デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
5節 修養団体
4款 財団法人修養団
■綱文

第43巻 p.544-548(DK430107k) ページ画像

大正7年4月13日(1918年)

是日栄一、東京市役所市長室ニ於テ、田尻稲次郎・森村市左衛門・蓮沼門三ト会合シテ、当団ノ基礎確立ノタメ賛助員協議会開催ニツキ協議ス。四月二十七日、東京銀行倶楽部ニ、栄一及ビ森村市左衛門ノ名ヲ以テ第二回当団賛助員協議会ヲ開ク。栄一演説ヲナス。


■資料

渋沢栄一 日記 大正七年(DK430107k-0001)
第43巻 p.544 ページ画像

渋沢栄一 日記 大正七年           (渋沢子爵家所蔵)
三月二日 晴 風強ク寒気殊ニ強キヲ覚フ
○上略 朝飧ヲ取リ後蓮沼門三氏ノ来訪アリ、修養団ノ件、田尻氏ノ身上ニ関シ種々ノ協議ヲ為ス○下略
   ○中略。
四月十三日 雨 終日雨降ル気候寒シ桜花風雨ノ為ニ散乱ス
○上略 午前九時東京市ニ抵リ、田尻子・森村男及蓮沼氏ト修養団ノ事ヲ会話ス、来廿七日集会ノ事ヲ協議ス○下略
   ○是年三月、田尻稲次郎東京市長トナル。


集会日時通知表 大正七年(DK430107k-0002)
第43巻 p.544 ページ画像

集会日時通知表 大正七年           (渋沢子爵家所蔵)
四月十三日 土 午前九時 田尻市長・森村男二氏ト御会見(東京市役所)


向上 第一二巻第五号・第一〇二頁 大正七年五月 ○団長両顧問の協議会(DK430107k-0003)
第43巻 p.544 ページ画像

向上 第一二巻第五号・第一〇二頁 大正七年五月
    ○団長両顧問の協議会
 四月十三日午前九時、東京市役所市長室に於て田尻団長、渋沢・森村顧問、蓮沼主幹相会合して修養団基礎確立の協議会を開く。其協議の要項は、一、四月二十七日午後五時より丸の内銀行集会所に於て賛助員会を開き渋沢・森村顧問の名を以て帝都の実業家三十八名を招待し本団基礎の確立を計ること、二、田尻団長の抱負を来会者に発表すること、三、修養団の事業を報告すること等なりき。顧問を始め各地団員は田尻団長が繁忙極りなき市長に就任せられ、従来関係せられし帝国大学・早稲田大学等の講師を辞されたるを以て、本団をも辞さるるにはあらざるかと憂慮したりしに、団長は「今後東京市を背景として一層尽瘁すべきにより、本部より各支部へ通牒せられたし」との事にて顧問も喜ばれたり。


集会日時通知表 大正七年(DK430107k-0004)
第43巻 p.544 ページ画像

集会日時通知表 大正七年           (渋沢子爵家所蔵)
四月十五日 月 午後五時 田尻市長ヨリ御案内(帝国ホテル)


向上 第一二巻第五号・第一〇三―一〇四頁 大正七年五月 ○両顧問より各賛助員へ招待状発送(DK430107k-0005)
第43巻 p.544-545 ページ画像

