デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
2節 女子教育
1款 日本女子大学校
■綱文

第44巻 p.728-742(DK440198k) ページ画像

昭和6年11月11日(1931年)

是日、午前一時五十分当校校長栄一逝ク。午前九時当校講堂ニ於テ哀悼式催サレ、全校授業ヲ休止シテ弔意ヲ表ス。十五日、葬儀ニ際シ、全校生徒沿道ニテ送葬、当校学監井上秀子弔詞ヲ贈ル。


■資料

家庭週報 第一一〇三号 昭和六年一一月一三日 噫々渋沢子爵 父と仰ぐその人今はなし(DK440198k-0001)
第44巻 p.728-730 ページ画像

家庭週報 第一一〇三号 昭和六年一一月一三日
    噫々渋沢子爵
      父と仰ぐその人今はなし
 九日朝来危篤を伝へられて以来絶望の状態をつゞけられた母校々長
 - 第44巻 p.729 -ページ画像 
子爵渋沢栄一翁は、十一日午前一時五十分つひに一門の悲しみに守られつゝ、眠るが如く平安の大往生を遂げられた。
 これより前、危篤の報天聴に達するや、十日午前零時畏き辺りより村上侍医を同邸に御差遣ありて親しく病室の翁に聖旨を伝達された。この破格の光栄に加へて、子爵が多年財界その他に尽した功労を深く嘉みせられ、特に正二位に陞叙の御沙汰あり、即ち十日午後十一時五十分、宮内省大臣官房から市外滝の川の同邸に特使を差し遣はされたのであつた。
 実に翁はこの聖旨拝受を終焉の栄光とし、越えて十一日午前一時五十分、偉人渋沢翁の裕かな生涯を永遠に閉ぢられたのであつた。子爵は天保十一年の誕生で、実に弘化・嘉永・安政・万延・文久・元治・慶応・明治・大正・昭和とこの永い生涯を通じて、子爵ほど豊かに、大きく、人間としての貢献、また人間としての偉業を遂げられた人は他に類がない事は衆人の感嘆と羨望に堪へぬ処である。
 我等の母校日本女子大学校は抑々その創立当初から、子爵の並々ならぬ御骨折りを受けてゐる事は今更玆に繰返す迄もないことであるが曩に麻生前校長の御退職以来は、日本女子大学校々長としてまたまた子爵の御厄介を煩はしてゐた母校としては、まことに感慨にたへぬものがある。
 子爵は常に「百歳なほ不老」を座右の銘として居られたと承つてゐるが、まことに子爵こそは百歳の寿を完うせられて、円満人をして常に春を思はせるあの御人格を永遠に現世に仰ぎ見るすべはないものかと惜しまれる。
 過ぐる六月二十二日、麻生前校長と新校長渋沢子爵との送迎会に御出席になつたときのあの麗はしい童顔の子爵を、私共は今も眼前にありありと思ひ起す事が出来る。またその席上に述べられた御挨拶(本紙第一千八十五号掲載)の如何にも慈愛に充ち充ちたあのお言葉の表情をも忘れ得ない。
 「噫子爵いまは在さず」と思ふ事の如何に寂しい事であらう。
 母校校長渋沢子爵の御永逝の日!
 日本女子大学校では、この日午前九時から全校生徒教職員一同が厳かに講堂に参集して、一時間余に亘る瞑想会を開いた。藤原指導主任は渋沢校長の御逝去を慎んで報告、次で秦楽(告別の歌)、瞑想三分間ののち、井上学監からは子爵御臨終の前後に就て詳細を極めた報告並に感話があり、次に学生代表の追悼の辞、明治天皇御製「目に見えぬ」を拝唱の後、更に三分間の瞑想を以て会は閉ぢられた。
 閉会後、直ちに左の如く日本女子大学校全校からの代表者を挙げ、飛鳥山渋沢家に参邸して弔意を表した。代表者は
 大学本科代表・各学部長・附属高等女学校主事・附属豊明小学校主事・附属豊明幼稚園主事の他、教職員総代として各学部・附属高女・小学校・幼稚園・指導者寮監より各一名又は二名。学生々徒総代としては大学部・専門部・附属校園代表各組より一名
 なほ桜楓会本部・桜楓会東京支部・附属高等女学校若葉会よりも各二名、家庭週報よりも一名代表して参邸した。
 - 第44巻 p.730 -ページ画像 
 なほ当日は全校の授業を一日休業し慎んで深く追弔の意を表した。


家庭週報 第一一〇三号 昭和六年一一月一三日 母校校長渋沢子爵を哀悼す 十一日午前九時より日本女子大学校に於て哀悼式挙行(DK440198k-0002)
第44巻 p.730 ページ画像

