デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
2節 女子教育
12款 其他 4. 大日本婦人教育会
■綱文

第45巻 p.89-94(DK450033k) ページ画像

大正5年5月20日(1916年)

是日、芝区高輪毛利公爵邸ニ於テ、当会総会開催セラル。栄一、之ニ臨ミ演説ヲナス。


■資料

竜門雑誌 第三三七号・第九八頁大正五年六月 ○大日本婦人教育会総会(DK450033k-0001)
第45巻 p.89-90 ページ画像

竜門雑誌 第三三七号・第九八頁大正五年六月
○大日本婦人教育会総会 大日本婦人教育会にては五月二十日午後二時より高輪毛利公邸に於て総会を開きたり。会長毛利公母堂・副会長鍋島侯未亡人、津田・三輪田・山脇・棚橋其他女流教育家数十名参集総裁閑院宮妃智恵子・名誉会員東伏宮妃周子・久邇宮妃俔子各殿下台臨、毛利公母堂の挨拶に次いで理事より会務の報告あり。当日来賓と
 - 第45巻 p.90 -ページ画像 
して招待を受けたる青淵先生には、本邦女子教育に関する一場の希望演説(追て本誌掲載)を為され、右終りて茶話会に移り種々の余興ありて五時過散会せる由。


竜門雑誌 第三四一号・第二七―三三頁大正五年一〇月 ○大日本婦人教育会総会に於て 青淵先生(DK450033k-0002)
第45巻 p.90-94 ページ画像

竜門雑誌 第三四一号・第二七―三三頁大正五年一〇月
    ○大日本婦人教育会総会に於て
                      青淵先生
  本篇は本年五月二十日芝高輪の毛利公爵邸に於て大日本婦人教育会総会開催の際、同会の依頼に応じて青淵先生が当日同会に臨みて演説せられたるものなり(編者識)
 何等御話し申上げる程の用意も材料も持つて居りませぬのに、斯かる御席に罷り出ましたことは甚だ恐縮に存じます。
 本教育会の長く御継続になつて居られますことは予てより拝承致して居りまして、寔に結構のことゝ存ずるのでございます。今日初めて此会の御容子を拝見仕り、殊に又有難き令旨を賜はりましたことに付ては、皆様に御喜びを申上ぐると共に、一層皆様の御奮励を希望致す次第でございます。実は私は御婦人に対しまして常々最も御同情を致して居る者でございます、と申す理由は、今日事新らしく申述べるでもありませぬけれども、明治の有難き御代になりまして以来、世の中より尊重さるべき地位を得ましたのは御婦人方と実業界の者共でございます。斯う申したゞけでは一寸御分りにならないかも知れませぬが古い昔のことはいざ知らず、所謂武家政治の六・七百年間、殊に徳川幕府の三百年間は、御婦人方と吾々実業界の者は、殆ど国民としての資格を与へられなかつたやうな有様でございました。けれども御婦人の方に於きましては、其昔は決して左様な有様ではありませぬでした中古の歴史を繹ねて見ますると、お偉い方々が沢山ありました、例へば紫式部とか清小納言、赤染衛門抔と云ふ婦人にして優れた文学者もあり、其他各種の方面に秀でた人々がありました。然るに保元・平治の乱頃から世の中の形勢が一変致し、武家政治となつて以来は、御婦人に対しては国民としての位地が認められなくなつてきました。斯かる事柄は斯様な高貴な方々の居らせらるゝ御前で申述べますのは殊に恐れ多いことでございますけれども、歴史を繙きますれば左様に相成つて居ります。更らに元亀・天正頃の武家達の御婦人に対する所作は随分酷かつたものでありました、所謂政治的婚姻と云ふことがしばしば行はれたのであります。例ば斎藤道三の娘が織田信長に嫁し、豊臣秀吉の妹が徳川家康に嫁し、徳川秀忠の娘が豊臣秀頼に嫁したと云ふやうなことは、皆是れ政治的結婚と申して宜からうと思ひます。