デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
2節 女子教育
1款 日本女子大学校
■綱文

第44巻 p.653-656(DK440177k) ページ画像

大正13年4月20日(1924年)

是日栄一、当校創立第二十三年記念式ニ臨ミ、祝辞ヲ述ブ。


■資料

日本女子大学校書類(一)(DK440177k-0001)
第44巻 p.653 ページ画像

日本女子大学校書類(一)        (渋沢子爵家所蔵)
(謄写版)
拝啓、益御清勝被為渉奉恭賀候、陳者来る二十日(日曜)午後二時より本校創立第二十四回記念式挙行致候間御繰合御臨席被成下度、此段御案内申上候 敬具
   大正十三年四月十四日
               日本女子大学校長 麻生正蔵
    (宛名手書)
    子爵 渋沢栄一殿


集会日時通知表 大正一三年(DK440177k-0002)
第44巻 p.653 ページ画像

集会日時通知表 大正一三年       (渋沢子爵家所蔵)
四月廿日 日 午後二時 日本女子大学創立記念式(同校)


家庭週報 第七四四号大正一三年五月二日 創立二十三年の記念日に 日本女子大学校評議員 子爵渋沢栄一氏談(DK440177k-0003)
第44巻 p.653-654 ページ画像

家庭週報 第七四四号大正一三年五月二日
    創立二十三年の記念日に
          日本女子大学校評議員 子爵渋沢栄一氏談
  △私に取つて廿三年は束の間
 おめでたい記念日に出まして一言を申上げますことは、私の大へん喜ばしく存じますところでございます。只今校長さんから、日本の今日の時勢は如何であるか。御婦人方の教育の状態は如何であるか。或は経済・社交・精神上・人格上・過去・現在・東西にわたつて――と御批評申すと甚だ烏滸がましいが、――皆さんに対しては少し大きすぎると思はれるお話をお述べになりました。只今校長さんの御希望の点には私共も同感であります。今校長さんは私に廿三年の間、この学校の記念日に参つたとお話になつたが、私は前校長のいらした時分から、この学校とは特別お親しくしてをりました。その校長はもはやなくなられて、私一人はまだなかなか死なんで、かうして学校へ参るようなわけであります。今廿三年は長いと校長さんは仰つたが、私が数へると廿三年は何でもありません。私は先日ある仕事について、――それは養育院の仕事でありますが、――五十年の記念式を致しましたこれは明治七年から始めました。毎日出て仕事をするわけではなく、名ばかりではありますが、とにかく、会議のある度には評議員として出席致してをりました。又先達は我が太平洋クラブで、日米間についてお話を致しました。これは七十年前のお話であります。私が十四歳
 - 第44巻 p.654 -ページ画像 
の時にペルリが四艘の軍艦を曳いて来ました。この当時の国状を思ひますと、現在の変化は非常なもので、私の生きているのが本当か、或は世の中が本当かと怪しむほどであります。只今のアメリカの排日問題については甚だ心外と存じますが、アメリカがある点は喜ぶべき尊ぶべきことを致したことがあります。例へば今度の震災についての米国の同情であります。それから日本が外国と交際して以来、米国は正義、平和をその主旨と致しまして、日本は恩顧を受けた事も尠くありませんでした。私の最も賞賛致しますことは、たしか安政五年《(万延元年)》に、タウセント・ハリスが、麻布の公使館に公使としてをりました時のことでございます。その当時公使館の書記のヒユースケンと申すものが、日本の浪人に、赤羽橋で殺されました。当時はかういふ事件が随分多うございました。フランス《(マヽ)》人が二人馬に乗つて生麦村にかゝる時、いきなり切り殺されたりするような物騒な世の中でありました。このヒユースケンが殺されました時、各国の公使は日本政府の取締りのつかぬ事を怒つて、公使館の役員一同は横浜港に碇泊していた軍艦に引き上げてしまひました。これは日本政府に致して非常な侮蔑でありますしかるにタウセント・ハリスは自分の通訳の殺されたにも拘はらず、自分は日本政府に対して道徳上正しい態度以外はとれぬといつて公使館に踏み止りました。これはその頃の所謂武士道的行動と言つてよろしいと思ひます。(つゞく)


家庭週報 第七四五号大正一三年五月九日 創立二十三年の記念日に(承前) 日本女子大学校評議員 子爵渋沢栄一氏談(DK440177k-0004)
第44巻 p.654-656 ページ画像