家庭週報 第一一〇三号 昭和六年一一月一三日
    母校校長渋沢子爵を哀悼す
      十一日午前九時より日本女子大学校に於て哀悼式挙行
 遂に十一日午前一時五十分、渋沢校長御永逝との訃報が母校内に伝はるや、学生は午前八時より各組に集り、弔問代表者を一名宛選出、同じく九時より教職員学生は講堂に集合して、哀悼式を挙行した。
 哀悼式の司会は指導主任藤原千代子氏が之に当り、奏楽告別の歌を奏して後、瞑想によつて創立の当初から今日まで、常に本校の為めに尽力せられた校長としての渋沢子爵、また日本国家を飾る大偉人としての渋沢子爵の厳かなる今暁の御永眠に対し、深き哀悼の意を捧げ、つゞいて御臨終に接せられた井上学監の、老子爵が腹部の手術を受けられてより、其の後の御発病以来御逝去までの御経過とその御様子につき、詳しくお話あり、九十二の長き御生涯を省て何等残す処なく尽された子爵には生に対する執着なく、春風駘蕩として最後を迎へられた、この世界的大偉人の偉大なる心境を偲び、上皇室の数々の優渥なる御思召に浴して安らかに大往生を遂げられた老子爵の御臨終の様なども語られたのであつた。御事蹟に就ては数ある中に、殊に女子教育界、本校に対する並ならぬ御尽力を挙げ、創立者成瀬先生・麻生先生と共に、本校の大恩人として永久に仰慕し、その御遺志を我等の修養生活・研究生活の上に体すべき事を述べられた。
 その他、かつて米寿の賀に際して、本校学生の製作に係る羽根蒲団は御病床の最後まで召されたこと、或に御永逝の日の一日の穏やかな天候に恵まれたこと、また子爵とは因縁殊の外深い休戦平和記念日に当るなど、天の子爵に幸されたものではないかとも述べ、なほ子爵の御事蹟、御人格、逸話挿話に就いては語る処が多いが、之を後日に約されて、只管この大偉人の御病床の間を中心に説かれると同時にその御瞑福を祈られた。
 之につゞいて、学生代表は「今春御老体を押して校長としての名を受けられ、以来親しく学生との直接交渉はなかつたが、我等はその偉大な御人格を通じ、御恩に対してお尽しすべき事を感じてゐたが、けふこの悲しみに打たれつゝも我々は親しき娘として、御生前の御人格を偲び、今後の生活の上に努力を加へ度いと思ふ」との意味をこめて哀悼の意を表した。
 かくて御製「目に見えぬ」を拝誦、三分間の瞑想後、藤原指導主任より今日一日授業を休み、慎んで校長渋沢子爵の御逝去を悼むべく種種注意があつて、十時半静かに退場となつた。
   ○写真「校長就任披露式に於ける故渋沢子爵」略ス。


家庭週報 第一一〇三号 昭和六年一一月一三日 校内記事(DK440198k-0003)
第44巻 p.730-732 ページ画像

家庭週報 第一一〇三号 昭和六年一一月一三日
    校内記事
 母校々長渋沢子爵は去月来病床に就かれ府下滝野川に於ける御別邸
 - 第44巻 p.731 -ページ画像 
に御療養中であつたが、去月卅一日病篤しとの報道と同時に、母校に於ては井上学監・塘幹事並に麻生前校長が、絶えず参邸して御病状をお気遣ひ申上て居たが、その他本紙家庭週報前号にも掲載の通り、二日月曜日午後三時、各学部々長・附属高等女学校及豊明小学校並に豊明幼稚園各主事・桜楓会代表・家庭週報代表、各学部二名づつの大学部学生代表、附属高等女学校及び豊明小学校生徒代表が御見舞に参邸し、只管御快癒を念じてゐた。其の後日刊新聞の報ずる通り、御病勢漸次重り、八日以後は全く危篤状態にあらるゝとの報に接し、母校並に桜楓会は再び九日午前午後に亘り、井上学監・塘幹事・麻生前校長を初め、各代表が同邸を訪問お見舞ひ申上げた。
 また全国に散在する卒業生も頗る憂慮してゐるので、桜楓会本部よりは、各地方支部に向けて子爵の御病状を通報した。
 尚、校内にては今月下旬開催計画中であつた、国文学部及び英文学部の両文芸会を九日無期延期することに決定、全校を挙げて老子爵の御病態の如何を御案じ申し上げてゐた。
 然るに十一日朝刊は悲くも渋沢子爵遂に御逝去の訃報を伝へたのであつた。母校に於ては即ち午前八時、学生は各組に集り弔問代表者を選び、同九時、教職員学生講堂に参集して、哀悼式を挙行し式後各代表者は飛鳥山渋沢邸を弔問し全校謹しんで哀悼の意を表した。
 越えて十二日には左の事項が決定通告された。
△霊柩送葬―御葬儀は十五日午前十一時より青山斎場に於て挙行されるが、母校よりは井上学監・塘幹事・藤原指導主任、学生代表三名及び本紙代表が参列し、その他全学生二千名並に桜楓会代表者は、飛鳥山渋沢邸前に堵列して霊柩を送葬すること。
△お通夜―十二日より三夜の間、教職員中より十名づゝ交代して、お通夜を申上ぐること。
△家庭経済小展覧会―来る廿三・廿四両日開催の筈であつたが、渋沢校長御逝去につき延期のこと。

