デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
1節 実業教育
7款 大倉高等商業学校
■綱文

第44巻 p.434-441(DK440091k) ページ画像

大正5年1月11日(1916年)

是日栄一、当校ノ始業式ニ臨ミ、生徒ニ対シ訓話ヲナス。同七年十月二十七日、当校校友会雑誌ノタメニ「道徳ト経済」ト題スル講話ヲ口述ス。


■資料

集会日時通知表 大正五年(DK440091k-0001)
第44巻 p.434 ページ画像

集会日時通知表 大正五年        (渋沢子爵家所蔵)
一月十一日 火 午前十時 大倉商業学校始業式(同校)


中外商業新報 第一〇六八二号 大正五年一月一二日 ○大倉商業始業式(DK440091k-0002)
第44巻 p.434 ページ画像

中外商業新報 第一〇六八二号 大正五年一月一二日
○大倉商業始業式 大倉商業学校にては十一日午前十時より始業式を挙行したるが、立花校長の勅語捧読に次で同校評議員末松子爵、同渋沢男爵の趣味多き訓話あり、最後に校主大倉男爵の訓辞ありて十二時式を終れり、因に同校生徒は此冬期休暇を利用して京都に修学旅行を試み、御大礼諸設備を拝観したりと


竜門雑誌 第三三二号・六〇頁 大正五年一月 ○大倉商業学校始業式(DK440091k-0003)
第44巻 p.434 ページ画像

竜門雑誌 第三三二号・六〇頁 大正五年一月
○大倉商業学校始業式 大倉商業学校にては一月十一日午前十時より始業式を挙行したり、先づ立花校長の勅語捧読あり次いで同校評議員青淵先生、同末松子爵の訓話あり、最後に校主大倉男爵の訓辞ありて十二時式を終れりとなり。


竜門雑誌 第三四〇号・第二九―三六頁 大正五年九月 ○大倉商業学校始業式に於て 青淵先生(DK440091k-0004)
第44巻 p.434-439 ページ画像

