デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
5節 修養団体
4款 財団法人修養団
■綱文

第43巻 p.463-469(DK430082k) ページ画像

大正元年10月19日(1912年)

是日、慶応義塾ニ於テ、当団慶応義塾支部発会式挙行セラル。栄一出席シテ演説ヲナス。


■資料

向上 第六巻第一号・第二―三頁大正元年一一月 △慶応支部発会式(DK430082k-0001)
第43巻 p.463-464 ページ画像

向上 第六巻第一号・第二―三頁大正元年一一月
△慶応支部発会式
同塾には今春以来数名の熱誠なる団員の起ちて、将来同塾に一大支部を設立せんとの希望を以て、爾来一意同志の結合に努めたる結果、今や団員も増加し基礎又確立せるを以て、十月十九日午後一時より同塾に於て盛大なる発会の式を挙ぐるに至れり、本部よりは蓮沼主幹外幹事出張大に斡旋す、当日左の講演ありたり。
 修養団の精神      主幹 蓮沼門三君
 修養と独立自尊     塾長 鎌田栄吉君
 突発談論      前代議士 福本日南君
 修養団員に告ぐ   顧問男爵 渋沢栄一君
 実業と修養   顧問文学博士 井上哲次郎君
 - 第43巻 p.464 -ページ画像 
右終つて市内本支部幹事の茶話会あり、各自十二分に歓談を尽して午後八時散会
(詳細は別項記事参照)


竜門雑誌 第二九四号・第七六頁大正元年一一月 ○修養団の慶応義塾支部発会式(DK430082k-0002)
第43巻 p.464 ページ画像

竜門雑誌 第二九四号・第七六頁大正元年一一月
○修養団の慶応義塾支部発会式 修養団の慶応義塾支部発会式は十九日午後一時より同大学三十二番講堂にて挙行せり、講演者は同会顧問青淵先生及び井上哲次郎・鎌田栄吉・河野広中・福本日南諸氏なりき


向上 第六巻第一号・第三―四頁大正元年一一月 △修養団慶応義塾支部発会式 慶応義塾修養団支部報告(DK430082k-0003)
第43巻 p.464-465 ページ画像