    告別式参列記
      日本女子大学校学生総代
 十一月十一日この休戦紀念の意義深い日を最後に永逝あそばされました故渋沢子爵、御祖父様とも御父上とも御慕ひ申上げるこの渋沢校長先生のよき子として、よき孫として一同が御邸前に御出棺を御見送り申上げ、理科(家・師)より一名、文科(国・英・社・高・大)より二名は、生徒総代として青山斎場の御式に参列致しました。
 昨夜来降りつゞいた雨も、故子爵の御徳によりてか、名残りなく晴れて、大気は塵を鎮め晩秋の淡い日射しはこの大いなる人格者の御最後を、いとしめやかに見守る如くでございました。
 正面に掲げられてある子爵の半身像は、円満であらせられた御生前の温顔そのまゝに、なほ再び御声の伺はれる如くに感ぜられ、両側の聖上・皇后宮・皇太后宮三陛下を始め各宮家や大使から、手向けられた生花は、真に偉大であり功労多い御生涯を物語つて、今更の如く再び深く偉大にして御円満な、御人格をお偲び申上げました。
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 勅使の御出についで、皇后・皇太后の御使があり、多数の導師の読経の後には、又永田市長と商工業会議所会頭の弔辞に、若槻首相の御焼香があつた、この御立派な御儀式は、建設的な御性格の子爵の御遺業、即ち実業界に於てはあらゆる事業の創始或ひは、経営もしくは援助など一つとして、故子爵の御力に依らぬものなく、又社会に於て、国際関係に於て、慈善事業に於て教育事業殊に女子教育に力をお用ひになり、又国際親善の為にも、お忙しい人生を犠牲に遊ばされ、支那水害の時の如きは病床においでになりつゝ放送なされる等、実に何の思ひ残す所なく成し遂げ、天意を全うして安らかに永遠の眠におつきになつた子爵の輝しい御最後を飾るものでございました。
 そして又あの会葬者が多かつた事、又一人として子爵の御逝去を惜しまぬもののないのは、御生前能く衆を容れ、汎く人を愛せられ福徳無量の権化として、円満で在らせられた子爵を、敬慕申上げるものの如何に多いかを知るもので御座いました。
 私共は我が校が、故子爵に色々御力添へいたゞき、最後には校長先生にまでなつていたゞいた深い御恩を思ひ、今後も尚御守り下さる事を祈りつゝ、御霊前に進んで御焼香し、子爵の御冥福を衷心から御祈り申上げて参りました。


家庭週報 第一一〇四号 昭和六年一一月二〇日 哀悼の辞 日本女子大学学生を代表して(DK440198k-0004)
第44巻 p.732-733 ページ画像

家庭週報 第一一〇四号 昭和六年一一月二〇日
    哀悼の辞
      日本女子大学学生を代表して
 一日でも、一時でも、永らへて居て下さる様にと念じ申し上げて居た甲斐もなく、校長渋沢子爵御逝去の報を受けまして、私共は悲痛の感に打たれて居ります。何にもなさらなくとも、生きていらして下さるだけで此の上もない光でしたのに、今は其の光も失なはれました。
 御生前の子爵を、御偲びする毎に、偉大な子爵といふよりも、御やさしい何でもうなづいていただける、好きな好きな御ぢい様、と云ふ感じが湧いて参ります。
 此の春、此所にいらして、私共にやさしくお話し下さつたのに、もう再び私共の前に立つて下さる事もなくなつて了ひました。
 校長として親しく御接しする機会は少うございましたけれども、私共は常にあの大きな御人格に包まれて居りました、御病気が重いといふ事を承りましても、近く御枕頭に侍つて、御みとりする事は出来ませんでしたけれども、どうか一日も早く、御快癒遊ばすやうにと、陰ながら御祈り申上げて居りました。その祈りも聞かれず、子爵は永久の国に行かれました。私共は悲しみ以上の厳峻な気持に打たれて居ります。
 今、此の内治外交共に重大な時機に、子爵を失つた事は国家の非常な損失であると共に、世界の大きな損失だと思ひます。
 子爵は御生れになつてから、御なくなりになるまで、四代の天皇、年号重ねる事十度もの長い間、実業界に、国際問題に、教育上に、社会事業に、慈善事業に、その他あらゆる方面に、至誠一貫あの大きな御人格で御つくし下さいました。殊に本校に取りましては、創立以来
 - 第44巻 p.733 -ページ画像 
の大切な御方でございました。特に此の四月の本校の重大時にあたりましては、御老体をも御いとひなく、校長の重任に御つき下さいました、この重ね重ねの厚い御心に、何と感謝してもし切れない気が致します。
 私共は入学致しまして以来、子爵にお接し出来たのは、あの米寿のお祝の時と評議員会の時などでございました。米寿のお祝の時は、子爵は此処にみえられて、私共と一緒に、親しく「万歳」をお叫び下さいました。しかし今はもう永久に去つてしまはれました。
 短い月日ではありましたが、その立派な子爵を、親しく校長として仰いで居た私共は幸であつたと思ひます。私共は子爵御永逝の後もあの大きな温かい御心に包まれながら、御遺志を奉じて母校のため国家社会のために立派な婦人として、又人間として出来るだけ御尽しして参り度うございます。