竜門雑誌 第三四〇号・第二九―三六頁 大正五年九月
    ○大倉商業学校始業式に於て
                      青淵先生
  本篇は本年一月十一日大倉商業学校始業式に於ける青淵先生の訓辞なりとす。(編者識)
 臨場の諸閣下、諸君、今日本校の始業式を挙行するに付て、私にも出て学生諸君に一言を述べるやうにと云ふ此程校長より御委嘱がございました、元来私は本校の卒業式若くは始業式には参上すべき位置に居りながら、平素繁多の為に毎々欠席を致して、諸君に御目に懸るの機会が甚だ乏しいのを遺憾と思ひます、又石黒男爵も今日は御出がないから、是非私に出席して一言を述べるやうにと、両三日前大倉男爵から懇切なる御申聞けがございましたから、玆に罷出た次第でございます、私は昨年亜米利加に旅行致しまして、帰り早々種々な雑務に追はれ居りましたので、急の御申聞けに依て参上は致しましたが、特に諸君を益すべき意見を有つて居りませぬのを甚だ遺憾に思ひます。
 亜米利加旅行中に大分米国の老人に会見を致したのでございます、校主大倉男爵も本年は八十になられるから、最も老年の御方と申上げて宜からう、斯様申す私も喜の字の祝ひをすべき歳に当るのであります、矢張り老人の部分に入りかゝつて居ります、諸君から見たならば最早世の中を引込んでも宜からうと言はれるであらうが、私はまだ漸く老境へ足を踏込んだ位に思つて居ります、是は諸君の為に言ふので
 - 第44巻 p.435 -ページ画像 
ある、何故ならば諸君とても何時までも同じ紅顔の美少年で居ることは出来ぬ、年々歳々花相似たり、歳々年々人同じからず、昨日までの美少年も今日は蹉跎白髪の歳を歎ぜざるを得ぬ、私も本年七十七になつたから初老に入る位に思つて居る、斯の如くにして人は其勇気を鼓舞したら幾分か世の中に功能があり得るだらうと思ひます、昨日の時事新報に故福沢先生が自己の還暦の宴に於ける演説が書いてありました、多分諸君も御読みになりましたらう、長い演説であつたから細かには覚えて居らぬが、詰り老人が世間から貴いと言はれるがどう云ふ訳であるかと云ふことをば、事実的に研究して自身を言現はした演説のやうに見ました、当時私も聴いたかも知れませぬが、数十年経つて再び新聞紙に書かれて見て大層私は感じました、常に私はさう云ふことを申して居ります、恰も福沢翁の還暦の宴の演説の如く、人が唯世の中に生存するに長く生きてさへ居れば世の中に貴ばれると云ふことならば、二人も三人も継続すると幾らでも長くなる、これでは何にもならない、唯無意味に世の中に生存して居れば宜いかと云ふとそれは所謂空々寂々の人である、少し漢学的に評すると酔生夢死の人であるさう云ふ塩梅に長寿を保つて果して是が貴いか、唯長寿さへすれば貴いと云ふことになると、さう云ふ理窟も生ずるのであるけれども、福沢翁はさうは言はれぬ、其長寿を貴ぶのではない、抑も人が世にあつて、其働きが国家社会に対して相当なる効能があると云ふことが長くなる程貴くもあり目出度もある、即ち長寿は玆に於て価値あるものである。福沢翁の還暦の御祝ひは何年であつたか知らぬが、翁は其昔三百諸侯の存在し、封建制度の盛んに行はれて、武士と町人百姓との階級が厳格であつて、漢学と武術とで人心を維持する時代にあつて、欧羅巴文明を移入して此国家の進運を謀らなければならぬと云ふ覚悟を定め、一意これを鼓吹して、爾後変化の激しい時勢に向つて翁自から其変化を支配する一人となられて世の中を指導し誘掖した故に、翁は時代の変化に遭遇すると同時に、其激浪怒濤をば利用して自家の所信を貫徹したのである、斯の如くば長く此世に在るのを人も貴ぶであらう、自分も又愉快に感ずるのである、私は何れの方面の学問でも事業でも、人の世に立つには是非左様な趣味ある人になることを青年諸君は御心掛けありたいと思ひます、是は私が福沢翁の還暦演説を見て自己の持つて居つた希望を言ひ現はしたのでありますが、私は更に今回亜米利加旅行中数名の老偉人に会ひました、其老人中に斯う云ふ人があると云ふことを玆に申上げて見ようと思ひます。
