デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
1節 実業教育
1款 東京高等商業学校 付 社団法人如水会
■綱文

第44巻 p.150-155(DK440055k) ページ画像

明治45年4月27日(1912年)


 - 第44巻 p.151 -ページ画像 

是日当校同窓会、築地精養軒ニ於テ、春季総会ヲ開クヲ機トシ、当校専攻部復活問題ニ関シテ尽力セル三団体代表者、栄一・中野武営及ビ島田三郎並ニ当校新旧校長・新旧商議員ヲ招待シテ晩餐会ヲ開ク。栄一出席シテ演説ヲナス。


■資料

東京高等商業学校同窓会会誌 第八二号・第二―一一頁 明治四五年七月 春季総会と専攻部復活問題に関する晩餐会(DK440055k-0001)
第44巻 p.151-153 ページ画像

東京高等商業学校同窓会会誌  第八二号・第二―一一頁 明治四五年七月
    ○春季総会と専攻部復活問題に関する晩餐会
四月二十七日(土曜)午後正五時より、築地精養軒に於て春季総会を開き、尚引続き同総会後、同日正六時より同所に於て、母校専攻部復活問題に関し特に尽力せられたる三団体各代表者男爵渋沢栄一・中野武営・島田三郎の三氏、母校新旧商議委員一同及母校新旧校長沢柳政太郎・坪野平太郎の両氏を招待して晩餐の供応ありしが、要するに当日の会合は斯く重要なる二大会合を兼ねたる事とて、出席者の如きも主客合せて百八十名の多きに達し実に本会開闢以来空前の盛会なりき
○中略
主人側の挨拶は右にて終りを告げ、夫れより来賓渋沢男・沢柳東北帝大総長・島田三郎君・坪野母校長等の諸氏順次演説あり。今其の速記録を順記すれば則ち左の如し。
              男爵 渋沢栄一君演説
 満堂の諸君、今夕は高等商業学校御出身の方々の同窓会の大会が当春開かれる機会に於て、先年母校に混雑のあつたことが恢復したに就て、それに関係した者をば招いて此宴会を開き一言の挨拶をなさらうと云ふお企て、私も其関係者の一人として爰に陪席するの光栄を荷ひましたのでございます。お集まりの諸君には時々相会する機会がございますけれども、斯う二百人も会同の処ではどれがどなたか、ちよつと面くらひますが、能くお話して見ると、大抵アヽ左様であつたかと殆ど多数はお知合ひだらうと思ふのです。時々斯様な御会にはお招きを戴いて無遠慮な雑談も申上げ、又諸君の御説をも伺ふ間柄ですから、私はいつもの流儀に極遠慮のない我心に思ふだけのことを爰に陳述いたしたいと思ふのでございます。
 唯今此宴の主催者たる図師○民嘉君から三年前の本校に於ける出来事に就て関係した者の尽力は甚だ多大であるといふ御挨拶を得ました又水島君からも懇々の御言葉でございました。特に専攻部の御総代の方よりも御謝詞を得たのは、御同席の島田君若くは沢柳君等に於ては之を受けるだけの資格はあるだらうと思ひますけれども、渋沢は少しく此御礼を受けるのに躊躇するので、寧ろ功を以て罪を滅すると言うて宜い位なもの、若くはまだ少々差引残があつて、負債の利息を弁償せねばならぬかと思ふのであります。それはどう云ふ訳だと云ふと、諸君が皆御希望であつた殆ど十年ばかり前から本校の資格を挙げたいと云ふ事柄が……但しお集まりの諸君の中で極細く詮議して見たならば、其方法に於ては数説あつたらう、併し大体に於ては一致であつたやうに認めた。私は同窓会員ではございませぬ又学者でも、教育家でもないから、縁故から言ふたら甚だ薄いけれ
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ども、併しながら本校の今日まで盛大に進んで来る経歴に就ては深い関係を有つて居るからして、丁度同窓会の諸君の御希望と私の意見と一致して、此の高等商業学校をして今一歩高い程度の位置にしたいと云ふことを計画したのであります。其の事が三年前に発表したが、其発表し方が違つて、我々は上に昇りたいと思つたのが、却て反対に下にさげられたと云ふ形になつた。丁度本膳を食べようと思ふたらお茶漬まで取られたと其当時申しましたが、さう云ふことになつた。希望から出たことではあるが、其結果が反対であつたから、其点から言へば私共が四十二年の騒動の罪人の張本となるから罪渋沢にありと言はれても一言もないのである。