デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
1節 実業教育
1款 東京高等商業学校 付 社団法人如水会
■綱文

第44巻 p.187-196(DK440061k) ページ画像

大正5年11月25日(1916年)

是日、当校同窓会、秋季総会ヲ機トシテ、帝国ホテルニ於テ、栄一ノ喜寿祝賀会ヲ催ス。栄一病気ノタメ出席スルコトヲ得ズ、三男武之助代理トシテ出席ス。


■資料

集会日時通知表 大正五年(DK440061k-0001)
第44巻 p.187 ページ画像

集会日時通知表  大正五年        (渋沢子爵家所蔵)
十一月廿五日 土 午後五時 高商同窓会ヨリ御案内(ホテル)


東京高等商業学校同窓会会誌 第一〇八号・第一―二頁 大正五年一二月 常議員九月例会記事(DK440061k-0002)
第44巻 p.187-188 ページ画像

東京高等商業学校同窓会会誌  第一〇八号・第一―二頁 大正五年一二月
    ○常議員九月例会記事
九月二十八日午後五時半より、丸之内中央亭に於て本会常議員例会を開催せり。
 出席者○氏名略ス
当日は本会秋期総会及渋沢男爵喜寿祝賀会開催外四件に就て評議を遂げしが、其の決議の要領と共に其の項目を挙ぐれば左の如し。
(一)渋沢男爵喜寿祝賀会開催の件
渋沢男爵には本年恰も喜寿の高齢に達せられたるを以て、之に対し聊か祝意を表せむとは、自ら衆意の一致せる所なるは勿論なるが、来十月は毎年秋期総会開催の例月に当り居るを以て、若し該総会と相前後して、別の日に喜寿祝賀会を開催するものとすれば、用務多忙の会員に取りては、勢ひ何れかに欠席の遺憾を見ざるべからざるの嫌ひあるを以て、結局秋期総会の当日其の時間のみを別にして同一の場所に於て開催する事に決し、尚ほ次の如き決議を見るに至れり。
 (イ)同窓会秋期総会の当日渋沢男爵喜寿祝賀会を催し、其席上に同男爵を招待する事
 (ロ)同男爵の喜寿を祝すると同時に、同男爵の恩徳を永遠に記念するの一資料たらしめむが為め此の際男爵の寿像を制作し、之を如水会々館内に安置する事を企画する事
 (ハ)右寿像の件に就ては不日尚再議を遂ぐる事
 (ニ)祝賀会の祝詞は同窓会幹事に於て起草し、成瀬隆蔵君をして其朗読の任に当らしむる事
 (ホ)寿像制作の企画は前項祝詞の内容に記載する事
(二)秋季総会開催の件
 本件は評議の結果左の如く決したり。
 (イ)期日は大凡十月下旬頃とし、男爵の都合に依りて定むる事
  (備考)
      右決定後十月初旬に至りて全国商業学校長会議が十一月下旬に於て東京に開催せらるゝ旨発表せられたるを以て彼の渋沢男爵喜寿祝賀会をして、可成地方会員の参加を多からしめむとの主旨にて、十一月下旬に変更し、男爵
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の都合を確めたる上にて十一月二十五日と決定せり。
 (ロ)会場は帝国ホテルとする事
 (ハ)会費は金参円とし、前例に依り専攻部在学の会員は此の半額とする事


東京高等商業学校同窓会会誌 第一〇九号・第五―一七頁 大正六年一月 渋沢男爵喜寿祝賀会(DK440061k-0003)
第44巻 p.188-195 ページ画像

東京高等商業学校同窓会会誌  第一〇九号・第五―一七頁 大正六年一月
    ○渋沢男爵喜寿祝賀会
前項の本会秋季総会議事終了後、同じく帝国ホテル内に於て渋沢男爵喜寿祝賀会の開催あり。先づ藤村義苗君本会幹事を代表して左の如き挨拶あり。