 今度の私の亜米利加旅行は別段他の使命を帯びたでもなく、又特に嘱託された用事もなかつたが、現に欧羅巴の戦争に付ては亜米利加の商工業には大なる変化を来して居る、亜米利加は実に幸福を受けて居る、既に天恵の多い米国が此欧羅巴の戦争に付ては、軍需品でも鉄材でも、其他の商工品でも、敵味方の差別なく亜米利加の物資に依頼すると云ふの景況であります、既に昨年の貿易高でも二十億弗余輸出が超過したと云ふ有様で、甚しい富を増して居る、其結果亜米利加の商業は更に大なる発展をするであらう、而して其発展は自国にも発展するであらうが、必ず内に余りあれば外に溢るゝの道理で、南亜米利加
 - 第44巻 p.436 -ページ画像 
にも発展するであらうが、其鋒先が東洋に向くと見なければならぬ、其東洋と云ふは所謂支那である、翻つて吾々が支那に対する位地からの企望は、斯の如く人種を同じうし、言語文章風俗の相接近する所謂唇歯輔車相倚ると云ふことは諸君も御承知でありませう、従つて其の福利を受ける事も多いと同時に禍害を蒙る事も亦甚しいのである、それ故に吾々は常に相当なる注意をしなければならぬのは申すまでもないのである、玆で以て曩に大倉男爵が本渓湖に鉄業を企てられた、其他三井でも岩崎でも横浜正金銀行でも南満鉄道会社でも支那に向つて種種なる経営をして居られますが、私も自己の力としては大いに為すことは出来ませぬけれども、一昨年から心配して単に個人的でなく、国家的に経営したら宜からうと云ふので、中日実業会社と云ふものを創設して現に働きつゝあります、斯の如く支那に対して帝国の事業の発展を望んで居るのでありますが、やがて亜米利加から激浪怒濤の有様で進んで来るに相違ないのでありますから、日本の商工業は此亜米利加と競争もしなければならぬ、是等のことに付ては亜米利加の有力者に向うて、自分の考へて居ることを能く話して置く必要があらうと考へたのであります、要するに亜米利加に旅行した用向は何であるかと云ふと、加州の移民問題と前に述べた事が重なる目的であつた。
 そこで此旅行中に前に述べた老人達に会つた、是からが本問題になるのであります、先づシツツブルグ市に大会社を設立して缶詰の製造をして居るハインヅと云ふ人があります、是は各種の漬物を缶詰にして手広く経営して居る、其漬物の数が五十七種あると云ふことで桑港の博覧会にも出品して居りました、此ハインヅ氏は老人でありますから、会社の当務は若い人に経営をさして居りますが、至て矍鑠として居つて、決して老人を以て自から甘んじて居らぬ、私の会見した用向は彼れが日曜学校の事に関係して居る為めに其日曜学校の大会を日本に開催するといふ事に付ての引合であつた、亜米利加では下級の労働者は通常の日には学問が出来ぬから、日曜学校を開いて教へて居ります、是は基督教の人々の多数の協力にて出来た学校でありまして、其方法も誠に親切に行届いて居ります、其日曜学校の仲間が段々拡まつて今は日曜学校の会員が何百万と云ふ程あるといふことであります、而して其大会を欧羅巴に於て又は亜米利加に於て隔年又は三年目位に開催して各地の実況を報告する、近来は世界大会として開催され、一昨年瑞西に於て開かれたのが七回目の大会であつた、而して此次の会は日本に開きたいと云ふて日本の宗教家連中が是非とも世界の仲間入をしたいと云うて一昨年から其援助を依頼されて其会の日本に開かれる時には、大倉男爵などとも協力して世話をしてやらうと思ひます、来会の人数は中々多数であるから、交通の機関なり、旅宿の始末なり余程の厄介と思ひますので是等のことに付て私はハインヅ氏に相談したのであります。此ハインヅ氏と云ふ人は今年七十三・四歳の老人で日曜学校の関係は如何なる意思を以てやつて居るかと云ふことを承つて見ると、実に敬服すべき覚悟である、彼れの言ふには、自己の経営は漬物缶詰の事業に依て段々新知識を開いて発展して行くから宜いけれども、詰り一身の安心立命、即ち神に仕へ国に尽すと云ふ観念は凡
 - 第44巻 p.437 -ページ画像 
