶菓は焼芋と塩煎餅にて先輩皆其質素を悦ばれたり、翌日の各新聞には「麦飯を食ふ模範寄宿」と題して世に紹介せらる、本日六畳間にて渋沢男を囲んで雑誌大革新の相談ありたり、光明輝いて団員の胸躍る。
本日の来賓には、講演者の外、清水一雄氏・中島徳蔵氏・杉田稔氏等
 - 第43巻 p.452 -ページ画像 
十数名。


向上 第五巻第四号・第七―一一頁明治四五年四月 ○価よりも品物のねうち 顧問渋沢男爵(DK430079k-0004)
第43巻 p.452-454 ページ画像

向上 第五巻第四号・第七―一一頁明治四五年四月
    ○価よりも品物のねうち
                   顧問渋沢男爵
△当寄宿舎が設立せられ今日は其披露会が催ふされるにつき、蓮沼主幹から参るようにとの御通知があつて上りました。本日は別に話をする考へで出たのではなく、只こゝの場所を見、又諸君の御話を聞くつもりで出たのです。処が何か話をせよとの事ですから咄嗟の間に思付きて話すのであります、高等工業に学ぶ諸君の為めに玆に寄宿舎を造るに至れる次第は小林幹事の報告によつて了解しました、此の寄宿舎の舎生諸君にとつて良き場所であることを喜びます。
      △走れといへばころぶ
△私は顧問の位置で常に諸君と御目にかゝる方もありますが、多くの諸君とは常に言語を交へることはありませんけれども、何時か折があつたら又話すこともできようと思ひます。元来私が修養団へ仲間入りをしましてから、微力ながら力を尽します主意は蓮沼君から御話あつた通り、近来の学問の習慣が科学の進歩に伴うて智は発達したけれども、徳の方は如何がはしい、物は何でも二つよきことは無いもので、一方が進めば他の方が遅れるといふことは免れぬことであります。なるべく早くせよといへば粗漏にする、念を入れよといへば兎角遅滞する、走れといへば転ぶ、人に対して礼義を正しくせよと言へば活溌愉快を欠くようになるべく、卒直になれといへば乱暴になる故に、一方を重んずると、他方が欠くるは人の弱点であります。
      △早く走つて躓かぬやうにせよ
△今日の科学の進歩が智識を増すことよりして人間が軟弱となり、気力旺盛といふことを欠くようになる。将来この風習が盛になれば国民の元気を減ずることになるは、修養団員のみならず他の諸君も亦慮る所であらう。されば智識の進むと同時に昔の如き慷慨に満てる青年を作つて、科学的智識と共に其の元気を進めねばならぬ、即ち早く走つて躓かず、且つ叮嚀にて、早く物が成就する様にして弱点を改めるやうにせねばならぬと考へます。この一体の修養が即ち修養団を生ぜしめたるもので、多数の伴ふ弊害を修養団が改めつつ其の害から免れしめねばならぬと思ひます。
      △向上雑誌はかうしたい
△今日の学問の有様並に青年の状態は私等の経歴と異なるから詳しくは知らぬが、昔の事は私自身で経て来たから知つて居ります。即ち両時代に亘つてをるから、御求めに応じ時としては「斯くしてはよくない」とか、或は「斯くせねばならぬ」とか御注意したいと思ひます。向上の雑誌も追々進歩してよくなりましたが、諸君はそれを見て満足であるまい、論説・寄書なり社会雑報なり、それ等の欄を設けて、一つは学問的に又は慰みを生ずるようにしてはどうです、何れ蓮沼君や宮田君と相談して何とか改良しようと思ひます、諸君を満足させるのも近いことゝ思ひますから悦んで待て下さい。
 - 第43巻 p.453 -ページ画像 
      △独立自尊は独りぽつちといふ事ではない
△私はこゝに一つ舎生諸君に話したいのは、自分もかゝる企が必要だと思ふて四・五年前から埼玉県の者のために特に取り設けて今牛込区内に一つの寄宿舎を設けてあります。これにつき一つ心配な事がある勿論修養団には一定の主義があつて自らが作るのである、志を道理に従つて修むるのである。学ぶ学課も各科に分れて政治家・法律家等の如くではないが一様の人の集りではないと思ふ、この方面の人が一所に集まつて起居動作を共にして居るのですから、つとめて相助け相励みながらやつて行きたいと思ひます。動もすれば人は不覊独立といふことを誤解する。一人ぼつちで自分の都合のみをはかればよいと思つてはならない。かく誤解すれば国家を害ふこと大である。独立とは人にたよる考へはなく自己の力のみで仕事をなし国家に尽すといふ意味で、これを言ひ換ふれば独立自尊の謂であります。自由が我儘と異なる様に不覊独立は一人ぼつちで自己の都合のみをはかるものと誤解なき様願ひます、自己は自己により社会国家に尽すことを本とすべきであります。共同といふ意味と共に不覊独立の意義を誤まらず、自分の身体には充分注意を払ひ、冷水浴・撃剣・深呼吸もよからうが、人たるの道即ち人道に背かぬ様守られたいと思ひます。
      △共同生活には秩序が大切だ