 開会に就き一言致します、同窓会は毎年十月下旬頃に開くのが慣例になつて居りますが、今年は恰も十一月下旬に於て、全国実業学校長会議が開かれることになりましたので、地方より御上京になる会員諸君の便宜上、特に当月末に開会することに致しました処、幸にして今日は二百名以上の出席者を得、此の盛会を見るに至りましたのは、幹事等の満足する所であります。
 本総会と同時に、本年は兼て母校及商業教育に関し至大の関係ある渋沢男爵閣下が、恰も喜字の高齢に達せられました故、本会は同男爵の為めに其の寿を祝し、且つ記念の挙を行はんことを決議致しましまして、当日は是非共同男爵の御臨席を煩はさんことを懇請致しまして、男爵も快く御承諾下さいました。而して尚数日前にも幹事の者が伺ひまして、本日の御出席を御願ひ致した処、喜んで御来会下さると云ふことで、我々一同も大に喜んで居りました。然る処男爵には一昨夜来御不快で、誠に遺憾千万だが、迚も御出席は出来ぬと云ふ御内報を、昨朝に至りて得ましたので、幹事等も急に狼狽致しまして、万一どうしても御臨席が叶はねば、何うか男爵の御近親の御方が御代理として御出で下さるやう‥‥御令息又は御令孫の御出席下さることは望む処でありますが、外に近頃御帰朝になられました御親族の阪谷男爵に特に御同伴者として御臨席を乞ふて、幸に一席の御講演でも願ふことが出来ましたなら、我々は勿論会員御一同も御満足下さることゝ思ひまして、其の事を御願致し、男爵家に御関係深き八十島君もいろいろ御斡旋下さいました。然るに同男爵は高商出身者の集会とあれば、是非何事を措いても出席したいのではあるけれ共、帰朝早々日となく夜となく、諸方に前約ありて来月九日までは公私多忙にて、如何とも繰合せ付かぬのは甚だ遺憾である、此の由宜敷伝言を頼むとの事であつて、これも誠に拠ないことと思ひます。それに只今承る所に依れば、渋沢男爵は今朝は熱が八度位で御座いましたが、只今は九度に昇られたと云ふことで、我々も甚だ御案じ申上げて居る様な次第であります。併し斯る御心配御混雑中にも拘らず、特に御令息渋沢武之助君が、御代理として御臨席されましたことは、全く渋沢家の懇篤なる御配慮に依りますことで、男爵家並に武之助君に対して厚く御礼を申す次第であります。玆に本日の来賓渋沢武之助君を諸君に御紹介致します。
此の時渋沢武之助君会員一同拍手の裡に起立せられ、左の如き挨拶を
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述べらる。
 私は渋沢武之助で御座います、今日は盛大なる祝賀会を御開き下されましたことを、父に代つて御礼を申し上げます。
藤村幹事は尚ほ語を続けて曰く
 尚ほ諸君に御諮り致しますが、是れより渋沢男爵閣下に対し、祝賀文を朗読する順序で御座いますが、其の朗読は成瀬隆蔵君を司会者に選び、同君に朗読を願ひたいと思ひますが如何で御座いますか、(一同拍手して賛成を表す)、それでは祝文朗読を成瀬君に御依頼致します。
是に於て成瀬隆蔵君左の祝文を朗読せらる。
 生等謹ミテ渋沢男爵閣下ニ白ス、閣下ハ我カ商業界ノ先覚ニシテ又我カ商業教育界ノ恩人ナリ、今玆丙辰喜寿ノ高齢ニ躋ラレタルモ、聡明矍鑠、殆ト少壮ヲシテ瞠若タラシムルモノアリ、閣下ノ寿ニシテ康ナルコト斯ノ如キハ、天下万衆ノ斉シク手額称慶スル所ナルモ生等東京高等商業学校出身者ノ特ニ大ニ欽賀スル所ナリ、因テ生等本日ヲ卜シ、玆ニ一堂ニ相会シテ親シク閣下ノ温容ニ接シ、一ハ以テ閣下ノ栄寿ヲ奉祝シ、一ハ以テ生等ノ謝意ヲ表セムト欲シ、玉趾ヲ枉ケラレンコトヲ乞ヒタルニ、閣下幸ニ生等ノ悃請ヲ容レ、恵然トシテ賁臨セラル、生等ノ歓喜何ヲ以テカ之ニ加ヘム、抑モ国家富強ノ基ハ実業ノ発達ニ在リ、然レトモ世人聵々多クハ之ヲ知ル者少シ、閣下ノ炯眼夙ニ此ニ見ルアリ、明治中興日尚ホ浅ク官尊民卑ノ風盛ンナルノ時ニ方リテ、脱然衣冠ヲ抛ツ敝屣モ啻ナラス、身ヲ挺シテ商海ノ指針ト為リ、拮据経営殆ト五十年ニ垂ントス、其間帝国各般ノ新事業ハ概ネ閣下ノ指導誘掖ニ依ラサルハナク、其功績ノ著大ナル、世已ニ定評アリ、生等ノ縷説ヲ竢タサル所ナリ