蓋し其望み方の考案に未だ至らざる所あつたから起つたであらうと思ふ。果して然らば私ばかりが悪るかつたでもない。同窓会の諸君も多少御考の足らぬ所があつたかも知らぬ。何にせよ四十二年の騒動はさう云ふ事から起つたとして見れば、即ち其の罪を作つた者は私等である。若し今日の如く回復されぬなれば、借りた金を返し得られぬのであります。故に漸く債務の償却が出来たと思ふのであるから、手柄といふ御賞詞は私の頂戴する所でない。嘸ぞ御心配であつたらう、余計なことをして諸君に意外の御心配をさせた、と私の方から御挨拶を申さなければならぬのである。然るに隣席の沢柳君は其当時から……将来かくありたいと云ふことに付て一歩進んだお考を有つて呉れられたのである。時機至らずして我々の希望が完全に達して参りませぬけれども、併も専攻部をして短い年限の文字を取去られるやうにして下さつたのは、蓋し同君の御在職の際に御心配をして下さつた力多きにあると申して宜しい。
 又同じく隣席に居らつしやる島田君は当時の学生の父兄保証人の中からして……保証人の総代といふ資格で、此高等商業学校に就て仰つしやる理由もあらうし、又其弁舌も沢山にあつて、当時大にお力をお尽し下さつた。回想すれば明治四十二年六月廿一日であつた、私は島田君等と共に青年会館に於て其当時の学生諸君に会見して、どうぞ諸君は一時の客気に走らず心を冷静にして吾々の忠告を御聴き下され、今般の諸君の行動が乱世に於ける義民であるか又は太平の暴民であるかは第二に置いて、只此学校を大事にお思ひなさいと云ふことを島田君も共に訓誡した、島田君も懇々と御説得があつた為に、学生一同は我々の微衷を諒として都合好く平和の終局を得たが、島田君は前に申す通り私の如き罪を犯さないで功労だけあつたお方と申して宜いと思ふ。
 而して今日に至つたのは、是等の諸君のお勤労の多かつたことと深く感謝しますと同時に、現校長坪野君が此学校の為に深く前後の行掛りを御観察なすつて種々御高配下され、私は爾来屡々御意見を伺ひ愚説も申上げて御力を尽された。勿論御当職で左もあるべきことではあるが、其御心中に立入つて推察し上げると厚く御礼を申さねばならぬのであります。
 斯様にお骨折りの多い諸君が多数にございました為に、爰に一段落を告げ得たことは、此学校を深くお思ひなさる諸君と共に祝杯を挙
 - 第44巻 p.153 -ページ画像 
げる次第でございます。
 斯く申すと此学校の為めに大層喜ばしいやうであるけれども、私はそんなにまで喜びなさらぬで宜いだらうと思ひます。我物は我物である、申さば取られたものが元に戻つた、五分々々の話である、けれども今日では喜ばずには居られぬ、是は寔に一つの気特である。と云ふものは、甚だ奇異なもので、何でもイソツプの物語にある、人の息と云ふものは、温くもなる。或る場合には冷めたくもなるのである、丁度此高等商業学校でもそんな塩梅に先般は大変冷めたく今日は又暖かいが、暖かなときは好い心持と……先づ悦びます。お互に祝盃を挙げるやうに致しませう。併し余り満足とは申せぬだらう。私はまださうであると思ふのです。今も隣席の沢柳君の話に、近頃学校出身の者は実業ばかりに這入つて官吏になる人がない。少しは官吏になる考を有つが宜いと言はれた。昔日はこんな話は間違であつた、学問が足らぬ者は官吏となるべきものでないと言つて大変に嘆息した、実に変はれば変るもので驚く位である、それは沢柳君の御話が御尤で、高等商業学校出身の者は皆実業界に這つて官吏にはサツパリ這入る人がなくなつた。悪るくするとお役人の状態を知らぬ様になる、官民隔絶と云ふことになつたとも言はれる。然らば或る一部分は官吏になるも宜しいが、高等商業学校の学生は其資格が官吏となる為に大なる妨げがありはしないかと思ふのであります。併し資格を作る為めに学校の位置の高まるを望むといふ訳でないけれども、唯専攻部さへあれば高等商業学校万歳と云ふは、私は諸君の為に申上げたくないと思ふのです。是から先き更に此学校の為に是が最終の位置だと云ふことを、殊に学者も沢山に居らるゝから諸君と共に充分御講究ある様に希望いたして置きます。今日は先づイソツプの息の冷めたかつた者が温かになつただけを喜びて、其の祝辞に止めて置かうと思ふのであります。