そ人たるものは自己の為めのみ生存するものでないと云ふことを深く了得して居る、是は私が種々の方面から談話をして見て、此老人の今日有る所以を理解した、氏は如何なる理由から日曜学校に斯様に強く力を入れるかと云ふことに付て其心事を承ると、物質的の富を致すと云ふことにも深く心を用ふるけれども、単にそれだけが人の世に居る主眼ではないのである、唯物質の富だけを主眼とする国民であつたならば、誠に憐むべきものであるといふて居る、丁度只今末松子爵が国家観念のない人民は決して忠良なる国民とは言はれぬぞよと云ふ御訓戒がありましたが、是は深く謹聴すべきことである、一面から論ずると、余りさう云ふ観念の強いと云ふことも悪くすると商業上の御誡に「勝つて負ける」と云ふ有様になるかも知れぬが、併し人は其人格を貴ぶと云ふのが最も必要なることで、唯自己さへ利益すればそこで満足だと云ふやうな了簡では、悪くすると前に申す空々寂々酔生夢死に終るやうになる、亜米利加の国民は功利に敏なる国民でありながら、ハインヅ氏の如き精神ある人が多いのであります、これが亜米利加の富の堅実なる所以と私は感服したのであります。
 続いてヒラデルヒヤ市に到りてジヨン・ワナメーカー氏に面会しました、同氏は費府に於る大デバートメントストアの主人であります、東京市に有名なる三越なども此ワナメーカー氏の亜米利加式を看倣うて居ると言つても過言でないと思ひます、実に盛大なる店舗であります、ヒラデルヒヤ市と紐育市の二ケ所に於て広大なる店を持つて居ります、其店舗の段階が十四・五階もあつたらう、来集する人が一日何千人か知らぬが私の訪問したのは十一月の二十七日の晩でありました氏は其店頭に私の来着を待つて居られましたが、六時頃到着しますと遠来の客を迎へると云ふ誠意でありましたらう、大なる両国の国旗を店頭に掲げて其上に綺麗なるイルミネーシヨンを飾つてあつた、店内には来集の客が一杯に集つて居りました、私の自働車が店頭に着すると、主人の案内で階上階下と諸方を巡覧しました、其時の有様は何やら竜宮へでも赴いたやうな感じがする位でありました、氏は其翌日私の旅宿へ来られて緩々と両人で精神的談話を交換して見ましたが、氏は其時七十七歳と言ひましたから日本の年では当年七十九になつて居るのであります、私よりは二歳の年長者であるが身体も矍鑠として居るし、意気も至つて明晣で、記憶力と云ひ理解力と云ひ豪いものであつた、成程これだけの新事業の発明をして且其経営も巧妙であつて斯く発展したのである、而して実務に対する手腕以外に、恰もハインヅ氏と同じやうに、総じて国民は信仰心を有たなければならぬ凡そ人たる者は充分なる信念を備へ、之れに加ふるに完全なる知識を持つて初めて人格と云ふものが生ずるのである、若し才能があつても鞏固なる信念が無ければ人格があるとは言はれぬと言ひました、詰り基督教の真髄を抱持して居る人と思ひました、それから段々と長時間の談話で氏の幼少の時から奮励努力して今日に及んだ話を聞き、私も又農民から浪人となり、或は官吏となり、終に今の身分となつたる履歴を話しました、氏は十歳の時に日曜学校に通つて初めて耶蘇教に深い趣味を有つた、私は孔子の教へで安心立命を得ましたが、彼れは孔子の教へ
 - 第44巻 p.438 -ページ画像 
も宜いけれども、支那の現在を見ると悲しいかな孔子の教へは死んで居る、これに引替へて耶蘇教は益々活動して居る、別に欧羅巴であるから宜い、東洋であるからいかぬと云ふではないが、是非とも貴下は耶蘇宗教になつて呉れ、と而も二十八日の午後日曜学校の会堂に於て多数の来会者の中にて宗旨替の事を勧誘せられて私は大に困却しました、唯一日の談話ではありましたが、ワナメーカー氏が斯る盛大なる事業を経営すると同時に、精神上に深い信念を以て日曜学校の世話を専心にやつて居らるゝは大に賞讚して宜からうと思ふのであります。