 生等東京高等商業学校出身者カ特ニ閣下ニ謝セムト欲スル所ノモノハ、閣下ノ多年我カ商業教育ニ尽瘁セラレタルコト即チ是レナリ、夫レ我カ母校ハ明治八年森子爵カ商法講習所ナルモノヲ設立セラレタルニ権輿ス、当時世人未タ斯学ノ必要ヲ感セス、動モスレハ輙チ無用ノ長物視シ擯斥シ去ラントシタルニ拘ラス、独リ閣下ハ其有益ナルコトヲ唱道セラレ、時ノ所長矢野次郎君ヲ援ケ、陰ニ陽ニ其維持継続ノ方法ヲ画策セラレ、爾来今日ニ至ルマテ四十年一日ノ如ク或ハ委員ト為リ、或ハ商議委員ト為リテ、只管之レカ発展ニ努力セラル、殊ニ生等同窓者カ従来帝国商業教育ノ最高学府ヲ以テ任シ来レル我カ母校ヲシテ、宜シク商業大学タラシムヘシト主張スルニ至レルカ如キモ、畢竟閣下ノ先覚ニ基キタルモノニシテ、而モ閣下カ始メテ其卓見ヲ発表セラレタルハ、実ニ明治三十三年ノ夏生等カ主催セル閣下還暦祝賀会ノ佳辰ナリシナリ、爾来該問題ノ為メニ閣下ノ斡旋ヲ煩ハセシコト一再ニシテ止マラサリシカ、閣下ハ毎ニ自己一身ノ利害ヲ忘レテ熱誠ヲ傾倒シ、懇到切実ニ尽力セラレ、我カ校内容ノ充実ヲ致シタルコト今日ノ如ク、外観ノ整備ヲ見ルコト今日ノ如クナルヲ得タルハ、実ニ閣下ノ賜ナリト謂フモ決シテ溢美ノ言ニアラサルナリ、又閣下ノ在校学生ニ対セラルヽヤ、時ニ臨ミテ奨励シ、事ニ当リテ訓戒シ、其心情ノ懇篤ナル、恰モ慈母ノ赤子ニ於
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ケルカ如キモノアリ、而シテ今ヤ生等東京高等商業学校ノ出身者ハ洽ク海ノ内外ニ在リテ其数四千名ニ達シ、在校ノ学生亦一千二百有余名ノ多キニ及ヘリ、嗚呼生等カ閣下ノ恩徳ニ浴スルコト実ニ深ク且大ナリト謂フヘシ、生等カ閣下ヲ推崇シテ独リ商業界ノ先覚重鎮トシテ景仰スルノミナラス、我カ商業教育界ノ木鐸恩人トシテ欽慕措ク能ハサル所以モ亦此ニ存ス、今生等閣下ノ遐齢ヲ祝シ、併セテ薄カ謝恩ノ芹忱ヲ表セムカ為メ、閣下ノ寿像ヲ謹鋳シ、之ヲ生等同窓者ノ新団体タル如水会ノ会館内ニ安置シ、以テ我カ東京高等商業学校出身者カ、閣下ノ恩徳ヲ永遠ニ記念スルノ一資料タラシメムト欲ス、伏シテ請フ、閣下幸ニ生等微衷ノ存スル所ヲ諒トセラレムコトヲ、尚ホ終リニ臨ミ、謹ミテ閣下ノ万寿ヲ祈ル
   大正五年十一月二十五日
              東京高等商業学校同窓会々員一同
右祝文の朗読終りを告ぐるや、渋沢武之助君より左の如き挨拶あり。
 高等商業学校の同窓会幹事諸君、並びに御列席の方々、甚だ僭越でありますけれども、父に代りまして一応の御挨拶を簡単に申し上げやうと存じます。