竜門雑誌 第二八八号・第四七―四八頁 明治四五年五月 ○高商同窓会(DK440055k-0002)
第44巻 p.153-154 ページ画像

竜門雑誌  第二八八号・第四七―四八頁 明治四五年五月
○高商同窓会 東京高等商業学校に於ける去ぬる四十二年の紛擾に就ては世人の熟知する如く、当時青淵先生を首とし、商議委員・商業会議所聯合会及父兄保証人会等の尽力の結果、紛擾の焦点たりし専攻部は更に六箇年間存続せらるゝこととなり、是にて一時解決を告げたれ共、併し青淵先生を首め同校関係者の重なる方々は、千五百余名の生徒は既に復校し、専攻部存続の件も亦六箇年継続と確定したれ共、是決して永久的の解決法に非ず、今後東京高等商業学校の位地を永久的に明白に確定するに非ずば、他日再び紛擾を醸すの虞れなきを保せずとて、就中青淵先生には既往三箇年間引続き前内閣当局者は勿論、現内閣当局者に向つても切実に意見を披瀝して反省を求むる所あり、又一方に於ては商議員制度を改正する等一方ならず尽力せられたるより当局者に於ても其後大いに攻究する所ありし趣にて、其結果本年三月廿五日の文部省令と為りて、同校の専攻部は愈々永久存続と確定し、玆に全く解決を告ぐるに至れり、此に於て本件に最も深き関係を有する高等商業学校同窓会は四月廿七日を卜し、午後六時より築地精養軒
 - 第44巻 p.154 -ページ画像 
に於て総集会を開き、其席上へ本件に就て最も深く尽瘁せられたる青淵先生を首め中野武営・島田三郎・旧校長沢柳政太郎・現校長坪野平太郎諸氏を招待し鄭重の謝意を表したる由、当日の来会者は百五十余名にて近来稀なる盛会なりしと云ふ。


官報 第八六二九号 明治四五年三月二五日 省令(DK440055k-0003)
第44巻 p.154 ページ画像

官報  第八六二九号 明治四五年三月二五日
    省令
文部令第九号
東京高等商業学校ノ専攻部ニ関スル規定ヲ定ルコト左ノ如シ
  明治四十五年三月二十五日
                 文部大臣 長谷場純孝
  東京高等商業学校専攻部規程
東京高等商業学校ニ専攻部ヲ置ク、専攻部ノ修業年限ハ二箇年トス
   附則
明治四十二年文部省令第十四号ハ之ヲ廃止ス



