デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
2節 女子教育
1款 日本女子大学校
■綱文

第44巻 p.656-660(DK440179k) ページ画像

大正13年6月4日(1924年)

是日、当校ニ於テ、前当校評議員故和田豊治ノ追悼会挙行セラル。栄一出席シテ追悼演説ヲナス。


■資料

集会日時通知表 大正一三年(DK440179k-0001)
第44巻 p.656 ページ画像

集会日時通知表 大正一三年       (渋沢子爵家所蔵)
六月四日 水 午后弐時 故和田豊治氏追悼会(日本女子大学)


家庭週報 第七四九号大正一三年六月二〇日 霊妙な頭脳の持主 日本女子大学校評議員 子爵渋沢栄一(DK440179k-0002)
第44巻 p.656-657 ページ画像

家庭週報 第七四九号大正一三年六月二〇日
    霊妙な頭脳の持主
             日本女子大学校評議員 子爵渋沢栄一
 世の中の方は自分が老いても尚社会に出てゐる事を仕合せといはれますが、併し長生をするといふことが仕合せな場合と、不仕合な場合と、あるやうに私には思はれます。私は時時何故長生きをしてこの憂目を見ねばならぬかと思ふことが屡々あります。今日の如きも生きてゐるからかゝる悲しい事を申し上げねばならぬのかと思ひます、殊に御老母、奥方、御親戚の方々の前ではいはんとしても言葉が申しつくせぬ様に思ひます。故和田氏が女子大学に深くつくされたのは申す迄もありませんが、この学校をいかにしたらよからうといふことについては度度お話し合つたのみならず、私は必らず私がさきに死ぬから校長や森村男爵などいふお若い方も居られるが、必らず和田君がつくして下さるであらうと安心してゐたのでありますから、なほさらその死をいたむ思ひを深くするわけであります。同君との交はりは単に女子大学に関してのみならず、他のいろいろのお交りがありましたからその節々について追想することを申しのべたいと思ひます。
 さて和田君の御経歴御活動について、御母堂の御丹精について、御日常については森村男爵が概略をおのべになりましたし、又女子教育については前から深い興味をお持ちになつたのではありませんでしたけれども、現校長の熱心なおすゝめや、又私なども微力ながらいろいろ未来の女子教育についてお話した結果考へる点をあらためられたのでありませう。本校のためには非常なお力添へをされたのであります和田君の徳は単にそれのみに止まらず、物事に即断の出来る方でありました。すべて迅速に判断してあやまらない人はすぐれた人であります。和田君はそういふ人でありました。私などはすべて即断といふ事が出来ず、二度三度考へてお答へするといふ風であるのに、和田君は直覚してすぐ判断して、間違ひのなかつたのはよほど霊妙な頭脳の持
 - 第44巻 p.657 -ページ画像 
主であつたからでありませう。頭がよどみのないかゞみの如く、綺麗に反射する事が出来たのであります。とかく迅速に判断する人は深切が足らぬとか、所謂情味が乏しいといふ事がありますが、和田君の場合は例外でありました。判断は迅速であり、かつ人情に基づいてゐました。又物の判断の早い人には緻密をかくといふ事がありますが、これも和田君はごく速断する人であり乍ら至つて緻密でありました。それは私が恐縮した一つの例証をもつても明らかな事であります、かつて私と和田君ともう一人の人と三人である事業界の面倒な仲裁役にとりかゝつた事がありました。それで先づ仲介者三人が相談した結果甲乙両者の申立が一致しないといふ事を認めて仲裁を拒絶する事に決しその手紙をかく事になり私が原稿を作つて、和田君に御目にかけたのであります。自分から斯う申してはチト変ですが元来私は学者の様に立派な事はかけませんが、世間の事については相当に書得るつもりで窃かに任じてゐました所、この時は和田君が『長者に対して失礼だけれど、私が考へたらかうした方がよくはないかと思ふ点があつたので修正を加へておいたから御覧下さい』といふ事であつたので、みるといかにも御尤もな事でありました。只今森村男爵が和田氏があやまちをすぐ改めた人だといはれましたが、その時は私が同意してすぐあらためた様な有様でありました。その時つくづく緻密な人だと思つたのでありました。かやうに処置は至つて念入りの人であります。殊に御自分の事業即ち紡績につくされてつとめられると共にその事業を完全に拡張せられ、たゞ単にそれのみでなく何事でも御引受け下すつたら速に物の善悪を判断して、緻密に処置されたので成功せられたのであります。それから深く敬服するのは御家庭の円満であります。殊に母御に対する御孝道は誠に至れり尽せりのものでありました。先年私に書をかいてくれといふ事でありましたので私は孝経十八章を選んで伊香保に入湯に行つてゐる時書いて送りました。和田氏はこれを写真にして親戚知己にくばりたいといふので、その序文をある学者にたのみ跋を和田氏自身がかくといはれたのでありましたがこの写真が出来上らない中に亡くなられたのであります。私が書いた孝経は御宅に保存されてゐる事と思ひますが孝行の力が私をしてかく感ぜしめたのであります。書経の中に孝行の人は長命すると書いてありますが、私は和田氏の死に面してこの古典の文字をうたがひたくなつたのでありました。併しこれも自然の運命とするならば孝行の人が長生きするとは限りません。左様なぐちは自然に対しては申さぬものであります。実に和田君は普通実業界にして稀に見る孝道の美しい方でありました。女子大学にとつては何故この方が亡くなつたのだらうかと思ひます。みなさんも和田君の死をおかなしみになるならばどうか御自分の学問修養をつとめて故人の霊をなぐさめてあげていたゞきたいと思ひます。
   ○和田豊治ハ大正十三年三月四日逝去ス。