家庭週報 第一一〇四号 昭和六年一一月二〇日 御柩を送る日 週報子(DK440198k-0005)
第44巻 p.733-734 ページ画像

家庭週報 第一一〇四号 昭和六年一一月二〇日
    御柩を送る日
                       週報子
 前日の大雨に気遣はれていた十五日の朝、秋の美しい青空が、奇蹟的に思へる程、晴々しく仰がれた。我等の恩人渋沢校長遂に谷中の地下に眠らるゝ時となり、最後のお別れをすべく、母校の全学生二千名は早朝校庭に参集して、七時前には既に飛鳥山に向けて出発した。(尚青山斎場には学生代表三名参列)
 滝野川区域に入ると、軒毎に掲げられた弔旗も悲しく、喪章をつけた町内の小学校児童何千人かを初め、青年団その他各団体がしめやかなざわめきを起して、蜓々長蛇、文字通り駒込までの間は御見送りの人の列が続く。大学生・女学生・小学校生・養育院代表、凡そ集る人は老若男女の凡ゆる人の顔。之は故渋沢子爵の円満なる御人格の反映であらう。
 日本女子大学校の立札は、子爵邸前から商大・早大・救護班に続いて、一番長く場所が占められ又桜楓会はこの後に指定されてある。
 八時半――益々快い秋の陽が美しく黄ばんだ並樹を輝やかせ、青い空が清められた鋪道の上に映る。静かな朗かな明るい昼前。
「いゝお天気になつて!」
「渋沢日和とでも云ふのでせう」
 九時――もう御出棺と思ふ時もなく、自動車の流れは寛永寺の僧正を先頭に、緩かな滑りの音をたてゝ進んだ。水を打つたやうなあたりの空気を細かく震動させて、やがて何の花もつけない、黒い霊柩車が静かに静かに流れ去つた、続いて喪主敬三氏、かね子未亡人、その他御近親の方々の悲痛なお顔が映る車の窓を通してお見受けされた。母校の井上学監も幾台かの自動車の中につゞいて……それ等の状景をムービイに収めるサイドカーの中の緊張したカメラマン。併しそれ以上に続くものもなくて終つた。あの赫々たる輝かしい九十二年の御生涯を物語る一つのものをも附けずに、まるで何処かのお爺さまの御柩が運ばれるかのやうに、唯一つ、黒い霊柩車は音もなく行き過ぎて終つた
 - 第44巻 p.734 -ページ画像 
あの中に世界的偉人の御遺骸が横はる? 凡ての華やかさを捨て去られた処に私達を感慨深くさせ、故人の床しさが益々発揮させられたやうに思ふ。
「他人行作をせぬやうに――」
 多分偉人渋沢子爵は今後も私達凡人と共に日本の中に生活されるに違ひない。


竜門雑誌 第五一八号・第二〇―四五頁 昭和六年一一月 葬儀○渋沢栄一(DK440198k-0006)
第44巻 p.734-735 ページ画像

竜門雑誌 第五一八号・第二〇―四五頁 昭和六年一一月
    葬儀○渋沢栄一
十五日○一一月
○中略
 一、青山斎場着棺 午前九時四十分。
 一、葬儀開始   午前十時。
 一、葬儀終了   午前十一時三十分。
 一、告別式    午後一時開始三時終了。
○中略
    葬列順序
○中略
 更にそれに続く任意の自動車約百台は静かに曖依村荘を後にした。沿道には地元滝野川の町民、互親会、小学校、在郷軍人会、消防、婦人会その他名誉職の人々が之を送り、戸毎に弔旗を掲げて居るのも、青淵先生の御葬儀ならばこそと思はしめられた。更に聖学院・駒込中学・東京女学館・日本女子大学校・東京商科大学等の男女学生生徒が堵列して駒込橋まで続く、その間を粛々として花輪一個もつけぬ葬儀の自動車列は進んで行つた○中略 かくて自動車は静粛裡に青山斎場に到着した。
 午前十時から葬儀が開かれた。○中略 また東京市民を代表した永田市長の弔詞、実業界を代表した郷誠之助男の弔詞朗読があり、他の数百に達する弔詞を霊前に供へ、十一時半予定の学く葬儀を終了した。
○中略
    弔詞(順序不同)
○中略
噫乎我カ日本女子大学校長子爵渋沢栄一閣下薨去セラル、子爵ハ一代ノ耆宿蓋世ノ宏器、凡ソ社会万般ノ事業概ネ其ノ提撕補導ニ俟タサルナシ、特ニ意ヲ教育ニ用ヒ、其ノ創設助成ニ依倚セル学園亦尠シトセス、真ニ我カ文化ノ工師タリ、故成瀬先生校長ノ我カ校設立ヲ企画スルヤ、明治二十九年之ヲ子爵ニ謀ル、子爵ハ其ノ主義精神ヲ諒トシ、公私百端湊合忽忙ノ余暇ヲ割イテ庇護ト援助トヲ吝マス、尚早反対ノ異論朝野ニ充テル中ニ在リテ、明治三十四年四月竟ニ開校スルヲ得タルハ実ニ最モ多ク子爵ノ献功ニ依ル、爾来子爵ハ評議員財務委員トシテ父祖ノ深情ヲ傾注シ、校礎校運ノ培養開発ニ努ムルコト三十余年一日ノ如ク、全ク自家ノ創業ト同致タリ、其ノ間評議員会其ノ他校ノ重要機務ニ際シテハ殆ト必ズ参列シテ誨諭ヲ垂ル、教員生徒総テ其ノ慈顔ヲ仰ギ慈音ヲ聴クヲ楽メリ、我カ校開設以来蹉跌ナク停頓ナクシテ
 - 第44巻 p.735 -ページ画像 
克ク今日ニ至ルヲ得タルハ、蓋シ子爵カ至誠一貫ノ恵沢ト為ス、本年四月麻生前校長ノ引退ニ会シ、老躯ヲ努メテ校長ノ職ニ就キ、日々親シク校務ヲ見ル能ハサルモ、随時切切ノ至意ヲ伝ヘテ指導鞭撻常ニ当事者ヲ感奮セシム、昊天無清溘焉トシテ今ヤ斯人亡シ、吾人将タ何ニヨリテカ菲薄ヲ補フヲ得ン、顧望スレバ玉燭ノ温容猶ホ校舎ヲ照ラシ春暄ノ薫風仍ホ校庭ヲ繞ル、満腔ノ感謝ト惋惜ト思慕悲慨ノ情海岳尽クルナシ、玆ニ辛ウシテ蕪辞ヲ陳ネ全学園ヲ代表シテ僅ニ哀悼ノ意ヲ致ス噫乎悲イカナ
  昭和六年十一月十五日
            日本女子大学校学監 井上秀子



