デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
2節 女子教育
1款 日本女子大学校
■綱文

第44巻 p.707-711(DK440194k) ページ画像

昭和4年10月10日(1929年)

是日、当校桜楓会機関誌『家庭週報』一千号記念号発行セラレ、栄一ノ所感掲載セラル。


■資料

家庭週報 第一〇〇〇号 昭和四年一〇月一〇日 桜楓会員に望む 子爵渋沢栄一(DK440194k-0001)
第44巻 p.707-711 ページ画像

家庭週報 第一〇〇〇号 昭和四年一〇月一〇日
    桜楓会員に望む
 - 第44巻 p.708 -ページ画像 
                    子爵 渋沢栄一
 私は別段之と云つて新しい事を考へて居る次第ではないので、いつも同じやうな事をお話する事になります。それ故『もうそんな話は聞いた、もう知つてゐる』と仰せられる向きもござりませうが、いい事は何度繰返してもいゝと思ひます。論語にしても何千度となく繰返され、釈迦の教へである経典も繰返し繰返しして読むではありませんかと申して渋沢の申す事を孔夫子や釈迦に較べるのは不遜なやうでありますが、それは渋沢が豪いと云ふのではなく、同じ事を幾度も申上げると云ふ事をお断りした次第でありますから、どうかそのおつもりでお聴き取りが願ひたいのであります。
      私の女子教育観
 さて本論に入りますが、一体どう云ふわけで自分は女子大学をお世話してゐるか、私の考へは創立の当初から屡々成瀬さんなり、又現校長の麻生さんなりに同じ事を申し続けて参りました。私が当女子大学に就ていつも心配する事は女を教育するといふ事はいゝ結果もある半面に、悪くするとより多い弊害が伴ふ時がある。その弊と云ふのはつまり女が学問をして知識が増えたために、女としての特徴を無くすと云ふ事、とり分け日本女性の美点を傷ふと云ふ事は一番に私の恐れた事であります。成程学問をすれば或る一方面は発達するに違ひない、が併し物と云ふものはいゝ事のみでは済まずに必ず弊害をも伴ふ。弊害を絶対に無くすといふ事は不可能であらうが、いゝ事で悪い事を補ふに足りれば、先づよしとしなければなりませぬ。俗に一利一害といふ事を申しますが、利害が五分五分では決して女子大学の理想とは申せぬであらうと思ひます。女子に教育を施すと云ふ事は、今迄の女性の美点に更に加へて、従来の女性に不足してゐた点を補ふものでなくてはなりません。その意味で女子大学の卒業生は日本婦人の特徴にもう一層の磨きをかけたやうな卒業生が出て欲しい、と云ふ事を繰返し繰返し成瀬さんにも現校長にもお話し又要求した処であります。
 昔から『婦人文字を知るは奸を知るの始めなり』と云はれ、又白河楽翁公の壁書の中には『あつて益なきものは、誠なき人の才、婦人の才』とあります通り、まことにいゝ加減の才は誰にあつても困り者でありますが、特に婦人にあつては心すべきであります。併し才必ずしも悪いといふ意味ではありませんし、どの程度の才が悪いと申し兼ねますが、一寸本を読んだ位の浅薄な才を悪用するのを益なき才と云ふのでありませう。かゝる才はその弊や実に大で、軈ては家庭の紊乱の本ともなります。
      学問の今昔
 とは云へ、教育と云ふものの価値はその才をよく引立てるものでなくてはなりませぬ。才自身が悪いのでは勿論ありませんから教育の力に依てその人々の才を益々よく導いてゆかねばならぬ、爰が女子教育の難かしい所であります。
 斯く申すのは、私が女子大学に関係してをりますために特に女の学問云々と申しますが、これは男子とても同様で、智恵を悪用してはいけません。当女子大学の創立の頃から、私は男子の教育に対しても頻
