デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
5節 修養団体
8款 其他 2. 皇道会
■綱文

第44巻 p.88-97(DK440034k) ページ画像

大正7年12月5日(1916年)

是日、横浜市開港紀念会館ニ於テ、横浜市主催ニ係ル当会講演会挙行セラル。栄一出席シテ演説ヲナス。


■資料

集会日時通知表 大正七年(DK440034k-0001)
第44巻 p.88 ページ画像

集会日時通知表  大正七年          (渋沢子爵家所蔵)
五日○一二月 木 午後四時二十分 皇道会ノ為ニ横浜御出向(東京駅)


皇道講演会紀要(第壱輯) 皇道会編 第一頁 大正一三年一二月刊(DK440034k-0002)
第44巻 p.88-89 ページ画像

皇道講演会紀要(第壱輯) 皇道会編  第一頁 大正一三年一二月刊
    大正七年度
○横浜市講演会 大正七年十二月五日午後六時横浜市開港紀念会館に於て開会、東京本部よりは正親町会長・岡部子爵・金子子爵・渋沢子《(男)》
 - 第44巻 p.89 -ページ画像 
爵・福本日南氏・北原常務理事、其他幹部員一同出張
 一、開会之辞       大谷嘉兵衛氏
 一、勅語奉読       正親町会長
 一、儒教より見たる皇道  渋沢男爵
 一、現代思想と皇道    金子子爵
 一、我が国体と民本主義  福本日南氏
 一、閉会之辞       北原常務理事