〔参考〕竜門雑誌 第四八一号・第三九―五〇頁 昭和三年一〇月 青淵先生と女子教育(DK440198k-0007)
第44巻 p.735-742 ページ画像

竜門雑誌 第四八一号・第三九―五〇頁 昭和三年一〇月
    青淵先生と女子教育
                      麻生正蔵
      一
 青淵先生は新日本の経済界・商業教育界、並びに社会事業界の大恩人であると同時に、女子教育界の大恩人である。先生は明治十八年、政治上の大改革が行はれた機運に際し、当時世人の注意を逸して居た女子教育の必要を看取し、時の総理大臣伊藤公と共に東京女学館を設立し、上流女子の為めに小学教育以上の教育を施す道を開かれた。それと同時に又一般上流婦人、殊に一家の主婦たる女性に必要なる社交上の知識を授くる機関として女子教育奨励会なるものを設置し、女子教育の開拓を謀ると共に、女子の地位の向上に力められたのである。その後女子教育奨励会は一進一退、遂に時運の影響によつて廃止されたるも、東京女学館は先生の保護経営の下に幾多の困難を切り抜け、発展を続けて今日に及び昨今高燥なる下渋谷の地を卜して校舎を新築し更に陣容を整へて斯界のために大いに貢献せんとして居るのである
      二
 青淵先生が我が日本女子大学校と密接の関係を結ばるゝに至つた機縁は、明治二十九年大隈侯の紹介によつて成瀬仁蔵君を引見し、その女子大学創設の意見を聴取せられた時に端を発したのである。当日成瀬君は我が国女子教育の不振を嘆じ、その誤謬を指摘し、無主義を排し、熱誠を籠めて自分の女子教育上の主義信念と、女子大学設立の趣旨とを披瀝陳述して畢生之に従事する決心を訴へ、先生の賛助を悃望したのである。併し先生は一回の会見によりて直ちに賛同の意を表せられなかつた。勿論決してそれを不必要と思はれたのではなく、唯重きを置く訳には行かなかつたからである。それ故に先生は全幅の同情を寄せる事は出来なかつたが、先生は本来所謂『大事とり』で、飽くまでも軽挙を嫌はれると共に、一旦是と決定した以上は、満幅の勢力を集注して事に当ると言ふ精神態度に富ませらるゝ方である処に、成瀬君の態度も先生のそれと全然一致する所あるを発見し、再三再四面会する内に、成瀬君の意見抱負は聊か突飛ではあるが、誠に珍らしい人物であり、信頼すべき有為の大丈夫であると思はれる様になり、遂に出来得る限り助力しようといふことを約せられて、爾来今日に及ぶ
 - 第44巻 p.736 -ページ画像 
迄、益々深厚なる御援助を賜はる事となつたのである。
      三
 先生は愈々女子大学創立の助成を約せられたものゝ、高等女学校程度の規模の小なる東京女学館の経営ですら、屡々困難に遭遇するのにましてや女子大学の如き規模の大なるものに対して、何処からも多大の援助なく、政治上の勢力の背景もなくどうして成立し得べきやと、懸念せざるを得なかつたのである。それ故に、先生は東京女学館と女子大学との合併説を提出されたが、双方共に賛意を表しなかつた為めに遂に不成立に終つたのである。而して成瀬君は断々乎として女子大学設立の為めに東奔西走、維れ日も足らずと言ふ熱心振りを発揮し、その決心たるや、動かすべからざるものあるを見た先生は、遂に合併説を撤回し、成瀬君の事業を援助せられ、その実現を来さしめたのである。
 併し先生の懸念は経営難にのみ存したのではなく、女子大学出身の者に就て大にあやぶまれたのである。時代にそぐはない、女らしくない、学問を鼻にかけて不遜の態度を取るやうな卒業生、学問上の理窟は知つても、実際の社会を知らぬ自惚れの強い婦人の世に輩出するが如きことのなきやを頗る憂慮せられたのであつた。
 然るに先生は、幸にも女子大学卒業生は事実に於て至つて謙遜且つ真面目であつて、決して前述の如き心配すべき点がないのみでなく、年と共に漸次、卒業生に対する世間の評判がよくなつたと、大に安心し且つ非常に喜ばれ、益々我が女子大学を援助せらるゝに至つたのである。
      四
 青淵先生が、東京女学館を設立し、特に日本女子大学校の創立、維持、発展に対し、終始一貫、年と共に益々熱心なる後援を賜はる所以のものは、決して単に成瀬君の熱誠に動かされた為めのみではなく、先生自ら女子教育に対する主義信念を有せらるゝと言ふ点に存するのである。
 青淵先生は我が邦婦人の地位境遇に対し深き同情を懐かれて居るのである。先生は実業家であるが、昔日の実業家は即ち町人又は商人である。此等の商人は旧日本に於ては士農工商の最下位に置かれ社会から仲間はづれとせられて、あるかなきかの憐れな状態の下に生存して居たのである。然るに明治維新の際に於ける四民平等の思想によつて開放され、遂に今日の地位を羸ち獲て実業家として尊重せらるゝに至つたのである。然るに従来の日本婦人の地位境遇は恰も商人のそれと同一である。女子と小人とは養ひ難しと孔子でさへ言ふて居る位であつて、実に女子は商人と同様に社会に侮蔑せられて来たのである。昔日の武人制度の下に於ては、力づく、腕づくの世の中であるが故に、弱き者である女子は到底男子に打ち勝ち得ないものである以上、常に男子から器具扱ひを受けながら、それに忍従するのも已むを得なかつたのである。併し之れ恰も町人が武士の為めに戦具の如き取扱ひを受けたのと同様であつて、不合理極まる世相である。我が国も世界の日本となつた今日の文明の世の中では、是非共矯正され、改善されなけ
