デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
2節 女子教育
1款 日本女子大学校
■綱文

第44巻 p.691-698(DK440192k) ページ画像

昭和3年4月20日(1928年)

是日当校創立第二十五年記念式並ニ綜合大学予科高等学部入学式、及ビ大典記念女性文化展覧会開会式挙行セラル。皇后陛下行啓アリ、栄一、参列シテ祝辞ヲ述ブ。

尚是日、桜楓会及ビ当校第二十五回生ノ計画ニヨル「成瀬先生伝」「成瀬先生追懐録」発刊サル。

栄一右ニ追懐文ヲ寄ス。


■資料

竜門雑誌 第四七六号・第一〇九頁昭和三年五月 青淵先生動静大要(DK440192k-0001)
第44巻 p.691 ページ画像

竜門雑誌 第四七六号・第一〇九頁昭和三年五月
    青淵先生動静大要
     四月中
十八日 日本女子大学校評議員会(同校) ○下略
   ○中略。
廿日 日本女子大学校創立二十五年記念式(同校)


集会日時通知表 昭和三年(DK440192k-0002)
第44巻 p.691 ページ画像

集会日時通知表 昭和三年        (渋沢子爵家所蔵)
四月廿日 金 午前九時 女子大学創立廿五年記念式(同校)


日本女子大学校書類(一)(DK440192k-0003)
第44巻 p.691-692 ページ画像

日本女子大学校書類(一)        (渋沢子爵家所蔵)
(印刷物)
拝啓 益々御清穆被為渉奉恭賀候、陳者来ル四月二十日(金曜)午前十時本校創立第二十五年記念式ニ兼ネ新設綜合大学予科高等学部開校式並ニ大典記念女性文化展覧会開会式挙行
皇后陛下行啓ノ御内沙汰ヲ蒙リ候ニ付、当日午前九時迄ニ御賁臨被成下度、此段御案内申上候 敬具
  昭和三年四月十二日 日本女子大学校長 麻生正蔵
    子爵 渋沢栄一殿
    同  令夫人
 - 第44巻 p.692 -ページ画像 
   ○創立二十五年式典ハ大正十五年ニ開カルベキ筈ノトコロ、高等学部開設延期、諒闇等ノタメ是年挙行セラル。(日本女子大学校四拾年史ニヨル)


日本女子大学校書類(一)(DK440192k-0004)
第44巻 p.692 ページ画像

日本女子大学校書類(一)         (渋沢子爵家所蔵)
(印刷物)
    日本女子大学校創立第二十五年記念式次第書
        附綜合大学予科高等部開校式大典記念女性文化展覧会開会式
                  昭和三年四月二十日
皇后陛下行啓 御出門 九時三十分  御著 午前九時四十五分
 第一 奉迎 校長評議員御車寄ニ奉迎来賓職員卒業生生徒正門内ヨリ御車寄前両側ニ奉迎
 第二 便殿ニ被為入
 第三 拝謁 校長ハ職員名簿学校一覧ヲ献ル
 第四 各員式場ニ着席
 第五 校長御先導式場ニ臨御
      式順序
   一、君か代 (一同起立式場内ニ入御ノ際ヨリ合唱終テ最敬礼)
   一、校長式辞
   一、明治天皇御製拝唱(一同起立)
   一、文部大臣祝辞
   一、来賓総代祝辞 枢密顧問官 鎌田栄吉君
   一、評議員総代祝辞   子爵 渋沢栄一君
   一、桜楓会総代祝辞
   一、記念歌
   一、君か代 (一同起立最敬礼ノ上合唱此間御退場)
 第六 便殿ニ被為入
 第七 校長御先導展覧会 御巡覧
 第八 便殿ニ被為入 御昼餐
 第九 校長御先導展覧会校内 御巡覧
 第十 便殿ニ被為入
 第十一 還御 奉送(奉迎ノ際ニ同ジ)午後二時三十分
        以上