婚姻の儀式などは善美を尽して立派になされたでありませうが、御婦人の真の資格は認められて居なかつたのでありまして、上下通じて御婦人の境遇は国民としての完き価値を有たなかつたと申して宜からうと存じます。これと同様に実業家と申します者も、殆ど道理とか、人格とか云ふやうなことには頓着せぬでも宜い、唯々商売をして有無を通じ武家の御用を調達すれば宜い、少しも他を顧ることはならぬと云ふやうな有様でありました。然るに明治の御代になつてから一変致しまし
 - 第45巻 p.91 -ページ画像 
て、商工業者も一様に国民としての地位を得、御婦人方も国民として其の中から平等に人格を認めらるゝやうになりました。是は御同様に明治聖代の恩恵と深く感佩致して居る次第でございます。
 けれども斯様に権利若くは幸福を得ますれば、一方には又義務とか責任とか申すことが伴つて参るのでございます。左れば今日の商工業者は、昔のやうに唯々小さな売買なり、運送なり、金融なり、又工としても所謂内職的手工と云ふことだけに満足して居つてはならぬ。世界を我活動の舞台として、国家の富を増し国民の力を進めると云ふことに心掛けねば相なりませぬ。従つて自己さへ富めば国家は如何相成つても構はぬと云ふやうな利己主義では決してなりませぬ。政治家が国家の政治に参与して人民を安泰にする、学者が様々の学理を研究して人の智識を進める、法律家が法令の疑義を正し、権利義務の関係を明にして行くと同様に、商工業者は其事業に励み有無を通ずるとか、交通運輸を便にするとか、或は工業を興すとか云ふやうにせねばなりませぬ。御婦人方が世に立たれる上に於ても亦同様でありまして、国民の一員として重大なる任務に服されなければなりませぬと存じます是に於て御婦人の教育は愈々必要となり来るのであります。昔の寺小屋式の教育では男子に取つて満足し得られないと同様に、婦人に取つても不充分であります。
 元来女子の美徳と致ましては、優美・柔和・閑雅・緻密抔と云ふことが、最も尊重すべきことでありますが、単に従来の慣例としたる消極的の貝原益軒翁の女大学の教育のみでは、今日の国民として男子を助けて国家に尽すと云ふことは出来ませぬ。即ち普通教育より、更に進んで高等女学校、又は大学に迄も進まねばならぬと云ふことになるのであります。而して此教育の度合も吾々実業家が現在の立場から見て、不足勝であると同様に、御婦人の教育に於きましても、完全に立ち至つたとは申上兼ぬるのでございます。故に今後の進歩に就きましては、別して皆様の御奮発を希ひ、全体の御婦人が国民としての全き資格をお備へになるやうにありたいものと希望致します。
 私は昨年亜米利加に旅行致しましたが、此度の旅行は時日が甚だ短かうございましたので、彼の国に於ける婦人方との接触は乏しうございました、故に其模様を詳かに知り得る機会が少なうございましたが明治四十二年には亜米利加太平洋沿岸の各都市からの案内に依つて、渡米実業団として五十人ばかりの団体が組織せられて旅行致しましたこの時は此度に比べると時日も長うございました、巡廻した場所も広うございました。且つ日本の婦人も七名程同行されましたので、亜米利加の各都市の婦人方に接触を致す機会が多くして、日米間の御婦人には斯う云ふ点に差異がある、斯う云ふ慣習の相違があると云ふことを見及んだのでございます。但し仔細に其点を申述べる程の取調べも致して居りませぬが、唯々一・二、心に感じたことを申上げたいと存じます。
日本の御婦人と亜米利加の婦人との相違は中々多うございまして、亜米利加の国と日本の国と違ふやうに相違して居るのでございます。しかも其或点は是非吾々が採つて学びたいと思ひ、又或点は切に矯正し