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ればならない陋習であつて、商人も武士同様に人間であり、国民である如くに女子も亦男子と同様に人間であり、国民である以上、人間として又国民として待遇され、教育されなければならないのである。而して後初めて国家も進歩発展するのであると、先生は考へられて女子教育に助力を惜まれなかつたのである。
      五
 青淵先生は啻に不遇なる女子に対する同情からのみ女子教育に助力せらるゝのではない。男女は均しく人間であり、国民であるが故に教育上男子の教育と女子の教育との間に、決して差等があるべきでないのみならず、寧ろ更に女子教育には一層の重きを置くべき必要があると主張せらるゝのである。蓋し国家の基礎は家庭に存し、家庭の良否は主として女子の知徳の高下深浅による所が極めて大であるからである。それ故に女子教育に於ては貞順・忠恕・友誼の如き古来の美徳を涵養することは無論必要であるが、併し今日の社会に於てはそれ計りでは不足である。女子も男子と同様に人間としての学問、国民としての学問をせねばならない。たとひ家事には通暁するとしても、若し広い範囲に亘ると、何事も知らぬと言ふ有様では到底完全なる家庭を造ることが不可能である。ましてや優秀なる国家を造ることは尚更である。それ故に女子も男子と平等に広く種々の学科を学び、又高等の教育を受くることが今日此の文明社会に於て必要である。青淵先生は斯様に男子の対等教育を主張せられ、又愛国の至情から女子の高等教育を高唱せらるゝのである。
      六
 女子の学問が進めばその活動が現はれ、その活動が現はるればその地位が向上し、その結果、国富も増加するのである。要するに女子が教育を受け、学問にいそしむのは各自自身の発達が主眼ではあらうが又同時に国家を裨益する所以である。先生は廿四・五歳の時から、科学は人生に取りて極めて大切であり、必要であると考へて来られたのである。併し今日となつて見ると科学の学問のみでは、人間が功利にのみ走ると言ふ事を先生は知られた。それ故に先生は物質の知識、即ち科学的知識と精神教育即ち人格教育とが合致融和した時に、知識学問が初めて大なる力となつて、人生及び国家の上に役立つのである。之れ則ち教育の原則であると言はれるのである。誠に明言である。
 然るに従来我が国の教育は学問知識の方面には可なりの発達を遂げたが精神教育は振はず、ましてや信念教育の如きは皆無の姿である。滔々たる世人、唯自家の利益を増進するが為めに努力するも、一向に精神の向上を謀らないのである。之れが為めに家庭の進歩も、社会の改善も鈍れ勝ちであると、先生は慨嘆されるのである。
 又「政治界・実業界、其の他社会のどの方面を眺めても、何のざまでありませう、而もそれに携はる人々は皆学問あり、知識ある人々である。かう云ふ人々の行状は何で御座いませう」と先生は頻りに憤慨されるのである。学問知識に偏して精神人格を顧みない教育は、かくの如き醜い果実を結んだのである。
 今日学問のある男子にして人格や信念の方面に於て比較的に進歩せ
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る人々が少いのは誠に遺憾である。かう言ふ人々には自家の権利は主張するも、本務は忘れて居るのである。之は決して誹謗ではなく事実の記述である。今日男子社会一般の弊であると、先生は言はれるのである。
 立派な学校で精神教育を受けた婦人方がかう言ふ社会に対して余りに寛容であると言はねばならぬ。教育ある婦人は宜しくかう言ふ弊風を掃蕩する任務を帯びて、社会に立つべきである。併し一般婦人の弊風は男子のそれほどには立ち至つて居ないにせよ、又相当人格ある婦人は出来たにせよ、かう言ふ社会の弊風を廓清し得る迄には前途遼遠であるとは言はないが、まだ充分満足とは言へないことを先生は遺憾とせられて婦人を激励せられ、殊に今後の若き女性に嘱望せられる所が頗る多大である。
      七
 本校創立当初に於て、青淵先生は本校卒業生が、社会に出たならばどうであらうかと心配されたのであるが、今や心配どころか、続々多数の卒業生が輩出して、どしどし社会の改善に努力し、今日の如き極めて不真面目な甚だ利己的社会の弊風を矯正し、此の悪風潮を堰き止める役になつて貰ひたいといふ信頼を持たるゝ様になつたのである。
 青淵先生は国民の上に及ぼす婦人の感化の偉大なることを深く信ぜらるゝのである。曰く孟母三遷の例を引く迄もなく、婦人の力は実に国民生活の上に偉大な感化を与ふるものである。若し我が校卒業生が教育上・学問上・経済上・精神上等に於て社会の為めに働いたならば将来国民生活の上に少からざる福利を持ち来すであらうと。
 青淵先生の知人であるラモント、ヴンダーリツプ、カーネギーの三夫人の如き立派な有為の婦人が欧米には続々輩出しつゝあるが、我が校に於てもさう云ふ婦人を養成しつゝあることを信じて大に喜ばれどうか我が校の出身者は才徳兼備の婦人となり、日本の国風をその力によりて立派に造り上げて行く様に努力してほしいと希望されもう今日となつては私共は皆さんに対し、あまり家の中にばかり引き込んで居ないで内に充実せる実力を勇敢に大に外に向つて発動せしめて貰ひたいと、積極的な外部的活動を奨励し、希望するに至られたのである。