竜門雑誌 第三七三号・第二二―二六頁 大正八年六月 ○儒教より観たる皇道 青淵先生(DK440034k-0003)
第44巻 p.89-92 ページ画像

竜門雑誌  第三七三号・第二二―二六頁 大正八年六月
    ○儒教より観たる皇道
                      青淵先生
  本篇は、青淵先生の談話として、雑誌「皇道」第六巻第五十二号に掲載せるものなり。(編者識)
 本日は横浜市の主催なる、皇道会の講演会に参りました。尤も私は従来より皇道に就ては考へもし、意見もありますが、今日は非常に多忙で他にも要務に迫られて、時間も無い事でありますから、ほんの出席した印の御挨拶のみに致します。
△王道と覇道 私は皇道会に就ては古い馴染みの北原君より屡々承り又た皇道に就ても大略の見解を持て居ります。謂ふに現今の思想界の上には皇道の拡張及宣伝普及より最上有効の策はあるまい、故に私も大に賛成をして居ります。けれども私は流儀違ひで漢学を研究したので、御恥しながら皇典国学には素養がありません。それで皇道の意義も充分に明瞭と云ふ所には到りませんが、然し私は儒教と比較校量して、皇道は先王の道即ち支那で云ふ王道と解釈して居ります。此の王道の説明は論語や孟子にありますが、殊に孟子には王道と覇道との区別を例証して論究して居ります。今私は此処に王覇の区別を詳述する事は致しませぬが、簡短に云ふと王道は仁政主義であるに、覇道は権謀術数主義を以て立てる道である、そして此の皇道は儒者の云ふ王道の優れたるものではあるまいか。
△民本主義と皇道 近頃は大変にデモクラシーと云ふ事が流行して居るやうだが、私は其の起源も大勢も一向に不案内でありますから、之れは別としまして唯今は民本主義と皇道との関係を見ませう。蓋し皇道は儒教に云ふ王道である。又た民本主義も此の意味に外ならない、元来覇者の道は政略的術数的のものである、例へば昔盛んであつた封建制度は之れ確に覇道と云ふべきもので、今日云ふ民本主義に全然反対して居る、何故なれば封建時代の大名君主は自分勝手に自分の利益自分の欲望即ち自分の権力を、我が儘に使用する為めに人民を道具にし、犠牲に供して居た事は少くない、之れ主客顛倒せる考へである、政治は蓋し民の安寧幸福を増進する為めの行為であつて、それは必ず民本主義的でなければならぬ。近い例を取つて云へば人が働くために食ふのと、食ふ為めに働くのとは其の間に非常に大なる区別がある事を認めなければならぬ、食ふ為めに働くのは禽獣である、働く為めに食ふのは人の人たる道である、されば同じ食ふと云ふ事でも其の精神を尋求すれば大なる区別がある。政治上に於て王道を行ふのと覇道を
 - 第44巻 p.90 -ページ画像 
行ふのとは、食事に於けるが如く亦た大なる高下の差別がなけねばならない、従て又た人君として自己の為に人民ありと云ふ考へと、人民ある為めに自己ありと云ふ思想との区別を明かにしなければならぬ。されば先王は民を教へ民を養ふた事は少くない、要するに人民の徳教を進めて安寧幸福に導くのが皇道の精神であり、目的でありませう。之れに反して覇道は自己の為めに威を張り、自己の為に犠牲に供して顧みないと云ふ思想である。
△先王の道 日本も以前封建時代には随分覇者の政治があつた、それは将軍の為めに人民あり、自分の為めに人ありと考へたからである。然るに歴代の天子様の御政治は如何であつたでせう、昔仁徳天皇は民の為めに三年間の租税を免じて、宮廷の費は不足したけれども、民の富めるは朕の富めるなりと詔し給ひし事がある。又寒夜に御衣を解かれて人民の寒苦を忍ばれた聖天子もあつた。けれども将軍に於て未だ斯くの如き仁政のありし事を聞いた事はない。儒教では尭舜禹湯文武周公の道を先王の道と称し、就中文武周公を尊崇して居る。之れ昔の先王の政治であつて、皆な臣民を尊重して一意専心に民の安寧幸福を図つたものである。論語を見ると『哀公問於有若曰。年饑。用不足。如之何。有若対曰。蓋徹乎。曰。二。吾猶不足。如之何其徹也。対曰百姓足。君孰与不足。百姓不足。君孰与足。』とある。此の意味は、或る年饑饉があつて、百姓が年貢を充分に上納しないので、魯の皇室の費用が不足した。其の時に哀公は如何にしたら宜しからうと、有若に相談を掛けました、其の時に有若が答へて云ふには、天子様はなぜ年貢を半分にしておやりなさらないか、すると哀公の言はれるには、年貢を二倍に増しても尚ほ費用不足して困つて居るのに、どうして半分にする事が出来やうやと、時に有若又答へて云く、若し百姓の方が充分に豊かであつたならば、よもや君の方に欠乏はありますまい、之れが仁徳天皇の所謂民の富めるは朕の富めるなりである。然るに年饑えて民が貧苦に悩まされて居るに、何ぞ独り天子のみ富裕に豊かに暮す事が出来やうやと。此の哀公と有若との問答、此の政治こそ実に民本主義の本家本元ではありませぬか、又た子貢が孔子に政治の事を質問した時に、孔子は『足食。足兵。使民信之矣。』