 - 第45巻 p.92 -ページ画像 
たいと思ふたのでございます。例へば会合に於ける時間の取極めは、どうも彼の国では正しく参つて居ります。これは男子が正しくするから婦人方もさうなさるのでございませうが、定められた時間には必らずお揃ひになります。それから又出憶劫に思はぬから、能く会合に出られるのであります。此前の旅行には度々饗宴又は接見会・茶話会等の会合がありましたが、此度もフイヤデルヒヤで日曜学校の大会――大会程ではありませぬ或学校の集りでございましたが、其会合に参つて見ますると誠に程宜い会堂に恰度一ぱいになつて居る、又その時間が余り遅速のないやうに能く集つたのであります。それ等は稍々大きな会合でありましたが、十数名、若くは数十人の集合でも、時間は誠に正しく行はれて居ります。是は時間を重んずると云ふ所から左様な習慣に成つたのでありませうが、吾々男子の会合も、日本では余り正しく行つて居らない、事に依ると三十分経つても一時間経つても揃はないと云ふやうなことがあつて、甚だ困るのでございます。殊に御婦人の会合には大分時間が違つて、準備万端に齟齬を来すやうなことのあるは誠に宜しくない、これ等の点に就ては大に亜米利加に学びたいと思ふのでございます。
 又或事柄、例へば謙遜とか、辞譲とか、思ひやりとか云ふことは、寧ろ日本人が勝れて居ります、彼のお転婆式、不遠慮の振舞は余り学びたくありませんけれども、日本婦人のあまりに遠慮に過ぎると云ふことも、亦決して結構と申すことは出来ませぬ。或る学校の卒業式に臨みました時に、卒業証書を受取りに出らるゝ令嬢方の様子を見て、或る人が屠所の羊のやうな歩み方だと評されましたが、さう云ふ風も宜しくないと思ひます。嬉しい時であるから何も左様躊躇するには及ばぬ、さうかと云ふて両手を振つて威張つて行くにも及びませぬが、迷惑らしく嫌や嫌やながら出ると云ふやうな風は感心致されませぬ、若し是が亜米利加の婦人でありますと、勢よく出掛けて行つて偉い様子で受取るでありませう。勿論それも結構とは申されませぬけれども遠慮に過ぎると云ふ風が日本婦人に多いやうに思はれます。それから又人と相会して談話をしますのに、日本婦人にも話の材料が無い訳ではない、女が三人寄ると嬉しいと云ふやうな諺もある、決して話が御下手でもなく、自由な会合では随分なされて居られるけれども、少し改まつた場合になると遠慮が甚だ多い。改まらない会合でも御自分の気の向いた方の話しは沢山なさるが、社会的・外交的の話になると甚だ御少いやうに見受けられます。蓋し是は従来の風習から、所謂学び方の少いために談話の智識が乏しい、従つて話しの材料が少いと云ふこともありませうが、又一つは前に申した遠慮が過ぎると云ふ所からであらうと存じます。亜米利加の婦人は、中々談話に巧でありまして会合の場合には能く話します、是等の点に於ても、彼よりも我が長じて居るとは申されませぬかと思ひます。要するに将来の日本の御婦人は、もつと時を正しく守ること、又愉快の所は愉快さうにして、余り遠慮に過ぎないやうにし、談話等は相当になし得るやうにしたいと存じます。
 以上は比較的彼に学びたいと思ふことでありますが、これと反対に
 - 第45巻 p.93 -ページ画像 
