デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
1節 実業教育
2款 東京商科大学 付 社団法人如水会
■綱文

第44巻 p.321-328(DK440072k) ページ画像

昭和4年6月25日(1929年)

是日、如水会、同会館ニ於テ、栄一ノ九十寿祝賀会ヲ催ス。栄一近親ト共ニ出席シ、謝辞ヲ述ブ。


■資料

集会日時通知表 昭和四年(DK440072k-0001)
第44巻 p.321 ページ画像

集会日時通知表 昭和四年        (渋沢子爵家所蔵)
六月廿五日 火 午後四時半 如水会催青淵先生九十寿祝賀会(如水会)
 - 第44巻 p.322 -ページ画像 

竜門雑誌 第四九〇号・第七三頁 昭和四年七月 青淵先生動静大要(DK440072k-0002)
第44巻 p.322 ページ画像

竜門雑誌 第四九〇号・第七三頁 昭和四年七月
    青淵先生動静大要
      六月中
廿五日 如水会催青淵先生九十寿祝賀会(如水会館)


如水会々報 第六九号・第六―一三頁 昭和四年八月 渋沢子爵寿会 六月廿五日午後四時半於本会々館(DK440072k-0003)
第44巻 p.322-326 ページ画像

如水会々報 第六九号・第六―一三頁 昭和四年八月
    渋沢子爵寿会
      ――六月廿五日午後四時半於本会々館――
 六月廿五日は我等の父と仰ぐ青淵先生の寿会の日である。夜来の雨は名残りなく晴れ渡り初夏の清風いとど心快く、清められたる我が会館は老子爵の御来臨を心待つが如く、玄関入口には交叉せる日章旗翻り、館内右側の図書室に安置せる先生の肖像には紅白の幕を廻らし、階上ホールは高く数多の万国旗に色彩られ、四面白堊の壁には「寿」の字を現はせる菊花点々として飾らる、正面一段高き壇上には金屏風燦として輝き、稍々低く左右に階段を設け先生の御来臨を待つ。
 開会時に近く先生を慕ふ明治・大正・昭和の会員及母黌学生代表者等三々五々会館指して集る数三百有余名、定刻渋沢先生初め御一族の来着あり、江口理事長の先登にて二階に設けられたる休憩室に人らる各新聞社の写真班のフラツシユの音頻りに起る、軈て会員一同談笑の裡に着席し、先生並に御一族の御臨場を待つ。稍々ありて老子爵は静静と歩を壇上に運ばれ、中央設けの席に着かれ、其後列に御一家の方方居並ぶ。先生已に米寿を超えられて尚矍鑠として意気毫も衰へざる風貌に接し、堂に満ちたる会員一同の顔に歓喜の色見ゆ。拍手の静まるを待ち江口理事長は壇上に立ち老先生に対し一礼後
青淵先生閣下並に諸君
吾母黌及如水会の恩人、師父として吾々同窓者が平生其高風を欽慕景仰すると共に、常に常におなつかしくお慕ひ申して居ります先生には此度吾等一同の切なる願をお心よくお聴取り下さいまして、今日此処に御来臨を仰ぎ心ばかりの賀寿の筵を催ふし、親敷温顔に拝接して吾等が満腔の拝祝の微衷を捧ぐる機会をお与へ下さいました事を篤くお礼申上げます。又御親戚御一統様にも皆様お揃にて御来臨下さいました事を是又深くお礼申上げます。
先生が国家社会の為め、吾国商工業者の地位向上の為め、社会事業・教育事業・慈善事業並に国際的平和親善の為め、数十年一日の如く御高齢の今日に至るも今尚不断の御努力を惜まれざる事、又特に吾母黌及吾々同窓者の為め常に御懇篤なる御指導を仰ぎ来りました事等につき、先生の徳を頌し、又吾等が敬慕感謝の衷情を申述ぶるには如何なる言辞を以てしても到底申尽す事が出来ません。私は今此処に此のお芽出度き席に於きまして、或は失礼かも存じませんが、儀礼的のお祝詞を申上ぐる代りに、僭越ながら平生先生に対する切実なる自己の感想を先生並に諸君の前に披瀝する事をお許し願ひます。
  義利何時能両全、毎逢佳節思悠然、
  回頭愧我少成事、流水開花九十年。
 - 第44巻 p.323 -ページ画像 
