デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
2節 女子教育
1款 日本女子大学校
■綱文

第44巻 p.635-638(DK440171k) ページ画像

大正11年3月15日(1922年)

是ヨリ先、一月十日、当校評議員大隈重信逝去ス。是日其追悼会当校ニ於テ挙行セラル。栄一出席シテ追悼ノ辞ヲ述ブ。


■資料

集会日時通知表 大正一一年(DK440171k-0001)
第44巻 p.635 ページ画像

集会日時通知表 大正一一年       (渋沢子爵家所蔵)
三月十五日 水 午後二時 日本女子大学ヘ御出向(同大学)
             故大隈侯追悼会


家庭週報 第六五六号大正一一年三月二四日 日本女子大学校並に桜楓会 記事 故大隈侯爵追悼会(DK440171k-0002)
第44巻 p.635 ページ画像

家庭週報 第六五六号大正一一年三月二四日
  日本女子大学校並に桜楓会 記事
    故大隈侯爵追悼会
 既報の如く去る三月十五日午後二時から母校講堂に於て故大隈重信侯の追悼会が、塘幹事司会の下に挙行されました。開会に先ち、聖歌「目に見えぬ」を拝唱して瞑想三分間の後、先づ別項麻生校長の御挨拶に初まり、桜楓会員並に生徒の各代表者よりの追悼の辞があり、別項の如き高田○早苗博士並に渋沢子爵の、故侯爵を偲ぶ有益なる内容の裕かなお話がありました。後大隈信常侯は一同に対する謝意を述べられ、最後に追悼の歌を合唱して閉会いたしました。
 当日御臨席の方々は令嗣大隈信常侯及び大隈侯爵家家令久松氏、評議員渋沢子爵、並に森村開作男、高田早苗博士等であります。当日大隈信常侯令夫人は風邪の気味にて御臨席のなかつた事は遺憾でありました。


家庭週報 第六五六号大正一一年三月二四日 故大隈侯爵を追悼して 日本女子大学校評議員 子爵渋沢栄一(DK440171k-0003)
第44巻 p.635-638 ページ画像