家庭週報 第七四五号大正一三年五月九日
    創立二十三年の記念日に(承前)
          日本女子大学校評議員 子爵渋沢栄一氏談
 アメリカの人々が、今度の排日案を提出するといふようなのは、アメリカの国家が上進したのか、下落したのか私には分りません。私は若い時分は攘夷論者でありました。廿四・五才の時から考への間違つた事を知り、外国を学ぶべき事を知り、六十年間この主義でまゐりました。併し今度の事件で、私は昔の攘夷論者の方がよくはなかつたのかと思ふほどであります。その昔から今に至る迄七十年を経過してをります。我々人類は月日の立つのは如何ともする事は出来ませんが、月日の経過を完全に利用すれば、この月日は活きたことになるのであります。明治政府が東京に開かれてから、五十年経つてゐます。憲法が発布されてから三十年経ち、かくの如くに歳月は経つて行きましたこれを完全に使用すれば歳月に意味があります。ぼんやりとたゞ暮してしまへば歳月は空過されたのであります。これは男女共に少しも変りはありません。
 成瀬君の先見の明は実に卓見と言つてもよろしいのであります。創立前に成瀬君は私に学校設立について相談に来られました。私はその当時、どうしても人力では学校が出来まいと思つてゐました。過ぎ去つて当時の事を考へますと、一般の希望、社会の状態では普通の高女以上の教育を婦人に与へることは一般に望まれてゐませんでした。それ故成瀬前校長から女子大学設立について相談をうけた時、これを懸念しましたことは、決して誤ちではなかつたのであります。これにつ
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いては歿くなられた森村さんが最も懸念されました。その森村さんは後に大に力をそへられまして、莫大なる資金をこの学校に投ぜられました。
 この学校が廿三年の歳月を経ましてこゝ迄に至りましたのは、前校長・現校長その他の職員方のお骨折がこの歳月を完全にさせたものだと思ひます。諸先輩方は学んで働き、学問を以て社会に出て働かれてこれ迄の歳月を完全に利用しておゐでになりますが、皆さんもそれと同じになさる事と思ひます。只今校長さんが、頻りに皆さんに御注意なすつた通り社会に出られてからは、人格と言はうか、精神上の教育と言はうか、これに力をお注ぎになる事を希望いたします。これは最も重要な事と思ひます。物質知識と精神教育とが合致した時知識学問が大なるものとなります。これは原則であります。教育の状態も只今では大へんに変つてまゐりました。昔は御婦人で外国語の出来る方は一人もありませんでした。即ち「孔孟の訓へ」はあつても所謂今日の科学については全くの赤ん坊でありました。電気、従つて今日の如く蒸気などもありませんでしたから、どこへ行くにも歩かねばなりませんでした。只今なら廿分位で電車で来られるところも歩かねばなりませんから、お家庭から女子大学迄いらつしやるのに、半日もかゝるといふやうな有様でありました。科学はもとより必要であります。それでありますから、私が廿四・五の時にその必要なることを感じての後はどうしても科学に依らなければならないと思つたことに間違はないのでありますが、さて今日になつて見ますとこれはどうしても功利にのみ走るようになります。精神をたしかに、質実剛健といふ気風はなくなります。昨年十一月の大詔渙発は紙に書かれただけのものであるといふようになります。議会に於ても殆んど嘘ばかりの世の中であります。経済界に於ては審議会といふものが出来ましたが、これも形のみで、そこに於ける評議は事実出来たかといふことは疑ひたくなるのであります。悪くいへば、その時の口上手がえらさうな事を言つて、出来た嘘ではないかと言ひたくなるのであります。これをどうして直すかといふのは御婦人のみに願ふのではありませんが、家庭にあつて子供を矯すよりほかに方法はないと存じます。私は帰一協会に於て日本とアメリカの家庭教育の比較について聞いたことがありました。まことに今日の日本の家庭の有様では質実剛健を望むことはむつかしいと思ひます。この頃では第一、子供の時代から物質にとらはれた話ばかりをいたします。子供たちにとつては、学校を出て、自動車に乗つて会社に行く事が理想らしく思はれます。本当の精神のことについては少しも話しません。こんなわけでは、精神を完全に育てることは出来ません。アメリカの宗教的なことゝ、家庭に於ける精神教育の話を聞きますと、これは日本をそしるのではありませんが、よほど違つた特徴を持つてゐるやうであります。
 人類の改善はお母さんがよくならなければなりません。廿三年と申しても、さやうに長い年月ではありません。これからさきの廿三年には少くとも数千人の人格ある人が、日本にふえるやうになるに違ひありません。かくあつてこそ、歳月に意味があるのであります。これを
 - 第44巻 p.656 -ページ画像 
今日の紀念日のお祝ひの辞として、申述べた次第でございます。(了)