と云つて居る、子貢が重ねて若し已むを得ずして此の三者の内の一つを取り除かねばならぬ時には、何を最初にすべきかと問はれた時に孔子は、『去兵』と即ち武を去れと仰せられた。子貢が三度重ねて、次に去るべきは何かと尋ねた時に、孔子は『去食』と仰せられた、食は人生に必要なれども、古より死と云ふ事は免れないからである、されど最後の一つの信即ち正義仁道が無くては、国に一日の安きなく、民に半日の寧きなき故に、之れは如何なる場合にも棄て去つてはならぬと仰せられた、之れ又た民本主義の真髄である、然るに孟子は更に力説して居る。『左右皆曰賢。未可也。諸大夫皆曰賢。未可也。国人皆曰賢。然後。可用之。左右皆曰可殺。勿聴。諸大夫皆曰可殺。勿聴。国人皆曰可殺。然後可殺。故曰国人殺之也。』と云ふて居る。又斉の宣王と孟子との問答にもある、『宣王曰。寡人之囿。方四十里。民猶以為大何也。孟子曰。文王之囿。方七十里。芻蕘者往焉。雉兎者往焉。与民同之。民以為
 - 第44巻 p.91 -ページ画像 
小。不亦宜乎。』云々とある。これ如何にも民本主義の政治を説けるのであつて、之れぞ先王の道と云ふべきものである。私は皇道は如上の王道よりも遥かに優れたものであると信ずる、夫故に日本の現状より見て目下最も必要なるものであると思ふ。
△民主主義と帝国 欧洲大戦は今や休戦条約も成りて、近々には平和克復する事であらう。然も其の平和会議の使命もこゝ数日間に出発する事である。実に独逸の如き悪魔は何処まで跋扈し、何時迄栄えるものかと心配して居たが、天定りて人之れに勝つの譬、終に悪魔は屈服したのである。之れ人は如何に武力に猛くとも、何時かは王道の前に屈服するものであることを示して居る。斯かる平和克服を眼前に控へたる目出度き時に、一方には露西亜帝国は滅び墺帝国も亦亡び、今や独逸帝国同一運命の禍中に投ぜんとして居る。是れは正しく世界の大勢がデモクラシーに傾き、該主義の跳躍跋扈を顕示せるものである。然らば此の世界の大勢たるデモクラシーに対して、日本帝国は如何なる影響を受くるや、若し其の禍中に投入するの虞れはなきか、余は此処に断言す、既に上述せる如き王道の事実より永く陶冶せられたる帝国民には何等の影響なし、殊に国家的にも何等害毒の感染を受くる事はない。要するに民主主義は帝国に於て何等の活力なきものである。然し日本現代の文明は専ら知識一方に傾いて、精神的薫育を等閑して居るが、こは日本の国体政体の上より見て好ましき現象ではない、之れが皇道会に取つて重要問題である、知識と随伴して精神的徳育の進歩を図る事は、識者の最も注意すべき事である。
△皇道と経済 然りと雖も現代文明の世の中には富も亦必要である。若し財産なくば王道の運用も、孔孟の仁義説も之を広く施すの術を欠く訳である。換言すれば、仁義道徳も財に依て進歩発達せしめ、布教伝道しなければならぬ、故に人を富ます事も亦た皇道の最大目標である。然し一般人は財富を得ると共に、仁義道徳を捨てゝ不善に傾き、種々の紛議を惹起し易い、又た世間の実状に見るに富豪の増加は一方には貧者の増加を来して、必ず社会的の紛議を惹起して居る、之れ其の富豪が財の運用を誤つた結果である。
 明治の聖代は人事百般の進歩発達に依つて文明を向上した。就中富の増加は最も顕著なる事実で、昔と今とは到底比較にならない。此の会館を見よ、勿論共同事業なるも、これは富の力である、個人に於ても亦た此の例は少なくない。然し現代の富を成せる人々は其の富力と共に精神が充実して居るか否かは疑問である。若し現代の人々が財力と精神の充実とが併行し随伴して居るなれば、仁義道徳を主として国利民福を旨とせる皇道の実行実現は、坦々たる大道を往くが如く容易なれども、若し財富多くして智徳低く善心虚にして、悪心満つれば、之れ実に人道の危機、国家の危運である、それ又た為政者の罪に非ずして一般被治者の罪である、故に被治者人民たる者は、今早く此の皇道に依て、団体の健全と人道の安固とを図らざれば、国家の運命は亦た知るべきである。
△皇道の極致 孔子は仁の義を多く説いて、論語二十篇中に仁の一字を、或は広く或は狭く四十度も使用して居る、然し私の最も感心せる
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事は雍也第六にある。『子貢曰ク、如シ博ク民ニ施シテ能衆ヲ済フ者有ラバ如何、仁ト謂フ可キ乎。子曰ク、何ソ仁ヲ事トセン、必ズヤ聖乎。尭舜其レ猶ホ諸ヲ病メリ。夫レ仁者ハ己レ立タント欲シテ人ヲ立テ、己レ達セント欲シテ人ヲ達ス。』とある。実に尭舜禹湯の先王の道は、之れ仁の極致である。今皇道は広く仁を施して民を救ふの道であつて、之れぞ人道の極点である、皇道は又た此の点に於て明治聖帝の教育勅語の全体である故に、臣民たる者は之れに答へて皇道を守るべし、斯くの如くにして君たり臣たるもの各々其の道を尽せば、国家は理想的に進歩発展する、此の理想国の実現は皇道の目的にして又た皇道の極致である。



