デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
2節 女子教育
1款 日本女子大学校
■綱文

第44巻 p.615-618(DK440162k) ページ画像

大正8年3月9日(1919年)

是月四日、当校校長成瀬仁蔵逝去シ、是日葬儀執行セラル。栄一病気ノ為メ参列スルヲ得ズ、当校評議員阪谷芳郎代リテ告別ノ辞ヲ述ブ。


■資料

渋沢栄一 日記 大正八年(DK440162k-0001)
第44巻 p.615 ページ画像

渋沢栄一日記 大正八年         (渋沢子爵家所蔵)
一月三日 快晴 寒
午前七時起床入浴シテ朝飧ス、八時成瀬仁蔵氏来訪ス○下略
(欄外)
 今朝成瀬氏トノ約束ニ基キ興津ナル西園寺侯ニ電話シテ帰京ノ事ヲ問合ハセタルニ、本月六日ト定リタル由回答アリ
   ○中略。
一月六日 快晴 寒
○上略 午後四時ヨリ阪谷・添田・姉崎・成瀬ノ四氏来リテ講和会議ニ関シテ思想界ヨリ代表的ノ人物派遣ノ事ニ付、種々ノ協議ヲ為シ、姉崎博士出張ノコトヲ勧誘ス、夜飧後尚上来ノ談話ヲ継続シ、略姉崎氏ノ同意ヲ得、依テ明日西園寺侯ニ面会シテ右ニ関スル便宜ヲ謀ル事ヲ約ス、夜十時頃一同散会○下略
一月七日 晴 寒
○上略 十一時永田町首相官邸ニ西園寺侯ヲ訪ヘ、成瀬仁蔵ト共ニ面会シ姉崎氏仏国行ノ事ヲ告ケ、其趣旨ヲ陳フ、同侯モ頗ル同情ノ回答アリ後外務省ニ抵リ、埴原氏ニ会見シテ大臣ヘ伝言ヲ托ス○下略
   ○中略。
一月三十日 降雪 厳寒
午前七時起床入浴朝食例ノ如クシテ後○中略 女子大学麻生正蔵氏来話ス○下略
   ○中略。
二月一日 曇 寒
○上略 午前九時早稲田大隈侯ヲ訪ヘ、成瀬氏ノ身上ニ付依頼ス、麻生正蔵氏同席ス○下略
   ○中略。
二月十三日 晴 寒
○上略 午飧後日本女子大学ニ抵リ、成瀬校長ノ病ヲ訪フ、麻生・堤二氏《(塘)》ト要務ヲ協議ス○下略


集会日時通知表 大正八年(DK440162k-0002)
第44巻 p.615-616 ページ画像

集会日時通知表 大正八年         (渋沢子爵家所蔵)
二月十三日 木 午前九時 養育院ヘ御出向ノ後、日本女子大学校ヘ
 - 第44巻 p.616 -ページ画像 
御出向
   ○中略。
二月廿六日 水 午前十時 女子大学ヘ御出向(同校)


渋沢栄一 日記 大正八年(DK440162k-0003)
第44巻 p.616 ページ画像

渋沢栄一日記 大正八年        (渋沢子爵家所蔵)
三月一日ヨリ四月三十日迄ノ日誌ハ前記○略ス ノ如ク大患ニ罹リシ為メ詳悉スルヲ得ス、依テ病間殊ニ記憶スルモノヲ左ニ記載シテ他日ノ参考ニ供スト云爾
三月四日成瀬仁蔵氏死去ノ事ヲ麻生氏来リテ詳細ニ告知セラレ、其告別式ヲ来ル九日ニ挙行スル筈ナルニヨリ、当日ハ熱度モ低ク気分モ悪シカラザリシカバ其式ニ出席ノ事ヲ約セシモ、其後熱度頓ニ加ハリテ前述ノ如ク大患トハナリシナリ
   ○中略。
九日 成瀬仁蔵氏ノ葬儀ニハ阪谷氏ニ依頼シテ告別ノ辞ヲ述ヘシム


竜門雑誌 第三七〇号・第七七頁大正八年三月 ○成瀬仁蔵君逝く(DK440162k-0004)
第44巻 p.616 ページ画像

竜門雑誌 第三七〇号・第七七頁大正八年三月
○成瀬仁蔵君逝く 前号既載の如く病痾の為告別式を行うて隠退せる日本女子大学校長成瀬仁蔵君は、其後肝臓癌の経過思はしからず、遂に三月四日午前享年六十二歳を以て眠るが如く逝去せられたるは洵に哀悼の至りに堪えざる次第なり。氏は旧山口藩士にして明治三十四年青淵先生・大隈侯・森村男等の賛助を得て初めて今の日本女子大学校を創設して以て今日に至れるなり。右に就き同五日の時事新報は青淵先生談として左の如く報ぜり。
 成瀬君の逝去は惜しい事をした、最初私が平井赤十字院長の診断を乞ふ事を勧めた時には、半年位は慥に存命すると云はれた程であつた、私が最後に逢つたのは去る二十六日で、其際は窶れては居たが意識は明瞭で割合に元気で、自分が双肩に担つて居る女子大学の事に就て心配して居た、成瀬氏の女子教育に対する功績は今更云ふ迄もなく、実に献身的に努力した結果が今日の功果を齎した訳である今後の事に付いては成瀬氏から懇切に依託があつたから私も微力の及ぶ限りは同校の為に努力する考へである。同校の資金は相応にあり、又諸般の設備も可なりに揃つて居るが、未だ未だ不備の点もあるやうだから今後は同氏の附託に背かぬ決心で尽力する考へである云々。


