デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
1節 実業教育
14款 東京工業専修学校
■綱文

第44巻 p.513-518(DK440116k) ページ画像

大正10年5月31日(1921年)

是年三月三十一日、元東京高等工業学校付属工業補習学校ヲ協調会ニ移管シ、校名ヲ蔵前工業専修学校ト改称ス。栄一、協調会副会長トシテ之ニ参与ス。是日、蔵前東京高等工業学校ニ於テ開校式挙行セラル。栄一之ニ臨ミ演説ヲナス。


■資料

集会日時通知表 大正一〇年(DK440116k-0001)
第44巻 p.513 ページ画像

集会日時通知表 大正一〇年       (渋沢子爵家所蔵)
五月卅一日 火 午後四時半 協調会経営蔵前専修学校開校式(高等工学校)


竜門雑誌 第三九七号・第六六頁大正一〇年六月 ○蔵前工業専修学校開校式(DK440116k-0002)
第44巻 p.513 ページ画像

竜門雑誌 第三九七号・第六六頁大正一〇年六月
○蔵前工業専修学校開校式 元東京高等工業学校附属工業補習学校は今般協調会に於て経営する事となり、校名を蔵前工業専修学校と改称し、五月卅一日午後四時半より其開校式を挙行したるが、当日は青淵先生にも出席せられたる由。
   ○当校ハ後ニ、東京工業専修学校ト改称セリ。本款大正十五年九月一日ノ条参照。