本年父は七十七歳、即ち喜寿の齢に相成りましたにつきまして、御多用の皆さんが斯く賑々しく御集り下さいまして喜寿の祝賀の式を御開き下され、又唯今は誠に温情あり、且つ熱誠籠る処の祝賀の辞を戴きました事は、何を以て御礼申しませうか、只々感謝に堪へぬ次第であります、さて此の御集りのございます事は、父も予て承知して居りまして、非常に楽しみにして居つたのであります、然るに病とは申せ、一昨日より病床に臥しまして、今日参る事が出来ませず、私が代理として罷かり出なければならぬ様になつた事は、如何にも残念でございます、父に於きましては殊に遺憾に存じて居る次第で、宜敷御推察を願ふ所でございます、御承知でもございましようが、父の病気は所謂持病とも申しまする、喘息でございまして、唯今の処如何程に病が募りますか分りませぬが、昨日は熱が七度台でございましたのが、今日は九度になりましたので、実は聊か心痛して居る次第でございます、今日も高木男爵を聘しまして、御診断を願つたのでございますが、先づ大いしたことはなからうと云ふことで、多少安堵はいたしましたけれ共、唯今も申しました通り熱が三十九度もございますから、心配して居る次第でございます、今日は皆さんが斯の如く御集り下さいまして、斯く盛大なる祝賀式を御催し下されました事を、帰りまして父に懇々申し伝へたいと存ずる次第でございます、此処に私は父に代つて御礼を申し上げますると同時に、将来渋沢家より皆さんに喜寿の御祝ひを申上げる程の御長寿を保たれ、且つ国家の為めに益々御奮闘あらん事を偏に希望して止まぬ次第であります、甚だ慣れませぬので父に代りまして申し述ぶる事の、誠に不適任とは存じますけれ共、父が罷出られませぬので、私が代つて御礼を申し上げる次第でございます。(拍手)
右の御挨拶終るや、成瀬君の発声にて渋沢男爵の万歳を三唱し、斯くて祝賀の儀式は終りを告げ、其れより更に別室に移り、和気靄々の裡
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に主客晩餐を共にせしが、宴酣はにして、成瀬隆蔵君主人側を代表して拍手の裡に起立せられ、左の如き挨拶あり。
 今夕の此のテーブルには能弁者が大分揃つて居られますから、私は演説を差控へ、先づ佐野君・市村君等に御譲りいたしたい、殊に男爵閣下は、先頃或る席で或人が閣下の御功績と御寿命を天海僧正に例へられまして、百三十六迄で御長生と言つた時に、僅に百三十六歳とはあんまり酷いと云ふ御説がございましたから、万歳でも尚ほ御不承知かもしれませぬ、私は永久的と云ふ意味なる万歳丈に止め誤つて言ひ損いをするよりも雄弁の御方に御願ひいたしたいと思ひます。
其れより佐野母校長・市村名古屋校長・志田博士等順次テーブルスピーチありて、之に対し渋沢武之助君亦挨拶を述べられたるが、今其の各速記録を順挙すれば左の如し。
      佐野校長
 閣下並に諸君、私は先刻幹事からして、学校を代表して何にか御挨拶を申上げろと云ふ御命令を受けましたので起立致しました。只今成瀬先生から、弁が立つからと云ふ御話がございましたが、自から弁士を以て任ずる訳ではございませぬ。今夕は吾々の尊敬する渋沢男爵閣下が本年喜寿の御高齢に達せられましたにつきまして、聊か祝意を表せんが為めに我々同窓会員相集り、此宴を張つて男爵御令息の御出席を請ひまして私も亦其末席に列なることを得ましたのは私の最も欣幸とする所で御座います。渋沢男爵閣下は夙に大に実業及び実業教育に力を致されて、我校創立以来今日に至るまで、学校並びに出身者の為めに非常なる御尽力を給はりましたことは、今更私が申す迄でもない次第であります。学校に於きましては、既に五千の卒業生を実業界其他社会の各方面に供給いたしました、其成績は社会の定評ある如くでございます。又現在千三百の俊才を養成しつゝありまして、将来に益々有為の人物を輩出せんとして居る様な状況を呈して居るのであります、過去・現在並びに将来に亘りまして、我が学校が斯の如く社会に有用なるを得たのは、一に渋沢男爵閣下を始め、閣下と共に尽瘁されましたる方々の賜物で、殊に閣下の力預て最も大なることゝ信じます、私は学校当局の一人といたしまして、満腔の熱誠を以て玆に渋沢男爵閣下の喜寿を御祝ひ申上げ将来弥々御健勝ならんことを祈り、且つ此機会を利用して謹んで深甚なる感謝の意を表する次第でございます、簡単ながら一言御挨拶を申し上げます。(拍手)
