デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
5節 修養団体
4款 財団法人修養団
■綱文

第43巻 p.478-487(DK430085k) ページ画像

大正2年9月13日(1913年)

是ヨリ先、当団、浅草蔵前南元町ニ敷地ヲ求メ、第二向上舎ヲ新築セントス。栄一、森村市左衛門ト共ニ金一万二千円ヲ支出シテ之ヲ援助ス。是日、新築セル第二向上舎ニ於テ入舎式行ハレ、栄一出席シテ祝辞ヲ述ブ。次イデ十月五日、同所ニ於テ落成披露会催サレ、栄一出席シテ祝賀演説ヲナス。尚、当団本部事務所モ同地内ニ新築セラレ、栄一、森村ト共ニ右工費金五千円ヲ寄付ス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四五年(DK430085k-0001)
第43巻 p.478 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治四五年          (渋沢子爵家所蔵)
六月二十日 雨 暑
○上略 朝飧ヲ食ス○中略 蓮沼門三氏来リ、修養団ニテ高等工業学校ヨリ地所ヲ借リ受ケ、寄宿舎建築ノ事ニ付種々ノ談話ヲ為ス○下略


向上 第五巻第七号・第六七頁明治四五年七月 ○七十人収容第二向上舎新築決定(DK430085k-0002)
第43巻 p.478 ページ画像

向上 第五巻第七号・第六七頁明治四五年七月
    ○七十人収容第二向上舎新築決定
 本団の理想を実現する一事業として向上舎を設立し、将来有望なる学生を収容して互に修養を励ましむるの方法を執り来りしが、蓮沼主幹が今回愈々模範的向上舎を設立せんとて、渋沢男・森村翁・手島顧問に計るや、皆其熱誠を諒とせられ、六月中数回の会合を催ほし、遂に七十人収容の向上舎を建築することに決定せり。
△本舎設立の目的
 修養団の精神即鍛錬主義、同胞主義に基き和気靄々たる家族的共同生活を営み、以て現代寄宿舎の悪弊を革正するの原動力たらんとするにあり。
△本舎設立の場所
 浅草区高等商業学校艇庫所在地。
△本舎設立の費用
 渋沢男・森村翁出金、清水氏建築(実費にて請負)高等工業学校に於ては敷地無償にて貸与。


向上 第六巻第一号・第三頁大正元年一一月 △第二向上舎建築着手(DK430085k-0003)
第43巻 p.478-479 ページ画像

向上 第六巻第一号・第三頁大正元年一一月
    △第二向上舎建築着手
今春二月賛助員清水一雄氏の尽力によりて設立せられたりし、浅草区三筋町五十九の高等工業第二向上舎は、顧問手島精一氏・杉田稔氏・清水組の特別なる尽力と、渋沢・森村両顧問の出資とにより浅草蔵前
 - 第43巻 p.479 -ページ画像 
に新築することゝなり、目下其れが着手中なれば来春三月落成を見るべし。


渋沢栄一 日記 大正二年(DK430085k-0004)
第43巻 p.479 ページ画像

渋沢栄一 日記 大正二年           (渋沢子爵家所蔵)
一月六日 晴 寒
○上略 朝飧ヲ食ス、蓮沼門三氏来リ修養団寄宿舎建築ノ事ヲ協議ス○下略
   ○中略。
一月十五日 晴 寒
○上略 朝飧ヲ食ス、蓮沼門三氏来リ修養団寄宿舎建築ノ事ヲ談ス○下略
   ○中略。
一月十八日 晴 寒
○上略 三時事務所ニ抵リ○中略 修養団員林平馬氏外数氏来訪ニ接ス、支那学生ト親睦云々ノ意見ニ対シテ注意ヲ与ヘテ熟考セシム○下略
   ○中略。
二月一日 晴 寒
○上略 朝飧ヲ食ス、蓮沼門三氏来リ、修養団第二寄宿舎ノ事其他ニ付種種ノ協議ヲ為ス、建築予算書ヲ一覧ス○下略
   ○中略。
二月二十七日 晴 寒
○上略 朝飧ヲ食ス、後蓮沼門三・松岡子誠二氏来リ修養団寄宿舎ノ事ヲ談ス○下略


