デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
5節 修養団体
4款 財団法人修養団
■綱文

第43巻 p.536-542(DK430104k) ページ画像

大正6年12月23日(1917年)

是日、東京銀行倶楽部ニ於テ、当団ノ財政問題ヲ議スルタメ、当団賛助員相談会開カル。栄一、森村市左衛門・田尻稲次郎等ト協議ノ結果、各方面ヨリ寄付ヲ集ムル事トス。栄一、五ケ年間ニ金一万円ノ寄付ヲ申出ヅ。


■資料

集会日時通知表 大正六年(DK430104k-0001)
第43巻 p.536 ページ画像

集会日時通知表 大正六年          (渋沢子爵家所蔵)
十二月廿三日 日 午後五時 修養団協議会(銀行クラブ)


向上 第一二巻第三号・第四〇頁 大正七年三月 銀行集会所に於ける相談会(DK430104k-0002)
第43巻 p.536-537 ページ画像

向上 第一二巻第三号・第四〇頁 大正七年三月
    銀行集会所に於ける相談会
 十二月二十三日午後五時に丸ノ内銀行集会所に於て本団の賛助員相談会が開かれた、森村顧問は十日に熱海に行かれる予定で旅行の準備をされたのであつたが、渋沢顧問と田尻団長の御都合の為めに相談会が二十三日に延期されることになつたのでそれ迄待たれた。当日の相談の要項は本団の基礎確立と賛助員募集の件であつた。多年本団の賛助員として尽力されつゝある諸井恒平氏は立ちて基本金募集の建議をされた、其一節に金は天下に充満して居る、只人が無いのである、若し人を得たならば金は求むるに従つて集まることを信ずる、今修養団の組織を見るに田尻団長は天下の国士である、渋沢・森村顧問は天下の至人である、幹部諸氏は青年の中堅である、凡て名利に超越するの憂国の人格者である、諸団体多しと雖も斯くも幹部の揃へるものがあるか、斯くも至誠と努力の結合があるか、希くは基本金を天下に募集し以て廓清事業の為めに大活躍を試みられたい、田尻団長決心の色を浮べて「吾輩は現代の大腐敗、大堕落を見ては黙つて居ることは出来ぬ、天下の青年諸子と協力して天地の大道を闡明し、世界の大勢を察知し、以て国民の使命を完行せねばならぬ、今後一身を提して修養団
 - 第43巻 p.537 -ページ画像 
の発展を規劃する決心であるから諸君の後援を御願する」と、渋沢・森村顧問喜色を浮べられた。


向上 第一二巻第六号・巻頭 大正七年六月 感激ニ基ク団員ノ発奮(DK430104k-0003)
第43巻 p.537 ページ画像

向上 第一二巻第六号・巻頭 大正七年六月
    感激ニ基ク団員ノ発奮
左ニ向フ五箇年間、年額百円以上ヲ寄附シテ本団維持賛助員タルコトヲ快約セラレタル特志家ノ芳名ヲ記シテ謹ンデ感謝ノ意ヲ表ス。此他尚ホ本団ノ趣旨ニ賛成セラレタルモノ十数名アリ、追ツテ寄附額記帳セラルヽ筈ナリ。嗚呼皇国ノ前途ヲ憂ヘラレ、全国中堅青年ノ連絡ヲ固クシ以テ完全ナル活動ヲ期セシメントシテ終始後援ノ誠ヲ致サルヽ尊キ心事ヲ思フトキ、感激感謝ノ念禁ズル能ハズ。吾等ハ団員諸君ト共ニ更ニ発奮シテ初志ノ貫徹ヲ期セザルベカラズ。
    基本金寄附芳名録
     第一回報告(記帳順)
 一金壱万円也         男爵 渋沢栄一殿
 一金壱万円也         男爵 森村市左衛門殿
 一金壱万円也            浅野総一郎殿
 一金五千円也            和田豊治殿
 一金参千円也            清水満之助殿
 一金弐千五百円也          大倉孫兵衛殿
 一金弐千円也            服部金太郎殿
 一金壱千円也            諸井恒平殿
 一金壱千円也            団琢磨殿
 一金壱千円也            田辺貞吉殿
 一金壱千円也            大倉文二殿
 一金壱千円也            大橋新太郎殿
 一金五百円也            井上角五郎殿
 一金五百円也            白井新太郎殿
   以上維持賛助員
 一金六拾円也            太田惣六殿
 一金五拾円也            八木久太郎殿
 一金五拾円也            松浦玉圃殿
 一金弐拾五円也           宮本甚七殿
 一金六円也             菅家重三郎殿
  合計金四万八千六百九拾壱円也


