デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
1節 実業教育
2款 東京商科大学 付 社団法人如水会
■綱文

第44巻 p.337-338(DK440075k) ページ画像

昭和6年6月(1931年)

是月、当大学学長佐野善作辞意アリ、栄一ノ慰留ニヨリテ留任ス。


■資料

集会日時通知表 昭和六年(DK440075k-0001)
第44巻 p.337 ページ画像

集会日時通知表 昭和六年         (渋沢子爵家所蔵)
六月十七日 水 午前九―十時 商科大学教授堀光亀氏・根岸佶氏他一名来約(飛鳥山邸)
六月十八日 木 午前十時   佐野商大学長来約(飛鳥山邸)
   ○中略。
六月二十日 土 午前十時   佐野善作氏来約(飛鳥山邸)
   ○中略。
六月廿二日 月 午前十時   堀光亀氏来約(王子)
 ○子爵ヨリ佐野氏ト会見顛末ヲ話シ置キタシトノ事ニテ堀氏ヲ招致セリ


如水会々報 青淵先生追悼号・第五〇―五二頁昭和六年一二月 鴻恩を偲ぶ 堀光亀(DK440075k-0002)
第44巻 p.337-338 ページ画像

如水会々報 青淵先生追悼号・第五〇―五二頁昭和六年一二月
    鴻恩を偲ぶ
                         堀光亀
○上略
 光蔭矢の如く本年○昭和六年 になつてから母校には二つの難問題が起つた。夫れは五・六月に突発した佐野学長の辞職問題と最近十月に勃発した予科及専門部廃止問題とである。○中略 そこで学長問題が起つた時約一ケ月間教授学生総がかりで留任を勧告したにも拘らず、学長が容易に首を縦に振らないので、殆んど百計尽き、遂に渋沢翁を煩はす外はあるまいと云ふことになつたものゝ、平素御無沙汰勝でありながら此様な事まで持込むのは如何なものか、其上学長の辞任は令息の左傾事件に関連して居るのであるから、平素孔孟の教に忠実なる翁が果して此問題に関与することを欲せらるゝや否やも不明であつたので、少なからず遅疑したのであつたが、偖て結局秘書白石氏の執成で吾々数名の教授に御会い下さることになり、早速飛鳥山に伺候したところ、翁は真に快く吾々を迎へてくれられたのみならず、一什始終吾々の報告を傾聴せられた上「佐野君は商業教育に於て志を同ふして来た私の
 - 第44巻 p.338 -ページ画像 
友達である、今令息の一件で責を負ふて辞職を申出らるゝに至つたのは一応御尤の様ではあるが夫は言はば親子の私情である。折角御互の主張に依て商科大学に昇格し、其学長の要職に立つて今後大いに為すべき責任を持ちながら、一私情の為めに棄てんとするが如きは公私混淆の甚しきものである。自分も御維新前、国家の為めに貢献したい計りに、決然親に背いて郷里を脱走して江戸に出たことがある位で、公私の別を過つてはならぬと思ふから、能く其辺の事を説いて学長に留任を勧告して見よふと思ふ。之は決して諸君の御依頼に依てするのではない。佐野君の一友人として自ら進んで致すのだから其積りに願ひたい」と条理尽せる御言葉があつたので吾々一同は今更ながら翁の御親切に感激したのみならず、翁は決して頑固一徹な論語読ではないと云ふことを知つたのであつた。果せる哉此翁の至情は遂に能く学長の心を動かし其留任を見ることが出来たのである。猶ほ此事件に於て、私は翁が非常に几帳面な徹底的な御方であると云ふことを知り得たのである。夫は学長留任と決した際、吾々は直ちに飛鳥山の御別邸に御礼に参つたところ、御来客で取込んで居られた様であつたので、取次の人に来意を告げて引退つて来たのである。然るに私が家に帰るや間もなく、渋沢邸の取次人から電話があり「先刻は態々御訪ね下されて難有いが、子爵に申上げたところ、是非親しく会つて一応顛末を御話したいから、今一度御足労を願ひたいとのことである」との事であつたので、翌朝早速数人連で同邸に伺候した処、翁は欣然吾々を迎へられ、学長説得の顛末を詳述さるゝと共に種々難有き御懇談があつたのである。大抵の人であればあの高齢を以て又あの位御多忙の事でもあり、可成面倒なことは避けられるのが常であるのに、翁に至つては全く然らず、一旦然諾されたことは飽迄も尽力され、其結果を見届けて最後の締括まで付けなければ止まないと云ふ御気象であられたので、此美徳があつたればこそ実業界の慈父を以て仰がるゝに至つたのであらうとつくづく感ぜさせられたのであつた。
○下略