向上 第一二巻第六号大正七年六月 時代風潮と修養団の任務 △顧問渋沢男爵演説大要(於銀行集会所賛助員会)(DK430085k-0005)
第43巻 p.479 ページ画像

向上 第一二巻第六号大正七年六月
    時代風潮と修養団の任務
      △顧問渋沢男爵演説大要 (於銀行集会所賛助員会)
○上略
△団員は多く都会の優秀な学生と、地方の代表青年とでありますが、東京では高等工業・早稲田大学・慶応義塾・高等商業の生徒が団員の中堅となつて居り、就中高等工業に最も多数の団員があります処から故手島校長が高等工業学校の所有地千坪を無償で修養団に貸与されることになり、森村男爵と私が一万二千円を支出して、第二向上舎と申す寄宿舎を設立し、高等工業の団員四十四名を入舎させることになつたのであります。
△本部も設置する必要がありますので、別に五千円を寄附して、向上舎の敷地内に建設いたしました。これは大正二年のことであります。
○下略


修養団三十年史 同団編輯部編 第八一―八四頁昭和一一年一一月刊(DK430085k-0006)
第43巻 p.479-480 ページ画像

修養団三十年史 同団編輯部編 第八一―八四頁昭和一一年一一月刊
 ○本篇 三十年史 四、生活に滲透
    第二向上舎
 向上舎の成績ますます良好で、入舎希望者の日に多きを見て、いよいよ本団所有の新築宿舎を建設せんとし、小林・坂本氏等と共に、森村・渋沢両顧問に謀つたところ両顧問は双手を挙げて賛成し、金五千円を支出することを承諾された。
 時に、旧くより本団を信愛せられつゝあつた手島高工校長・杉田教
 - 第43巻 p.480 -ページ画像 
授等は如何にもして、第二向上舎建設の敷地を求めて、これを修養団に貸与し、一は、修養団の援助となし、一は、渋沢・森村両顧問の厚志に報ゐ、更に高工団員の向上と校風の作興を図らんとの真情より百方奔走せられ、遂に蔵前南元町なる百七十余坪の土地を、高商より求めて本団に貸与せらるゝことゝなつた。
 本団賛助員にして都下一流の建築業者清水釘吉氏は、義弟一雄氏と謀り、実費で之が建築を請負はるゝことになり、幾回となく設計図を訂正工夫されたが、敷地が狭いので、各室を日当り好くし、換気を十分にすることはなかなか面倒で、並大抵の苦心ではなかつた。
 天の恵みであらうか、この敷地に続いて千二百坪ばかりの一高艇庫の敷地があり、そのうちの八百坪ばかりは雑草の茂るにまかせて放つてあつた。
 高工から正式に一高に不要地譲渡の申込みを熱心に交渉し、修養団でも本団顧問たる新渡戸一高校長に衷情を披瀝して、理想的な『学生修養鍛錬所』建設の為に、たとひ幾坪でも譲渡されたいと幾度か懇願したが、一高には別に計画があり、修養団の求めはなかなか容れられるに至らなかつた。
 斯くて一高空地譲渡の件は、手島校長の尽力も修養団の努力も凡て水泡に帰し、止むなく前記百七十坪の敷地に建築することとしたが、工費予算は五千円から八千円に増額したので、森村・渋沢両顧問に追加支出を願ひ、その快諾を得たのであつた。
 折角建築するものならば、その内容に於ても、形式に於ても理想的のものでなければならないと、苦心に苦心を重ねた甲斐もなく、意に満たない宿舎を造つて憾みを後日に残すといふことは、何としても忍ぶことの出来ない苦痛であつた。
 この時、団外に在つて本団の後援に任ぜられつゝあつた松岡子誠氏や杉田教授等は、主幹に向つて尚ほ一縷の望みあるを説き、再度真剣の交渉を為すべく勧告した。
 主幹も亦たきの勧告に奮起し、再び新渡戸校長を訪問してその真情を吐露した。
 引続き真剣な折衝を重ねること幾度、渋沢・森村両顧問、手島高工長の斡旋や、文部省の助力に依つて、局面は好転し、遂に高工が一高所有の土地八百坪を買受け、これを改めて修養団に貸与することとなり、大正二年三月、高等工業学校長手島精一氏の名を以て、渋沢・森村両顧問保証の下に、該敷地の無償貸与を受けることになつた。
 斯くて大正二年十月には、第二向上舎を開舎し、手島校長・杉田教授・大槻高工幹事等の尽力に依り多数希望者中より、定員四十六名を選び、本団が多年唱道して来た流汗鍛錬・同胞相愛の二大主義の実行に依る家庭的寄宿舎を営むことになつた。
 爾来、舎生諸君の躬行実践が克く本団精神実現の証となり、後援者先輩諸氏の声援と相俟ち、向上舎の増設さるゝあり、団勢も追々に拡大強化を遂げることになつた。


