デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
1節 実業教育
3款 神戸高等商業学校
■綱文

第44巻 p.410-417(DK440083k) ページ画像

大正12年5月10日(1923年)

是ヨリ先、当校昇格ノ件決セラル。当校二十周年記念式ニ当リ、是日栄一、当校校長水島鉄也ニ祝辞ヲ送ル。


■資料

渋沢栄一書翰 水島鉄也宛 大正一二年五月一〇日(DK440083k-0001)
第44巻 p.410-411 ページ画像

渋沢栄一書翰 水島鉄也宛 大正一二年五月一〇日 (水島直也氏所蔵)
新緑将滴之候賢台益御清適と遥賀仕候、老生客月中旬より気管子に故障有之月末まて籠居致候へとも、追々軽快ニ付本月々初大磯に転地静養致し居、昨今ハ読書執筆も差支なく、日々来訪客にも接見致候程ニ相成候間何卒御省念被下度候、然者過日ハ貴翰御恵投貴校創立二十周年之紀念会御開催之由御案内被下候ニ付、縦令参列ハ仕兼候も、祝辞なりとも進呈仕度之処、前陳之仕合にて不任本意候段、呉々も御海容被下度候、実ニ光陰如矢之古諺は老生抔にハ別して深く相感し候て、貴校創立之当時を回顧して僅々数年之経過と想做し候も、翻て其成績より観察すれば、爾来賢台に於て挺身鋭意力を傾注せられ、貴校教職員諸君亦充分なる御尽力によりて、内に賢実穏健之当業者を多数輩出し、外は俊秀敏腕之青年を各地に派遣し、以て我邦実業之拡張を裨補し、一方商業教育之権威としては近く商科大学《(マヽ)》に昇格し、東京商科大学と共に東西相並進して将来之進展に尽瘁せらるゝは、実に慶賀満悦之涯ニ御坐候、乍去凡そ人間万事単ニ一方ニのミ偏すへからすして、
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喜あれは必す憂を伴ふは免れ難き数に候間、賢台及貴校教職員諸君に於ても能々此処に御注意相願度候、惟ふに現今一般之風潮唯々物質主義に偏重して、道義之何物たるを知らさるの有様と相成、従来老生之唱道致居候道徳経済合一説も遂に其光明を失ふに至らむ歟と実に浩嘆罷在候、畢竟一般之教旨に不備之点有之事と存候へとも、特に商業教育に於て深く此辺に御留念相願度懇祈之至ニ候、是れ或は得蜀望隴之嫌有之候も、婆心一言申添候間、篤と御考慮被下度候、右拝祝旁一書可得貴意如此御座候 敬具
  大正十二年五月十日
               大磯寓居ニ於て
                     渋沢栄一
    水島賢台
        玉案下


神戸高等商業学校開校二十周年 記念講演及論文集 梨本彦八編 第四九六頁 大正一三年七月刊(DK440083k-0002)
第44巻 p.411 ページ画像

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冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

〔参考〕神戸高等商業学校開校二十周年 記念講演及論文集 梨本彦八編 第一―一六頁 大正一三年七月刊 【○記念講演 神戸高商の過去現在及び将来 水島鉄也】(DK440083k-0003)
第44巻 p.411-417 ページ画像

