デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
5節 修養団体
4款 財団法人修養団
■綱文

第43巻 p.569-572(DK430114k) ページ画像

大正8年1月21日(1919年)

是日当団本部ニ於テ、当団顧問手島精一ノ一周忌追悼会執行セラル。栄一出席シテ追悼ノ辞ヲ述ブ。尚、追悼会費用トシテ金百円ヲ寄付ス。


■資料

渋沢栄一 日記 大正八年(DK430114k-0001)
第43巻 p.569 ページ画像

渋沢栄一日記 大正八年          (渋沢子爵家所蔵)
一月二十一日 晴 寒
○上略 午後○中略 浅草ニ抵リ修養団本部ニ於テ開催スル故手島氏ノ追悼会ニ出席ス、一場ノ追悼辞ヲ述フ、来会者一同ト共ニ夜食ヲ為シ往事ヲ談シテ夜十時散会帰宅ス○下略
一月二十二日 晴 寒
○上略 蓮沼・瓜生二氏来リ昨夜ノ労ヲ謝スル旨ヲ述フ○下略


集会日時通知表 大正八年(DK430114k-0002)
第43巻 p.569 ページ画像

集会日時通知表 大正八年         (渋沢子爵家所蔵)
壱月廿一日 火 午後四時 修養団主催故手島氏一周年忌(修養団本部)


向上 第一三巻第一号・第七六頁 大正八年一月 故手島顧問追悼会挙行協議会(DK430114k-0003)
第43巻 p.569 ページ画像

向上 第一三巻第一号・第七六頁大正八年一月
    故手島顧問追悼会挙行協議会
 故手島顧問は本団の大恩人也。本団の今日あるは故人に負ふ処極めて多し。団員は常に故人の恩徳を感謝し其人格を追慕して止まず、一月廿一日は故人の一週忌に相当するを以て之が追悼会を営まんと欲し渋沢顧問に計る。渋沢顧問は兼てより追悼会を催ほし、故人の徳を頌せんと希望せられ居りしことゝて大に悦ばれ、森村顧問と共に費用一切の寄附を申し出でられたり。玆に於て一月十四日午後六時より幹事会を開き諸準備の協議をなす。十五日田尻団長及渋沢・森村両顧問の名を以て故人の御家族及評議員並に故人に関係深き各位に御案内状を出せり。