竜門雑誌 第三九八号・第二七―二九頁大正一〇年七月 ○交温主義 青淵先生(DK440116k-0003)
第44巻 p.513-515 ページ画像

竜門雑誌 第三九八号・第二七―二九頁大正一〇年七月
    ○交温主義
                      青淵先生
  本論は本年三月廿一日東京高等工業学校附属工業補習学校が、今般協調会の監理に移る事となりしを以て、生徒一同を会し青淵先生が協調会を代表して講演せられたるものなりとて、「工業生活」第五巻第十二号に掲載せるものなり。(編者識)
 今日予は財団法人協調会を代表して、本会が附属工業補習学校に関係を有するに至つたにつき、一言を述ぶる光栄を有するものである。
 協調会の事業は資本と労働との調和を図るは勿論、社会政策の調査実行等あらゆる方面に関係して居るが、工業に従事する人々の教育について力を尽したいと思ふのである。今日の日本は農業や商業の方面計りの発達ではいかない、大に工業の進歩を図らねばならぬ。而して近時工業の進歩は著しく到底昔日の比でない、今日の発達は諸君の祖父母や、父の時代に政事家や、事業家が心配して努力をした結果に外ならず、今日偶然に生れ来たものと思はないで、昔を偲びて先輩の苦心を感謝せねばならぬ。恰も人の生るゝや、父母の保護を受け、哺育の賜に依りて段々知徳進みて、一人前の成育を為すと同じく世事皆左様であることは三尺の童子も知る処の事実である。
 昔日、我国の工業は誠に幼稚なものであつた。商人の如きも、大多数は小売商人や、糶呉服商の類にて、理智を加へた大仕掛の商業とい
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ふものはなかつたのである。工業にしても手内職に過ぎない、所謂家内工業といふべきもので、大資本をかけるの要はない、又学問も入らぬ、知識もいらぬ、商売の法も商売往来といふやうな一冊位で、経験を主とし、規模の小さな事のみであつた。
 工匠についても刀鍛冶の正宗とか、左甚五郎といふ名工なきにあらねども、是れ一家の熟練と経験とによつて独特の技能を有したまでゝ之を組織的に一般に伝授普及せしむるといふ事はないのである。而して今の如く資本家と労働者といふ関係でなく、師弟関係、主従関係である、弟子が師匠に背いたために、虐使虐待を受けても黙つて居なければならぬ境遇であつて、今日の如く労資の争闘などといふことは夢さらない。全く組織的に資本と労働と対抗するといふやうなことは殆んどないのである。こういふ風にては商売も振はなければ工業も進まないのである。
 維新後に至りて欧米の状態を観て、大規模の組織により商工業を経営して見たが、始の内は何れも失敗に終つたが、段々進んで来て今日の進歩を見るに至つた。今の程度に至るは先輩の苦心も中々なものであり、幾多の艱難を経たといふことを考ふべきである。予は明治十一年頃から王子の西ケ原に住んで居る、当時見渡す処煙突は只僅かに一つのみ、恰も蛍の光の如くかすかに光のほの見ゆるのみであつたが、今日にては百本も煙突が突立つて居て、夜などは恰も不夜城見たやうで、昔日とまるで異つて居る。これは資本家労働者の丹精の賜といはねばならぬ。
 家内工業より進んで組織的の工業に移り、一工場にても数百人を雇用するに至れば、到底昔日の如く師弟関係や、主従関係を以て取扱ふことは出来ない、資本者と労働者の両方に劃然と分るゝのである。昔は労働者は無意識的に経験を主として働いて居たもので、知識もなければ固より学問的の素養もない、併しながら時勢の進歩と工業界の発達と共に人智進みてこゝに労働者は一団体を作り資本主に対抗するといふことになつたのである。工業界の進歩に伴ひたる一弊害であるけれども、之は止むを得ない。世の中は相持ちのもので一方ばかり善くても他方に害があつてはいかぬ、資本家もよければ労働者も満足する我もよし人もよし、全体が完かれとあるのが国家社会の成立する所以である。
 こゝに方面は異つて居るが、嘗て或る米国の銀行家が英人ギブアルトといふ男に米国の銀行と英国の銀行とは経営方針にどんな差異があるやと問ふた。すると、ギブアルト答へて只一つ差がある、英国の銀行家は人の金を集めて、それを貸すが、米国の銀行は之に反して銀行の金を人へ貸す丈が違ふといつた。言葉は簡単な事ではあるが真理が含まれ居る、英国人はよく他を信用する、銀行を信用してよく預ける故に銀行に於ても有利な事業へはどんどん貸して利益を得て居る、而し米国ではさうでない、国人が銀行をよく信じない、仕方がなく銀行自身の金を貸出すことになる、これでは銀行は繁昌せぬ、運転が十分出来ぬ、この事を資本主、労働者に移して考へて見ると、労働者は自己の職分をよく尽し、無駄手無駄仕事をせず、一意事業の発達を計り
 - 第44巻 p.515 -ページ画像 
資本主は設備や機械を整へて能率を高め職工の知識向上を計り、職工の幸福を増進するといふ心掛を以て事業に当つたならば、自他共に利する所多く近時忌むべき階級戦とか下級戦とかいふやうな事は起るまいと信ずる。
 世間やゝもすれば資本労働は相対抗して両者の階級闘争せんとする気勢を示すが、此れは双方とも不利の事である。天下は資本家労働者のみの天下ではない、社会構成の中心は多数は公衆である、資本も社会の為に存し労働も社会の為に存する、社会共同の福祉を離れて資本も労働も其の用を為さぬ。其の両者の専恣を戒め、其の方向を誤らしめぬやうに策するのが、協調会の趣旨である。世間では協調は温情主義だといふが、私は交温主義で行きたい。強者が弱者に恩恵を施すといふ意味に誤解さるゝ、事実又そんな気を以て労働者に対するものではない。交温主義即ち忠恕敬愛の念を以て交を温め合ふのである。事に対し資本家も労働者も互に忠実是れに当つて行くといふ事が必要だと思ふ。