神戸高等商業学校開校二十周年 記念講演及論文集 梨本彦八編
                       第一―一六頁
                       大正一三年七月刊
 ○記念講演
    神戸高商の過去現在及び将来
                      水島鉄也
  本篇は記念講演会開会の辞として陳述した所のものを敷衍したものである。
      一 本校設立の由来と其以前の我商業教育
 本校の法令上に於ける創立は、明治三十五年三月本校設立の勅令が発せられた時であります。併し校舎の建築、教員の組織等諸般の準備が出来て、愈々授業を開始したのは、明治三十六年の五月十五日、即ち今より満二十年前の事でありました。
 本校設立の由来は、之を簡単に申せば日清戦役後に於ける海外発展の時に際し、其衝に当るべき人才の欠乏を感じたのに起因すと云ふに過ぎませんが、何故に本校が神戸の地に設立せらるゝに至つたかと云ふ理由を明かにする為めには、我国商業教育の創始時代に遡つて観察することが必要でもあり、又多少興味のあることゝ考へますから、暫く昔話を聴いて戴き度く思ひます。
 我国最古の商業学校は、明治八年に森有礼子爵に依つて東京銀座に設立せられた所の商法講習所であると伝へられて居ります。同校最初
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の校長は有名なる矢野次郎先生であつて、約十八年間勤続せられましたが、此の学校は創立の際、範を何れに取つたかと申しますと、米国の「ビジネス・スクール」を手本としたものゝやうに思はれる。即ち同校は米国人「ホイットニイ」と云ふ人を教師に招聘して、専ら同氏指導の下に学科目を定め、短期速成の方針を以つて授業を施し、明治十年から卒業生を出し始めて居ります。
東京の次に設立せられたのは、神戸の商業講習所であつた。是れは明治十一年の創立であつて最初の所長は、私と同じく大分県中津の人で慶応義塾出身の甲斐織衛氏でありました。同校も亦東京のと等しく商業の模擬実践を主とした所の米国式の商業学校であつて、明治十二年から卒業生を出し始めて居ります。
 神戸の次には明治十三年に大阪、十五年に横浜、十六年に新潟、十七年に名古屋、十九年に下関・長崎・京都・滋賀の諸校が設立せられました。
 私は最初神戸に学び、次に東京に転じ、卒業後大阪に奉職した関係上、是れ等諸校の歴史を知つて居りますと、最初十年余りの間は何れも皆維持存続の為めに孜々汲々として居つて、学校の内容を改善し教育の効果を発揮するだけの余裕がなかつた為め、商業教育の発達は頗る遅々たるものでありました。
  東京の商法講習所は是初個人の設立より商業会議所の経営に移され、翌年には東京府立となりたるも府会は之が廃止を決議し、農商務省の直轄となり、結局文部省の所属となつたと云ふ次第で、其間渋沢子爵と矢野校長とは非常に奔走尽力せられた。
  神戸のは最初より県立の姿で県費其他の補助を以つて設立せられたものでありました。然し地方税支弁とする事には県会で不賛成が多く、時としては廃止論なども出でて大いに困つた時代もあつたが農商務省の補助等で纔に継続し、明治十九年に至つて漸く地方税支弁となつて居ります。併し其後も折々廃止論に悩まされた。
  大阪のは明治十三年の末に五代友厚氏等数名の発起を以て設立したが、維持困難の為めに翌年に至り之を大阪府に寄納した。併し府会に於ては之が廃止を議決すると云ふ次第で、矢張り寄附金に依つて纔に命脈を継ぐに過ぎなかつた為め成績挙らず、明治二十年に至りて漸く二名の卒業生を出したと云ふ憐れな状況であつた。
 何故に斯くの如く各地とも商業学校が甚だ振はなかつたかと云ふ事に就て私は次の如く観察致します。即ち我国の商業学校は少数なる先覚の士に依つて設立せられたが、其必要を実際に痛切に感じた人は、直接間接に外国貿易に関係を持つた人のみであつて、世間多数の人は古来の習慣に囚へられて、商人には学問不必要なりと云ふ考を持つて居つた為め、折角有志者が学校を設けても之を発達させるだけの資金を供給する者がなかつた為めである。併し斯る事情の下にありしに拘らず漸次発達して来たのは、全く外国貿易の刺戟の為めであつたと私は信ずるものであります。
 現に私は明治十四・五年頃神戸の商業講習所に在学して居りましたが、其当時我国の貿易は悉く居留外人の手に独占せられ、従つて総て