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りに教育の意味を考へてゐたものでした。少し横道に入りますが――左様明治十五・六年の頃でありましたか、私の長女が穂積陳重と云ふ人の所へ嫁ぎました。穂積と云ふ人は極めて謹直な人で、其頃の法律を研究する学徒でありました。而も法律一方の人間ではなく、当時の若者としては教育に就ても相当に考へた一人であつたので、議論と云ふではないが、時に夕飯の食卓などで聟と舅との雑談に耽る事があつた。ある時私が、『今時の者は学問は成程昔の者より優れてゐやうがどうも昔の如く精神を鍛へる事が足りぬ。自分などが若かつた頃は、学問は漢籍に依る外はなかつたが、その漢籍は所謂経書であつて、それは読むのみが能ではなく知るのみが能ではない、矢張身を以て行ふ事が第一のものであつたから、所謂学問は極く低い程度のものであつても人間の精神は自ら鍛はれたものであつた。これからの教育と云ふものも、矢張りその点は昔のやうに行かねばならぬものであらう』と申しますと、穂積が云ふには『それが悪いとは決して申しませぬ。が今の世の中に立つてはそればかりではいけません、いけないとは申しませんが、例へば昔の学問の仕方は先生と弟子と云ふ者の人格と人格とが触れ合つて行つたから学問の程度は低くても人間が鍛はれて行つた。併しこの学問の仕方はまことに少数で、一人の先生に選ばれた極く僅かな人が教育を受けるに過ぎない、それ故現代のやうに大勢の人間が教育されるにはどうしても今の学問のゆき方でなくては出来ぬ事でありませう。昔は例へば中江藤樹に熊沢蕃山が師事して、そこに師弟の意気相合すると云ふやうな事も見得たので、斯様な事は今も必要ではあるが実は一般には行はれ難い、それに今の教育法と云ふものも全然それに反対してゐるわけではないので知識が深くなれば物の道理が明瞭に解り、道理が解れば自然善悪の判断が正しく出来て来る、そして不合理の事を行ふのは不利益と知れば悪よりも善を行ふのが自然でありますから、勢ひ不道徳な事をするわけがないではありませんかそれ故に知識が必要である、つまり学問が必要なわけです。』と主張します。成程これも一理ではあると私もその当時から思つてゐたわけであります。が要するに、これは理屈のつけ次第で、善悪を判断する智恵がつけば善を行ふと決つてゐれば宜しいが、智恵と云ふやつは之を悪用すれば際限が無いもので、使ひやうに依つては悪を善と見せかける事も出来る所謂悪智恵が募つて来ると益々恐ろしいと思ひます。
      一般の向上
 以上は男子の教育に就て穂積と話し合つた事に過ぎませんが、之は直ちに女子教育に持つて来ても同様の事が云へるのであつて、前に申した通り日本女子の婦徳を益々発揮してゆくと云ふ事も一人や二人の淑女を出したのでは国を高める迄には至りませぬ。矢張おしなべて婦人の徳を高め、故成瀬さんの云はれたやうな立派な婦人を出すためには、出来る限り多勢の婦人に学問を授ける事を考へねばなりません。それには学問に伴ふ弊害のみを恐れてゐたのでは仕方がありませんから、この意味では元より女子教育に大賛成である、がどうか私が心配する点に就ては呉々も心を用ひて貰ひたい。この一点を私は繰返し繰返し御願ひする次第であります。
 - 第44巻 p.710 -ページ画像 
      私の苦い経験
 次に私が女子教育の必要を感じた原因は色々ありますが、つひ近頃も益々その必要を痛感せずにはをられぬ苦い経験を嘗めた事があります。と云ふのは、一九二四年にアメリカの議会で日本人の移民問題に関して実に侮辱的な制度を決められた事があります。そこで私は実に遺憾千万に考へて前々から御懇意にして戴いてゐるハーバード大学のエリオツト博士に向つて、愚痴ではないがアメリカの態度に就て苦情を申し送つた事がありました。処がそれに対する先方の返事が甚だ尤もな云ひ方でこちらからはもう苦情を云ふ処か、実に赤面せねばならぬやうな仕儀に立ち到つたのであります。その手紙と云ふのは、先づ私の手紙に対して実に丁寧な礼儀を以て、
『あの事はどうも行掛りが悪かつたためにあゝした結果になつてしまつた事はアメリカ自身に取つても遺憾である』
