デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
5節 修養団体
8款 其他 8. 大宮町青年団
■綱文

第44巻 p.123-127(DK440044k) ページ画像

大正11年7月9日(1922年)

是日栄一、埼玉県大宮町大宮遊園地ホテルニ於テ
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開カレタル、同町青年団主催ノ時事講演会ニ出席シテ演説ヲナス。


■資料

集会日時通知表 大正一一年(DK440044k-0001)
第44巻 p.124 ページ画像

集会日時通知表  大正一一年       (渋沢子爵家所蔵)
七月九日 日 午後二時 埼玉県大宮町へ御出向


竜門雑誌 第四一〇号・第五五頁 大正一一年七月 ○青淵先生の大宮行(DK440044k-0002)
第44巻 p.124 ページ画像

竜門雑誌  第四一〇号・第五五頁 大正一一年七月
○青淵先生の大宮行 青淵先生には埼玉県大宮町青年団の請に応じ、同団主催の時事講演会に出席の為め、渡辺得男君を随へ、七月九日午後一時曖依村荘を出発、自動車にて大宮公園内大宮遊園地ホテル内会場に赴かれ、約一時間半に亘たり、先生の閲歴の概要及内外時事に関し有益なる講演の後、同町長小口氏の経営にかかる製糸工場を参観せられ、午後八時帰邸せられたりと云ふ。


埼玉県人会会報 第四号・第二三―二七頁 大正一一年一二月 天保十一年に生れてから(大正十一年七月九日大宮遊園地ホテルに於て青年有志に対する講演) 子爵渋沢栄一(DK440044k-0003)
第44巻 p.124-127 ページ画像