向上 第七巻第一〇号・第八五―八六頁大正二年一〇月 入舎式;式後の茶話会(DK430085k-0007)
第43巻 p.480-481 ページ画像

向上 第七巻第一〇号・第八五―八六頁大正二年一〇月
 - 第43巻 p.481 -ページ画像 
    ○入舎式
 九月十三日午前十時、本部附属第二向上舎入舎式を挙げたり、当日は特に渋沢・森村両顧問・二木医学博士・杉田高等工業学校教授の臨席あり、顧問手島高等工業学校長は不幸にも御発熱のため臨席を乞ふを得ざりき、斯くて十時の鈴と共に来賓及幹事第二向上舎生一同及び第一・第三・第四各向上舎生着席、蓮沼主幹舎主として宣式に次で君が代の二唱を為し、蓮沼舎主は更に立て報告と舎生活に対する将来の希望を述ぶる事約一時間、終つて渋沢・森村両顧問、二木博士・杉田教授が祝辞及希望を述べられしが、言々懇情溢れて慈父の如く将来を慮らるゝ厚志感謝に堪へざるところなりき。後舎生総代河合君の答辞ありて式を閉ぢ、来賓及幹事第二向上舎々生一同は庭前に於て紀念撮影をなしたり。
    ○式後の茶話会
 式終りて後、渋沢・森村両顧問を送り、二木博士・杉田教授を迎へて食堂に集りしが主客合して七十余名の大会食の光景盛んなるに、名物の麦飯、香の物等の馳走振に歓を尽して賞味する状筆紙に尽せざる和気溢れたり。
 食後席を撤し、会津畳を敷いて着席し、別項記載の如き二木博士の御講話を聴きしが、何時もながら赤誠溢るゝ博士の御講話振り、呼吸法の如き自ら実験せられつつ説明を与へらるゝ等約二時間に亘つて飽くを覚えざりき、講話終つて茶菓の饗応あり、其間蓮沼主幹は立つて希望を述べ、各幹事を紹介し終つて一同歓談に耽り、余興に笑倒して時の移るをも覚えず、夕景歓を尽して散会せり。


竜門雑誌 第三〇五号・第六七頁大正二年一〇月 ○修養団寄宿舎竣工披露式(DK430085k-0008)
第43巻 p.481 ページ画像

竜門雑誌 第三〇五号・第六七頁大正二年一〇月
○修養団寄宿舎竣工披露式 青淵先生及び森村翁が顧問として多年尽力せらるゝ修養団に於ては、予て浅草蔵前南元町二十八番地を卜し寄宿舎第二向上舎を新築中なりしが、今般落成せるを以て十月五日午前九時より其の披露会を催したり、当日は青淵先生にも列席せられ「社会が漸次華美に流れ行く時に当つて、本団の如き修養団が設立され着着として実績を挙ぐるに至り今又此に本寄宿舎の設立を見たるは社会の為め国家の為め賀すべき事なり云々」の祝辞演説を試みられたり。