      市村芳樹君
 私は地方の商業学校長を代表いたしまして、玆に一言いたしたいと存じます、同窓会の秋季総会は毎時も十月下旬を以て御開催になるのが慣例でありますのに、我々商業学校に従事いたして居ります者が、当地に於て会議を催します為めに、上京いたしますことを御考へ下さいまして、特に其慣例を破り、態々御延ばし下さいましたが為めに、幸ひにも今回此御目出度き渋沢男爵閣下の喜寿の祝賀会の席末を汚すの光栄を得ました事は、先づ以て幹事諸君の御親切な御
 - 第44巻 p.192 -ページ画像 
取扱ひに対し、感謝をいたしまする次第であります。
 次に男爵閣下へ喜寿の御悦びにつきまして偶感を少し申し述べたいと存じます、回顧しますれば既往数十年の間に、我国に於きまして大なる人物が輩出いたしました事は数限りもないことであります。
 其中に於きまして、一世の耳目を聳動するが如き声名を博したる処の人々も、随分多数ございますけれ共、其人々は或は恰も彗星の出没変幻定りなきが如くで、今日に於きましては其の名さへも忘れられた人々が多くあります、或ひは中には中心人物として、多数の人に取り巻かれて居られた人々もある訳でありますが、其れ等の多くの人々も、今になつて考へて見れば、或ひは彼の惑星の如く、中心にして而して中心的ならざる人も随分多いのであります、然るに之に反して我が渋沢男爵閣下に於きましては、恰も彼の恒星の如く、幾十年の長き間、厳然として空に輝やいて、常に一定不動にして而して現在に於ても、将来に於ても、亦中心中の大中心として、一世の泰斗として国民全体より仰ぎ見られるところでありまして、其の御盛んなることと申しますものは、実に稀に見るところの御方でございまして、此の御功績のあられる事に付きましては、私共の敢て喋々を要しない事でありまするが、全く是は閣下の人格の光が此の大なる御功績を現出致しました事は間違ひございませぬが、併しながら之に加ふるに又最も多数の人に超越せられたる処の御健康があつて、以て此の大なる御功績を天下国家に向つて顕現されたる事であるに外ならないと存じます、斯くて男爵は今日喜寿の御悦びを御迎へに成りました、而かも益々御健全であらせられる事は、実に諸君と共に、慶賀して措く能はざる処であります、憶ひ起せば先年我が東京高等商業学校に於て、六ケ敷い事件が勃発致しました、其の当時或る新聞のポンチに出て居つた画の事を只今思ひ浮べる事でありまして、其の絵は真中に青年が一人居りまして、そうして其の側に慈愛の籠れる老紳士が居る、一方の側には真中の青年を引つ張らんとする処の人が描いてある、さうして老紳士の側に書いてあります文句は、其の文句は好く記憶いたしては居りませぬが、其の意味は斯う云ふ事が書いてあつた様に思つて居ます、「長く骨を折つて育てたものを、今更人手に何んで渡すものか」是即ち渋沢男爵閣下が真中に威儀厳然として立つて居る所の青年、即ち我が一ツ橋の学校に対せられる処の精神状態を写出したものでありますが、世間から見て高等商業学校と男爵閣下との間柄は其の通りに見て居る事でありませう、それは単に一ツのポンチ画でありますけれ共、我が商業教育の根本であります処の一ツ橋の学校に対して、如何に我が渋沢男爵閣下の御骨折り下さりつつあるかと云ふ事が明瞭にそれに依つて現はし得て居る事と思ひます、実に現に其の画を見るが如く、而して幾十年の長き此の東京高等商業学校の為めに御尽し下さつた事は、我々は此の画にある如く何時でも思ひ浮ぶ事であります。