 それから又方面は変りますが、紐育に於て大北鉄道の社長であるゼームス・ヒルと云ふ人に会見しました、此人も本年七十九歳であります、想ふに此人は又宗教ある人でありませうが、私は氏と左様な談話には及びませぬが、真摯なる経済的意見を以て日本の製鉄事業に付て甚だ注意勉強が足りぬと云ふことを申された、蓋し親切なる意味からして非難の如き口気にて私に向つて種々の意見を述べられた、其要旨は、どうしても国家の富強は製鉄事業に関係する、故に真に国家の経済に注目するものは製鉄事業に重きを措かねばならぬと言はれた、蓋しヒル氏はカーネギー氏の如く製鉄事業を経営して居るのではありませぬ、併し大北鉄道会社は沢山なる鉄鉱のある鉱区を所有して居る、それも元はヒル氏の所有せしを大北鉄道会社に譲与して、大北鉄道会社は主として鉄の運搬をやつて居るといふことである、斯の如き関係から即ち鉄に対する観念が非常に強いのである、ヒル氏は一見して実に田舎の老爺と云ふやうな風で、見窶らしい、併しながら其精神は支那人が形容する鉄石の心腸を備へたのである、此人は又別に一つの変つた趣味を有つて居る、これは農事である、氏は亜米利加の農業が余りに放漫である、斯の如き放漫なる仕方は決して完全なる農業とは言はれぬ、日本は之に反して集約的である、日本の一エーカーの収穫の割合は亜米利加に比べると三倍もあると言うて、亜米利加の農業の粗笨なるを憂へて居りました。
 更に今一人ボストン市のハバート大学の名誉総長ヱリオツトと云ふ人であります、亜米利加の歳で今年八十二歳と聞きました、此人は実に精神の鞏固なもので、学者として政事家と評して宜いのであります学者的政事家である、ハバート大学に力を添へて居りますが、亜米利加の国政に付て常に批評を加へて居る、日本の対支政策に付ても種々の評論を下して居る、是は公言して宜いかどうか知れませぬが、我国の政策に対しても一の意見を提出したと云ふことである、目下の欧羅巴の戦乱に付て種々講究して居りました、蓋し其大なる人格に依りて自己の信ずる所を行ふ人と見受けました。
 尚ほ其上に紐育府の仲買商にヘンリー・クルーといふ人も八十以上である、此人は明治の初年に伊藤公が米国に行かれたる時に種々世話をしたというて自慢して居るが、是等は唯商業に従事して居るに過ぎませぬ、前来述べましたハインヅ氏、ワナメーカー氏、それからゼームームス・ヒル氏、ヱリオツト氏抔と云ふ人々は何れも七十二・三から八十二・三迄の老人であつて、而して如何にも趣味ある勤めを為し敬すべき考案を持つて亜米利加の各方面に向つて力を尽して居る、成
 - 第44巻 p.439 -ページ画像 
程亜米利加は物質的に大なる働きもあるが、又精神的の人物も沢山あると思ひました。
 米国に右様なる人々のあるを見ても甚だ羨しう感じて、どうか日本に於ても唯酔生夢死の老人のみならぬやうに希望するのであります、斯る談話は青年諸君には一向面白くないやうに聞えて老人の繰言は一向詰らぬと言はれるかも知れませぬが、諸君も何時までも青年では居らぬ、必ず老人になるのであります、私も諸君よりもつと小さい時もあつた、これが段々歳を取つて今日になつたのでありまして、此老人になる迄の経過は、即ち諸君が今其行程中にありますから、諸君は唯他人の事だと云ふやうな心得を以て御聴き下さらずに、所謂自己に適切なる注意として聴いて戴きたいのであります、此大倉商業学校の学生が残らず豪い天才であることを望むのではない、併し多数の人が完全なる人格を備へ、精神と知識と兼備するので国家は初めて強いのである、これが真の国家の望みであると云ふことを只今末松子爵が御懇切に御述べになりましたが、私も常にさう云ふことを希望して居ります、一体国家は幾千万の人が居つても、人格ある人が少くては完全とは言はれぬ、又豪い人が少数であつては其国が豪いとは言へない、紐育に五十階の家が一つあつてもそれで豪いとは言はれない、軒を並べて十四・五階の家が揃うてこそ、立派なる市街と言はれるのである、国家も其通りで、豪い富豪がたつた一人あつて其国が富国とは言はれぬ、其他が皆貧窮であれば却て其国は貧弱であります、故に真誠なる国家の健全は中等社会にあると政治家も学者も皆言うて居られるのである、諸君は其位置に進むべき人でありますから、幸に亜米利加旅行中四・五人の老人に会うて、其観察を此処で申述べたのであります、諸君とても終には老人になられるのでありますから、玆に老人を以て諸君に対する御土産としたのであります。