家庭週報 第六五六号大正一一年三月二四日
    故大隈侯爵を追悼して
             日本女子大学校評議員 子爵渋沢栄一
   △新日本の建設者
 故大隈侯の追悼会が本日この学校で催されるといふことは私にとりましては殊に感慨無量でございます。が只今は高田博士から故侯爵に
 - 第44巻 p.636 -ページ画像 
ついてのお話が、或はその政治的方面から又社会的方面又教育の方面と極めて懇にございましたから私が更めて又故侯のお話をいたす必要もないやうでございますが、人は異つた方面に接触を持つと同時に又その感激も異つて居ると存じます。それ故に私は私自身が永年故侯爵と御懇意に願つて居りました処から私自身の接触上得たところ、特に自分に関係いたしました事からお話いたしませうと存じます。
 明治維新の政治は皆様も御存知のやうに、或る点から申しますと日本に於ける傑れた人々が一時に各方面に活いてこの新日本を創造したのであります。それは恰も徳川幕府の倒れると同時に諸方の志士が機会に乗じて世の中に出現したともいふべきでありませう。而して故侯爵もその御一人であられた事は誰方も御存知のところでありませう。即ち当時の大隈八太郎といふ青年は佐賀から表はれて、かの明治政府の建設と新日本の社会の樹立とに、生命を捧げて働いたといふわけであります。
 大なる政変の時には、かゝる偉人の現はれることは珍らしくはありません。併しかゝる偉人がこの日本女子大学校と深い関係を持たれたといふ事はお互誠に嬉しい事に思ひます。
  △故侯と最後の面談
 故侯爵は或る時、動物の生存時期といふものは、自然に則て行けばながく長命のものである、おほよそ動物はその未熟期に五倍大した丈の寿命を保つことが出来る、而して人間の未熟期は廿五年であるからそれに五倍すれば百廿五歳となる。それ故に我輩なども養生をよくすれば百廿五歳迄生きられるわけであるから是非それ迄生きたいものである、とのお話でありました。私も長命したいと思ふところから直様賛成いたしまして、是非ともさうありたいものでありますとお話しし合つたことでありました。処で昨年十月半頃、私はかの華府会議を機会に亜米利加に視察旅行を致しますることになりまして、その前に是非侯爵にお目にかゝつて将来の亜米利加に対する侯爵の御意見を伺ひたいと存じまして、慥か最初に伺つたのは十月二日であつたと思ひます、いろいろ用談の済みました後侯爵は誠にどうも君は身体が丈夫でうらやましい、年は二つしか違はないが私はどうも近頃少し衰へたこれではならぬから何でも早く恢復して又活かねばならぬ、といふことから、それから伊藤・井上の話やら頻りと古い話が出て、だいぶ長い時間お話いたしました。其の後に私は又、旅行に出る二日前の、あれは十月の十一日でありました。侯爵邸に伺ひますると、其の時は少しお熱がおありなさるとかで、現侯爵信常さんが、『医者が成るべく人との面談をさけて静養するやうにと注意した』といふお話でありましたから、イヤそれならば私も御遠慮申しませうと申して、お目にはかからずに唯御挨拶だけ御伝言申して帰りましたが、この時私は所謂、虫が知らせるといふことでありませうか、侯爵はだんだんお悪くおなりなさるやうなことがありはしまいかと頻りに御案じ申したことでありましたが、今から思ひますとあの十月の初めに御会ひ申したのが最後となつたのであります。実に名残り惜しい気がいたします。併し人間は肉体が亡くなつたからとて霊はいつ迄も交渉して居るのでござい
 - 第44巻 p.637 -ページ画像 
ますから、侯爵はこの意味でまだ私達といつ迄も交渉のあるお方で、さう見ればまだ御存命であると私には考へられるのでございます。
  △明治二年よりの知遇
 顧みますると、私が故侯爵に知遇を受ける様になつたのは明治二年の十二月十八日に、当時築地の侯爵邸に伺つた時からの事でございます。その頃私は丁度大蔵省の役人を命じられて居りましたが、大体其の時の私の考へは、このお役人たることは私には無知・無識・無経験の事であるから、どうかこれを辞めさせて貰いたいといふのが願ひでありまして、そこで当時大蔵大輔であつた大隈さん、そしてなかなか物の解つた御仁であるといふので、私は無躾に私の心情を直談に及んだわけであります。
 自体その当時は幕府は大政を奉還して世の中は非常に複雑な状態になつて居る処へ、私はその大蔵省の御用を受ける前は一つ橋慶喜公の御家来で、当時欧羅巴から帰つてまだ半年ばかりにしかならないといふところへ、政府からのお呼出しで大蔵省の御用を務めるといふわけであつたから、いろいろの点からどうも、其所に気が進まない。そこで私が言ふには、今日幕府がたをれたといふことは時勢で、私としては寧ろ斯くあるべきが当然なことゝ考へて居る。而して私自身は元来百姓で将軍家の御家来であつたといふことは言はゞほんの一時的のことであるから、この場合政府に対して決して不足はない。さりながら今日の世の中の中は唯政治だけで国は立たない。宜しく経済の発達を計らねば朝廷は立たぬ、そこで自分はこの方面には少し考へを持つて居るからどうかそれをさせて貰ひたい。といふのでありました。
 処がこの時の侯爵の御意見は実に動かすことの出来ないものでありました。先づ言はるゝのに、事情はよく解つた。その意見にも至極賛成である。然らば尋ねるが、今の役目は無経験であるから務まらぬといふことであるが、今日の場合何処に経験を持つて居る者が居るであらうか、又我輩とても大蔵大輔の役を務めて居るが我が輩にこの経験知識があるからではない。皆んなこれは初めてのことである。知らぬから出来ぬといふは無条理なことになる。恰度建国の創め高天ケ原に八百万の神々が集つてわが大八洲を創造せられたやうに、この場合相当の知識なり意見を持つた人々は皆んなで新日本を創造して行かなければならぬ、従来百姓である自分が政治に関する御役は務まらぬといふが、然らば君が国家の経済組織を立てるといふことも初めての経験を積みながら創造して行かなければ出来ないことではないか、且つこの国家の経済的組織を立てるといふならば、先づ財政の根元となる大蔵省に在つてその素地を作るといふことが必要ではないか、決して君の申出を斥けるのではないが条理は斯うではあるまいか。と懇々と説かれるので、そこでどうも私はもうお役を辞退するといふわけに行かなくなつてお説に服従して然らば驥尾に附してお役を務めます、必ず一生懸命に致しますといふことを此の時明言したのであります。
 処が明治四年の春には侯爵は太政官参議となられて内閣へ入られることになり、私も明治六年五月三日に当時の大蔵大輔の井上さんが辞さるゝと同時にお役御免を蒙つて、嘗て明治二年に大隈さんに申出た
 - 第44巻 p.638 -ページ画像 
ことを実行することになりましたから、其所でお役の上では直接関係はなくなつたわけでありますが、併し侯爵とは最後まで親交を続けて参りました。
  △故侯と女子大学
 故侯爵は晨くから海外への発展といふことに就いても深いお考へがあつて、それ故私にも支那との交渉に就いてもいろいろお教へ下さつたのであります。その他野にあつては育英事業に多大の御尽力でありましたが、この方面のことに就いては最前高田博士から詳しいお話がありましたから私は申し上げませんが、故侯爵は皆様も御存知のやうに実に剛胆なお方で、常に困つたといふお言葉を伺つたことがないといふてもよい位でありますが、私の知る範囲では唯一度数年前早稲田大学の騒動の時は侯爵も大分心を傷められた御様子であつた。これに依つても如何に侯爵が教育の為には心を砕かれたかを想像することが出来ます。
 この女子大学創立に就いての御意見なども、実に大胆に事をお運びになる方で、当時の社会は日本に女子高等教育を実施するのはまだ早いといふ声が、その八・九と申したいが殆ど十が十までその御意見であつた中に、断乎として前校長成瀬さんの意見を援けて女子に完全な高等教育を授けねばならぬことを主張されたのであります。それで嘗て、あれは四十二年でありました。侯爵は成瀬さんと故森村さん及私と関西方面に基金募集の宣伝に出かけられたことさへあります。其の時は早稲田の生徒あたりから大分批難を受けられたといふこともありましたが、これも全くその熱心さからであります。侯爵は実にこの学校にこのやうに力を入れ、このやうに愛されたのであります。侯爵のこの学校に対する御同情は実に不滅であります。それに対して私共も亦この不滅の霊に向つて一層の努力を誓ひ、侯の御霊と永久のお交りをしたいと願ふのであります。どうぞ桜楓会員並に学生諸子もこの事を思ひつゝ不断の努力をお続けいたゞくやうお願ひいたします。