 偖斯くの如く男爵閣下の非常な御骨折りに依つて盛んになりました処の高等商業の同窓会の一人と致しましては、男爵閣下の御心を御心として、将来益々此の一ツ橋の学校を盛んならしめ、我々同窓会
 - 第44巻 p.193 -ページ画像 
会員が今日に幾十百倍する丈けの隆盛を見るに至らなければ、私は男爵閣下に対して誠に相済まぬ事と考へて居る事であります、のみならず此の東京高等商業学校を母校として輩出致します処の人々の中で、実業方面には最も多数居られる事でありますが、私共地方に居りまして教育の職に従事致して居る者も、其の数実に尠からぬ事であります、是等の地方の学校も、直接間接男爵閣下の御尽力と御恩恵とを忝けなふ致して居る次第であります、随つて天下幾十万の青年と云ふ者も、間接に男爵閣下の御恩恵を忝けなうして居ると云ふ事は確に認める事であります、其れ故此の事に就きまして我々地方の教育に従事して居る者は、此の喜寿の御祝に対して、誠に他の人々と共に御喜びするは申迄もなく、実は一層深き御喜びを以て御祝ひ申し上ぐる次第であります、今や男爵閣下は喜寿の御悦びの御歳でありまするが、又此の一ツ橋商業学校もモウ今日に於きましては、恰も不惑を超えた次第であります、既に四十年の祝賀会も開かれました様な訳で、今や最も分別盛りの、最も活躍すべき歳に成つて居るのであり、私共が親しく此の式典に出席しまして、会員諸君が誠に国家の良材たる人々を網羅して居るかの如く感ずる、母校の此の御盛んな有様を拝見して、自分も其の御仲間の一人であるかと思へば、誠に心強く感ずる事であります。而かも斯く心強く感ずる其の本源に対しましては又男爵閣下に深く感謝の意を表せざるを得ない次第であります、玆に謹んで男爵閣下の御健康を祝し、幾久しく我が天下国家の為めに御尽し下され、我々多数の者が、誠に中心として仰ぎ見る事の幾久しくあらん事を、希ふて止まぬ次第であります、聊か卑見を吐露しまして、以て御祝辞を申上げる次第であります。
      志田博士
 私は古くより東京高等商業学校に関係を致して居り、且既に同窓会の客員である所より、客員諸君を代表致して一言祝辞を述べよと、本会幹事より御命令がありましたので、謹んで御受け致した次第であります、渋沢男爵閣下の我邦商業界に於て御功労の多大なるは、天下周知の事実でありますから、特に客員として讚辞を呈する事を蛇足と信じます。然るに我々客員の見地より是非とも一言申し述べねばならぬ事は、閣下畢世の御事業中尤も重要なるものゝ一つである最高商業教育機関の施設が、閣下と特別の縁故ある我一橋校に依りて実現し、而も閣下喜寿の御祝ひまでに実現した事実であります只今も佐野校長より御話になりました通りに、一橋校の前途は洋々たる望に満ちて居りまして、一橋校自身は幾百千の石像銅像以上永久に閣下を記念する建設物と存じます、閣下は此の如く一橋校に依りて永久に記念せらるゝ第一人であらるゝのでありますが、之と同時に我々同窓会客員は閣下を以て全客員の首領と認め、偉大なる客員、永久的の客員と呼ぶの光栄を有します、何となれば閣下は一橋校の出身であらせられませぬ点に於て、我々一般の客員と同様であります。而して一橋校の為めに斯くまで御尽力下され、精神的に申せば親しく教鞭を執られて居る以上の指導を、総て学生は勿論学校
 - 第44巻 p.194 -ページ画像 