これは、先生が今年九十の御高齢に達せられたるお芽出度い元旦の御述懐であります。私は幾度か思を潜め、心を沈め、先生の此玉詠を拝誦しまして、自らも先生詩境の人となり、無限の感慨、胸中に溢れました。
前にも申しました通り、先生には固より国家の為め社会人道の為一通りならず御苦心御努力下さいまして、其貢献の偉大なることは申迄もありませんが、先生には先生のお心持の中に常に取り去ることの出来さる御憂慮があると思ひます。「人生不満百、常懐千載憂」のお心持を私は度々先生より伺ひました。「義利何時能両全、毎逢佳節思悠然」御自身自から身を提して経済道徳の合一を計られ又断へず世に唱道せられますが、滔々たる今日の世相は如何でありますか、先生の唱へらるゝ道は世に行はれつゝありとは申されません。往昔孔夫子が道に忠なる、切々止むに止まれぬ決意を持たれて、魯の国を出で諸国を遍歴諸公に仕へ、王道を説き又之を行はんとせられしも、事、総而意の如くならず、寂しき思をなして魯に還られ、山間幽谷に人知れず咲き匂ふ蘭の花の可憐の姿に見入られて、蘭の花は人の知るを求めずして咲き、又人に知られずして凋む、人の世の事も斯くの如きかと、思を花にかけられて、猗蘭の曲を賦せられ、王陽明又竜潭に夜座して古を偲ひ、今を思ひ、彼の有名なる「何処花香入夜清」の詩を詠し「臨流欲写猗蘭意、江北江南無限情」と心の底を詩に訴へて居りますが、先生元旦の玉詠にも矢張此のお心持が流れて居るのではありますまいか。去りとて世を恨まれず、人を咎められず、悠然として道を楽まるゝ処哲人の心事に今古の別はありますまい。誠に世相の険悪、世道人心の廃退、今日の如く甚しきはなく、社会の上流に位する者に哲学なく、宗教なく、天を敬し、人を愛することを忘れ、唯々私利私慾を追ふて争ふて餓鬼道に堕せんとする、今日の社会の状態に於て先生の如き、地の塩となり、世の光とならるゝ方のあらるゝことは如何に力強く思はるゝことでありましようか。乍不及吾々も先生のお心持を体得して何とかして先生の片鱗をも学び、鴻恩の万一に酬ゆべきを期すべきであらうと思ひます。一昨年、先生の寿像除幕式後の晩餐会席上、先生より「私の平生主張する道徳と経済とを合一させる其事の実現は、如水会を措いてない」と仰せられました事を私は深く記臆して居ります吾々は謹んで、先生の御期待に背かざらん事を期すべきであらふと思ひます。
私は近年学会其他先生のお出になる寄合には努めて席末に加わり、先生に咫尺し、何時も何時も高風を仰ぐ機会を得るを無上の仕合と喜んで居りますが、往年米国に於て移民法を改正し、吾国に対して差別待遇をなすに至れる際、日米関係に於て自他共に許す最も有力なる某高官には米国人の仕打の不条理不当なるを慨せられ、最早米人頼むに足らずと奮然として一切の関係を断たれましたが、これは所謂義憤と申すべきかとも思ひますが、先生は其時、追つては彼国の人の目の覚める時あるべきにより、此処は充分に隠忍すべき処なり、米人に対し当方よりは増々心よく近寄る事を一同に示導せられました。人不知而不慍、不亦君子乎と論語にありますが、誠に先生の此のお心持が、其後
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如何に彼の国の人にうつり、日米親善に貢献せられたかと云ふ事は申迄もありますまい。
先生のお近くに伺つて居りますと、其一挙一動皆尽大の教訓ならざるはなしで、私は嘗て目白の女子大学に於て御同席しまして昼のお弁当を御一所に戴きましたが、フトお隣の先生の御様子を伺ひますと先生には御弁当の折を開かれまして先づ折の蓋についてある御飯粒を一粒づゝ箸に取られ、其れから折の中の御飯は、御自分召上る丈け片隅を箸にて最初に区別せられ、おかずも半分丈け区別してたべられ、他の部分は誰れが食べてもよろしきように、全く奇麗に手をつけられずして、蓋をせられて脇に置かれました。私は始めより終りまで此御様子を拝見して、先生には斯かる細事にも御注意深く、物を麁末にせられず、もつたいないと云ふお心持を何処迄も事実に於て実行せらるゝのを難有く感じました。事甚だ些細の様に見へますが、人の容易に心付かず又為し能はざる事を、面のあたり先生の為された事に対し、先生日頃の尊きお心掛を思ひ浮べ、深く恥づると共に先生の高徳の偉大なる故ある哉と感じました。