向上 第六巻第一号・第三―四頁大正元年一一月
    △修養団慶応義塾支部発会式
          慶応義塾修養団支部報告
淊々漲溢して止まざる社会の濁流を顧み慨然として奮起せし修養団は創立以来玆に七年、蓮沼主幹の献身的奮闘と顧問先輩諸幹事の熱誠なる努力とによりて団運日に発展し来りて、玆に又我慶応義塾支部の発会式を見るに至れり。時は蒼窮高き十月十九日、義塾第三十二番大講堂に其の式を行ふ。此日朝来陰雲暗澹重層して天候は聊か危惧せしむるものありしと雖ども、開会てふ午後一時頃に至りては、早や秋空一晴些の浮雲無く天亦意あるものゝ如し。
此日偶々三田文学会・社会政策学会、其の他運動会等所謂面白味タツプリなる諸集会の同刻に開催せらるゝことゝて、或は来会者の少かるべきを予想したるも、定刻前より式場さして詰めかくる聴衆は陸続と踵を接し列をなすの盛況、やがて団員後藤君が拍手の声に迎へられて蘇鉄の緑ゆかしき壇上に立たれし折にはさしもに広き大講堂も満場立錐の余地だに無く、赤章胸に駆けめぐる団員の面には何れも喜悦の色溢れたり。後藤君の挨拶終りて蓮沼主幹登壇せらる。壇上一顧満場七百熱心の聴衆を臨まれし主幹の胸中には、自らが額の汗と代へにし果実とは云へ、さぞかし喜びの思、波打つものがあるならむと涙ぐまれぬ。やがて主幹は修養団の精神てふ題の下に徐に開口、平常ながらの熱誠肺腑を貫がずむば已まずとの口調を以て、設団当初の苦難並に其の発展経路、現今社会の弊風、青年の覚悟等につき種々懇説せられ、大に諸君の奮起努力を望むと結びて降壇。聴衆の眼は輝き拍手の声は空を揺がす。これより顧問先輩諸氏の講演にうつりて劈頭鎌田慶応義塾々長、修養と独立自尊なる題下に修養の必要、成功の真意義等を悠揚迫らざる先生一流の口調を以て熱説せらるゝ所あり。塾長の講演半にして自働車の響あり、顧問渋沢男爵の来臨せられたるなり。それより少時休憩を宣して講堂入口にて男爵・塾長・福本氏を囲むで本塾団員一同撮影、終つて講演を継続す、困難なる国家の前途てふ下に福本誠氏の勇姿は壇上にあらはれたり。炯々たる眼光一閃、妙語警句は口を衝いて迸出し、先生の論鋒は一句一句力を加へて、競争の美事なること、欧洲今日の文明は彼我相互の激烈なる競争に基因するの多きこと、我国の古来競争少かりしこと、競争の修養に必要なること等適所巧妙なる引例をとり来りて縦説横談せられ、最後に現今社会の混乱紛糾せること、而して是の惨状を救はむには、唯吾人の正心誠意事に当
 - 第43巻 p.465 -ページ画像 
るに在りと絶呼せられて降壇。
次で「団員諸君に告ぐ」との題下に渋沢顧問登壇あり、莞爾たる豊顔は先づ聴衆の心に深き或る物を与へられ、又国家を憂ひ、青年を愛し修養団を思はるゝの一念より忙事山積する中を、然かも七十余歳の老躯を提げられて此の演壇に立たれたる、男爵の風姿を仰ぎては只々小さき胸の感謝の涙に満つるのみ。やがて顧問の口はひらかれぬ、謹厳にしてしかも温情濃かなる態度を以て懇切に修養に対する世上種々なる誤解を弁明せられ、実地と学理との一致を計るは是れ大なる修養なり、本塾創立者たる福沢先生はこれ誠に此の養をはかられし第一人なりと引証せられ、終りに団員の覚悟に対して切言せらる、次で幹事町田君立つて本支部発会式に対する各支部送附の祝電を朗読し終つて、顧問井上哲次郎氏の講演にうつる。実業と修養の題下に雄弁縦横、肉体の修養と同時に精神の修養の必要なること、飲酒と修養、修養と自制等、乃木将軍の事蹟を引例して詳説せられて降壇、此処に芽出度発会式を終るに至れり。時正に六時、窓外半月皎々たり。
式後食堂に於て団員の茶話会を開く、蓮沼主幹始め二・三幹事及本塾商工部職員数氏も来臨あり、共に茶を喫し菓子を頰ばる。会の進むに従ひ自己紹介始り種々感想を述ぶ。特に宗像穆凞氏(本塾商工部職員修養会会長)は、今後入団の上大に尽力すべき由を誓はれ、又有泉本塾々生監は、本塾団員諸君の今後益々奮起して五千塾生をして大に此の方面に留心着目せしむるやう尽力ありたしと希望せらる。斯くて菓子皿の稍や寂蓼を告ぐるに至れば、詩吟・唱歌等各自得意の隠し芸を続出して歓談尽くる処を知らず、遂に幹事後藤君をして愉快の絶巓を貫けりと叫ばしむるに至れり。然れども心無き時針の廻転は吾人をして終に散会を告ぐるの止むなきに至らしめ、八時修養団並に慶応義塾の万歳を三唱し、三田山上独立自尊の大旗翻る下に、呱々の声を上げにし幼子の末長に幸多かれと念じつゝ飽かぬ袂を分かちぬ。終りに当日祝文及び祝電を送られし、芳名を録し謹んで謝意を表す。
○下略


向上 第六巻第一号・第九八―一〇二頁大正元年一一月 修養団員諸君に告ぐ 顧問男爵 渋沢栄一(DK430082k-0004)
第43巻 p.465-469 ページ画像