(私立大倉商業学校) 校友会雑誌 第二六号 大正八年三月 雑誌の出るまで(DK440091k-0005)
第44巻 p.439-440 ページ画像

(私立大倉商業学校) 校友会雑誌 第二六号 大正八年三月
    □雑誌の出るまで
○上略
十月二十四日○大正七年 休日を幸に朝渋沢男爵を訪問する。門の近くまで来ると警笛の音がした。南無三遅れたと思ひながらよく耳を澄ますと、それは王子駅の汽笛の響であつた。御多忙中にも拘らず、編輯子は特に御面会の栄を賜はつた。御寄稿をお願ひする。男爵
「宜しい。然し今日は一寸忙しいから、二十七日の日曜に話してあげますからそれを書いて下さい」
 編輯子の便利をお取り計らひ下さつて、特に日曜にして下さつたのだ。嬉しくてたまらない。厚くお礼を申し上げて帰つた。早く日曜になればよい。土曜日の夜などは落ち着いて寝られなかつた。
十月二十七日 怪しく曇つた故か五時半と云ふのに外はまだ薄暗い。赤十字前から電車を飛ばして飛鳥山に向ふ。七時半お伺ひする。急用で早稲田へ御出掛けになるところを、特に長時間に亘つての御話を忝くした。編輯子の筆記不なれのために閣下御趣旨の万分の一をも書き表はすことの出来なかつたのは、閣下に対して申訳がないばかりでな
 - 第44巻 p.440 -ページ画像 
く、又委員の深く遺憾とする所である。○中略
十一月二十一日 渋沢男爵をお訪ねする。「まだ訂正してない」とのお話
○中略 原稿を印刷屋に渡したのが、忘れもしない一月の十七日。
 その前日、即ち十六日。渋沢男爵から電話を戴いた「原稿の訂正が出来ているから、三時頃に兜町の事務所へ取りに来るやうに」
 電車が遅いと焦燥りながら三時十分にお訪ねした。御多忙中をわざわざ御面会を賜はつた上手づから御渡し下さつた。御繁用中わざわざ御訂正下さつた事はありがたくお礼を申し上げる次第であります。
○下略


(私立大倉商業学校) 校友会雑誌 第二六号 大正八年三月 道徳と経済 協議員男爵渋沢栄一閣下(DK440091k-0006)
第44巻 p.440-441 ページ画像