〔参考〕集会日時通知表 大正一一年(DK440179k-0003)
第44巻 p.657 ページ画像

集会日時通知表 大正一一年        (渋沢子爵家所蔵)
七月十一日 火 午前十一時 和田豊治氏・江口定条氏・森村男爵ト日本女子大学ヘ御出向ノ約
 - 第44巻 p.658 -ページ画像 



〔参考〕(増田明六)日誌 大正一二年(DK440179k-0004)
第44巻 p.658 ページ画像

(増田明六)日誌 大正一二年       (増田正純氏所蔵)
五月八日 火 雨
○上略 午後三時日本女子大学評議員会(此両会○他ノ会ハ日華実業協会ナリは特ニ和田豊治氏の出席を必要としたる次第にて、同氏は明日九州旅行の途ニ就き帰京の上ハ更ニ外国旅行の予定なるを以て特ニ本日之を開会する為め子爵の帰京を見るニ至りしなり)に出席せられ○下略



〔参考〕家庭週報 第七四九号 大正一三年六月二〇日 故和田評議員を追想す 日本女子大学校々長 麻生正蔵(DK440179k-0005)
第44巻 p.658-660 ページ画像

家庭週報 第七四九号 大正一三年六月二〇日
    故和田評議員を追想す
            日本女子大学校々長 麻生正蔵
 本日は本校評議員であらせられた故和田豊治氏の追悼会を催ほすことゝ相成りました所、八十八歳の御老体であらせらるゝ御母堂様を始め、令夫人・令嗣・令嬢の方々が御揃ひで御臨席下さつた御厚情に対し、私共教職員学生一同、感謝の念に堪へないのであります。
 又故人と親交のあらせられた渋沢子爵・森村男爵・三井高修氏・江口定条氏・望月軍四郎氏等の方々が御来会下さつた事に対しても亦深く感謝の誠意を表します。
 実は本日の会合は例の通り、内輪の会合でありまして、私共教職員学生一同が、形式を抜きにし、真実の籠つた精神的の会合によりて、故人を偲び、故人の人となりにあやかることを務め、故人の我が国家社会、特に又私共の学校の為に尽されたその真心に対して深い深い感謝の誠を披瀝し、尚故人の我校の為に尽された所以の御精神を理解し体得し、私共の実生活の上に実現することによりて、私共の感謝の誠意を現はし、故人の御好意に報い得るに至らんことが、私共一同の切なる願ひであり、又故人の私共に期待せらるゝ所であると存じます。
 それ故に、私共は大正十三年六月四日午後、故和田評議員の追悼会を執行することによりて、追悼の目的が達せられたのでなく、私共は一生涯を掛けて故人の本校に期待する所のものを実現し行くことによりて、初めて追悼の意義目的を完ふするものであると信じ、そう云ふ精神をもつて、此の形成上貧弱な会を、充分に価値あらしめたいのであります。想ふに故人の霊も、かう言ふ精神的な追悼の会を喜んで御受け下さる事でありませう。
○中略
  △女子綜合大学建設事業へ
 右の交渉の結果、私が我女子大学の件につき、故人を向島の邸に訪問しましたのは忘れも致しませぬ、大正十年十一月十七日の午前八時でありました。約二時間の会見におきまして、私は我女子大学校の創立の由来から話し始め、我校の教育の主義方針や方法等、特に精神教育、品性養成に重きを置き、而も学生の自治的な、団体的な、日常の実生活によりて人格を鍛錬する事やら、寮教育又は軽井沢三泉寮の修養会、或は学生自発に係る月曜日早朝の瞑想会に付き、或は卒業生の実際上の生活振り、桜楓会の社会事業等、或は当初の誤解が次第に消
 - 第44巻 p.659 -ページ画像 