竜門雑誌 第四七六号・第一一二―一一三頁昭和三年五月 女子大学校記念式祝辞(DK440192k-0005)
第44巻 p.692-693 ページ画像

竜門雑誌 第四七六号・第一一二―一一三頁昭和三年五月
    女子大学校記念式祝辞
 時維れ昭和三年陽春四月二十日、恵風和暢の候畏くも 皇后陛下の行啓を仰ぎ奉り我日本女子大学校創立第二十五週年記念式を挙ぐ、歓喜何ぞ堪へん。積年微躯を提げて本校の事に当れる者、今此の祝典に会して過去を懐へば、感慨転た無量なるものあり。往年本校の創立者たる故成瀬君の率先して女子高等教育の必要を高唱するや、世人多くは未だ之に耳を傾けず。而も其超凡の理想、高邁の識見、熱誠の意、侃諤の言に加ふるに、日夜を継ぎて倦むを知らざる努力は漸次に人を動かし、明治三十四年遂に本校を創立するに至れり。予も亦君の精神に感動して、大隈侯・森村男等の驥尾に附し、聊か助成の労を致せし一人なり。爾後年を逐ひて文化の進展するに随ひ、識者概ね女子高等
 - 第44巻 p.693 -ページ画像 
教育の必要を認め、本校教育の精神と効果と亦広く世に解せらるゝを得て、校運次第に隆盛に赴き、今や其宿志たる綜合大学設置の計画熟して、玆に予科高等学部の開始を見るに至れるは、予等の欣快に堪へざる所にして、亦以て前人の霊を慰むるに足るものあらん。
 然れども今日の校運を開拓するには、決して坦途を歩み来れるに非ず、拮据経営の労亦頗る大なるものあり。而して其幾多の障礙を排し微効を女子教育に致すを得たるは、固より当事者の熱誠と後援者の同情とに因ると雖も、然れども職として我が 皇室の、夙に教育の事に軫念し給ひ、殊に本校に対しては、創立当初以来、数々優渥なる奨諭を降され、内外関係者をして、感奮興起せしめられたるに由らずんばあらず。是れ永く予等の感載して忘るべからざる所なり。
 本校は基礎既に固く前途の方針亦確立せりと雖も、創立者の理想よりすれば未だ纔に其緒に就けるのみ。速に本大学を完成し、一は以て海岳の 皇恩に対へ奉り、一は以て創立者の遺志を実現し、進んで国家世界の文化に貢献せざるべからず。是れ実に当事者の責務にして更に精誠尽瘁せざるべからざる所なり。聊か所懐を陳べて祝辞となす。
                    子爵 渋沢栄一


家庭週報 第九三四号 昭和三年四月二七日 光栄の日「創立記念日」(DK440192k-0006)
第44巻 p.693-694 ページ画像

家庭週報 第九三四号 昭和三年四月二七日
    光栄の日「創立記念日」
 四月廿日、あゝ何たる光栄の日でありませう。
 この日、我が日本女子大学校に於ては、創立第廿五周年記念式に兼ねて綜合大学予科高等学部開校式、大典記念女性文化展覧会開会式を挙行するに当りまして、畏くも 国母陛下の行啓を仰ぎ奉り、さらに東伏見宮大妃殿下・伏見若宮妃殿下・賀陽宮妃殿下・久邇宮妃殿下・久邇若宮妃殿下・梨本宮妃殿下・朝香宮妃殿下・竹田宮大妃殿下・閑院若宮妃殿下の台臨を辱う致しました。
 朝来春雨そぼ降る中を、皇后の宮には略式自動車御行列にて、竹屋女官長御陪乗、河井皇后大夫、岡本事務官、松永侍医、伊地知・北村山岡・万里小路各女官、高木御用掛等を随へさせられて、九時四十五分校正門より御輦寄に着御、水野文部大臣・麻生校長・鎌田枢密顧問官・粟屋文部次官以下各来賓、並びに本校評議員・教職員・生徒一同の奉迎を受けさせられて、直ちに新館にしつらへられた便殿に入御あらせられました。かくて御先着の東伏見宮大妃殿下他八妃殿下と御対面、次で水野文部大臣・麻生校長・粟屋文部次官・渋沢子爵・井上準之助・森村男爵・江口定条・松本亦太郎・塘幹事の諸氏に特別拝謁を仰付けられました。次に井上秀子教授を始めその他の教職員八十五名に列立拝謁のおん事ありてのち、麻生校長の御先導にて、校庭に設けられた天幕張の式場に臨ませられ、一同は起立して、君が代合唱裡に陛下の臨御を仰ぎ奉りました。
 はるかに拝しまつれば陛下には、濃いろ褪紅色の御洋装に、同色のボンネツトを召され、輝くばかり御麗しき玉顔に御微笑を湛へ在すさまは、実に仰ぐも畏い極みでありました。続いて各宮妃殿下の御臨場があり、先づ校長の式辞あつてのち、明治天皇の御製を拝唱、次で文
 - 第44巻 p.694 -ページ画像 
部大臣水野錬太郎氏、来賓総代枢密顧問官鎌田栄吉氏、評議員総代子爵渋沢栄一氏、卒業生総代井上秀子氏の祝辞があり、次いで開校記念歌を唱ひ、一同起立、最敬礼をなして、再び『君が代』を合唱中に麻生校長の御先導にて 皇后陛下、各宮妃殿下御退場遊ばされ、こゝに創立二十五年記念式の盛儀はいとも目出度く終了いたしました。
○中略
 なほこの日、陛下よりは特に深き恩召を以て、校長への優渥なる御諚と共に左の如き種々の御下賜がありました。
 一、金一千円也 日本女子大学校へ
 一、金五百円也 日本女子大学校行啓関係員へ
 一、御菓子一折宛 特別拝謁者へ
 一、白羽二重一疋 麻生校長へ
  又各宮家よりはそれぞれ金一封の御下賜がありました。
 この栄ある式に列席せられた評議員は、渋沢子爵・森村男爵・同夫人・井上準之助氏・同夫人・江口定条氏・松本亦太郎氏・同夫人、並びに桜楓会員・若葉会員約四百余名参列されました。


