デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
1節 実業教育
16款 其他 2. 慶応義塾商業学校
■綱文

第44巻 p.532-533(DK440121k) ページ画像

明治43年5月1日(1910年)

是日栄一、当校創立二十年記念祭ニ臨ミ、祝辞ヲ述ブ。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四三年(DK440121k-0001)
第44巻 p.532 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治四三年      (渋沢子爵家所蔵)
五月一日 晴 暖
○上略 午飧後慶応義塾ニ抵リ商業学校ノ紀念祭大会ニ於テ一場ノ演説ヲ為ス、曾テ其学生石山某ヨリ依頼ニヨレルナリ○下略


慶応義塾誌 同誌編纂部編 第二〇三―二〇四頁大正一一年九月刊(DK440121k-0002)
第44巻 p.532-533 ページ画像

慶応義塾誌 同誌編纂部編 第二〇三―二〇四頁大正一一年九月刊
 ○第二 慶応義塾の起源及沿革
    □商業夜学校記念会
 同校出身者中在京同窓者の計画に成れる同校創立廿週年記念会は、明治四十三年五月一日午後一時より塾内新講堂に於て挙行したり、当日は小松原文相代理沢秘書官・渋沢栄一男等参会すると共に四百余名の同窓者出席したるが、定刻となるや会長雨山達也氏起ちて開会の辞を述べ、且つ本校は去る二十四年五月を以て創立されたるも、当初は就学者僅に一・二に過ぎざりしも、其後逐年隆盛に赴き、現在の在校者は六百余名の多数となり、創立以来の卒業生は千三百余名に達せり云々と同校沿革の概要を述べ、次に小松原文部大臣祝詞の代読あり、次で渋沢男は満場の拍手に迎へられて登壇し、処世の方針に就て一場
 - 第44巻 p.533 -ページ画像 
の演説を試み、次に福沢社頭の訓諭ありたる後、鎌田塾長は従来斯かる記念会は必ず学校側に於て計画さるゝ例なるに、本会は同窓者の団結に依り斯く盛大に挙行されたるは、是れ偶々卒業生諸氏が蘊蓄せる不覊独立の精神を発揮したる実例なりと述べ、更に商業道徳涵養等に関する趣味ある訓話あり、最後に同窓生総代の謝辞あり、終りに福沢社頭・鎌田塾長・篠木伊勢松・永井彰善・両山達也《(雨山達也)》・山口大造・森下岩楠の七氏に対し記念銀杯を贈る趣を述べ、立食の饗応ありて午後四時散会せり。
   ○演説筆記ヲ欠ク。



〔参考〕慶応義塾誌 同誌編纂部編 第七九頁大正一一年九月刊(DK440121k-0003)
第44巻 p.533 ページ画像

慶応義塾誌 同誌編纂部編 第七九頁大正一一年九月刊
 ○第二 慶応義塾の起源及沿革
    □商業夜学校新設
 商業夜学校は、明治二十四年五月、故小幡篤次郎氏の発起に係り、其目的は初めより大学者大事業家を出さんとするに非ずして、唯商家の徒弟、並に塾生中将来商業を以て世に立たんとする者の為に、簿記算術・英語・商用作文・和習字・商業地理・経済・商法・商業歴史の初歩を初め其他諸種の商習慣を知らしめ、以て当時最も欠乏を告げたる、会社銀行等の良書記、良手代を造らんとするに在り。創立当時は之が監督として、森下岩楠氏挙げられ、生徒は主として本塾の生徒なりしも、暫くにして外来生多数を占むるに至れり。最初両三年間は未だ世の信用も厚からざりしを以て、卒業生の為に職を求むること甚だ困難を感じたりしも、其後、年を経ること数年、実際、夜学校出身者の忠実にして、甚だ使ひ易き書記手代たることを承認せらるゝや、卒業生に対する需要頓に増加し、一時は注文に対して応需者の不足を告ぐる程なりしが、爾来世間にも此種の学校処々に起り、年々輩出する青年、千を以て数ふると雖も、義塾夜学校が其中に立ち、尚依然として隆盛を極め、社会の信用甚だ薄からざる所以のものは、義塾教育の方針、常に堅実にして卒業生の迂遠ならざるに依らずんばあらず。