関係者全体に対して、今も昔も何等異る所なく、終始一貫為し居らるゝのでありますから、同窓会員名簿には閣下の御氏名を印刷してあるのではなくとも、又同窓会の入会手続を履んで居られなくとも不文的に全会一致を以て閣下を不文的の名誉客員に推戴して居る精神であること、毫も疑を狭む余地は無いのでありますし、閣下も亦之を甘受せられたることゝ信じます、又我々一般の客員は一橋校に在職中だけの客員でありますけれど、閣下は如上の理由に依り永久的の客員であらせらるるのであります。従て我々は閣下を客員の首領と認め、閣下の御示しになつた模範に依り、一橋校の為め且つ我邦最高商業教育の為め努力すべきことを玆に宣明して、閣下に敬意を表するは、閣下喜寿の御祝ひの此席上を尤も適当と信じます、私は未だ一橋教授中の若輩であると信じて居りますのに、今夕参会の客員中学校関係最古参者の最年長者であると云ふ訳で、辞を呈する機会を得ましたのは、実以て私の光栄之に過ぐるものなしと存じます。(拍手)
      男爵御代理渋沢武之助君
 只今成瀬様・佐野様・市村様・志田博士等より誠に御懇切なる賛辞を賜はりまして、恐縮の外はございませぬ。代理として私が此処に立ちました以上、自己の考へを申し上げますと共に、父の意志を申し述べたいと思ふのでございます、併し御覧の通り未だ極めて若年でもございますし、又縦令意見がありましても、皆様の如き御歴々の御揃ひの処で、申し上げる資格もないものでありますが、御詑び旁々一言申上げたいと存じます。
 本日斯の如く盛大なる会に父の列席する事の出来ませぬ事は、病気とは申せ、如何にも残念に思ふ次第でございますが、併し物は考へ様に依らうと存じます。父は今年既に七十七歳の老齢で御座いますが、尚且つ其精神的方面の活動に至つては、更に更に長く大なるものがあらうと存じます。私は三十一歳の青年でありますが、父が此所に若返つて来たと思召しになつたならば、父が参りませぬ御詑びが出来やうかと存じます、私は御覧の如く甚だ浅学なる甚だ不肖な子でございますけれ共、自分と致しましては出来得べくんば将来実業界に身を投じて、さうして相当に国家の為めに尽さうと云ふ覚悟丈けは致して居ります、就きましてはかう云ふ機会を利用して皆さんに御願ひ致すと云ふ事は失礼千万でございますが、何うか将来皆様の御指導を得まする様、呉れ呉れ御願ひ申す次第でございます、玆に高等商業学校の同窓会員及び満場の諸君の万歳を三唱致したいと思ひます。
斯くて一同起立万歳を三唱し、最後に男爵令息武之助君に対し、成瀬君より左の如く述べられたり。
 今夕は此祝賀会に御代理として御出で下さいました事を厚く御礼申上ます、今日は男爵閣下の喜寿の御祝ひ、此後は米寿の御祝ひでございますから、予め御承諾御臨席をどうぞ御帰りになつたら御伝へを願ひます。(拍手)
斯くて宴会を終るや、更に別室に移り、主客懇談に時を移し、全く散
 - 第44巻 p.195 -ページ画像 
会を告げしは、十時半頃なりき。尚ほ渋沢男爵の御病気に就ては、右祝賀会の翌日、本会幹事土肥脩策君本会を代表して、御見舞の為め王子の御本邸を訪問せられたるが、其の復命書を挙ぐれば左の如し。
 拝啓、昨夜は色々御配慮難有奉存候、陳者今朝同窓会幹事の資格を以て王子へ御見舞に罷出候処、執事の御話にては、昨日午後二時には九度七分の高熱なりしも、段々御手当の結果夕刻には八度台に下降、今朝九時頃高木男診察の模様に依れば御熱は六度八分に降り、御気分も大分御宜しき由に付、一時的御発熱にて、今後追々快方へ御向ひの事に拝察仕候、既に先刻正雄君は御来邸に相成、捧呈の祝文等御高覧に相成度御言葉も有之候趣に伝承仕候
 一寸電話にて申上度と存候得共、日曜日に有之、且つ小生は今夕大阪へ出張致候に付、以書中復命致度如此に御座候 拝具