蔵前工業専修学校学報 蔵前修工会編 第一号・第三―六頁大正一四年三月 沿革(DK440116k-0004)
第44巻 p.515-518 ページ画像

蔵前工業専修学校学報 蔵前修工会編 第一号・第三―六頁大正一四年三月
    沿革
  一、沿革略誌
 当蔵前工業専修学校は、財団法人協調会に於て、元東京高等工業学校附属工業補習学校の事業を継承したるものなるが故に、遡りて旧工業補習学校の創立より概説せざる可からず。
 旧工業補習学校は、明治三十二年五月、東京高等工業学校附設工業教員養成所附属として設置せられ、主として、昼間服業の工人に夜間を利用し、其必須なる知識技能を補習せしめ、兼ねて工業補習学校の組織及び其教育法の研究に資せん為めに設立せられたるものにして、夜間は勿論、其他業務の余暇に於て学業を授け、品性を陶冶し、工人其他の技術員を養成して、其社会上の地位を向上せしむるを以て主たる目的とせり。
 而して、当初本校は純然たる学年制を採用し、金工科及び木工科の二科を置き修業年限を二ケ年とし、毎週教授時数を八時間として之を毎週三夜に配当し、学期試験学年試験及卒業試験の制を定め、授業料を免除したる外、学習上必要なる図書及器械等をも貸与して就学奨励に資したり。
 然るに当時未だ補習教育の必要一般に認められず、為めに一個年間学年組織の下に通学を継続し得るもの極めて少く、且つ入学者の学力年齢等著しく不同にして、之れを学年制に於て教授する事は、教授上よりも又生徒自身の利害よりも、適切ならざるものあるを以て、早くも其改正の必要を感ずるに至れり。
 是に於てか本校は明治三十五年九月に至り、学則上に根本的改正を施し、其新学期に於ては全部を随意科目制となし、金工具、木工具、製図の外更らに十六科目を加へて、生徒各自の志望により随意選択聴講するを得しむる事となせり、其修業年限の如きも最短四ケ月最長一ケ年とし、且授業料をも小額の範囲に於て之を徴集する事となせり。
 - 第44巻 p.516 -ページ画像 
 爾後更に学則に修正を加へ、各学科目の間に初等及普通の二階級を置き、同一学科目にても生徒の学力素養に適応する階級を選択するの便を開き、修業証明書修業証書等を与ふるの制を設け、以て半途退学を減少せしめ、志望貫徹を奨励する事とせり。
 爾来此制度を継続して大正元年に至る間、設備及経費の都合により科目の伸縮を免れざりしと雖も、少なきも二十六科目、多きは三十六科目の開講を見るの盛況に達し、其在籍生徒数も少なき年度に於ても八百名を超え、最多数の年度に於ては一千名を数ふるに至れり。
 而して、此間明治四十三年度に於て工業教員養成所の所属より東京高等工業学校の附属に移管し、新たに主事の職制を置く事となれり。
 次ぎて大正二年に至り、実業界一般の発達状況と志願者の傾向とに鑑み、再び学年制を置き科目制を並立せしめ、学力試験によりて入学者を決定する事となせり、而して此改正は当初に於ては、学年制としては機械科及建築科の二科のみなりしを大正四年度に至りて学年制に大拡張を試み、普通部、中等部の部門に分ち、各部に機械及建築の両科を置き、外に三十科目の科目制学科目を並立せしむるに至れり、此制度は恰も時勢の要求に伴ふを得たるを以て、遂に大正六年度に至りては更らに中等部の上に高等部を置きたる外、中等部に応用化学科及電気科を増設し、生徒数一千五百名を算するに至れり。
 然るに其後欧洲戦争の好影響は物価の著しき昂騰を惹起し、加ふるに東京高等工業学校の内容充実其他諸種の問題に制せられ、社会が日一日と斯種教育機関の必要を唱ふるにも拘らず、本校は更に拡張の余裕なき境遇に置かれたるは実に遺憾の極みにして、遂に大正七・八年度は其儘に経過せしむるの止むなきに至れり。
 当時協調会に於ては時代の趨勢に鑑み、人格教育を兼ね労務者の職業的実力を養成すべき特殊の補習教育機関の設置を計画し、大正九年三月評議員会の決議により、市内の工業地に工業補習学校を開設し、兼ねて協調会の趣旨の普及に資せんが為め、其調査に着手したる際なりしを以て、恰も好し財団法人協調会は其第一着手として本校の経営を引き受くるの希望を母校及文部省に申請せり、是に於てか主務省及母校は慎重に此問題を審議したる結果、財団法人協調会は其目的事業の性質及其後援或は其の資力の豊富等の点より観て、本校の継承経営は本校の発展上却て利益あることを確められ、又一面本校教育の目的趣旨及周囲の情況に顧み、遂に之れを協調会の経営に移す事となれり其結果大正九年度に於て公式の手続きを履み、十年度より本校全部の事業を挙げて協調会継承経営と確定せり。(大正九年六月廿二日)同時に協調会は九年九月より継承準備として、一部の経費を寄与して本校経営に参加し、次で大正十年三月直轄諸学校官制改正に依り東京高等工業学校附属を廃止せられ、同年三月卅一日附を以て財団法人協調会蔵前工業専修学校と改称せられ、同年四月廿五日授業を開始し、同年五月卅一日開校式を挙行せり。