家庭週報 第九二八号 昭和三年三月一六日 日本女子大学校主催の御大典記念女性文化展覧会(DK440192k-0007)
第44巻 p.694-695 ページ画像

家庭週報 第九二八号 昭和三年三月一六日
    日本女子大学校主催の
      御大典記念女性文化展覧会
   開催趣意
 年玆に 御大典奉祝の春、わが日本女子大学校に於ては来る四月廿日の創立記念日を卜して、創立廿五年記念式並に昨春開設の綜合大学予科たる高等学部の開校式を挙げらるゝことになりました。母校に学生たる私共は、この栄ある春を迎へてこの意義ある式典に会ひ得ることを無上の光栄に感じます。
 母校日本女子大学校が帝都の北郊目白台上に我が国最初の女子大学として開校されたのは、明治の御代卅四年の四月廿日でありました。おもへば、これ正に、廿世紀の黎明に於けるわが女性覚醒の第一声でありました。爾来二七年後の今日に到る母校の校運進展の有様は、実に隔世の感を抱かしむるものがありますが、同時に我が女性史の上にも亦劃時代的の四半世紀でありました。
 恰かも玆にわが大君の赤子、挙つて御大典を奉祝するの時、母校は創立廿五年の記念式と、その当初の目的達成の第一歩を意味する高等学部開校式と、並に近き将来に実現せんとする女子綜合大学附属児童研究館の定礎式とを挙行し、御大典奉祝の意義ある記念とするものであります。われ等学生も亦この秋を祝し奉るの赤誠より御大典記念女性文化展覧会開催のことを一決致したのであります。
 御大典記念女性文化展覧会はわが母校日本女子大学創立当時を初頭とする最近の四半世紀を中心として女性文化の事実を蒐め、遡つてその飛躍の蔭に隠れたる力を操り、これを綜合して来らんとする新時代の女性文化の進路を見出さんとするものであります。尚又われ等母校の学生として衷心切望するところのものは、将来の女性文化の一原動力たらんとする女子綜合大学の図書館建設の議が母校に於て計画中で
 - 第44巻 p.695 -ページ画像 
ありますが、私共学生も此の佳期に会ふ歓喜の一端を表はさんが為めその計画の一部を分担して、先づ書庫の建設を念願するものであります。この故に私共は、この展覧会開催に依る入場券其他の収益を挙げてその建設費に捧げんことを予定して居ります。世の識者諸賢がこの企劃を諒として御賛助の栄を与へられんことを冀ふ次第であります。
 併しながら私共の若くして浅き修学の経験に於ては、時代の文化の創造さるゝところ必ずや女性の力の何物か潜在せることを強く感じつつもこれを明らかに示し、又系統的に具体化して展覧の美を致さんにはあまりに拙き表現であることを省みて忸怩たらざるを得ないのであります。幸に世の識者の御高覧を待ちて御批評御指導を得ば、やがて此拙き計画も必ずや次代の文化を創造する大いなる力尊き資料となる事を信ずるものであります。
 玆に御大典記念女性文化展覧会開催の趣意を述べて、この企に御賛助の栄を賜はらんことを懇願いたします。
  昭和三年三月
                    日本女子大学生一同