向上 第六巻第一号・第九八―一〇二頁大正元年一一月
    修養団員諸君に告ぐ
                顧問男爵 渋沢栄一
 修養団は日に月に隆盛に赴き、各方面に支部の発会を見るを得て団員も追々に増加し、今や向上雑誌も大発展の機運に向ひ、前途に大なる光明が見えて来た事を思へば、従来少し計りでも御助勢をして居る私には中心喜ばしく思ひます。もはや十年に近い奮励力行の歴史を以つて居る修養団は、私が関係致しましてからも既に四年余となりました。けれども真の活動はこれからであらうと思ふ。斯く前途に大なる希望を以つて居る団員諸君は、益々自重して有終の美を成す様に努力せられん事をば特に望んで置く次第であります。
 今回の雑誌には諸大家の有益なる理論や学説の寄書も沢山御座いますから私は説を述べる事は止めまして、先日慶応義塾で開かれたる支部発会式に於て述べた修養と云ふ事に就ての愚見を玆に記載する様に
 - 第43巻 p.466 -ページ画像 
致します。
 修養を論ずる前に一言添へて置きたいのは兎角青年の際には其議論が余りに過激になりて、動もすれば悲痛慷慨に傾き易い、但し慷慨激烈も時としては必要の事もあらうが、平時は成るべく穏健がよい、何事も過ぎれば反つてよくない。過ぎたるは及ばざるに如かずで、此辺の事にも亦修養が入用になつて来るのであります。
 一例として玆に私共の学生時代を少しく御話して見ますれば、概して漢学生で多く勝気に富み、衣至骭袖至腕、腰間秋水鉄可断と言ふ様な意気態度であつて、衣服の如きも常に木綿袴の垢しみたのが当時の学生風であつて、従つて放歌大声で大道を活歩しても世人が敢て怪まなかつたのであります、そして或は天麩羅屋に入つたり、人込みの中で傍若無人の行為をして見たり、甚しきは飲食して勘定もせず一歩進んでは随分いかゞはしい挙動もあつたのであります。
 今日の青年は之に反して至極従順温和で粗暴の行状抔は少い、其代りに聊か軟弱の嫌がある、甚だしきは淫靡浮薄の誹りを受ける様になつて来つたのである、我が修養団もつまり之等の弊風を矯めやうとして起つたのに外ならないのであります。併しそれが余りに過ぎると、先きに申した様に過激に失して又反対なる修養を要すると言ふ事になるのでありますから、十分に用心せねばならぬ。凡て事物は彼れを嫌へば之れに陥り、右を矯正せむとすれば左に傾くと言ふ事になり易いのであります。故に修養団の修養は決して一方に偏する事なく、即ち中正にして向上的修養でなければならぬから、老婆心を以て一言御注意までに申して置くのであります。
 偖て、修養と言ふ事に付て私は或者より攻撃を受けたことがある。其説は大体二つの意味に別れて居つたのであります。其一つは修養は人の性は天真爛漫を傷けるからよくないと言ふので、他の一つは、修養は人を卑屈にすると言ふのでありました。依て之れ等の異見に対して答へ置きました事を簡単に申して見たいと思ひます。
 先づ修養は人の本然の性の発達を阻害するからよくないと言ふは、修養と修飾とを取り違へて考へて居るものであると思ひます。修養とは身を修め、徳を養ふと云ふ事にて、練習も研究も克己も耐忍も都て意味するもので、人が次第に聖人や君子の境涯に近づく様に力めると言ふ事で、それが為めに人性の自然を矯めると言ふ事はないのであります。つまり人は充分に修養したならば一日々々と過を去り、善に遷りて聖人に近くのであります、若しも修養した為めに天真爛漫を傷けると言ふならば、聖人・君子は完全に発達をした者でないと言ふ事になる、又修養の為めに偽君子となり、卑屈に陥るならば其修養は誤れる修養であつて、吾々の言ふ修養ではないと思ひます。人は天真爛漫がよいと言ふ事は私も最も賛成する処でありますが、人の七情(喜怒哀楽愛悪慾)の発動が、何時如何なる場合にも差支へないとは言はれぬ。聖人君子も発して節に中るのを勉めるのであります。故に修養は人の心を卑屈にし天真を害するものと見るのは大なる誤りであると断言します。