埼玉県人会会報  第四号・第二三―二七頁 大正一一年一二月
    ○天保十一年に生れてから
         (大正十一年七月九日大宮遊園地ホテルに於て青年有志に対する講演)
                   子爵 渋沢栄一
 廿五歳の時西郷南洲に遇ふ 只今本日の司会者たる加藤氏より自分の事に関し誇大なる御紹介を受けましたが、却て恥入る次第で御在います、前弁士中野代議士より世界の大勢に就て説かれ、青年の之に対する注意を詳細に御話になりましたが、其中に西郷南洲に就ての例を引て御話になりましたから、私も一寸南洲のことに就て申度いと思ひます、実に南洲に就ては今昔の感に堪へないのであります、私は先刻加藤氏から申された通り、天保十一年に生れましたが、始めて南洲に遇つたのは京都で、二十五歳の時でありました、其時非凡な人物であることを深く感じました、南洲は当時薩摩の志士として入京せられ、私は一橋家に仕へて居た時ですが、西郷も其頃は見識が未だ低く、幕府の改革を行はねばならぬ、其に就ては宛も秀吉が大権を握りし当時彼の前田・浮田・徳川とか五大老を置きし如く、幕府に五大老を置き政治の枢機に参与せしめんと考て居りました、其後幕府の状態を考ふると共に、到底此儘では駄目である、幕府を倒さねばならぬと考へたものであります、兎に角中野先生の云ふ通り卓見を持つて居りました其他私の南洲に就て特に感知することは、私が大蔵省に居た時、確か明治四年四月十三日と思ひます、廃藩置県に由て始めて封建制度が打破されました、其時騒動の起らざりしは実に奇蹟と云ふべきでありましたが、其と云ふのも、皇室に対する国民の忠誠心の厚きは元よりと又一面には、将軍慶喜公の所謂身を殺して仁をなすと云ふことが、乱を起さなかつたと思ひます、実は此際南洲も非常に心配せられたもので、私は当時大蔵権大内史《(マヽ)》として、木戸さんに仕へて居りましたが、其頃日本の法律制度所謂憲法論が出ました、其時西郷は其を作る前に是非一戦争やらねばならぬと云ひましたから、彼は何をボケたことを云ふと思て居ましたが、西郷の考では必竟廃藩置県をやれば必ず乱が起る、乱が無ければ改革は出来ぬと云ふ意味で云ふたのが判らず、ボ
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ケたことを云ふと思たが、却て其ふ思ふた人がボケて居た様な訳でありました。
 其後私が大蔵省に居た時、井上馨さんは大蔵大輔でありました、従て省内一切の事を司られ、種々なる改造をされましたが、其は真の改造で、根本から造り代へたのであります、然るに今日何事にも改造改造など乱用されるのは、少々片腹痛い感じが致します、其当時を思ひ今日迄進歩して来た時の事を考へますと、其の間苦労辛苦如何ばかりで有つたか判らぬ位であります。
 一橋家の三一士となる 遡て幕末嘉永・安政の頃、外国人が盛に日本に来て、実に専横な振舞をするのを見ては黙て居られません、而して之に対し徳川幕府の処置が、誠に意気地が無い、此儘で行けば、日本は外国の属国同様になるのは定つて居る、此は棄てゝ置かれぬと云ふので、何でも攘夷を実行するより外はないと、盲目的愛国心に駆られ、京都に出たのが私の二十四歳の時でした、一橋家の家来に知る人あるを幸に手蔓を求めて奉公しましたが、今から見れば三一士《サンピン》になつたので、所謂節を屈し仕を求めた訳でありますが、先きからは困つたから仕へたと思つたかも知れません。
 ナポレオン三世の豪語を聞く 其後将軍相続問題となり、偉人を要すると云ふ時、一橋慶喜公が挙げらるゝと云ふ話になりました、其時私は反対しましたが、用ひられず遂に将軍になられました、然るに僅かにして幕府は瓦解して私は宛も泥海に溺れた様なことになりました然し一橋家に仕へてから稍世界の形勢も判り、攘夷論は到底駄目であると思ひました、間も無く仏国に万国大博覧会が開かれました、当時外国奉行、今の外務省に向て仏国より通知があつて、是非日本も参加して貰ひ度い、日本からも出品して欲しいと云ふので賛成しました、従て日本からも委員を派遣参列する様にとの注意の序に、将来有望な者にて将軍家に縁故ある方が留学されたら善からふと云ふて来ましたそこで私は会計兼書記と云ふ格で、御供の一員に列し仏国に行くことになりましたが、其時は二十八歳の時でした、今から見れば五十五年前のことで、今日と比較すれば其変化の大なる只夢かウツツかと思ふ計りであります、先づ其時の服装を申せば、チヨンマゲに日本服、大小を腰にし、陣笠・陣羽織と云ふスタイルは、彼の国には男か女か一寸見分けが付かなかつたらふと思ひます、扨て博覧会の時ナポレオン三世が臨場して演説をされましたが、実に雄大と云ふべきか誇張と云ふべきか、私は非常に刺戟されて、今でも記憶して居ります、其大要は「世界の文化を進むるには、各国の自然物・製造工業品、若くは美術品を一場に集め陳列し、無形的思想の向上を計るに若かず、而して陳列の方法にも大小精疎種々考案を廻らす、之を見て感想を起さざるは人間に非ず」と云ふ意味にて、随分甚いことを云ふと思ひました、それから私共が巴里の市中を歩きますと、貴方は支那人かと云ひますから、ノーノーと云ふと、然らば、何処かと云ひますから、日本人だと云へば、其は支那の属国だらうと云はれました時は、何とも云へない厭な気持がしました。
 仏独交互の変化 斯の如く世界の中心たる巴里に於て、位置の存在
 - 第44巻 p.126 -ページ画像 