中外商業新報 第九八六〇号大正二年一〇月六日 ○修養団新築披露式(DK430085k-0009)
第43巻 p.481 ページ画像

中外商業新報 第九八六〇号大正二年一〇月六日
○修養団新築披露式 修養団第二向上舎新築及発展祝賀披露式は、既報の如く五日午前十時より浅草区蔵前南元町本部に於て開催せられたり、来会者渋沢男・手島高等工業学校長・筧法学博士・蔵原代議士・二木博士等を始め団員等数百名にして、主幹蓮沼氏の熱誠を罩めたる挨拶及び同団の精神とせる主義及発展に就いて篠原幹事の報告あり、次で渋沢男・手島氏・蔵原代議士の満腔の同情を表せる演説あり、午餐の後舎生の奇想妙工をつくしたる宿舎の装飾を参観に供し、後庭に於て舎生の蛮カラ角力あり、靄々たる和気、場に溢れ側の見る目もゆかしく、其舎室の構造設備に至りては恐らく吾国有数のものなる可し

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向上 第七巻第一一号・第八―一〇頁大正二年一一月 披露会に臨んで特に団員諸君に告ぐ 出席講演せられし要領にて、文責は記者にあり。 顧問男爵 渋沢栄一(DK430085k-0010)
第43巻 p.482-484 ページ画像