向上 第一二巻第五号・第一〇三―一〇四頁 大正七年五月
 - 第43巻 p.545 -ページ画像 
    ○両顧問より各賛助員へ招待状発送
 拝啓、時下益々清適奉賀候、然は予て御賛助を蒙り居候修養団の儀は、昨年五月田尻子爵新に団長に就任被致候に付ては、比機会に於て賛助員諸君に御来会を請ひ、爾後の経過及現在の状況を御報告致且向後の方針等に就き篤と御協議致し、主義を全国青年に普及致度と存候間御多忙之際御迷惑に可有之候へ共、来四月廿七日午後五時東京銀行倶楽部へ御来車被下度願上候、当日は田尻団長にも御出席、就任の挨拶と共に将来に関する抱負等に就き談話致候筈に御座候、右御案内申上度如此に御座候 敬具
  大正七年四月十八日
                     渋沢栄一
                     森村市左衛門
 尚々当日は乍粗末晩餐を用意相整置候
 乍御手数御来否封中端書にて御一報願上候
      ○招待状を送られしは
 古河虎之助氏・赤星鉄馬氏・服部金太郎氏・大橋新太郎氏・清水釘吉氏・清水満之助氏・清水一雄氏・山本留次氏・大倉喜八郎氏・広瀬実栄氏・井上角五郎氏・大倉孫兵衛氏・諸井恒平氏・池田謙三氏・中島久万吉氏・柿沼谷雄氏・近藤廉平氏・早川千吉郎氏・藤山雷太氏・和田豊治氏・中野武営氏・栗原幸八氏・浅野総一郎氏、の諸氏なり
    両顧問より各実業家へ招待状送先
拝啓、時下益御清適奉賀候、然ば予て得貴意候修養団之儀は青年之精神修養を目的と致、現下の時態に必要なるものと相考小生等同志之諸氏に於て多年相当之援助を与へ居候処、昨年五月田尻子爵新に団長に就任せられ益々其主義の普及に尽力致居候へ共、随て之に要する経費も相増候に付、爰に諸君之御賛助を仰ぎて本団維持之方法相立申度と存候、就ては来四月廿七日午後五時東京銀行倶楽部に御来車を請ひ、同団の内容及将来之方針等に付御聞取願度と存候、尚当日は田尻団長にも出席され、就任の挨拶並将来の抱負等に就き談話致候筈に御座候右御案内申上度如此に御座候 敬具
  大正七年四月十八日
                      渋沢栄一
                      森村市左衛門
 追て当日は乍粗末晩餐の用意致置候
 乍御手数御来否封中端書にて御回答願上候
      ○招待状を送られしは
 団琢磨氏・荘清次郎氏・串田万蔵氏・村井吉兵衛氏・日比谷平左兵衛門氏・郷誠之助氏・山下亀三郎氏・山本唯三郎氏・大川平三郎氏・田中栄八郎氏・佐々木勇之助氏・安田善三郎氏・高田慎蔵氏・小倉常吉氏の諸氏なり。


集会日時通知表 大正七年(DK430107k-0006)
第43巻 p.545-546 ページ画像

集会日時通知表 大正七年            (渋沢子爵家所蔵)
 - 第43巻 p.546 -ページ画像 
四月廿七日 土 午後五時 修養団ノ件(銀行クラブ)


向上 第一二巻第六号・第八八頁 大正七年六月 ○第二回賛助員協議会(DK430107k-0007)
第43巻 p.546 ページ画像

向上 第一二巻第六号・第八八頁 大正七年六月
    ○第二回賛助員協議会
 四月二十七日午後五時より、渋沢・森村両顧問主催の下に、丸ノ内銀行集会所に於て賛助員協議会を開き、本団基礎確立の方法を相談せり。渋沢顧問の挨拶(別項記載)に次で田尻団長立たれ「修養団の事業は目下洵に必要なること、顧問始め賛助員諸賢の御援助と、幹事団員諸氏の熱誠と努力とにより着々事業の成績を挙げつゝあること、殊に夏季の天幕講習会、臨海団の如きは青年及少年の修養鍛錬に適切なること」等を陳述せられ、終りに団員修養の方針として団長自ら黄石公の素書の講義を毎月第三日曜日に催ほすこと、市長の職責を果すと共に躬を以て本団を統率し、以て青年教養に尽瘁すべきにより賛助員の一層の援助を希望すと依頼せられたり。
 次に団長の指命に依り、蓮沼主幹は天幕講習会に就きて、瓜生幹事は少年臨海団に就いて詳細なる説明をなしたり。
 午後七時食堂開かる。一同歓談裡に夕食の饗応を受けたり。渋沢男の論語の話、浅野総一郎氏の朝起の話、二木博士の節食の話、服部金太郎氏・諸井恒平氏・池田謙三氏・清水一雄氏等相語り相笑ふ。
 食後再び会を開き、団長・顧問より新任幹事後藤静香氏を会計主任に依嘱すべきことを告げられたり。午後九時協議会を閉づ。顧問・団長・賛助員退散の後、幹事会を開き、第四回天幕講習会開催の件を議し、候補地を中禅寺湖畔と定め、田沢義鋪氏・後藤幹事に実地踏査を依嘱したり。