渋沢栄一 日記 昭和三年(DK440192k-0008)
第44巻 p.695 ページ画像

渋沢栄一 日記 昭和三年        (渋沢子爵家所蔵)
二月十八日 晴 寒気強シ
午前八時起床入浴シテ朝食ス、畢テ女子大学前校長成瀬仁蔵氏伝記編纂ノ事ニ付テ渡辺英一・仁科節子二氏来リテ、故人ニ関スル記憶ノ概況ト、本大学創立及其後ノ経過ニ付テ種々ノ談話ヲ為ス、有馬浅雄氏来リ援助ノ内話アリ○下略
   ○昭和十二年七月七日麻生正蔵ノ談ニヨレバ、是ヨリ先、前校長ノ伝記編纂計画ヲ栄一ニ報告シテ賛同ヲ得タルニヨリ、是日渡辺・仁科ノ派遣トナリタルモノナリト。
   ○右談話ハ「成瀬先生追懐録」ニ掲載セラレ、「成瀬先生伝」ニハ大正八年六月当校ニ於テナセル栄一ノ演説収録セラル。


成瀬先生追懐録 日本女子大学校第二十五回生編 第一―六頁 昭和三年四月刊 【○先生に関する諸家の追想 成瀬君のこと 子爵 渋沢栄一】(DK440192k-0009)
第44巻 p.695-698 ページ画像