 次ぎに修養は人を卑屈にすると言ふのは、礼節敬虔などを無視する
 - 第43巻 p.467 -ページ画像 
より来る妄説と思ます。凡そ孝悌忠信仁義道徳は、日常の修養から得らるゝので、決して愚昧卑屈で其域に達するものではない、大学の致知格物も、王陽明の致良知も矢張修養である、修養は土人形を造る様なるものではない、反て己の良知を増し、己れの霊光を発揚するのである、修養を積めば積む程其人は事に当り物に接して善悪が明瞭になつて来るから、取捨去就に際して惑はず、然も其裁決が流れる如くになつて来るのであります。故に修養が人を卑屈愚昧にすると言ふは大なる誤解で、極言すれば修養は人の智を増すに於て必要だと言ふ事になるのであります。以是我が修養団の修養は智識を軽せよと言ふのではない、只今日の教育は余りに智を得るのみに走つて、精神を練磨することに乏しいからそれを補ふ為めの修養である。修養と修学とを相容れぬ如くに思ふのは大なる誤りであります。私は此意味に於て修養団に賛成して居るのであります。
 蓋し修養は広い意味であつて、精神も、知識も、身体も、行状を向上する様に練磨する事で、青年も老人も等しく修めねばならぬ。斯くて息む事なければ遂には聖人の域に達する事が出来るのであります。
 以上は私が二つの反対説即ち修養無用論者に対して反駁致しましたる大要で、団員諸君も亦此考へで修養せられん事を望んで置くのであります。
 さらば修養は何処までやらねばならぬかと言ふに、之は際限がないのであります。けれども空理空論に走る事は尤も注意せねばならぬ。
修養は何も理論ではないので、実際に行ふべき事であるから、何処までも実際と密接の干係を保つて進まねばならぬ。
 偖此実際と学理の調和と言ふ事は、特に申して置かねばならぬのであります、要するに論理と実際、学問と事業とが互に並行して発達せないと国家が真に興隆せぬのであります、如何程一方が発達しても他の一方が之れに伴はなければ、其国は世界の列強間に伍することは出来ぬと思はれます、事実ばかりでも満足とは申されず、又学理のみでも立つ事が出来ないので、此両者がよく調和し密着する時が、即ち国にすれば文明富強となり、人にすれば完全なる人格ある者となるのであります。
 右に対する例証は沢山ありますが、之れを漢学に求めて見ますれば孔孟の儒教は支那に於ては最も尊重されて、之れを経学又は実学と申して、彼の詩人又は文章家が弄ぶ文学とは全く別物視してある。而して夫れを最もよく研究し発達せしめたのが、彼の支那宋末の朱子である。蓋し朱子は非常に博学で且つ熱心に此学を説いたのであります。処が朱子の時分の支那の国運は如何であつたかと言ふに、丁度其頃は宋朝の末で政事も頽敗し、兵力も微弱にして、少しも実学の効はなかつたのであります。即ち学問は非常に発達しても政務は非常に混乱した、つまり学問と実際とが全く隔絶したのであります、本家本元の経学が宋朝に至りて大に振興したにも不係、之れを採つて実際に用ゐなかつたのであります。
 然るに帝国は如何と言ふに、其空理空文の死学であつた宋朝の儒教が日本に於ては之を利用した為め、却て実学の効験を発揮したのであ
 - 第43巻 p.468 -ページ画像 
ります、之れをよく用ゐたのは即ち徳川家康であります。元亀・天正の頃は日本を廿八天下と称して国内麻の如くに乱れて、諸侯皆武備にのみ心を尽して居つたのであります。其中にて家康は大に達観しまして、到底武のみを以て治国平天下の策とすべきでないといふことを悟り、大に心を文事に注いで、支那に於ては死学空文であつた朱子の儒学を採つたのであります。当初先づ藤原惺窩を聘し、尋で林羅山を用ゐて切りに学問を実際に応用した、即ち理論と実際とを調和し接近せしめたのであります。現に家康が遺訓の一つとして今日にまで人口に膾炙する「人の一生は重荷を負ふて遠き道を行くが如し、急ぐべからず。不自由を常と思へば不足なく、心に望みおこらば困窮したる時を思ひ出すべし。堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思へ、勝つ事ばかりを知りて、まくる事を知らざれば害其身に至る。おのれを責めて人をせむるな。及ばざるは過ぎたるにまされり」に就て考へて見るに、皆経学中に求めたものである、多くは論語の中の警句より成立して居る、当時殺伐の人心を慰安してよく三百年の泰平を致した所以のものは、蓋し学問の活用即ち実際と理論とを調和して、極めて密接ならしめたるに依る事と思ふのであります。