向上 第一二巻第七号・目次裏 大正七年七月 渋沢顧問ガ寄附芳名簿ニ手書サレシ一節(DK430104k-0004)
第43巻 p.537-538 ページ画像

向上 第一二巻第七号・目次裏 大正七年七月
    渋沢顧問ガ寄附芳名簿ニ手書サレシ一節
一、寄附金ハ成ルベク多額ヲ募集シ、向後本団ノ維持ニ必要ナル、基本財産ヲ作ルコトヲ企望スルモ、賛助員ニ於テ、一時ニ巨額ノ募集ニ応ズルヲ難シトスルトキハ、五ケ年一期ノ約束ヲ以テ応分ノ寄附ヲ請ヒ、本団ノ経費ハ勉テ之ヲ節約シテ、毎年相当ノ残額ヲ得、之ヲ積累シテ基本金ノ一部タラシムルコトヲ、当事者ニ於テ努力スルコト
 - 第43巻 p.538 -ページ画像 
一、賛助員ヨリノ寄附金額ハ年額金百円以上ト定メ、各自随意ニ本張簿ニ記入ヲ請フテ、大正七年ヨリ向フ五年間維持セラルル事
      以上
                  渋沢栄一手記(印)


北雷田尻先生伝 田尻先生伝記及遺稿編纂会編 上巻・第七三九―七四〇頁 昭和八年一〇月刊(DK430104k-0005)
第43巻 p.538 ページ画像

北雷田尻先生伝 田尻先生伝記及遺稿編纂会編
                  上巻・第七三九―七四〇頁 昭和八年一〇月刊
 ○第二篇 事績
    第六章 修養団の事業
○上略
 次で大正六年十二月二十三日東京銀行集会所に於て、修養団基礎確立の相談会を開くや、先生も亦出席せられ、左の如き一場の挨拶を試みられたり。
  人心の頽敗今日の如きは、有史以来始めてで、此の儘に進むと、国家の将来は如何相成るであらうかと思ふて居た折から、渋沢・森村の両老から、熱心なる勧めでお受して団長となりました。固より短才浅学の身でありますから、諸君の御希望に添ひ兼ぬるかと思ふが、私は誠意を尽してやつて見たいと思ふて居ります。抑も金と智と時との三つの要素を能く綜合した国は隆える。僣越ながら国家後世の為め育英の事業をやらうと云ふ考で、明治十三年以来やつて居る。本団も微細なものから始めて、恰も木挽が木を挽くやうに、一つゴシゴシとやればそれだけ鋸の歯が切れ込む様に徐々として進まなくてはならぬ。そう云ふ風に進む積りである。私は目下国家会計監督の一廓を引受けて居るから暇がないが、議会が終了したら月に一回位は出かけて行つて、黄石公が張良に与へた素書によつて、具体的に青年の指導をやつて行く積りである。只今の処会計の基礎が立たぬから、漫然金を出されても困るが、来春からは然るべき者を求め出納の帳簿も作つてもらう積りであるから、其の時まで御待ちを願つておきます云々。
 斯くて修養団は先生の希望により団の組織も整ひ、運行の計劃も立ちしを以て愈々実行に入ることゝなり、其の第一着手として大正七年六月三十日を以て田尻団長推戴式を挙行するに至れり。「向上」雑誌の記事によりて当日の模様を述べんか、左の如し。
○下略