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の取引が彼等自身に都合の好い様に仕組まれて、我商人は唯彼等の命これ従ふの外は無く、貿易の利益の大部分は彼等に壟断せられて居つたのであります。故に我々商業学校の生徒は、実際に之を見聞して実に憤慨に堪へず速かに商権を恢復せよ、我等は外人の手を離れて直輸をなさゞる可らず、我日本の貿易は我々日本人自ら之を行はざるべからず抔と絶叫して居つた事を覚えて居る。かやうにして神戸の学校は兎も角も外国貿易の刺戟に依て徐々と発達して来たが、大阪は日本一の商業地でありながら最も長い間商業学校が不振の状況にあつたと云ふのは、其商人の大部分が内地の商売にのみ従事せる人であつて外国貿易の刺戟を感ずることが鈍かつた為めであらうと私は観察する。東京に於ても商業学校の発達は甚だ遅々たるものであつたけれども横浜に於ける貿易が東京の商人に与へた刺戟は、神戸の貿易が大阪の商人に与へた刺戟よりは遥かに大きかつたので学校も比較的早く盛んになつたのであらうと思ふ。加之、横浜の学校は大阪の学校よりも後に設立せられたにも拘らず、其発達が比較的迅速であつたのを見ても商業教育と外国貿易とが如何に密接の関係を有して居つたかゞ判る。之を要するに我国の商業教育は不必要論者の反対甚しかりしにも拘らず、外国貿易の刺戟に依つて四面楚歌の間に漸次発達したのであります。
 然るに、当時我が商業学校が模範とした所の米国式の商業学校は、短期速成を主としたから修業年限も二ケ年で、且つ米国に於けるが如く内地取引の手続を実地的に教ゆるに過ぎなかつた。夫れですらも、当時の日本の商人には高尚なる学問のやうに思はれたのであるが、実際に於て自ら外国貿易を営み直輸出入を為すための教育としては甚だ不十分なものであつたと云はねばならぬ。
 此辺の理由からでもあらう、我政府は明治十八年に至つて、東京に於て農商務省の商業学校の外に、文部省に於て外国語学校の附属として高等商業学校を開設した。此学校は範を白耳義の高等商業学校に取つて修業年限を四ケ年とし、白耳義から「スタッペン」と云ふ教師を聘して、専ら外国貿易の衝に当るべき人材を養成する事とした。私は神戸の商業講習所を卒業した後更に此の学校に入学いたしました。
 斯の如く、東京には農商務省の管轄に米国式の商業学校があり、文部省の管轄に白耳義式の商業学校が出来た。併し明治十九年に至つて政府は此両校を合併し、同時に高等と云ふ名称を取去り、外国語学校をも廃止して東京商業学校と改称した。そうして矢野次郎氏を校長に任命したから、外観に於ては米国式の方が勝利を占めたやうに見えたけれども、実際に於ては此改革が商業教育上に一新時期を劃して、其内容が大に改良せられ、且つ学科課程が次第に高められて、白耳義式を取り入れたる日本式となり、三年後には再び高等商業学校となつて事実上我国の商業教育の総本山の位置を占むることゝなりました。
 翻て、当時の外国貿易の状況を見ますと、所謂直輸出入は政府も之を奨励し、有志の商業者も亦進んで之を試みたが、失敗に継ぐに失敗を以てし、兎角思ふ程の進歩も出来なかつたが、それでも年一年に直輸出入の数量は増加し、明治三十四・五年頃には、幾分づゝ外人の跋扈を牽制するの力を生ずるに至つて居つたやうに思はれます。
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 斯かる気運を助長したのは、日清戦役でありました、同戦役は我国の存在を世界各国に宣伝し、大に国力を伸ぶることが出来ました。我商人は此機会に乗じて我商品の販路の拡張と直輸出の増進を企てましたが、何分にも戦線に立つ所の人材が少ない為め、思ふ様に海外発展が行はれないと云ふことに気が付いた。即ち此の人材要求の声が各地方に於ける商業学校の増設を促したと同時に、高等商業学校の増設をも促がすに至つたのである。是れが即ち我が神戸高等商業学校の創立を見るに至つた原因であります。
      二 大阪市と神戸市の競争
 明治三十二年に至つて、政府は第二高等商業学校の名称を以て其創立費を帝国議会に要求した。当時政府に於ては之を神戸に設置することに内定して居たが、大阪は之を感付いて、議会に於て建議案を提出して大阪に変更させようと試みた。此の競争は可なり猛烈であつたが結局僅か一票の差で神戸に決定したのである。是に於て大阪は大いに憤起して、明治三十四年を以つて、従来の大阪市立商業学校の程度を高めて高等商業学校に改めた。斯くして双方競争の結果、此の接近したる土地に、相前後して二箇の高商の設立を見るに至つたのは商業教育の為め偶然の獲物でありました。
  其後神戸の関西学院が高等商業部を設けたのと、大阪の関西大学が高等商業部を設けたのは、阪神に於ける我商業教育の発達史上に看過することの出来ぬものである。
 併し何故に政府が第二高商の位置として、神戸を選んだかと云ふに此学校は外国貿易に従事すべき人材を養成するのが主なる目的であるから、之が為めには大阪よりも神戸の方が適当であると云ふ見地から神戸を選んだものゝやうに聞いて居る。今試みに其卒業生にして海外に在留せる者の数を比較して見るに、神戸の卒業生二千百六十八人中在外者三百十九人即ち約一割五分、大阪の卒業生二千六十人中在外者百二十二人即ち約六分(両校共大正十一年十一月調)であるから、神戸は主として対外的、大阪は主として対内的に傾いて居るやうに思はれる。即ち政府の土地選定は其設立の目的に副ふたものと云ふても良いやうに思はれます。