向上 第一三巻第二号・第七六―七八頁大正八年二月 故手島先生追悼会の記(DK430114k-0004)
第43巻 p.569-571 ページ画像

向上 第一三巻第二号・第七六―七八頁大正八年二月
    故手島先生追悼会の記
 肌寒き小春の日の黄昏――一月廿一日午後五時十五分、我が手島先生の一週忌追悼会は本部楼上に於て執行せらる。此の日会する者、主賓たる未亡人春子刀自・令息壮古氏・令孫貞一氏を始めとし、渋沢顧問・阪田東京高等工業学校長・松浦玉圃・直村典・石井信二・村上通
 - 第43巻 p.570 -ページ画像 
大槻喬・宮本清利・外川四郎・島芳太郎の諸氏及び本部幹事其他関係者在京向上舎生等百余名にして、先づ妹尾幹事司会の下に開式。蓮沼主幹は田尻団長代理として起ち『本日は団長自から出席し、本団の大恩人を偲びたしと思ひ居りしも公用に依つて遺憾乍ら欠席せられたり乍併、本団として故先生の追悼会を執行するは最も満足する処にして既に之を百ケ日に挙行したかりし也。玆に於て故人の人格を偲び、又之を社会に紹介するは吾等同志のなすべき事にして、渋沢・森村両顧問も特に助力を与へられ、本日追悼会を執行するに至れる也。尚玆に故先生の知人団員共に来会せられ、阪田校長其他来賓諸氏の御来堂下されしを感謝す。』と挨拶を述べ、次で浄心寺住職広勢恵澄師の読経に移る、法の言葉の高低に伴れて哀しき思ひの揺すらるゝが如く、参会者自ら涙を浮べたり。読経畢つて五時四十五分、瓜生幹事は団長代理として追悼の辞を朗読す。次で渋沢顧問は別項記事の如く悼辞を述べられ、蓮沼主幹亦感慨無量の面地にて霊前に進み、故先生が本団の事業に深く共鳴せられ、その草分け時代に於て甚大なる助力を与へられたる事を詳説し、且つ生前不断の激励を賜りたる事を涙と共に述べられたり。而して故先生のお蔭を以て本団も今日の如く隆盛に至り漸く社会に存在を認めらるゝ状態に達せるも、此の喜びを先生に呈し得ざるは衷心遺憾とする所也。されど吾等、今後共当初の所信を一貫し以て故先生の遺志に背かざらん事に努めんとす、と赤誠を披瀝せり。次で各向上舎を代表して第二向上舎小池庸夫君霊前に進み、吾等は平素先生の崇高なる人格を偲び、又偉大なる事蹟を思ふ毎に一種の感激を覚ゆる者也。又吾等工業界に身を立てんとする者は特に先生の御遺業に対し感謝する次第にして、尊き御精神に従ひ、吾等は愈々奮励以て国家社会に一身を捧げんと欲す、希くは英霊長へに安からん事を、と悼辞を述ぶ。次で来賓阪田貞一氏は、故先生が本邦精神界に御尽力せられたる事は前に渋沢男・蓮沼主幹より詳細に述べられたり。余は玆には特に先生が本邦事業界に偉大なる功献を遊ばされしを思ふ。顕著なる事蹟の中に於て第一には我織物の中、洋傘に用ゆる絹地の改良之は非常なる研究をなされし結果、輸入品より良好の製品を出すに至れり。また之が染色も学校に於て研究の結果、変色せざるものを発明し、之を『学校染』と称せらるゝ迄今日広く世人に裨益を与へつゝあり。又実業界《(窯カ)》に於ても曾ては木炭を燃料として製造しつゝありし為め頗る不経済なりしが先生之を憂慮せられ研究の結果石炭焼を創始するに至れり。今日に於ては陶器を製造するに多く石炭を使用するに至れるが之先生の恩沢也。ガソリン・石油機関等の研究をもなされ、廿八年の京都博覧会に出品し、親しく天覧を賜りたりき。爾来京阪地方に石油機関の応用漸く普及するに至れり。尚過般戦争中欧洲よりの輸入品杜絶せる為め機械類の欠乏を感ずる事痛切の際、我高等工業学校の出身者が帝国工業界に至したる功献は偉大なるもの也、而して之みな曾て先生薫陶を受けたる者なるを思へば先生も亦地下に於て大に満足遊ばさるゝならん。又関係浅からざる修養団も今日の如く隆盛を見るに至れり、然らば英霊以て安んずるに足らんかと悼辞を述ぶ。次で松浦翁も感想を披瀝し、斯くて一同の焼香に移り、未亡人春子刀自を始
 - 第43巻 p.571 -ページ画像 
め皆参拝をなす。畢つて小憩の上式場に於て晩餐会を催し、故人の徳行を偲びつゝ感激の裡に午後八時之を終了す。吾等は当日の参会者と共に故先生の英霊永遠に安からん事を是祈る次第也。
 当夜、渋沢顧問は九時過ぎ迄、来賓・青年学生等と接し胸襟を開いて幾多社会問題に就き高見を披瀝されたり。尚追悼会の費用として渋沢・森村顧問より各百円宛寄附されたるは一同の深く感謝する所也。


向上 第一三巻第二号・第二九―三一頁大正八年二月 故手島先生の一週忌を迎へて 顧問 男爵渋沢栄一(DK430114k-0005)
第43巻 p.571-572 ページ画像