此席上感激の余り取り留めなき勝手の感想を申上げ失礼の段は幾重にも御容赦願ひます。(拍手)
引続きて、佐野学長は東京商科大学を代表して、左記の祝辞を朗読された。
玆に本日如水会に於ける子爵渋沢青淵先生の寿会に列なり、東京商科大学を代表して一言祝詞を呈するは不肖の最も光栄とする所なり。夫れ商業教育の歴史は、学校商業教育刱始以来学校教育と丁稚見習教育との競争、学校教育施設の整備、及び産業の浄化より出発したる教育の刷新の三大運動を以て始終すと云ふを得べし、換言すれば商人養成の基礎を専ら学園に於ける教養に求め、学園教育の制度を確立し、其内容を充実し、商業者の社会的使命を基調としたる教養を施すを目的とせる各般の運動及努力は実に商業教育史の内容を成すものにして、是等運動努力の如何は即ち一国商業教育の情況を卜知するの索引たるべし。之を我国の商業教育史に就て見るに、学校教育創始以来今日に至る五十有余年間に起りたる上記三大運動を通じて、常に必ず陣頭に現はれて顕著なる活動をなす偉人一人あるを発見すべし、誰ぞや、子爵青淵先生実に其人なり。先生の事績は吾人皆熱く之を知るを以て玆に之を叙ふるの要なし、唯我商業教育史の内容を成す三大運動は常に先生によりて唱起せられ、先生によりて指導せられ、先生によりて鼓舞せられたりと云ふを以て足れりとすべし。
歴史の叙説法に専ら偉人の事績を叙説し以て時代を推知せしむるものあり、我小学校国定教科書に於ける国史の如き即是なり、蓋し偉人は克く時勢を達観し、時代の要求を察知し、之に適応せる運動を唱起し社会大衆を統率指導するの器なればなり、学者は此史観説をGreat man theoryと称すと云ふ。此史観を以てするときは我商業教育の歴史は之に関する青淵先生の事績を叙説すれば則ち足るべし。実に先生の偉大なる事績は我商業教育史上最も重要なる頁を成し、最も光輝ある文字として永久に記憶せらるべし。
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先生米寿を迎へられしより既に二閲年、今尚ほ矍鑠として壮者を凌くの概あるは世を挙げて斉しく悦ぶ所にして、先生の永寿を祝福するは独り先生の御一門又は吾々如水会員のみの私事にあらざるなり。
  昭和四年六月二十五日
              東京商科大学長 佐野善作
次に子爵には壇上中央に立たれた。堂を揺がす拍手喝采が起り稍々静るを待ちて
今夕は私の長寿祝賀の為めに盛大なる会を御催し下さいました事を深く御礼申上げます。私は近頃歯を損めまして話難く定めし御聞き苦しいかも知れませんが御勘弁を願ひます。
人間は永く生きますと善い事のみならず、目出度い事もあり葬式もあり、嫌な事も沢山ありますが、今日は自分に取り非常に嬉ばしく思ひます。殊に今日の此の集りは全部が如水会員で、然も如水会館で、皆様と斯く会する事が出来ましたのは衷心嬉しく感じ、過去の嫌な事を今日此の会合で差引勘定がついた訳です。(拍手)