向上 第一二巻第六号・第二三―二六頁 大正七年六月 時代風潮と修養団の任務 △顧問渋沢男爵演説大要(於銀行集会所賛助員会)(DK430107k-0008)
第43巻 p.546-548 ページ画像

向上 第一二巻第六号・第二三―二六頁 大正七年六月
    時代風潮と修養団の任務
      △顧問渋沢男爵演説大要(於銀行集会所賛助員会)
△修養団も諸賢の御援助によりまして、漸く社会に其存在と価値とを認められ、世界の大変乱と共に本団の責任も一層重大を加へ、全国青年の親和聯絡を計り、其思想を健実にし、体格を強健にし、以て国家の発展に貢献せしめたいと希望して居りますので、是非諸賢にも此上の御援助を辱うしたいのであります。
△物質的文明の進歩、知識技術の発達は同慶に堪へませんが、精神的文明の進歩、道徳的方面の発達は如何でありませうか。質実剛健の美風、孝悌忠信の良俗は日を追うて薄らぎ行くやうに懸念致されますのは皆様も御同感と思ひます。甚しきは自分の利益にさへなるならば、他人の迷惑にならうが、国家に害毒を流さうが措いて問はぬというやうになりましては、孟子の所謂「上下交征利而国危矣」となつて同胞互に相争ひ相食むに至り、国家の不幸を招致するやうになりはせぬかと憂慮されるのであります。
△どうかして国家の継承者たるべき青年諸子に孝悌忠信の精神を敦からしめるやうに致したいと考へて居りました処、本団の創立者である蓮沼門三氏が中心となり、盟契の同志と共に修養団を組織して青年学
 - 第43巻 p.547 -ページ画像 
生の修養を進め、質実剛健にして実践躬行の美風を作興したいとの趣旨を以て私共に援助を求めたのであります。其趣旨が至極時勢に適して私共も同感でありましたので賛成は致しましたものの、或は社会にありふれたる羊頭を掲げて狗肉を売るの同類ではあるまいかと、多年注意して其真精神と実行力とを見て居りましたが、終始一貫志を変ずることなく、洵に真実勤勉なることを確め、これは似非ものではない是非助けて目的を成就させ、此種の青年を一人でも多くしたいものとの考へを起し、明治四拾二年から森村男爵と共に顧問となつて今日迄後援して参つたのであります。
△団員は多く都会の優秀な学生と、地方の代表青年とでありますが、東京では高等工業・早稲田大学・慶応義塾・高等商業の生徒が団員の中堅となつて居り、就中高等工業に最も多数の団員があります処から故手島校長が高等工業学校の所有地千坪を無償で修養団に貸与されることになり、森村男爵と私が一万二千円を支出して、第二向上舎と申す寄宿舎を設立し、高等工業の団員四十四名を入舎させることになつたのであります。
△本部も設置する必要がありますので、別に五千円を寄附して向上舎の敷地内に建設いたしました。これは大正二年のことであります。修養団が年々発展しますにつれて本部の事務所が狭隘を告げ、また各地支部から来訪する団員を止宿させる場所もありませんので、今年再び森村男爵と私とで三千円を寄附して事務所を増築致しました。
△他にも高商や慶応・早稲田等の団員を寄宿させる第一向上舎、第三向上舎、第四向上舎が設けられてあります。