(私立大倉商業学校) 校友会雑誌 第二六号 大正八年三月
    道徳と経済
                 協議員男爵 渋沢栄一閣下
 往古、経済状態の幼稚で生活資料即ち衣食住の物資の容易に得られた所謂自給経済時代に在つては、交易の事未だ行はれず、随つて他と交通する事がなかつたので勢ひ道徳の必要も起らなかつたのである。然しながら人の慾望は時代の推移、文明の発達に伴ひ次第に増加発達するものであつて、終には吾人の独力に依つて充足し能はざる様になり、他の力を借りなければならなくなる。即ち交換の必要が起つたのである。凡そ吾人々類の慾望は、一方に於て無限に増進すると共に、一方に於て種類と分量とを異にする。是に於て需要の差が起る。又生産は各地方に於て過不及の差があると同時に、土地に適不適がある。是に於て給需の差違を生ずるに至る。即ち甲は乙の物を欲し、乙は甲の品を望む。甲地は甲種の生産に適し、乙地は乙種の生産に適す。是に於て甲乙二者の間に分業起り、甲乙両地の間に交換が行はれる。斯くて甲乙両者は互に相助けて其の慾望を充足し、甲乙両地は互に相交換して、其の不足を補ふ事が出来る。
 経済は学問としては一種の専門の科学であるが、経済が物質的財貨の生産、有無相通、過不足相補、分配等を以て本領とする以上、其の発達は社会の幸福を増進せしむるものであるから、到底道徳と関係を保たねばならぬのである。何となれば、殖産・交換・分配の如きは、之を為す人の人格如何に関するものが多いからである。殊に交通機関・度量衡・貨幣・銀行・取引所等の発生を始め、信用取引は勿論、内国商業より外国貿易にと其の範囲の拡張発展せるは、人格の良否と密接不離なるものであつて、其道徳を根拠とする事は蔽ふ可からざる事実である。是即ち経済より見たる道徳である。
 抑々、個人としても亦社会としても、普く仁義に拠り、済民を図り国家社会をして秩序的発展を遂げしむる為には、経済を待つて初めて効果を奏するものである。論語に『博ク民ニ施シテ能ク衆ヲ済フ事有ラハ、仁ト謂フ可シ。』とあるは是が為である。蓋し人類は、外界の物資を摂取し生活を続けて行くもので、此の物資に対する慾望を程よく充足せしむる事が、経世済民の要諦である。勿論人の慾望が所謂物質的慾望のみに止まらざる以上、物資に依らずとも、経世済民を図り得る場合がないではない。然しながら此の如きは、寧ろ人生々活中の
 - 第44巻 p.441 -ページ画像 
一小部分を占むるのみである。道徳仁義を切論したる孟子の如きも、恒産なければ恒心なしと云ふ風に、尚道徳の背後には財の力を認めて居るではないか。而して経済は財の生産、分配及び消費を司るものであつて、物質的資料を供給する所以である。然らば(国家或は人生)最高の理想を実現する為には、経済学は無くてならぬものであると云ふ事が出来る。即ち是が道徳より見たる経済である。
 経済学は消極的に云へば、物質的資料を克己力に依つて、濫に是を消費せずして倹約を守るにある。消費しない物質的資料を蓄積するが故に、或は之を子孫の為に遺す事も出来れば、慈善事業、或は社会有益なる事業に消費する事も出来るから、節倹は道徳的意味を有するのである。
 経済は積極的に之を云はば、生産、交換及び分配に対する忠実なる勤労にある。殊に生産の如きは忠実なる勤労に待つと否とに依つて其の結果に甚だしき相違を来たすは云ふ迄もない。交換の如きも亦、忠実なる勤労に依り、信用の基礎を鞏固にすることが出来る。交換の際に相手を欺くは、信用を破壊する所以である。分配は固より正義に基づかなければならない。分配の不公平は、労働者対本主義の紛紜となる。社会主義の勃発するのも、亦此所に起因するのである。果して然らば道徳と経済との関係は、毫も疑ふ余地のないのである。



〔参考〕集会日時通知表 大正五年(DK440091k-0007)
第44巻 p.441 ページ画像

集会日時通知表 大正五年        (渋沢子爵家所蔵)
十一月二十二日 水 午後五時 大倉商業学校協議員会(大倉男邸)



〔参考〕集会日時通知表 大正八年(DK440091k-0008)
第44巻 p.441 ページ画像

集会日時通知表 大正八年        (渋沢子爵家所蔵)
一月二十九日 水 午前八時 立花寛蔵氏来約(飛鳥山邸)



〔参考〕渋沢栄一 日記 大正八年(DK440091k-0009)
第44巻 p.441 ページ画像

渋沢栄一日記 大正八年         (渋沢子爵家所蔵)
一月二十九日 半晴 寒
○上略 八時立花寛蔵氏来リ大倉商業学校ノ事ヲ談ス○下略



〔参考〕集会日時通知表 大正八年(DK440091k-0010)
第44巻 p.441 ページ画像

集会日時通知表 大正八年        (渋沢子爵家所蔵)
二月十四日 金 午後五時 大倉商業学校評議員会(ホテル)
○御引籠リニ付御断リ