 然も家康が斯くまで朱子の儒学を採つて之れを実際に応用したけれども、元禄・享保の頃となつては次第に種々の学派を生じ、空理を弄ぶ様になつて来て、有名なる儒者は多かつたけれども、之れを実際と密着せしめた者に至つては甚だ稀れで、僅に熊沢蕃山・野中兼山・新井白石・貝原益軒抔の数人にすぎない、徳川の末の微々として振はなくなつて来たのもやはり此の調和を失した結果であらうと思ひます。
 以上は往昔の事例でありますが、今日でも両者の調和不調和が、其事物の盛衰を示して居る事は諸君のよく知られる処と思ひます、世界の二・三等国に就て見ると明である、又一等国中にも現に両者が其並行を失はんとしつゝある国も有る様に思はれます。
 翻つて帝国は如何と言へば、未だ決して十分なる調和を得て居ると云ふ事が出来ぬ、のみならず稍ともすれば離隔せんとするの傾向が見える。之を思へば実に国家の将来が案じられるのであります。
 故に修養団は大に玆に鑑みる処あつて、決して奇矯に趨らず、中庸を失せず、常に穏健なる志操を保持して進まれん事を衷心より希望するのであります。
 これを要するに、修養団の修養は力行勤勉を主として智徳の完全を得るのにある、即ち精神的方面に力を注ぐと共に知識の発達に勉めねばならぬ、而して修養が単に自分一個の為めのみではなく、一邑一郷大にしては国運の興隆に貢献するのでなければならぬ。
       ×
 序ながら一言申添へますのは、頃日慶応義塾に於ける支部開会式に独立自尊と云ふ問題がありました、之れは故福沢先生が熱心に唱導せられた当時の警語で御座いますが、兎角曲解する者がある様に見えますから、縦へ先生の御旨意は如何であつてもそれは別として、独立自尊に付て私の信じて居る解釈を少しばかり御話して見たいと思ひます
 蓋し人は絶対に独立自尊が出来るかと言ふと、それは到底不可能で
 - 第43巻 p.469 -ページ画像 
あると思ふ。此理合さへ会得が出来たなら如何に独立自尊を自分の精神としても、決して倨傲不遜に陥ると言ふ事はなからうと思ひます。若し文字通りにて他人はどうでもよい只己れをのみ立てればよい、己れ程貴い者はないと思ふたならば、それは文字に捕はれたる解釈であつて、其人は終に世に立つことは出来ぬ様になります。凡そ多数の人人が相集つて社会をなし、国家を組織して行くには人の迷惑には頓着せぬと云ふ事は出来ぬ。自分の家に人が来た時は一時間も待たせて何とも思はずに、他人の家に行つた時には、五分間待たせたといふて不平を唱へるのは甚だ通用せぬ事であります、総じて人に迷惑を懸けないと云ふ処に始めて自尊といふ事がある、孔子の温良恭倹譲とか、又は善人と同ふす己を捨て人に従ふと言ふのは、自尊と反対であると思ふのは大なる間違であると思ひます、福沢先生とて決して倨傲不遜を以て自尊を主張されたのではないと思ひます。孔子の忠恕といふ事と福沢先生の自尊と云ふ事とは一見甚だ違つて居る様でありますが、実は表裏の関係であると思ひます。
 故に諸君が独立自尊を奉ずるに就ては、常に相対的と云ふ事を忘れず偏せず傾かずして進むだら、世の実際と平行して行く事が出来やうと思ひます。
  本文は男爵渋沢青淵先生が慶応義塾の支部発会式の席上にてせられたる御講演の大要と、記者が先生の邸に就て親しく承りたる処の梗概とを併せたるものにして、文責本より記者に存すれども記者元来不文にして到底先生が崇高なる意志と、該博なる識見とを叙述するを得ざるは、記者の最も痛恨を感ずる処也、読者諸君夫れ之れを諒せよ。(一記者)