只今江口君から大変御ほめの言葉を戴きましたが、私は自分に学問もありませんが、日本の商工業発展の為めに甚だ僭越な申分ですが多少は貢献致した事と思ひます。私の経歴は既に皆さんの御承知の事と思ひますが、私は元々政治観念を以て家を出たのですが、色々の齟齬を来しまして、遂に人の勧めに依り一ツ橋の家来となりました。其後は海外の有様を少しは知る様になり当年主張して来た攘夷論ばかりではいかぬと云ふ事が分り、考へも多少違つて来ました。丁度其時は慶応の三年で遣仏使節徳川民部大輔の教育係として仏国に行く事となりました、当時二十八歳の青年でありました。そこで相当な学問をして、帰つて来てからは以前の様な乱暴な思想を改めて政治に力を尽して見たいと思ふたのですが、渡仏中に日本は王政に恢復し、所謂維新の改革がありまして帰朝後の私は、当時日本の状態をつらつら思ひまして政治界と実業界とを親しく結びつけるの急務なるを思ひ此の事に意を注ぎました。然し当時の商業界は官尊民卑の弊風が強く、此の弊害は制度の悪かつた事にも原因致しますが、然し商工業者が自ら卑める為めに人亦此れを卑めたと云ふ事は争ふべからざる事実と思ひます。
既往を申上げますに商業教育に対しては多少の心配を致しました。当時私は此の弊風を打破すべく遂に商法講習所の設立を遂げました。商業教育の是非必要と云ふ事は仮令私が学問に乏しい人間でも商業に対して完全な教育がなければならないと云ふ事を深く感じ、実業を重んずると云ふ観念からは随分に力を尽し又論じました。
江口君は自分を学者らしく云はれましたが、敢てさうでもないのです然し私は道徳経済、道徳政治合一論と云ふ事について相当の信念を持つて居ります。道徳は経済を離れ、経済は道徳と伴はず、道徳を守れば損を招き又政治上に於ても力を充分に張らうとすれば道徳が欠ける私の年来の主張なる所の何事も道徳によらねばならぬと云ふ事は、自分は若い時からは疑はぬ処ですが、人に依りては迷ふ事があります。然し此れは世の中が進むに従ひ明かになる事と思ひます。
殊に実業界に活躍せる諸君には、是非此の経済と道徳と云ふ事に重き
 - 第44巻 p.326 -ページ画像 
を置いて戴き度い。(拍手)
次に阪谷男爵は江口理事長の紹介にて自席より
今夕は渋沢子爵の一門として私も御招待に預りまして厚く御礼申上げます。
只今江口さんより親戚の一人として何か話せとの事ですが、別に腹案もありませんが簡単に一言申上げます。
私は子爵が最も奮闘されました時は役人をして居りました。役人側として見ました子爵は当時日本の経済界が頗る微々として振はず、動もすれば政治家軍人に比べて軽視さるゝの風がありました、此れは主として官尊民卑の弊風に基いたもので子爵は此の点を非常に残念がられ遂に官途を辞し実業界に身を投ぜられ、商業教育の必要を論ぜられ、先づ東京商科大学の前身たる商法講習所を設立され、商業方面に力を注がれました。斯くして今日の商工業の隆昌を見るに至りましたのは子爵の先見の明と努力の賜で御座います。
目下の経済界を通覧致しますと甚だ心痛に堪へないのです。実業家も政治家も一致協力此の難局に当り、実業界の人は宜しく国乱れたる際には政治家のみに任せず、大に奮闘努力をして戴き度い。殊に古き歴史と名士を多く出せる東京商大の出身者を一丸とせる如水会員は今後大に政治的方面に進出して戴き度い。(拍手)
経済思想界の浮薄なる今日の日本に於て、子爵の御主義たる経済と道徳と云ふ御言葉は万古不易として後世に残る事と思ひます。(拍手)
先生は論語と珠盤と云ふ事を大に力説されましたが、今日では政治と論語の時代であると思はれます。子爵は長命すると嫌な事が多いと申されましたが、私は子爵より二十五も若いのですが、世の中の事は中中思ふ様に参らず、曾て私が紙幣公債の整理を在官中にやりましたが未だ解決つかざる様な訳で、子爵が申さるゝ事は御尤もの事と存じます。今夕は斯く盛大なる宴に御招き下さいました事を重ねて感謝いたします。(拍手)
右終つて成瀬隆蔵君の発声にて渋沢子爵の万歳を唱へ、次いで一同食事を共にしたる後盛会裡に此の目出度き宴を閉じた。当日の出席者左記の通りである。
来賓
 渋沢子爵閣下 渋沢篤二殿 渋沢武之助殿
 渋沢正雄殿  渋沢秀雄殿 渋沢敬三殿
 阪谷男爵閣下 明石照男殿
      寿会出席者氏名(二百九十二名外学生総代五名)○氏名略ス