〔参考〕渋沢栄一 日記 大正三年(DK440034k-0004)
第44巻 p.92 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正三年          (渋沢子爵家所蔵)
一月二十二日 晴 寒気強シ
○上略 北原峯子・石部定来リ、皇道会ニ関スル依頼アリ○下略



〔参考〕竜門雑誌 第三五八号・第四六―四九頁 大正七年三月 ○道徳観念の退化 青淵先生(DK440034k-0005)
第44巻 p.92-94 ページ画像

竜門雑誌  第三五八号・第四六―四九頁 大正七年三月
    ○道徳観念の退化
                      青淵先生
  本篇は、青淵先生の談話として雑誌「皇道」十二月号に掲載せられたるものなりとす。(編者識)
 世の中には何事にも進化と云ふ事があつて、宇宙も進化して生物も進化し美人にさへ進化があるとの事であるが、如何にも其通りで、一切万事、世界の事には皆進化の痕が歴々として、眼に見える、随つて道徳にも進化のあるべき筈で、現に昔の忠孝と今日の忠孝とは、同じ忠孝でも、忠孝の発顕する形式の異つた所があり、昔支那で「廿四孝」として賞め頌へられた孝行の形式も、大正の今日に於て決して行はれ得る形式ではない。実際にあつた事か無かつた事か判然致さぬが、郭巨の如く我が親を養はんが為に、我子を生埋にするなぞといふ行為は今日の道徳観念の上から謂へば、之を賞めるわけにはゆかぬ。斯く稽へてみれば、道徳にも明かに進化のあるものと観ねばならぬ。然し二千五百年前の孔夫子在世の頃にも、亦二千五百年後の今日にも相変らず、我が過失を見て内に自ら訟むる者の尠ない一事に思ひ到れば、道徳は二千五百年前より今日に至るまで毫も進化の痕が無いやうに思はれる。
又孔夫子が切に説かれた先王の道なるものは、尭舜、禹湯、文武の諸帝が実践躬行せられた道に拠られたものであるが、孔夫子は尭帝を去ること少くも二千五百年後周の武王からですら少くも三百年後の人である。而して尭帝の時代から二千五百年後の孔夫子の時代にも、道に二つはなく、依然として先王の道が人の履むべき道で、それが又孔夫子より二千五百年を去る今日に於ても、猶ほ人の履べき道だとしたなら、道徳には進化といふものがないと断定し得られぬでも無い。此処が疑問だ。
 大体から謂へば道徳にも進化があつて、時代と共に進歩すべきである、と私は今まで思ひ来たのであるが、翻つて少し皮肉な観察を下せ
 - 第44巻 p.93 -ページ画像 
ば、道徳は進化したところか、寧ろ却つて退化した傾向がある。殊にこれが国際道徳に於て甚しいかの如くに見受けられる、斯く道徳が退化して進むべきであるのに、物質文明のみが長足の進歩を遂げ、精神文明の進歩が之に伴はなかつたので、恰も天秤の一方の皿に重量を加ふれば、他の一方の皿が急に軽くなるが如くに、精神文明の進歩に逆比例して退化したものであるやも知れぬ。孰れにしても今日国際間に殆ど道徳がないといつても過言ではないほどで、其の結果欧洲戦争の如き、人類の大不祥事をすら惹き起すに至つたのである。故に之を今日に比すれば三千年前の支那大陸には、却つて国際道徳が遵守されて居つたと謂はねばならぬ。
 又一国として万世一系の天皇を奉戴する我日本帝国の国民は例外であるが、支那に於ても露西亜に於ても、墨西哥に於ても、又欧洲の葡萄牙などに於ても、主権の争奪に関しては随分見苦しい圧迫やら戦争やらが行はれて居る、この点に於て舜が尭より帝位の禅を受けた時の状態などは実に立派なものである。学者のうちには舜は道を以つて帝位の禅を尭より受けたものでなく、尭を圧迫して尭の子たる丹朱を排斥して押込め、尭をして無理に帝位を舜に譲らしめたものであるなどと論ずるものも無いでは無いが、帝位の受授は、尭舜の間に、至極円満に行はれたもので、尭は舜の偉大崇高なる人格を見込み、自ら進んで位を舜に禅つたものと思はれる、決して舜が尭を圧迫して位を禅らせたものではない。