向上 第一二巻第二号・第一〇八―一一一頁 大正七年二月 修養団基礎確立相談会の経過及概況(DK430104k-0006)
第43巻 p.538-542 ページ画像

向上 第一二巻第二号・第一〇八―一一一頁 大正七年二月
    修養団基礎確立相談会の経過及概況
△大人の徳は日月の如く天地を遍照すと、吾人は我渋沢男爵に於て之を見る、男爵は先年実業界を隠退され、之より国民の一員として社会事業の為め微力を致さむと声明さるゝや、或は自ら宰せらるゝ東京市養育院の為めに、或は中央慈善協会・理化学研究所・聯合国傷病兵慰問・風水害救済・早稲田大学・女子大学・東北振興会、曰く何、曰く何、実に枚挙に遑あらざる我国社会事業の何れも皆男爵の庇護と援助を与へられ、尚ほ是等に応分の資を寄附され、又諸般の劃策にも常に
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与らるゝのみならず、又進みては他の富豪をも説きて援助者たらしめらるゝ等其至誠と親切の到らざるなし。久しく寒気に痛められて将に枯れなんとする草木が一度び陽々たる春光に触るゝ時は忽ち蒼然たる若芽萌え出ずるが如く、経営困難に会ひて折角の事業も当に葬り去られむとせるものも、一度び男の後援に遭へば再び生気を生するに到るとは世の社会事業に与る人の斉しく云ふ所なり。実に繁忙なる実業界を退かれたる男の昨今は社会事業の為め一層多忙を増したりと云ふ。△さるにても心なき富豪成金輩には、「渋沢の乞食袋」と呼ぶものあり、こは男の名が多くの社会事業に対する寄附申込に、殆んど見出されざるはなきを以てなりと、歎ずべき哉、一夕賤妓の歓を購はん為めには数百金を投じて飽かず、一幅の書画に数十万金を惜まざる富豪が却て社会同胞の為めには僅々数十金の寄附を惜しむこと、守銭奴か、没情漢か度すべからず。知らずや貧富の懸隔日に遠くして、中産階級は年々に亡び、ローマの亡びし覆轍を再び見むとするを、見よや、露国は外敵に苦しまずして、却て内乱に懊悩しつゝあるにあらずや。一片国家を思ふの心あるもの現代の趨勢に深憂なかるべからざるに、自ら陣頭に起ちて此の貧富を調和し道徳と経済とを一致せしめんと、八十に垂んとする老躯を提げて寧時なき男を見る時、誰れか成金の豪奢に憤慨し、男爵の高志に感謝せざらん。聞かずやクリストは亡びに到るの門は大にして広しと訓られたるを、今の富豪輩滔々として邸宅の華美宏大を競へるは、其の亡びを競へるものにあらずして何ぞ、又憐れむべき哉。
△嘗て故手島精一先生が慨然として語られたことあり。『渋沢男爵は偉い人といふより、寧ろ人の形した神である。這の人に男爵といふ人爵を授けておくのは甚だ謂はれないことである。斯る人爵があればこそ、宮中宴会の時なぞにも其席次は却て国家には何の功もなく父祖の遺功によるもの、或は政治とか軍事といふ寸功の為め殊恩を蒙つて栄爵を贏ち得たる公・侯・伯・子の下位に列せらるのである。身に其功なくして其位に在るのは不道徳も極まるもので、人爵の頼みにならぬのは知るに足る。
日本が維新草創の時から今日の如く実業界が発展し、世界文明に遜色を見ざるものになつたのは、抑も最も其功の多きは誰に在るか、又実業教育・社会事業の為めに、自ら私財を投じて奔走克く其の功を遂げしめたるは抑も何人の援助に存するか実に渋沢男其人在るが為めではないか、世には随分大言壮語して、徒らに大風呂敷を拡げて世人を瞞着して栄爵にありつく人もあるが、実際国家の為めに其功を遂げて居るもので、渋沢男に比肩すべきものは有史以来我国に多くあるまいと思ふ。此人に遇するに男爵とは余りに之を蔑にして、却つて之を辱しめるものである。若し人爵を以て遇するなら、斯る大功ある人にはよろしく大公爵を以てすべきで、之が又教育上風教上必要なることである。余は宮中宴会で参列する毎に深く感ずることである』と涙を湛へて憤慨されし事あり。大人を知るものは大人に在るか。