竜門雑誌 第三七一号・第五六―五七頁大正八年四月 ○青淵先生と故成瀬校長(DK440162k-0005)
第44巻 p.616-618 ページ画像

竜門雑誌 第三七一号・第五六―五七頁大正八年四月
○青淵先生と故成瀬校長 日本女子大学校長故成瀬仁蔵君の告別式は三月九日午後同校々舎に於て執行せられたるが、当日青淵先生は病気引籠の為め、阪谷男爵を代理として告別辞を述べられたるが、同校桜楓会発行の「家庭週報」(三月二十一日)は報じて曰く
 私(阪谷男爵)が評議員となりましたのは極く昨今のことでありまして、今日の此告別式に渋沢男爵の代理を致しますことは誠に恐縮に存じます、しかし男爵の今朝の電話の旨を故成瀬校長と皆さまの前に是非お伝へ致さねばなりません。
 - 第44巻 p.617 -ページ画像 
 渋沢男爵は喘息で可なり呼吸も困難な様でございます、看護婦の進むる氷に口を濡らしながら、電話機に向はれて、「二月の廿六日に成瀬君を訪ねた時は、成瀬君が氷を口に入れて、話を続けられたのに、今日は自分がそれをするやうになつた。成瀬君と私との最近の談話は戦後の思想界のことに関するものであつて、世界の平和、人類の幸福の為めに、多くの政治家が仏蘭西へ渡つて、協議を凝らすのは至極結構ではあるが、思想上の融和帰一が出来なければ到底永遠の平和は成立たぬ。それで是非この際政治家と一緒に思想家をも渡仏させたい。そして我が思想界を代表して、健全な平和を議せしめようといふことゝその使命で添田博士は既に出発をしたが、今度姉崎博士の出発に際しては、かくかくのことを申し出でたいと成瀬君に相談に行つた。ところが成瀬君は、筆をとつて記録することは出来ぬが、大略の事はもう姉崎君に語つて置いたと云はれた。この談話で二人が満足の笑を交して相別れたのが最後であつた。成瀬君はもともとからの知人ではなく始は随分突飛な人といふ感があつたのであるが、つまり成瀬君の至誠に動かされて、今日の様な間柄になつたのである。君は頻に其最初女子大学を建てると主張した。しかし私はそこまでは考へて居ないが女子教育の不振といふことは少からず憂慮して居たので、東京女学館を成瀬君に托して振興させやうと思つてさう勧めて見たが、当時の女学館長の外山正一君と成瀬君との意見が合はぬ。それからとうとう成瀬君は独立して女子大学を建てることになつたのである。自分はその当時女子高等教育の価値に就て疑ひを抱いて居つた。それで識者に正して見てもやはりうまい解決が出来ぬ。実業には経験があるが、教育に就ては全く経験がない。学校経営等といふことは勿論のことだから不安に思つて、躊躇して居つたのであつたが、とうとう成瀬君の至誠に動かされ、その説に感服して力を添へようと決心したのであつた。森村君もその一人で、初は維持費の支出に力を尽し、後には基本を堅める為に力を添へ、今回は又綜合大学の設立に尽力することになつたのである。併此綜合大学を必らず完成させるといふ事は此告別式にお誓ひは出来ない。此高齢と病気では。……けれども天命がつよくてこの病気が癒さへすれば、出来る限りの力を尽すと一言友人渋沢が申たと伝へてくれ」と、涙を以て語をきられました。
 私は男爵に、あなたの御病気は心配なさる程のものではございますまいが御大事にと云つて、まだ話し度さうなのを、実は病気によくないと思つて私の方から電話をきつてしまひました。只今申上げました渋沢男の旨を、謹んで尊霊に捧げます。
 終りに私は一言自分の感じを申添へたいと思ひます。
 成瀬君は極めて高遠な思想を抱かれて、又極めて強い実行を持つて居られました。往々思想家はその主張のみに強くて実行の力の乏しいものがございますが、成瀬君は中でも最も実行力の弱い日本婦人に、この方面の助長発達を施されたことは、日本の国家に於ける大功労と申すに躊躇いたしません。渋沢男のやうな有力者すら、尚教育の価値を疑つて居る世に、成瀬君がこの断行を敢てせられたのを
 - 第44巻 p.618 -ページ画像 
思ますと、その熱烈な実行力は、日本人の最大弱点を救つたものでありまして、私等にとりましても実に非常なる幸福でございます。成瀬君の名は日本女子教育史上に消すことの出来ないものではありますが、君の他の功績はその教育上の功績に覆はれてしまつた憾があります。今回の添田・姉崎二博士の渡仏の運動の成功の如きも実に偉大なものでございます。
 今一つは日本に現存します思想運動の主なものは、多く外国から来たものでございますが、成瀬君の帰一協会の運動は、実に日本に起つた唯一のものでありまして、君は世界の有識者にこの問題を齎らして、世界の宗教思想に大なる進歩と利益とを与へました。
 又この事は、余り世に知られませんが、先年来頻々と賄賂事件等が起りますのを、氏は非常に憤つて、大決心を以て「自助団」を組識する事を渋沢・森村二氏に説かれました。その組識は米国のフリーメーソンに似て居ります。この企も半にして君は既に逝かれました併し世界の大勢は、今後必ず君の思想を継承し、これを生命として行く日が近くなる事でありませう。
 君は女子教育を離れてもかゝる功績が実に沢山ありますのに、その高遠なる思想と熱烈なる実行力と正直と至誠とを以て、多く君が女子教育にのみ尽瘁されたといふことは、誠に私共も皆さんも、感謝に堪へないところであります。


成瀬先生伝 桜楓会編 第五四八頁昭和三年四月刊(DK440162k-0006)
第44巻 p.618 ページ画像

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