 然るに尭より五千年後の今日は、寧ろ却つて斯の種の道徳が退歩して居つて、一国の主権を奪ふとする不逞の臣が現はれたり、或は無理に戦争を仕掛けて現に位ある者を倒し、自から之に代らうなどとしたりする、其の傍若無人、道徳を無視する処置は聞いただけでも心持が悪くなる。之を思へば五千年以来道徳は毫も進歩して居らぬのみか、却つて退歩の痕があると謂つても差支ないのである。嗚呼道徳は古来果して進化したゞらうか、将た退化したのだらうか、人と人との間の道徳は如何に進歩したからとて、国と国との道徳が之に準じて進歩して居なければ、個人道徳も為に其の影響を蒙り阻害せらるゝことになる。手近な一例を挙げて見ても個人道徳の上では泥棒をすることや、婦女子を辱しめたりする事は、悪い行為だとなつて居るが、国際道徳の進歩して居らぬ結果、愈々開戦の段取となり、国と国とが干戈の間に相見える場合にでもなれば、独逸軍が白耳義を侵略占領してからの実例に照しても明かなる如く、掠奪やら婦女子を辱しめる事やらが勝手次第になつてしまつた。個人としても泥棒を働く事や、猥褻な行為を営む事が何でもないかの如くに視られ、折角今日まで進歩した個人道徳までが、根本的に破壊せられてしまひ、智慮の乏しい人たちは泥棒だとか婦女子を辱めるとかいふ事は、果して人間として恥づべき行為であらうか何うかとの疑を懐くやうにならぬでもない。こんな風に個人の道徳観念が動揺するやうでは、何時まで経つても個人の道徳を進めて行く事すら絶望であると謂はねばならぬ。
 実は私も戦争が始まる前までは欧洲の文明は段々と進歩して来る模様であるから、国際間に道徳が確守されて国際道徳が向上するやうに
 - 第44巻 p.94 -ページ画像 
なるだらうと思つて居たが、再昨年以来世の中が全然転覆り返つてしまつて、欧洲の天地が又もや大昔の野蛮時代と同様になり、国と国とが干戈を以つて相見ゆるやうになつたのである。私の意見を申せば一体武装的平和と申すことが宜しくない。武装によつて平和を維持して行かうといふのは、国家の警察権がまだ十分行はれ得なかつた時代に単身ブラリと外出すれば、いつ其身に危害を加へられるやも知れぬからとて、外出するとすれば必ず弓矢鉄砲などを用意した護衛兵を伴れて歩いたり、又自分の家の周囲には厳重なる城廓を築いて盗賊に備へいつでも彼等の襲来あれば発砲の出来るやうに、城壁に狙い穴を穿けて鉄砲を据え付けて置いたりなぞして、生命財産の安固を計つたのと毫も異なる処がないのであるから、従つて武装的平和は全く野蛮時代の遺習であると申しても差支はない、併し斯く武装せずとも、国際道徳が進歩さへすれば、其処に世界の平和を維持して行ける道があるだらうと思はれるのである。孔夫子や孟子が切に説かれた王道、即ち王者の道といふものは、今日で申す国際道徳の事であるから、昔の時代には今日よりも却つて支那などにさへ、王道即ち国際道徳が行はれて居つたもので、一国が武力によつて他の国を圧迫して、之を併呑するやうな事は滅多になかつたものである。斉にしても魯にしても決して他を圧迫したものではない。一国が生産殖利の道を講じ、その結果其の国が繁栄し、旭日昇天の勢を示すものあるに対し、他の国が生産殖利の道を講ぜぬ為に、衰亡して倒れたのを収めるのは悪い事ではないが、生産殖利によつて武力を拡張し之によつて他国を併呑するのは、これ国際道徳を無視した野蛮の行為である。
  ○竜門雑誌第三五三号(大正六年十月)ニハ「新天地」(大正六年七月)所載ノモノトシテ同文談話ヲ収載ス。