〔参考〕(八十島親徳)日録 明治四三年(DK440055k-0004)
第44巻 p.154 ページ画像

(八十島親徳)日録  明治四三年     (八十島親義氏所蔵)
五月十四日 濛雨夕晴
○上略
今日男爵ヨリ御帰朝後高商校ノ為ニ尽力サレツツアル経過ニツキ御話アリ、即昨年ノ騒動ハ仮ニ専攻部ヲ六ケ年丈存続ト申スコトニテ一段落ヲ告ケタルモ、ソハ真ニ一ノ段落ニ不過、前途更ニ専攻部ヲ永久ニ存続スルカ、或ハ歩ヲ進メテ同校ヲ基礎トシテ立派ナル大学(分科ナリ単独ナリ何レニセヨ)トナスカ、結局ノ解決ノ必要ハ申迄モ無キ事ナルガ、何レニ致セ先以テ学校其物ノ盛衰興廃ヲ只時ノ文相等ノ意ニ任カスノ制度ヲ已メ、商議委員ノ制度ヲ改メテ十分ニ権力アルモノトナシ、民間及学者界ヨリ有力ナル人ヲ任命シテ、大臣ハ其決議ヲ重ジテ学校ノ重大事件ヲ処理スルヨウニ致度トノ意見ニシテ、沢柳校長ニ談シ、更ニ校長ヲ経テ小松原大臣ニモ其意ヲ伝ヘ、已ニ大ニ同意ト申ス処マデニ進ミ居レリトノ事ナリ、男爵ノカクドコマテモ継続的ニ学校ノ為ニ尽サルヽハ感泣ノ至也、六時帰ル、無別事
  ○中略。
九月十七日 少雨曇
朝兜町ヘ出勤、男爵ハ高商昨年事件善後ノ為商議員ノ嘱托ヲ増加シ、顔触揃ヒタル上ニテ専攻部存否ノ如キ学校将来ノ方針問題ノ如キモ決定スルヲ可トスヘシト、沢柳校長ニ当春来献策セラレシモ、爾来文相ガ迷惑ニ思フナルカ、沢柳氏ガ愚図々々スル為乎、兎モ角一向運フノ形見ヘザルニツキ、最早辞任ト決意ノ外無シトテ、今日特ニ関一及予ヲ招キ明言アリ、母校ノ為カヽル行ガヽリヲ生ゼシハ実ニ遺憾ニ不堪モ、此際致方ナキヲ如何セン○下略



〔参考〕(八十島親徳)日録 明治四四年(DK440055k-0005)
第44巻 p.154-155 ページ画像

(八十島親徳)日録  明治四四年     (八十島親義氏所蔵)
一月二十六日 晴
○上略
 - 第44巻 p.155 -ページ画像 
岡田文部次官今朝青淵先生ヲ訪ヒ、先生ノ献策ニカヽル高商商議委員会改造ノ件中々六ケ敷ニ付、寧其制ヲ廃シタク、但男爵ニハ絶縁サルル事ヲ痛ムニ付顧問ナドノ名ニテ関係継続ノ事ヲ請ハレシモ、男ハ不承知ノ旨及主張ノ趣旨ヲ繰返シ説明セラレ、次官・大臣ノ再考ヲ促カサレタリトイウ



〔参考〕(八十島親徳)日録 明治四五年(DK440055k-0006)
第44巻 p.155 ページ画像

(八十島親徳)日録  明治四五年    (八十島親義氏所蔵)
三月二十八日 晴
四十二年ノ騒動以来ノ懸案タリシ東京高商校専攻部存続ノ件、愈現校長坪野氏・渋沢男爵等ノ主張ト文部現当局(長谷場大臣・福原次官)ノ同情トニヨリ、愈両三日前ノ官報ニテ確定発表トナリシニツキ、四十二年ノ当時ヲ回想シ、予ハ同窓会幹事総代トシテ、今朝島田三郎氏及中野武営氏ヲ訪ヒ、謝意ヲ表ス○下略