      三 本校創立以後の我国商業教育
 明治八年以後明治三十六年神戸高商開設に至る迄の我国の商業教育発達の状況に就いては、以上其の概略を陳述しましたが、当初は商人に学問不必要なりとの議論の為めに、此教育の発達が甚だしく阻害せられ、纔に外国貿易の刺戟に依つて命脈を維持した位であつた。けれども日清戦役以後に至つては、中等程度以下の商業教育は、内地商業に於ても必須欠く可からざるものと認められた許りでなく、外国への発展及び大規模の商業経営者を養成する為めに、高等商業教育機関の増設を要求する事が頗る急切となつて来た為めに、明治三十八年には山口高商と長崎高商とが設立せられ、四十三年に小樽高商が設立せられたと云ふ次第であつて、甲種乙種の商業学校の各地方に設立せらるるものも亦頗る多く、日露戦役後に於ける実業教育発達は実に急速力でありました。
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唯此間に一つの注目すべき事は、商科大学の件であります。渋沢子爵を始め先覚の士は明治三十年頃より、大学程度の商業教育が我国の為めに必要であると云ふ議論を唱道せられた。即ち時勢の進歩に伴ふて世界各国の経済的競争が益々劇甚となり、又交通機関の発達によつて国際間の経済関係が日に益々密接となつたのみならず、事業経営の方法も次第に大規模となるから、将来の商業界は一層完全なる教育を受けたる人士を要求すると云ふのが、大学必要論の骨子でありました。
併し世人の之に対する態度は、恰も明治八・九年より二十年頃に至る迄の間に、商業教育不必要論を以て此教育の発達を妨害したと同様に、大学程度の教育は商人に不必要なりとの議論を以つて反対した為めに、容易に大学の実現を見ることが出来なかつた。依つて已むを得ざる便宜の策として、東京高商に専攻部と云ふものを設けた。其修業年限は最初は一ケ年であつたが、後に二ケ年として卒業生に商学士なる称号を許す事にした。其後明治四十二年に至つて、東京帝国大学法科内に一分科として商業科が設けられた。併し以上両者とも甚だ姑息な遣り方であつて、決して商業教育界の要求を充たすものではなかつたのであります。然るに大正七年に至つて臨時教育調査会が単科大学の設置を認めたのと、折柄欧洲大戦の影響とに因つて大正八年の春を以て、政友会内閣が其政策として高等教育機関大拡張を断行し、之が為めに商業教育の方面に於ても、愈々東京商科大学の設立と七箇の高商の新設を見るに至りましたことは、我商業界のために吾人の大いに慶賀する所であります。(東京・神戸両高商の昇格と名古屋高商の設立とを加減すれば、大正十六年には商大弐校、高商十一校となる。)
      四 創立後二十年間の神戸高商
 神戸高商は創立の当時には約五百人を収容する目的であつたが、愈愈設立の暁になつて見ると入学志願者が非常に多数であつた為め、四ケ年目には六百人程を収容しました。尚其後も設備の許す限り、多数を入学せしめて七・八年目以後は常に七百人程を収容して居りました然しこれでも尚世間の要求に応ずるに足らないので、大正六年には更に校舎を増築しまして、其後は毎年百人を増募する事に致しました。
其結果現今の在学生は壱千百五十余人に達し、創立当時の予定よりも二倍以上を収容して居る次第であります。
 当校の修業年限は予科一年、本科三年合せて四ケ年であります。故に明治三十六年に開校してから四ケ年の後即ち明治四十年に第一回の卒業生九十二人を出し、其後今年迄に十七回に弐千三百八名の卒業生を社会に送り出して居ります。
 又本校の卒業生は東京高商の専攻部へ入学することが出来る様になつて居りました。専攻部のことは前にも申したが、大学程度のものであつて、東京・神戸両高商の共有でありました。
 斯の如く東京と神戸とは東西相並んで、我国の商業教育上に貢献して来つたのでありますが、東京高商の方は前にも陳べた通り、大正九年を以つて商科大学に昇格して、同時に専攻部は廃止せられる事になりました。従つて我校の学生は卒業の一年前に、商科大学へ転学すると云ふ不便を感ずるに至つたのであります。是に於て我校も亦当然商
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科大学に昇進せられねばならぬとして、玆に所謂昇格運動なるものが我校の学生間に発生したのであります。
 神戸商科大学要求の声は右の如く学生の進路の点よりも発せられましたが、尚此の外に我国実業界の将来の為めにも、神戸の如き貿易地に之を設置する事は必要なりと云ふ論拠から致しまして、本校卒業生は勿論神戸市会及神戸商業会議所も亦各々其会の決議を以つて神戸商科大学の設置を其筋に要望することゝなりました。