△我が修養団の今日あるは、重に此の大人の高恩に依るものなり。抑も本団が同胞相愛・流汗鍛錬の二大主義を宣伝して利己主義・射倖主
 - 第43巻 p.540 -ページ画像 
義に頽廃し行かんとする現代の風紀を革正せんと、未だ黄口の青年相謀りて修養団を組織せるは今より十三年前の明治三十九年二月十一日の梅匂る佳辰なりき。今や健実なる五千の同志を得、向上舎を設け向上誌を発行し、天幕講習会を催して全国の中堅青年と連絡し、将に天下の大勢を動かさんとするに至りしは、実に恩人渋沢・森村・手島の三顧問を始め、賛助員其他高徳なる先輩諸士の熱誠なる後援・尽力に依れるものなり。而して団務の拡張は費用の膨脹を伴ひ団員より徴収する団費のみを以ては、到底之が費を償ふに足らざるを以て、従来渋沢・森村両顧問を首め篤志なる先輩の寄附を仰ぎ居りたりしが、一昨年九月を以て寄附期限満了し、爾来一ケ年余は全く渋沢男爵より立替を願ひて之を支弁し来りしも、之れ元より一時の急場に処したるものにて、永続すべき性質のものにあらざるを以て、一日も速かに財政の基礎を立て、本団の活動を全からしめ、以て恩人の高誼に酬いざるべからずとは、常に森村男爵より諭されし処なり。
△玆に於て本団は規約を定め、主張を明かにして以て江湖の有志に其賛助を仰がんと協議したり。然るに本団は識徳薄き青年の発起せるものなれば、未た以て一世を指導すべき本団の柱石たる団長を欠けることを久しく憾とし、屡々渋沢・森村両男爵が陣頭に立ちて一世の風紀を改善せられむことを懇請せしも、他に適当の人を索むべしと許されず。偶ま田尻子爵識徳一世に冠たり、人格の崇高なる当代比儔を見ざる国士なるを以て、先生に懇請しては如奈と両顧問より申出され吾等喜んで之を謝しぬ。此に於て両顧問は赤誠を披瀝して国家の為め、青年の為め団長として青年を率ゐられむことを子爵に交渉されしかば、先生も予て愛せられつゝある本団のことにてはあり、又両老大人の熱誠に感ぜられて之を快諾さるゝに至りぬ。斯くして本団は田尻先生を戴いて盟主とするの光栄を得たるもの全く両顧問の御尽力に依りしものなり。次で財政の方面に於て之が基礎を確立せざるべからずと両顧問は之が打合せの為め幾度か会合され、更に五ケ年間の寄附を募り、其間に将来財団法人たるの基礎を定むべしとの方針決定されたり。
△爾来渋沢男爵は主として之が計劃の衝に当られ、全く自己の事業の如く、御多忙の間に於て幹部を引見されて規約起稿、主張起草に促され、又躬ら筆を執りて之が添削をされ、或は賛助員に依頼すべき篤志の富豪実業家を調べ、或は案内状を起草されて発送さるゝ等、五千の同志之を聞きて誰か感謝の涙に咽ばざる。斯くて凡ての準備成り、渋沢・森村両顧問の主催に罹る修養団相談会は十二月廿三日午後五時より丸の内銀行倶楽部に於て開かる。
時恰かも師走下旬の事にて、一年中に於て最も多忙なる時にも拘らず来賓側には浅野総一郎氏・諸井恒平氏・二木博士・杉田稔氏・清水満之助氏代理鉱吉氏・北爪子誠氏等出席され、主人側にては渋沢・森村両男及ひ随行員白石氏、本部側にては、田尻団長・蓮沼主幹・清水文弥翁、松本・瓜生・妹尾諸幹事及び青山豊吉氏出席、主客十六人は両顧問の鄭重なる案内によりて食堂に入り、晩餐の卓に就き、饗終りて紀念の撮影を為して控室に入る。