向上 第七巻第一一号・第八―一〇頁大正二年一一月
    披露会に臨んで特に団員諸君に告ぐ
      出席講演せられし要領にて、文責は記者にあり。
                    顧問男爵 渋沢栄一
 来賓諸君及団員諸子、第二向上舎が新築落成致しまして今日玆に其式を挙げ祝賀の会を開く事となりましたのを諸君と共に御喜び申上げます。
 蓮沼主幹及篠原幹事より、此寄宿舎の建設の発端より今日に至つた顛末及修養団の現状将来の希望につき詳細に述べられましたが、私も其間に介在致し顧問たるの責任を尽して少許の力を致しましたので、今日此処に形の上に表はれた本部及第二向上舎を見ることの出来たのは実に喜悦に堪へぬので、御参集の諸君も同様御喜び下ださる事と存じます。
 私は団員では御座いませんが、団員に代つて此同情ある来賓諸君に感謝致します。又高等工業学校も修養団の精神に御同情下さいまして只今手島校長より述べられた通り土地を無代で御貸与下さることが出来ました。是は此寄宿舎へ入る学生が皆高等工業の学生であると云ふ自己本位より来たものではなく、高等工業学校が修養団を愛護せられ寄宿舎なるものが団の精神普及の為めに必要なることを思はれたからであります。斯る結構なる土地を無代にて拝借することの出来ましたのは此処に寄宿する学生は勿論のこと、団員全体が深く感謝すべき事だと思ひます。
 元来此修養団は特に其主脳があるものでは無く、唯青年が時勢に慨嘆して成立したもので明治卅九年に創立されまして私の承知したのは四十二年でありました。先程蔵原代議士が頼三樹三郎・渡辺崋山を激賞せられましたが、私も同感で誠に尤の事だと存じます。両氏共に其意志の鞏固なること行動の豪邁なる所が其生前にも死後にも世間に知れないで遂に志を顕し得ることが出来なかつたが、其の隠れたる処の忠誠の程を承りましては私は真に感涙を催しました。縦令如何なる辛苦艱難があるとも赫々たる名声を挙げ得れば之を喜ぶは人情の常でありますが、国を憂ふる志士が、人の見えない所で苦心惨憺たる事業を致して居るのは容易に世間には表はれませぬ、人も此を賞賛する者は稀であるが、私は此等志士の一片の赤心が天地の正道を維持する所のものであると信ずるのであります。今日の世の中が全然に堕落して居る腐敗して居るとは申しませぬ。然し維新以後四十五年間の文明は少しく智に偏した様でありまして、科学に於ける進歩は目覚しいものでありますが、精神の上に於て欠くる処は無かつたでありませうか。一般に表面の広告を誇大にして浮薄なる言行を弄し、万事が粗製濫造的となり、羊頭をかゝげて狗肉を売ると云ふ傾向を生じました。蔵原君が激語を使つたと云はれたけれども、憂国の士が今日を見たならば誰も使はざるを得ないと存じます。蓋し適当なる事物も一方に偏して参れば人間の弱点、社会の弱点で余りに文明を趁ふて文弱の弊風を生ずるは又数の免かれざるものであります。修養団は当初より此弊の改善に意を注ぎました、此点は私も大賛成であります、人は形の上より美
 - 第43巻 p.483 -ページ画像 
しき衣をつけたがる、誰も労せずして安楽に世を送りたがるものである、官吏でも商工業者でも兎角労力を厭ひ、出来る丈け口先にて用務を弁じやうとする所の者が多い、此等の精神は渡辺崋山・頼三樹三郎等とは全く反対の悪傾向であります、今日の有様が斯く成り行きてはならぬと国家の将来を思ふて立つたのが本団であります。