 併しそれと同時に、先生は人類の改善は母が賢良の母とならなければ完成されないことを信ぜらるゝのである。従つて先生は我が校からさう云ふ賢良の母となるべき婦人の多数輩出し、国民の改善、人類の善化に対し出来得る限り貢献せんことを願つて居らるゝのである。
      八
 青淵先生は成瀬校長の人格、教育主義及び方法並に手腕を信頼し、教務の事一切を挙げて校長に一任せられたのである。先生は本校の産婆たる創立委員として、又保姆たる評議員として、その誕生を助け、その生長発育に深大の力を注がれたのである。就中財務委員として最も多大な保護と援助とを賜はつたのである。単に教務上に一切任せ切りでなく、財務上に於ても唯要求せられたる資金を調達する方面にのみ力を尽され、資金をどう言ふ風に要するか、又どう使用するかは殆ど一切任せ切りである。何と云ふ信任振りであらう。従つて校長もそ
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の尊い精神と自己とに感じ、一所懸命に歳費を節約し、無用の経費は之れを要求しなかつたのである。其処に人格の調和一致があり、事業の円滑なる運転が存するのである。学校の生長発展も其処に起因するのである。
 勿論教育上なり、財務上なり、詳細な点に至れば意見の相違も多少あるべきも、青淵先生は小事に拘泥せず、常に大海の如き広き心を以つて私共を抱擁し、希望と感謝と元気をもつて、事に当らしむるのである。
 青淵先生は本校の教育事業をもつて自分の事業として経営せらるゝが故に、財務に対して極めて熱心であると同時に深く責任を感ぜらるるのである。先生明治四十三年八月、成瀬仁蔵氏・森村市左衛門男と共に信越地方に女子教育奨励講演旅行を企て約二週間を費して、女子高等教育の必要を力説し、女子教育に関する誤謬を論じ、大に我が校教育主義の宣伝に努められたのである。更に翌四十四年の初夏には再び成瀬仁蔵氏・大隈侯・森村男と共に、京阪神及び岡山に前同様、女子高等教育奨励の目的を以て講演旅行をされたのである。かう言ふ名士揃ひの而も女子高等教育の奨励講演旅行は恐らく空前絶後の出来事であらう。
 青淵先生は我が校創立以来、満二十七年間、病気又は外遊中の外、未だ嘗て一度として、卒業式及び評議員会に欠席せられたることはない。又以て先生が如何に我が校を愛護せらるゝかを知るに余りあるのである。
 青淵先生は大正八年一月二十九日成瀬校長が不治の大病を押して、最後の告別講演を試みた際に、其の席に参列され、大隈侯と共に綜合大学の設立に関する校長の遺志を実現せんが為めに、御老体を提げて大に成すべく心に誓はれ、爾来今日に至る迄、学校に会合のある毎に此の事に言及せざるはなく、今日に至るも尚十分にその設立の要求に応ずることの出来ないのは、財務委員として赤面の至りであるとて、縁の下の力持ちの力足らなさをかこち、謙遜に詫びながら如何に困難であつても、今後此の世を去る迄、決してその準備に対する力添へを止めないが故に、力強く思つてくれよと仰せらるゝのである。何といふ尊い、有難い御精神であらう。我が校は此の美はしい御精神にはぐくまれて今日の生長発展を遂げ得たのである。
      九
 青淵先生は特に善く私立学校を理解され、深き同情を以て之を援助せらるゝのである。先生の私立学校観に拠ると、学校は金儲けをする所でなく、一定の教へを施し、又た或る主義の下に人格を養成する為めの道場である。それ故にその教へ又はその主義が発展すればする程金がかゝるのである。先生は学校はさうあるべきが当然であると心得て得ると言はれるのである。併し世の中には時たま金儲けをする学校があり、又は権勢を得る為めの道具に供しようとする者がある。されどそれは似而非なる学校である。真正の学校が其の目的を十分に遂行して行くには少くも二つの要件が必要である。第一は時勢の要求する人物を養成するに必要なる教育を授けること、第二には正善なる方針
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計画を樹立し、それに対する有効適切の設備を供給することである。要するに一は一定の主義信念をもつて学生を教育すること、二はその主義実現の為めに適切有効の方法及び境遇を造ることであると言ふのが、先生の学校観の一端である。
 青淵先生は、私立学校が生長発展するにつれ、益々多額の資金を要する所以を善く理解せられ、其の生長発展を助成するをもつて楽しみとせらるゝのである。其処に先生が惜しみなく、気持をよく与へらるる所以が在するのである。先生は御自身の思想と一致する所の主義信念若くば方法を境遇にして尊信に価値あるものに限つて助成の労を取らるゝのであるから、一旦助成を約せらるゝや、漫りに干渉せず、自由にそれが実現を完うせしむるのである。啻にそれのみでなく、先生は常に我が卒業生の質実にして軽佻浮薄ならざるを喜び且つ賞讚せられ、我が校の教育を目して之れ以上の教育はないと思ふ、寧ろ完全であると自信せらるゝ事を希望すると言はれ、私共を激励せらるゝのである。此の信任は感激を生じ、感激は成功を持ち来すのである。若し聊さかにても我が校教育上に成功ありとするならば、それはかういふ美しい信任と温い激励の精神の賜でなくて何であらう。