どうも学びたくないと思ふこともありますが、男女の間、殊に夫婦の間などに於て婦人の男子に対する尊敬と云ふことが実に欠けて居りまして、寧ろ男子の婦人に対する尊敬の方が、余程勝つて居るやうに思はれます。甚しきは婦人が主人で、男子が家来のやうな有様は能く見受けるのであります。昨年の旅行の際にも、紐育でウオールドと云ふ新聞の婦人記者が私の旅宿に参つて、日本婦人と亜米利加の婦人とどうして違うかと云ふ質問がありました。その時の談話の末に、恰度今申上げた、亜米利加の婦人に学びたいと思ふ点を述べてまた反対に甚だ宜しくない点と思ふことをも話して、私の見た所では亜米利加の婦人は我儘が強い、遠慮が少な過ぎる、婦人の貞徳ともいふべき柔和とか、優美とか云ふ点が欠けてゐるやうに思ふ、勿論活溌と柔和とは一緒にならない、又不遠慮と優美とは必らず背馳するものであるから、日本人の目から見て、亜米利加の婦人に物柔かな点の少ないのは已むを得ないが、どうも婦人が男子に靴の紐まで締めさせるのは吾々が見て甚だ奇異に感ずると申しましたら、其婦人は私はそんなことはしませぬ、家に帰つても常に良人を大事にして居ります。併し今貴下の東洋の説を承はつたから、是から別して良人に対して礼儀を尽しませうと真面目であるか、からかい言葉であつたか知りませぬが申して居りました。兎に角亜米利加の婦人の最も見にくい点弊害とも申すべきは此辺にあると存じます、また用を弁ずると云ふやうな方に於ては一体に社会の組織がさうなつて居るからでもありませうが、品物を買ふと云へばデパートメントストアーがあり、野菜物を買ふには市場があるので、女中などをやらずに自身で出掛けると云ふ風であるから、家事を処理すると云ふ点には大層宜しいが、それと共に又大いに顰蹙すべき傾向もあるのであります。或人の話に亜米利加では近頃自働車が流行して、中等の人まで細君からの請求に依つて自働車を買入れて大層苦しんで居ると言はれましたが、是に依つて観ても婦人の慾望が、男子をして余儀なく其要求に応ぜねばならぬと云ふ有様が、如何に多く彼の国に行はれるかと云ふことが想像されるのであります。
 要するに今申上げました廉々は、私の一・二気付いたことを申上げたに過ぎませぬ、更らにそれを能く攻究しまして、此点は斯う、彼の廉はあゝと細かく申上げましたならば、或は多少御参考になる所があつたかも知れませぬが、只今はさう云ふ用意がありませぬで、唯々前に申上げました通り、明治の聖代になりまして、吾々実業家も国民たる資格を認められ、御婦人方も唯一種の道具でなく立派なる国民として認められ、従つて女子の教育も進歩して来たのでありますから、是からは自ら自己を進めて行くと云ふ覚悟が甚だ必要であらうと思ひます。それには我々が短を棄てゝ彼の長を採ると云ふことも亦勉めねばならぬと思ひます。吾々実業家は色々の事業を経営して国を富ますと云ふことが最も大切なる職分で、今日まで進んで参りました、勿論満足ではありませぬけれども明治の初頃に比べますと余程進んだやうに思はれます、けれども又一方に弊害が伴ひまして、例へば利益に偏して、人格が皆無になつたとか、徳義とか廉恥とか云ふものが甚だ薄くなつた、虚栄に走り、悪辣に陥り易くなつたと云ふやうな非難もあり
 - 第45巻 p.94 -ページ画像 
ます。此の如きは皆良いことを学び損ふた弊害でありまして、どうしても利に附随する弊はありますが、その害弊を除くと云ふことが極めて必要と存じます。殊に御同様明治聖代となりて位置を進められた、吾々実業家も御婦人をも、立派なる国民として、御国の将来に尽して行きたいと存じます。私は常に我身の上から御婦人方への思ひ遣りをしまする余り、自分を善うしなければならぬと云ふ考へが起ると同時に御婦人方にも、同様の感じが生ずるのでございます。
 教育会の方々の御集りでありますから、教育と云ふ方面に就ては何等申上げませぬが、婦人たる資格が斯様に重くなり、又吾々実業家の資格も同じく重くなつた上からは、彼の長は採り、短を棄てお互に相磨いて御国の為めに尽して行きたいと常々より考へて居りますので、そのことを一言申上げた次第でございます。