△席定まるや渋沢男爵は、起ちて大要次の如き事を述べらる。
 - 第43巻 p.541 -ページ画像 
 「修養団の経過は創立以来十数年になりますが、私は初めから関係してゐて極めて結構と思ひます。文明が進み学問が進歩するのに反して道義の観念が日に薄くなるのは甚だ遺憾であると森村男爵と時時語つてゐたのである。修養団は地位の低い青年が起したものではあるが、其主義とする同胞相愛・流汗鍛錬は私共の思想に近い。斯る青年の意志を助長して日本現代の弊を済ひ度いと思ひ、之に関係して長い間其行動言語を見てゐたが、私の斯くあり度いと思ふのに近い。爾来事業は発展して来たが青年は志を以て世に尽して居るので、別段財産はない人々であるから従来私共が同志と図つて幾分の助力をしてゐた。一昨年から団を強固にしやうと云ふ話をして、団則を定め主義を明かにして大に団の形を整へやうとしたが、未だ柱石となるべき団長を欠いてゐるので、所謂仏を画いて睛を点じるといふことは吾々の義務であると森村男爵や幹部の諸君と相談して、田尻子爵にお願ひしたら御快諾下されたのである。目下の処団員も其の数に於て多くなり、又各地に支部を設けて活動してゐるが、只今の処団員の多くは青年で未だ多額の団費に堪へ得るものは少いから、怎うしても他の助力を得ねばならぬ。けれども事柄が事柄であるから絶対的に補助を断られることはあるまいと思ふ。将来は何等かの方法で他人の助力を受けないといふ方法にしたいと思ふが、此の処従来から関係のお方は更に五ケ年の補助を願ひ度いのであります。本団は元来精神修養を目的とするのですから利殖を図る性質ではなく、又之を図ることをさせ度くはない。今日の団員が漸次発達して社会に相当の地位に就くやうになれば、団費を増して徴収することも出来ると思ふから、将来は他人の助力を得ぬでもよくなるであらうと思ひます、云々」
と坐に就かるゝや田尻団長は起ちて一場の挨拶をされた。其の大略は
   ○前掲ニツキ略ス。
次に諸井恒平氏は起ちて多年森村・渋沢両男が御助力下されたのは誠に私も有難く思ふてゐる、殊に今回は最も得難き田尻子爵の如き髙潔の人を得、尚一世に名望ある渋沢・森村・手島諸先輩の極めて熱誠なる援助ある上は其基礎盤石の如しと謂ふべきで、他にこれ程有力なる歴々の人が揃ひ、着実な幹部の揃つた団体があらうか、此際今一層の御尽力を得て十万円か二十万円の財を集めて法人としては如何、及ばずながら私も驥尾に附して行かうと熱烈に意見を述べられしが、渋沢男は之に対し「私共も其意見の通りに思はぬではないが、今少し時機でないと思ふから、更らに五ケ年の寄附とすることにしたのである」と述べられ、更に浅野総一郎氏は「斯る結構な事業を従来両男爵がお世話下されてゐたのは感謝に堪へないことであります。私は学問もなく忙がしい身で他の方面ではお世話することは出来ぬから、せめて多少金銭上に於て経営費の幾分を寄附したいと思ひます。又渋沢男爵の仰せの通り斯る事業は出来る丈け多くの人から寄附を受けるやうにするのがよからうと思ふ」と渋沢氏の説に賛せられ、玆に五ケ年間更に寄附を継続さるることに評議一決し渋沢・森村両男及浅野総一郎氏は即刻五ケ年間各々一万円の寄附を申込まれたり。議終りて散会せるは
 - 第43巻 p.542 -ページ画像 
午後九時なり。