 蓮沼氏と私が会見しました時に、氏は盛に青年が労働を厭ひ華美を好み何等為す事無きを歎かれ、且此修養団には手島・二木其他諸名士の賛助もあると聞きまして、私も時に取りて必要と考へてこれを賛成しました。其後蓮沼氏其他よりの請求は団員は多くは、青年のみでありますから、名誉ある老成の人を得て首脳に戴きたいとの相談がありましたが、私の意見は何も名の売れた人を担つぎ出して、所謂看板によりて商品を売ると云ふ様な手段をしない方が善い、内実さえ充実であれば恐るゝに足らないから、青年のみの力でやつて行く方が結局良い、但し私も此主旨には大賛成だから飽まで助力すると申しました。然し青年は客気にはやり易きにより、時に応じて其事の適否ありと見たる場合は遠慮なく忠告しませう、其ときは精神的顧問となりませう但し其外に尚ほ物質的顧問も必要であらう、青年の集会は充分なる費途を得るは難いものである。而して事物は幾分の資金が無くては出来ないからと申しまして、先づ第一に補助したのが向上雑誌の刊行でありました。団費として団員から集める丈では充分の費途とするに足らず、さりとて社会の好みに投じて好く売れる様な雑誌をすれば、修養団の主義とは反対になる、そこで極めて真面目な雑誌を出すには其発行の収支の差引に損失の生ずることを覚悟せねばならぬ、故に大方の諸君より応分の寄附金を請願することとなつたのであります。斯様な次第で私は森村君と共に他の友人にも相談して、二年間は費用を出さうと云ふ事に致した次第であります。幸に世間に広まつて好く売れる様になれば其から先は自立し得るだらふが、当分は容易に世人に喜ばれて購読せられる事は出来ぬので已むを得ず補助を要する。然し小人数の補助では面白くないから成るべく同志の友人に多く補助を仰ぐといふ事にしたのであります。
 又先年より向上舎なる小寄宿舎も出来ましたけれども、詰り下宿屋的のもので、修養団の寄宿舎としては不完全であると幹事諸子から相談がありました。然るに当高等工業学校には団員が多数在学して、曾て手島校長より其敷地を無償で永年貸さうと言はれたのも至極結構の事と思推し、森村君と共に其資金を調達し、寄宿舎を新築し同時に団の中堅となる様に其寄宿舎中に本部を造りて、四谷左門町の本部をも此処に移すと云ふことになりました。然し寄宿舎に対しては其入舎生が独立不覊を尊ぶ修養団としては人の補助を受くるのは面白くないから、之に要する費用は二十ケ年の年賦として貸与することゝして、別に五千円は幹事の住所及本部建築の費用として寄附致しましたのであります。
 今や団員は全国に普及して三千人の多きに達し、此中の多くは皆将来活社会に有為の事業を遂げんとする人々でありますが故に、団員諸子は此物質的の効果を見て喜ぶと共に、精神上の責任の大なることを
 - 第43巻 p.484 -ページ画像 
忘れてはなりませぬ、飽くまで自立自営の志を立てなければなりませぬ。然して特に中堅ともなる可き此本部に併置されました当舎の舎生諸子は或意味に於て模範的人物として、充分の責任を尽されん事を希望して已まぬのであります。篠原氏の演説に本団の今日の事は皆他人の厄介になるのみで、恰も御寺様じみて居て不真面目だと言はれましたが尤の事である、当分は止むを得ないと致しましても将来独立の本領を発揮する為に、団員諸子の自奮自励を企望します。然らざれば真の修養団とは言われぬのであります。修養団も玆に八年間の辛惨に堪へまして、遂に今日に至りました事を思へば、其間に於ける蓮沼氏及幹事諸子の苦心、多数団員の努力を深く感ずるのであります。微力ながら私に於ても将来尚ほ及ぶ丈けの御相談に預る考で居ります。何卒国家の為め社会の為め弥増御奮励を祈る次第であります。