竜門雑誌 第四九一号・第五八―六〇頁昭和四年八月 如水会の青淵先生寿会(DK440072k-0004)
第44巻 p.326-328 ページ画像

竜門雑誌 第四九一号・第五八―六〇頁昭和四年八月
    如水会の青淵先生寿会
○上略
      祝辞
本日玆ニ私共一橋同人ガ慈父トシテ常ニ仰慕措ク能ハザル世界的巨人渋沢子爵ヲ迎ヘテ閣下ノ米寿ノ賀ニ対シ聊カ祝意ノ一端ヲ表スヲ得ルハ無上ノ光栄トスル所デアリマス、顧フニ明治ノ初年世ハ未ダ多ク実
 - 第44巻 p.327 -ページ画像 
業ノ何タルヲ解セズ、財政経済共ニ極メテ幼稚ナル状態ニ在リ、立国ノ大本甚ダ憂フベキモノアリシ際、閣下一タビ出デテ奮然トシテ第一線ニ立タルヽヤ、或ハ国力ノ充実ヲ叫ビ或ハ国家百年ノ大策ヲ訴フル等今ニシテ之ヲ念ヘバ真ニ疾風迅雷ノ勢ト凛乎タル勇気トヲ以テ難局ニ当ラレタモノデアリマス、嗚呼是レ天斯ノ人ヲ世ニ降シテ負ハシムルニ大任ヲ以テシタルモノデ無クテ何デアリマセウカ、閣下ガ国力ノ開発扶植ヲ以テ夙ニ己ノ任トシテ居ラレタノハ、要スルニ期セズシテ天意ニ合シタモノデアリマセウ、カルガ故ニ前人未踏ノ地ハ着々開墾セラレ、殉国的奮闘ト遠大ナル希望トニ燃エツツアツタ斯界ノ第一人者ハコヽニ種蒔ヲサレタノデアルガ、見ヨ漸次美シイ花ハ咲キ出デ、実ハ豊ニ結ンデ今日見ルガ如キ収穫ヲ得、遂ニ実業ノ国策的確立トナツタノデアリマスカラ、国ヲ挙ゲテ閣下ヲ推ス所以ノモノ決シテ偶然ニ非ザルヲ知ルノデアリマス、コノ意味ニ於テ私共ハ近世我ガ国ノ財政経済ハ閣下ト切リ離シテハ完全ニ之ヲ考フルコトハ出来ナイト信ズルノデアツテ、更ニ云フナラバ閣下ノ既往九十年ノ歴史ハ我ガ近世実業発達ノ歴史デアルトイツテモヨカラウト思フノデアリマス、嗚呼一人ノ力ニテ一生ノ間ニ為シ得ベキ事業ハ略々限リアルモノナルニ、閣下ハ世界的偉人ノ事蹟ニ於テ見ルガ如ク実ニ一人ノ力ニシテ能ク幾多ノ尊敬スベキ事業ニ耐ヘ得ルコトヲ事実ノ上ニ示サレタルモノト言フベク、殆ンド奇蹟ニ属スルノ感アラシメルノデアリマス、今ヤ功成リ名遂ゲテ徳沢一世ニ加ハリ、声名中外ニ藉甚スルニ至リ、閣下顧ミテ夫レ或ハ今昔ノ感アラセラルヽコトデアリマセウ、而シテ御満足ト御本懐トソモ如何バカリデアリマセウカ、勿論私共推察ノ及ブ所デハアリマスマイ、而シテ事ノ此ニ至リタルモノ閣下天性ノ強健ト、豊潤ナル生命ノ力ニ帰スベキ理由ノ大イニアル事ハ、申ス迄モナイ事ト思ヒマス、古来人生七十ヲ稀ナリトスル中ニ、閣下ハ既ニ業ニコノ制限線ヲ突破スルヤ久シク、今ヤ悠然トシテ米字ノ寿ヲ迎ヘサセラレ、黒髪童顔老イテ益々壮ナルノミカ、前途実ニ洋々タルノ余裕ヲ示シテ居ラレルノヲ拝見シマスルト私共ハ唯々驚嘆ト羨望トヲ禁ジ得ナイノデアリマス、蓋シ世ニ得難キハコレ寿デアリ、コレ命デアル、延命長寿人生ノ至幸之ニ加フルモノガ有リマセウカ、人生ノ至慶之ニ優ルモノガ有リマセウカ、閣下矍鑠トシテ現ニコノ至幸アリ至慶アリ、之ゾ天授デアリ天賚デアルトイフモ失当ノ言デハ無カラウト思ヒマス、然リ天既ニコノ人ヲ世ニ降シテ大任ヲ負ハシメタル以上、延命長寿ノ賜無ンバアラザルヲ感ズルノデアリマス、果シテ然リトセバ閣下ノ寿ソレ亦天ノ然ラシムル所デ無クテ何デアリマセウカ、雄図既ニ成ルヤ此ノ如クシテ更ニ加フルニコノ寿ヲ以テセテル、正ニ錦上花ヲ添フモノデアツテ閣下何トイフ御芽出タイ事デアリマセウ、人生最モ恵マレタモノノ極ミナル所謂福禄寿ノ三拍子揃ツタコノ上モナイ輝カシイ栄冠ヲ贏チ得ラレタノデアリマス、重ネテ申シマス、嗚呼何トイフオ芽出タイ事デアリマセウ、私共ハ爰ニ謹ンデ深甚ノオ歓ビヲ申上グル次第デアリマス、冀クハ国家ノ為益餐ヲ加ヘサセラレテ折角御自愛アランコトヲ、如水会名古屋支部ヲ代表シテ衷心ヨリ祈ル所デアリマス
  昭和四年六月二十五日
 - 第44巻 p.328 -ページ画像 
                          市村芳樹