と十分の了解を示されたのち、尚『このあとに斯様な事を申してはまことにシツペイ返しをするやうな云ひ分ではありますが、日頃親しい関係にあり、しかも日本の先輩である貴方のお耳に入れる事は他日日本のために何かのお役に立つ事でもあらうと思ふので、遠慮なく申し添へる』と断つて『どうも一国の交りがたゞ特別の人々の交りに止つてゐたのでは両国の親睦といふものは出来ない、それ故国と国との親善は是非とも国民と国民との親善にならねばならない、処がその国民と国民の文化の程度が余りにかけ離れてゐては親善しやうにも出来難い、例へば国民の知能の点に於て、特に日本に於ける女子の教育の程度とアメリカの女子の教育程度と較べてどうであらうか、又日本に於ける女子に対する待遇とアメリカのそれとを較べてどうであらうか。これを腹蔵なく云へば余程差があるやうに思はれるから、日本に於ける先輩である貴方がたに於て深く心をそこに用ひて戴きたいと思ふ、この点がお互に歩調を揃へ得るやうになれば、日本とアメリカの親善は自然に国民と国民とに依つて十分に了解出来る時が来ると思ふ。それ故私は未来を考へると今度の法案に就てお気の毒には思ふが、決して悲観はしない』と懇々と私を慰めて呉れられたのであります。つまりエリオツトは婉曲に日本の女子の教育がまだまだ低いといふ事を私に教へて呉れたのでありました。その人はもう今は世に在りませんが私は今もその事を考へる毎に大いに尤も至極と思ふと同時に、日本の婦人をもつともつと教育せねばならぬといふ事を痛切に感ずるのであります。
      義務から権利へ
 一般の人と云ふものは何でも徳な事を先に考へて損はせぬつもりの者が多く、今日の学問をした人間などでも権利ばかりを主張して義務に対する観念は忘れてしまふのが普通であります。一般教育界でも、宗教界或は政治界に於てもおしなべて之であるから世の中の治まりがつき悪い、が私は先づ義務を先にしてゆけばよいと思ひます。先と申すよりは義務を尽すのが権利だと思つてよいのではないかと思ひますさうして自分の尽すべき義務を尽してゆけばつまり自分がよくなり人もよくなります。これを逆に人がよくなれば自分もよくなると考へる
 - 第44巻 p.711 -ページ画像 
のは間違ひであります。これはクリストも云つてござるやうに、『我が受けて心地のよいものは必ず人にも施せ』又孔子の教へにも『己の欲せざる事は人に施す勿れ』とある、この意味は確かに一つの真理であります。これはつまり自分の義務を十分に果せば自らそこに到るものであつて、婦人の学問にしても十分に婦徳を磨けば自ら婦人の地位も高まつてゆくわけと思ひます。
      経済と道徳
 以上で婦人の知識や徳が如何に必要であるかは申しましたが、婦人の力をより完全にして世の中のために十分の義務を尽すためには矢張経済の事情に明かでなければならぬ事は云ふ迄もありませぬ。云ひ換へれば物の道理と経済とは一つの物の裏と表の如きものであつて、今迄の東洋流の教育に於ては兎角学問さへあれば経済の事などはどうでもいゝやうに考へ、或はそれ以上に経済の事を考へるのは卑しいやうにさへも考へたものでありました。併し今の世の中では小は一家の経済から、否小さい家庭の経済に対する婦人の考こそは国家の大なる経済にも及ぶものであります。云ひ換れば小さい家庭の経済も国家の大経済もその道理は一つであると同時に、道徳と経済とはどこ迄も車の両輪の如く進んでゆかなければならぬものであります。併し経済と申せば単に金の事だけだと考へるのは甚だ狭い考で、これは仕事の上にも時間の上にも力の上にもそれぞれ有効に処理してゆく事が即ち経済の本旨であると思ひます。それ故に婦人が家を整へてゆくにも淑かな婦徳を備へると同時に、深く経済の観念を養ふ事が必要であります。而して一家の経済の節約は国家経済の節約の基である事を思ふにつけても、女子教育の事を申すに際して特に婦徳及知識を涵養する半面に経済観念を養成するの肝要な事を申し加へた次第であります。
   ○右演説ハ『家庭週報一千号所載』トシテ「竜門雑誌」第四九四号(昭和四年十一月)ニ転載シアリ。