〔参考〕竜門雑誌 第三七一号・第三〇―三三頁 大正八年四月 ○所謂人道は無限の神 青淵先生(DK440034k-0006)
第44巻 p.94-96 ページ画像

竜門雑誌  第三七一号・第三〇―三三頁 大正八年四月
    ○所謂人道は無限の神
                     青淵先生
  本篇は、雑誌「皇道」に、其協賛会員たる青淵先生の談話として掲載せるものなり。(編者識)
△階級の存続 世の中は時々刻々に、変遷して行つてその止むところを知らざると同時に、何時か子供は壮年となり、壮年は老人となると云ふ風に、この変化は天地自然の理として、動かすべからざる現象である。されば人間界の歴史が日一日と廻転しつゝある間は、壮者は必ずしも老人に使はるゝとは限らぬので、或場合には――否な寧ろ壮者が老人を使用する方も多いのであるから、ソコに人を使ふ者と、人に使はるゝ者との相違を生ずるのも止むを得ない、従つて其の両者の関係は、君臣主従といふやうなものであつて、近頃の言葉でいへば、傭者・被傭者となるが、或一派の説によれば、使ふ者も使はるゝ者も人間平等にして、無階級といふが如きものとなつて来たのである。従つて主従の関係も昔のそれよりは薄らいで来て頼んだ人、頼まれた人といふ位の間柄としか見えないやうになつて来たが、併しながら今後如何に世の中が進歩したからといつて、この両者の関係が全然無階級に
 - 第44巻 p.95 -ページ画像 
なるといふことは夢想だも及ばぬ理屈で、精神上は兎も角、物質上に於て、既に不平等の階級が作られつゝあることは自然の理で、これを打破することは到底出来ない。況んや精神上に於て、各人が常に異なつた考へを有するのみでも、不平等なることは明かなる事実である。
△人を使ふの道 玆に於て会社とか工場とかいふものには上役・下役あり、又家庭に於ては主従の関係が何れも使はるゝ人、使ふ人との間に差異が生じて来るのであるから、欧米の風習はどうあらうとも、我国の国情としては、苟も長たるべき者、或は一家の主たる者は、その家族・従僕の別なく、善良なる愛情、教育習慣を以てこれを導かねばならぬことゝ思ふ。即ち傭者が被傭者に対するには、広く愛し、能く恕するといふことに帰着するのではあるまいか、併し如何に愛情が主となるとは言ふものゝ、一家庭でも十人の人を使ふ家もあれば、数十人の多人数を使ふ家もあるから、単に愛情にのみ一任して置く訳にはゆかない。されば是等多人数を使ふ上には、そこに何等かの制裁がなくてはならぬ。例へば、それぞれの係りの部署を定める。会計係り用度係り、応接係り、或は物を看守させる者、勝手元の物品を取扱ふ者と云ふ風に、詰り仕事の上に各々愛情を持つて成る可く、その人を永く勤続させるやうに仕向けることが、恐らく主人として尤も心掛くべき事柄である、然るに人に依つては最初の内は何くれとなく、親切らしく使つて居るが、その使用人に対して、出て行けがしに取扱ふ抔も時々見受ける、成程是等は考へやうに依つては大変結構のやうにも思はれるが、しかし永遠の利害を考へたならば決して利益のあるものではない。矢張り愛情を主として同一人を永久に使ふと云ふことは、道理に協つて居る仕方ばかりでなく、実際の経験から割出しても余り新しき者のみを取扱へて使用すると云ふ事は、両方とも大損害を被る基で、これは大に慎まねばならぬ事柄である。
△主たる者は義務と協力一致の必要 併しそこに又一得一失はある、それは人間は老境に入れば智力も体力も衰弱するものだから、先輩は幾分かづゝ後輩に劣るやうになる。即ち社会の現象としては、所謂児が親に増して総てが発達して居ると同様、後輩が先輩を凌駕する現在今日の時代であるから、比較的に後輩が事物を知ることの方が広くして、且つ詳密なる訳である。然るに先輩は今日の如き隆盛なる時代に生れ合せなかつたのであるから、どうしても両者相伴はざる場合が多い、さりとて思想上に於ては、先輩が或は後輩よりも劣つて居る点がないとも限らぬが、これが主従の関係となつては年齢上に於ては先輩後輩の区別こそあれ、使はれる者は矢張り何処まで行つても使はれる者であるから、その主たる者がよしや後輩であらうとも従順であらねばならぬ、従つて使ふ者も又一つの主義を以て成る可く忠実なもの、才智は劣つて居ても、誠意のある者、又性質朴訥でも実行に愆りなき者を選ぶと云ふ風にせねばならぬ。況して人間には欠点のないものは尠ないので、智ある者は忠実に欠けるとか、誠意あるものは才智に乏しいとか、兎角一方に偏するものである、これを甘く調和させてゆくのが主人たる者の取るべき手段である、況んや使はるゝ者とは言ひながら、是等は微々たりと雖もその家の柱石となつて居るとも言へるの
 - 第44巻 p.96 -ページ画像 
であるから、若し使用人が小供の時代から傭つた者とか、或は妙齢の婦女子であるとか言へば、相当の口を求めて婚礼をさせてやると云ふ風にそれぞれの生活をして、相応に気をつけてやるのは主たるものゝ義務であつて、又斯くお互に愛情が通じ、協力一致する時は自然靄然たる空気の生ずるのは当然の事である。
△使はるゝ者の常道は如何 次は使はれる人として如何なる心掛を持つべきかと云ふにこれを十分に説明するは困難である。けれども孝悌忠信を守るは人間の常道であるから此道に違反せぬやうにしなくてはなるまい。彼の水戸義公が教訓された中に『主と親とは無理なものと知れ』と云ふ一句があつたが、これとても主人と親とは無理なことを為ても構はぬと云ふのではなく、人に仕へる者は此位極端な処まで考へを持つて居れと云ふことを教へたのである。されば他人に使はれるものが若しそれ丈けにあきらめを付けて居たら、必ず使用人としては完全に近い者たることを失はぬであらう。併し人に使はれるには必ず忠実勤勉を主眼として掛らねばならぬ事を忘れてはならぬ。殊に唯被傭者と謂へばそれまでゝあるが、これを区別すれば老人あり青年あり男もあれば女もあると云ふ風で、一々それ等に就て細説することは出来難いが、凡そ人に使はれる側の人は、主人をして成るべく永く使ひ度いと思はせる様に仕向けるのが何より大切で、主人側では又傭人をして成る可く長く使つて遣り度いと云ふやうに仕向けねばならぬ。
△人道を措いて他に方法は無い 要するに玆に先輩・後輩と云ふのは凡ての方面の国家の重きに任ずる者を指して云ふのであるから、能くこれ等の意義を了解し、国家の消長は一に吾人の双肩にあることを忘れず、先輩も後輩も共にその責任を重んじて貰ひたい。而して後輩を指導誘掖し、先輩に勝るの人となりその後を継ぐやうに仕度い、かくして漸次に後輩が先輩より勝り行くならば、国家社会は自づから隆盛富饒なることを得るに至るであらうと思ふ。玆に於て余は一言する、吾人は尠くとも一の主義方針の下に立つて所謂人道と云ふ無限の神の前に主従常に相誘掖して行くことを失はず、苟も長幼の序を保ち篤敬忠信能くその職に勤勉してこそ、始めて円満平和に行く事が出来る。然るに先輩・後輩の間に相譲り相誘ふことなく、却つて相憎み相斥け一は相導くことをせず、一は従ふ心がなかつたならば、先輩・後輩は全くその意義を失ひ、価値を減ずることゝなるので、此両者を円満にするは人道を措いて他に其道が無いのである。



