デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
1節 実業教育
1款 東京高等商業学校 付 社団法人如水会
■綱文

第44巻 p.142-144(DK440053k) ページ画像

明治44年4月25日(1911年)

是日、当校同窓会春季総会ノ開催ヲ機トシ、新旧校長送迎会ヲ上野精養軒ニ開ク。栄一出席シテ演説ヲナス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四四年(DK440053k-0001)
第44巻 p.142 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四四年        (渋沢子爵家所蔵)
四月二十五日 雨 軽暖
○上略 六時上野精養軒ニ抵リ、高商学校同窓会ニテ開催スル新旧校長送迎会ニ出席シ、食卓上一場ノ演説ヲ為ス、夜十時過王子ニ帰宿ス


東京高等商業学校同窓会会誌 第七六号・第四―一三頁 明治四四年六月 母校新旧校長送迎会記事;渋沢男爵演説(DK440053k-0002)
第44巻 p.142-144 ページ画像

東京高等商業学校同窓会会誌  第七六号・第四―一三頁 明治四四年六月
    ○母校新旧校長送迎会記事
予期の如く、前項春季総会の当日、同窓会に引続き同所に於て母校新旧校長送迎会の開催あり。
当日は主賓合せて、一百余名の出席者を見るに至り、実に近来の盛会なりしが、先づ其の出席者氏名を挙ぐれば如左。
○中略
      ○渋沢男爵演説
 同窓会の総会に咄嗟に百人以上の会員が集まらるると云ふ事は、畢竟本校の隆盛の証拠の一つであります。母校は故郷であつて、故郷は愛す可きものである。故に諸君の御集まりになりまするのは当然であります。私は諸君よりも本校に関係が深い。去る明治七年の講習所以来関係をしました、私は本校で学問した者でありませぬから故郷として本校を云ふ訳には行きませぬが、諸君の為めには現実の故郷である所の本校の四十二年の事件以来沢柳校長を迎へ、次で坪野君を得ましたのは諸君と共に喜ぶのであります。
 福田君が万力かけて私を責め、沢柳君が「渋沢が居れば宜いぢやないか」と云はれ、其間に処して如何にせばよいかと困却しますが、兎に角私は将来を予言し断言する事は出来ませぬ。只是れまで苦心
 - 第44巻 p.143 -ページ画像 
せる顛末を述べ、諸君は後より其れを観察して頂きたい。学校問題の経過は諸君の知られる通りであるが、要するに私は功臣たらずして忠臣たる事しか出来ませぬ。李徴(?)の反対であります。
 福田君の御説に対しては先年の洋行前菊地大臣に面会をして、一橋の校長問題は、人の問題にあらずして事の問題であると云ふ風に申して置きました。且つ福田・関・佐野三君は之に付きまして非常に心配して居ると伝へて置きました。帰朝後此事に付きても苦心をしましたが、其後種々の変遷を経て一昨年丁度松崎氏が去らねばならぬ様になりまして専攻部廃止の問題が起り、同時に真野氏が校長事務取扱となられた当時自ら意見を提示しました事もありました。其は五月の八・九日頃だつたと覚えて居ります。然しながら要領を得ませんで十四日に房州へ要用で行く事になりまして、其間に学生の総退学が起りました。丁度其時に、全国の商業会議所連合会の為めに東京に来て居りました方々が心配して、私を呼び寄せましたが、十六日に電報を受取りまして、十八日に漸く帰りまして、中野・大橋二氏と会して話を聞きまして、総退学の挙に付て承りました。そこで先づ復校を勧むる事に意見が一致しましたが、私は其局に当る事を否みました。と申しまするのは復校はさせましたものの其後が如何なるかが心配になつた為めであります。所が渋沢が出ぬとだめだと云ふ事で、一方文部省の方では二十三日迄復校せぬと断然処分をすると云ふもんですから、将来の事を論ずるのを跡回はしとしまして兎に角復校せよと云ふ事になり、六会議所、父兄保証人会より選出の委員から頼まれまして、只帰れと云ふ事を伝へんが為めに学生に会見を求め、同窓会の二・三の人の尽力で以て、中野武営・島田三郎二氏と私とで説き付けて復校せしめました。此事は私が学校に関係致しまして初めて有効に働きましたのであります。兎に角専攻部問題は結局六年と云ふ事で一段落が付きましたものの、一方では解決されたと云ふし、又一方では未だ解決しないと云つてをる次第であります。
 其後私は渡米致しまして亜米利加に於ける商業教育の大体に注意し費府では別して調べました。神田男爵には特に斯道の観察を勧めて置きました。帰朝後沢柳君が校長となつて居られましたで、私の意見を提出して置きました。就中商議員の制度がほんの形式であるから其振興之必要を切言しました。それは昨年の正月でありました。四十二年の大事件は問はずとしても、文部の当局者と学校の当局者と行違ひがあつては駄目だ、何時迄も此不確定な状態に置くは宜しくない、亜米利加ではかうである、商議員を利用しなさい、其れならば私も其一員として尽力を致しませう、と申して置きました。其後沢柳君は此事を心配して呉れられた様でありましたが、事実に現はれませんでしたから、昨年の十二月二十八日に利用せぬ商議員なら私は辞したいと云ふ旨を書面で伝へて置きました。其れは今迄辞職しなかつたのは只出来る丈の尽力をして見たいと思ひましたからでありますが、終に利用せぬ事が明かになりましたから辞職をしたのであります。所が沢柳君其他の方々から其制度の必要を認められ
 - 第44巻 p.144 -ページ画像 
まして、之れを増員するか如何かと云た事に付ましていろんな考も出ました様でしたが、一ケ月許前に内定した様であります、此事は何れ近く発表さるる事と思ひます。私は此機関の活動を望んで居ります。
 之れは学校問題の現状でありまするが、其将来に付きましては、新たに出来ます所の商議員会に、大臣が諮られて其によつて定まる事でありませうが、昨年は不活動でありましたが、今年は是非活動をして見たいと私は思ふて居ります。然し私は学校当局者でもありませぬから直接の材料を持つて居りませぬ。沢柳氏は其材料を御持になりませうが、此序でに伺ふ事を好みませぬ。坪野新校長も御考を御持の事と思ひますが、母校は諸君御銘々の故郷の事でありますから、第一に諸君自から御心配にならなければならぬ事と思ひます。
                          (拍手)
以上を以て終を告げ、其れより更に別室に移り、主客胸襟を開きて十二分の懇談を遂げ、全く散会を告げしは十時半頃なりき。
  ○右同窓会春季総会ハ明治四十四年四月二十五日上野精養軒ニ於テ催サレタルモノナリ。
   新旧校長トハ同年二月校長事務取扱ヲ免ゼラレタル沢柳政太郎及ビ新ニ校長ニ任ゼラレタル坪野平太郎ヲイフ。


竜門雑誌 第二七六号・第六三頁 明治四四年五月 ○東京高等商業学校新旧校長迎送会(DK440053k-0003)
第44巻 p.144 ページ画像

竜門雑誌  第二七六号・第六三頁 明治四四年五月
○東京高等商業学校新旧校長迎送会 青淵先生の商議員たる東京高等商業学校の校長沢柳政太郎氏は東北大学総長に転任せられ、新に坪野平太郎氏其後任として就職せられたるを以て、同校同窓会は過日上野精養軒に於て新旧校長の迎送会を催されたるが、青淵先生にも臨席の上一場の演説を試みられたり。