△それで埼玉県の者を入れて居る寄宿舎は、青・中・幼年寮と分れて居ります。種々の方面の人が集まつて居りますから、高工に出る人が集まつて居るこの寄宿舎の如きではありません、帝大・高工・高商・早大・明大等各種の学校に学び又学課も自ら異ります。学ぶ所が異れば各々の心の向ふ所も異るので、集まつて居る人が各々自分勝手な事をすると寄宿の秩序はなくなるから、如何にすべきかといふことが問題であります。又青年に余り干渉すると、志を挫く様になつて却て悪いが、然し多数の人が集まつて成立する団体の間に於ては、何か一定の奉ずる所がなければならぬ、同じ寄宿にあつても集まる人々は地方が別なので、始めは親しみの度合も少ないが、一定の奉ずる所に従つて行動する様になると親密の度合が増して来る。寄宿の秩序を維持し寄宿をして整頓せしむるために是非一定の奉ずる所が必要であるからこの寄宿舎に委員を設け又条文七ケ条を作つて居る、これを根本として尚これに従ふべきものを置く
殆んど国民の大道の如きものである、其の七ケ条の中あるものは今ここに掲げてあるこの向上舎のものと同じ様なものがある、かく要義を定めてこれを守らぬものは入れない様にしてあるが、這入つたものは必ず守る様にしてある、けれども其れは極く大体であつて綜合的な事が書いてあつて、これによつて起居行動を共にせしめてある。
      △価よりも品物にねうちがあるやうにしたい
△更に一つ述べたいのは色々世間の有様が事実を跨大に言ふことである。大袈裟な事を云ふが、其の事実に至つては言葉と一致しない。それは大に反対したいと思ひます。色々立派な文句を並べて事を発表するが、事実は全くこれと反対である、丁度値が高くて役に立たぬ品物の様なものである。私はもう年齢は七十三であるが尤も老人ではない
 - 第43巻 p.454 -ページ画像 
諸君に比べては老人かも知れぬが、まだそう老人ではない、奮闘奮闘とよく人が云ひますが、私は奮闘も何もしません。けれども私はぼんやりして居る事は嫌ひであるから暇さへあれば、人に接するとか手紙を書くとか雑誌を読むとか或は演説に出かけます。朝六時に起きて十二時半まではじつとして居ることはありません。常に王子に住んで居るが、朝起きてから色々の仕度をして居ると人が必ず三・五人は訪ねて来る。これに面会を終へて事務所・銀行其他に行く、人が朝から来るから朝新聞を見る暇がない。夜帰宅してから見る、人が来ぬ間に早く起きて読まないから不勉強だといはれるかも知れぬが、どうして朝は忙がしいので夜見る、新聞は二十種位取るが其の中四・五種しか見る暇がない、それでも十二時半になる、その間に雑誌も見る、尚手紙も毎日二通位は必ず書く、私はかくの如く毎日やつて居ますが何にも苦しまずとも出来ます、兎角人間は言ひたてるよりも実働することが必要で、またかくありたいと思ひます。
      △エール大学教授の問に自分はかう答へた
△丁度一昨々年でしたが米国に行きてエール大学を参観しましたが、この大学は実に立派です。私が去るときにこの大学が何と思ひましたか紀念メタルを送つて呉れました、其の後同校の教授から手紙が参りました、私がこの学校を見ましたものですから、学校に対する感想を書いて送つて呉れる様にとの事でしたが、私は専門的の眼が無いのでありますから、この求めに対して批評を加へるなど一寸出来兼ねますから止めようかとも思ひましたが、二度も手紙が来ましたので、只感じた丈けを送らうと決心しました。その手紙に日本の教育も漸次欧米教育に傚つて進歩しつゝあるが米国の教育と異なる処は、私立の学校が総ての点に於て完備し且つ豊富である、米国の学校が政治的支配を受けず、学問それ自身が独立して居て政権を帯びない。これが日本と米国と異なる処で、又今一つ米国は総ての仕向がたつぷりして居り食事の割合も豊富で、全体が日本に比べて形に於ては同じ様であるけれども物に於て豊なることの大差がある、又終りに一つ付け加ふれば米国と日本と教育に要する費用の点に於て大に相違がある、日本の教育の費用は到底米国の教育上の費用には及ばぬが、併しそれだけ多大の費用をかけたる教育の事蹟と、費用の少ない日本の教育の事蹟とを比べて見れば、其の費用の差が大なる様に成績に於て劣る処は無いと思ふ」と書いて送りましたが、これに対し米国の教育は大にこゝに意を注がねばならぬと云つて来ました、尚教授連が会合を開いて後その結果を通知するといつて来ましたが、其後何等の通知もありませんので批評会を開いたのかどうかわかりません。畢竟事は軽い仕向けにより大なる効果を修めたいと思ひます。即ち小なる設備で大なる効果を表はしたいと思ひます、誇大に事を世の中に吹聴する必要はありません青年なくんば天下を如何にせんといふ如く言葉のみを大にせずに、其の実蹟を挙げたいと思ひます、団員諸君もこの点に就て充分意を注ぎ其の効果を表はさるゝ様に願ひます。(茶話会講演)
   ○本款大正二年九月十三日ノ条参照。