向上 第一三巻第二号・第二九―三一頁大正八年二月
    故手島先生の一週忌を迎へて
                 顧問 男爵渋沢栄一
      故先生と私
 私は個人としても故先生の御生前に親い交はりを致しましたし、又修養団としては、特に其の創立時代から一方ならぬ御助力を受けまして今日に至りました。かれ此れを回想致しますと洵に感慨無量でありますが、玆に一週忌の追悼会を催すに当つて、往事を追憶し一言を述べたいと存じます。
 私と故先生とは境遇が異つてゐましたので、従つて屡々往来して交はりを厚ふする事は出来ませんでした、乍併、我が帝国の進歩、即ち物質的文明を進まする上に、途こそ異れ、同じ理想の下に同じ努力を致したのであります。
 先生は其の始め学を終り社会に起つや、帝国の進運を図らんと欲せば須く工業の進歩を図らざるべからず、而して科学教育の普及せざる現時に於ては、□□《(脱字)》に此の方面に努力すべしとなし、之に全力を捧げられたのであつた。先生が所謂、工業の学理的に進まず、之を慨嘆された頃ほひには私も同様帝国の商業の学問の低い事を歎いたのであります。如斯、提携は致しませぬが、私は先生と同一軌の途を進んだといふ事は断言して憚らない所であります。
      主義一貫の人
 而して先生は主義一貫の人で、工業教育に総てを捧げられて之を貫徹された事は深く感嘆する所であります。殊に私が先生に対して実に常人の及ばない所であると深く敬慕する一事があります。今日は御遺族其他諸氏の御列席の前で、此の事実を申上ると云ふのは満足の至りであります。
 今も現存してゐる東京瓦斯会社は、其始め東京市で経営して居たのでありました。当時、市の発達を図るには先づ瓦斯電灯事業を拡張し之を普遍的に市民に供給せしめねばならぬと劃策致しまして、之を市営から自由に事業の出来る会社経営に移すことに致しました。時は多分明治十七年で、之を遂行したのは私であります。
 軈て之を株式会社とした当時は種々の人々も入つて来て、多分明治三十年か、現に関係の大橋新太郎氏が専務取締役の位置を辞したいと申出をしたとき私どもは其適当なる後任者を選定したのであります。
種々穿索致しましたが、それは手島先生より外、差当つて人物がないといふので私は先生に此の位置をお薦めして、会社の為めに起つ事を懇望した時、先生が之を郤けた一言は、御人格を証明するに最も適当
 - 第43巻 p.572 -ページ画像 
と思ふのであります。先生は特に王子の私の家に見えて、其意を述べられた。曰く『予て交渉を受けたが、私を其職に堪え得る事を認めて呉れたのは実に渋沢で、そして有力の事業である上に、渋沢・大橋氏等が関係されて居る。それ故資力の応援もあらうと存じます。誠に忝い次第で、顧みて又自分に相応しからぬとは思はぬが、之に応ぜられない事は私の明治の工業界に貢献せんとしたのは学理的の方面で実務の方面ではない。而して日本の現状は未だ工業教育が普及してゐるとは思はれない。尤も実務的方面の発達を企てる事も善いとは思ふが、私は学理の普及を図る為め之を断然断るより外はない。』そこで自分を薦めてくれた渋沢を知己とし、大橋さんを友人としたいと云はれました。
 私は先生の崇高なる決心牢乎として動かすべからざるを悟つて、最早や多言を要しないと感じ、且つ何といふ美事な覚悟かと思ひ、それに先生が全力を注がれる事を頗る善いと感じました。そこでお互に諒解して別れたのは、既に十五《(ママ)》・六年前の事であります。洵に先生の其後終始一途、工業教育の為め身心を捧げられたのであります。或意味から云へば其為めに斃れられたとも云へぬでもない。先生は私から見れば年輩も下で本来ならば私が黄泉の先途をすべきであつた所、――悼まれる老の身が反つて後に残り、之をお悼みするといふ事は痛恨に堪えぬ次第であります。
      故先生の偉業
 併乍、先生在つて此の工業教育が進歩したのであります。然らば帝国の工業界は先生あつて進歩したのである。今日は世界戦争も愈々終熄を告げて、所謂天定まつて人に勝つの時になりました。而して帝国の工業界は更に進歩をなす際である。此時に於て私どもは先生を偲ぶ事更に痛切なるものがあります。
 いまや高等工業学校は、先生の意を体して愈々繁盛の途にある。又先生の生前特に御助力下さつた所の修養団も、先生の御精神を継承して益々発展の途に在りて国家社会に幾分の微力を致して居ることは、全く先生の遺志の実現であつて地下の先生の大に意を安んずる所であらうと存じます。
 今日此の所に於て先生の遺功を偲び、御霊前に於て御遺族、又生前の知己諸氏及び青年学生と共に斯くの如く追悼会を催し得た事は我等の本懐とする所であります。
 本篇は手島先生一週忌追悼会に於ける追悼の辞たり。