 前述の如く本校は工業に関する智識技能の研鑽と、人間としての人格品性の陶冶と、労働者としての健全なる自覚向上とを促進せしむるを以て其任務とするは勿論なれども、協調会移管後は同会の主旨を戴
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し、特に講師の選定に留意し、母校東京高等工業学校は勿論、各大学其他専門学校並に諸官省会社工場等に於ける斯界の専門家に依嘱して学理と実際との調和、公民的社会的智識の啓発、健全なる覚悟と理解との涵養等を努めん事を期し、大正十年度よりは新に専任の学監専任の教諭及講師を増員し、高等工業部に予科を新設し、新に中等工業部以下に公民心得、高等工業部に社会政策の学科目を加へ、又普通部の復活等を計りて大に面目の一新を期す、而して大正十一年度に於ては高等工業部に電気科を新設し、又一方科目制を独立開講となし、前年度に引続きて普通部第二学年を開設せり。
 大正十二年一月に於ては文部省より、高等工業部予科修了生及高等工業部卒業生に対して、文部省中等教員受験規程第五条十号(中等教員受験有資格)の資格ある事を認定せらるるに至れり、追て大正十二年一月廿四日附の申請を以て、学科及学科目並其程度及教授時数の一部を改訂なし、同二月九日附を以て認可せらる、従つて普通部は初等工業部と改称せらるゝに至れり、(後掲の学則は二月九日認可のものなり)
 大正十二年度に至りては、入学志願者二千九百六十六人の多数を算し、万難を排して一千〇三名の新入生を許可したるも、猶殆んど二千人の多数をして入学不許可に畢らしめたるは遺憾の極みとす。かゝる盛況の中に一千七百六十四名の在籍を以て、大正十二年度の開講をなし、本校の意気正に天を衝かんとし、着々として其準備に怠りなかりし時、嗚呼九月一日遂に母校と共に関東大震火災の厄に逢ひ、学校は烏有に帰し、生徒の大多数も又此災厄の渦中に投ぜられぬ、此所に於てか、漸くにして火災を免かれたる協調会内に仮事務所を設置し、生徒との連絡を計ると共に、日夜其前後策並に復興の講究奔走に当れり此間大凡二ケ月、十一月に入りて始めて芝区長の同情により、仮校舎の決定を見るに至り、此所に当局一同其愁眉を開くに至れり。
 十一月十三日午後六時より協調会館講堂に於て授業打合会を開催す
席上校長学監及協調会理事の訓辞あり、同十九日(月)より授業を開始せり、然るに四月在籍一千七百六十四名に対し復校せるもの実に一千三十余名を算したるは、如何に本校生徒の真面目にして学業に熱心なるかを観るに足る可きなり。
 斯くして震災以来万難を排して不便なる仮校舎に於て兎も角も卒業生を送り、引続き十三年度新入学生を迎へて今日に及びたり、十三年度よりは教室の都合生徒の事情等を参酌して、科目制各科の募集を一時中止せるは遺憾なりしも、幸に大過なく十二年度に劣らざる一千七百〇五名の在籍生徒を収容しつゝあるは、一面時勢の然らしむる所と雖も我が校廿有六年の歴史と、万有余の校友諸氏の後援に依ること言を俟たざるなり。
 爾来協調会当局並に学校当局は、鋭意学校の復興に苦心する所あり母校高等工業学校已に大岡山に移転し、其復興緒につけるにも関はらず、母校高工の位置辺陬にして、本校生徒通学殆んど不可能なれば、別に之れが敷地を選定せざる可からざるの立場となれり、不幸未だ敷地の決定を見ずして今日に及びたるも、必ずや近き将来に於て之れが
 - 第44巻 p.518 -ページ画像 
実現を見るべき也。
 沿革誌の筆を擱くに当り、協調会移管に関する当時を述懐し、此衝に当られ深厚の同情と尽力とを賜はりたる人々に対し、此所に一言を附記して感謝を捧けざる可からず。
 学校としては前学監秋保安治先生(現教育博物館長文部省督学官)
 協調会としては元協調会参事北爪子誠先生(現修養団理事本校講師)
 文部省としては文部省参事官伊藤仁吉先生(元本校講師現文部省文書課長)
之れなり、其他、当時の協調会常務理事法学博士桑田熊蔵先生及前常務理事田沢義鋪先生(現東京市助役修養団理事)前校長工学博士故坂田貞一先生・現校長工学博士吉武栄之進先生(現東京高等工業学校及高等工芸学校々長)文部省参事官普通学務局長関屋竜吉先生・元文部省実業学務局長山崎達之輔先生・文部省参事官兼書記官木村正義先生(現本校講師)等の人々は何れも本校中興の今日を有らしめ給ひし人人にして此所に記して感謝の意を表す、(文責編者)
      沿革主要の年月日
 明治三十二年五月廿三日 東京高等工業学校附設工業教員養成所附属工業補習学校トシテ創立
 明治四十三年三月 日 東京高等工業学校附属トナル
 大正十年三月卅一日 財団法人協調会ニ移管蔵前工業専門学校ト改称
 大正十年五月卅一日 蔵前工業専修学校開校式挙行