滅し、上下各方面に於ける我校の信用の高まつた事、綜合大学建設事業等に就き、あらゆる要点を陳述致しました処、一々賛成の意を表せられ、又色々の質問もありましたから、一々それに御答へを致しました。特に私の持説である母性愛中心主義を述べて御賛同を得ました。而して私は女子大学は創立以来約二十年の経歴を有し、相当の良成績を挙げ、今日に於ては貴下の御助力を添へらるゝ丈の充分の価値あるものたるを疑はないのである、併し慶応義塾大学の御世話をせらるゝ関係上、百も御承知であるが、私共学校は発展すればする程益々世話が焼けるのであります。特に目下綜合大学として拡張を計画中であるから一入世話が増すばかりであります。就きましては、唯貴下の御名前を拝借したいと言ふのではありません。是非共将来永く学校の厄介を見て御貰ひしたい。特に女子高等教育に対しては、世間有力者の理解も同情も薄いのであるから是非学校の評議員となつて御助力あらんことを願ふ旨を申し述べました処、よく分つた。相当の助力を致さう実は従来故森村男からも、故成瀬君からも、そう言ふ御勧誘があつたにも拘らず、私が一向に耳を傾けず、考慮しなかつたのは私の間違ひである。女子教育も男子教育も同様に大切であるから、それが為に尽力するのが当然である。私も最早六十一歳の還暦に達するのであるから、爾来そう言ふ精神方面の為に微力を尽したいと思つて居る。渋沢子爵などゝ共に、青島に高等商業学校を設立しようと計画して居るのも、そう云ふ考へからである。君の学校の主義方針も結構であり、又君の女子教育上の持説も賛成であるから、一つ助力致さうと言はれたので、私は実に感謝と喜びとの感激に満たされました。
  △評議員としての就任
 故人が評議員披露式の御挨拶中に、何分私は多忙なので、御辞退したのでありますが、麻生校長がお前も年をとつたから追々学校の世話でもしたらよからうと、再三御仰つて下さいましたので、遂に評議員として此の学校の御世話をする様になりましたのでありますと言はれたのでありますが、実は前申しました通り、之れは故人御自身の御考へでありまして、唯私の功であるかの如く言はれたのに過ぎないのであります。それは兎も角も、故人の如き有力なる方が本校の評議員たることを快諾せらるゝに至つた事は本校の強みであります。希望であります。百万の味方を得たより、尚強みを感ぜられました。私は本当に我校の前途を祝福したのであります、当時渋沢子爵は外遊中で御留守であつたが、御帰朝後早々故人が本校評議員たる内諾を与へられたる吉報を携へて御訪問致しました処、非常に御喜び下さいました。子爵は自分も今数年は生存もしようがどうせ老年であるから、私に代つて将来永く学校の厄介を見て下さる様にお願する旨を故人に伝へてくれと申されました。子爵から公けの交渉を願ひ愈々評議員として就任せらるゝことに相成り、大正十一年十月五日、江口定条氏と共に評議員として就任せられ、その披露会を挙行したのであります。爾来評議員として本校の綜合大学としての拡張事業の為に種々画策され、尽力されたのであります。昨年九月の大震災以後今年の春に亘り、私は三度程違つた三人の人から故和田氏は昨年の七・八月の頃、屡々君の女
 - 第44巻 p.660 -ページ画像 
子大学の事に就て話をして居られたが、君の学校とどう云ふ関係があるか、実に君の学校の為めに熱心に世話されて居る様であつたがと言ふ事を聞きました。之に徴して見ても、故人が如何に我学校の前途を心頭に置かれて尽しつゝあつたか分るのでありまして、実に感激の念に堪へないのであります。
○下略