 青淵先生は軽卒に私立学校の助成を口頭で約束し、これを履行せざるが如きは、其の最も好まれない所である。先生は必ず約束を履行せらるゝのである。然るに先生の助成せらるゝ方面は資金調達である。学校の主義信念、方法境遇の実理に必要なる手段を供給するのである先生が我が校創立以来、我が校に与へられたる金額は数十万円に達し尚其の外に教師の海外視察や、卒業生の留学の為めに臨時寄附をせらるゝ事、一再に止らないのである。若し先生が主義信念や、方法境遇に対して助成の労を執らんとする場合には、唯過不及の失敗又は脱線等の恐れに対して消極的警告を与ふるに過ないのである。先生はそれを称して小言を言ふとか、注意を与ふると言はれるのである。それ故に先生はかゝる場合の御自身を縁の下の力持ちである所の味噌用人だと称して居らるゝのである。
 青淵先生が我が校に対する助成法は実に前記の通りであつて、我校の主義信念である信念徹底、自発創生、共同奉仕の如き教育主義や、自治制度による課外教育法や、寮教育の如き、又は校内及び軽井沢三泉寮の夏期修養の如き方法等に対しては、先生は一切信任の態度を執られるのみであつて、唯主義方法の実現及び境遇の設置に必要なる資金を供給せらるゝのみである。
      十
 青淵先生は我が学校が胎内に宿つて以来、その誕生の日に至る迄の七年間、一方ならぬ産婆の苦役を尽され、その誕生するや、今日に至る二十七年の長い年月の間、終始一貫、注意周到、親切丁寧にその保育の労務を果され、時に経営難の病魔に侵され、相当に思ひ切つた外科手術を施したることあるも、日本女子大学校と称する先生の愛娘は心身共無事息災に生長発達し、今日の隆盛を来たし、孫娘たる卒業生は現に本校の三千五百六十一名に、高等女学校の二千三百七十六名を加へたる合計五千九百三十七名に達し、当初の大学部二百二十二名と
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高等女学校二百八十八名との合計五百五十名の学生に対し、現在学生は大学部千六百十六名と高等学部百二十名とに附属学校生徒五百名及び、小学校幼稚園の児童を加へたる総計二千六百三十六名及び、開校当時の五十三名に対し、目下二百四十九名の教職員を有し、当初二棟七寮の寮舎は今や二十二棟、二十六寮に増加し、現に九百五十七名の寮生を収容するに至り、校地一万四千坪を使用し、校舎十七棟、五千三百八十三坪に達したのである。而して第一年度の経常費一万七千七百円は目下二十八万円に増加したのである。
 我が校が僅に二十七年間に、斯くの如き発展を遂げ得たのは、一は成瀬校長の熱誠なる努力と計画、二は評議員の犠牲的援助、三は同情者の厚き後援、四は教職員の協心同力、五は卒業生の熱烈なる愛校的奉仕、六は学生の純なる愛校心、七は時勢の要求、八は地の利の然らしめた結果であることは、先生の言はれる通りであるが。若し先生の前後一貫せる抱擁的援護がなかつたならば、果して斯の如き成功を完うし得たか否か、甚だ疑はしいことは勿論である。
      十一
 青淵先生は我が日本女子大学校の産婆であり、又保姆であつたが、大正八年以来、再度産婆の役目を務められ、昨年四月綜合大学の予科をして安らかに呱々の声を挙ぐるに至らしめられたのである。而して今や復保姆として、その生長発達に尽瘁せられつゝある。
 かくの如く青淵先生の御尽力により、新に生れ出でたる綜合女子大学は予科本科共に三年の修業にして、目下の処、文・理両学部から成り、文学部には国文・英文の両科を、理学部には化学・家政の両料を併置し資金の充実を謀ると共に、時宜に応じ、学部としては医学部を増設し、文・理両学部内にはそれぞれ必要の学科を適宜新設し、綜合大学としての組織を完成する計画である。此の綜合大学新設の資金としては、卒業生団体から六十万円、評議員側から七十万円、都合百三十万円の予定金額の募集を完了したるに因り、一昨昭和元年秋、大学令による大学として、設立認可を文部大臣に申請したるも、容易に認可の沙汰に接し得ず、已むなく一先専門学校として認可を受け、昨年五月予科を開始したのであるが、これ唯一時臨機の応急策たるに過ぎないので、玆に再び設立認可願を提出すると同時に、渋沢子爵の発意により、女子大学設立の急務に関する意見書を認め、評議員の連署を以て文部大臣に呈せんとして居るのである。
 我が校の現状此の如く、その完成の前途誠に遼遠にして、保姆としての先生の愛護助成を待つもの益々多からんとする趨勢である。然るに先生今や八十九歳の高齢に達せらる。而して創設の手腕に富める成瀬校長逝いて九年、その後継たる者は微力為すなし。何れの日か果して先生の鴻恩に報い、先生の心を安んじ奉るを得るであらうか。
 尚青淵先生の女子教育意見、日本女性観、成瀬校長観、日本女子大学教育観等に関する私の愚見を紹介させて戴きたいが、今は執筆の余裕を有せざるものをもつて、已むなく之を割愛し、後日の機会に譲ることゝする。元来愚鈍の私、而も多忙の余暇を利用し、卒急筆を執りたる為め、到底青淵先生と女子教育との関係を完全に記述し得ざるは
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勿論、或は却つて先生の高徳を傷けたる処なきを保せず、加ふるに我田引水の恐れなきを得ず、誠に恐縮の至りである。偏に先生の寛恕を願うて止まない次第である。