向上 第七巻第一一号・第七五―七七頁大正二年一一月 本部及第二向上舎 落成披露を兼ねたる大親睦会 新天地成り同志の士気昂る(DK430085k-0011)
第43巻 p.484-485 ページ画像

向上 第七巻第一一号・第七五―七七頁大正二年一一月
    本部及第二向上舎 落成披露を兼ねたる大親睦会
      新天地成り同志の士気昂る
 墨田江岸の吾曹が本拠は天下の志士仁人が赤誠に因つて新秋の金風裡に工成りぬ、工事の経過は既に幾度か報導したるところ、光幽しき旧大江戸の面影の偲ばるゝ蔵前の高地に数百坪の別天地を拓きて新築されたる五棟の白木造り、目理鮮やかに馥ひ渡りて紅塵万丈の裡に毅然たる異彩を放てるは観るからに壮麗の感湧き起る。
 九月上旬より秋風に駕して都門に入れる青年同志中、特に選に入れる四十四名は早々行李を提げて向上舎生活を開始しぬ、本部及炊事方を合して五十余名の同志は玆に新天地を建設し、入舎開舎の集会数次協議に成りし不文の舎則を尊び、日々去来する日課を巌守し、親睦融和の情誼を楽しみつゝ一ケ月を送りぬ。此の間内外の追加工事着々竣工し、設備結構実に都下に於て模範と称するに足ると言はるゝ迄の完全なる楽園を現出するに到れるこそ会心なれ。
      準備成る
○中略
 然して今新秋の涼気漲り碧天高く澄み肥馬金風に嘶なくの候、新築落成の披露を兼ねたる大親睦の会合を、然もこの新天地に開かんと決するを聴くや、など寸刻も猶予すべき、昂然と立ち一斉に部署に着きぬ、五尺の孤をも托し得べき同志の意気は、個々責任を身に担ひて各方面の準備に活動せる壮観を示し、都下の同志は風を望んで来り会し競ふて遺憾なきを期せり、之を伝聞せる渋沢・森村両顧問は莞爾として同志の壮挙に賛同し、特に当日の費用全部を寄附すべければ努めて青年の気を吐けよと申出であり、同志の士気昂らざるを得んや。更に初定の計劃を進めて盛大なる会合を催ほすことゝはなしぬ。
 初め吾曹は青年の分を省み、天下の情弊に鑑て浮華なる虚飾を絶対に禁じ、素朴質実なる設備を以て甘んじ、足らざるは同志の赤誠を以て十二分に補はんことを期したるなり、然るに今両顧問の高志あり、先輩の温情あるに於て強いて簡素に過ぐる最初の計劃を支持するに及ばざるを信じ、更に追加設計して茶菓粗餐の饗応をも為すことゝせる
 - 第43巻 p.485 -ページ画像 
なり。
○中略
      光輝ある佳晨を迎ふ
 噫十月五日、天助は予期の如く同志の上に降れり、晴曇常なく驟雨を降せる天候は早晨より全く晴れて、朝暾の光輝燦として秋天を照らせり、碧空いよいよ高く金風益々香る。
 払暁より冷水浴腹式呼吸等の正規の日課を済ませる同志は、各任務に着きて準備を為せば、遠近の同志三々五々来り会して更に力を協はせ、定刻前に準備完く成り溢るゝ熱誠を傾到して来会者を迎へぬ。
 観よ薫風馥郁たる新涼の天地に、清彩漲り志気昂然、正門に交叉せる二旒の大国旗翻々と暁風に舞へば、内外大小の彩旗相和して紅霞の去来するが如し、庭前に張りたる数百坪の天幕の中には、清楚なる演壇一際高く、壇を囲みて並列せられたる数百の椅子は主待ち顔に整然たり、拭き清められたる舎内には、各寮の考案を凝らしたる幾種の作り物凝古物、凝歴史的遺品等陳列せられ、中庭には小天幕を張りて来賓休憩の卓並び、北庭には新しく修繕せられたる角力場、砂美しく整へられ紅白だんだらの四本柱豪然と相対立して勇士を待てり。
○中略
      開会
 開会九時五十分、開会を予告する振鈴の高く響くや一同着席し、威儀を正して開会を待つ、十時顧問・賛助員・来賓等着席、終りて開会の振鈴鳴り渡ると共に、会場主任たる小柴幹事は壇に上りて鄭重なる開会の辞を述べ終るや、一同起立して君が代を二唱し 陛下の聖寿無彊を祈り皇室の御繁栄を頌し奉る、次いで拍手に迎へられて壇に上りしは蓮沼主幹にて、熱烈なる感謝の辞と将来に対する希望を披瀝し、深き感慨を包みて壇を下れば次で拍手起つて、篠原幹事壇に顕はれ新築の次第を報告し、更に本団の現状に就いて詳細なる説明を為し、将来の行路をも語りて壇を退く。
 次で来賓の祝辞演説に遷りしが、手島高等工業学校長は病余の痩躯を提げて壇に登られぬ、氏は久しく病床に呻吟せられ一時は最高度の発熱さへあり、漸く快方に向ひて最近唯一回登校せられしのみ、然も病後の静養を勧むる医師の注意あるに関らず推して登校せられしと言ふに、今日此の雑踏する会に出席され、剰へ感慨溢るゝ熱辞を述べらるゝ約三十分に及び、病躯を忘れて只管同志に対する希望と、其教へ子なる向上舎々生一同に対する訓諭とを与へられしは感謝に堪へざる所なり。次で拍手に迎へられて代議士蔵原維郭氏壇上に顕はれ、熱烈縦横の弁を奮つて明治維新の志士が心事を説き、現代青年の志士が覚悟其の光栄を論説せらる事約三十分に亘りぬ。次で拍手に迎へられて躯を起し、悠然と壇上に老躯を運ばれしは渋沢男爵にて、喜色満面会衆に挨拶あり溢るゝ感情を其の態度に流露せしめつゝ別項の如き演説をせられ、聴者をして其の意気の壮なると、同志青年に譲らざる熱烈なる援助とを十分に感ぜしめられき。
○下略