さへ認められなかつた日本も、昨年北米の華府会議に出ました時は、日本も非常に地位が進み、仏国に受けたる待遇とは天地の相違にて、所謂人間並の扱を受けた様な有様でありました、而して会議は諸君も已に御承知の通り英・米・日・仏とか英・米・日とか四国若くは三国にて協約せられ、日本の地位は著しく高まりました、其処で以前の事を考へますと、博覧会に於て誇張なる演説をやつた仏国は間もなく独逸に撃破せられて散々の体となり、独逸は其後世界に覇をなしたが、其独逸が又仏国其他の国に破られ非惨な状態に陥て居ると思へば、欧洲の世界は実に栄枯盛衰の甚だしきことを考へずには居られません、従て昨年華府会議に列席した日本も、此先き如何なることが来るかと思へば、実に感慨無量に堪へないのであります、何となれば一時盛なりし独逸が現下の状態であるのみならず、其他西班牙と云ひ、墺他利と云ひ皆著しき変化を受けて居るのであります、此を思ひ彼を思ふ時我埼玉県人は同郷の関係上互に相警戒して、一致共同邦国の為め尽瘁しなければなるまいと思ひます。
 大隈侯の識見に伏す 話は再び後に戻りますが、自分は始めて欧洲の様子を見た時、甚だしく我が国の貧弱なることを感じまして、是非共国を富まさなければならぬと思ひました、此と同時に欧洲人は仁義道徳の如何を解せざる国民であるが、文化は確に進歩して居ると思ひました、そこで富を致す方法は如何にして宜きか、日本をも是非欧洲と相伍する様にして見たいと云ふ一念が強く、帰朝の後徳川幕府が倒れ、王政維新となりたれば、政治界を離れ専ら国を富まさんと思ひまた、然し元来が学問無き私ですから名案も出ず、暫時駿府に居る中、会々政府に召出され、大蔵省に仕へることになりました、其時伊藤・大隈諸氏に仕へましたが、私は大蔵省の事務に就て知りませんから、辞職して商工業に従事したいと申しますると、其時大隈さんの云ふのには、商工業に従事するも結構であるが、目下政府は財政の基礎を立てねばならぬ非常な場合である、而して大蔵省の事は御同様誰も知らないのであるから、互に相談してやらねばならぬ、従て財政の途を立てる迄尽力して呉れと云はれました、至極尤だと敬服して暫時勤める事に致しました、扨て大蔵省にありては総て創業で、公債発行のことから銀行条例などゝ云ふ細きことを作りしは、自分の力と云ふも過言では無いと思ひます。
 銀行業に従事す 明治六年井上氏が辞すると共に、私も辞職して第一銀行に入り、始めて株式会社の組織のことを主張しました。
 従来日本の商業は小資本にて個々別々に分れ居るを、合本主義に由り、資本を合同して金融機関とするに若かずと思ひ、之に全力を注ぎました、又工業は内職的にして何れも小規模なるを以て、此も資本を合同して、大規模の会社を組織し工場を設けねばならぬと思ひ、之を主張しました、然し当時政治上には盛に議論する人も、商工業に至ては一般の智識が低下し居る際とて、其諒解を求むるために非常な困難を感じました、何となれば元来金融と云ふことは、貨幣制度の確立、為替規則、運送業、鉄道、港湾、電信等皆関係して居りますから、此等の完成をも企図せねばならず、且一般の人が富の必要を感じなけれ
 - 第44巻 p.127 -ページ画像 
ばならぬのであります、此にも相当苦労もしましたが、追々と商業的人物が出てゝ、三井とか岩崎とか大資本の合同が出来、種々なる会社も成立し、日本の富も著しく進歩したことを認めました。
 経済と道徳の一致を謀る 然し玆に又注意しなければならぬことは富の発達と人心とは如何と云ふに、利を得るためには不道徳を顧みずと云ふ様な処から、種々なる弊害を見るに至りました、先刻中野代議士から孔子・孟子に就て話がありましたが、財政の本を立つるには、孔子も先づ兵を止めよ、職を止めよと云はれました、彼の陳蔡の厄に顔回も安如たりでした、利と義とは明に区別せねばなりません、此は私も孟子と同意見であります、今日は只単に利にのみ走て居ります、義を忘るゝことは誠に憂ふべきことであります、私は始めから富豪に成らうとは思ひません、只道徳と経済の一致を計り度いと考へました其に就き三島中洲は第一の支那学者でありますから、其人と提携し、其学説を本とし、道徳と経済の合一を計りました、然るに此事は、日本のみならず北米にもあります、始め米国は只拝金宗にて利に長じた国とのみ思ひましたが、一面には道徳と経済との合致を考へて居る人のあるのを認めました、其は有名なカーネギーであります、其人の経済説を得まして翻訳されましたから、拙者が序文を作り、此度公にしました、今此処に二、三部持参しましたから御閲覧下さい、氏の意見が明に認められます、氏は約二十億の財産中三千万円丈妻君に隠居料として残したる外、各方面に寄附せられましたが、其は自分の家の前に学校を建てさせ自慢顔をするとは大に異り、和蘭の平和殿とか或は博物館とか図書館とか学術研究所とかに寄附して、第二のカーネギーを作らんとして居ります、其他北米には世界的に放資せんとの感念を有する人が少くありません、日本に此等の人が幾人有りませうか、而して今日我が国の経済界の状態を見ますれば、先刻中野代議士の述べられた通り、誠に痛心に堪へ難き次第で、一方には生活状態は日に日に贅沢に進み、製造能率は下ると云ふ有様で、元より生活の向上は誰も望む処なれども、生活のみ進みて製造の能率が進まなかつたら、破産状態に陥るより外はありますまい。
 欧洲戦争は生活上に急激なる生活の進歩を来し中にも婦人労働者には不相応なる生活の進歩を来しましたが、反対に能率は減少しました殊に我が国に置きましては驚くべき減退で、其が引いては輸出入の不平均となり、誠に寒心に堪へないのであります、其処で道徳上と経済上との一致を謀り、人心を不安の内より救はねばなりません、此に就ては大宮は元よりなるも単に大宮の問題にあらずして、実に天下の大問題でありますから、政治家も学者も実業家も互に意見を発表し相交換して居ります、依て特に同県同郷の人々は、之に対する方法を講究するの必要なることを警告する次第であります。
  ○右ニ廃藩置県ヲ明治四年四月十三日トアレドモ、ソノ布告アリシハ明治四年七月十四日ナリ。本資料第三巻同日ノ条参照。
  ○西郷ノ廃藩置県ニ際シテノ発言ニツイテハ、本資料第三巻明治四年七月三日ノ条参照。