成瀬先生追懐録 日本女子大学校第二十五回生編
                       第一―六頁 昭和三年四月刊
 ○先生に関する諸家の追想
    成瀬君のこと          子爵 渋沢栄一
 成瀬君に就て語るには、先づその時代を一言云つて置かぬと成瀬君の苦心の点、殊に成瀬君がどれだけ人と異つた卓見を持つてゐたかゞ解らないだらうと思ひます。成瀬君が女子大学創立のことを頻りに世人に訴へた明治卅二・三年の頃は女子高等教育どころではなく、第一女子に教育を受けさせる事を云ふ人すらが暁天の星の如くに稀だつたのであります。その時代に成瀬君が思ひついたといふ事は女子教育の進んだ今から考へると何でもないやうでありますが、それは当時の慥かに警醒の声であつたのであります。
 私が同君とお目にかゝつた最初の印象は誠に珍しく気力のある人といふ感じでありました、けれども何処やら人間の錬りが足りないと云つたやうな感じがしてこの儘世間へ出て果して人が相手にするかと云ふ風に思ひました。女子教育に対する持説を聞くといふとなかなかし
 - 第44巻 p.696 -ページ画像 
つかりしたものであつたが、私はどちらかと云へば漢籍で修養して来た人間であるから矢張「女子と小人は養ひ難し」といふやうな考を持つてをる。私がたまたま成瀬君と論議すると「貴方までがそんな事を云はれては甚だ困る」と殆ど泣かんばかりに訴へる事がありました。
 成瀬君の説は皆さんも御存じの通り、女子を国民として人として教育すると云ふ説であります。これが従来の頭で考へると大辺な違ひでありました、がよくよく考へて見ると成程と自分も合点が行き、孔子も或はこゝ迄は考へ及ばなかつたのかなと段々に考が成瀬君の方へ牽かれて行きましたが、併し私は兎もすれば自分の過去の経験等から考へて、矢張疑問の間を往来して来たのであります。
 私は最初に森村さんと親しくしてをり、その以前から大隈さんと親しくして来たために、早稲田大学の事に就ては多少お力添へをする立場にありました。それ故教育に関する疑問のある場合には成瀬さんと直接議論もしたり、又或る時には森村さん、大隈さんと三人で云ひ合つた事もあります。今はもう夫等の人々は全て故人になられた事を思ふと真に感慨無量であります。
 こんな風にして多少は云ひ争ふやうな事もありましたが、段々に成瀬君の熱心な精神に引き入れられて行つたのと、自分が最初疑問としてゐた事も次第に解つて来たのとで、終には之れでなくてはならぬと考へるやうになつて来ました。
 私立の学校の事でありますから、寄附金を募るにも先づ自分も微力ながら出来る丈けの事をし、他の人々も自分から紹介して女子大学の為に資金を投じて貰ふ事を依頼するやうになりました。三井さん、藤田さんなどはその最初に願つた方々であります。これらの寄附金を募るに就ては、森村さんが大いに力を与へられると云ふ事になつたのでありますが、この時も私と成瀬君とが討論したと同じやうに、森村さんとも度々話を重ねられる内だんだんに、森村さんも成瀬君の説に感服して、といふよりはお互に成瀬君に教育されて、遂に何とかしたいと考へるやうになつたのであります。
 森村さんには豊明会と云ふものがあつて、その会から二十万といふ金を寄附されるやうになつた事は、女子大学の記録には明かに残つてゐる事でありますが、この多額な寄附が女子大学の発展には大いに与つて力あつたものである事は申す迄もありません。森村さんをして其処迄に至らしめたと云ふ事は全く成瀬君の力であります。
 この以前から、私の老婆心は、女子が学問をして生意気になつてはならないと云ふ事を大いに心配してをりました。話が又元へ戻りますが、女子大学の建つ前に私は故外山正一と云ふ人と知つてゐました。この人は女学館(明治十八年の頃、故伊藤公が西田敬止といふ人と女子教育奨励会を起し、その一つの現れが女学館となつて現れたのであります)の方に関係してゐた人であるので、成瀬君も同じ女子教育に意見を持つてゐる人だと云ふ点から、私はその外山と云ふ人と成瀬君とをひき合せて一緒に女子教育に就て計画したらよかろうと考へました。そこで私は二人をひき合した処が、外山君と成瀬君とはまるで犬と猿のやうに意見が合はない、人柄も違ふ。成瀬君と来たら始めから
 - 第44巻 p.697 -ページ画像 
喧嘩腰で外山君に会ふと云ふ風でした。しまひには私に向つて「貴方もあゝ云ふ人間と交際する人であれば録な人ではない」などと云ふ位激しい有様でした。で到々始めの私の考は美事に失敗したわけで、それでつまり女子大学は成瀬君が独立して開校するといふ事になつたわけでありました。
 いよいよ女子大学が開校するやうになつて、その教務上に就ては故大隈老侯・西園寺公・久保田男などが主として心配して呉れられたが財務に就ては、ある場合には自分なり、又森村さんが心配して呉れられると云ふ事に依つて、兎に角今日の女子大学の基礎が建てられたのであります。その他色々の方々から力を添へられた事は勿論でありますが、併しその主力は矢張成瀬君の熱心な努力、専心一意其処迄人々の心を率ゐて行つたと云ふ事に最も力があるのであります。
      ○
 私は大正八年の一月廿九日の同君の告別演説の時を今も目の前に見るやうな心地がします。先生が日本に於ける女子の教育に就て、あの熱誠否あの生命を以て後事を依嘱された事を思ふと涙無しにはゐられません。日本に於ける女子の教育に就ては、前申したやうに外山君なり、その他にも考のあつた人が全くないのではなかつたと思ひます。学者政治家の中には早くからそこに目をつけてゐた人、考へ及んだ人があるにはありました、が併し之を実現した人は成瀬君を擱いて他に誰があるでありませうか。
 成瀬さんの主張に就ては森村さんも私も最初は疑惑を持つた徒でありましたが、根本に立帰つて詮議をしてみると、無論国家を思ひその進歩を計ると云ふ点に就ては至誠相通じてゐた点が、つまり私なり森村さんなりを成瀬さんの高い考への処へ引張つて行かれた理由であるでありませう。成瀬君の至誠を持つたその卓見は、前にも云つたやうに当時は寧ろ突飛と云はれる程でありましたが、時代に関らず場合に依らず、徹頭徹尾女子の教育に就て主張し、実行して来たと云ふ事が今日の女子大学ある所以であつて、今で云へばあの突飛と思はれた同君の特色のお蔭で、今日の日本の女子教育があると云つても過言ではなからうと思ひます。
      ○
 成瀬君は女子大学校創立最初の時から女子綜合大学と云ふ事に就て頻りに主張されました。が当時は婦人に就ての考と云ふものは、矢張「之を近づくれば不遜、之を遠ざくれば怨む」と云ふやうであつたり又楽翁公の云はれた「婦人辞を識れば云々……」「なくてもよいものは婦人の才」と云ふ如き思想で支配されてゐた時代でありましたから成瀬君が女子綜合大学の主張を以てしても直ちに之を実現する事の困難なのは勿論、理解する人さへなかつた位でありました。然も成瀬君の主張はその当時から女子綜合大学を以て女子大学設立の希望としたものであつたのであります。大正八年の告別演説の際に後継者に遺言した事は、つまりその主張を遺言したわけであります。
 要するに、成瀬君を評すると、成瀬君が早くより女子教育に着眼した事は今迄の処他に比べる人がありません。且それを論議するだけで
 - 第44巻 p.698 -ページ画像 
はなく、実現したと云ふ点に於て日本に於て第一人者であります。日本の女子教育をして、ここ迄引上げて来たことは全く成瀬君の功績であると信じます。