 - 第43巻 p.455 -ページ画像 


〔参考〕向上 第四巻第三号・第七五頁明治四四年三月 寄宿舎修養団向上舎の設立(DK430079k-0005)
第43巻 p.455 ページ画像

向上 第四巻第三号・第七五頁明治四四年三月
    寄宿舎修養団向上舎の設立
東都に来遊せる幾万の地方有志の青年が動もすれば稜々たる気骨を失ひ、質朴清廉の気風を没して淊々浮華放縦の淵に陥らんとするものある、多くは正軌を失へる気随生活が隋落の淵に彷徨せしめて又顧みさるに由る、本団曩に惟ふ所あり、帝都の中央に一大寄宿舎寮を設置し自治的精神を鼓吹し武士的向上生活の実現を試みんとす、之れ実に本団事業の急務中の急務として数へられありたりと雖も、如何にせん之を実現すべき経済上の基礎なきが為め空しく葬り去られありしなり。本団幹事瓜生喜三郎・田部新盛・団員小塩健吉等相謀り一は本団将来の計画のある所を示し、一は自治的生活の成績が奈辺まで挙げ得らるべきかを試みん為め、玆に四谷区左門町二十五番地に小規模なる寄宿舎『向上舎』を建設し、武士的生活の実を挙げん為め先づ其の手始めとして相互の規約を実施すべく左の通り定めたり。
△午前五時    起床、水浴、撃剣、
△同五時三十分  静座、黙想
△同六時     朝食(之れまでに自分の室及び靴の掃除をなす)
△午後五時夕食  △同七時より九時黙学
△十時就褥
 設立草創の際一臂を添へ理想的寄宿舎の発展を図り、理想的生活の範を垂れんと欲せらるゝの好意と気慨あるの士は、先づ左の三条を厳守実行するの覚悟を固めて而して来り投ぜられよ、
一流汗苦行 二静坐黙想 三感謝報恩
  同舎家作所有主なる四谷区荒木町小川病院長は本舎設立の趣旨を賛せられ、毎月金三円宛の寄附あり、同氏の好意に対し玆に公に感謝の意を表す(舎員一同)
   ○右ハ当団第一向上舎ノ記事ナリ。



〔参考〕手島精一先生伝 手島工業教育資金団編 第三〇六―三〇八頁昭和四年八月刊(DK430079k-0006)
第43巻 p.455-456 ページ画像

手島精一先生伝 手島工業教育資金団編 第三〇六―三〇八頁昭和四年八月刊
 ○第三編 第二章 人格精神的指導
    第二向上舎と先生の援助
○上略本団○修養団の第一向上舎を四谷区左門町に設立したるは、四十二年二月一日なりき。其成績好良にして、渋沢・森村顧問を始め、賛助員の信用を得、殊に手島先生は、学生の下宿生活の不健全なるを深慨せられ、高工生徒の為めにも此種の寄宿舎を希望し居らるゝに際し、高工支部幹事小林茂氏・坂本剽氏等は、四十五年一月より第二向上舎の設立を企て、高工団員の提携所・修養所たらしめんとして余に相談せらる。余は手島先生の賛同を得て、清水建築組副店長清水一雄氏と計り、創設費二百二十円の寄附を得て、浅草区北三筋町五十九番地に、借賃月額六十円の家屋を借り、小林茂氏を舎兄として、同志十七名を募り二月十一日開会式を挙げ、三月三日披露会を開きて、渋沢男・二木博士、中島・三守・杉田教授、清水一雄氏等の臨席を得たりし時手島先生は、己が家庭を見る如く欣然として其成功を祝福せられ、益益其発展を念願せられたりき○下略
 - 第43巻 p.456 -ページ画像 
   ○右ハ蓮沼門三ガ当団ト手島精一トノ関係ヲ述ベタルモノ。