 爾来四ケ年余の間此問題は未解決の儘種々の紆余曲折を経ましたが大正十二年三月に至つて漸く帝国議会の協賛を得て、大正十六年より大学に改めらるゝ事になりました。併し神戸商業大学は東京商科大学と比較して著しい相違があります。即ち東京には大学予科と専門部とが附設せられてある。而して同校に入学する大部分の学生は予科から進んで行くのが本体であつて、其専門部と他の高商より入学するのは傍系に過ぎず、其数も亦多くないのであります。
 然るに神戸商業大学には予科を設けずに、高等学校と高商と双方から其学生を収容する計画になつて居ります。加之、神戸には専門部をも附設せぬことになつて居るのであります。
 予科は兎も角として、専門部をも設けぬと云ふことは、神戸市民の為めには甚だ不利益であるから、是れは是非附設せられ度いと云ふのが神戸市会及商業会議所の熱心なる希望でありまして、昨年から此点に就いて度々当局者に申出た事がありますが、只今の処では政府はまだ之を承諾するに至りませぬ。是れは将来どう解決せらるゝか本校に取つては重大なる問題でありますから、何とか速に解決を見たいと希望して居る次第であります。
      五 神戸商業大学
 東京のは商科大学と称せられて居るが、神戸のは商業大学と云ふ名称が用ひらるゝ事になつて居ります。何故にかゝる名称を付するかと云ふに、神戸のは一層応用に重きを置くのださうであります。併し商業学は素より応用の学問であるから、商科大学と商業大学とどれだけ相違が生ずるかは疑問であるが、兎も角両者は各々何等かの特色を有することにはなるであらうと考へます。
 私は前に我が商業教育は、外国との貿易を行ふことの必要に促がされて発達したものであると申しましたが、等しく外国貿易と称へても最初は我が国の物産を直接に我々の手に依つて外国に輸出する、即ち直輸出をなして外国人の利益の壟断を牽制すると云ふのが目的であつた。夫れから進んで直輸入を行ひたいと云ふ事になり、更に進んで日本の外国貿易の大部分を我が商人に於て独占し度いと云ふやうになり追ひ追ひ希望の増進するに伴ふて教育程度を高むることになり、米国式より白国式に移り、二年制より三年制・五年制に変り、更に高等程度のものが出来、尚進んで大学も設けらるゝに至り、今では日本独特の制度になつて来たと云ふのが是れ迄の経路であるが、今後は如何なる目標に向つて進む可きか、我々は過去の歴史に鑑みて将来の方針を定むるとすれば、我が商業教育上特に注意を要することは次の如き点では無からうかと私は考へて居ります。
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 我が国の貿易は我商人の多年の努力と、欧洲戦争の影響とに因つて今や大部分我商人の手に帰したと云へる。此以上に外国商人を駆逐すると云ふ事は困難でもあり、又不得策でもある。されば我々は是れで満足せねばならぬかと云ふに否大に然らずと云はねばならぬ。将来の我商人は是迄の如く、日本と外国との貿易に従事するのみでは足りない、尚進んで外国と外国との間に於ける商業にも割込んで盛んに活動するに非ざれば大なる仕事は出来ません。大に国富を増進する訳には参りません。支那と米国との間、南洋と欧洲の間其他何れの地を問はず、商業には国境は無い、我が船舶も之に因て世界的に動き、銀行も保険業も之に因て益々其営業区域が拡張せらるゝ事になる。尚夫れ計りでなく、我が国人は盛に外国に放資し各種の事業を経営するやうにならねばならない。内国に於て蝸牛角上の争に没頭して居るやうでは甚だ不利益であるのみならず、今日以上に我国民の発展は望まれません。故に我が将来の商業教育は如上の方針に適応するやうに一層工夫を凝らす必要がある。即ち中等学校でも専門学校でも同様でありますが、特に将来の商業大学に於ては此点に重きを置かねばならぬと私は考へます。況んや、此の神戸の地に設けらるゝ商業大学は、此の世界的国際商業の衝に当るべき人材の養成を以て、其主要なる目的となさねばならぬ。是が即ち、神戸商業大学の使命であると私は信ずるものであります。



〔参考〕礼状往復(二)(DK440083k-0004)
第44巻 p.417 ページ画像

礼状往復(二)               (渋沢子爵家所蔵)
                 (太字ハ別筆朱書)
                 昭和三年十二月二日
                 神戸高等商業学校長田崎慎治氏来状 弔詞御礼
拝啓、陳者十二月一日水島鉄也氏校葬ノ節ハ御懇篤ナル御弔詞ヲ賜リ候段感謝之至リニ奉存候、不取敢校員凌霜会員及水島家遺族一同ニ代リ右御厚礼申上度如斯御座候 敬具
  昭和三年十二月二日
               神戸高等商業学校長
                     田崎慎治
    子爵 渋沢栄一閣下
             執事御中