 向上舎の卒業生は目下各地の学校の教員、会社の社員となりて好成績を挙げて居りますが、北米や南洋や朝鮮支那等に行つて活動して居る者もあります。又神戸・大阪・熊本・福島・札幌・高松・高田・長岡等各地には支部が設立されて、只今では五十ケ所許りに及んで居ります。東京を中心として聯絡を計り、其の主義を拡張しつゝあるのであります。又元の幹事の坂本剽氏は支那広東の三井洋行に活動して居り、小林錡氏は佐賀の地方裁判所に検事を務めて居ります。団外にありては山下信義氏・小尾晴敏氏・肥田春充氏等が尽力して居り、御参会の二木博士・宮田校長只今大坂市立工業学校長として赴任されました杉田稔氏等は、創立当時から相談役となりて万事御指導役をつとめて下されました。北爪子誠君・田沢義鋪君は又幹事同様に御尽力下されつゝあります。
△支部の発会式には、私共も参つて団員の気勢を高むる様にはして居りますが、毎度行く事も出来ず其の際は祝辞を以て之に代へて居り、蓮沼主幹は必ず出張する事になつて居ります。また毎年夏季には天幕講習会を催ほし、俗塵を絶つた山間幽邃の地に天幕を張り、各学校長から選抜派遣された全国の師範学校・農学校の代表的学生百名内外を之に起臥せしめ、規律的生活の実行訓練、心身の修養鍛錬を計ると共に、同志の連絡提携を固うすることに致して居り、第一回は磐梯山麓第二回は富士山麓、第三回は赤城山上に於て開いたのでありますが非常の好成績でありました。其経費は特志者の寄附で支弁して居ります
 - 第43巻 p.548 -ページ画像 
別に臨海団なるものを海岸で催し、少年の心身鍛錬を計つて居りますこれも好成績を収めて居ります。
△団員からは年額壱円五拾銭の団費を徴収して居りますが、其代りに機関雑誌「向上」を無代配布して居ります。雑誌の方は追々団費で収支償うやうになつて参りましたが、遊説をしたり、修養会を開いたり支部に出張したり、本部の事務を整理したり、其他種々の事業の為に要する費用をば当分団員から徴収することが不可能でありますから、私共が賛助員諸賢と共に幾分づゝ補助して居るのであります。由来精神的事業は一・二の人で経営すべきでなく、多くの特志家と共に協力して経営もし援助もすべき性質のものと信じますので、今後も諸賢に御助力方を御依頼したいと思ふのであります。
△又本団の基礎を固めるには団長が無ければなりませぬ、私共も団長になるべきことを度々勧められましたが、境遇の異なる私共が内部に入ることは面白くありませんので、森村男爵及幹事諸君と相談の結果人格名望申分のない田尻子爵を団長に推戴することになり、本団の事情を陳述して篤と御依頼致しました処、子爵も速刻御快諾下されましたので一同非常に悦んだのであります。
 子爵を団長に戴いた以上は、財政の基礎をも確立して健実なる活動を進めて行かねばなりませぬ。これ迄は内輪に活動して居りましたが今後は社会的に活動致させたいと思うて居ります。
△申す迄もありませんが、一国の盛衰は青年の元気如何によつて定まるので、青年の元気を作興せしむることは国家を発展せしむる第一義であります。如何に精巧の機械があり、精鋭の兵器があつても、其機械兵器を取扱ふ働き手が無能力であつては何の効力もありません。どうしても国家各方面の働き手である青年をして国家的観念を旺盛ならしめ、発溂たる元気を養成せしめねば、国歩艱難の今日に於て世界列強と駢馳することが出来ぬのであります。修養団は其意義より申しましても目下極めて必要なる企てゞ、元気を銷沈せしむる原因ともなるべき淫靡虚栄の悪風を一掃し、質実剛健の気風を養成せんとして居るのであります。
 世界大変乱勃発以来世界各国に於ては官民競うて青年の教養に力を注ぎ、之に莫大の費用を投じて惜まぬ有様であります。堤防の崩壊されぬうちに要心するのは国家を愛する者の任務であらうと信じます。
                         (後略)