   十一月二十六日朝
                     土肥脩策
   東京高等商業学校同窓会幹事御中


東京高等商業学校同窓会会誌 第一一〇号・第一七頁 大正六年四月 前号秋季総会記事正誤及渋沢男爵喜寿祝賀会記事訂正(DK440061k-0004)
第44巻 p.195 ページ画像

東京高等商業学校同窓会会誌  第一一〇号・第一七頁 大正六年四月
    ○前号秋季総会記事正誤及渋沢男爵喜寿祝賀会記事訂正
○上略
又前号渋沢男爵喜寿祝賀会記事末項土肥幹事の信書中「正雄君は」とあるは「武之助君も」とすべきものに付玆に訂正す。



〔参考〕一橋剣道部三十年史 東京商科大学剣道部編 第三〇―三二頁 昭和七年一二月刊(DK440061k-0005)
第44巻 p.195-196 ページ画像

一橋剣道部三十年史 東京商科大学剣道部編 第三〇―三二頁 昭和七年一二月刊
 道場を新築す――曩に道場拡張されて稽古に道場の狭隘を感ずる点は取除かれしが、建物が次第に老朽せる結果新道場建造の必要が痛感せられて来た。
 恰もよし大正五年柔道部が神戸高商との試合を当方に於て開催することゝなり、益々その必要に迫られて玆に剣・柔両部意気相投じてその計劃が進めらるゝに至つた。
 本部に於ては大正五年度の理事上村及同会計幹事清水の二人が主としてこの衝に当り、内々大体の方針を決定し、同年八月着工の計劃の下に寝食も忘れて東奔西走、遂に当局を動かし先輩を説いて此の大事業を完成するに至つた。即ち上村は柔道部理事尾高豊作(故渋沢栄一子爵、当時男爵の令孫)と共に先輩内田信也氏を神戸に訪れ、其後数度面会せし結果、愈々同氏は喜んで全工事費の半額を負担すべく、尚渋沢氏にも御願ひするを好都合とすべしとの有難き思召により、愈々話は本格的に運び、飛鳥山の訪問にては子爵に過分の同情を得、やがて子爵より森村氏外商議員に渡りがつけられ、之等御歴々の御蔭と清水組の義侠的努力により当初の計画通り真に申分なき道場が出来上つたのである。
○中略
 道場落成式並に部長師範表彰式――部長、師範及び諸先輩の後援と部員の努力との結晶たる新道場も完成され、大正六年二月十八日その落成式は挙行された。
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 場内には紅白の幔幕を繞らし、中央奥の上座には武甕槌命を祀り、壮麗の中にも森厳の気が溢れて居た。定刻既に渋沢栄一・内田信也・尾高次郎・図師民嘉・犬塚勝太郎・塩谷時敏・淹村吉三郎・藤村義苗・山里忠徳等の諸名士の外、都下諸学校柔剣道部委員諸氏の参会者が三十名に達した。本部よりは会長佐野善作、部長堀光亀、師範山田次朗吉、梅川熊太郎の諸氏及び先輩部員並に柔道部関係者、前師範岡求三郎氏も見え、式は午前九時より左の如き順序を以て行はれた。
  一、祝詞       山田剣道部師範
  一、会長挨拶     佐野校長
  一、会計報告     雪岡会計主任
  一、来賓祝辞     渋沢男爵
  一、剣柔道部総代謝辞 奈佐柔道部長
  一、閉会之辞     上村剣道部理事
 今や功成り名遂げて今後は精神界の先駆者たらん事を以て自任せらるゝ温容慈母の如き渋沢男も、此の宏荘闊達なる道場を見ては、流石に衣骭袖腕の稽古に余念なかりし往時を回想して脾肉の嘆に堪えざりし事であらう、述べらるゝ所の一言隻句、聴く者の耳朶に深く徹するものがあつた。実に当時財界の第一人者たりし渋沢男の来場は錦上正に花を添へたるものにして若人の厚く感激せる所であつた。