 - 第43巻 p.486 -ページ画像 


〔参考〕渋沢栄一書翰 瓜生喜三郎宛(大正元年)一一月一日(DK430085k-0012)
第43巻 p.486 ページ画像

渋沢栄一書翰 瓜生喜三郎宛(大正元年)一一月一日 (瓜生喜三郎氏所蔵)
拝読然者第三向上舎新設ニ付赤星氏より御助力之由承知仕候、御申越ニ従ヘ一書御礼申上置候、且向上雑誌発行ニ付而も助力せられ候様子之由、就而ハ蓮沼君へ御打合被成毎月之補助致呉候様御頼入被成候方と存候
右不取敢拝答仕候 匆々不備
  十一月一日               渋沢栄一
    瓜生賢契
        坐下



〔参考〕向上 第六巻第一号・第五―六頁大正元年一一月 △修養団 監督寄宿 向上舎の経過(DK430085k-0013)
第43巻 p.486-487 ページ画像

向上 第六巻第一号・第五―六頁大正元年一一月
△修養団 監督寄宿 向上舎の経過
△向上舎設立の趣旨 規律あり趣味ある家庭的寄宿舎を建設し、各地方より上京遊学する青年学生の便宜を図り、前途有為の青年を収容して朝夕互に相督励し、一は以て心身の修養鍛錬に資し、一は以て知徳教養の道場たらしむるは、啻に青年学生指導の道のみならず、実に父兄に対する徳義にして又社会教育上一日も忘るべからざる国家的事業たるを信ずる也。
△第一向上舎の設立 されば本団は創立の初より既に玆に着眼し、昨明治四十四年二月、本団事務所の所在地たる四谷区左門町二十五番地に一の寄宿舎を創設し、之を第一向上舎と命名して次第に拡張せんことを期し、拾余名の学生を収容して本団の主義に則り、流汗鍛錬主義同胞相愛主義を標榜し、朝起を奨励し、冷水浴・静座・深呼吸法を励行して、身体を強健にし、精神を平安ならしめ、自ら箒を採り、雑巾を持ちて各自居室の整頓清潔に心を用ひ、互に相責め相励まし以て修養を計りつゝあり、されば舎中常に剛健の気風充実し、惰気之を浸すに由なく、中途より入舎せし者も忽ち此舎風に感化せられて心身共に強健なるを見るに至れり。
△向上舎の成績頗る良好 上述の如く我が向上舎は、本団の精神を精神として、一方武士的鍛錬をなすと共に一面家庭的団欒の楽あり、長幼相助け、相愛敬し、善を勧め悪を誡め、互に身心の修養を計る。されば舎員は心情常に和らぎ身躰日に強健なり。加之向上舎は営利的事業に非ざるを以て、生活費の如きも凡て其実費を舎員より徴収すべく為に実質的にして而も経済的なり、玆に於てか舎員は喜悦し、父兄は満足し、世人亦此風を聞きて入舎せんと申込む者多きを見るに至りしも蓋し故なきに非ざる也。
△第二向上舎の設立 高等工業団員幹事諸氏は一団となりて第二向上舎を建設せんことを熟議し、小林・坂本両幹事主として其任に当り、東奔西走日夜寝食を忘れて之が為に尽瘁す、されば先輩諸氏も大に感動し、賛助員清水満之助氏の出資、並に顧問渋沢男・森村翁・手島校長を始め、高工教授諸先生の甚大なる御尽力を得て明治四十五年二月浅草区北三筋町五十九番地に之が開設を見るに至れり、当舎に収容すべき団員は悉く高工団員諸氏にして、其の年齢に於て、境遇に於て、
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将又其思想に於て、大差なく而も該舎の設立や自発的に出でたるを以て第二向上舎の成績は忽ち一段の異彩を放ち、訪問の客をして常に一種云ふべからざる快感を覚えしむ、団員は更に益々切琢磋磨し堅実なる舎風を天下に示して風紀改善寄宿舎改良の根源たらんことを期せり玆に於てか第二向上舎は更に先輩の尽力を得て今や蔵前に新築せられんとしつゝあり、豈に熾ならずや。
△第三向上舎の設立 玆に大正の御代に遭遇せし吾等六千万の同胞は允文允武なる 明治天皇の御聖徳を仰ぎ奉ると共に、大正の御代弥々栄えまさん事を祈り、乃木大将の殉死を見ては国民更に自覚する所無かるべからず。されば本団は人心革命の第二維新とも称すべき大正の初に於て大に我団の精神を皷吹し、国民の自覚を促し、青年の品性を高め、健実なる思想を養成して君国の為め尽瘁すべきを誓盟し、益々事業の拡張に努力し、雑誌改良、寄宿舎建設を始めとして更に第三向上舎の設立を見るに至れり、然れ共第三向上舎は本団に於て雑誌革新第二向上舎新築に全力を傾注せる時に成りしを以て其苦心一方ならず創設費の如き如何にせば可ならんやと憂慮せしに、本団の恩人山岸鉞次郎氏の篤志補助により、遂に麻布区新竜土町十二番地に去る十月一日を以て開設するを得たり、目下早大生・慶応生・明大生等を収容して真に家庭的団欒の情味を共楽しつゝあり、向上舎の前途や益々多忙也。