〔参考〕中外商業新報 第一一八四六号 大正八年三月一九日 皇道会の組織成る(DK440034k-0007)
第44巻 p.96-97 ページ画像

中外商業新報  第一一八四六号 大正八年三月一九日
    ○皇道会の組織成る
会長に正親町侍従長を載き、会計監督を早川千吉郎氏とする皇道会は国家の現状に鑑み、社会政策的施設として労働者慰安善導の為めに国民劇団を組織するに決し、十八日夜華族会館に於て之を披露した、同会は旧式の国家主義を主張するものでなく、所謂君民和治の我国体の大本に基いて我時代思想を善導せんとするもので、君主権を制限せんとする外来の民主々義を排するも、我国体の真意に従つて民本主義を包含する皇道眼より、紛糾錯雑せる現代の思想界を導かんとするもの
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で此の別動隊として組織される国民劇団は、皇道会の趣旨を庶民の間に徹底せしむる為め、忠臣楠公又は名和長年等の誠忠を劇に仕組み、先づ東京に於て労働者に観覧せしめ、資力を得ば漸次地方に巡回公演を開始する方針であると



〔参考〕集会日時通知表 大正八年(DK440034k-0008)
第44巻 p.97 ページ画像

集会日時通知表  大正八年        (渋沢子爵家所蔵)
廿六日○十月 日 午前十時 皇道少年団員来邸(飛鳥山邸)



〔参考〕集会日時通知表 大正九年(DK440034k-0009)
第44巻 p.97 ページ画像

集会日時通知表  大正九年        (渋沢子爵家所蔵)
廿三日○九月 木 午後六時 皇道会ノ件(華族会館)